時々、おかしな夢を見るのである。
――西田幾多郎と鈴木大拙が禅の公案と華厳の話をしているところに空海が現われ、次のように言った。
◆お二人とも華厳にお詳しいのですが、私の『十住心論』の第九住心(華厳)や第十住心(密教)にはご関心がないとみえます。お二人の華厳研究は、禅者として哲学者としてアカデミストとしては相当なレベルとお見受けしますが、同じ華厳の先学である私の学蹟を何故参照されないのかが、不可解です。お二人には私の華厳と密教の回廊は見えませんか。
お二人はまた、「東洋」とか「仏教」の立場ということをよく言われます。東洋の智慧という自覚に立たれているからでしょう。それならなおのこと、華厳と密教の回廊にも目を向けないと「木を見て、森を見ざるが如し」「井の中の蛙、大海を知らず」と言われかねません。
密教はアジアを西から東へ北と南で横切ったまさに東洋の智慧で、しかも仏教思想史の最終段階です。私はその密教のまぎれもない第八祖です。私の密教は、その正真正銘の日本版で、華厳をずいぶん依用しています。
――二人はけげんそうにお互いの顔を見ていたが黙って答えなかった。空海がつづけた。
◆中国華厳宗第四祖の澄観さんは、お二人ともよくご存じの「事事無礙法界」を案じた人ですが、止観(禅)もおやりになってお二人の大先輩です。『大日経』や『金剛頂経』の密教観法にも通じていました。中国の仏教者は皆よく他宗を兼学して、その上で自説を考案しますね。
最澄さんや私はその系統ですが、鎌倉仏教の人は他宗を敵対視するあまり独善的で自宗以外の教学は無視です。自宗こそ「仏教」だという思い込みが激しく、明恵さんのような方は少ない。皆さんはそういうローカルな鎌倉仏教の禅門におられますが、やはり他宗兼学どころではないですか。公案と老師の「喝」に追われる日々で。
西田さんは若い頃から『探玄記』(法蔵)に親しまれたそうですな。法蔵さんは『小止観』で禅をやっていたと聞きます。私も、二十代に東大寺で『六十華厳』『八十華厳』を読み、『華厳五教止観』(杜順)、『華厳経指帰』『探玄記』『金獅子章』(法蔵)を勉強しました。私が長安に行った時華厳宗は澄観さんの時代でしてね、澄観さんは般若先生が漢訳をされた『四十華厳』(「入法界品」)を詳定されたり、『八十華厳』の註釈(『大方廣佛華厳経疏』)を著したり、止観(禅)にも熱心でした。
澄観さんには直接お目にかかる機会はありませんでしたが、般若先生に澄観さんの華厳教学をみっちり教えられました。下宿先の西明寺で親しかった円照さんも『四十華厳』漢訳の時に筆受をしたくらい華厳に詳しく、いろいろ教えてもらいました。智顗さんの『摩訶止観』や『小止観』もひととおり学びました。
――二人は空海の華厳と止観(禅)の話に何かを察知したのか、黙って聞くばかりだった。
◆鈴木さんも華厳の研究をだいぶされたようですが、お二人は、私が長安からもち帰った『華厳経疏』(澄観)に目は通されましたかな。「事事無礙法界」までいけば、華厳教学も極まれりですが、澄観さんは華厳最高の境地の「海印三昧」を止観で体現したんですかね。澄観さんは『経疏』で、「海印三昧」を「(金剛界)三十七尊の出生」に同じとしてますね。それから華厳の「四十二字門」を密教観法(例えば『大日経』の「字輪観」)から見ようとしたりしています。そのほか華厳教理を密教的に解釈しています。澄観さんは密教にも詳しい人で、『大日経疏』にも『金剛頂経』系の儀軌にも通じていた可能性があります。
私は、そういう本場中国の華厳の事情を踏まえた上で華厳(中国)から密教(東洋)への道をとり、独自の「十住心」体系を考えたんです。ですからこんな話をしている。
お二人の「〈即非〉の論理」や「絶対矛盾的自己同一」ですが、畢竟、公案とその背景にある華厳の「事事無礙法界」の西洋哲学趣向ですね。しかし、「東洋」や「仏教」は「事事無礙法界」では終らない。私は「事事無礙法界」を超えて「六大無礙」です。
私の「十住心」はね、「九顕一密」で見ると全仏教思想史の「逆対応」なんです。華厳は私の密教では「否定即肯定」として生きているんです。また、「九顕十密」で見るとですね、人間の心品(意識)の「絶対矛盾的自己同一」です。「一即多」「多即一」でもある。お二人は、私が提起していた「〈即非〉の論理」をご存じないでしょうね。私は、いわばお二人の哲学の先輩です。目に留めて参照していただきたいものです。
ところで、澄観さんは、止観や密教観法で華厳の「海印三昧」を体現したんでしょうね。華厳教学を「事事無礙法界」(「空」の理の顕現としての事物事象からことごとく「空」の理が脱落し、事物事象が「即事而真」として重々無尽のホロニックシステムをなしている)にまで高めました。禅が華厳に先を越されたんです。『臨済録』もその奥にあるのは「事事無礙法界」でしょ。
青原惟信老師は「老僧三十年前未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水。及び後来に至り知識に親見して箇に入る処有りて、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而して今箇の休歇なる処を得て、依前と山を見るに祇だ是れ山、水を見るに祇だ是れ水」とうまいことを言いましたね。
※天長七年(八三〇)、すでに晩年の空海は、各宗の宗義要諦を提出するようにとの淳和天皇の命に応え『秘密曼荼羅十住心論』十巻とその略本『秘蔵宝鑰』三巻を著わした。空海はこの「十住心」の体系において、人間が本能そのものの意識から「法仏」の心位に至る心品転昇の階梯を示し、そのプロセスに「無我」から「空」「利他」、そして「真如」「法界」へ、さらに「曼荼羅」「法爾」に至る仏教思想史を組み込み、最終次元である第十住心「秘密荘厳心」(密教)の前に大乗「空」観が最高レベルに昇華された華厳を置いた。空海密教のステイタスはこの華厳を超えた地平に明かされる独自の密教パラダイムにある。
空海は、「真如」「法界」をその体性とし、存在するだけで自ら(「真如」)を説かない「果分不可説」の「法仏」(法身、毘盧遮那)に代り、密教が起てた「法仏」(大毘盧遮那、大日如来)に自ら(「自内証」)を自ら説法するペルソナを付与し、「法仏の談話」を可能(「果分可説」)にして華厳を超えた。
幼少から言葉に霊威を感じ、漢籍に入って『荘子』内篇第二の「斉物論」篇などにふれ、求聞持法で虚空蔵菩薩の真言を何万遍も唱えつづける口誦体験を積み、サンスクリットというインド言語に通じ、ヴェーダの祭詞やその言語思想「vāc」や、ミーマンサーの声顕論や、バルトリハリの「スポータ」説や、タントリズムのマントラといったヒンドゥー言語思想も飲み込んでいた空海は、絶対者と「コトバ」の関係に敏感であった。空海は虚空蔵菩薩の真言を唱えつづける行中に、虚空を貫いて渡ってくる虚空蔵菩薩の声(「コトバ」)を聞いた。その声こそ虚空蔵の意志であり霊威であり、「真如」「法性」であり、「実相」であり、虚空蔵そのものだった。だから空海は、「法仏」(大毘盧遮那)を人格化して、自らを自らの「コトバ」(「真言」)で語らせ、「コトバ」から存在のすべてが出生する哲学に躊躇をしなかった。この「法身説法」によって「果分」(「法仏」の「自内証」)の言語化が可能になったのである。
空海密教の究極はこの「果分可説」にある。空海は、釈尊の成道に始まる仏教の命題であった「解脱」「サトリ」「等覚」「仏智」「菩提」「悉地(成就)」「真如」「法界」→「果分」は言語では表わすことのできない絶対「空」(「言亡慮絶」)の境界である(「果分不可説」)、という仏教の伝統を超脱し、「果分」は言語化もビジュアル化もできるとした。その論拠が顕密の峻別と「法身説法」「声字実相」であった。
「果分可説」に空海密教のすべてが凝縮され、そこから国家鎮護や社会事業や曼荼羅の図像や書法までが起動している。
この仏教思想史の常識をやぶる「果分可説」を可能にしたのは、空海の類まれな言語の異能、とくにサンスクリットと、そのインド言語からえた「真言」(如来語・秘密語)の確信であっただろう。それは他の日本仏教の祖師たちにはない際だった特殊能力である。
空海は言霊の気質をもった上に、言語能力を異能のレベルにまで高める環境に恵まれた。究極、般若三蔵や牟尼室利三蔵から直接生のサンスクリットを学び、マントラ自体に「生み出す力(シャクティ)」を想定するタントリズムの言語論を確信し、「真言」によって諸仏諸菩薩諸天との交感相入を如実に体験し、風の音も鳥の声も谷の響きも皆「法仏」の「コトバ」であることを感得し、「法仏」の「コトバ」はサンスクリットのアルファベットの第一文字「ア」を原初とし、その「ア」字から存在のすべてが声字となって出生するという哲学に達した。
空海はインド・イラニアン世界の汎神論的言語哲学や神秘主義思想の根源的命題に至っていた。空海に異国の言語に対する人並みはずれた感応力とサンスクリットというインド言語の熟達がなかったなら、「法身説法」や「声字実相」といった「果分可説」の領域に踏み込めなかったであろう。
空海はまた、永遠に近い時間をかけて菩薩行(利他行)を積まなければ「真如」「法界」に入れない華厳の「三劫成仏」を、「(身口意の)三密瑜伽」により即時即身に「法仏」と一体になる「即身成仏」によって超えた。
山林や海浜で大自然や虚空蔵菩薩との交感相入を経験した空海にとり、仏教の生命線である「解脱」や「開悟」や「成就」や「成仏」は、永遠に長い時間をかける菩薩行のはての非現実ではなく、この身にこの瞬間実際に顕現する現実でなければならなかった。
空海は、「有教無観」と揶揄される華厳がその瞑想法を天台の『小止観』や頓悟漸修の禅から借りていることや、華厳が密教の「速疾成仏」可能な観法に傾く事情も知っていた。空海には、漸悟にせよ、頓悟にせよ、ただただ坐り、迷妄を断じ、長い時間をかけて、「転迷開悟」「見性悟道」「身心脱落」「不立文字」の境地に到り、そこに身命をあずけようという禅は、老荘の「無為自然」と変わりなく、ひとつまちがうと大乗「空」とは似て非なる「無為」に堕する不成就法だった。
――空海はつづいて鈴木の「〈即非〉の論理」と西田の「絶対矛盾的自己同一」への疑念を、そのヒントとなったという『金剛般若経』をもとに言うのだが、二人は黙ったままである。
◆ところで鈴木さんの「〈即非〉の論理」は『金剛般若経』の説にヒントをえたと聞いていますが、あれは『金剛般若経』のミスリードです。あの『金剛般若経』経説を「〈即非〉の論理」にするのは無理です。
例えば、西田さんが例示する「言フ所ノ一切法ハ、即チ一切法ニ非ラズ。是ノ故ニ一切法ト名ヅク」は、「(如来の)言うところの一切法とは(私たち世間の凡夫が我見で言う)一切法ではない。だから(私たち世間の凡夫にもわかるように、仮に)一切法と(世間の名称を)名づけたのである」という意味ですね。
これを「AはAにあらず、故にAである」と単純化して同語反復の公式にするのは無茶です。経文の言葉じりは似ていますが、意味がちがう。『金剛般若経』的に言うと「(如来の言うところの)Aは(私たち世間の凡夫が言う)Aではない。であるから(私たち世間の凡夫にもわかるように)Aと名づけたのである」となるべきが「AはAではないからAなのだ」という奇妙なパラドックスになってしまう。
言葉がひっくり返るから、いかにもA自体が否定されて即肯定されるように思いがちですが、実際にひっくり返るのはAではなくAを見る人の「心位」です。Aを見る人の「心位」が世間凡夫の「心位」から仏・如来の「心位」に変位するだけです。Aは客体であり変位しません。
そもそも『金剛般若経』自体、そんな高度な「自己否定」の思想をもっているわけではありません。私は『金剛般若経疏』を唐からもち帰り『金剛般若経解題』を書いたくらいですが、『金剛般若経』には般若経典なのに「空」という術語がありません。小乗と大乗の区別も見えません。西田さんの「自己否定」の論理は大乗の「空」ならわかります。禅門の倣いかもしれませんが、『金剛般若経』のかいかぶりです。仏教の基礎である「無我」説にうかつですね。
「唯識無境」でも、「境」(客体)が自ら自己否定するわけではなく、認識する側(主体)が「空」に変位(自己否定)するからそうなるのです。それを「境は境にあらず、故に境である」とは言わないです。
――空海の話は、さらに「空」の核心へとつづく。
◆お二人は「自己否定」とか「無」とか「絶対」という言葉をよく使われます。哲学用語と禅語が共通するのでしょう。ただそれが仏教のいう「空」や「真如」の地平の言い換えだとしたら、あまり感心しません。
「空」は数学の「ゼロ」のことですが、「虚」でも「渾沌」(「カオス」)でも「未分化」でも「無分節」でも「不可分」でも「無」でも「絶対」でも「自己否定」でもありません。「何もない」「空っぽ」「空虚」「虚無」でもない。「一切皆空」、すなわち事物事象のすべてが「もとからそれ自体であるのではない」、「無我」であり「無自性」である、という意味です。大乗が小乗「有部」批判の切り札にした中心的なコンセプトです。
鈴木さんは『大乗起信論』の英訳もされて西田さんといっしょに「如来蔵」の思想を大いに研究されたはずですが、「如来蔵」の「真如」こそが「空」の哲学の真髄です。「如来蔵」はおわかりと思いますが、「無」とか「絶対」とか「自己否定」ではありませんね。
私も『弁顕密二教論』や『十住心論』『秘蔵宝鑰』を書く時に『大乗起信論』の註釈書『釈摩訶衍論』を多用したくらいで、「空」は単なる否定の哲学ではありませんよね。「空」には「法性」「仏性」「真如」という「肯定」の側面がある。それは、西洋哲学でいう「無」とか「絶対」で言い換えはできません。禅の深い境界も「空」のはずですね。鎌倉仏教の人は、「本覚」(現実肯定)を言いながら「虚無」や「狂気」といった現実否定に行きたがります。法滅尽や末法の無常観や絶望が現実逃避の脅迫観念になっているんでしょう。お二人の「無」は禅の要語でもありますが「空」が否定的に過ぎます。「空」は「非有非無」の「中」です。
お二人とも『中論』(龍樹)をやりましたかな。「観四諦品」第二十四の有名な「空・仮・中の三諦」とか「真俗二諦」説それから「不生不滅」の「八不中道」です。
「空」はいきなり鎌倉仏教の「諸行無常」ではなく、世親や龍樹あたりをやっておかないとまちがえます。「空」の「ゼロ」はすべてを許容するおおらかなものです。世親と龍樹は、その「空」の「肯定」の側面と「否定」の側面とで議論を闘わせました。
――空海は、今度は西田への疑念を明かす。
◆話を少し戻しますが、西田さんにおいては、『金剛般若経』の経説とは似て非なる「〈即非〉の論理」が独り歩きをし、客体であるA自体が「即非」つまり自己否定して即自己肯定する「自己否定」の論理になっています。これ主客顛倒です。
青原老師は「山を見るに是れ山、水を見るに是れ水」「山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず」「山を見るに祇だ是れ山、水を見るに祇だ是れ水」と言いましたが、これ、あなたなら「山は山にあらず故に山である、水は水にあらず故に水である」と言うでしょう。
主客が顛倒するあなたの「否定即肯定」の論理では「山」や「水」自体が「即非」して自己肯定することになる。しかし「山は山」「水は水」で変らない。変るのは見る人の「心位」であって、「美しい山」「大きな山」「清らかな水」「おいしい水」から「美しい」「大きな」「清らかな」「おいしい」が脱落するだけです。
あなたは内観によって「私」(主体)が「私」(客体)を見る、そして「私」(主体)が脱落して「私」(客体)だけの境になったかもしれません。でも、それも「私は私にあらず、故に私である」にはならない。「私」(客体)が変位したわけではありませんから。
あなたの言う「〈即非〉の論理」は、「私」(客体)に自己否定と自己肯定とが撞着する「矛盾的自己同一」じゃないとだめなわけです。だからあなたの「矛盾的自己同一」は、「私」(主体)が実存として「自己否定即自己肯定」する生の論理としては成立しません。
「山は山にあらず、故に山である」の「山」と同様に「私は私にあらず、故に私である」の「私」は「ただ」の「私」です。その「ただ」の「私」が見える「私」は、「私は私にあらず」の「私」ではなく、それを「見性」している「私」です。
※仏教では、金剛経にかかる背理を即非の論理を以て表現して居る(鈴木大拙)。所言一切法者即非一切法是故名一切法と云ふ、仏仏にあらず故に仏である、衆生衆生にあらず故に衆生であるのである。
私は此にも大燈国師の億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対といふ語を思ひ起すのである。
我々の自己(個)は、どこまでも自己の底に自己を超えたもの(超個)において自己をもつ。自己否定において自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを見性という。禅宗にて公案というものは、これを会得せしめる手段にほかならぬ。(西田幾多郎『場所的論理と宗教的世界観』)
西田はおそらく公案禅の「見性」(「超個」)において「矛盾的自己同一(即非)」を観じたのであろう。そしてそれを「〈即非〉の論理」の同語反復の公式に重ねて論理化した。その際に、「私は私にあらず、故に私である」の「私」を主客顛倒させた。
「見性」とは思弁工夫ではあるものの、究極「コトバ」が脱落した自心本覚徹見の「観」であるはずで「コトバ」の論理による弁証法ではない。心地よい哲学用語を駆使していかにぎこちなく論理化しても、公案の「見性」を世俗世間の言葉で言い換えることこそ禅門の最も警戒するところであるはずだ。真意をとりちがえるからである。
――西田も鈴木も黙して語らず、空海は二人や京都学派(哲学)の空海黙止に話を移す。
◆華厳をやられたアカデミストとして、お二人が私の華厳と密教に目を向けて大いに勉強してくれたら、お二人とももっとグローバルな思索に至っただろうしこんな不首尾を犯さなくて済んだのにと思います。しかし西田さんのお弟子さんたちまでどうして私を眼中に入れないのでしょうね。
―そこに西田と同じ時代に、同じ京大で東洋史を講じた内藤湖南が南方熊楠とともに現れ、「私は『弘法大師全集』をあれこれと読んでいるが、弘法大師の思想や詩歌文章論は世界レベルだと思う。」と言い、南方熊楠は「私が高野山の土宜法龍管長と啓発し合いながら考えた密教的生命論や言語論や宇宙観を知りませんかな」と言葉を次いだ。
今度は湯川秀樹が現れ、「私でさえ、専門外の空海さんの思想や事蹟に関心をもっている。生物学者のライアル・ワトソンも、物理学者でありシステム論研究者のフリッチョフ・カプラも、『オカルト』を書いた作家コリン・ウィルソンも、皆空海を読み解いて高野山に上っている。そのほかにも、内外の専門外の人たちが空海の密教を研究し解明し、さまざまな視点から再評価している」と言った。二人は黙って聞くだけだった。
※思えば、西田を始祖とする京都学派(哲学)では、西田(や鈴木)の思索を伝統として保守することが何より優先するらしく、西谷啓治がニーチェのニヒリズムを超克するにも上田閑照がエックハルトの神秘主義を考究するにも空海など埒外である。エックハルトの「神のコトバ」は空海の「法身説法」に近似ではないか。上田は、若い頃高野山大学で助教授までした人であり、密教や空海研究のど真ん中に十年近くもいた。同じく京都学派といわれる別系(人文研)には空海へのまなざしがあるというのに、彼らもまた西田や鈴木と同様に空海黙止である。田辺元も和辻哲郎もそうであった。
思想史、哲学史の専門家たちは、当然、過去の思想家の誰彼を取上げて研究する。
それが「学問」というものであるからには、誰もそれに文句を言う人はいない。
しかし、そういう専門家たちとは別に、自ら創造的に思索しようとする思想家が
あって、この人たちも研究者とは全然違う目的のために、過去の偉大な哲学者たちの
著作を読む。現在の思想文化が、過去の思想的遺産の地盤の上にのみ成立している
ものである以上、これもまた当然のことだ。こうして現代の創造的思想家たちも、
己れの哲学的視座の確立のために、あるいは少なくとも、強烈に独創的な思索の
きっかけとなるであろうものを求めて、過去を探る。
(井筒俊彦『意味分節理論と空海』)
彼らには、井筒のように、空海という「過去の哲学者」へのまなざしがない。彼らは思索者であり、禅者であり、そして何より日本を代表するアカデミストである。三木清は、「あなたのご専門は何?」と聞かれ「私は専門の分野をもつほど不勉強ではない」と言ったという。
――二人がなぜ空海や密教に無関心なのか、なお空海は質す。
◆お二人は若い時に雪門玄松さんや今北洪川の禅門に入られたので、どうしても鎌倉仏教が頭の芯にあってそこから仏教というものを見ていますね。鎌倉仏教の人に、他宗を認めず自宗に独善的な傾向があるのに似て、お二人ともアカデミストでありながら他宗には至って無関心なのでしょうか。だから、仏教思想史全般をきちんと学ぶこともなく、日本仏教についても鎌倉以前に無視、という人がいます。最澄さんや私が命がけで唐に渡り、学んできたものを仏教思想史の潮流と日本の事情に合わせて案じた平安仏教の意味がわからなかったですかな。
※北陸加賀という真宗王国出身の西田と鈴木にとり、天皇や朝廷といった国家権力と交わり国家仏教の中枢で呪術密法を行った空海は門徒民衆の立場からして嫌悪の対象だった、という人がいる。
あるいは、永く神仏習合の主役の座にあった真言宗は、明治期の神仏分離令で国家権力によって否定されたも同然で、その宗祖である空海の思想に言及したり思索を及ぼすのは時代の空気からしてはばかられた、という人もいる。
あるいは、西洋の哲学思想史には理性や論理にかなわないものにふれないでおく偏見があり、彼らは密教を前近代として哲学の枠外に片づけ、空海を呪術者やシャーマンとして理性や論理の埒外に置いていた、という人もいる。
※その源泉を印度に発した仏教は、宗教的真理としては、深遠なるものがあるが、出離的たるを免れない。大乗仏教と云へども、真に現実的には至らなかった。日本仏教においては、親鸞聖人の義なきを義とすとか、自然法爾とか云ふ所に、日本精神的に現実即絶対として、絶対の否定即肯定なるものがあると思ふが、従来はそれが積極的に把握されていない。(西田幾多郎『場所的論理と宗教的世界観』)
彼は、親鸞の言う「(他力と申すことは)義なきを義とす」(私たちの計らい(自力)を捨てたところに仏の計らい(如来の誓願・他力)がある)とか、「自然法爾」(如来の誓願・他力のまま、そのままにある)が「否定即肯定」という彼の哲学に沿うもので、自ら深めた華厳の哲理(大乗)は深遠な宗教的真理ではあるが、出離的で、弥陀の本願(救済)に自己のすべてをゆだねる親鸞の「絶対他力」の方が現実的であると言いたいらしい。
はたして大乗仏教は出離的で非現実的か。親鸞はほんとうに現実的か。
龍樹は「空」を「仮」(prajñāpti)と言った。「仮」(prajñāpti)とは、すべての事物・事象が「縁起」(pratītyasamutpāda)の理法によってある「仮名」「仮設」(仮に、その名字で表象されているもの)だからである。「空(性)」の原語であるサンスクリット「śūnya(tā) 」の「それ自体でもとから存在しているのではない」「さまざまな因と縁が集って起っている」の原意をよく表している。この「仮」(prajñāpti)を「仮有」という学者もいるが、「仮」とは「śūnya(tā)」つまり「ゼロ」であって、プラス(「有」)でもマイナス(「無」)でもなく「非有非無」である。「絶対」ではなく「相依相待」の「相対」。その極致が「重々帝網」、ホロニックな相互「相入相即」である。大乗の「空」を「絶対」と言うのは誤解のもとである。
「ゼロ」はプラスとマイナスの中間基点であるが、その「ゼロ」のなかにプラス(「有」)に向うベクトル(否定即肯定)とマイナス(「無」)に向うベクトル(否定即否定)が同時に内在している、と大乗は観た。唯識はプラスに向うベクトルに立ち、中観はマイナスに向うベクトルに立った。「真如」「如来蔵」「菩提心」を経て華厳そして密教はプラスに向うベクトルに立った。プラスに向うベクトルは、現実世界を「仮」(prajñāpti)という「空」「法性」「真如」の法界と認め(「諸法実相」)、「即事而真」「現実即真実」の論理を可能にした。仏教哲学の基本ではこのことを「現実的」という。全然出離的ではない。
逆に、親鸞の「絶対他力」こそ大乗「空」の現実肯定を拒否し、現実逃避的で出離的ではないのか。鎌倉仏教はそもそも「本覚」を口にしながら、大乗「空」とは似て非なる厭世的な現実否定の仏教である。
西田は自己を全否定して弥陀の「絶対」にすがる「他力」の論理を「否定即肯定」だと言いたいようだが、自己が弥陀の「絶対」のなかにかぎりなく「自己否定」をくり返すのは「空」ではなく「虚無」であり、すなわち「否定即否定」つまり「無」の論理である。
自己と弥陀は二律であって「一如」ではない。自己を「否定」しつづけ「他力」(肯定)にすがっても自己は否定されたままの自己で「肯定」されたわけではない。だから「往生」によって自己は「他力」のなかに救われなければならない。だが「往生」は自己と弥陀との相入ではない。「他力」によって自己が摂受されるだけである。「念仏」とはそのためにひたすら「他力」にすがる「自己放棄」の「コトバ」であり、「真言」のような「生仏一如」の「コトバ」ではない。自力を捨てた自棄のコトバに自己肯定の力などありえない。
だから親鸞は、「仏性」も「菩提心」も自力のすべてを捨てた「虚無」のはてで、煩悩の闇 底に沈む「悪人」に往生権を与えた。その「悪人」を、「本覚」の故に、真実の自己だと「逆対応」させたとしても、それはあなたまかせの現実逃避に過ぎず、むしろ老荘の「無為自然」というべきで出離的である。
公案禅は、否定・脱落の思弁工夫のはてで「本覚」として真実の自己(「本性成仏」)を「逆対応」させ自己肯定できるかもしれない。しかし、山本常朝(鍋島藩藩士)をして「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」(『葉隠』)と言わしめ、『葉隠』は三島由紀夫の美学を自決へ引導した。秋月龍珉は「死んで生きるが禅の道」と隠喩する。鎌倉仏教は「虚無」も「狂気」もはらんでいる。実に出離的である。
西田は、鎌倉仏教が釈尊にはじまる仏教思想史の流れを逆流させたことや、大乗「空」を出自とする浄土思想を無常観漂う現実逃避の他力思想にした親鸞にもうかつ過ぎる。
鎌倉仏教が『大方等大集経』月蔵分(『大乗月蔵経』)法滅尽品や最澄撰述(最近は偽作といわれる)の『末法燈明記』の「法滅尽(末法)」のバーチャルな脅迫観念に過剰反応し、都市(京や鎌倉)の武家や民衆の現世不安に乗じ、無常観を媒介に比叡山上の厳格な修行であった三昧行を易行門に変質させたきわめてローカルで厭世的な現実否定の仏教であることくらい知らないはずはなく、彼の言う出離的と現実的とはまるで逆さまである。
※もう一つ。
我々の自己と云ふものも歴史的世界に於いての事物である。・・・而して事物と云ふのも、実は歴史的世界に於いての事物にほかならない。・・・すべてが歴史的事物の論理に含まれなければならない。私は仏教論理には、我々の自己を対象とする論理、心の論理といふ如き萌芽があると思ふのであるが、それは唯体験と云ふ如きもの以上に発展せなかった。それは事物の論理と云ふまでに発展せなかった。(西田幾多郎『日本文化の問題』)
西田は、仏教(例えば華厳)論理は心の論理であり我々の体験を超えず、歴史的事物の論理(パラダイム?)にまでなっていない、つまり仏教論理は歴史的現実を創造する主体にはなっていない、西洋は事物の論理であり東洋は心の論理だからだと言う。
冗談ではない。鎌倉仏教の無常観は、一方では「もののあわれ」「わびさび」「一期一会」「茶の湯」「枯山水」「山水画」などといった虚飾やムダを極限にまでそぎ落とすマイナスベクトルの日本文化を醸成した。一方では「武士道」「切腹」という「自己否定」の倫理を生み、それがやがては東条英機の「生きて虜囚の辱めを受けず」すなわち「即非自決」の論理にもなった。
西田は晩年の太平洋戦争中、ニヒリズムの「狂気」をいやというほど見聞きしただろう。自らも思索した「自己否定」の論理が自分の目の前で「即非即死」の「狂気」に変質していく歴史の事実をどんな気持ちで見たであろうか。
空海は変革期の日本の創造に深くかかわり、生命感にみちた現実肯定の密教論理を歴史的事物として残した。西田は死や絶望や虚無の臭い漂う鎌倉ペシミズム論理にのめり、そこから廃仏毀釈以後の苦難の日本仏教史に何をもたらしただろう。
空海は多元の「総合」あるいは二律の「包摂」というパラダイムを、新しい国家体制にもたらした。西田は天皇絶対の中央集権国家建設途上の近代日本で国家神道や軍国思想にどう「絶対矛盾的自己同一」し、日本の近代化のためにどんなパラダイムをもたらしただろう。
アショーカ王の遺跡は、仏教東漸は、漢訳仏典というデータベースは、聖徳太子の仏教平和主義は、聖武天皇の華厳国家のシステムは、その象徴盧遮那仏は、護国経典とか鎮護国家は、チベットのダライ・ラマ法王は、仏教が生んだ言葉や文字や仏像や音楽や技芸や建築や道徳律といった仏教論理は皆、歴史的な事物の論理ではなかったか。
西田や鈴木そして京都学派(哲学)に象徴されるように、長い日本の思想文化のなかで、空海の世界レベルの密教哲学は真正面から理解されることもなく見過ごされてきた。明治文明開化派の福沢諭吉や中江兆民などは密教を淫祀邪教のたぐいと言って忌み嫌った。
空海は日本で最初の思想の巨人でありながら、わずかに富永仲基・内藤湖南・南方熊楠・幸田露伴・岡倉天心・大村西崖・菊池寛・岡本かの子らの各論アクセスがあるくらいで、およそ真言宗の宗祖や教学として宗のなかに閉鎖されあまり門外へ出なかった。
しかし、骨董の世界における青山二郎や白洲正子のような目利きが空海にもいたもので、ようやく空海の思想レベルに気づく人たちが現れた。
ノーベル賞物理学者の湯川秀樹は、日本の仏教における空海とその密教の意味や空海思想の普遍性をきちんと見抜いていた。そして、アリストテレスやレオナルド・ダ・ヴィンチに劣らない、日本の歴史のなかでも比較する人がいないほど世界的レベルの万能の知性と空海を評した。
西田や田辺の哲学に惹かれ二人の去った後の京大に敢えて学んだ梅原猛は、日本仏教や日本的霊性について高い見識を示し、反近代主義の視座から密教や空海も論じた。彼は、日本人の原点の認識において見解が対立していた司馬遼太郎と親交をつづけたが、司馬の『空海の風景』に手厳しい批評をくだし、司馬はそれに憤激して絶縁したという。
一方、京大ではないところで西田・鈴木の思索を引き継ぎ、遺作『意識の形而上学』において『大乗起信論』の「真如」に哲学上の大いなる包摂力を見た井筒俊彦は、小論ながら「意味分節理論と空海」を書き、そのなかで空海の「法身説法」「果分可説」つまり「法身」大日如来の「コトバ」(真言)から存在が発生する(その象徴がサンスクリットのアルファベットの第一文字であり、発声の最初の「ア」(「阿」字本不生))という言語哲学は、イスラームのファヅル・ッ・ラーの文字神秘主義やユダヤ教のカッパーラー神秘主義とともに「存在はコトバである」という命題において共鳴するもので、東洋哲学全体のなかでは空海の思想は決して孤立した立場ではなく、ネオ・プラトニズム以来〈「コトバ」を超えた体験(「コトバ」の脱落・言語道断)〉を伝統とする西洋神秘主義が躊躇する「コトバ」の深秘学に踏み入っていた、と空海の言語哲学の真価に迫っている。
湯川からぢかに空海理解の啓示を受けた松岡正剛(編集工学研究所長)は、古今東西の宗教・思想・哲学・科学、さらに華厳や日本の古代宗教にまたがる極上の博識によって、空海と空海密教全般の内奥に迫る秀逸かつ明快な空海論を明らかにした(『空海の夢』)。
『空海の夢』は、日本の近現代の思索の多くが空海に無関心だった不明を補って余りある総合的空海探求の書であり、この一冊によってはじめて空海は世界の思想史のなかに位置づけられ、正確かつ明確に正当な評価を与えられた。
松岡は、『空海の夢』を著わす四十才の頃までに、その著『遊学』(Ⅰ・Ⅱ)にとりあげた古今東西の思想・哲学・文学・科学・芸術・芸能を渉猟し、プラトン・スピノザ・ライプニッツ・ホワイトヘッド、柿本人麻呂・道元・折口信夫・井筒俊彦に傾倒しながら、禅や華厳に通じ、おそらくは西田や鈴木や田辺や和辻や西谷や上田らを見据えた上で、空海を正面に捉えたに相違ない。氏は空海を「天空海闊の人」と言った。
時代を同じくするかのように、空海の「知」と「方法」への評価が多方面から集った。
空海のまわりに上山春平や杉浦康平や前田常作や竹内信夫や前田英樹や安藤礼二や夢枕獏や内海清美などが見える。その奥にはシャンカラやラーマーヌジャや、ヘーゲルやベルグソンや、ソシュールやレヴィ・ストロースやフーコーや、カプラやウィルソンやワトソンやケストラーもいる。空海は、1200年の時空を越え世界の思想文化のレベルで蘇えろうとしている。