朝の涼しいうちに「玉藻公園」(高松城)を見学することにして、高松港方面に向かった。市内はいろいろ見所は多いが、妻は日本の城が好きなのでどうして
も旅のコースに入れてしまう。《讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上》と歌にうたわれた高松城は、天正十六年(1588)、黒田如水の設計による平
城。水門によって堀の海水を調節できるという全国でも珍しい水城(海城)である。老松、名木、石灯籠が立ち並ぶ城内を散策して、鞘橋を渡って天守閣跡に登
ると、水門の向こうはすぐ海が開けていた。
午後は妻に付き合って凧や獅子頭の飾りや、提灯屋で提灯を買ったりして(妙なものを買う人だ)、次は「平家物語歴史館」に行った。彼女は源氏よりも平家
が好きである。平家は雅だが源氏は血生臭い。骨肉の争いによって滅亡した源氏よりも、一族の結束が強かった平家が感性に合うようだ。それに平家には滅びの
美学があるというのである。「四国村」に着いた頃はうだるような暑さになり、吹き出す汗をぬぐいながら、まだ行ったことのない祖谷渓谷の「かずら橋」や、
古い民家の再現などを見て回った。広大な山の斜面に四国の民俗文化や各地の暮らしがうかがえるテーマ・パークである。
高松市街を抜け、国道11号線を東に向かうとまもなく屋島が見えてきた。高松市の北側、瀬戸内海に細長く突き出た半島である。今は陸続きだが、昔は文字 通り島であった。源平の合戦地としてあまりにも有名なこの地は、那須の与一の扇の的、義経の八艘跳びといった数々の名場面が生まれている場所である。第八 十四番札所はこの屋島にある。
再び遍路姿に変身して寺に入ると、観光客で賑わう境内はあきれるほど広々として明るい。観光化されすぎて遍路にとっては味気ないほどである。だが、屋島 寺の歴史は古く、開創者は意外にもあの鑑真和尚(688〜763)である。中国から「律」を伝えるべく、たび重なる遭難の辛苦で盲目になりながらも六度目 の渡航でようやく日本に辿り着いた高僧である。
太宰府から奈良へと上る途中、屋島に霊気を感じてここに寺を建立した。その後、寺は衰えたが弘法大師によって再興され、第八十四番霊場になったと伝えられている。
本堂の隣の赤い鳥居の奥には「蓑山大明神」があり、太三郎狸が祀られている。この狸は、屋島に戦乱が起きそうなときいち早く住職に知らせた賢い狸で、今では四国狸の総大将である。
「早くすませといで」と妻が言う。
「うん」と私。(トイレに行くのではない)
鳥居をくぐって私は狸を拝みに行った。私はタヌキ神社で携帯用の木魚を叩きながら般若心経をあげた。一ヶ月ほど前、仕事から帰る途中、急に飛び出してきたタヌキを車で跳ねてしまったからである。ブレーキを踏んだが間に合わず、ずっと心にかかっていた。
タヌキは車のライトを浴びると、一瞬目がくらんで明かりの方に向かってくる習性がある。私の家は山の団地にあるので夜道はよくタヌキが出没する。昼間仕 事に出かける途中、事故に遭った死骸をしばしば見かける。これもタヌキのせいではない。生息地を奪ったのは人間だと思うと胸が痛む。屋島に来たら弔ってお こうと思っていた。
壇ノ浦の古戦場を左に眺めながらドライブウェーを下ると、
ホテルに着くとすぐ風呂に入った。大浴場のガラスを通して一面に瀬戸内海が広がっている。女木島、男木島が見える。映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台 となった男木島である。海の男たちを見守って灯をともし続けてきた男木島灯台がある。灯台守の夫婦の物語はあの島から始まったと、妻が車の中で話してい た。
(二人で生きてきて早、二十四年か)
湯に浸かりながら妻と過ごしてきた人生を振り返っていた。遍路旅はあと四ヶ寺で結願成就である。