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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第三十六回

◆第四日目(8月14日)--龍灯信仰と海洋信仰・熊野信仰と遍路 補陀落浄土とニライカナイ 宗教の秘める欲望無限地獄 『理趣釈経』をめぐる最澄と空海の相違 「生命分断史観」を刷り込む反日文化人の戦後責任


 ここ庵治温泉は、四国最北端の竹居観音岬に位置する。岬の先端には「竹居観音」が祀られている。ホテルから近いので遍路姿に着替えて行ってみることにした。第八十五番札所・八栗寺の奥の院とされている。また好奇心旺盛な寄り道遍路が始まる。

 誰もいない朝の浜辺を潮風に吹かれながら歩く。玉藻を打ち寄せる波の音と、二人の金剛鈴の音が、踏みしめる砂に吸い込まれていくようだ。前方の岩場に赤 い鳥居が見えてきた。砕ける波を足元に眺めて岸壁を辿ると、注連縄を張った岩窟が現れてきた。馬頭観音が祀られた仄暗い窟の中は、線香と潮の香りに満ちて いる。二人で祭壇に向かって正座して波の音を聞きながら読経していると、洞窟の中にいた浜虫が驚いたように走って行った。

 四国霊場の奥の院は水のある山中の岩屋か、海岸の窟がほとんどである。海に近い霊場は山頂に本堂があって海岸に奥の院が配されている。第二十四番・最御 崎寺の奥の院「一夜建立の岩屋」は寺から海岸に下りていった窟にあり、雄大な太平洋に面した行場である。第三十六番・青龍寺の奥の院は、横波半島の突端が 太平洋に落ちそうな場所にある。第十八番・恩山寺も本堂は山腹にあって、奥の院は海岸に祀られている。古代遍路行者は海の向こうに何を見ていたのか。現地 を回って伝説の底を探ると少しずつ日本人が浮かび上がってくるようだ。

 例えば、恩山寺の奥の院には弘法大師が弁財天に会う伝説がある。大師が座禅瞑想中、東方海上の離島に龍灯をみとめ、入亀の姿美しきその島に上陸して容姿 端麗な女神を拝す。女神は「我は太古よりこの海域を守護いたす弁財天なり」と言って海中に入りたまう。よって大師慎みてこの岸壁に弁財天を鎮祭し、恩山寺 の奥の院とし、紀伊水道の海域を守護する女神としたと伝えられるものである。

 この伝説のキーワードは龍灯と女神であろう。昨日は火と空海の(ホラ話)をしたが、実は各地に残る龍灯伝説とも関係があるのだ。バラモン教のマネでない とすれば、では空海たち修験者は何のためにわざわざ海の見える山頂や岬で火を焚いたのだろうか。次はその謎解きに迫らなければなるまい。

 日本各地の海岸には灯明岩とか灯明杉とか龍灯岩とかいうものが存在する。柳田民俗学は(密教の護摩以前の)その火を龍灯だとし、海上より龍神が捧げる灯 だと考えた(第五十八番・仙遊寺で、龍灯川を龍女たちが続々と揚がって来て、境内の龍灯籠に献灯したという伝説を思い出してもらいたい)。

 だが、五来博士は近年柳田学説を180度ひっくりかえした。つまり、「海上から陸上へ」ではなく、「陸上から海上へ」と信仰の方向が逆であったことを発見したのである。「飛焔を鑚燧に望む」というのは火を焚くということである。鑚燧(さんすい)燧石(ひうちいし)燧金(ひうちがね)のことで、飛焔(ひえん)とは飛ぶがごとき(ほのお)の ことだから、海の彼方の舟から見ても目印になるような大きな火であろう。これは龍宮あるいは龍神に捧げる意味で火を焚いたというのである。龍神が聖なる神 社寺院の本尊や祭神に火を献じるとしたのは、山岳宗教が優越した後世の見方で、もとは海の彼方の龍神に向かって捧げていた火だったのだ。

 五来博士はこれを龍神信仰であるという。博士は龍神信仰の変遷について、
「長い海岸線と多くの島から成る海洋国日本に、海洋宗教がなかったはずはない。それは生活と生産の重点が内陸にうつるにつれて、山岳宗教と農耕信仰に吸収 されて、わずかに漁民信仰にのこったのである」と述べている。ここから博士の海洋宗教論が出てくる。とすれば、海洋宗教こそが日本人の信仰心のルーツだと 言えないだろうか。

 山岳宗教の発祥とされる熊野信仰も、もとは海洋宗教である。山中の熊野古道も明らかに「辺路道」である。和歌山市から紀伊水道に沿って南下し、日の御崎 (火の岬)をさらに南下した所に田辺市がある。そこから山道に入り、熊野本宮大社に至る熊野古道を今でも「中辺路」と呼ぶ。

 都に住む天皇や貴族の多くはそのルートで熊野詣をしたらしいが、上皇が頻繁にたどった御幸道だけが熊野古道ではない。本来の辺路はなお紀伊半島の海岸線 をぐるっと回る。すなわち須参見、串本、勝浦、那智、新宮、そして伊勢へと連なる文字通りの辺地ルートで、これが「大辺路」と呼ばれる本来の熊野街道であ る。

 熊野古道九十九王子が大辺路に数多く散在していることは、従来不思議とされながらも熊野の研究者は無視してきた(王子信仰自体すでに忘れられた古代宗教 である)。それに対して熊野詣の謎を辺路と海の王子の問題から究明すれば、「海の熊野」が見えてくる。熊野の歴史にも三山信仰から始まる熊野に先行する辺 路信仰があったのである。

 平安から江戸時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれるほどに、多くの日本人が本宮大社を参詣しているうちに、熊野信仰がしだいに内陸化していったのだろう。このように海辺を巡り歩く辺路は歴史が忘れた日本人の信仰心であった。

 五来博士によると、国家神道に組み込まれる以前には古代日本人の海洋信仰があり、海辺の窟籠りや木食草衣で行道する辺路修行はむしろ山岳より盛んであっ たそうだ。彼らは海の神に聖火を献じるために、海岸の岩や洞窟や岬の上で大きな火を焚いて修行をしていた。とすれば、恩山寺の奥の院伝説で空海が見た龍灯 とは、龍神に献じた行者の聖火であったことが推察される。空海もまた「海の修験」に身を投じて盛んに「火の修法」を積んでいたであろう。

 修験道では柴燈護摩という大きな火を焚くが、私は以前山岳修行者の神事ぐらいに思っていた。しかし、志摩の灯明岩(火焚岩)にも実際に護摩を焚いた跡が あり、護摩壇岩といわれるものは各地の海岸に痕跡が残っているそうだ。海洋信仰から考えれば、龍神に献じたものだったことがわかるのである。

 いずれにせよ、四国霊場には龍灯伝説や龍のつく地名が実に多い(ここ竹居岬の奥山も竜王山という)。ただし、これは四国に限らず日本各地に見られる地名 でもある。その伝説を訪ねると、古代の日本人が拝んでいた龍神は「火」と「水」をモチーフとし、ついには海洋の果てに現れてくるのである。

 次に空海が出会った弁財天(龍女)の伝説なども、空海と海のつながりを感じさせる話だ。空海の母は玉寄姫(たまよりひめ)(玉依姫とも書く)と伝えられる。私ははじめ「玉藻寄る」という讃岐の枕詞から引いたものかと思っていたが、玉依姫は海神(龍王)の娘であったことを最近『記紀』で知った。空海の母の名前が同じ玉依姫というのも、その子が真魚(まお)というのも「海の空海」を連想させるロマン広がる話ではないか。

●第八十五番・八栗寺

 壇ノ浦を見下ろす霊峰五剣山(366メートル)は屋島と向き合っている。台形の平坦な屋島とは対照的にこちらは山岳信仰そのものの奇岩の山である。屋島 からも見えていた峻厳な五つの峰がまるで剣の切っ先のようにそびえる山である。若き弘法大師がこの山で求聞持法を修行中、七日目に明星が現れ五柄の剣が空 から降ってきたという伝説に由る八栗寺は、その五剣山の中腹にある。歩けば遍路泣かせの坂道だが、現在はお年寄りも参拝できるようにゴトゴトとケーブル カーで登れる。

 ケーブルカー乗り場を出て正面を仰げば、大空に五つの岩峰がそそり立ち、今にものしかかってくるようである。
「あの高い峰の両側は剣の刃渡りのような絶壁になっているんだってさ。一番広いところでも50センチ幅しかないんだって。行者は昔あの峰をピョンピョン跳ねて縦走する修行をしていたんだよ」
「まあ、まるで天狗みたい」
「修験道には天狗信仰があるからなあ」
 そんなことを語り合いながら境内に入る。深い山の緑の中に包まれるように、多宝塔、大師堂、本堂、護摩堂などの伽藍が建っている。青銅の屋根をもつ本堂 は、岩峰を背にして峻厳たる風格である。境内の最も奥の山際には、天狗が棲む「中将大権現堂」があった。一枚歯の鉄製の大きな下駄がいくつも奉納されてい る。命がけの荒行を積む修験者たちの息づかいが伝わってくる。この寺の開基は弘法大師。空海も天狗になってこの山頂から海を遥拝していたのかもしれない。

 八栗寺を打つと再び海岸の辺地を辿って志度町へと向かって行く。
 車の中。
 妻が「トンボのメガネはクルクルメガネ」とかいう童謡を、最近「水色メガネ」だったという発見をしたと、どうでもいいような話をやり始めたので私は話題を変える。

「ところで天狗なんだけどさ。あれは古代ユダヤ人だって説があるの、知っているか」
「ええ、よくある封印された古代史っていうアレでしょう。ヤマト民族はユダヤ人だったという......」
「うん、これは戦前から日ユ同祖論といわれて、一部の古代史研究家やユダヤ基督系の宗教家が実証していることなんだ。この学説を認めると神話が怪しくな り、天皇家がややこしくなるので神道も仏教もみんな口を閉ざし、アカデミズムも無視しているらしいけどね。だけど、伊勢神宮にダビデの星が刻まれているの は事実だし、御神体の鏡の裏にモーゼがシナイ山で神から聞いたという言葉が刻んであるというのも本当かもしれない。でも、タブーにしなくてもいいじゃない か。むしろ、それがどうしたって言えばいいんだよ。僕はそれで少しも日本人のアイデンティティーがそこなわれるとは思わないぜ。歴史実証主義と比較宗教論 には、リアリズムで答えてやればよいのさ」
「つまり、歴史の本質を見ないで現象と実体でしか論じていないと言いたいのね。まるで人体を細分化してまた組み合わせる西洋医学のようなものだと」
「そうだ。彼らの論理でいけば、日本の神仏の大半は海の向こうから来たことになる。八幡も観音菩薩もみんなそうだ。宇佐神宮、伊勢神宮なんか古代ユダヤ基 督教の日本版になってしまう。確かに彼らの物証的、言語学的、歴史的証明を全否定はしないが、そうすれば空海密教なんかも景教の焼き直しにしかすぎないこ とになる。そうするとだな、この島の民族は縄文時代より独自の文化をもたないパーだったということになるじゃないか」
「だってよく言うじゃない。アイデンティティーのないのが日本のアイデンティティーだって」
「それは一神教的見方だ。うん、確かに日本人の精神構造はいわゆる空だな。主語のない不思議な言葉を使う民族だからな。だがそれほどスッカラカンなら、どうして日本人はみんなクリスチャンにならないんだ。どうせ我のない国民なんだろう」
「確かに韓国だってクリスチャンは日本よりはるかに多いし、アフリカも南米諸国もほとんどキリスト教が普及している。でも、日本は一定数以上絶対に増えない不思議な国だといわれているわね」
「それにキリスト教が入ってきたのは大昔だぞ。フランシスコ・ザビエルが伝えたと表向きの歴史では教えているが、ネストリウス派の景教は聖徳太子以前に日本に来ている。だから、聖徳太子はイエスと同じ厩戸(うまやど)の皇子じゃないか。親鸞の浄土思想もキリスト教の天国のことだろう。親鸞が読んだ『世尊布施論』の世尊とは、釈迦のことじゃなくてイエスのことだといわれているしね。だから、下地は十分完成しているんだよ」
「それでもキリスト教信者が増えないのは、日本人はどこか別のところで自分をもっているのかもね」
「そこさ、問題は。学者は実証主義だから現れた物証に惑わされて大事なものを忘れてしまう。だが、詩人や芸術家は反対に現象の中に本質を見抜く力がある。 本質とは人間の意識だよ。空海は本質を見抜く力が鋭い人だった。秀逸な詩を数多く書き残しているのはその証拠だ。空海は意識を純化すれば本質がわかると 言っている」
「つまり、空海を神仏とした日本人には何か別の普遍的な感性があると言いたいのね」
「そうだ。例えば海洋民族の神々は現象的には、いや百歩譲って歴史的には海から上陸した外来神であるとしよう。折口博士が"依り来る神"であるというなら ばそれでもよい。しかし、"依り来る神"の信仰は果たして現実の聖地から、歴史的にのみ寄り来る神なのだろうか。海の向こうの中国であり、インドであり、 中央アジアであり、イスラエルとつながる景教の布教ルートを遡るようなものなのか。そういう発想をする宗教学者もいるが、それなら最終的にはユダヤ・基督 教唯一神論に行き着くしかあるまい。つまり、世界中の宗教の本家はエルサレムにあるということになってしまう。そうすると、ユダヤの神が最高神ということ になる。だが、ちょっと考えてみろ。神の概念は彼らの専売特許じゃない。文明以前から、どんな地域のどんな人種や民族でも抱く普遍的な概念だろう。太古の 人類は自然現象をすべて神の仕業だと恐れ敬い、そして宗教は死というものを自覚したときに湧き起こってきた人間だけが抱く自然な感情だろう。それはアメリ カンインディアンにもアボリジニにもある感性だ。原始キリスト教ももとはその一つにすぎない。それは先に意識があったからだ。神概念は教義や宗教文化以前 の、人間の意識というものがあるから生まれるものじゃないか。キリスト教が何よりも重んじる歴史性とは別な次元の話だ。だから、宗教がイスラエルという一 部の地域から拡散したという歴史性ばかりを取り上げる人は、どこかでユダヤ的な選民意識に犯されていると思うよ」
「彼らは、仏教や密教や神道に与えた景教の影響を、東洋に対する優越性だと思っているのね。じゃあ、古代辺路信仰を海の彼方の神を拝むというアンタは、彼らの外来神の論理を補強しているって言われるわよ」
「だから、意識だと言っただろう。海神、竜神信仰を、景教側から見れば外来神信仰に見えるだろう。夷神(海洋神・熊野の御祭神)や八幡神や弁天は、みんな 姿を変えた外来神になってくる。だが、竜神信仰で日本人の拝んでいたのは黄泉の世界なんだよ。海上他界なんだ。死んだ人が行く霊魂の世界さ。つまり根の 国。その証拠に熊野は補陀落渡海の本場だよ。僕は古代人はリアルに補陀落浄土を想像していたと思うが、それは現実の聖地ではない。だから、わずかな食料と 水だけで船出したんだ。なぜなら、補陀落信仰はもとは漁撈民の水葬儀礼から始まっているんだ。水葬されて海上他界の常世に帰ったと信じられていたのだろ う。これを日本人の意識だと言っているんだ。そこでもう一つ特徴的なのは、祖霊の住む常世から再びこの世に戻って来るという意識だ。夷神(外神)の由来を 訪ねれば、祖霊が海の彼方から福神となって帰る。それが豊漁をもたらす恵比寿信仰になる。また死の国は、もう歳をとらない不老不死の理想郷でもある。だか ら、龍宮に行った浦島太郎は歳をとらない。しかし、根の国は妣の国でもある。母は海(産み)でもあるから、浦島太郎は黄泉の国から蘇る。つまり、祖霊は再 び『寄り来る神』となるのだ(『記紀』の原語は『帰り来る』である)。つまり、往復するのだ。死と生が渾然となった世界、これを常世信仰というんだ。沖縄 にあるニライ・カナイ(琉球固有の常世信仰)のことだ。龍宮、龍女といわれるのは法華経以降らしいが、要するに海から帰り来る神はみな福神にするんだ。こ れがニライ・カナイ、根の国の発想だ。ニイラクは沖縄から北上するにしたがって、ニイルク、ミイルク、そしてミロク(弥勒)となった。すなわち、世直しを する祖霊のミロクになったのだ。弥勒菩を単にウズマサのマイトレーヤーやメシアだと主張しても、原日本人の意識に触れたことにはならない。その証拠に補陀 落渡海の僧は、西方浄土の方角の西ではなく南を目指している。インドじゃないんだ。那智海岸から漂流したと思われる禅鑑という僧が、実際琉球に漂着して補 陀落山極楽寺を建立したのは十二世紀のことだ。だから、外神信仰は歴史的現象の中に人々の意識を見る必要があると思うんだ」
「それがスッカラカンに見えるけど、日本人の根底にある意識だというのね。それは本当かもね。意識はそれぞれの自然風土と深い関係があるわ。四方を海で囲まれた島の人間にとって、新しいものは海の彼方にしかないし、内陸の民族は、山の彼方の空遠くに憧れるのと同じことよ」
「そうさ、だから日本人はもう一度古代信仰を考え直すべきだと思うんだ。それを考えるにはむしろ沖縄のほうがいい。沖縄のニライ・カナイは、祖霊の国とい うことを今でも宗教的に自覚しているからだ。だから沖縄の宗教は現在でも祖霊信仰なんだ。ここに古代ヤマト民族がかつて明確に自覚していた海洋信仰の原形 が残っていると思うんだ。祖霊信仰は、具体的には祖先崇拝の形をとる。それは子々孫々いのちの連続性を重んじる宗教だろう。僕はそこに生と死の循環思想を 感じるのだ。地球上の生命の連続性は海から生まれた。この実感は内陸民族よりも海辺の民族のほうがわかりやすい。大陸の民族は彼らなりの信仰を生み出した が、それだって自然風土から生み出されたものだろう」
「じゃあ、西洋的一神教による原理主義はグローバリズムにはなりえないわね」
「そりゃそうさ。イスラム教にはそうなるべき固有の意識があった。キリスト教も原罪を背負わねばやっていけないお家事情があった。インド仏教には途方もな い時間、輪廻転生しなければ成仏できないと考える固有の意識があった。みんな世界の地方宗教だよ。そして、日本には仏教以前に実感的な生命循環信仰があっ た。それだけのことさ。でも生命倫理が問われる21世紀において、今、最も見直さなければならないものは生命原理に立つ哲学だと思うんだ」
「キリスト二千年期に西洋資本主義を迎え撃つとは、まさにそのことなのよね」
「そうさ、絶対的な宗教なんてあるものか。聖書による原罪というのは人間の本性にまで巣食っていて、自分の力では永久に洗い落せない骨の髄まで染みついた 人の罪だという凄まじいものなんだ。だからキリストの贖罪を信じることで救われたんだ。現世においてこの身のままで成仏できるという空海の即身成仏なんか きっと笑うだろうよ。まして大日如来と合一するなんてありえないことさ」
「人と神とは絶対的な断絶があるとするのが彼らの教義だもの」
「僕はイエスのことを言ってるんじゃないよ。あくまでもキリスト教という教義を指して言っている。それがいいのなら、アンタたちはそれで生きればいいじゃ ないか。アンタたちはそう信じて救われるのなら。ところが彼らは、キリスト教は仏教のように何億年も輪廻転生してやっと救われるのではなく、信仰によって 今救われるという。密教ははるか昔自分たちが異端視した神秘主義だといい、他力仏教は現世を厭い捨てて、極楽で修行を望む観念教だという。しかるにキリス ト教はイエス・キリストを信じるなら神の前に義と認められ、今日救われ、永遠の命を与えられ、神の子となり、そして来たるべき新しい国(神の国)を継ぐ資 格が与えられる。ついでにユダヤ教はイエスをメシアとまだ信じていないからアカンと言う」
「要するに自分たちが最高だと言っているのね」
「それは仲間内で自画自賛すればいいことで、地球の裏側にまで売り込むことではない。彼らの素晴らしい教義から見て、どんなに田舎者のみすぼらしい母親で も、オレにとっては自分を生み育ててくれた母親だ。母国を捨てて外国のママのもとに走ることなんかできない。四国を回ってきてそのことがハッキリわかっ た。自国を愛せない人間が他国を愛せるはずはない。だから、オレは日本人の空海でいい。イエスもお釈迦さんも素晴らしいが所詮外国の人だ。オレは同じニッ ポンの空海でいい。庶民が汚ならしい涎掛けをいっぱい供える大師堂の空海でいいんだ!」
「ま、ま、抑えて。ニイちゃん運転してるんだぞ。それで空海が岬で火柱を揚げる意味がわかった。火は大昔人間の命を守る貴重なものだった。食べ物を煮たり 焼いたりだけでなく、寒さや獣からわが身を守る唯一の手段だった。五来先生は言っていないようだけど、空海は海に向かって火を献じるだけではなく、悪神が 寄りつくのを防いでもいたのよ。海の彼方からは幸福も来れば災いも来る。禍福ともに異変が起きれば、それは外から侵入したと考えるのが島の人間よ。龍神は 暴れたら悪神になるもの。だから火よ。火は全てを焼き滅ぼす破壊の神でもある」
「そうか、空海は水際でこの国を守ろうとしていたんだ。火を焚いておどし上げていたんだな。イイゾ! やれ、やれ、空海!」
「アホ! 男はこれだから手がかかるのよね。いい? 空海は脅していたんじゃありません。一生懸命祈っていたのよ」
「あっそうか。よくわかるな......」
「だって空海の生まれ変わりだって言ってるでしょう。でも、少しはおどかしていたかもね。火は恵みと破壊の力があるの。だから護摩には招福祈願と厄災調伏 があるでしょう。水もそうよ。氾濫すれば人々の生活を破壊する悪病神。アンタ、五来博士と水信仰ばかり強調するけど、満濃池の空海を思い出しなさい。空海 は水の怖さも知っていたのよ。水は氾濫するけど、その後には豊かな土壌を運んでくれる。お山は火を噴き揚げるけど、灰が積もればイモが育つ。常世は死と再 生、不浄と清浄。つまりは自然は生死が渾然一体となった大生命の流れなのよ」
「さすがだ。オレはそれを言いたかったんだ。ついでに聞くけどキリスト教の永遠の命とどう違う?」
「多分キリスト教はあくまで人間の姿をとどめた命じゃないかしら。東洋の永遠の命は人間の形すらとどめる必要がないのだと思うわ」
「そうだね。キリスト教は人間中心主義。日本は万物共存主義ってとこだな」
「父性原理と母性原理と言い換えてもいいわ。でも、近代は西欧的な父性原理が世界を制覇しすぎたのよ」「資本主義には最後まで渇望があるからなあ。でも、 新約聖書の説く永遠の命とは、自分の内部に神の喜びと幸福の源泉をもっている命だと言っているぜ。不満や退屈は喜びを財産や名声など外に求めるからだと」 「それは理屈。究極の欲望を満たせば人間は怠惰になるだけよ。またわざわざ不浄を探したくなるの。アダムとイブが象徴してるじゃないの。何ひとつ不自由の ない楽園にいても、わざわざ禁断の実を食べて地獄に落ちたがる。男の宗教はどうしてもそうなるの。だから天国に行ってもじっとしていられないの。また神に 近づくための努力をするでしょう。もっといい天国はないかなって探し始めるわよ、きっと」
「宗教のもつ欲望無限地獄だなあ」
「空海は最後にそのことに気がついたのよ。だからカアチャンに生まれ変わったんじゃない」
「それで空海は母性的胎蔵界と父性的金剛界は不二一体のものであると教えたんだな」
「そうよ。夫婦が同心円になることが本当の天国だって言ってるのよ」
「それが密教の両性和合の精神だ。だけど退屈しない天国ってあるかいな」
「あるわよ。退屈しないとすれば、そうねえ。例えば土佐の国分寺のオバアチャンね。誰に言われるわけでもないのに、境内の草むしりや大師堂の掃除を来る日 も来る日もやって、それであんなに生き甲斐を感じるって言っていたでしょう。つまり、退屈しない秘訣はいつも新しい目標を求めて突き進むだけじゃなくて、 日々の平凡な繰り返しの中にあるのよ」
「それは人生の日常だ。だから空海は現世で成仏できると言ったんだな。ウーン、やっぱり空海の生まれ変わりなのかな......」
「ねえ、トンボのメガネは水色メガネ......このあとの歌詞知らない?」
「知らない!」
「このトウチャン、肝心なことは何も知らないのね。ネ、四国が終わったら、次は熊野古道を歩かない?」「いいね」

 話がはずんでいるうちに、次の札所に到着した。

●第八十六番札所・志度寺

 志度湾に面した海辺の札所。山号は補陀落山。大草鞋の奉納された仁王門には運慶作の金剛力士像が双の胸板をそびえさせている。門をくぐると五重の塔が見 えてくる。白い砂の広い境内は正面が本堂、その隣が大師堂である。実は入り口を間違えて診療所の横の方から入ってしまったので、改めて仁王門から入り直し た。というのも、寺の敷地内に「志度寺診療所」があってそちらの駐車場に車を止めたからだ。住職が医者を兼ねている珍しい札所である。

 どうせかかるなら、お坊さんが医者をしているこんな病院がいい。病は心身一如である。患者を取り違えるというような医療ミスを続出する大病院など当てに ならぬ。システム化した現代医療は、生きた人間を治癒しているのかモノを扱っているのかわからなくなるときがある。昔の町医者は触診しただけでちょっとし た病気は治したものである。

 イエスや弘法大師は宗教家でありながら、多くの病を治してきた。イエスにはどんな難病も治す奇跡力があった。マルコ伝には、今でいう車椅子の身体傷害の 男が途端に歩き出したという話もある。お大師さんのお蔭で歩けるようになった話や、難病奇病が回復したという話は四国霊場にはたくさんある。寺がお礼に奉 納してくる車椅子や松葉杖の置き場に難渋して、搬入お断りの貼紙を出すくらいだから弘法大師の効験はいまだに衰えていない。

 要は信頼の心だろう。そして、イエスや空海にはそう思わせる雰囲気があったようだ。これがシャーマン的カリスマ性である。だから実際、奇跡に近いことは 時々やったであろう。これを神秘主義や精神主義と見るのはあさはかな知識人で、二人はむしろリアリストであった。超現実主義者は虚構や幻想を退け、自己の 目を信じ内なる知恵に従う。そのパワーの源泉は「生」の実感であり、そのリアリズムが宗教的な確信(超理想)にワープするのである。

 マルコの伝える身体傷害者の原因は、ある種の精神性疾患のようなものだったろう。宗教はときとして精神の働きを固定する。「神の国」をかざして民衆を縛 りつけるユダヤ教は支配秩序の原理でもあった。ユダヤ教がどれほど強固な宗教であるかは、彼らが神に背くことを極度に恐れたことからもわかる。だが、宗教 によって呪縛されるのはいつも民衆の方である。ただの病を悪業の報いだの、神に背いた罪のせいだのと周囲がののしり責め立てれば、あとは放置しておいても 当人が罪の意識に苦しんで病状を悪化させるものである。

 だからイエスは言った。「あなたの罪は赦された。赦されたのだから、もう起きて歩くがよい」と。これだけで治ったのである。しかしこの一言は、現代人が 想像もできないほど当時においてはショッキングな言葉だった。罪の赦しは神にしかできないという絶対的な信仰意識のなかで、イエスが自信をもってそう言い 切ったからである。

 イエスにとっては、今この場において苦しむ者を救うことこそ彼の信じる宗教的リアリズムであった。彼は律法よりも内なる声に従ったのだ。「人はいかなる罪であろうと赦される」(マルコ三・二八)
 そもそもイエス自身、「罪の赦し」などという大義名分を宗教的課題とはしていなかった。イエスはユダヤ教倫理の「義人」なる正義を、支配のための虚構で あることを見抜いていた。だから神に抑圧されてきた人々に、そんなに罪を言い立てられ、義人の設定によって罪人が排除されるのなら、オレがこう言ってや る。
「私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」(マルコ二・一七)

 このようなイエスの逆説的言説は、神の名において民衆を支配するユダヤの宗教権威に対する痛烈な批判であった。同時に観念的な宗教論争ではなく、虐げら れた者の悲しみを代弁した現実の声であることがわかる。イエスは正義をかざす宗教権威の虚構と偽善を糾弾してしまったのである。(だから殺された!)

 しかし彼にとっては、神をエゴの支配下に置く者たちに対する死を賭した反逆であった。それは、ついに信念を曲げなかった生涯と、その壮絶な最期が物語っている。そして人々は、イエスを再び虚構の世界へと送りこむのだ。これが神の子キリストである。

 イエスは神の子として地上に遣わされたのだろうか。私は人間イエスの純粋な感性が生のリアリズムの中に神の存在を感得したのではないかと思う。神のリアリズムを背負った信念は個人の信念を超える。つまり、イエスは十字架を前に生きながら神と同化したのではないかと思う。

 さて、私はここで空海を思い浮かべる。
 未来永劫輪廻転生を繰り返さなければ成仏できないとする仏教に対し、人間は誰でも現世において生身のまま成仏できる(即身成仏)と言い放った空海を思い浮かべる。空海もまた「生の実感」を主張した一人である。

 イエスは譬話の名人であったから、釈尊の対機説法に似たことをやっている。ただ、どういう場面、状況のもとで言った言葉かわからないから、後世の神学者たちが都合のいいように教義づけをして、支配の原理になったことは歴史に見られる通りである。

 ゴーダマ・シッダールタ(お釈迦さんの本名)も文字として書き残していないので、後の仏者たちによって多義に解釈されてしまう。原始仏教は釈尊仏教を四 諦、八正道、十二因縁の教義にまとめ上げたが、これとても教団仏教の教理だといわれ、実際にお釈迦さんが大衆に向かって説いた教えは十全なかたちでは残さ れていない。ゆえに日本では治世の原理になったり(奈良律令仏教)、民衆のものになったり(鎌倉諸宗派)と、洋の東西を問わず為政者と民衆との綱引きであ る。股割きの刑に処されるイエスもお釈さんもたまったものではない。

 だが幸いなことに、わが国の空海は密教の教理を精緻にまとめ上げ、膨大な著作を残してくれたから教えに混乱はない。そこで、空海がその教理の中心にいか に「生のリアリズム」を置いていたか、空海自身の言葉を見てみよう。難解な教理の解説は専門家におまかせして、今のところ私がわかりやすいと思った例を引 く。

 例えば『理趣釈経』をめぐる最澄への書簡がいいだろう。空海は最澄に対して知的理解による経典知識はカスであると言ったのである。学者が学者に対して学問はカスであると言えば実も蓋もないが、事実そう言った。

 ちょっと時代背景を振り返る。
 空海よりも先に帰朝した最澄は、遅れて空海が唐からもたらした密教の『請来目録』を見て瞠目した。そして、たびたび密典を借用して勉強するうちに、自分 が唐で学んだ密教は二義的なものであったことを悟ったようである。しかも、密教の正統を継承して帰った空海との出会いを通じてその感は深まったようであ る。旧奈良勢力を激しく糾弾してきた最澄は、天台教学の完成には密教が不可欠であることを認識して空海から学ぶことになる。

 空海は最澄に乞われるままに五年間教典を貸し与え続ける。最澄は夜を日に徹してそれを写し学び取ろうとする。しかし、最終的に心身の修法(三昧耶)でし か伝えられない密教法灯を、筆授で学び取ろうとする最澄に対して空海は戸惑いを覚えてくる。そして、究極的な秘典である『理趣経』までも、なお書写しよう とする最澄の申し出に対して返答したのが、学問は所詮カス、ガレキであるという痛烈な知性批判であった。

 最澄は平安仏教の巨星であり、七歳年長の大先輩ではあるが、それとこれとは別である。空海には十年間も山海を放浪し、大自然の中で命賭けでつかみ取った生命の実感があった。その大宇宙の生命原理までも机上の知識で得ようとするのか。空海は決然と断った。

 借覧要請に対する返事として、空海はまず、我々二人が釈尊の教えを祖国に広めようと誓い合った心、どうして忘れるものでしょうか、と初心の変わらぬ決意を表明する。
「多宝の座を分かち、釈尊の法を弘めんと。この心、この契り、誰か忘れ、誰か忍ばん」 
 しかし、天台宗はあなたをおいてこの国に伝える人はいない。真言密教は私が誓って守りますと、いわば役割分担を宣言する。
「しかりといへども顕教一乗は公にあらざれば伝えず。秘密仏蔵は唯我の誓ふところなり」

 私はどうやら空海は最澄の密教に対する理解度に失望を覚えたのではないかという気がする。というのは、それに続く言葉が最澄の無知を指摘する響きをもっているからである。

 まず、最澄が貸してくれという『理趣釈経』に対して「求るところの理趣はいづれの名相をさすぞ」と突きつける。つまり「あなたは理趣経、理趣経と一口に 言うが、理趣にもいろいろある。どの釈経を指しているのかわからない」と言い、改めて理趣経とは何かをかいつまんで解説する。

 ここで、空海の態度は一変する。先刻までの「公」という尊称を「汝」と呼び改めて、師の立場をもってのぞむ。
「こいねがわくば子、汝が智心を正しくし、汝が戯論を浄めて、理趣の句義、密教の逗留を聴け」
 と始まって、以下理趣経のレクチャーに移る。

 この部分は長く、理趣経の内容については後に触れることにして、空海が最澄に最も伝えたかったことは、要するに理趣の神髄は外にあるのではなく、あなた 自身の中にあるということである。それが密教の神髄であることに気がつけということである。つまり、これが空海の理解した「生のリアリズム」(仏の声)で あった。

 それを真に知りたくば全身全霊を貫く宗教体験しかない。その法灯を受法したければ私のもとに来て修法すべし。密教の奥義は書写ではわからない。師資相承 を本旨とする直伝にしかない。私も付法第七祖の恵果和尚より面受によって相承した(空海はマンツーマンの伝法を以前から勧めているが、最澄は教団事業が多 忙でなかなか出てこない)。理趣は正しい方法でしか伝授できない。あなたの理趣の学び方は間違っている。しかしその気があれば私は惜しみなく伝えるという 内容で終わるのであるが、ここでは、最澄に説諭する空海の言葉を取り上げる。とりわけ現代のおっちょこちょいのタレント学者は襟を正して聴くがよい。

「もしまことに凡にして求めば、仏教に随ふべし。もし仏教に随はば、必ず三昧耶を慎むべし。三昧耶を越えれば(註・誓いを破れば)伝者も受者も倶に益なか るべし。それ秘蔵の興廃は唯汝と我なり。汝、もし非法にして受け、我もし非法にして伝えば、将来求法の人、何によってか求道の意を知ることを得む。非法の 伝授せる、これを盗法と名づく。即ちこれを仏を欺くなり。また秘蔵の奥旨は文の得ることを貴しとせず。唯心を以て心に伝ふるに在り。文はこれ糟粕(カス) なり、文はこれ瓦礫(ガレキ)なり。糟粕瓦礫を愛すれば純粋至実を失ふ。真を棄てて偽を拾ふ、愚人の法なり。愚人の法には汝(したが)ふべからず。また古人、道のために道を求む。今の人は名利のために求む。名のために求むるは求道の志とせず、求道の志は己を忘るる道法なり」と。

 ここには、空海の秋霜苛烈な気迫が込められている。文は漕粕瓦礫という空海は、生命の神秘(リアリティー)を知らずして文字面を詰め込むような知性は、 密教からすれば瓦礫のようなものであると言っているのである。むろん、仏教哲学一般を否定しているのではない。空海はここで理趣を取り上げつつ、おそらく 聖職者たるものの精神性をも問うているのであろう。

 司馬遼太郎も、理趣経をめぐるこの手紙には多くの紙面を割いている。だがここでまた司馬と私との見解が分かれる。司馬によると、奈良六宗に対して寛容で あった空海が(司馬はこれを政治的態度と見ている)最澄にのみ思想的厳格性でのぞんだ、あまりにも尊大な態度についてこう語る。

「古来、この間の空海の最澄に対する態度を不愉快とする感情の系列がつづいてきている。真言宗の学匠でさえ、最澄との関係における空海の態度を十分に語る ことにひるみを覚えつづけてきたような気味があり、両人をもし舞台にあげる場合、観客のおおかたの感情は最澄を善玉とし空海を悪玉とする気分からまぬがれ ることはできない。げんに、そういう戯曲もある。しかしひるがえってみれば、空海はあくまでもその思想の論理に忠実であったともいえる」とし、以下その論 理性を『十住心論』の教義から解説している。

 はたして空海は自己の論理にのみ忠実であろうとしただけだろうか。そう見えたのなら、司馬もまた最澄と同じ倫理の人である。この手紙に込められた空海の肉声を聞き取っていないのではないか。「文は糟粕瓦礫」と言い捨てた空海の印象を、司馬は結局このように結んでいる。

「またさらに最澄の態度を暗喩して、『古ノ人ハ道ノタメニ道ヲ求ム。今ノ人ハ名利ノタメニ求ム』といい、『名ノタメニ求ムルハ求道ノ志ニアラズ。求道ノ志 ハ己ヲ道法ニ忘ル』と匕首を傷口に揉みこむようにして繰りかえしている。仏法においては最澄の法臘がまさり、空海はいうまでもなく後輩である。ただ密教に ついてのみ空海は最澄にまさる。(司馬が密教は仏教の異流と見ていることに注意)密教に関するかぎり最澄の越三昧耶の不心得をさとすのは当然であるとして も、わざわざ俗世の倫理である儒教のことばをかりてまでして最澄をさとすのは、やや礼を欠くといわねばならない。しかし、べつな見方をとれば、空海の論理 家としての執拗さのあらわれといえるかもしれない」 

 こういうところに司馬文学の大衆性(情緒性)が露呈している。結局空海を「観客のおおかたの感情」でしか見ていない。はたして空海は「俗世の倫理でさと す」ほど最澄を軽く見ていたのだろうか。それこそ最澄を軽じることになりはしないか。空海は相手が最澄であればこそ、ここまで執拗に食い下がったのではな いか。それはとりもなおさず空海の最澄に対する誠情の証であり、ここに空海の真意を読み取らなければならないと私は思う。

 私は空海が最澄個人を責めているようには少しも感じない。それどころか激励している(それ秘蔵の興廃は唯汝と我なり)。空海は南都六宗の堕落に一人立ち 向かった最澄を高く評価していたと思う。だから、この国の知性の興廃は我々二人にかかっていると言うのだ。それだけにリーダーたるあなたが肝心なところで 踏みはずせば、この国の学者は非法、盗法、愚人の法、名利のための学問道に陥ってしまう。そんなことになれば、真理を求めてあとに続く者は何を拠り所に道 を究めればよいのか。

 つまり空海は、聖職者の根本は学識よりもリアリズムにあり、その精神性を死守しなければ日本の知性は滅びると絶叫しているように私には伝わってくるの だ。これを儒教ごとき「俗世の倫理」でもって最澄をさとしている言葉とは、どうしても私には思えない。相手は日本きっての名僧である。

 もう一つ理由がある。司馬も知っていたように、空海は本来論争を好む人間ではないということだ。一方、明晰な頭脳をもつ最澄は常に堂々たる論陣を張り、 奈良六宗の攻撃を逐一論破した。最澄は比類なき論争の達人である。最澄と最も激しい論戦をした奈良法相の学僧徳一がいる。最澄の晩年は徳一との論争で明け 暮れたというほどだから相当な論客であったと思われるが、その徳一がのちに空海の真言密教を批判している。だが、空海は徳一の攻撃をほとんど相手にしてい ない。空海が唯一真っ向論戦を張った相手は最澄ただ一人だけである。

 思うに空海の厳しい態度は、最澄の学究姿勢いかんによっては仏教の方向が決定すると考えたのかもしれない。象牙の塔の中にこもってのみ学問するのではなく、特に僧は自然(神仏)との直接交流を試みるところから出発しなければならないと強く訴えているようにも聞こえる。

 最澄は結局比叡山を下りなかった。ある意味において日本のアカデミズムの決定的な何かがここで決まった。密教を「読みくだく」ことと「密教的存在」であ ることとは別である。前者は学者が得意とする理屈の世界であるが、後者は庶民にも何かしらわかる現実存在の世界である。生存の底から湧き上がるリアリズム の世界でもある。

その後日本仏教を分派発展させた優秀な学僧は、ほとんどが叡山の最澄大学から輩出され、高野山信仰は主に無名の聖や庶民に広がっていったことは象徴的である。

 私には、空海の手紙に込めた気持ちがよくわかる。私は現場で子どもと関わってきた一方で、麗しき教育論を口にする教育評論家や教育学者なども見てきた。 彼らは現実の子どもを語っているのではなく、教育論を語っているのだ。「教育論」評論家と言い直すべきである。また、教育学者は、教育とは何かを学問して いるのではなく、教育学という学問を学問しているのである。そういう学者は教育学者といわないで、「教育学」学者といったほうがよい。象牙の塔から生み出 された教育学が、教育現場でどれほどの役に立つものか。教育学者は百の理論を唱えるよりも現場に立ってみるがよい。一年でもよいから学力底辺校でエミール やニールの教育論が通るものかやってみるがよい。知的障害者学級で教育理論がどれほど実効性があるものか体験すれば、真の人間教育とはどこから立ち上げね ばならぬかがわかるであろう。
 
 空海がアカデミシャンに向けた矛先もまた同様の思いが込められていたように思う。彼は密教に対して仏教を顕教と呼んで区分している(『弁顕密二教 論』)。ここから顕劣密勝を主張する密教学者が出てくるが、そのような解釈こそまた空海の真意を誤解に導くもとであろう。空海は仏教そのものを一段低く見 なして顕教と呼んではいない。奈良諸宗は悟りに至るための段階的な教えだからそれぞれが価値があり、しかし絶対化してはいけないと言っているのである。

 たとえはうまくないが、イエスの精神を世に広めるために後世の聖職者たちがまとめた聖書や神学を想像すればよい。仏教の改革者最澄は、奈良仏教を「論」 であると否定し「経」に戻れと叫んだが、それはあたかもルターが聖書に帰れと叫んだ宗教改革の精神を思い起こさせる。だが、「経」とても歴史的世界に顕現 した聖人の教示である。それに聖書や仏典は、特定の歴史的状況に合わせて説かれているはずである。

 それに対して空海の叫びは、聖書や仏典という言語的世界、歴史的世界すら突き抜けて、イエスや釈尊の心そのものに迫れと言っているように聞こえる。釈尊 やキリストは神仏である。常識では腰を抜かすような話である。だが空海は、密教の指導者になろうと思うのなら、自らが神仏と一体になれと言っているように 思う。事実、空海はそのように生き、日本で唯一即身成仏の神仏となった。

 よく言われるように、釈仏教の極端な禁欲主義の反動として、現世肯定の密教が生まれたという仏教思想史から空海密教を見ようとする向きがある。司馬もそ うだが、それは適当ではないと思われる。空海はただの一度も釈迦を否定したことはないし、それどころか生涯を通して崇拝している。空海は釈尊の精神を崇拝 しても、釈迦亡きあと長期に渡って仏教徒がまとめた経典に対しては別の冷静な目をもっていたのである。

 同じくイエスの精神はどこまでも高く評価するが、聖書そのものにからめ取られない目をもったキリスト教研究者がいる。田川建三氏である。私は氏の著書を 読んで長年のモヤモヤが吹き飛んだ。本書のイエス観は氏の長年の研究に負うところが多いが、氏のイエス論から、より空海が見えてくるという成果が生まれ た。感謝の極みである。

 氏は人間イエスに迫る。私も人間空海を求めて旅してきたが、不思議なことにそうすればするほど逆に神が見えてくるような気になるのだ。そして、空海の真 意が、釈尊と同じ姿勢で直接真理と向き合うところに密教の神髄(神仏との合一)があるとしていることが理解できるのである。

 そうすると密教は仏教の異流ではなく、仏教中の仏教、仏教の背後にある土台(秘密仏教)であることもわかってくる。それは、我々が普通感じるリアリズム ではない。仏のリアリズムを背景にした「超リアリズム」である。イエスも空海もそれがわかっていたからゆるぎがなかったのだと思われる。

境内のはずれにある「海女の墓」で海風に吹かれながらのようなことを考えた。

 寺を出ると、志度町内にある平賀源内の旧宅を訪ねたり、遺品館をのぞいたり、ついでに源内の墓参りまでやって、相変わらずウロウロ寄り道をしながら志度 の海に別れを告げた。いよいよあと二ヶ寺で結願である。嬉しいような名残惜しいような複雑な気持ちを抱いて、私たちは第八十七番札所を目指した。

●第八十七番札所・長尾寺

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 本堂の前で歩き遍路のお年寄りが一人感慨深げに境内を目に収めていた。私もなんとなく感傷を誘われて眺める。
「いよいよ次は結願ですね。すいぶんかかりましたか」
「五十五日でした。ここまで来れば歩きも楽しくなりました」
 60歳代とおぼしきその人は本当に嬉しそうな表情をしている。ここまで辿り着くのにどれだけの苦労があったか、ドライブ遍路の私には想像もつかないが、 その苦労が微塵も表情に表れていない。「涅槃の道場」まで歩き通したお遍路さんの内からにじみ出る豊かで晴れやかな表情である。
「家内も連れて来たかったのですが、足が悪くて......。いやあ、あの道はとても無理でしたよ」
 老人はそう言って、険しく長かった道程を振り返っていた。定年退職したら遍路をしたいというのが念願だったそうである。

 最近こういう人が増えている。旅立つ人々の動機はさまざまだろうが、四国遍路は時代や宗派を超えて今日まで絶えることなく続いている。それは日本人の意 識下に流れる地下水のようなものかもしれない。ふだんはあまり意識しないが、挫折したり、何かを喪失したり、自分を見つめ直したくなったときに、人はふと 一人で歩きたくなる。それは慌ただしい街中の表通りや産業道路ではなく、家々の間に忘れられたようにひっそりと残る路地や、お寺の裏に続く竹薮の小径で あったりする。草深い四国の山河に延々と続く、心の小道。それが「へんろ道」である。

 それにしても、このところ中高年の男性遍路が急増している。善根宿のご主人がひところの三倍に増加したと語っているのをテレビで見た。世相なのかもしれ ない。世相といえば、ここ7,8年間、日本では自殺者が急増しているという。年間三万二千人を超える「自殺大国」になってしまったそうだ。五木寛之氏は戦 後最大の異常な現象だという。とりわけ顕著にみられる中高年の自殺をマスコミは長引く不況のせいにするが、五木氏はそうではなく日本人の「魂の宙づり状 態」だという。なぜならバブルのさなかでも過去最悪の数字を示しているからである。

 つまり、五木氏は経済の理屈では語り尽くせない日本人の心の底を見つめているのである。世界に冠たる「長寿大国」の影には、世界に冠たる「自殺大国」があるのだ。作家はいつも人間の影の部分を見つめる。

 氏は「現代の日本人には、自分の命が軽く感じられる『魂の宙づり状態』がある。定点が見つからない不安と言ってもいいかもしれない」と語る。『人生の目 的』という本で氏が思いを込めて語っているのは生命の重さについてである。思うにまかせないのが、人生の「苦」である。生老病死は人生の「苦」にはちがい ない。考えてみれば、運命は常に不条理である。しかし、私たちは一人ではない。ならば私たちは「苦」を共有する「共感共苦」で生きようではないか。氏は繰 り返し本の中で語りかける。失われかけている現代の人間の絆を取り戻すために、個々の人間が背負わされたもう一つの運命を思うことで共感と友情を回復でき ないだろうかと考える。

 確かに氏の言うとおり現代は待ったなしの状況である。増え続ける自殺や激増する青少年の凶悪犯罪。親の子殺しや子の親殺しなど、自分の命も、友人の命も、親子の命もこれほど軽くなった現代はまさに異常である。

 しかし、五木氏の思いが彼らに届くだろうか。五木氏の「人生論」を読んで癒されるのはむしろ正常な人間である。氏の本を読むような心根の優しい人間が人 の命を軽んずることはあるまい。とすれば異常なのは現代社会である。氏はそれを日本人の「魂の宙づり状態」と言うのである。私もその通りだと思う。

 五木氏は言う。
「戦後社会は無魂洋才で突っ走ってきた。そのつけがアイデンティティー危機につながっている。じゃ洋魂洋才でいけるのか。日本人には本能的なバリヤーとい うか、抵抗感がある。深いところに日本人固有の宗教的な感覚が潜んでいる。改めて、本物の和魂とは何かを見つめなければならない」(1999年11月21 日中国新聞「この人この本」)

 氏は本物の和魂を日本仏教に求める。氏の眼差しは「内向き」である。この「内向き」の眼差しこそが今の日本に一番必要なことだと私も思う。だが、氏のい う法然、親鸞、如に至る浄土他力だけでは本物の和魂が甦るとは私には思えない。その前に日本人は決着をつけておかなければならないものがある。戦後の思想 史である。

 戦後の民主教育によって純粋培養された第一期の塊を"団塊の世代"と呼ぶことがある。また団塊を中心とした前後の世代を全共闘世代と呼ぶこともある。こ れは1968年〜70年初頭にかけて全国の大学で激化した学生運動(全共闘運動)を担った世代のことである。彼らの多くは今では社会のあらゆる場所で管理 責任を問われるポストについている。同時に、いじめや、引きこもりや、校内暴力、学校崩壊、性を売る女子高校生や、大人顔負けの凶悪犯罪を犯す若者たちを 育ててしまった「親達の世代」でもある。

 教育問題は複合汚染のようなもので、原因はいろいろあろうが、基本的には子どもに対する大人の姿勢にあると私は確信している。大人が信念をもって子どもに接すれば、よほどのことがないかぎり子どもはまともに育つ。これは、私が二十二年間子どもと関わってきた実感である。

 だが、この教育信念に最も自信をもてなかったのが全共闘世代である。彼らが父親となったときから、この国は「父権の喪失」が叫ばれ始め、権威は失墜し、子どもたちは手がつけられぬほどに甘ったれてしまったからである。信念のない父親を息子が軽んじるのは当然である。

 全共闘世代の特徴的な気分は、反体制的、反権力的、反権威主義的である。とりわけ左派の学者やジャーナリストや人権弁護士、市民運動家、フェミニズム運動の女性知識人、日教組などはハッキリしている。塾業界においても全共闘世代の塾長に共通するメンタリティーである。

 なるほど一見反骨精神があるように見えるが、それはおおむね政府や国家に対する対抗意識、権利意識である。思想的に弱者の側に立とうとする意識が、決し て弱者と対立することなく、全面的に保護してしまうのである。加害者の人権擁護ばかりに熱を上げる人権弁護士や、国を告発する市民運動家など、彼らが常に 社会的弱者の権利を代弁しているのを見ればわかることである。そして、その視野に子どもも入っているのだ。

 それはよいとしても、権利には義務という責任が伴う。現代最も欠落しているのが責任倫理教育であり、それは戦後民主教育の開始とともに、すでに全共闘世 代をも蝕んできた。彼らは子どもの倫理的権威となるべき拠り所を持たぬままに大人になってしまったのだ。権威なき社会で子どもが横暴に育つのは当然であ る。これは半ば前世代の責任でもある。

 さて、倫理が行動の規範となるならば、倫理を支えるものは伝統と精神文化しかあるまい。反戦、平和などの政治的イデオロギーが一国の精神文化になりよう もなく、ヒューマニズムが苦悩の実人生に何ほどの支えになるだろう。つまり「魂の宙づり状態」とは、この根っこの部分が空洞化しているのである。

 では、どうして日本人は魂を見失ったのか、まずは責任倫理の喪失を戦後の思想史に見てみよう。その筆頭である大新聞は、先の戦争を軍部と共に「戦った」 にもかかわらず、その責任を国家に転嫁し、自らの戦争責任を追及してこなかった。戦前は日独伊三国同盟を快挙だといって万歳を叫び、戦中は「八紘一宇」を 推奨して国民の戦意を煽り、「一億玉砕」のスローガンを掲げて徹底抗戦を主張した朝日新聞は、戦後は一転して反戦、平和のオピニオンリーダーである。大東 亜戦争推進論の先峰であり、軍部のお先棒を担ぎながら、敗戦後は先勝国アメリカのお先棒を担いで日本国の戦争責任ばかりを追及してきた。何のことはない。 「神州不滅」の教義を「東京裁判史観」に宗旨替えしただけである(東京裁判史観とは、アメリカ主導による極東軍事裁判の判決。明治以降太平洋戦争に至る日 本の歴史を全て国際的犯罪史として否定し、戦争に導いた責任を一部の軍国主義者に帰するという歴史観。自虐史観、暗黒史観ともいわれる。勝者が敗者を裁く という異常なもので、その判決を全て真実と見なす日本人としてはまことに情けない歴史観のことである)。

 朝日新聞は、この東京裁判史観に飛びついたのである。戦争責任を一部の国家主義者に押しつけ、自らの責任をスリ抜けたのである。同じく戦後マルクス主義 階級史観を新しい聖典だとして押し戴いた進歩的知識人たちは、朝日と連帯してともに日本国家を断罪し自国の歴史を否定し続けてきた。つまり、彼らは意識の 上で歴史上の日本人を放棄したのである。

 日本人でなければ日本国を徹底的に非難できる。かくして日教組は子どもたちに日の丸の赤色は日本人が殺した中国人の血の色であり、白はその骨の色だと教えてきた。つまり、日本はアジアの人々に永久に謝罪しなければならない国際的犯罪国家であると。

 日本人でないとはいえ、本人はまぎれもない日本人である。では、この矛盾をどうするか。歴史を分断することである。日本史は1945年8月15日より始 まり、自分たちはそれ以後に生まれた新日本人だと思えばよいのである。それで全ては御破算にできる。あとは威勢よく国家の戦争責任を告発し、無垢な子ども たちに反日教育を施して、提灯行列に参加したおのが前世の罪滅ぼしをすればよい。

 だが、歴史の否定は自己の否定である。自己を否定することはその精神性において自虐的である。卑屈な精神に倫理的権威が備わるわけがない。また、歴史の 分断は自己の分断のことである。歴史は単純な事実の集積ではない。思いの集積でもある。家族、郷土、祖国のために命を捨てた先人同胞のさまざまな思いを、 イデオロギーごときで断ち切る歴史観の本性とは何か。それを私は「生命分断史観」と呼んでいる。

 そして知識人がまき散らした「生命分断史観」が、この国の意識空間を五十年以上ものあいだ白蟻のように蝕んできたのである。命の連続性を軽視してきた戦 後の日本人の魂が、よるべなく浮遊するのは当然であろう。「自分の命が軽く感じられる」のも「魂の宙づり状態」も、その元凶は戦後の報道言論界を支配して きた左翼知識人であると私は思っている。

 さて、「和魂の喪失」がまず進歩的知識人による責任倫理の放擲から始まったことがわかれば、彼らの卑屈な心性は今日までどのように伝播し、何を破壊し、何をもたらしてきたのだろうか。

 つい最近、さる出版社の東大卒のエリート社員が、息子の家庭内暴力に悩んだあげく金属バットで殴り殺した事件があった。父親は子どもの要求することに何 でも応じ、必死になだめるが全ては逆効果となり、遂に手のつけられぬほど暴れるようになった息子を殺すという痛ましい事件だった。最近こういう家庭内暴力 が増えている。子どもは何かにムカついているのである。子どもが父親を軽蔑するときは、そこに卑屈と偽善を見たときであろう。家庭内暴力はそういう父親が 強圧的に出たときに爆発する。

 大学という場で起こった全国的な家庭内暴力、それが全共闘運動であった。全共闘運動は戦後の知識人の欺瞞と脆弱を見抜いたときから激化する。日頃、非暴 力や反戦平和を説きながら、学生たちの要求や問題提起に真正面から答えられなかった大学人は、のみならず、学内に紛争が起こるや国家権力(機動隊)を導入 するという自己矛盾を犯したのである。全共闘の「大学解体」「権威の破壊」という破滅的な闘争はいわばキレた息子の家庭内暴力のようなものだった。

 ただ、大学生だから一応もっともらしい理屈(闘争理論というらしいが)をつけただけである。それが何とマルクス主義的階級闘争だった。学園紛争とマルキシズムと一体どういう関係があるのか? カラクリはこうである。

 当時東京大学をはじめとする日本の大学は、戦後数多くの進歩的知識人を送りこんできた学界の重鎮たちによって支配されていた。つまり、知性の砦そのもの が左翼化していたのである。東大を退官して法政大学の総長として乗り込んできた大内兵衛が、学生たちに向かって読むべき雑誌は「世界」(左翼誌)、新聞は 「朝日」にしろと訓示したのは有名な話である。それらは進歩的文化人の聖典である。

 全共闘運動が左翼化したのはそういう思想環境で育ったため、闘争理論とやらも師の言語空間でしか組み立てることができなかったからだろう。もし大学が ファシズムの砦だったら全共闘はファシストになったかもしれない。要するに、純情なボンボンには思想的免疫力がなかったというだけのことである。

 それにしても、学界自らがマルキシズムのドグマ(教条)に心酔していたのだから、学生に与える影響は絶大である。谷沢永一氏の著書によると、例えば同志 社大学教授鶴見俊輔は「ソ連はすべて正しい。シベリア抑留57万人と死者5万数千人は日本の戦争責任の代価」だといったそうである。東大の大内兵衛は、第 二次世界大戦は何と日本が「火つけ人」であったと言い、日本元凶論、罪悪史観の旗振りをした学界の大ボスであったという(捏造された東京復讐裁判劇でもそ こまでの歴史的歪曲はやっていない)。

 戦後民主主義の理論的リーダー丸山真男は、戦争責任は天皇制と日本型ファシズムにあり、それに加担した日本人(彼は小市民階級という見下した呼び方をす る)を思いっきり貶し、上も下も要するに天皇陛下バンザイの無責任体系(要するに阿呆)だと言った。ゆえにインテリはすべからく西欧型のリベラル・デモク ラシー(市民社会)の側に立つべしといった目の醒めるような(?)分析と論理を展開した。(『超国家主義の論理と心理』)

 東大法学部の横田喜三郎にいたってはその著書『天皇制』で「日本人は個性の意識も自覚もなく、自由の価値も平等の意義も理解しなかった」だの、「日本の 国柄は無知と奴隷的服従が日本の人民の自然な発達を阻止したために生じた奇形状態にすぎない」だのと日本人を貶め卑下し、その元凶が天皇制にあると皇室を 弾劾し続けた。

 ところが最高裁判所長官に任命され、晩年勲一等に叙されるころにはその信念もどこへやら、「陛下」と呼び改めてコロっと天皇制擁護者に早変わりした(七変化のカミさんもこれほどのウルトラCはできまい)。

 ここで私が言いたいのは、彼らの学説の当否ではない。彼らの鼻もちならぬエリート意識と欺瞞である。自らも同じ時代に生きた日本人であるという事実に目をふさぎ、日本列島の外からエラそうにものを言う卑怯極まりない根性である。

 丸山真男の分析によると、日本におけるファシズム運動(そんな組織的な運動は日本にはない。それはイタリアのことだ)を担ったのが小市民だという。丸山 の言うわが国の小市民階級とやらは、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工の棟梁、小地主、自作農上層、学校教員、村役場の吏員、 下級官吏、僧侶、神官などであり、彼らが何とファシズム「運動」をやったというのである。(『現代政治の思想と行動』)

 だから、ひと角の日本国民はみんな戦争に加担したアホであるというわけである。だが丸山の生活収入は、何であったか。それは彼が罵倒してやまぬ大多数の 小市民が地を這うようにして稼いだ生活の糧(血税)ではないか。自分は生涯税立大学(東大)に収まっておきながら、最も世話になっている庶民を見下げて高 説(?)を垂れる。こういう心性を卑怯、破廉恥、モラル・ハザードというのである。

 彼らの罪は自分たちだけが当事者としての戦争責任を逃れる理論と、しかも巧妙な手口による自己特権化と欺瞞の原理を知性の砦にまき散らしたことだ。戦後 日本の思想の動向を大きくリードしてきた彼らの最大の罪は、責任転嫁の手品を教え子たちに刷り込んだことにあると私は思っている。

 権利を主張すれども責任を教えない大学の指導者たちがこの国の言論界を牛耳り、多くの弟子を大学に送り込み、日本の大学の八割方を左翼化させたのであ る。全共闘が自暴自棄の破壊活動に左翼理論の屁理屈を思いついたのも、彼らによってすでに脳ミソが左巻きにされていたからである。

 だから、未だに左巻きになったままの弟子は、やはり同じ恥知らずな生き方をするものである。例えば、年中日本の男性をコケにして悦に入っているマルクス 主義フェミニストの上野千鶴子は、別にプロレタリアートではない。東大の学者である。彼、彼女らの共通点は一生懸命生きている庶民を馬鹿にすることであ る。馬鹿にできる理由、それは自分が学者であるという、ただそれだけのことである。人格とは関係あるまい。

 もしマルクス主義階級闘争史観を実存に賭けて主張するのなら、自らも労働者となって肉体を搾取される悲哀を共有すべきであろう。東大という知的特権階級 にいながら、その生活を支える納税者の男性を貶める姿は丸山と同じであり、実は最大の差別主義者である。つまり、良家の子女が(上野本人がそう言ってい る)自己の境遇に何ら必然性のない理屈をこねているのである。一度体に汗して働いてからマルキストの肩書を使えと言いたい。

 さて、私の大学は過激派の拠点であったために、機動隊との衝突は日常茶飯事であった。学生たちはもう機動隊抗争と破壊だけが自己目的化していた。彼らは その闘争理論を左翼理論に見出しながら、しかし実体は観念闘争に陥るしかなかったのだ。おそらくプロレタリアートとして全くリアリティーのない現実に苛立 ち、鬱屈した状況のなかでもがくしかなかったのだろう。当たり前である。彼らは労働者ではない。親のスネかじりの結構な身分である。言ってみれば、バー チャルの世界でゲームをやっていたようなものである。ここには未来のミニ上野がたくさんいた。

 もともと政治のプロではない"にわかマルキスト"に運動の統制がとれるわけもなく、分派分裂と内部抗争を繰り返すことになる。そして、しだいに大衆から孤立していき、方向性を見失ったあげく、最後はあの凄惨な「連合赤軍事件」を起こして自滅に至ったのである。

 そして何が残されたか。破壊運動の跡には見るも無残なこの国の秩序とあらゆる権威の崩壊である。まずは教育現場に波及した。大衆団交で教授を吊るし上 げ、拉致監禁し、罵詈雑言を浴びせる姿を見た弟や妹は学校の先生を恐れなくなったのである。しだいに学校は荒れ、やがては校内暴力が社会問題となり、管理 による制圧は今度は陰湿ないじめ問題を生み、それがもとで不登校児童は増加の一途を辿り、学校秩序は蝕まれ、ついに学校は恐喝、暴力、殺人の舞台となり、 そして今日の学校崩壊を迎えたのである。

 教授の胸倉をつかみ、大衆団交で年寄りの命を縮め、授業は邪魔をし、廊下は血で汚し、大学は封鎖し、建物には火を放ち、一般学生をノンポリだと馬鹿に し、本気でプロレタリア革命を実行する覚悟もないくせに革命理論などをふり回して、さんざん散らかし放題にした彼らは未だにその総括をしていない。そして エラそうに教育論をぶつ。そういう連中を私は何人も知っている。

 今の子どもはどうか。やはり出口のない袋小路に追い込まれ、鬱屈した気持ちを抱えて生きているのだ。それが「ムカツク」子どもであり、「キレル」子ども や若者である。それらはみな全共闘世代以降、この国の親たちが育てた子どもである。ちょうど全共闘が大学の知識人にぶつかっていったとき、大学人が信念を 貫かなかったように、全共闘もまた自己欺瞞のうちに生きてきたのである。

 アメリカ帝国主義と結託した資本主義を否定した彼らが、卒業後どう生きたか。その大多数の者が大企業に入社し、まさにアメリカ帝国主義の配下にある日本 資本主義の戦士となったのである。大学時代にあれほどひけらかした反逆精神などけろりと忘れて、ウルトラマンも絶句する変身ぶりで体制側のただのオヤジに なったのである。

 国家権力を否定した多くの学生が今日の官界のエリートとなり、そして再びモラル・ハザードを続出させている。親の因果は子にめぐり、卑屈な心は見事に継承されたのである。

 家庭内暴力や、オヤジ刈りなどの事件も含めて、その根を辿れば、私は大学のあの似非文化人たちに行き着く。凶悪化する青少年も、口先だけの理解を示す 「信念なき大人」たちに対する反抗のように映るときがある。彼らの暴走も信念なき父親に対するやり場のない破壊行動のように見える。そのようにしてまた因 果はめぐるのだ。

「全共闘運動の最大の汚点はこの国の権威を破壊したまま放置したことだな。そして身に安全なものは罵り、危険なものには擦り寄る卑屈な心性を大学のボスから学んだことだ」
 境内にある「静御前の剃髪塚」を見ながら妻に話す。吉野で義経と別れたあと、静御前は全国を転々とし、文治四年(1188)母とともにこの寺に辿り着いた。そして世の無常を悟った御前はここで剃髪得度したという。

「スクラップはしたけど、ビルドはしなかった。全共闘運動をした人もしなかった人も、あれ以来おしなべて自ら権威とはならないようにしてきたものね。マスコミ受けする知識人はみんな若者の味方のポーズをとって権威になることを避けてきたわ」
「頑固親父が盾になるから子どもは乗り越えようとしてあの手この手を考えるんじゃないか。胸を貸す優しさがなければ考える力は育たん。文部省は新学力観は自ら考える力を育てることだなんて言っているが、そりゃカリキュラムじゃない。大人が盾になればすむことだ」
「子どものストレスは立ち向かうべき敵が見えないことよ。今の大人たちは前世代の権威にぶつかり、そこで自らを鍛え、そして今日の自分があるんじゃない。 それなら、今度は自分が権威となって、サンドバッグとなれ。木は切ったら切りっぱなしにせずに植えなさい。これはお返しの心根というものよ。イデオロギー じゃありません。オバチャンにでもわかる単純なことだわ」
「そうだ。日本人は昔から知っていたことだ。可愛い子には旅をさせよと言ったじゃないか。それが今じゃ旅をさせないことが愛情だと思っている。みんな嫌われ者の鬼の役は嫌がって桃太郎の役をやりたがるのだ」
「差別と区別の違いがわからないような、そういう生き方を教えたのは戦後の文化的知識人なのよ。桃太郎ばかりの民主教育じゃ物語にすらならないわ。世の中 は誰かが裏方を受け持つから成り立っているのじゃない。学問はなくても底辺の人々によって知識人は支えられているのよ。ただ黙々と草むしりをする四国のオ バアチャンのような人たちにね」
「そうさ。学問のヒエラキーは東大が頂点かもしれないが、実存のヒエラルキーは逆さ。東大が一番下だ」
「空海はそれがちゃんとわかっていたのね。だから、最澄のような超エリートに向かって学問はカスだなんて言えたのね」
「そんなことを言えた学者は日本で空海だけなんだ。これがいかに凄いことが、僕にはわかる」
「そして四国のオバアチャンね。だからお大師さんは庶民に親しまれるのよ。空海の書いたものなんか何も知らなくても、空海の魂は四国に生きているのね」
「明日はいよいよ結願だなあ。オレ、四国に来ていろんなことを考えさせられたよ」
「四国遍路、はじめはしぶしぶだったようだけど、回って来てよかったでしょう」
「うん」

 長尾の町を出ると第八十八番札所・大窪寺を目指して阿讃山脈の懐へと向かった。海の志度寺から平地に上がって長尾寺を打ち、最後の道は山中深く分け入って行く。標高780メートルの矢筈山のふところに、弘法大師が杖を納めた
結願寺がひっそりとある。

 明日を結願日に控えた最後の日は、寺から少し離れた所にある純和風の数寄屋造の静閑な山中の旅館に泊まった。私たちが遍路であることを知って、宿泊料金 は大幅に割り引いてくれた。四国の人の温かい「お接待」である(四国は例え車遍路でも安くしてくれる宿泊施設が結構ある)。

 部屋に入ると床の間には「南無大師遍照金剛」と書かれた掛軸と一輪の花が飾られてあった。これも心遣いの一つかもしれない。薬師湯温泉に一人浸かって疲 れを癒す。きれいに刈り込まれた竹垣の庭を眺めながら「ついに発願を達成できる」と思った。西暦2000年は来年である。

 私は20世紀の節目に何か清算しておきたいという気持ちが以前からあった。人生五十年も生きればこの辺を折り返し点として、後半の人生に備えたいという 気持ちと、一方では世紀末を迎えた日本の惨状に苛立ち、新世紀を日本人の一人として前向きに一歩踏み出さなければならないという、責任感のような気持ちが 高じていた。

 どちらかといえば後者の焦燥感の方が強く、さりとて仕事を抱える身では何をするにしても二足わらじである。時間的にも物理的にも制約があり、不器用な自 分には無理なことがわかっていた。そこで特別な行動を起こさなくてもできることは、「生き方を変える」ことだと考えたのである。これなら私にもできそう だ。

 衆愚政治というものが民度に応じて生まれるものであるなら、その最終的な責任は個人の生き方に帰着するであろう。不買運動をすれば企業は倒れるはずだ が、倒れないとすれば「買う者」がいるからである。買うも買わぬも最終的には個人の選択である。同じ原理で個々人が生き方を変えなければ政治は変わらな い。

 人々はいつも幸福の青い鳥を求めて「外に向かって」行動を起こす。生き方を変えるということは、そういう思考ベクトルを一度疑ってみるということでもある。私が起こした行動は、世間と正反対の「内向き」の四国遍路であった。これが私の21世紀の戦略である。

 個人的な思いは社会と連動しており、一億三千万分の一は全て社会全体と連動しており、個人の生き方が社会変革に繋がるという基本的な命題を私は大学時代 に確立していた。むろん社会は個人の生き方を制約するが、社会を決定するのもまた個人の結集である。とすれば、社会改革に先立つものは人間改革であり、す なわち人間の意識改革にこそ決定的な鍵が握られていることになる。外に向かって革命運動に走るよりも、学生時代は個の確立が先決であろうと私は考えてい た。ここが全共闘と私の決定的な相違である。

 私は卒業論文の口頭試問のとき、当時有名な左派系の教授に"社会の最小単位は何極構造だと思うか"と反問したことがある。すると思っていたとおり二極構 造だという返答がきた。男女二極である。二人の人間が向き合うところに社会が発生するという意味である。つまり、一夫一婦で構成される家庭だというのであ る。妻も別の教授に同じ質問をしたが、答えは同じであった。

 それに対して私たちは四極構造だと反論した。一組のカップルでは社会は成り立たず、もう一組のカップルと向き合うところに分子社会が発生すると言った。 すなわち四極である。しかし、この意味はよく伝わらなかった。近代的自我は個を主張するあまり、カップルは個の集合と考える。パーツの集合が全体であるな らば、教授の知性もまたデカルト的二元論の域を出ていなかったと言わねばならぬ。

 私たちは結婚は個人の意志を超えた何か宇宙の意志のようなものが働くような気がしていた。宗教を捨てた唯物論者にはこの感覚が通じず、議論はそこで頓座 した。私は男女はヒトとして別々の生命体ではあるが、結婚によって人間という一段上の生命的完全体になると思っていた。古代より人類に結婚があったのは、 種族保存本能の中にそれを与えた宇宙の意志のようなものがあるのだろうと感じていたのである。

 結婚によってヒトが人間となり、もう一人の人間(カップル)が向き合うところに人類は社会という一段上のコアを形成してきた。これが部族社会の最小単位である。一組の家庭だけであれば、次の結婚は兄弟姉妹となってしまう。

 とすれば、完全なる結婚が安定した社会の下部構造ということになる。すなわち、「ゆるぎなき理想社会」はマルクス経済理論の底に「ゆるぎなき結婚」によ る人間形成が必要だということになる。経済を超える幸福論も実はそこにあり、そういう家庭から育てられる「ゆるぎなき子ども」を再生産することが下部構造 のもう一つの健全な力であると考えたのである。

 当時革命理論が叫ばれていたので、一つの革命哲学として唯物論者にぶつけてみたが、結婚は個人の意志であり、社会制度だと考える学者にはわからなかっ た。私は制度はあとであり、人類には結婚が先にあったと考えた。それは人間が決めたことではなく、宇宙の意志である。ゆえに結婚は神の秘蹟である。そうい うことを一度突きつめて考えておくことが、学生の時代になすべきことだと思っていた。

 外に向かった全共闘は性急すぎたのである。彼らを見ていると早期受験教育の子どもと同様、早期政治的活動による「燃え尽き症候群」のように思える。早す ぎた彼らの運動の挫折が、今では羮に懲りて膾を吹いているかのように見える。自ら殻を破って出て行くこともできず、かといって自己を厳しく問い直すことも しない。しかし、これは戦後の多くの知識人の生き方でもあっただろう。

 戦争に負けるとはこういうことだ......私はすでに家畜のようになってしまった日本人をそこに見た。

 三島由紀夫は晩年こう言って自決した。
「私はこのままで行ったら、日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなって、その代わりに無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な抜け目のないある経済大国が極東の一角に残るであろう」

 30年後の日本は三島の予言した通りの道を突き進んでいる。五木寛之氏がいま和魂の喪失や日本人のアイデンティティーや命の重さについて危機感を語らなければならないのは、三島の予言が当たったということである。

 どうしてこんなことになったのか。それは第一に戦後日本人の価値観や言論思想をリードしてきた進歩的文化人が無明だったからである。何故かといえば、私のようなオッサンにでもわかる道理が彼らにはわからなかったからである。

 道理とは簡単なことである。父親や祖父母の悪口を子どもに吹き込む母親のもとでは、まともな子どもが育たないように、国家と自国の歴史を否定する教育を 受けてまともな国民が育つわけがない。前者は家庭崩壊を招き、後者は国家崩壊を招く。賢しらな女親のような左派知識人の無明さとは、これが敵国によって仕 組まれた罠であることすら気づかずにいたことである。

 昭和20年8月15日をもって日米戦は終結したと思っていたのは日本人だけで、アメリカはこの日をもって第二の日米開戦の日とした。今度は文化伝統の破 壊を目的とした思想戦である。日本の武装解除の次は、精神的武装解除である。そして二度とアメリカに立ち向かうことのないように、日本人の精神改造をする ことであった。それがウォーギルト・インフォメーション・プログラムといわれる占領軍による対日戦略であった。

 国家の体裁をなさぬ新憲法を押しつけ、国体を改造し、そして何よりも戦争による国民の贖罪意識の刷り込みをした。新聞、ラジオなどの報道機関の検閲統制 など、あらゆる情報手段をコントロールして日本国民を洗脳したのである。そのためにまず精神的バックボーンである歴史の記憶を消し去った。精神文化の破壊 は歴史を書き換えることである。それが極東軍事裁判の勝者による一方的な判決とその論理であり、今日なお国民を呪縛する自虐史観である。

 一方、スターリンはソ連の領土拡大と防衛のために国際的共産党分子を組織した。各国の不満分子(プロレタリアート)を組織して共産勢力の拡大を図る。そ して日本の左翼を扇動して国家体制の転覆を狙ったのである。思想的混乱による日本の弱体化を画策する対日戦略は、米ソともに「国民分断作戦」に出た点では 共通している。マッカーサーは戦後、共産党を合法化することによって左翼勢力も利用した。そもそも自由(資本主義)と平等(社会主義)とは矛盾する欲望の 裏表である。これらの巧妙な思想戦によって、明治以来築き上げてきた和魂は潰えたのである。

 つまり、米ソは日本人のマインドコントロールに成功したのである。マッカーサーは天皇を生かし利用することで日本を裏からリモートコントロールした。敵 はアメリカではなく国民を戦争に駆り立てた軍閥、財閥であるという構図のもとに日本に対する自らの戦争責任(無差別大量殺戮・原爆投下)を回避し、かつ日 本人同士を対立させて国民感情を分断をした。この洗脳工作に真っ先に引っかかったのが進歩的知識人であった。

 彼らがこの国の伝統精神の破壊を受け持ち、天皇を否定し、ソ連、中国、北朝鮮は全て正しいとし、あとは周知の通り学生たちに左翼思想を吹き込み、日教組 の講師団を勤め、敵国譲りの洗脳プログラムをこなすことでわが世の春を謳歌してきたのである。そして、無垢な全共闘のボンボンまでが自分の頭で考えたもの と錯覚してコロッと左翼思想の餌食になった。

 つまりは進歩的文化人は、過去の何かを捨てて、移りゆく世の流れにいち早く便乗したのである。捨てたものを五木氏のようにあえて和魂とは言うまい。だ が、少なくとも人格である。現代日本の崩壊現象を見据えれば、結局人格崩壊に行き着くしかない。政、官、業の絶えることなき汚職。われさえよければと立ち 回るトップのあさましい姿。利害のみが錯綜し、敵味方も相結ぶ政党政治の偽善。そこには利己的個人主義以外何も感じることはできない。

 終戦記念日が近づくと、有名な某テレビキャスターは必ず戦死した日本人を国家の犠牲者だったという。一兵卒も職業軍人もおしなべて犠牲者なのである。誰 も死にたくはなかったであろう。しかし、死を受け入れるしかなかった彼らは、自らの死に意味を求めたはずである。それは自分の死が祖国・郷土の為であると 信じることしかなかったのではないだろうか。その最後の「思い」をムダ死にだの犠牲者だのと言われれば、死者は「死んでも死にきれまい」。

 彼等は意志をもたぬ家畜のように殺されたのではない。引き裂かれる思いの中で、なお意志をもって戦地に赴いた人間である。まして、職業軍人はそうである。警察官や消防士にしても、身を挺して市民を守ったとき、その殉職を国家権力の犠牲だと言われることが名誉であろうか。

 戦後の民主的個人主義とは何か。日教組が子どもに教えた命の重さとは、ただ「われ一代の命」ではないか。それを「エゴの命」というのだ。エゴの命を教え られた子どもがどうして他人の命の尊さを実感できようか。「生命分断史観」を教えた国には、平気でガソリンをかけて友人を焼き殺すような子どもが出現する のだ。学校で先生を殺すような「軽い命」を子どもに教えた日教組は猛反省すべきであろう。

 有名なテレビキャスターは「教育なんかくだらない」と言った。画一的な公教育がくだらないという意味だろうが、教育の荒廃をテーマにした番組なら、戦後 教育の現場を支配してきた日教組に一度くらいその責任を追及したらどうだ。10年以上彼の報道を見てきたが、彼らの責任追及の矛先は常に国家権力であり、 管理職(校長)である。

 だが子どもに直接影響を与えるのは、密室化した教室内の現場教師なのである。現場教師の思想的責任を問題視しなかった左派系マスコミもまた「生命分断史 観」を刷り込んできたのである。今日、子どもの命を羽のごとく軽いものにした責任がマスメディアには皆無だと言い切れるのか。

 私は22年間子どもを見てきて、一番気がかりなのは子どもたちの生命力の衰退である。年々自信も自尊心も生きる意欲も弱くなり、何か無能に、鈍重に、ガ ラス細工のようになっていく子どもの姿である。糸が切れた凧のような弱々しい孤独な命を見せられるその怒りが、凧の糸を切ったものは何かと考えてきたよう に思う。四国遍路は怒りの旅でもあり、どこかで子どもに対する懺悔の旅でもあった。この国の阿呆どもの教育によって、私もどこかで侵されていたであろう洗 脳を解く旅でもあった。

 その旅が、戦後のバスに乗り遅れまいとする群衆の中に、一人佇む父の心を発見してしまった。父も赤紙一枚で徴兵された一国民にすぎず、戦争で塗炭の苦し みを味わっただろうが、自分は国家の犠牲者だったとは一言もいわなかった。中国共産党の協力を断り、銃殺刑を選んだ父は「自ら戦った」事実と責任に目を閉 ざそうとはしなかった。「殺せ」と言った父の命を中国人が救い、戦地に持って行った実母の位牌が父の命を救い、父の命が私の命を生み出し、多くの思いが次 々と伝播し......それが人間の歴史というものではないだろうか。それを断ち切らず受け止めることが、人間として生きることだと私には思える。

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