第四章 釈尊とアビダルマの仏教を問う
一、唯蘊無我住心
第一章~第三章で、人間が我欲・我執にとらわれて悪因悪果に苦しむ、あるいはその苦しみさえ自覚しない「悪趣」の世界を見てきた。「凡夫」・「衆生」の世間のレベルである。空海は、第一住心~第三住心を「世間心」と言った。
この第四章からは、出家の世界。出家修行者の心の在り様である。釈尊の仏教にはじまり、小乗・大乗を経て密教に至る全仏教思想史、すなわち「出世間(しゅっせけん)」とか「出世間心(しゅっせけんしん)」の世界。
空海はこの住心で、出家修行者である「声聞(しょうもん)」の心のレベルを説く。
声聞とは、師や他の修行者から真理の教えを聞き、それをよく思惟し、それを瞑想修行して、解脱をめざす出家修行者のこと。大乗から言うと小乗のレベルである。めざすものは、釈尊のサトリの追体験であり、住処は釈尊の教団である。
釈尊のサトリとは、苦からの解脱。すなわち、本能的な生存欲から発する我欲・我執を瞑想修行によって滅除し、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の「六道」から解脱すること。具には苦・集・滅・道の「四諦(したい)」。そしてそのサトリに至る実践としての「八正道(はっしょうどう)」。サトリのプロセスの検証としての「十二因縁(じゅうにいんねん)」(次の第五章でふれる)である。
空海がこの第四住心のタイトルにした「唯蘊無我(ゆいうんむが)」とは、このサトリから得られた釈尊仏教の基本思想であり、この「無我」こそが仏教思想の原点である。
釈尊は、成道後、ベナレス北方のサールナート(鹿野苑(ろくやおん))で自分とともに修行をしてきた五人の仲間、①アジュニャ・カウンディニヤ、②アシュヴァ・ジット(アッサジ)、③マハー・ナーマン、④バドリカ、⑤ヴァースパに、はじめてサトリの内容を話して聞かせた(「初転法輪(しょてんぼうりん)」)。
それが「四諦」・「八正道」であるが、それを聞いて五人は発心し受戒を申し出て二百五十戒の具足戒(ぐそくかい)を受け比丘(びく)となった。その後この五比丘(ごびく)に説かれたのが「五蘊無我(ごうんむが)」で、この住心の「唯蘊無我」とはこの「五蘊無我」のことである。
「五蘊無我」とは、人間は、「色(しき)」(肉体)・「受(じゅ)」(五感の感覚)・「想(そう)」(考えたり概念化したりすること)・「行(ぎょう)」(思考や概念の志向)・「識(しき)」(「行」に基づく識別)という五つの要素(「五蘊」)から成る集合体で、もともと一個の個体的な実在(=「我」)としてあるのではない(「無我」)、という意味。ただし、「五蘊」そのものは個体的な実在だとする。
二、釈尊の仏教
紀元前五世紀、インドでは、ヒンドゥーの根本聖典である四「ヴェーダ」(リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ)が完成しインドを代表する宗教(バラモン教)となった。
同じ頃、林棲の修行者や思弁家のなかから、自説を主張し信奉者と教派をなした聖者が現れた。ジャイナ教のマハー・ヴィーラであり、アージーヴィカ教(裸形托鉢教団)のマッカリ・ゴーサーラであり、仏教のゴータマ・シッダールタだった。そのほかにも、六十二の説があり、そのいわば代表としてマハー・ヴィーラとマッカリ・ゴーサーラを含む「六師外道(ろくしげどう)」のアンチバラモン教の人たちがいた。バラモン教の側には、前述した「六派哲学」の人たちがいた。このなかのゴータマ・シッダールタが釈尊である。
釈尊の仏教は、「四諦」・「八正道」と「五蘊無我」をもとに無執著を主張し、宇宙の創造主のブラフマンや人間の個我であるアートマンや天地に神々を擁するバラモン教のアンチテーゼとして次第に拡大し、最終的には世界レベルの高度な宗教哲学にまで展開する。
教団となった当初、釈尊と「五比丘」の六人が、釈尊の母国コーサラ国の首都シュラーヴァスティー(サヘート・マヘート、「舎衛城(しゃえじょう)」)で、ジェータ・ヴァナ寺(「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」)を本拠地とし、ラージャグリハ(「王舎城(おうしゃじょう)」)を中心に、ガンジス河中流域で説法し弟子や信奉者を得ていった。
「五比丘」の次に弟子になったのは、ヴァーラーナシー(ベナレス)の長者ヤシャスである。また、のちに「十大弟子」の最古参で「説法第一」と言われるプールナ・マイトラーヤニー・プトラ(富楼那(ふるな))がその弟子たちと加わる。さらには、当時有力と言われた「事火外道(じかげどう)」から、ウルヴェーラ・カーシャパ、ナディー・カーシャパ、ガヤー・カーシャパの三人兄弟(「三迦葉(さんかしょう)」)が千人余の弟子とともに釈尊に帰依改宗した。これで釈尊の教団は一気に大教団になった。
その後、釈尊はラージャグリハに移り、マガダ国のビンビサーラ王に法を説き帰依を受けた。ラージャグリハでは、長者カランダの帰依を受けて竹園を寄進され、王からは伽藍を寄進され、それを「竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)」とした。
そこに、シャーリプトラ(舎利弗(しゃりほつ))とマウドゥガリヤーヤナ(目連(もくれん))がそれぞれ二百五十人の弟子を連れて弟子となった。そこにまたマハー・カーシャパ(大迦葉(だいかしょう))が加わる。
以後、故郷カピラヴァストゥ(「伽毘羅城」)では、釈迦族の実子ラーフラ(羅睺羅(らごら))・従兄弟のアーナンダ(阿難(あなん))とアニルッダ(阿那律(あなりつ))とデーヴァダッタ(提婆達多(だいばだった)、阿難の兄)、そしてカースト四位シュードラのウパーリ(優波離(うばり))が弟子になり、その後続々と釈迦族からの弟子が増えた。釈尊のミッションは、クシナーラー(クシナガラ)での入滅(にゅうめつ)まで続いた。
釈尊には、「○○第一」と言われる優れた十人の弟子がいた。のちの仏典はみな、この弟子たちに師である釈尊(=世尊、婆伽梵(ばがぼん))が説法する形式になっている。
三、小乗仏教の二十部派
釈尊の没後、仏教教団はさまざまに展開をしたが、百年~数百年を経て二十部の部派に分れ、それぞれ「論書」を作って自説を主張した。空海はこの住心に次のように説いている。
(一)犢子部(とくしぶ)。
(二)賢冑部(けんちゅうぶ)。
(三)正量部(しょうりょうぶ)。
(四)密林山部(みつりんさんぶ)。
(五)経量部(きょうりょうぶ)。
(六)法上部(ほうじょうぶ)。
(七)説一切有部(せついっさいうぶ)。
(八)多聞部(たもんぶ)。
(九)雪山部(せつざんぶ)。
(十)飲光部(おんこうぶ)。
(十一)大衆部(だいしゅぶ)。
(十二)鶏胤部(けいいんぶ)。
(十三)制多山部(せいたさんぶ)。
(十四)西山部(せいざんぶ)。
(十五)北山部(ほくざんぶ)。
(十六)化地部(けじぶ)。
(十七)法蔵部(ほうぞうぶ)。
(十八)説仮部(せっけぶ)。
(十九)説出世部(せつしゅっせぶ)。
(二十)一説部(いっせつぶ)。
通常の仏教学では、釈尊の滅後百年で分裂(根本分裂)した上座部系と大衆部系とに分ける。
(一)雪山部
(二)説一切有部
(三)犢子部
(四)法上部
(五)賢冑部
(六)正量部
(七)密林山部
(八)化地部
(九)法蔵部
(十)飲光部
(十一)経量部
(十二)大衆部
(十三)一説部
(十四)鶏胤部
(十五)多聞部
(十六)説仮部
(十七)説出世部
(十八)制多山部
(十九)西山住部
(二十)北山住部
四、出家修行者・声聞の道
この声聞のレベルの背景となっているのは、すでにお察しのとおり、釈尊の仏教とその後の小乗部派の仏教、とりわけ「我と無我の二律」をテーマに物質・精神の両面からあらゆる存在・事象(「諸法」)の考察をした「アビダルマ仏教」(とくに「説一切有部」)の思想である。
空海は、声聞のレベルを説くこの住心の冒頭の「大綱」で、「比丘の二百五十戒」と「三十七菩提分法(さんじゅうしちぼだいぶんぽう)」(「三十七道品」)を最初に説く。「比丘の二百五十戒」は、釈尊が出家修行者の守るべき規範とした戒律。「三十七菩提分法」は同じく、実践すべき修行法。声聞は、釈尊の教団(サンガ、僧伽(そうぎゃ))の一員としてこの戒律と修行法に従うのである。
「比丘の二百五十戒」とは、釈尊に従う出家修行者が一気に増え、しばらくすると出家前の妻との淫行が発覚したりして修行者の規律が必要になった。その結果、最終的に男の修行者に二百五十戒になった。空海は、唐に渡る直前、官僧になるために、東大寺の戒壇院で「四分律(しぶんりつ)」によってこの二百五十戒を受けている。
二百五十戒の実際は、教団における修行生活の規律やそれが破られた時の解決方法を定めたものであるが、実に多岐にわたっている。
具には、
「三十七菩提分法」は、
○「身念処(しんねんじょ)」:身体に不浄があるのを観じ身体の無常を観想する。
○「受念処(じゅねんじょ)」:知覚はみな我執であり苦であることを観想する。
○「心念処(しんねんじょ)」:心のはたらきはみな無常であることを観想する。
○「法念処(ほうねんじょ)」:「諸法」はみな無我であることを観想する。
○「律儀断(りつぎだん)」:邪悪な思いや行いをしないよう勤める。
○「断断(だんだん)」:邪悪な思いや行いを断つよう勤める。
○「随護断(ずいごだん)」:善良な思いや行いをするよう勤める。
○「修断(しゅうだん)」:善良な思いや行いをさらに増やすよう勤める。
○「欲神足(よくじんそく)」:観想が首尾よくできるよう希求し、意識を集中する。
○「勤神足(ごんじんそく)」:観想が首尾よくできるよう努力し、意識を集中する。
○「心神足(しんじんそく)」:観想が首尾よくできるよう心を堅固にし意識を集中する。
○「観神足(かんじんそく)」:観想が首尾よくできるよう洞察し、意識を集中する。
○信:釈尊への信。
○精進:「四正勤」を実践する能力。
○念:「四念処」を実践する能力。
○定:「四神足」を実践する能力。
○慧:観想により深まった洞察の能力。
○「信力」:釈尊への信を発揮できる力。
○「精進力」:「四正勤」を実践する能力を発揮できる力。
○「念力」:「四念処」を実践する能力を発揮できる力。
○「定力」:「四神足」を実践する能力を発揮できる力。
○「慧力」:観想により深まった洞察の能力を発揮できる力。
○「択法(ちゃくほう)」:正しい法(理法)を選ぶ。
○「精進」:正しい修行に勤める。
○「喜覚(きかく)」:正しい教えを行う喜びをもつ。
○「軽安(きょうあん)」:正しい修行で身心が軽く安定した境地になる。
○「捨覚(しゃかく)」:観想の対象への執著を捨てる。
○「定覚(じょうかく)」:正しい禅定を行う。
○「念覚(ねんかく)」:正しい「四念処」を行う。
○「正見(しょうけん)」。
○「正思惟(しょうしい)」。
○「正語(しょうご)」。
○「正業(しょうぎょう)」。
○「正命(しょうみょう)」。
○「正精進(しょうしょうじん)」。
○「正念(しょうねん)」。
○「正定(しょうじょう)」。
五、声聞の瞑想法
空海は、以上の前提の上で、初歩的な観想法である「五停心観(ごじょうしんかん)」を説く。「五停心観」は、我執を止滅し心を静かに落ち着ける五種類の観法。「不浄観(ふじょうかん)」・「慈悲観(じひかん)」・「因縁観(いんねんかん)」・「界分別観(かいふんべつかん)」・「持(数)息観(じ(す)そくかん)」である。
具には、
空海は次に、声聞の瞑想法として阿毘曇(あびどん、アビダルマ、実際は『大智度論』の説)の「九相(くそう)」・「八念(はちねん)」・「背捨(はいしゃ)」・「勝処(しょうじょ)」・「一切入(いっさいにゅう)」・「三三昧(さんさんまい)」を説く。
「九相」(九想)は、人間の肉体の死後の屍相(しそう)を観想する「不浄観」(「白骨観」)。
「八念」は、修行中に常に心にとどめて忘れない。
「背捨」は、「八背捨」(妄執を捨て解脱に至る八種の禅定)、「八解脱」とも言う。
「勝処」は、「八勝処」(欲界の執著の対象となる色と形を観じ、その執著を勝伏して妄執にとらわれる心を除く八種の禅定)。
「一切入」は、「十一切処(じゅういっさいしょ)」・「十遍処(じっぺんじょ)」。
地・水・火・風・青・黄・赤・白・空(無辺処)・識(無辺処)が、あまねくどこにでも遍在するのを観察し、すべてはこの十の存在に過ぎないと観じる禅定。「八背捨」・「八勝処」のあとに行じる。
「三三昧」は、我執を断じる智慧が生れる境地(「無漏(むろ)」)の禅定。
六、声聞の修行の段階
空海はまた、『大乗同性経(だいじょうどうしょうきょう)』の所説により声聞の修行の段階を説く。
すなわち、「受三帰地(じゅさんきじ)」・「信地(しんじ)」・「信法地(しんほうじ)」・「内凡夫地(ないぼんぶじ)」・「学信戒地(がくしんかいじ)」・「八人地(はちにんじ)」・「須陀洹地(しゅだおんじ)」・「斯陀含地(しだごんじ)」・「阿那含地(あなごんじ)」・「阿羅漢地(あらかんじ)」の十段階(「声聞の十地(じゅうじ)」)である。
然らば、それに関連して「アビダルマ」が説く修行階位(「小乗の五位」)について先にふれておく。
「七方便」とは、「三賢(さんけん)」と「四善根(しぜんごん)」とである。
「四禅」(「はじめに」の「四禅天」に前述)・「三三昧」(前述)・「初禅」以前の「未至定(みしじょう)」、同じく「中間定(ちゅうげんじょう)」を修し、「三界」の妄執を断ずる段階。
次に、本題の「声聞の十地」である。
「欲界」と「色界」・「無色界」とに「四諦」を配して、「欲界」の「苦諦」・「集諦」・「滅諦」・「道諦」と、「色界」・「無色界」の「苦諦」・「集諦」・「滅諦」・「道諦」とし、
またそれぞれに、
「欲界」の「四諦」に「法智忍(ほうちにん)」・「法智(ほうち)」を、「色界」・「無色界」の「四諦」には「類智忍(るいちにん)」「類智(るいち)」を配して、合計で十六心。
ただし「無色界」の「道諦」の「道類智(どうるいち)」のみが「見道位」の次の「修道位」に配されるので、合計十五心である。この段階で聖者となる。
七、声聞道の理法
声聞が学ぶ理法は、釈尊のサトリである「四諦」・「八正道」である。
釈尊は、当時のインドの修行者と同じく、禁欲を徹底するとともに断食などの身体を痛める苦行(「タパス」)を行い解脱をめざした。しかし、過酷な苦行で疲れた身体では、瞑想の精神集中もはかばかしくなかった。疲れた釈尊は苦行を中断して、ネーランジャナー河(尼連禅河(にれんぜんが))で沐浴をして身体を清め、河のほとりでしばし休息していたところ、村の娘スジャーターから乳がゆ(パーヤサ、酥粥(そがゆ))の供養を受け、心身の疲労を除いてまたブッダガヤーの森にもどり、菩提樹の大樹の下でサトリに至ったのである。十二月八日、今行われている「成道会(じょうどうえ)」はこれに基づいている。
苦行(苦)でもなく王宮でのぜいたく(楽)でもなく、苦行を否定するわけでもなく楽欲を断つわけでもなく、適度のストイックとリラックスにより苦と楽の真ん中をいく方法。これを「苦楽中道(くらくちゅうどう)」といい、この「中(ちゅう)」の境地はやがて大乗の「中観(ちゅうがん)」思想に発展する。
「四諦」とは、「苦諦」・「集諦」・「滅諦」・「道諦」。
人間にとって生きること(生)自体が、本能的生存欲の苦。
老いて身体機能が低下し(老)、我欲が満たされない苦。
病気になって身心を病み(病)、我執と葛藤する苦。
それでも生きていたいのに死ななければならない(死)、本能的生存欲が否定される苦。
怨みや憎しみと出会ってしまう苦(怨憎会苦(おんぞうえく))。
いくら欲しくても手に入らない苦(求不得苦(ぐふとくく))。
心と身体の苦(五蘊盛苦(ごうんじょうく))。
「八正道」とは、「正見(しょうけん)」・「正思惟(しょうしい)」・「正語(しょうご)」・「正業(しょうごう)」・「正命(しょうみょう)」・「正精進(しょうしょうじん)」・「正念(しょうねん)」・「正定(しょうじょう)」である。
「業自性正見(ごうじしょうしょうけん、「業」についての「正見」)」・「十事正見(じゅうじしょうけん、果報などについての「正見」)」・「四諦正見(「四諦」についての「正見」)」などを実践すること。
これら「八正道」は、のちに「三十七菩提分法」の最後に説かれるようになる(前述)。
八、声聞が実在と見る「諸法」
声聞のレベルは、言い換えれば、釈尊の教えと「小乗」(「部派仏教」)のレベルである。
ここでいよいよ、小乗仏教の教科書『阿毘達磨俱舎論』(あびだるまくしゃろん、小乗部派の「説一切有部」の論書、世親(ヴァスバンドゥ)の作)が説く「五位七十五法(ごいしちじゅうごほう)」である。
「五位七十五法」とは、すべての存在や事象を五種に分類し、七十五種の物的心理的現象をそこに配分した仏教の基本思想。これがわかっていないととくに大乗の唯識思想はわからない。唯識は「五位百法」とした。仏教を教える大学で、『阿毘達磨俱舎論』をやらずに『唯識三十頌』や『成唯識論』を読む講義があるようだが、順序が逆である。
「五位」とは、「色法(しきほう)」・「心法(しんぼう)」・「心所法(しんじょほう)」・「不相応行法(ふそうおうぎょうほう)」の四つ「有為法(ういほう)」と一つの「無為法(むいほう)」。
具には、
①受(じゅ、感受)・②想(そう、表象)・③思(し、知覚)・④欲(よく、意欲)・⑤触(そく、感覚)」・⑥慧(え、判択)・⑦念(ねん、記憶)・⑧作意(さい、注意)・⑨勝解(しょうげ、確認)・⑩三摩地(さんまじ、心統一)。
①信(しん、浄信)・②勤(ごん、努力)・③捨(しゃ、平静)・④慚(ざん、自ら恥じること)・⑤愧(ぎ、他に恥じること)・⑥無貪(むとん、貪りがないこと)・⑦無瞋(むしん、瞋りがないこと)・⑧不害(ふがい、敵意をもたないこと)・⑨軽安(きょうあん、身心が軽いこと)・⑩不放逸(ふほういつ、怠惰でないこと)。
①無明(むみょう、無知迷妄)・②放逸(ほういつ、散漫)・③懈怠(けたい、怠惰)・④不信(ふしん、浄信がないこと)・⑤惛沈(こんじん、憂鬱)・⑥掉挙(じょうご、高揚)。
①無慚(むざん、自ら恥じることがない)・②無愧(むぎ、他に恥じることがない)。
①忿(ふん、忿り)・②覆(ふく、隠ぺい)・③慳(けん、ものおしみ)・④嫉(しつ、嫉妬)・⑤悩(のう、懊悩)・⑥害(がい、敵意)・⑦諂(てん、へつらい)・⑧誑(おう、あざむくこと)・⑨憍(きょう、思い上がり)・⑩恨(こん、恨み)。
①悪作(おさ、後悔)・②眠(みん、ぼんやり)・③尋(じん、認識対象を漫然と認識すること)・④伺(し、認識対象を細かに認識すること)・⑤貪(とん、貪り)・⑥瞋(しん、怒り)・⑦慢(まん、慢心)・⑧疑(ぎ、疑い)。
①「得(とく、諸法を結合させること)・②非得(ひとく、諸法を結合させないこと)・③同分(どうぶん、同類性)・④無想(むそう、心と心所がともに滅して無いこと)・⑤無想定(むそうじょう、心と心所がともに滅して無い禅定)・⑥滅尽定(めつじんじょう、心のはたらきがすべて滅した禅定)・⑦命根(みょうこん、生命力)・⑧「生(しょう、諸法を生ずること)・⑨住(じゅう、諸法をそのままにとどめること)・⑩異(い、諸法が変化すること)・⑪滅(めつ、諸法が滅すること)・⑫名身(みょうしん、名称・表示)・⑬句身(くしん、文章の章・句)・⑭文身(ぶんしん、音声の区切り、音節)。
アビダルマ(「説一切有部」)の論師が考えたこの「七十五法」や、後の「唯識派」の論師が主張した「百法」を、仏教では「諸法」と言う。この「諸法」を分析し考察することにより、アビダルマの人たちは、この「私」を「諸法」に分解して、執著に価しない「無我」とした。ただし、「諸法」の一つ一つは実在(「法我(ほうが)」)とする。このアビダルマの我・無我の見解を「人無我(にんむが)」・「法我(ほうが)」と言う。
九、空海の声聞道
釈尊とその後継者たちがいかに我執・我欲を抑えそれを滅除するか、どのような修行の方法で「六道」輪廻から解脱するか、ひとえに人間が人間として生きる上での本能的生命欲の当然を強い意志で滅するか、きわめて困難な精神的肉体的修練をやっていたか、声聞道を一瞥してわかった。釈尊の教団だけでなく当時のインドの林棲修行者はすぐれてストイックで、それで当たり前だったのであろう。
しかし、空海の目から見ると、あまりに苦というものを一元的に見ていないか、「一切皆苦」といい、「四諦」・「八正道」といい、「十二因縁」といい、釈尊は人間が生きることすべてが苦であると思い過ぎていなかったか。人間が我執・我欲に溺れ煩悩に染まることをあまりに性悪なものと見過ぎていなかったか、釈尊の成道は「苦楽中道」だったはずだが、と思えてくる。釈尊は二百五十もの戒律を出家修行僧に守らせ、本能的生存欲を瞑想法で断とうとした。どうしても、人間は性悪だという前提に立っている。だから、あくまでその原因の「無明」を滅除しようとした。
釈尊や弟子たちはそれを成就したかもしれないが、アビダルマの人たちは瞑想中に心に生じる「諸法」の分析学に終始した。どこまで心が静かになり集中すればよいか、どこまで煩悩がなくなったか、そっちの方に関心が移った。
釈尊は、楽すなわち、尼連禅河のほとりでの休息とスジャーターの供養のあとに、サトリのヴィジョンを見たことをどう考えたのだろうか。人間は楽のなかに善が生じ喜が生れ、本有の「仏性(ぶっしょう)」が顕れる。釈尊は人間に「仏性」を見ていなかったのだろうか。それでは、ヒンドゥーの林棲修行者の域を超えていないのではないか。
のちの大乗は、この問題を提起した。
その大乗が考えたのが、「山川草木(さんせんそうもく)悉有仏性(しつうぶっしょう)」であり、「諸法」は執著の対象の苦ではなく「実相(じっそう)」(「空」という真理の顕れ)だという見解である。密教はその「仏性」を「菩提心」としたのである。
然るに、空海の場合、よき師に恵まれ、よき教授・先達に恵まれ、その教えを聞き、それをよく思惟し、それをよく実践した。いわば、声聞道を充分に行ったのである。
まず、アビダルマで言う「資糧位」、すなわち仏道修行に入る前の予備的な期間にあたることから拾えば、最初に、大学寮に通うかたわら出入りしたであろう大安寺のことが思い浮かぶ。ここで、空海は日本人の僧以外に何人も渡来僧と出会って、その顔だちや目の色や言葉のほか、海を渡ってまで日本にきて仏教を伝え広めようとしている堅固な志操の何たるかを目の当たりにしたにちがいない。
さらに、二百五十もの守るべき戒律があってみなそれを守っていること、八万四千もの法門があってその修学に余念がないこと、みんながめざしているのは、経論を勉強して知識を高めたり深めたりするだけでなく、瞑想によってサトリの智慧に到達できることだと知った。
大安寺の勤操は、大学寮の学生にもかかわらず、しばしば来ては日々僧たちと交わっていく空海を見て、並々ならぬ逸材の予感をもったであろう。この勤操という師との出会いは空海にとって一番の「資糧」であった。空海は彼から「南都六宗」の「仏教概論」と瞑想法としての「虚空蔵求聞持法」の概要を教えられたに相違ない。それが最初の「資糧位」である。
「仏教概論」は当然、俱舎(アビダルマ)からはじまり法相(唯識)へ、法相学をやりながら三論を、そしてしばしば『般若経』・『法華経』・『華厳経』に話が及んだだろう。求聞持法は、おそらく勤操が直接伝授したのではなく、同じ大安寺の戒明が指南したか、あるいは元興寺の護命が教授してくれたかにちがいない。いずれにしても、インド的な超世俗の価値世界を具体的に教えられたことは、これも大変な「資糧」だった。
そこで空海は、大胆にも大学寮と朝廷官僚への立身出世を捨て、ヤマに入った。学解による「仏教概論」を深めるのは環境がほぼ調ったとして、教えられた求聞持法の修行場を求め山岳修行のヤマに向ったに相違ない。
最初のヤマはおそらく葛城山・金剛山だったであろう。修験の祖役行者のホームグラウンドであり、あの妖僧といわれた道鏡(どうきょう)も宿曜法(しゅくようほう、密教の占術)を葛城山の「葛城修験(かつらぎしゅげん)」で身につけた。
そこには大勢のヤマの行者がいたであろう。
『法華経』持経の行。
丹薬を使い不老不死をめざす道術の道士。
大木・滝・洞窟・巨岩など自然の霊威が強いポイントに神を見て禊をする自然信仰の行者。
危険な岩によじ登り天と交信したり危険な尾根道を飛ぶように走る行者。
日がな星宿を調べ、時には陀羅尼を唱えている行者。
あるいはそれらをミックスして独自の行を行う行者。
ヤマの行にもさまざまあることを知ったのも「資糧」である。
然るに、空海にとってはこのヤマに身を置くこと自体、出家であった。無論のちに「沙弥戒(しゃみかい)」(「十戒」)を受けて正式出家するのであるが、大学寮出奔が即空海の実質的な出家であり、毎日来る日も来る日もたった独り山菜を採るくらいで殺生せず、盗むものもなく、邪淫などありえず、嘘を口にするほど人とはまみえず、酒などヤマにはない。ヤマで暮すこと自体がすなわち持戒だった。
ひたすら空海はヤマのなかを歩いたであろう。大安寺で教えらえた「求聞持法」に出てくる虚空蔵菩薩の真言を諳んじながら歩いたであろう。「資糧位」から「加行位」への本格的始動である。
空海は次に吉野に入ったであろう。そこで「自然智宗」の行者と出会ったはずである。そこに元興寺の護命も来ていたにちがいない。
護命は、元興寺にありつつ吉野の比蘇寺の「自然智宗」に連なり、月の上半は吉野で求聞持法を修練し、下半は元興寺で法相・倶舎の論学につとめていた。空海はその時期、この護命の行学方法を模範としていたふしがある。『性霊集』には、八十四才まで生きた護命の長寿を寿ぐ空海の詩が二編収められている。
話が少し逸れるが、勤操は大和高市郡檜隈(ひのくま)の、護命は美濃の、いずれも秦氏の出自である。渡来系氏族の秦氏は空海とも親しく、その技術集団は空海の潅漑工事・港湾改修を助けたことを想像させるに充分な関係だった。その秦氏が豊前の「秦王国」の時代、虚空蔵信仰をもっていた。
秦氏が朝鮮半島南端の「加羅・伽羅(から)」からもたらした韓国(からくに)の神(「香春(かわら・かはる)神」)が、大和からもたらされた応神天皇の霊と混淆して成った「ヤハタの神」(=香春八幡神)を奉ずる宇佐八幡神宮の境内に今も残る弥勒寺跡はかつて宇佐地方に最初に建立された仏教寺院虚空蔵寺の旧跡でもある。英彦山(ひこさん)修験の僧法蓮(ほうれん)が初代住職をした。
秦氏は、製銅技術ほかの金属製造技術に長け、豊前の「秦王国」で精銅を産出し、東大寺の盧舎那仏建立の際多くの純銅を供出したことでも知られるが、やがてその銅(から・かる)の鉱脈を追うように畿内や紀伊半島方面に移動し、吉野や宇陀に勢力を伸ばしている。「秦王国」から吉野に虚空蔵信仰がもたらされても不思議はない。「自然智宗」は実は秦氏ではなかったか。求聞持法は秦氏系の僧や修行者が主導していたのではないか。
そして空海は、高野山に上る。
やがて自らの密教の根本道場となる高野山も、この時は若いヤマの行者だった空海が霊威を強く感じたヤマの「野」であった。吉野・熊野・高野(たかの)、日本の古代宗教のミステリートライアングルの「野」(パワースポット)である。
この高野山の「平原ノ幽地」で空海は何もしなかったか。ただ、通り過ぎただけだろうか。いや、しばらくの間とどまって求聞持法を修習したであろう。この頃になると、陀羅尼は意識して発音など気にしなくても流暢に口をついて出たであろうし、眼前や眼下に広がる大虚空に虚空蔵菩薩を観じそれに心を集中することもでき、ヤマの行者として身心も浄められ、我欲・妄執にとらわれることはほとんどなくなっていたにちがいない。すぐれて「加行位」である。
次いで空海は、小辺路を下り一気に熊野に出たであろう。熊野では、熊野三山に詣でたあと那智で海辺の行者道をたどったと思われる。洞窟には、かつて『法華経』持経の海浜の行者が暮した跡や、かがり火を焚いた場所も残っていたにちがいない。
空海は何日間も洞窟に篭り、水平線の彼方の「補陀落」世界を凝視し、実際に底を目指して海中に沈んだ多くの行者を思いつつ、広く広がった虚空に虚空蔵菩薩を感じながら、何千回も真言を誦した。「加行位」の練磨である。
このあと空海は、海辺の道をぐるっと北上し、紀伊の加太(かだ)に出て、そこから四国に渡ったであろう。おそらく小舟で淡路島の福良(ふくら)の港に入り、そこからまた蜑(あま)の舟を頼り、鳴門の潮をしのいで阿波の撫養(むや)の港に上陸し、そのまま太龍ヶ岳へ向ったに相違ない。
谷響キヲ惜シマズ、明星来影ス。
太龍ヶ岳、すなわち山頂の近くに今、四国霊場第二十一番太龍寺のある太龍山には東西南北の舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ、今は南北の舎心岩のみ)があった。
「舎心」は「捨身」のことで、行場の岩場から谷に身を投げることである。空海の頃、ある熊野の辺路(へんろ)禅師のように、実際に「捨身」を敢行する行者がいた(『日本霊異記』)。それがのちの修験に「業秤(ごうのはかり)」・「覗き(のぞき)」(大峯山の「西の覗き」・「東の覗き」など)となって残ったが、それが那智や足摺岬では海中や「常世」への「捨身」(「補陀洛」渡海)となった。
空海は、千仭の谷を見下ろす岩に坐して求聞持法を修習している時、谷底に向って落下しながらも空中浮遊する霊威を感得したにちがいない。谷に落ちてゆく空海の身体が虚空蔵菩薩と一体と化して空中に浮遊する感覚(一種の幽体離脱)を体験するのも不思議ではない。これを「捨」のみの「色界」の「第四禅」、あるいは意識がわずかに働いているが、想い浮かべるものもなく、想い浮かべるものがないでもない、「無色界」の最高の境地「非想非非想処」(「有頂天」)と言ってもいいだろう。
空海のヤマの修行は、すでに「加行位」から「見道位」のレベルになっていた。
四国に入った空海は、次の行場を室戸の窟と決めていた。太龍ヶ岳を下りると阿波の海岸線をひたすら歩き室戸岬をめざした。
室戸では、遂に「見道位」から「修道位」へ、そして「無学位」の「阿羅漢果」へとレベルアップする。
虚空蔵光明照シ来リテ、菩薩ノ威ヲ顕シ、仏法ノ無二ヲ現ズ。
室戸崎尖端の東側、国道55号に面した断崖に大きな洞穴が二つ開いている。向って右側が空海が修行の場とした「神明窟(しんめいくつ)」、左側が起居の場とした「御厨人(みくろど、御蔵洞)窟」である。
「神明窟」は奥に祀られている神祠まで約十mで、洞内はほとんど湿気を感じない。
「御厨人窟」は奥の五所神社の神祠まで約四十m、洞の天井からたえず水がしたたっている。
内から外へと目をやると鳥居越しに太平洋の水平線が見える。まさに空と海と大地とが一体の辺路(へち、へぢ)の行場であった。
室戸崎は、古名「最御崎」(ほつみさき)。「ほ」は「ほてる(火照る)」の「火」、「ほつ」は「火の」で、「ほつみさき」とは「火の御崎(岬)」である。「火の岬」が転じた「日の岬」は、日本全国に点在する。
室戸崎は空海以前から辺路(へんろ)の行場であったろう。彼らはこの海浜や洞窟でかがり火(龍灯)を焚くのを行としていた。水平線の彼方の「常世」の神である「龍神」に奉げる聖なる火である。それを空海は承知していた。
『三教指帰』では、
飛燄ヲ鑽燧(さんすい、火打ち石で火をおこすこと)ニ望ム。
冬ハ則チ頸ヲ縮メ、袂ヲ覆テ、燧帝(すいてい、火の神)ノ猛火ヲ守ル。
と言っている。
ある朝空海は、行場の「神明窟」で求聞持法の修法に入り、虚空蔵菩薩の真言(根本明)を唱えつづけていた。
ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン マリ キャマリ ボリ ソワカ
ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン マリ キャマリ ボリ ソワカ
すると瞬間、虚空蔵菩薩の象徴である「明星」が飛来して、真言を唱える空海の口に入った。空海という小宇宙(人間)が大宇宙(虚空蔵菩薩という宇宙の仏)と「一体無二」となったのである。この超常状態を密教では「成就」(シッディ)という。具に言えば、空海の誦ずる虚空蔵菩薩の真言のなかに言霊のように内在していた虚空蔵菩薩が、明星の姿となって空海の口のなかに顕れたのである。
室戸で「修道位」から「阿羅漢果」の境地を得た空海は、もう一度ヤマの頂でそれを再現したいと思っても不思議ではない。空海は次に四国の霊峰石鎚山に上った。よじ登ったと言う方があたっているだろう。
粮(かて)ヲ断テ轗軻(かんか、思うように進めない)タリ。
石鎚山では、(おそらく弥山と天狗岳の)急峻の往復にも食をとらず動けなくなった、という。山岳修行者にとって断食はありうる行ではあるが、二千mにもなる山の上の修行では食を確保すること自体が不可能に近い。文字通り命がけの修行である。おそらく空海は、天狗岳の頂の尖端で求聞持法を修し、虚空に浮かび(空中浮遊)虚空蔵菩薩と一体になる超常体験をしたであろう。
四国から奈良に帰った空海は久しぶりに大安寺に現れた。勤操が正式に仏道への入門を勧めたのである。
延暦十二年(七九三)、おそらく春から夏にかけての頃、空海は和泉の槇尾山寺において勤操に従って剃髪し、「沙弥戒」十戒を受けて大安寺所属の沙弥となった。それ以後、空海は私度僧(しどそう)であるものの、大安寺の見習い僧として南都官大寺の各種講筵にも出入りできるある種公的な身分となった。空海は二十才だったが、おそらくもう一人前の僧侶の風貌だったろう。
沙弥とは、十四才から二十才までの年少の出家修行者を言い、いわゆる見習い小僧のことであるが、空海の場合年齢の制限のために沙弥であったまでで、修行のレベルはすでにサトリを経験するレベルにまで高まっていたし、「沙弥戒」が規定している戒律はとっくにヤマで守っていた。
私度僧ながら正式な仏道修行者になった空海は、二十四才で『三教指帰』を書くまでの間、「南都六宗」の学問仏教を精力的に学ぶ一方、合い間をぬって吉野に行き、変らず求聞持法や「自然智宗」の瞑想法などを練行したと思われる。
『三教指帰』の文の引用先の典拠を見ると経典や論書などの並々ならぬ勉強ぶりがわかる。四年間、『俱舎論』・『成唯識論』・『中論』・『法華経』・『華厳経』ほか、それに関連する「注釈」や中国人の祖師や論師が残した「論書」まで、おそらく適切な師について徹底して勉強したのだろう。例えばだが、教室も教授も文献資料もそろっている今の仏教系大学の四年間で、空海のこの四年間ほどの勉強ができるだろうか、そして『三教指帰』ほどの卒論が書けるだろうか。たぶん無理であろう。
『三教指帰』を書いた空海は、その後三十一才で渡唐するまでの七年間どこで何をしていたか。この「空白の七年」、文献資料は何も語ってくれないが、長安での奇跡的といわれる事蹟から類推すれば、第一に華厳を相当のレベルで勉強していたこと、第二に西大寺に出入りし当時奈良に伝わっていた密教仏や天平写本の『大日経』にふれ、その何たるかを追っていたこと、第三におそらく大安寺で、渡来僧の誰かから興福寺の霊仙(りょうせん)らとサンスクリットを習っていたことが考えられる。この三つとも空海渡唐の有力な動機である。この三つに費やすのに七年はちょうどの歳月である。それが長安での事蹟と符合する。
延暦二十三年(八〇四)四月七日(あるいは九日)、空海は東大寺戒壇院にて、元興寺の唐僧・泰信律師から「具足戒」(二百五十戒)を受戒し得度した。
立ち会ったのは、西大寺の勝傳(しょうでん)・平福、東大寺の安禎(あんじょう)・真良・安曁(あんぎ)・薬上(やくじょう)、興福寺の信念・霊忠(りょうちゅう)、唐招提寺の豊安・安琳(あんりん)らの諸律師だったという。おそらく勤操が上座で陪席し、親族席には阿刀大足が上席に坐ったであろう。ほどなく「僧網所(そうごうしょ)」から「度牒(どちょう)」が出て正式な官僧になった。その時「僧網所」にはあの護命がいた。
延暦二十三年(八〇四)五月十二日、空海は二十年の長期留学を義務とする「留学生(るがくしょう)」として、一年おくれの第十六次遣唐使船団の第一船に乗り込み難波ノ津を出航した。この時、第二船には天台山に短期留学する「請益僧(しょうえきそう)」の最澄が乗っていた。
東シナ海で海難に遭い、難破船同様で赤岸鎮に漂着し、福州で上陸に難儀し、やっと長安に入った空海は、醴泉坊にある醴泉寺(れいせんじ)のインド僧・般若三蔵(はんにゃさんぞう)をまずたずねた。目的の第一は華厳、第二の目的はサンスクリットだったはずである。
般若三蔵は『四十華厳』の漢訳をしていた。『四十華厳』は『六十華厳』や『八十華厳』の最終章である「入法界品(にゅうほっかいぼん)」(「善財童子」という仏教に帰依した童子が、五十三人の「善知識(ぜんちしき)」を訪ねて教えを乞い、その教示に従って菩薩行を重ねる旅のはてに、最後の普賢菩薩のところでやっとサトリに至る物語)に当る。この『四十華厳』の漢訳には、華厳宗第四祖の澄観(ちょうがん)も詳定(しょうてい、校閲)に加わっている。空海は、東大寺で学んできた法蔵(ほうぞう、華厳第三祖)などの華厳教学の理解が正しかったかどうか確かめられたであろう。
この般若三蔵のもとで、同じくインド僧の牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)にもサンスクリットを教えてもらった。大安寺である程度習っていたので空海のサンスクリットの語学力は飛躍的に上達したに相違ない。その語学的正確さは、『三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)』に残された悉曇やその注意書きの赤入れを見ればわかるし、他の著でも「有財釈(うざいしゃく)」・「依止釈(えししゃく)」など合成語(コンパウンド)の用例を使い比喩的に述べているところがある。サンスクリットの語学力が相当にあった証左である。
華厳とサンスクリットは醴泉寺で何とかなった。残るは、『大日経』である。
さすがの空海でも西大寺で手にしたこの密教経典はよくわからなかった。とくに「具縁品」以下の事相にあたる各章である。般若三蔵は空海に青龍寺の恵果和尚をたずねるよう教えたであろう。
我、先ヨリ汝ガ来レルコトヲ知リテ、相待ツコト久シ。
今相見ユルコト大ヒニ好シ、大ヒニ好シ。
報命竭キナント欲スルニ、付法ニ人ナシ。
必ズ、須ク、速カニ、香花ヲ弁ジテ、潅頂壇ニ入ルベシト。
六月上旬ニ、学法潅頂壇ニ入ル。
是ノ日、大悲胎蔵ノ大曼陀羅ニ臨ミ、法ニ依リテ花ヲ抛ツニ、
偶然トシテ、中台毘盧遮那如来ノ身上ニ着ク。
五部潅頂ニ沐シ、三密加持ヲ受ク。
是ヨリ以後、胎蔵ノ梵字儀軌ヲ受ケ、諸尊ノ瑜伽観智ヲ学ス。
七月上旬ニ、更ニ金剛界ノ大曼荼羅ニ臨ミ、重ネテ五部潅頂ヲ受ク。
亦抛ツニ、毘盧遮那ヲ得タリ。和尚驚嘆シタマフコト前ノ如シ。
八月上旬ニモ亦、伝法阿闍梨位ノ潅頂ヲ受ク。
是ノ日、五百ノ僧斎ヲ設ケ、普ク四衆ヲ供ス。
青龍大興善寺等ノ供奉大徳等、並ビテ斎筵ニ臨ミ、悉ク皆随喜ス。
『金剛頂瑜伽』五部ノ真言・密契ヲ相続ヒテ受ケ、梵字・梵讃モ間モテ是ヲ学ス。
恵果和尚は、「君が長安に来ていること、そしていずれ私のところに来るだろうと思っていたが、けっこう待った。すぐに私の両部の密教を伝授しよう」と言い、まず空海を密教の弟子とするために、
六月上旬「胎蔵界」の「学法潅頂(がくほうかんじょう、マンダラ上の一尊と結縁し、その尊の真言を師から授かる潅頂、受明潅頂、持明潅頂、弟子潅頂、受法潅頂ともいう)」を授け、それにともなって「胎蔵界念誦法(ねんじゅほう)」の真言・陀羅尼や儀軌(「念誦次第(ねんじゅしだい)」)を与え、
それを受けて空海は「瑜伽観智(ゆがかんち)」つまり「胎蔵界念誦法」によって「胎蔵界」大日如来と「入我我入」する修習をした。
七月上旬には「金剛界」の「学法潅頂」を授け、 「御請来目録」の文は略しているが「金剛界念誦法」の真言・陀羅尼や儀軌を授け、それによって空海は「金剛界」大日如来と「入我我入」する修習をした。
続いて八月上旬、今度は「伝法潅頂(でんぼうかんじょう、両部の大日如来の秘密印と真言を口授され、一人前の阿闍梨になっていくための潅頂)」を空海に授けた。
これは異例の速さである。「御請来目録」の文は略しているが、「金剛界」「胎蔵界」両部とも同日同様に受法したはずである。その日は、五百人分の食事を用意し、青龍寺や大興善寺などの諸大徳が参座して、みな随喜し祝ったという。
恵果は初めて出会った日本の留学生空海に、たった二ヵ月間の密教経験で「伝法潅頂」までを授けた。この異例の速さは、恵果和尚の高齢の体調もさることながら、空海にはその準備ができていたと言う方が正解ではないか。空海は相当に密教やサンスクリットを予習していたと思うほかない。
「学法潅頂」のあと、儀軌(「胎蔵界」・「金剛界」の「念誦次第」)をもとに空海は連日その観法を実修したにちがいない。これは、今、私たち真言僧に課せられている「加行」にあたり、私たちが「加行」中七日間毎日三回行う「金剛界」・「胎蔵界」の「念誦法」修習と同じだったと思われる。空海はこれを毎日三回、約一ヵ月行っただろう。求聞持法の練磨で観法に熟練し梵字・悉曇も上達した空海なら充分にやり遂げたはずである。だから、すぐ「伝法潅頂」だったのである。
目的の一つ『大日経』はおそらく「伝法潅頂」のあとだった。今でも真言宗では「伝法潅頂」未修の者には『大日経』を講伝しない。空海は、華厳の学識をもとに『大日経』の教理部分にあたる「住心品」第一を、二ヵ月間の「念誦法」修習によって「具縁品」第二以下をようやく理解できるようになったのだ。命がけの渡唐の目的は一年足らずで達成されたのである。あとは日々「三密行(さんみつぎょう)」の修練だった。
両部の大日と一体になる「入我我入」を中心とする密教の「念誦法」は、別に各尊の「供養法(くようぼう)」とも言われるが、「凡夫」レベルだった行者(修瑜伽者(しゅうゆがしゃ))が「伝法潅頂」を受けることでアビダルマで言う聖者→阿羅漢と同等の修行者とみなされ、阿羅漢の境地を保つために「金剛界」「胎蔵界」の「念誦法」を重ね、あるいは寺の本尊の「念誦法」(「不動法(ふどうぼう)」・「千手観音法(せんじゅかんのんほう)」・「薬師法(やくしぼう)」など)を重ね、そして已達(いだつ)と言われるようになって「伝法潅頂」の師位を履修し、「阿闍梨(あじゃり)位」なのである。今の私たちは実態がなかなか伴わないが、空海はその数ヵ月後に帰国する頃には立派な「真言付法」の第八祖「阿闍梨」になっていた。