三年かかったドライブ遍路の旅も、これが最後の道程である。
朝の涼しいうちに宿を出た。もうほとんど徳島との県境に来たかと思った頃、前方に岩肌をのぞかせた切り立った山が見えてきた。(結願寺はもう間近だ)そう予感したとき、道の向こうに山を背にした大窪寺の山門が姿を現した。とうとう八十八番まで来たのだ。
山門前の沿道には土産物屋や食堂が軒を連ねている。荷物を担いだ一人の白装束のお遍路さんが寺に入って行った。その足取りは何か喜びに溢れているように 軽い。1400キロメートルを歩き通したお遍路さんにとっては、あと数十メートルでゴールインなのだ。その感激はいかばかりであろうか。
あとを追って来てみると「八十八番結願所」と刻まれた石柱が立っている。そこからは急な石段が伸びている。参道は楓の大枝が青々とした梢を両側から伸ば して迎えてくれた。最後の霊場を私と妻は一歩一歩踏み締めながら登って行く。何かとっても静寂な気分である。石段の谷間には無名の遍路墓が何基も見られ る。結願を果たし、ついに力尽きて倒れた昔遍路は何も語らない。ひたすら沈黙する墓石に何か胸に迫るものを感じる。
石段の途中からは、山門を通して海抜800メートルの女体山(矢筈山)が雄々しく立ちはだかっているのが見えてきた。その山に抱かれるようにして本堂が建っている。
山門に一礼した私たちは、ついに結願寺に足を踏み入れた。同時に二人で思わず小さな声でバンサイをした。(やった、やった、やった)心の中でそう叫ぶ自 分がいる。妻がいる。三年と三ヶ月。とうとうゴールに辿り着いたのだ。互いの目を見つめ合いながら堅く手を握りしめ合った。行き交うお遍路さんもみな達成 感が笑顔に溢れている。
ここ大窪寺には、弘法大師が女体山の奥の院の巌窟で修行した折、自ら刻んだ薬師如来を安置して堂宇を建立したという言い伝えがある。行ってみると、奥の 院は境内の裏山を30分ほど登った樹林の中の、蔦のからまる崖にあった。妻とその岩窟の中に入ってしばらく経を上げた。私たちは女体山の懐に抱かれる空海 にも会ってきた。
唐から帰朝した弘法大師が来錫した折、師の恵果
私たちも三年余、ともに四国を回った杖を納めることにした。クルマ遍路ではあったが、霊場に入るときにはいつも携えていた杖である。鶴林寺では持って走った杖である。移動するときは後部座席で時折鈴の音を鳴らして心和ませてくれた杖である。
鈴を取りはずして他の杖の中に納めると、胸に熱いものが込み上がってきた。
「なんだか家族と別れるような気がする......」
そう言った妻の目に光るものがあった。
《今迄は 大師とたのみし金剛杖 つきて収める大窪の寺》
傍らの石塔にはそんな一首が刻まれていた。
諸堂のお参りをすませた後、納経所に申し込んで私たちは先祖の供養をした。それとともに、これまでご縁のあった今は亡き多くの人たちの供養をした。そして最後に、日本の御盾となって散華していった戦没者の霊を弔い、その冥福を祈った。
時に平成11年8月15日。
奇しくも父の命日と終戦記念日とが重なっていた。