第六章 大乗の深層心理学を問う
一、他縁大乗住心
この「他縁大乗住心(たえんだいじょうじゅうしん)」から「大乗」のレベルである。
「出世間心」の第三段階で、具には、中国・日本の法相宗(ほっそうしゅう)、インドでは唯識(ゆいしき)派、あるいは瑜伽行(ゆがぎょう)派の思想である。
空海は、この住心で大乗の菩薩の境界を説く。
菩薩とは、おおよそ小乗の「大衆部」などから出た発想の発展で、一度はサトリの智慧に至ったのであるが、衆生済度の慈悲心から「仏」・「出世間」の世界に安住せず、「凡夫」・「世間」の世界に戻って衆生救済の利他行に住する仏道修行者を言う。
菩薩には、サトリを得たという意味で「ボーディ」(「菩提」)の一面と、「凡夫」・「世間」の世界に在るという意味で「サットヴァ」(「薩埵(さった)」・「有情(うじょう)」)の一面があり、その二面を同時可能にした(「ボーディサットヴァ」)のである。すなわち、「仏」・「出世間」と「凡夫」・「世間」の二世界に住することができ、その二世界のブリッジの役でもある。
この菩薩という絶妙の媒介者を生み出したことが大乗の大乗たるところで、これで仏教は、苦からの解脱を自己目的とした小乗から利他救済の大乗へと大転換する。
ちなみに、同じ「出世間心」ながら、小乗と大乗のちがいとは何か。
簡略に言えば、
アビダルマの論師は、我執・我欲を断つための智慧として、この「私」(=人)というものは「五蘊」の集合体に過ぎず、「私」という一個の個体的な実在ではない(=無我)としたが、「五蘊」を含む「諸法」(=法)は個々に個体的な実在である(=我)と主張した。
これに対して唯識の論師は、「諸法」(=法)もまた個体的な実在ではなく(=無我)、単に人間の意識下にある深層意識の「アーラヤ識」が心の表層に顕れたものに過ぎず、「諸法」は「幻」や「陽炎(かげろう)」のようなものだとする。
すなわち、声聞・縁覚は自分自身のサトリを第一目的とし(自利)、衆生(具には在家信者)の救済にも目は向けるが、念じるだけで具体的な利他行は行わない。これに対して菩薩は、慈悲の心を発起し衆生済度の利他行も実践する(利他)。
この住心のタイトルである「他縁大乗」とは、「他縁」がすべての他者を縁とすること、すなわち他者に対して誰にでも慈悲の心が向けられること。それがすなわちどこにでも動いていける大きな乗物である、というのが「他縁大乗」である。
二、唯識思想の要諦
(一)「三界唯心(さんがいゆいしん)」唯識では、アビダルマと同じように、瞑想修行中に行者が意識や観想の対象とする「諸法」を分析し、それらは深層意識の「アーラヤ識」(「阿頼耶識(あらやしき)」)の種子から生じ、「マナ識(末那識(まなしき))」で自我意識に染められ、表層の意識では我執・我欲の対象として認識されるが、実は実体のない「幻」や「陽炎」のようなもので、それ自体で在る個体的な実在ではない。「三界」の存在・事象はすべてこの「アーラヤ識」の表象・顕現に過ぎないと言う(「三界唯心」)。
この唯識思想を主張した論師は、あの『阿毘達磨俱舎論』を著した世親(ヴァスバンドゥ)であり、その兄の無著(むじゃく、アサンガ)である。世親は、「三世実有(さんぜじつう)」(過去・現在・未来のすべての存在・事象は実在である)を説く小乗の「説一切有部」にいたが、『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』で「人無我・法無我」の大乗に転じた。
(二)「止」「観」唯識の瞑想修行、すなわち瑜伽行とは、インド仏教の伝統的な瞑想法である「止(し)」と「観(かん)」の修習、すなわち「止観(しかん)」行である。のちに天台山で学んだ最澄が、天台の「止観」行を比叡山で教えたが、それ以前から「止観」行は仏教の基本にあった。もともと「上座部」の瞑想法である。
「止」(=シャマタ、奢摩他)と「観」(=ヴィパシュヤナー、毘鉢舎那)とは別々の行法で、「止」を先に「観」がそれに続けて行われ、ある段階で双方が同時に修習される(「双運(そううん)」)。また逆に、「観」が先で「止」があとになる方法もある。
「止」は、呼吸(入息・出息)をゆっくりと調え、次第に微弱にしながら、心を静かに落ち着かせ、心のさまざまなはたらきを止め、一つのイメージや象徴物や観念に一点集中しそれと一体になること。イメージや象徴物や観念のない「無相」になる場合もあるし、心自体の意識知覚がない「無相」の場合もある。
このイメージや象徴物や観念について「上座部」は四十種(「四十業処(しじゅうごうしょ)」)を説いている。このどれか一つに集中するのである。
参考までにそれを紹介すると、
この「止」によってイメージや象徴物や観念に集中すると、外界からの刺激から離れ五感のはたらきがない内部集中の意識の状態になる。この段階を「近分定(こんぶんじょう、近行定)」と言う。
さらに集中が深まるとイメージや象徴物や観念はハッキリとしたものになり、これを「似相(じそう)」と言う。この一体化した状態が安定して続く状態を「安止定(あんしじょう)」と言い、「止」が達成された段階である。
この「安止定」に四段階(「四禅」)があり、「はじめに」に前述したように、「初禅」~「第四禅」である。
改めてまた書き置くと、
「四十業処」のどれを対象としてどの「四禅」を行うか、それはイメージや象徴物や観念などの対象による。例えば、「四界差別」は「近分定」で行うものであり、「四無量心」は「第四禅」で、「安般」や「十遍」は「初禅」から「第四禅」で行うものである。「大乗」では「空」や仏尊を対象にすることが多い。
「止」は「第四禅」まで行い、次に「観」に進むのであるが、「近分定」レベルの心の集中と浄化がないと「観」に入れないとされている。
「観」は、「止」で静かに集中した状態になった心で、「私」なら「私」、「諸法」なら「諸法」をよく観じ、みな個体的な実在ではない(無我=無自性=「空」)ことを達観すること。
「観」には、五段階がある。
「上座部」の修行段階で言うと、「七清浄(しちしょうじょう)」のうちの、最初の「戒清浄(かいしょうじょう)」(「戒」の段階)と「心清浄(しんしょうじょう)」(「定」の段階で「止」にあたる)の次に修する。
「名色」の各個別の形象を識別する「知遍知(ちへんち)」の段階。「分別智(ふんべつち)とも言う。「三界」で言えば、「色界」の善心(「初禅」)で行ずる。「四諦」から言えば「苦諦」の達観にあたる。
十六の疑義とは、
「私は存在したか」・「私は存在しなかったか」・「私は何者だったか」・「どのように私は存在したか」・「私は何者として生れ、あったか」、という過去の疑問。
「私は存在するか」・「私は存在しないか」・「私は何者になるか」・「どのように私は存在するか」・「私は何者として生れ、これからあるか」、という未来の疑問。
「私は存在しているか」・「私は存在していないか」・「私は何者か」・「どのように私は存在しているか」・「私は何者として生れ、今あるか」・「私はどこから来てどこに行くのか」、という現在の疑問である。
具体的には、生生流転の因である「無明」・「愛」・「取」・「業」と、縁である「食」を観察する。この段階の智慧を「法住智(ほうじゅうち)」とか「如実智(にょじつち)」という。「四諦」から言えば「集諦」の達観に相当する。
「聚思惟(じゅしい)」と「生滅随観智(しょうめつずいかんち)」とを修習する。「観」の修習中に誤解をもたらす光明・智慧・喜悦・軽安・安楽・勝解・策励・現起・捨・欲念といった「十観随染(じゅうかんずいぜん、「観随煩悩」)」を除く。「四諦」から言えば「道諦」の達観にあたる。
「聚思惟」は、「名色」・「五蘊」・「十二処」・「十二縁起」・「十八界」といったカテゴリーを観察し、そのなかの一つ一つの事項についてさまざまな観点から「無常」・「苦」・「無我」(「三相(さんそう)」)と観ずる修習。
例えば、「五蘊」を、「過去」「現在」「未来」・「内」「外」・「粗大」「微細」・「下劣」「精妙」・「遠」「近」の十一観点から「無常」・「苦」・「無我」を観ずる。ほかに四十とか九つの観点から観ずることもある。
「生滅随観智」は、「諸法」の「生」と「滅」を観察する。
例えば「五蘊」なら、まず「五蘊」の「生」と「滅」を観察する。
次いで、「五蘊」を五十の観点から観察する。「五蘊」を、「色」・「受」・「想」・「行」・「識」のそれぞれについて「無明」・「渇愛」・「行為」・「食」・「正起」の五つの観点で「生」と「滅」を観ずるのである。次いで、「五蘊」を「縁」・「瞬間」・「四諦」・「縁起」の四つ観点から観察する。この「生滅随観智」は、次の段階でも行われる。
「生滅随観智(しょうめつずいかんち)」・「壊滅随観智(かいめつずいかんち)」・「怖畏智(ふいち)」・「過患随観智(かげんずいかんち)」・「厭離随観智(おんりずいかんち)」・「脱欲智(だつよくち)」・「省察随観智(しょうさつずいかんち)」・「行捨智(ぎょうしゃち)」の「八智(はっち)」によって頂点に達した観察と、総合的な「諦随順智(たいずいじゅんち)」と、次なる段階への「種姓智(しゅしょうち)」の修習を行う。これも「道諦」の達観にあたる。
この段階になると、「止」と「観」が同時に矛盾なく一体化してはたらいている(「双運」)段階。
また、「須陀洹智」(預流果)・「斯陀含智」(一来果)・「阿那含智」(不還果)・「阿羅漢」(無学果)の「四道智(しどうち)」を得る。「滅諦」の達観に相当する。
これら「止」「観」はやがて、密教の「観法」や「念誦法」にも発展する。「阿字観」・「月輪観」は、大日如来を表す「阿字」や衆生の「菩提心」を表す「月輪」に心を集中し(「止」)、それと一体になっている境地を観ずる(「観」)。
(三)第七識「マナ識」と第八識「アーラヤ識」この第七識「マナ識」(末那識(まなしき))と第八識「アーラヤ識」(阿頼耶識)の想定こそが、唯識思想の根幹である。
唯識の瑜伽行者は、「止観」行のなかで、眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)で受けた五感を総合的に知覚する意(意識、第六識)のはたらきの奥に、無意識的に有している深層意識が潜んでいることに気づき、「マナ識」と「アーラヤ識」という二つの潜在意識を想定した。
おそらく唯識の瑜伽行者は、「止観」行の間に、心中に浮かんでは消え生じては滅する過去の経験や出会った人や知った知識や言った言葉や覚えた感情の断片や、あるいはまったく覚えのない場所や光景や不安や恐怖や不条理までいったいこの身体のどこにどうしてしまってあったのか、どうしてもそれを探しあてたいと思ったにちがいない。第六識といわれる表層の意識ではなく、意識下にあって過去のメモリー、それも人の生命の起源にまでさかのぼる人間の宿業の残象(「習気(じっけ)」)も含んだメモリー装置。今でいうハードディスクである。
「マナ識」は、いわば潜在的自我意識。我執・我欲の本源。自己と他者を区別し、わが身と「諸法」に執著し、それを表層意識に顕す。生命の起源よりこの方、眠っている最中も何かに気をとられている時も、絶え間なく人間の意識下で動いている深層意識である。
「アーラヤ識」は、いわばハードディスクとも言うべき深層意識。生命の起源よりこの方の人間の宿業や行為とその結果を全て記憶し、現世におけるその人の行為とその結果をも記憶し、それを種子として保存し、必要に応じて溜め込んだ記憶を表層の意識に読み出す根源的な深層意識。「蔵識(ぞうしき)」ともいう。
「アーラヤ識」は、認識の対象の姿・かたちをもって表層の意識に顕れる。認識の対象となる「諸法」は、すべてこの「アーラヤ識」から読み出された情報に過ぎず、個体的な実在ではない。
このことを、『般若経』(『二万五千頌(にまんごせんじゅ)般若経』(鳩摩羅什訳)などが「幻」・「陽炎」・「水中月」・「虚空」・「響」・「乾闥婆城(げんだつばじょう、ガンダルヴァ城=蜃気楼)」・「夢」・「影」・「鏡中像」・「化」の「十喩(じゅうゆ)」として説く。『大日経』住心品では、「幻」・「陽炎」・「夢」・「影」・「乾闥婆城」・「響」・「水中月」・「浮泡(ふほう)」・「虚空華(こくうげ)」・「旋火輪(せんかりん)」の「十縁生句(じゅうえんしょうく)」が説かれる。
インドの唯識派(瑜伽行派)では、この「アーラヤ識」について、「アーラヤ識」そのものは個体的な実在(「有」)か、それとも実体のない「空」か、という見解の相違が起り、「アーラヤ識」だけは仮の実在(「仮有(けう)」)だとする「有相(うそう)唯識」派と、「アーラヤ識」であっても「空」だとする「無相(むそう)唯識」派に分れて論争が行われた(後述)。
(四)「三性(さんしょう)」と「三無性(さんむしょう)」唯識の瑜伽行者が考えた、瑜伽行中の認識世界における「諸法」の実相である。
「三性」は(「一切法相品」第四)、
三、瑜伽行者の修行段階
唯識では、「資糧位」・「加行位」・「通達位」・「修習位」・「究竟位」の「五位」を説く。瑜伽行者の「止観」行の深まりのプロセスである。
行者が、「菩提心」を発起し、瑜伽行によって「三界唯心」・「唯識無境」の真理を覚ろうと覚悟する、「止観」行に入る前の準備段階。空海は、菩薩の「五十二階位」のうち、「十住」・「十行」・「十廻向」(「三賢位」・「内凡」)をここに挙げる。
具には、
①「発心住」・②「治地住」・③「修行住」・④「生貴(しょうき)住」・⑤「具足方便(ぐそくほうべん)住」・⑥「正心住」・⑦「不退住」・⑧「童真住」・⑨「法王子(ほうおうじ)住」・⑩「潅頂住」。
「十力」とは、如来だけがもっている智慧の力。
「処非処(しょひしょ)智力」:道理か道理でないかを見極める力。
「業異熟(ごういじゅく)智力」:過去の善業楽果・悪業苦果の因果関係を知る力。
「静慮解脱等持等至(じょうりょげだつとうじとうし)智力」:「四静慮」(「四禅」)・「八解脱」・「三三昧」・「八等至」を知る力。
「根上下(こんじょうげ)智力」:「衆生」の根機の優劣を知る力。
「種種勝解(しゅじゅしょうげ)智力」:「衆生」の理解力を知る力。
「種種界(しゅじゅかい)智力」:「衆生」の境界・本性を知る力。
「遍趣行(へんしゅぎょう)智力」:「衆生」が「六趣」に堕する原因の行為を知る力。
「宿住随念(しゅくじゅうずいねん)智力」:自分と他者の過去世を思い浮かべる力。
「死生(ししょう)智力」:「衆生」が夕べに死に朝に生れることを知る力。
「漏尽(ろじん)智力」:煩悩のない涅槃と涅槃に至る方法を知る力。
「十法」とは、
「勤供養仏」:仏の供養に勤める。
「楽住生死」:生死の世界で楽に住する。
「主導世令除悪業」:世間の「衆生」を導いて悪業を除く。
「以勝妙法常行教誨」:勝れた理法で常に教え諭す。
「歎無上法」:無上の理法を讃える。
「学仏功徳」:仏の功徳を学ぶ。
「生諸仏前恒蒙摂受方便」:「衆生」が諸仏の前に生じ、常に受け入れられ利他を蒙る。
「演説寂静三昧」:寂静な三昧を説く。
「讃嘆生死輪廻」:生死をくり返す輪廻を讃える。
「為苦衆生作帰依処」:苦に悩む「衆生」の帰依するところとなる。
利他行とは、衆生に「十種心」を起すこと。「利益心」・「大悲心」・「安楽心」・「安住心」・「憐愍心」・「(衆生)摂受心」・「(衆生)守護心」・「同己心」(「我所心」)・「師心」・「導師心」(「如来心」)である。
自利行とは、勤めて「十法」(前述)を学ぶこと。
煩悩による行を治すことは、「一切法無常」・「一切法苦」・「一切法空」・「一切法無我」・「一切法不自在」・「一切法不可楽」・「一切法無集散」・「一切法無堅固」・「一切法虚妄(こもう)」・「一切法無精勤(むしょうごん)和合堅固」を観ずること。
小乗の行を治すこととは、勤めて「十法」(先述)を学ぶこと。
「十種法」とは、「信仏不壊(ふえ)」・「究竟(くぎょう)於法」・「寂然定意(じょうい)」・「分別衆生」・「分別仏刹(ぶっせつ、仏国土)」・「分別世界」・「分別諸業」・「分別果報」・「分別生死」・「分別涅槃」。
利他行とは、「救護一切衆生」・「饒益一切衆生」・「安楽一切衆生」・「哀愍一切衆生」・「成就一切衆生」・「令一切衆生捨離諸難」・「抜出一切衆生生死苦悩」・「令一切衆生歓喜快楽」・「令一切衆生調伏」・「令一切衆生悉得涅槃」の「十心」。
自利行は、勤めて「十法」(前述)を学ぶこと。
「十種法」とは、「聞(もん)讃仏(さんぶつ)毀仏(きぶつ)」・「聞讃法毀法」・「聞讃毀菩薩」・「聞讃毀菩薩所行法」・「聞衆生有量無量」・「聞衆生有垢無垢」・「聞衆生易度難度」・「聞法界有量無量」・「聞法界若成若壊」・「聞法界若有若無」。
「十種法」とは、「聞有仏無仏」・「聞有法無法」・「聞有菩薩無菩薩」・「聞有菩薩行無菩薩行」・「聞菩薩行出生死不出生死」・「聞有過去仏無過去仏」・「聞有未来仏無未来仏」・「聞有現在仏無現在仏」・「聞仏智有尽無尽」・「聞三世法一相非一相」。
「十種業」とは、「身行清浄」・「口行清浄」・「意行清浄」・「随意受生(ずいいじゅしょう)」・「知衆生心」・「知衆生種種欲楽」・「知衆生種種性」・「知衆生種種業」・「知世界成壊」・「神通自在無有障礙(じんづうじざいむうしょうげ、菩薩は衆生界と仏界の二世界に融通し、仏智によって衆生界を障礙なき世界にすること自在である)」。
「十種法」とは、「善解衆生趣」・「善解諸煩悩」・「善解諸習気(じっけ)」・「善解方便智」・「善解分別無量法」・「善解諸威儀」・「善解分別諸世界」・「善解去来今」・「善解説世諦(せたい)」・「善解説第一義諦(だいいちぎたい)」。
「十智」を成じ(「度衆生」)、深い境地と身体的行為と衆生界と仏界の二世界の融通と変現自在を得、勤めて「十智」を学び、菩薩に一切種智を増進せしめようと願う段階。
「十智」とは、「学三世智」・「一切仏法智」・「法界無障礙智」・「法界無量無辺智」・「充満一切世界智」・「普照一切世界智」・「能持一切世界智」・「分別一切衆生智」・「智一切種智」・「智仏無量無辺智」。
具には、
①「観喜行」・②「饒益(にょうやく)行」・③「無違逆(むいぎゃく)行」・④「無屈撓(むくつにょう)行」・⑤「離痴乱(りちらん)行」・⑥「善現(ぜんげん)行」・⑦「無著(むじゃく)行」・⑧「難得行」・⑨「善法行」・⑩「真実行」。
「四無碍解」とは、「法無碍」・「義無碍」・「詞無碍」・「弁無碍」。
「十種身」とは、「入無辺法界(にゅうむへんほっかい)非趣身」・「入無辺法界諸趣身」・「不生身」・「不滅身」・「不実身」・「不妄身」・「不遷身」・「不壊身」・「一相身」・「無相身」。
具には、
①「救護(くご)一切衆生離衆生相(しゅじょうりしゅじょうそう)廻向」・②「不壊(ふえ)廻向」・③「一切仏廻向」・④「至一切処廻向」・⑤「無尽功徳蔵廻向」・⑥「随順(ずいじゅん)堅固一切善根(けんごいっさいぜんごん)廻向」・⑦「随順一切衆生廻向」・⑧「真如相廻向」・⑨「無著無縛(むじゃくむばく)解脱廻向」・⑩「入法界無量廻向」。
次に「加行位」である。
菩薩は、初めの無数の劫(こう、無限に近い時間)において福徳と智慧を積み重ね、「見道」に入って唯識性に住するために「加行」を修習し、認識するものと認識されるもの双方への我執・我欲を除くのであるが、完全には除けない。
次に、「通達位」である。
「非安立諦」を観ずるのに、三種の心がある。すなわち、個体的な実在はなく「空」である(「我空」)。「五蘊」のような構成要素も実在ではなく「空」である(「法空」)。双方とも「空」である(「我法空」)。
「安立諦」を対象とするのに十六種の心がある。すなわち、アビダルマで言う「見道位」「八忍」「八智」の十六心。
この「通達位」に「六現観」(直観)がある。
「思現観」・「信現観」・「戒現観」・「智諦現観」・「辺智現観」・「究竟現観」である。
「思現観」は、「喜」とともに心に起り、モチベーションを起す直観。
「信現観」は、「三宝」への信心を確かなものにする直観。
「戒現観」は、サトリを戒める直観。
「智諦現観」は、智慧の真実を観想する直観。
「辺智現観」は、智慧の真実を観想する「世間」と「出世間」の直観・
「究竟現観」は、サトリの境地の十種の直観。「世俗智」・「法智」・「類智」・「苦智」・「集智」・「滅智」・「道智」・「他心智」・「尽智」・「無生智」。
認識するものと認識されるもの双方の障礙がないので、その行者の身体を「真理を身体とするもの」=「法身」と言う。「自性身」・「受用身」・「変化身」の三種がある。
自身のサトリを自ら受容する、法楽受用の「自受用身(じじゅようしん)」。
自身のサトリを法楽として「十地」の菩薩に受用させる「他受用身(たじゅようしん)」。
四、唯識の「諸法」
アビダルマ(「説一切有部」)の「五位七十五法」に対し、唯識では「五位百法」を説く。
改めて言うと、「五位」とは、四つの「有為法」(「色法」・「心法」・「心所法」・「不相応行法」)と、一つの「無為法」。
①作意(注意)・②触(感覚)・③受(感受)・④想(表象)・⑤思(知覚)。
①欲(意欲)・②勝解(確認)・③念(記憶)・④定(心統一)・⑤慧(判択)。
①信(浄信)・②精進(努力)・③慚(自ら恥じること)・④愧(他に恥じること)・⑤無貪(貪りがないこと)・⑥無瞋(瞋りがないこと)・⑦無痴(真理を知らないことがないこと)・⑧軽安(身心が軽いこと)・⑨不放逸(怠惰でないこと)・⑩捨(平静)・⑪不害(敵意をもたないこと)。
①貪(貪り)・②瞋(怒り)・③痴(真理を知らないこと)・④慢(慢心)・⑤疑(疑い)・⑥悪見(邪見)。
①忿(忿り)・②恨(恨み)・③覆(隠蔽)・④悩(懊悩)・⑤嫉(嫉妬)・⑥慳(物おしみ)・⑦誑(あざむき)・⑧諂(へつらい)・⑨害(敵意)・⑩憍(思い上がり)。以上、「小煩悩」。
①無慚(自ら恥じることがない)・②無愧(他に恥じることがない)。以上、「中煩悩」。
①掉挙(高揚)・②惛沈(憂鬱)・③不信(浄信がないこと)・④懈怠(怠惰)・⑤放逸(散漫)・⑥失念(モノ忘れ)・⑦散乱(心の乱れ)・⑧不正知(正しくない理解)。以上、「大煩悩」。
①悪作(後悔)・②眠(ぼんやり)・③尋(認識対象を漫然と認識すること)・④伺(認識対象を細かに認識すること)。
①得(諸法を結合させること)・②命根(生命力)・③衆同分(同類性)・④異生性(凡夫性)・⑤無想定(心と心所がともに滅して無い禅定)・⑥滅尽定(心のはたらきがすべて滅した禅定)・⑦無想報(心と心所がともに滅して無いこと)・⑧名身(名称・表示)・⑨句身(文章の章・句)・⑩文身(言葉や音声の区切り・音節)・⑪生(諸法を生ずること)・⑫住(諸法をそのままにしてとどめること)・⑬老・⑭無常・⑮流転・⑯定異(諸法が変化すること)・⑰相応・⑱勢速・⑲次第・⑳方・㉑時・㉒数・㉓和合性・㉔不和合性。
五、唯識の三国伝灯
唯識は、小乗のアビダルマ思想をもとに体系化され、やがて大乗の大きな流れになり、中国に入って法相宗となり、そのまま日本に伝えられた。いわゆる「三国伝灯(さんごくでんどう)」の思想である。
とくに日本では、奈良の法興寺(のちの元興寺)・興福寺・薬師寺・法隆寺、さらには京都の清水寺で、アビダルマ(阿毘曇(あびどん)・毘曇(びどん)・俱舎)とともに永く講じられ、のちに「法相学」・「性相(しょうぞう)学」と言われた。空海は、元興寺や興福寺で『成唯識論』を、あるいは東大寺で『華厳経』「十地品」を学び、仏教の基礎学である唯識思想を徹底して学んだであろう。
日本の仏教の伝統では、「法相」こそが「仏教学」であり、「法相」を専門に学ぶことが学僧への道であったし、「法相」を知らなければ一人前の学問僧ではなかった。
真言宗では、密教の基礎学としての「法相」を「性相学」と言い、本格的に修学することを伝統としてきた。とくに、今真言宗智山派の総本山になっている京都東山の智積院(ちしゃくいん)は、江戸時代に真言学と「性相学」の学問寺となり多くの学僧を輩出し、すぐれた研究書を残した。
密教と唯識を学ぶことは、とりもなおさず空海の言う「他縁大乗住心」の理解には不可欠だったのであり、さらには空海が重用した『大日経疏(だいにちきょうしょ)』の「住心品疏」や、『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』と、その底本の『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の理解にも必要だったからに相違ない。
(一)インドの唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)唯識思想の端緒は、一つには『般若経』系の「一切皆空」の思想や中観(ちゅうがん)派の「縁起」・「空性」・「空・仮・中」といった「大乗」の「空」の哲理と、一つには初期大乗経典である『華厳経』「十地品」の「三界虚妄(さんがいこもう)但是一心作(たんぜいっしんさ)」といった「三界唯心」説、さらに「諸法」は「一切皆空」だと達観する認識主体(識)の有無を問題とする認識論、にあった。
そういうなかで、はじめて体系化された唯識思想を説く『解深密経』が三〇〇年前後に成立し、
「勝義諦相品」第二で、「勝義真如」を、
「心意識相品」第三で、「アーラヤ識」を、
「一切法相品」第四で、「遍計所執性」・「依他起性」・「円成実性」の「三性」を、
「無性品」第五で、「相無性」・「生無性」・「勝義無性」の「三無性」を、
「分別瑜伽品」第六で、「止観」行を詳説した上で「識」の顕現を、
「地波羅蜜品」第七で、菩薩の「十地」と「十波羅蜜」を、
「如来成所作事品」第八で、如来の「法身」・「変化身」を、
説いた。
この『解深密経』の唯識思想をもとに、唯識派の論師たちは次々と論書を著し唯識説の正当性を主張した。
唯識説最初の論師と言われる弥勒の著作と言われ、あるいは無著の書とも言われる『瑜伽師地(ゆがしぢ)論』をはじめ、『大乗荘厳経(だいじょうしょうごんきょう)論』や『中辺分別(ちゅうへんふんべつ)論』や『現観荘厳(げんかんしょうごん)論』や『法法性弁別(ほうほっしょうべんべつ)論』が著され、無著(むじゃく)が『摂大乗(しょうだいじょう)論』や『大乗阿毘達磨集論』や『順中論』を書き、兄の無著に説得されて「説一切有部」・「経量部」から唯識派に転じた世親(せしん)は『唯識三十頌』・『唯識二十論』・『大乗成業(だいじょうじょうごう)論』・『十地経論』を著した。
無著・世親兄弟のあと、十大弟子といわれる時代になり、ナーランダーの僧院を中心に盛んに研究が重ねられた。
そのなかで、「アーラヤ識」を仮の実在(「仮有」)と認める「有相唯識」派に陳那(じんな、ディグナーガ)が出て、唯識の立場から仏教論理学(「因明」)を立て、『観所縁論』などを残した。その法統は、無性(むしょう、アスヴァバーヴァ)・護法(ごほう、ダルマパーラ)と受け継がれ、護法は世親の『唯識三十頌』の註釈を書き、それが中国で玄奘三蔵によって漢訳され『成唯識論』になった。その弟子には、ナーランダー大学の学長で奇しくも玄奘の師となった戒賢(かいけん、シーラヴァドゥラ)がいる。そののち、法称(ほっしょう、ダルマキールティ)が出て、陳那の仏教論理学を大成した。
また、「アーラヤ識」は「仮有」ではなく実体のない「空」だとする「無相唯識」派には徳慧(とくえ、グナマティ)とその弟子安慧(あんね、スティラマティ)が出て、こちらも『唯識三十頌』の註釈を書いた。『唯識三十頌釈』である。
(二)中国の法相宗今述べた「無相唯識」派の法統は、訳経僧真諦(しんだい、パラマールタ)によって中国に伝えられ摂論宗(しょうろんしゅう)となった。日本には文献が伝えられたのみで一宗を立てるまでに至らなかった。
中国の法相宗は、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)を措いて語れない。
玄奘は、六二九年にインドに渡り、十六年後の六四五年、『大般若経』六百巻ほか大部の経論や仏像を携えて帰国した。早速、持ち帰った経論の漢訳作業に着手し、そのなかに『成唯識論(じょうゆいしきろん)』(護法による『唯識三十頌』の註釈書)があった。
先に述べたように、玄奘は北インドのナーランダー寺で戒賢に唯識を学んだが、まだ幼い時からアビダルマや大乗系の『大般(だいはつ)涅槃経』や『摂大乗論』を学んでいたという。護法の『唯識三十頌』註釈を帰国後に漢訳することはおそらく戒賢のお墨付きをもらっていたにちがいないし、玄奘の唯識研究としては当然の成り行きであったろう。
この玄奘が伝えた唯識(「有相唯識」)は、その弟子の窺基(ぎき、慈恩大師)によって大成される。窺基は真諦が伝えた「無相唯識」系の立場を批判した。著に日本の唯識研究でもよく読まれた『成唯識論述記(じっき)』がある。
日本では、飛鳥時代の白雉二年(六五一)に遣唐使船で唐に渡った道昭(どうしょう)が、長安の大慈恩寺にいた玄奘に師事して『摂大乗論』をはじめ法相を学び、飛鳥の法興寺に伝えたという。道昭は行基(ぎょうき)の師にあたり、後半生は諸国を行脚し、各地で土木事業を行った人でもある。
次いで、智通(ちつう)・智達(ちだつ)が入唐し、彼もまた玄奘から法相を学び、法興寺に伝えた。
次いで、智鳳(ちほう)・智鸞(ちらん)・智雄(ちゆう)が入唐し、玄奘の弟子・窺基の孫弟子になる智周に学んで帰国し元興寺で法相を伝えた。智鳳の弟子に義淵(ぎえん、阿刀氏)がいる。
義淵には、玄昉(入唐して智周に法相を学び多くの仏典を持ち帰る、阿刀氏)・隆尊(元興寺・興福寺の法相僧)・良弁(ろうべん、東大寺の開山)ら錚々たる弟子がいる。大安寺の留学僧の道慈(どうじ)や、称徳天皇の病気平癒祈祷から一時朝廷の権力を得た道鏡も門下生だという。道昭に師事した行基は、この義淵にも法相を学んでいる。
元興寺には、当時法相宗随一の学僧と言われた勝虞(しょうぐ)がいて、終生空海が指南を受けたと思われる護命(第四章に前述)に法相を教えている。護命は師のあとをさらに補い、元興寺系の法相(玄奘→道昭→智通→智鳳→義淵)の教学を大成した。
然るに、南都の法相は元興寺から次第に興福寺に拠点が移り、興福寺では宣教(せんきょう)が出て玄賓(げんぴん)や賢憬(けんけい)を育てた。
玄賓は法相の学僧ながら、桓武・平城二帝の病気平癒の祈祷を行い、嵯峨とも親しかったといい、賢憬は鑑真和上を難波に迎えた人で、「四分律」を官僧得度の「具足戒」とし、一方大和の室生寺を創建している。
賢憬の弟子には、空海と親しかった興福寺別当の修円(しゅうえん)がいる。空海が南都で法相の勉強をしっかりとできたのはこの修円のおかげである可能性が高い。空海が唯識関連の経論を正確に学んでいたことは、この「他縁大乗心」の論述や引用文から見ても明らかである。
その修円の門弟に、藤原仲麻呂の息子で興福寺や東大寺で法相学を学んだ徳一(とくいち、とくいつ)がいた。徳一はアビダルマ・唯識の法相に長じ、若い頃にすでに南都を離れて会津の慧日寺(えにちじ)に入り、やがて最澄と約四年「三一権実(さんいちごんじつ)論争」を行い、最澄の天台宗の東北進出を阻止し、また一方空海には『真言宗未決文』を送り、空海の密教に十一の疑問を投げかけた。
しかし、空海は終始徳一に対して敬意を払い、弟子の康守を徳一のもとに送って密教経典の書写を頼むなどした。おそらく、修円を仲介にして、空海は若き日に興福寺で徳一と交わっていたのではないか。密典書写の依頼状(親書)にそれがうかがえる。空海と徳一については、このあと別記する。
平安中期には、真興(しんぎょう)が興福寺に出て法相に長じ、さらに吉野で密教を修め、法相・真言の二法を兼ねた。
その後、平安末期から鎌倉時代にかけて、元興寺と興福寺の別当となった蔵俊(ぞうしゅん)が出て、鎌倉時代の法相門流を担う碩学を多く育てた。さらに、平清盛の時代、朝廷の官僚で僧侶だった信西(しんぜい)の子の覚憲(かくけん)が、蔵俊に師事し、唯識論の註釈を多く残し、その甥の貞慶(じょうけい)が『法相心要鈔』など多数の論書を著した。また、天台座主となった慈円の異母兄弟の信円は、興福寺の法相を守る一方、平家(平重衡)による南都の焼打ちで被害を受けた伽藍の復興を貞慶とともに行った。その後、良偏(りょうへん)が出て法相の法統を守った。高野山には頼瑜(らいゆ)がいた。
このように、とくに鎌倉時代は、千を越える法相論義があったと言われ(『成唯識論同学鈔』)、「論草」や「短釈」が多く残された。室町時代には薬師寺に光胤(こういん)らが出ている。「法相学」は日本仏教の伝統的な基礎学であり、また南都の法相宗は他宗に寛容だったので、他宗でも盛んに学ばれていた。
その流れは江戸時代になっても衰えず、興隆(こうりゅう、曹洞宗)・覚州(かくしゅう、華厳宗)・普寂(ふじゃく、浄土宗)・基弁(きべん、法相宗、真言・三論)・戒定(かいじょう、真言宗豊山)・快道(かいどう、真言宗豊山)・運敞(うんしょう、真言宗智山)・海応(かいおう、真言宗智山)らが出て大いに法鼓を鳴らした。
明治期以降の法相学では、法隆寺の佐伯定胤を挙げておかねばならない。廃仏毀釈の影響で衰微していた法相学を復興させた意味において、日本の唯識学の大恩人である。佐伯は法隆寺の勧学院において『成唯識論』などを講じ、全国から唯識思想を学ぶ学僧や研究者が雲集した。当時、唯識学を志す人はかならず佐伯のところで学ばなければ一人前でない風潮さえあって、のちに唯識の研究で名を成した著名な学匠はみな佐伯の講義を経験している。
その恩恵によって今の仏教学界においても唯識の研究は大変盛んであり、ユングやフロイトの精神分析学との比較研究や、深層心理学や脳科学にも唯識研究がかかわるようになった。
徳一は藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))の子(四男あるいは十一男の説あり)で、藤原不比等(ふひと)の曾孫にあたる。
幼少にして興福寺を依居とし、別当になった修円に師事して法相を学んだ。生没年は不詳で、天平勝宝元年(七四九)~天長元年(八二四)、天平宝字四年(七六〇)~承和二年(八三五)の説のほか、生年には神護景雲元年(七六七)、天応元年(七八一)の説もある。
「弱冠」(二十才前後)の年齢で東北(陸奥)の会津に移ったという専らの説があるが、当時藤原氏生え抜きの青年僧が「具足戒」を受ける年齢に、興福寺から離れたであろうか。また、のちに空海に宛てて送った『真言宗未決文』や最澄との論争に見えるアビダルマや唯識の博識や、南都における法相論師としての名声をそんな若さでえられるものであろうか。少なくとも円熟期を迎える四十才台までは南都にいて、修円の縁で空海とも出会っていたのではないか。
後世の伝によれば、延暦元年(七八二)、常陸筑波山に中禅寺を開き(「筑波山縁起」)、空海が唐から帰国した翌年の大同二年(八〇七)頃、会津磐梯山の麓に移り、慧日寺を建立したという。
のちに長安から帰り高雄山寺に腰を落ちつけた空海は、数年後『弁顕密二教論』を著す一方、弘仁六年(八一五)、密典の流伝のため甲斐・武蔵・上野・下野・常陸などの東国へ弟子康守を送り、甲斐国司の藤原真川(まかわ)、常陸国司の藤原福当麻呂(ふたきまろ)、下野大慈寺の広智(円仁の師、道忠のグループ)、そして会津慧日寺の徳一に密教典籍三十六巻の書写を依頼する。同じ頃、大宰府(おそらく観世音寺)へも経典書写の勧進を行った。
甲斐の藤原真川、常陸の藤原福当麻呂は共に藤原氏の朝廷高官で、真川は後に大臣となり、その後任に空海は奈良の大学寮時代の唐語の恩師浄村浄豊(きよむらのきよとよ)を推薦した間柄であり、福当麻呂は興福寺南円堂の設計監督を空海に頼んだ藤原内麻呂の五男で、冬嗣の異母弟、いずれも空海とは藤原氏のよしみでつながっていた。
また広智は円仁の師として有名であるが、一方鑑真和上の高弟道忠の弟子で、道忠は下野の大慈寺などを拠点に下野・上野・武蔵に道忠教団といわれるグループを形成して最澄を支援し、会津の徳一との間に論陣を張っていた。最澄はそれを引きとるかたちで徳一との論争に入ったのである。
道忠には、のちに第二代天台座主となった上野緑野寺(ろくのじ、現、群馬県藤岡市浄法寺、天台宗浄法寺)の円澄がおり、広智には第三代円仁・第四代安慧(あんね)と、第五代円珍、第六代惟首(ゆいしゅ)、第七代猷憲(ゆうけん)の師の徳円がいる。
このうち円澄は、最澄の命で泰範とともに空海のもとで密法を受学し、弘仁三年(八一二)の高雄潅頂では胎蔵界を、翌年金剛界を光定(こうじょう)・泰範らと受法し、天台座主になる二年前の天長八年(八三一)には道忠・徳円ら十数名と晩年の空海に真言付法(伝法潅頂)を要請している。
当時、真言・天台と宗を異にしながらも、垣根を越えて密法の受法をする交わりがあった。そうした人脈のなかで、空海は広智とも信頼するに足る知遇をえていたのであろう。天長四年(八二七)には、「十喩詩」(『大日経』の「十縁生句」を詩にしたもの)を広智に贈っている。ただ、広智は密典の書写を行わず、同じ道忠の弟子で上野緑野寺の教興に頼んだという。
この頃、円熟期の徳一は磐梯・吾妻連山の修験(大伴修験)を中心に、「山の神」「田の神」の信仰を土地の豪族から農民の間に広め、徳一教団の輪を会津から常陸・下野にかけて大きく形成していた。空海はその徳一にも密教流布を頼んだ。徳一の助力を確信的にあてにしている。
その時空海が徳一宛てにしたためた協力依頼状がある。末尾に「遠すぎて親しく交われないので時々書簡を恵んでほしい」旨を書き添えている。二人が親しい関係にあったことが読みとれる。
聞クナラク、徳一菩薩ハ戒珠氷玉ノ如ク、智海泓澄タリ。
斗藪シテ京ヲ離レ、錫ヲ振ヒテ東ニ往ク。
始メテ法幢ヲ建テテ、衆生ノ耳目ヲ開示シ、
大ヒニ法螺ヲ吹イテ、万類ノ仏種ヲ発揮ス。
咨、伽梵ノ慈月水在レバ影ヲ現ス、
薩埵ノ同事何レノ趣ニカ到ラザラン。珍重、珍重。
空海大唐ニ入リテ学習スル所ノ秘蔵ノ法門、
其ノ本未ダ多カラズ広ク流伝スルコト能ハズ、
衆縁ノ力ニ乗ジテ書写シ弘揚セント思ヒ欲フ。
所以ニ弟子康守ヲ差シテ彼ノ境ニ馳セ向ワシム。
伏シテ乞フ、彼ノ弘道ヲ顧ミテ助ケテ少願ヲ遂ゲシメバ、幸甚、幸甚。委曲別ニ載ス。
嗟、雲樹長遠ナリ。誰カ企望ニ堪エン。時ニ風雲ニ因リテ金玉ヲ恵ミ及バセン。
謹ンデ状ヲ奉ル。不宣。沙門空海 状ヲ上ル。
四月五日 陸州徳一菩薩 法前 謹ミテ空(海)。
名香一裹、物ハ軽ケレド誠ハ重シ。撿至ラバ幸ト為セ。 重ネテ空(海)
徳一は空海が弟子康守に託した『観縁疏(かんえんしょ)』を読み、空海密教への十一の疑問(結集者の疑、経処の疑、「即身成仏」の疑、「五智」の疑、「決定二乗」の疑、「開示悟入」の疑、菩薩十地の疑、梵字の疑、毘盧舎那仏の疑、経巻数の疑、鉄塔の疑)を『真言宗未決文』にまとめ空海に送った。
そこには『大日経』の聞法者(もんぽうしゃ)や説法処(せっぽうしょ)や真言付法の問題ほか、「即身成仏」・「五智五仏」・「発菩提心」・「法爾随縁」(「六大縁起」)・「声字実相」・「法身説法」といった、空海がのちに表明する密教思想の根幹にふれる鋭い指摘があった。しかし、これをにわかに空海密教への批判というのは早とちりである。
『真言宗未決文』を具に読めば、十一の疑義が空海密教批判ではなく、大乗(法相・華厳)からの『大日経』や密教の基本に関する不可解と戸惑いの表明であることがわかる。
例えば、
では、龍樹(龍猛、真言付法の第三祖)がその集会にい(て聞い)たというのだろうか。
そうではあるまい。(そもそも『大日経』は、龍樹が「南天の鉄塔」で金剛薩埵(付法の第二祖)から授かったというではないか)『大日経』は、毘盧舎那仏が普賢菩薩(徳一はここで金剛薩埵を普賢菩薩と混同している)に口授し、さらに普賢菩薩から龍樹に口授したのである。それでは、普賢菩薩(金剛薩埵)が「我聞」したのか。そんなことはない。普賢菩薩(金剛薩埵)は二乗(声聞・縁覚、仏道の自利行者)や凡夫(煩悩具足の衆生)の目には見えない(堅固な菩提心の象徴である)。どうして人間に交わって集会するであろうか。(第一、結集者の疑)
龍樹が著した『発菩提心論』に「真言行者は凡位(凡夫の心位)から仏位(仏の心位)に直入することができるので、(大乗の)「十地」の菩薩の心位を飛び越えてしまう。真言行者は「行願(ぎょうがん)」・「勝義(しょうぎ)」・「三摩地」の三種の観行により「即身成仏」する」と言うのであるが、(大乗から言えば)そこに二つまちがいがある。一つは(大乗の要諦である)菩薩行(利他行)がないこと。一つは(大乗の根本である)慈悲(「空」の発心)が欠けていることである。
大乗の菩薩には無量の修行(「六波羅蜜」に摂せられる)があるが、真言行者の行といえば(「行願」・「勝義」・「三摩地」)みな観行ばかりで、これは「六波羅蜜」の「静慮波羅蜜」だけを行ずるだけで、他の五つの波羅蜜を行じないことになる。行を欠いて成仏することなどありえないではないか。
菩薩は、慈悲を母とし方便を父として、「五生」(除災生・随類生・大勢生・増上生・最後生)を受け、久しく生死流転しながら、常に一切の衆生を済度し「無余(むよ)涅槃」に入らしめんと誓っているものであるが、真言行者は衆生を捨てて自分が先に成仏しようとする。どこに慈悲があるのか。二乗(声聞・縁覚)の自利行と同じではないか。・・・。
あの真言・天台の学徒は、己の宗の所依の経論をよく推究もせず、みだりに別宗を立てて「即身成仏」などと言うのは、いろいろな論を違え、あとにつづく学僧を誤らせることになる。(第三、即身成仏の疑)
真言の学徒は、梵字は梵天や外道や仏が作ったものではなく、あるべくしてそのようにある(法然)ものであり、仏が(私たちの前に)顕すもので、有為でもなく無為でもないというが、それは実体がなく兎の角のようなものである。梵字は墨と筆で書かれたもので、物質的なものである。どうして自らあるべくしてあるのか。(第八、梵字の疑)
当時、南都法相宗のトップレベルの学僧でも密教の不可解はこんなものであったろう。
徳一には、大乗(華厳)では「法界」の「真如」の当体で説法をしない毘盧舎那が、空海の密教では自ら説法すること、大乗では久しく「止観」行に励み、永劫にわたって菩薩行を積み重ねなければ「法界」に入ることができないのだが、空海は「三密行」によって「速疾成仏」が可能だとすること、真言・陀羅尼を表記する梵字は人間が書く文字にちがいないが、空海は如来のコトバであるから「法性」そのものであり、自らあるべきようにあって(法爾)、縁によって(人の)文字として顕れると考えること等々について理解が及ばず、最後の十一番目では「南天の鉄塔(なんてんのてっとう)」伝説(=「真言付法」)は口伝(口伝え)であり、文章による文伝ではないから信ずるに価しないと言ったりして、ほとんど密教がわかっていない。
この十一の疑問を具に読むと、都を離れて会津が長くなった徳一には新しい仏教である密教の真意がわからず、戸惑っていることが手に取るようにわかる。よく言われるように『真言宗未決文』は空海を批判しているのではなく、逆に空海に教えを乞うていると言うべきである。
その証拠に、徳一は『真言宗未決文』に付記し、「ここに述べた疑問は仏法を謗る行いであり、「無間地獄」に堕ちる報いを恐れている。ただ、私は疑問を解決して智慧の理解を増したいと願っているだけで、ひたすら帰依し信じて、その宗を専らにしたいだけである」と質問状提出の真意を述べている。
徳一にとっては時代の最先端の空海密教を理解する絶好の機会であった。徳一は密典の書写に協力しなかったというが、それはむしろ逆で、徳一は康守がたずさえてきた密典三十六部をむさぼるように書写したに相違ない。
おそらく、そのなかに『大日経』のほか主要な密教の典籍が含まれていた。だから『真言宗未決文』にもあるように、いち早く『大日経』・『大日経疏』・『菩提心論』・『釈摩訶衍論』とか「真言付法」の事情に通じることができた。この時期会津にいる徳一がそれほどに密教典籍や密教事情に通じられたのは、空海に頼まれた密典三十六部の書写をしたからに他ならず、書写こそが密教理解の早道だった。この件の以前に東国の徳一のもとに本格的な密典が伝えられた形跡はないのである。
興福寺別当で空海と親しかった修円の門弟徳一が空海のたっての依頼を拒否するはずがない。むしろ歓迎したはずである。
空海は、前年の弘仁五年(八一四)、下野日光山の勝道上人の求めに応じ「沙門勝道、山水ヲ歴テ玄珠ヲ瑩クノ碑并ビニ序」を認めている。同じ東国の霊山である日光山開基の大先達勝道上人と誼(よしみ)をもつ空海を、隣国の磐梯修験の地で受容することを密かに喜びもしたであろう。だから法相宗の身でありながら密典を鋭意書写し、最新の密教にいち早く通じ、三鈷杵を自ら持し、密教法具を慧日寺に多く残したに相違ない。
徳一はこの時期、すでに東国の天台勢力(道忠グループ)と論争を始めていた。徳一にとり天台の東北進出を阻むにも、空海密教は抗すべきものではなく強い味方になったはずである。空海はそこまで読んでいたかもしれない。
比叡山の最澄は、広智や道忠から空海と徳一のことを伝え聞いたのか、すぐに動いた。その頃は空海との親交も途絶え、種々切迫感を感じたという。翌弘仁七年(八一六、空海に高野山の下賜が認められる)、東国の事情に詳しい円澄・円仁などを伴い、上野緑野寺や下野大慈寺を足がかりに東国を巡錫した。
それを機に、道忠たちから徳一との論争を引きとり、以後約四年間(弘仁八年(八一七)~弘仁十二年(八二一))「三一権実論争」をくりひろげた。
徳一は、『仏性抄』、『中辺義鏡』三巻、『遮異見章』三巻、『恵日羽足』三巻、『破原決権実論』、『破通六九証破比量文』、『中辺義鏡残』二十巻を著して最澄の天台教学を徹底批判し、最澄は『照権実鏡』、『守護国界章』九巻、『決権実論』、『通六九証破比量文』、『法華秀句』三巻を著し徳一に反論した。勝負はつかないまま最澄の死で終ったが、その結果最澄は東北地方への進出を阻まれたのである。
ところで、最澄が東国に巡錫した弘仁七年(八一六)、藤原冬嗣が大納言と陸奥・出羽二国の按察使(地方の国司の行政監察を行う中央官僚)を兼ねた。冬嗣と空海はお互いに嵯峨天皇のブレーンとして旧知の仲で、この三年前の弘仁四年(八一三)、冬嗣は父内麻呂の遺志を継ぎ空海の設計監督のもと興福寺南円堂を完成させている。
こうした事情を考えると、冬嗣が陸奥の按察使の立場から藤原氏一門の徳一に対し、空海の東国進出を奨め最澄の天台を阻止する密命(興福寺を含む南都仏教勢力の政治的意志)を伝えた可能性がなくはない。徳一は東北の入口を天台勢力から守るために南都仏教勢力の切り札として会津に下向したのかもしれない。
磐梯山麓には、大同二年(八〇七)に、空海が朝廷の命により(噴火した)磐梯山を鎮め、清水寺(後の慧日寺)を建立したという伝えがある(「龍宝寺縁起」)。「恵日寺縁起書」には、昔空海がこの地にきて、たびたび噴火して田畑を傷め土地の人々を悩ませる病悩山という名の山を磐梯山と改め、この魔性の山を鎮めるために寺の建立を発願し、もっていた三鈷杵を投げて適地をえらんだところ山麓の紫藤の上に落ちたのでそこに清水寺(後の慧日寺)を開創し、薬師三尊などを祀った。するとそこに磐梯山の「山の神」が現れたので、空海は舞楽で歓待し「山の神」を「磐梯明神」と名づけた。空海は滞留すること三年、後を徳一に託して去った、とある。
実際は、『今昔物語』ほかの史書にあるように、清水寺(後の慧日寺)は徳一の開基にちがいはないが、驚くことに徳一の関係する会津から常陸にかけての寺院は、その多くが空海の開基、徳一の初代の住職となっている。二人が親和関係にあったであろうことはこうした地方の伝承からもうかがえる。
六、仏教を学問するということ
空海はヤマでの修行を徹底する一方、各宗の所依の経論を学問的に講じる南都仏教のもとで、文献研究・原典解読を中心とした学問仏教を身につけた。そのレベルが並大抵のことでなかったことは空海の著作を読めばすぐにわかる。引用された経論の多さといい、その経論の一冊一冊にいかに通じていたかといい、まさに驚異的である。今の仏教学のように専門分野を限っての文献考証・原典解読ではない。空海は全仏教思想史の主要な経論、今でも仏教研究者が研究の対象にするような経論をくまなく読み込んでいる。一二〇〇年も前に、よくあれだけの数の典籍を手にし、それをまた一つ一つ正確に読み込んでいたか、驚くばかりである。
その謎を解くには、空海のたぐい稀な記憶力を思わないわけにいかない。
空海の記憶力の原点は、漢籍の素読と暗記にある。幼少の頃から、叔父の阿刀大足について漢籍の素読と暗記をしていた。大学寮受験のためにそれに拍車をかけ特訓した。ヤマに入れば虚空蔵求聞持法を修して記憶力に磨きをかけた。空海はほかから見れば異様なほどに記憶術に長けていた。
文献を声を出してくり返し読み、片っぱしから暗記するのである。南都で仏教の経論を勉強する際もおそらくそうしただろう。「読書百辺自ずから通ず」というが、空海は持ち前の驚異的な記憶力をもってコトバを暗記しながら、コトバの意味や概念に通達していったにちがいない。
空海の頭のなかの巨大なメモリーディスクに経論の膨大なコトバが記憶され、それが経論のフォルダごとにきちんとまとめられ、それはやがて空海が考案する独自の密教のデータベースになったと言ってもいい。空海の原典情報の容量はとびぬけて大容量だった。
空海はこのデータベースの原典情報を縦横に駆使して「知の編集」を行い空海密教を編んだ。それが、真摯な文献考証・原典解読とそれによる確かな仏教教理の理解に基づいている点で、すぐれて学問的であった。「六大縁起」も「声字実相」も「重々帝網」も「即身成仏」も「法身説法」も「阿字本不生」も「十住心」も、みな学問的裏づけのもとで考案された。空海の学問は全仏教思想史を視野に入れているのである。
然るに、文明が開化した明治期以降、ヨーロッパの科学的合理主義や実証客観主義の洗礼を受け、日本の仏教研究は文献考証・原典研究に大きな比重が置かれるようになり、江戸時代に盛んだった教学的な解釈論はすっかり鳴りを潜めた。
南條文雄・笠原研寿・高楠順次郎・渡辺海旭・姉崎正治・宇井伯寿・木村泰賢・宮本正尊等、ヨーロッパに留学してサンスクリットやパーリ語の語学と彼の地の仏教学を日本にもたらした先駆者の尽力を多とするのは当然であるが、キリスト教社会のヨーロッパ人にとって、仏教は我が身の思想や生き方とは関係のない異国の文明であり、それを客観的に解明して正しく理解することに第一義があった。
その視座や方法を先駆者たちがそっくり日本の大学に持ち込めたのは、とりもなおさず国の全体が西洋文明に憧れ心を開いていたからであり、新しい文明開化の担い手でもあった大学はヨーロッパの学問的方法に積極的であった。仏教研究もそれに漏れなかった。
以後、漢訳の仏典しかなかった江戸期に比べ、ヨーロッパからもたらされたサンスクリットやパーリ語の原典に従来の漢訳を校合して比較照合する原典研究が不可欠となった。すなわち、サンスクリットやパーリ語ができない研究者は、いかに思想論ですぐれていても、次第にその立場を失くす羽目になった。加えて、河口慧海にはじまるチベット語の修得とチベット仏典の収集と文献研究が進み、今は梵(サンスクリット原典)・蔵(チベット訳)・漢(漢訳)の三訳による原典研究が当たり前になった。
文献考証・原典解読は、空海もそうしたし、鎌倉時代の学僧も、江戸時代の学僧も、みんなそうした。原典に書いてあることが客観情報であり、その客観情報を根拠にして論を立て自説を立てるのが学問というものである。
しかし、文献考証や原典解読から客観情報を集めデータベースにする作業は、自説を立てる上での準備段階であって本論ではない。本論は研究者自身の「知の編集」であり、いかに客観情報を集めて結び合わせてみても、編集は研究者の主観による。その主観を可能な限り客観で裏づける、その営みが学問のいわば義務である。その義務を果すには、文献に頼るのが一番だということになった。
では、文献がなければ学問にならないか。文献を離れたところで、研究者自身の仏教思想を語っては学問にならないのか。そんなことはないだろう。いや、自説を立てるのに「知の編集」をしない人はいない。過去の仏教思想の「知」を現在化して研究者自らの「知」に問いかけ、仏教思想は自分にとって何なのか、人々にとって何なのか、社会にとって何なのか、普遍的な価値体系として発信することも学問ではないか。とくに仏教僧の研究者は、研究の対象としている仏教思想と自分の心の在り方の関係について問われないでいいか。ヨーロッパの研究者のように、仏教は我が身の思想や生き方とは関係ない価値体系でいいのだろうか。
例に出して恐縮であるが、大正大学の学長を経験した密教研究の碩学で、かつ総本山智積院(真言宗智山派)の化主にもなった那須政隆大僧正は、学問と思想と生き方が一致していた。師はサンスクリットもパーリ語もチベット語もよくされなかったと思うが、その学問は語学の壁を越えておられた。師には漢訳だけで充分だったのである。文献も思想もみなその生き方に摂せられていた。仏教を学問するということは師のようでありたい。
ひるがえって、研究者ではない真言僧は学問的でなくていいか。そんなことはない。原典にふれる必要はない。岩波文庫・同新書、ちくま学芸文庫、そして仏教図書の出版で実績のある出版社の仏教書で、まず釈尊の仏教を、そして中観思想を、さらに仏教の基礎学である唯識を、加えて空海の著作を、わかるまで読み、僧侶として学んでおくべきものは最低線おさえておくべきである。とくに、空海の著作と思想については、真言僧の空海知らず、では済まされない時代になった。世間の空海派の人たちはよく空海を読んでいるからである。