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空海の仏教総合学 その8

第七章 大乗の論理学を問う

一、覚心不生住心

大乗のレベルの二番目、「出世間心」の第四段階で、具には中国・日本の三論宗、インドでは中観(ちゅうがん)派の中観思想である。

インドの初期大乗仏教を代表する論師の龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)は、釈尊の「此あるが故に彼あり、此滅するが故に彼滅す」という縁起観(「此縁性(しえんしょう)縁起」)を敷衍し、「此」と「彼」を「生」と「滅」に、あるいは「常見」と「断見」に、あるいはまた「同一」と「別異」や、「来る」と「去る」にと、対立的な二項の概念に置き換えた。
 そして、その対立的な二項は「片方がなければ別な片方もない」互いに依存する「相依相待(そうえそうたい)」の関係にあって、片方だけで自ら実在するものではないとした(「相依性(そうえしょう)縁起」)。

龍樹によれば、いかなる存在や事象もこの「相依性縁起」生のものであるから、それ自体で自ら生滅をしない「無自性」であり、対立的な二項に執著せず、二項のどちらでもない真ん中(中・中道)をとることが大乗の「空」の立場である。

唯識は、瞑想中に生じる認識世界での認識するもの(識)と認識されるもの(対象)の二項がともに自ら在る個体的な実在ではなく、「無自性」であって執著するべきではないと主張するが、龍樹は論理学的な方法で対立的な二項のどちらにも執著すべきでないことを明かした。
 これは、小乗の「説一切有部」などが「諸法」を「実有」とし、「此れあるが故に彼あり、此れ滅するが故に彼滅す」の縁起観を実在論で固定化することへの批判であった。

「覚心不生住心(かくしんふしょうじゅうしん)」とは、唯識でも「依他起性」を言うように、いかなる存在や事象も生滅をくり返しているが、それは「此あるが故に彼あり、此滅するが故に彼滅す」で、「此」「彼」の対立的二項の相依相待の関係で生滅していて、存在や事象自らが独自に生滅しているのではない(「本不生」)、そのことを深く覚るのがこの心位である、という意味である。

二、中観思想の要諦
(一)中観派が所依とする三つの論書

中観派が所依とする論書に、中観思想のもとになった龍樹の『中論』(厳密には『根本中頌』)と『十二門論』、そして龍樹の弟子提婆(だいば、デーヴァ)の『百論』がある。これらを三論と言い、中国・日本ではインドの中観派を三論宗と言った。

(二)「八不(はっぷ)中道」

『中論』に説かれる中観思想で、具には「不生不滅」・「不常不断」・「不一不異」・「不来不去(ふこ)」で、いかなる存在や事象も「相依相待」の「相依性縁起」によって生滅するもので、みな「無自性」・「空」であるから、

①「自ら生じるのでもなく(不生)」(生滅の否定)
②「自ら滅するのでもなく(不滅)」(生滅の否定)
③「常住不滅なもの(「我」(アートマン))があるわけでもなく(不常)」(「常見」の否定)
④「滅すれば二度と生じないのでもなく(不断)」(「断見」の否定)
⑤「主体とその主体のはたらきは同一でもなく(不一)」(主体とそのはたらきの否定)
⑥「主体とその主体のはたらきは別異でもなく(不異)」(主体とそのはたらきの否定)
⑦「来るのでもなく(不来)」(運動・移動の否定)
⑧「去るのでもない(不去)」(運動・移動の否定)
のである。

この対立的な二項の両項を否定し真ん中を採る論理は、例えば「浄」と「不浄」、「長」と「短」、「業(ごう、カルマ)」と「作者」(宿業をつくる者)などによってのちに言及される。

(三)「空・仮(げ)・中」

これも『中論』に説かれる中観思想で、すなわち、「八不中道」でもわかるように、いかなる存在や事象は「相依相待」の関係で成り立っていて、どちらかがなければあり得ない「無自性」・「空」であり、存在や事象の名称はただ世俗のコトバで「仮の名(仮名)」・「仮に設定されたもの(「仮設(けせつ)」)」に過ぎず、とらわれるべきではない。
 また、対立的な二項のどちらかに偏すれば、それは「我見」であり、「虚妄(こもう)分別」(二項対立で見ること)であり、「戯論(けろん)」(真実をとらえていない見解)となる。だから、二項のどちらにも偏せず中道・中観をとるべきである。相対関係で成り立っている存在や事象はすべて「空」であり、「仮(設)」であり、「中」である。これを「空・仮・中」と言うのである。

この「空・仮・中」を、「三諦(さんたい)」(三つの真理)と言って特別重視したのが天台であった。
 中国天台の開祖とされる慧文(えもん、慧聞)は、龍樹の「中観」思想を拠り所にして禅を修め、「空・仮・中」を観想して「次第三観」・「隔歴(きゃくりゃく)三諦」と「円融(えんゆう)三諦」・「一心三観(いっしんさんがん)」を説いたが、従来これは「空・仮・中」の誤解だとする見方がある。

すなわち『中論』は、あらゆる存在や事象が「無自性」であることを「空・仮・中」の三の面から一元的に説いたのだが、慧文は「空・仮・中」をそれぞれ「空諦」・「仮諦」・「中諦」と分解して「三諦」とし、「空諦」を観想して「見思惑(けんじわく)」を断じ、「仮諦」を観想して「塵沙惑(じんじゃわく)」を断じ、「空諦」と「仮諦」を対立二項としてその真ん中の「中諦」を観想し、「無明惑(むみょうわく)」を断じ中道を達観するのである(「次第三観」・「隔歴三諦」)。
 それに対し、「三諦」を同時に観想し(「一心三観(いっしんさんがん)」)、それぞれが互いに相入し合い円融であると達観するのを「円融三諦」とした。

(四)真俗「二諦」

これも『中論』に説かれる中観派の代表的思想。
 空海は、『中論』・『十二門論』・『百論』の三論とも、この「二諦」を説くのが「宗」(主旨)だと言っている。

龍樹は、相対的な「空」の論理を徹底した結果、釈尊のサトリであった「四諦」・「八正道」や解脱・涅槃さえも相対化し、その執著を否定しなければならない論理的なジレンマに陥った。そこで、サトリなどの世界を絶対化して「真諦(しんたい)」(「勝義諦(しょうぎたい)」・「第一義諦(だいいちぎたい)」)とし、釈尊の説法のようにコトバによって説かれた真理の世界を「俗諦(ぞくたい)」(「世俗諦(せぞくたい)」)とした。これによって「真諦」はコトバを超えた「言亡慮絶(ごんもうりょぜつ)」の絶対の真理だから二項対立の相対とはならなくなった。

三、縁起説あれこれ

釈尊の「十二因縁」にはじまる縁起説は、実は仏教教理の中心思想の一つで、存在論や認識論や空間論あるいは「法界」論として仏教思想史を縦横に流れ、最終的には空海の「六大縁起」に収まるのであるが、ちなみに主な縁起説についてここでふれておく。

先に述べたように、釈尊は「十二因縁」(「此縁性縁起」)を説いて「無明」~「老死」の苦の連鎖を滅した。

小乗のアビダルマは、釈尊が「十二因縁」に説いた煩悩は、「三世」にわたっての業因によるものとした(「業感(ごうかん)縁起」)。

大乗の中観派は対立的な二項による「相依性縁起」を言い、唯識派はすべての存在や事象は「アーラヤ識」の顕現に過ぎないとした(「阿頼耶識縁起」・「頼耶識縁起」)。

さらに『大乗起信論』では、すべての存在や事象は「真如」(「如来蔵」)が縁に従って顕れたものと言い(「真如縁起」・「如来蔵縁起」)、華厳は「法界」そのものが「真如」であり、すべての存在や事象は互いに相入し合って重々無礙であると言った(「法界縁起」)。

その上に立って、空海は、「法界」は「真如」のような抽象的なものではなく、実在の地・水・火・風・空・識の「六大」から成り、その「六大」が清浄の故に融通し合っていて無礙であり、「法界」即ち大日如来も「六大」所成であり、実在の故に色や形を有していて、「阿字」で言語化もできるとした(「六大縁起」)。

四、中観の三国伝灯

釈尊の「無執著」は、アビダルマで「五蘊無我」となり、初期大乗の『般若経』で「空」になった。「空」は、アビダルマの「諸法」の「実有」説に対抗し、それを否定した。大乗は利他行をもって小乗と次元を異にするが、大乗の大乗たる所以はこの「空」を説くことにある。

この「空」の思想を最初に説いたのが、初期大乗経典の『般若経』である。『般若経』には、『八千頌般若経』・『二万五千頌般若経』・『十万頌般若経』・『大般若経』そして『金剛般若経』・『般若心経』などがあり、この『般若経』の成立の時代を龍樹も共有していた。龍樹が著した大作『大智度論』百巻(=仏教百科事典)は『二万五千頌般若経』の註釈である。龍樹を祖とする中観思想は、初期大乗の『般若経』の影響下で興った。

(一)インドの中観派

龍樹は、『中論』・『十二門論』を著し、釈尊が説いた「十二因縁」の苦の因果律を受け継ぎ、「此あるが故に彼あり、此滅するが故に彼滅す」の「此縁性縁起」をさらに徹底し、「相依相待」の縁起説を展開し、それを中観思想の根拠にした。
 龍樹の弟子提婆は『百論』を著し、他宗の説を百挙げ「空・仮・中」をもってそれらを退けた。
 龍樹・提婆の中観思想は、「説一切有部」などの「実有」説を論破するのに有効であったが、「実有」説の論者からは逆に「無」に偏するニヒリズムであると批判され、それに対する反論や弁明を強いられることになった。

その後約二百年して、仏護(ぶつご、ブッダパーリタ)が出て『中論』の註釈書『根本中論註』を著し、中期中観派の草分けとなった。仏護は自ら他宗と論争せず、他宗から批判されたら自説を論証すればいいという立場(「帰謬論証派」(「プラーサンギカ」))をとった。
 仏護の学友に清弁(しょうべん、バーヴァヴィヴェーカ・バヴヤ)がいて、同じく『中論』の註釈書『般若灯論』や『中観心論』を著し、陳那(ディグナーガ)のような論理で「空」の体得を論証できるとした。
 清弁は当時盛んになってきていた「プラーサンギカ」に対抗し、自説を積極的に論証し論争相手を批判する立場(「自立論証派」(「スヴァータントリカ」))をとった。
 以後、中観派は「プラーサンギカ」と「スヴァータントリカ」に分れて論陣を張る。

「プラーサンギカ」には、まもなくして月称(げっしょう、チャンドラキールティ)が出て『中論』の註釈書『浄明句論』(『プラサンナパダー』)や『入中論』を著した。月称は『プラサンナパダー』で清弁や陳那の論理学を批判し、「空」は論理でなく実践によって体得するものだと説いた。

余談ながら、龍樹の『中論』は「偈頌(げじゅ)」と言われる短文だけで書かれているため、『中論』の理解には註釈が必要だった。清弁の『般若灯論』と月称の『プラサンナパダー』はかっこうの註釈書で、中観思想を学ぶ際には今でもこの二書はかならず参照することになっている。『般若灯論』には漢訳(『般若灯論釈』)とチベット訳があり、『プラサンナパダー』にはサンスクリット本がある。月称のあとには、寂天(じゃくてん、シャーンティデーヴァ)が出て『入菩提行(にゅうぼだいぎょう)論』を残した。

「スヴァータントリカ」には、後期になり智蔵(ジュニャーナガルバ)が出て『二諦分別論』・『瑜伽修習(ゆがしゅうじゅ)道』を著し、後期中観派の草分けとなった。

同じ頃、寂護(じゃくご、シャーンタラクシタ)とその弟子の蓮華戒(れんげかい、カマラシーラ)が出て、それぞれ『中観荘厳(ちゅうがんしょうごん)論』・『真理綱要』や、『中観光明論』・『修習次第』・『入瑜伽修習』を著した。

寂護は、七六一年に、チベット王のチソン・デツェンに招かれてチベットに入国し、サンスクリットを教えると同時に、蓮華生(パドマサンバヴァ)と協力して、七七五年サムイェー寺の建設に着手し、七八七年落慶法要を行った。寂護は蓮華生とともにチベット仏教の開祖にあたる。
 蓮華戒は、師の寂護がチベットに入ったあともナーランダー寺に残ってタントラなどを講じていたが、七八七年に、寂護亡きあと、王命で敦煌からチベットに連れてこられた唐の禅僧の摩訶衍(まかえん、マハヤーナ)と「宗論」(「サムイェー宗論」)を闘わせられることになり、サムイェー寺に招かれた。結果は、摩訶衍の無念無想の禅には「妙観察智」の欠があるとした蓮華戒に軍配が上がった。寂護がはじめてチベットにもたらしたインドの中観思想が中国の禅にまさったのである。

その後、九世紀に、解脱軍(げだつぐん、ヴィムクティセーナ)や獅子賢(ししけん、ハリバドラ)が出て、弥勒の『現観荘厳論』の唯識説を中観の立場からそれぞれ註釈した。この後の中観論師では、チベットの中興の祖といわれるアティーシャを忘れてはならない。

(二)中国の三論宗

龍樹に発する中観思想は、『中論』・『十二門論』・『百論』の三論の漢訳(いずれも鳩摩羅什訳、五世紀の前後)とともに中国に伝わった。
 鳩摩羅什は「四哲」とか「十哲」と言われる弟子を残し、三論・成実の中国における基礎をつくった。その「四哲」のなかに僧肇(そうじょう)がいて、龍樹の「空」を学んで『肇論』を著した。五世紀前後のことである。
 その後、羅什の法系は三論・成実兼学をしながら南北に分れ、南地で成実研究の名をはせた僧導(そうどう)が『二諦論』・『成実論義疏』を著し、僧導からは孫弟子になる智林(ちりん)は『二諦論』・『毘曇雑心記』・『注十二門論』・『注中論』を著した。

僧導と並んで成実学者だった北地の僧嵩(そうこう)やその弟子僧淵(そうえん)も、三論を兼学している。

その後、『成実論』が盛んに研究され論じられる一方で、三論は衰微の道を歩むことになったが、南朝時代の六世紀前半、僧朗(そうろう)が出て、南北二派に分れていた三論宗を統合し、梁の武帝は成実よりも三論を学ぶよう命じた。
 僧朗の弟子に僧詮(そうせん)がいた。僧詮は根拠地の摂山(せつざん)の三論学派を取りまとめ、三論一筋に進んだ。山中の坐禅を宗とし山中師・止観師とも言われた。
 僧詮の門下に「四哲」がいて、そのなかに法朗(ほうろう)がいた。五五八年、陳の武帝の命で興聖寺に住み、約二十年の間に吉蔵などを育てた。
 吉蔵は、安息国(パルティア)系の血を引く安氏の出自で、法朗のもとで三論の教学を学び、隋の時代の六世紀半~七世紀初、『三論玄義』をはじめ『大乗玄論』・『二諦義』・『中観論疏』などを著し、中国三論宗の大成者となった。
 しかし、次の唐の時代には他宗の隆盛に隠れるようになり、三論宗は学問仏教へと変容していった。

(三)日本の三論宗

日本には、推古三十三年(六二五)に、吉蔵の弟子で高句麗の僧慧潅(えかん)が元興寺に三論を伝え、中国の呉から渡来していた福亮(ふくりょう)と智蔵の親子がその慧潅から学び、そのうち智蔵は唐に渡って吉蔵に師事、帰国して法隆寺に三論をもたらした。下って、智蔵の弟子の道慈が八世紀の初め入唐し、十六年後帰国して大安寺に三論を伝えた。
 元興寺の三論はその後智蔵の弟子智光と礼光が法統を受け継ぎ、奈良時代は「南都六宗」の一つとして栄えた。平安期には、のちに醍醐寺の開祖となる聖宝(しょうぼう、理源大師)が、この元興寺流の三論を究め三論宗中興の祖と言われた。
 大安寺流の三論は、道慈に師事した善議(ぜんぎ)が唐に渡り、帰国後大安寺で三論を講じ、法将と呼ばれた。その善議を師としたのが、空海仏道入門の師の勤操である。
 しかし、天長六年(八二九)に空海が大安寺別当になってから真言宗になった。平安期以降宗としては次第に衰退していくが、仏教の基礎学として他宗からもよく学ばれた。

余談ながら、勤操のもとで大安寺所属の沙弥になった空海は、おそらく形式的には三論宗に属していたであろう。ある研究者によると、空海があわただしく官僧になり一年遅れの第十六次遣唐使船に乗れたのは、当時三論宗を志す学僧が少なく、留学生の三論宗枠に欠員があったからで、空海はその三論宗の枠で唐に渡れたのだと言う。
 それはそれとして、空海の時代、日本の仏教は法相宗であろうと三論宗であろうと華厳宗であろうと、元興寺であろうと大安寺であろうと東大寺であろうと、天台宗であろうと真言宗であろうと、比叡山であろうと高野山であろうと、他宗兼学が当たり前であった。学僧はみな、他宗の学僧と交わり他宗の寺をたずね他宗の勉強を怠らなかった。

五、中観の「空」と慈悲・利他

およそ中観派を通観してわかるように、中観思想とその論師たちは「空」を論理化するのに一生懸命だった。そして、しばしば「「空」のまた「空」」と言われるように、「空」に固執するあまり「空」が「空」を呼ぶ「否定即否定」のジレンマに陥った。そのため、大乗が大乗たる所以の一つだった「慈悲」・「利他」がどこかにいってしまった。

大乗は、菩薩が「空」の理を現実に「自利」と「利他」で実践することが要請される。
 「自利」行は、布施・持戒・精進・忍辱・禅定・般若の「六波羅蜜」を行ずることであり、「利他」は衆生済度のために慈悲に基づく行いをすることである。慈悲とは「空」の心情的な発露である。

然るに、中観派の論師は、アビダルマの「実有」説の論破に夢中で、菩薩も大慈悲も利他も説くところとしなかった。『中論』が論じたのは、因縁であり、去来であり、六根・六境であり、五蘊であり、六大であり、貪りであり、生・住・滅の「三相」であり、行為であり、過去存在であり、火と薪の問題であり、始めと終りの問題であり、苦であり、形あるものであり、集合であり、自性であり、解脱と輪廻であり、業と果報であり、アートマンであり、時間であり、因と果であり、生滅であり、如来であり、顛倒であり、四諦であり、涅槃であり、十二因縁であり、常住であった。

結果として、中観思想はたしかに学派を形成し、学問仏教としては仏教史に確固たる地位を築いたが、インドからチベットに伝えられてその命脈を延長した以外は、中国でも日本でも、唯識・法相ほどには支持を得られなかった。その原因は、くり返しになるが、あまりに「空」に偏したことであろう。

しかし、それでも空海は、『御遺告』で、わが亡きあと、三論と法相を密教とともに兼学することを遺言している。別当となった大安寺の伝統である三論を絶やしたくなかったこともあろう。仏道入門の師で若い頃から数々の指南を受けてきた勤操への恩義もあろう。だが、空海の遺言の真の意味は、「空・仮・中」をわかっておかなければ大乗の言う「空」がわからず、唯識の理解にも支障をきたす。唯識の「三界唯心」がわからなければ華厳とてわからない。華厳がわからなければ、わが密教もわからない。みな思想史としてつながっている。だから、三論はおろそかにしてはいけない。そういうことだったであろう。

六、「空」を引き算の文化にした日本の精神性

天台の「止観」から出た禅は、鎌倉時代に栄西の臨済宗・道元の曹洞宗となって大きく発展した。とくに臨済禅は、禅宗寺院に禅の境地を具象化した禅宗庭園(枯山水・池泉式など)を造り、茶の湯や茶室・茶庭を生み出し、水墨による山水画や禅画や書にも道を拓いた。

ムダを省き、虚飾を落し、モノコトの実相だけを残す引き算の文化。引いて引いてけずってけずって「唯、足ることを、知る」少欲知足の文化。すなわち、大乗の「空」の境地を庭園の美に移し、茶の湯の「和敬清寂」・「一期一会」の心に変換し、墨液の濃淡だけによるモノクロの妙に変えた。

禅宗庭園に足跡を残したのは、
 大分県九重町の龍門寺の龍門瀑や甲府市の東光寺に池泉庭園をつくった蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉建長寺の開祖)であり、
 京都の天龍寺・西芳寺や、多治見市の永保寺や、鎌倉市の瑞泉寺や、甲州市の恵林寺などの庭園を設計した夢窓疎石(むそうそせき)であり、
 京都東福寺の芬陀院(ふんだいん)や、山口市の常栄寺や、益田市の萬福寺・医光寺に雪舟庭をつくった雪舟等楊(せっしゅうとうよう、水墨画の雪舟)であり、
 哲学者西田幾多郎が眠る京都妙心寺の霊雲院に枯山水を造り、龍安寺石庭も手がけたと言われる子建西堂(しけんせいどう)であり、
 そして京都大徳寺孤篷庵(こほうあん)や、江戸幕府の政僧といわれた崇伝(すうでん)が住した南禅寺の金地院(こんちいん)や、浜松市の井伊家菩提寺・龍譚寺(りゅうたんじ)に池泉庭を造り、奉行として桂離宮や仙洞御所や二条城や名古屋城等の修築にあたった小堀遠州であり、
 さらには時代が進んで京都の東福寺と塔頭の龍吟庵(りゅうぎんあん)や光明院、あるいは大徳寺の瑞峯院や松尾大社、高野山の福智院、さぬき市の四国霊場志度寺(しどじ)、太宰府市の光明禅寺、長野県木曽町の木曽義仲の菩提寺興禅寺、泉南市の林昌寺、周南市の漢陽寺などに作庭した重森三玲(しげもりみれい)である。

この具象禅(ぐしょうぜん)とも言うべき庭園文化は、自然の美や四季の移り変りを和歌に詠んできた日本人の自然好みの精神風土に合致したのであろう、庭を造ることは禅寺に限らず、離宮や神社や城や武家屋敷のほか資産家の別荘や一般住宅にも及んで、住環境の上で確固たる地位を築いた。

茶の湯には、大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん、一休和尚で有名)に師事した村田珠光(むらたじゅこう)がいて「わび茶」の源流となり、さらには堺の豪商で歌人の武野紹鷗(たけのじょうおう)が出て、京都の町衆の藤田宗理・十四屋宗陳(もづやそうちん)・十四屋宗悟(もづやそうご)に習い、のちに千利休をして「術は紹鷗」と言わしめた。
 紹鷗の門弟である千利休は、人も知る「わび茶」を大成し、今も「茶道」が日本を代表する文化として光彩を放っている基礎を築いた。織田信長亡きあと、天下人になった太閤秀吉にも「茶頭(さどう)」として仕えたが、派手好みの秀吉に利休の「わび茶」はわからなかった。
 もともとは堺の商家の出で、紹鷗について茶を習い、紹鷗と同じく、堺の南宋寺に参禅して臨済禅を学び、南宋寺の本山である京都大徳寺とも誼(よしみ)を通じた。
 簡素にして簡略、必要最低限のしつらえに徹し、何物もなくただ一服の茶に「一期一会」の万感をこめ、モノの価値でなく無言のうちの以心伝心に、茶の妙覚を見出した。一服の茶以外に何もないもてなしの申し訳なさ、モノのなさを客に侘びる「茶禅」である。

利休は秀吉以外の戦国武将とも親しく交わり、蒲生氏郷(がもううじさと、キリシタン大名)・細川忠興(ほそかわただおき、夫人がキリシタン)・古田織部(ふるたおりべ、織部焼で有名)・芝山監物(しばやまけんもつ)・瀬田掃部(せたかもん)・高山右近(たかやまうこん、キリシタン大名)・牧村兵部(まきむらひょうぶ、キリシタン大名)の「十哲」のほかにも、荒木村重(あらきむらしげ、信長に謀反で有名)・織田有楽斎(おだうらくさい、信長の弟)・金森長近(かなもりながちか、初代高山藩主)や前田利長(まえだとしなが、利家の長男、初代加賀藩主)らがいる。
 利休の「わび茶」はその後大名の間で広がり、片桐石州・小堀遠州・織田有楽斎など流派をなし、「大名茶」などと言われた。明治になって、岡倉天心が欧米に「茶道」を紹介したことは日本文化の国際化にとって大きな貢献となった。

中国の水墨画を日本にもたらしたのは、先に述べた蘭渓道隆や無学祖元(むがくそげん)といった渡来僧であった。禅僧の習いとして達磨大師をはじめ祖師の像や、仏教・道教の人物や、あるいは春の蘭・夏の竹・秋の菊・冬の梅といった花鳥草木を画題とした。
 初期(十四世紀)の水墨画には、可翁(かおう、寒山図、蜆子和尚図)や黙庵(もくあん、布袋図、白衣観音図)や鉄舟徳済(てっしゅうとくさい、芦雁図、蘭竹図)が出て日本の水墨画に端緒をつけた。
 十五世紀には山水画が本格化し、京都相国寺から如拙(じょせつ、瓢鮎図)・周文(水色巒光図、竹斎読書図)・宗堪(そうたん、芦雁図)・雪舟(秋冬山水図、山水図、天橋立図)が輩出し、東福寺からは明兆(みんちょう)が出た。
 この時代、中国南宋時代の水墨画、とくに夏珪(かけい)・馬遠(ばえん)・牧谿(もっけい)・梁楷(りょうかい)・玉澗(ぎょくかん)のものが好まれた。

また、「阿弥派(あみは)」と言われる「同朋衆(どうぼうしゅう、足利将軍の近くで雑務・芸能に従事する一遍の時宗系僧、阿弥は阿弥陀仏の阿弥)」の流派も出た。能阿弥(のうあみ)と芸阿弥(げいあみ)と相阿弥(そうあみ)の親子三代は、連歌をよくし、表具を営み、書画の鑑定を行い、自らも山水画を書いた。
 やがて、狩野派の絵師たちが長く画壇を代表する時代が続くが、彼らは山水画に彩色を加え色彩画とした。

然るに、引き算の精神文化はまた、宮本武蔵の「剣禅一如」や、山本常朝(鍋島藩藩士)の「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」(『葉隠』)に発展した。
 しかし、武士道の切腹すなわち「即非」の自決は、太平洋戦争中、東条英機の「生きて虜囚の辱めを受けず」になり、あまた将兵が敗戦濃厚の戦地で自決し、特攻隊になり、人間魚雷になり、沖縄では島民の集団自決となり、武士の美学は集団ニヒリズムになってしまった。

臨済禅を西洋哲学にした西田幾多郎は、晩年の太平洋戦争のさなか、ニヒリズムの「狂気」をいやというほど見聞きしただろう。自らも思索した「自己否定」の論理が、自分の目の前で「即非自決」の「狂気」に変質していく歴史の現実をどんな気持ちで見たであろうか。
 戦後、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」は、三島由紀夫の美学を市ヶ谷自衛隊本部での自決へと引導し、秋月龍珉(あきづきりょうみん)は「死んで生きるが禅の道」と隠喩する。

七、禅を知って禅をとらず

室町時代以降、日本の諸文化に大きな貢献をした禅であるが、空海は唐における禅の隆盛をよくよく知っていながら禅に見向きもしなかった。

禅は、六世紀の前半インド僧の菩提達磨(ぼだいだるま、ボーディダルマ)によって中国に伝えられ、その弟子慧可(えか)が発展させ、空海が長安にいた頃は非常にさかんで、禅僧も禅寺も多く、南宗禅系の百丈懐海(ひゃくじょうえかい、馬祖禅の馬祖道一の弟子)らの時代だった。長安に滞在中、あるいは長安からの帰途、洛陽でも揚州でも潤州でも常州でも、禅僧や禅寺と親しく交わり、流行の南宗系の禅もよく知っていたはずである。
 然るに空海は、禅と同じく中国で体系化された法相や三論や天台や華厳を「十住心」に入れながら、禅を入れなかった。

なぜか。
 まず空海は、サトリをめざす瞑想修行、すなわち観法を、空海は「止観」を超えて「三密行」による「速疾成仏」で決着していたから、サトリに至るのに時間がかかる禅には感心しなかったであろう。
 密教の「速疾成仏」を知った空海には、漸悟であろうが頓悟であろうが、ただ坐りつづけ、煩悩を断じ、深層心理を止め、長い時間をかけ、「止観」の極に到ろうという禅の成就法は、空海にとっては非現実の不成就法に等しかった。
 空海にとってサトリとは、この身に、現実に、仏との「一体無二」観が現前することであり、しかも無限に近い修行の果てではなく、今、発心したこの瞬間に、「速疾」に、「仏」と一体に「成る」、ことでなくてはならなかった。「即身成仏」がそれであり、その術を師恵果和尚から教理とともに伝えられ、しかも真言伝持の第八祖になった。

空海は長安からの帰途、洛陽・揚州・潤州を経て常州の天寧(禅)寺に立ち寄った。少しの間滞在したであろう。天寧(禅)寺の門前には古運河が通じていて、空海らは労せずして門前の埠頭から上陸できたと思われる。天寧(禅)寺には、そののち「空海大師留学処」の看板が掲げられたという。
 この寺は唐代(六四九年)の創建で当初は広福寺と称された。空海が参拝した頃はその名であっただろう。大変規模の大きな禅院であったらしく、清代に建てられたという今の大雄宝殿の威容がそれを彷彿とさせる。

揚州や潤州や常州で禅寺を拝しながら、空海には自己肯定的な確信が起きていたであろう。それは、唐土に学び禅が唐代仏教のなかに大きな位置を占めていることを目の当りにしていながら、禅にはまったく目もくれない自分に対し「それでいい、まちがいはない」と充分に納得している感慨であった。

言うまでもなく空海は中国の歴史・思想・宗教・文芸の全般に通じていた。唐語も、長安の周辺に通じる程度に話せた。仏教に関しても中国で確立した三論・法相・華厳をつとに学び、実際に唐土にきて現に華厳宗第四祖澄観の「四種法界」説を聞き、さらに華厳が禅と融合しながら唐土で大きな広がりを見せているのも見た。それでも空海は、中国で大成した禅を知っていて禅をとらなかった。

山林や海浜の修行で虚空蔵菩薩との合一体験をもつ空海にとり、仏教の生命線である解脱や開悟というものは、無限に近い時間をかけた修行の果ての非現実ではなく、この生身に、この瞬間に、即時即身に、顕現する現実でなければならなかった。空海は、サトリの成就の条件に「速さ」と「身体ごと」をえらんだのである。

なぜかについて、もう一つ。
 禅のサトリとは、「空」を観念で理解するのではなく腑に落とすことであり、あらゆる事物が「相即相入」して障礙がない華厳の「法界縁起」を観じて「空」に入ることであり、鏡のような静かな海面にすべての存在や事象が映し出され、海水のなかではすべてのものが溶け合って円融であるように、「法界」もその通りだと観じること(「海印三昧」)である。

禅は瞑想で「空」の肯定的な側面である「真如」・「法性」を華厳思想で知りながら、あるいは「本来成仏」を言ってわが身に「仏性」を認めながら、実際はその本来成仏している自己を瞑想や修行生活を通じて否定する。
 空海の密教は、禅と同じく華厳の「真如」・「法性」を土台にして、本有の「菩提心」(「仏性」「仏種」)という「空」の肯定的なベクトルをさらに発展させた。空海に言わせれば、禅は華厳をとりながら華厳らしい肯定的な「空」を損なっているのである。

なぜかについて、さらに一つ。
 禅は個人が覚って救われればいい。しかし空海の密教は、この国全体が大日如来の仏国土であることによって、国王(天皇)をはじめ、そこに生きるありとあらゆる「衆生」が救われる鎮護国家にまで及ぶ。禅に利他がないのは声聞・縁覚と同じ小乗で大乗の空ではない。

禅は「不立文字」の故、法を説かなくていい。「果分」(サトリの境地、「仏智」)はコトバで言えないという。空海は「声字」は「実相」であり、「果分」は可説である。サトリの境地は、コトバで説くことができるとした。
 空海は、日本初の庶民のための私立学校「綜芸種智院」を開設し、故郷讃岐の満濃池を修築し、大和の益田池も修築し、大輪田の泊(おおわだのとまり、今の神戸港)の修築も行った。空海にとってコトバで説くことができることと社会事業は一体であり、とりもなおさずそれは如来の大悲の実践である。「果分」を不可説とし如来の大悲には遠い禅に、それは不可能だと、空海は喝破していたのにちがいない。

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