弘法大師空海を慕うことや敬うこと、これは誰にも止められないことです。四国八十八ケ所を遍路してみたり、真言密教の門に入って読経をすることは、たし かに空海を慕う行為にあたります。そこにはなんらの問題も偏向も生じない。しかし、そのうちに、かつての空海亡きあとの真言密教史がそうであったように、 大師を慕う方法に分派が生まれ、争いがおこり、単に大師を元とするというだけでは、分派の統合がおこらなくなってしまうということも、おこりえないことで はありません。
一方、空海密教というより、むしろ密教一般に惹かれるばあいは、そこからはもともと多様な変化が生じます。オウム真理教もそのひとつ の例だったのでしょうが、いくらでも誤解を重ねることもおこります。これは密教というものの幅が広すぎるからでしょう。最初こそ顕教にくらべて絞り切った 純密な幅であったのに、いまではインドから数えて今日に至った密教の扇の幅は、とてつもなく広がりすぎたものになっている。とくに密教ブームといった現象 からはたいていは何も形成されることがないでしょう。それは、これから音楽ブームをつくりましょうとか、ひとつ室内スポーツブームをおこしたいと言ってい る程度に茫漠としすぎていて、何の効果も期待できない視点です。
では、空海の思想や空海その人に惹かれるとは、何を意味しているのでしょうか。空海が遺した文言に頼っているのか、生き方を確信した いのか、単に日本密教の大淵源であるから空海の傘の中にいたいのか、すでに空海密教の海の中で勤行をしているから空海なのか。そこのところがいまひとつ はっきりしていません。なんだか、そこがばらけだしているのです。そこで最近になって、私が思いますのは、空海密教に過不足なく接近することは意外に多く の人々にとって難しいことなのだろうということなのです。これがたとえばプラトンとかゲーテとかアインシュタインとか、あるいは藤原定家とか雪舟とか本居 宣長というのであれば、むろんこれらに対する評価解釈の尺度と角度は人によってさまざまなのですが、元が宗教家ではないというその一点において、かなり鷹 揚な思慕が成立したまま、そこにはゆるやかなゲーテ思考や定家好みというものが生きているのです。それが祖師信仰を伴うと、なかなかそうは鷹揚にはなりに くい。そこのところが問題なのです。
しかし、どうでしょうか、ことは空海なのです。何も空海を「一人の宗教の起源」と捉えることだけで、いっさいの前提をつくれたと思う 必要などないでしょう。むしろ、あれこれの空海というか、空海の多様性というか、そういうものを生み出した母体としての空海自身をひたすら感じて、いった んそこに戻る必要があるように思われるのです。これが最近になって私が感じている「母なる空海」という、ちょっと変わった見方です。
いったい「母なる空海」とは何事か。それをここで少しは説明したいと思いますが、その話に入る前に、空海の多様性の中でも、私は空海の編集力に関心があるので、そのことを最初に話しておきたいと思います。
すでにこれまで私がいろいろの場で指摘してきたことは省いて話を進めますが、まずなによりも空海の「仕事の特徴」を把握すべきだと思う のです。思索ではなく、仕事です。仕事をした空海という見方です。すなわち、治水工事や潅漑工事にあたったり、教王護国寺の展示方法に苦心をしたり、水銀 鉱脈を掘り起こしたり、その開創にあたって高野杉の使用に踏み切ったり、天皇家に手紙で進言したり、梵字の辞書をつくったり、学校を開設したりという、そ ういう仕事に注目するべきなのです。なぜならば、これらはまさに、今日の日本が混乱している現在では、これからの日本人の誰かがなんとしても取り組むべき ことばかりであって、しかも、今日の政府や官僚や知識人たちがその方針を見失っていることばかりであるからです。ということは、ここでひとつ、空海をディ ベロッパーの本格派として見直し、ミュージアム・ディレクターとして評価し、データベースの設計者として、学校教育の革命家として、もっと言うなら何に投 資をすべきかという経済政策の立案者としてさえ、見直すべきだということなのです。
いささか大袈裟な話になったので、少し、わかりやすい例を出しましょう。たとえば『文鏡秘府論』という書物があります。これは、たい そう分厚い本ですが、その九〇パーセントは空海の著述ではありません。空海をちょっと勉強した人はみんながそう思っている。内容は文章論や文体論や詩歌論 になっているわけですが、その大半が中国の理論や評釈の紹介に徹しているからです。では、この大部の本が空海の産物ではないかといえば、そんなことはな い。ここには空海独自の配列が生きているし、省略も生きているのです。なによりも、空海のフィルターを通した中国詩文論の編集精華というものになってい る。つまり空海のフィルタリングやエディティングがめっぽう効いた世界になっているのです。
このような空海の仕事をかなり積極的に評価する必要があります。『三教指帰』なら、いくら原典からの語用が多かろうと青年空海が全編 を執筆しているのだから、それをおまえが編集思想と呼ぶのも了解できないではないが、しかし『文鏡秘府論』ではあまりにも中国文献の紹介だけではないか、 などとみなしているのではダメなのです。私は二十年前に『日本の科学精神』というシリーズを編集しましたが、これはすべて明治以来の日本の科学者の論文や エッセイを主題別に編んだものにすぎません。ただし選りすぐりのものだけで構成してあります。また、各巻末に朝永振一郎さんや当時の学術会議の議長の伏見 さんらの座談会を載せ、これの司会をしてみました。しかし、あとはすべてアンソロジーなのです。それでもこのシリーズは、当時の日本の科学者たちにとても 大きな影響を与えました。若い人たちを含め、多くの人たちが日本人による科学的表現に可能性があることを確信できたからでした。朝永さんは、このシリーズ を見て「そうか、科学以上の文章が科学を奮い立たせるんだね」と言っていた。ありがたい言葉でした。
次は途中の時間をとばして、ごく最近の例にしますが、私は数年前に『情報の歴史』という本を出しました。これは単なる年表です。けれ ども、その年表の事項の一点ずつに対して、何を選ぶかということをまさに克明に選択をし、並べ方を考えた。加えて、年表でありながら大小の各ページの各ブ ロックごとにヘッドライン(見出し)をつけ、強調すべきところと流すところを徹底的に編集していったのです。私はこれはさしずめ"知的な治水工事"だと 思っています。さいわい評判が高く、この本の次に出したサブリーダー本ともいうべき『情報の歴史を読む』はすぐに韓国語に翻訳され、ベストセラーになって いるそうです。
これらはごくごくささやかな例ですが、ことほどさように『文鏡秘府論』があるのです。しかも、このような編集作業の数十倍・数百倍の 仕事を空海は一人でやってのけたのです。いや、一人でやったわけじゃない。それぞれの仕事にふさわしいパートナーやコラボレーターを選り抜いて、その仕事 に必要な方向の完遂に向かってみせたのです。
空海密教というものは、実はこういう仕事をふんだんに孕んでいるのです。というよりも、実のところは話は逆で、空海には密教すら仕事 のひとつであったわけであり、もっと言うなら、空海の仕事の一部が藤原一族らの政府官僚になり、空海の仕事の一部が大学のシステムになり、空海の仕事の一 部が書道や詩文道という世界になり、そしてまた空海の仕事の一部が真言密教というものになっていったと考えるべきなのです。つまりは、空海は以上のような 「日本の仕事の母」であり、その母体の一部に密教が組みこまれていたということになるのです。
いや、それはおかしい、空海の仕事も空海の思想もその中心は密教であり、だからこそ今日に至るまで、真言密教はこんなに栄えているの だ、栄えていないまでも確固たる領域をつくっているのだと言う人もいるでしょう。そう考える人はきっと今後の密教をおもしろくしてくれるでしょうから、お おいに期待がもてるのですが、やはりかなり狭隘な見方だと言わざるをえません。なぜならば、空海の遺したものは、なんといっても大学でもあるのです。また 出版社でもあるのです。少なくとも辞典を編集している三省堂や大修館や岩波書店辞典部は空海の末裔であるはずです。さらに書道界もまさしく空海を母とする 業界です。しかも、これらははたして"密教業界"より低迷していると言えるでしょうか。大学は誰もが入る気になる門になり(最近はやや堕落していますけれ ど)、書道はいまでも小学校で教えているのです。むしろ"密教業界"の方がなんら新たな努力をしていないようにも思われます。
こんなことを言うと、またまた反論が出て、密教者というものはひたすら行いに徹していればいいのであって、いたずらに世事にかかわる ことが密教の努めというものじゃない、といった批判が出てきそうですが、自身の鍛練ならいざ知らず、教相や事相にいるだけで、何がいったい密教なのでしょ う。しかもお勤めをはたしている以外の時間というもの、ニュースにも教育にも地域経済にもかかわらないで、酒をくらい、おいしい食事をし、カラオケで騒 ぎ、無駄話を決めこんでおき、それで密教とは世の中は誰も認めません。少なくとも空海の法燈を継ぐ日々であるとは、誰も思わない。それは、空海とは関係の ない密教屋というものです。
このように考えてみると、いっそ空海を「日本の仕事の母」とみなし、そこから派生した各種多様な領域に注目し、その領域でいま活動をしている人々と連動して空海を考え直してみたほうが、ずっとおもしろいということになるのではないでしょうか。
では、なぜ空海はこんなに多くの仕事をなしえたのか、という問題です。また、それらは空海密教とどのようにつながっているのかというこ とです。これについては、私ははっきりとした解答をもっています。それは、空海は言語を研究したからである、あるいは表現を研究したからであるということ です。これはまとめていえばコミュニケーションの本質を研究しようとしていたと言ってもいいかもしれません。だからこそ『文鏡秘府論』を編集する必要も あったし、『大悉曇章』や『梵字悉曇字母並釈義』を著す必要があったわけです。これらは空海にとってはあたりまえに必要な準備であったのです。
空海のコミュニケーション研究とは何でしょうか。まず第一には、マントラの研究です。言語の研究です。これは根底では真言をあきらか にするということで、当時は「真」の意義が真名(漢字)という言い方にもあらわれているように、中国を暗示した。これは中国という具体的な国というより も、そこには天子につながるヴァーチャルな中心(中華)というものが想定されていたのです。その中華的なるものをふくめ、さらにはその奥なるインド的なる ものを想定して、空海はもっぱらコミュニケーションを支えるモナドとしての真言を通した言語研究をしたかったのです。次に第二には、真言を成立させている あらゆる要素、たとえば文字や発音の起源と特質を研究したかったと思います。そのためには、阿吽の呼吸や文字の綴り方や書道のことも研究する必要がありま した。そしてこれをコミュニケーションとしての言語の問題や表現の問題に拡張したかったのでしょう。マンダラ制作や立体マンダラの展示はこの軸に入りま す。第三に、空海はコミュニケーション・スタイルの研究にも目を向けていました。これはいま、パソコン・ネットワークをウィンドウズ98などが席巻してい るように、当時の日本のためのOSの開発だと思えばいいでしょう。いくらインド的なるものや中国的なるものが大事だとはいえ、空海は"新生日本"をつくり たかったのですから、なんとしてでも日本のOSを開発しておこうと考えたのです。これがのちに空海が「いろは」を考案したとか、「五十音図」を密教研究者 グループが考案したという伝聞につながるのです。
こうした研究を通して、空海は人々が本質的なコミュニケーションをしあうための、次の場面を考えていったのです。それが高野山の開創 や綜芸種智院の開設などの、いわゆる道場の創立につながります。これは戒壇院のようなものでなく、つまりは戒律を与えたり守ったりするためのものではな く、むしろコミュニケーションのための場の確立です。しかし、それには人々が単に集まるだけではうまくない。世の中にはいろいろなレベルの人がいるからで す。そこでどんな認識のレベルの人でも順序よくステップを踏めるようにした。それが集約され、大成されたのが『十住心論』でしょう。
こんなふうに言うと簡単にみえますが、実はこれらはとても大きな研究プロジェクトであって、おそらくいくつものグループやアシスタン トを必要としたと思います。のみならず、これらの研究は仕事と結びつくことが必要でした。そのために空海はどうしたか。つねに企画書を書き、たえず提案書 を書いたのです。
私は、今日の密教界はもっと企画や提案を出すべきだろうと思っています。それから、もっと異分野の人々と興味深いコラボレーションを するべきだと思います。そういうことをしないで、いったい毎日毎日、何をしているのでしょうか。たしかに、最初にも述べましたように、空海密教に過不足な くぴったりとランディングすることは、易しいことではありません。かえって弘法大師の存在が重すぎて、何もできないということにもなりかねない。そのよう な気分になることも、少しはわかるつもりです。しかし、それではあまりにもったいない。もったいないだけではなく、発想を逆にひっくりかえしたほうがいい ようです。つまり、密教の流れの中にいる空海は空海の一部であって、母なる空海は多様な仕事の母体であり、その母体からはインド伝来の密教とは別の、空海 の密教も流れ出していったのである、と。そして、そのように流れ出したものは、真言密教だけではなく、学校や書や芸術の流れでもあったのだ、というふう に。
以上で、今日の話は終わりです。あまり突っ込めないままに時間が来てしまいました。また、お目にかかったときに、続きの話をしたいと思います。