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空海の仏教総合学 その4

第三章 人間の宗教心を問う

一、嬰童無畏住心

「十住心」の第三は「嬰童無畏住心(ようどうむいじゅうしん)」である。
 嬰童とは、幼い子供、宗教的には初心の者の意。無畏とは、煩悩に縛られる畏れのないこと、心に煩悩の雲がなく安らかなこと。すなわち、幼い子供が初めて崇高なものに感動をした時のような無垢な宗教心があり、神仏に対し純粋な帰依や信仰をもっていること、邪心がないことである。

言ってみれば、事の是非はともかく、明治・大正・昭和二十年くらいまでの生れの日本人の大多数がこの住心に該当するだろう。子供の頃から、神仏や先祖への畏敬をしつけられ、理屈を言わず素直にそれに従った。決して豊かでない生活や仕事の日々、日本古来の神々を崇敬し仏を信奉し仏となった先祖を粗末にしなかった。
 そして、地域の神社の氏子として、先祖を祀るお寺の檀家として、自ら信仰するお大師様・観音様・お不動様・お聖天様やお伊勢さん・お稲荷さん・天神さん・恵比寿さんの信者として、神社や菩提寺の護持発展のために信助を惜しまなかった。
 葬儀となれば、一族郎党みなかけつけ、手分けして葬儀の準備をした。死者を出した家族の手を助けるためである。集まった親族は、葬儀の準備は何をすればいいかみなわかっていた。そこに組内の人たちが手助けに来る。みな何をすればいいか心得ていた。血縁と地縁がすぐに死者の前に神妙に集まり相互扶助を行った。これを空海は曼荼羅世界と言うであろう。
 空海の言う嬰童とは、宗教的には初心のレベルではあるが、邪心なく神仏に帰依するという意味で日本人本来の志操のレベルと言っていい。

空海はまず、世間の人々が信仰するヒンドゥーの神々への帰依を挙げ、次いでインド哲学の思想を紹介し、異教の神に帰依するのも、ブラフマン(「梵」)やアートマン(「個我」)やプラクリティ(本源的な物質)といった「我」を認めるインド思想に帰依するのも、因果の道理を知らない前の住心とは異なり、畏れのない勝れた心を醸成するという。

ヒンドゥーの神々とは、

○「自在天」:ヒンドゥーの創造神イーシュヴァラ。
○「梵天」:ヒンドゥーの宇宙本源の神ブラフマン(「梵」、神我)。
○「商羯羅(しょうきゃら)」:シャンカラ、大自在天(シヴァ神)の異名。
○「黒天」:空海が言うには嚕捺羅(ろどら)=ヒンドゥーのルドラ神(暴風雨の神、雨の恵みの神)で大自在天の眷属であるが、大黒天という意味にとればヒンドゥーの戦闘や財宝の神でシヴァの化身マハーカーラ。
○「龍尊」:空海は大龍という。おそらく八大龍王などの龍王(ナーガラージャ)であろう。
○「俱吠羅(くべいら)」:ヒンドゥーの富や財宝の神クベーラ。『金剛頂経』では毘沙門天の別名。
○「梵天后」:梵天の妃神サラスヴァティー(弁財天)。
○「波頭摩(はづま)」:神龍のパドマ。
○「得叉迦龍(とくしゃかりゅう)」:八大龍王の一、トークシャカ龍。
○「和修吉龍(わしゅうきつりゅう)」:八大龍王の一、ヴァースキ龍、九頭龍。
○「商佉龍(しょうぎゃりゅう)」:シャンカ龍。
○「羯句摘剣龍(きゃらくだけんりゅう)」:カルコータカ龍。
○「大蓮華龍」:マハーパドマ龍。
○「俱里剣龍(くりけんりゅう)」:クリカ龍。
○「摩訶泮尼龍(まかはんじりゅう)」:マハーパニカ龍。
○「阿地提婆(あじだいばりゅう)」:アーディデーヴァ龍。
○「薩陀龍(さつだりゅう)」:サダー龍。
○「難陀龍(なんだりゅう)」:八大龍王の一、ナンダ龍。
○「天仙」:五神通(天眼通・天耳通・他心通・宿命通・如意通)を身につけた神仙。
○「囲陀(いだ)」:ヒンドゥーの聖典『ヴェーダ』(リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ)。

さらに空海は、異教や小乗の人が行っている瞑想も、内なる「我」や外界の「我」(絶対者、ヒンドゥーの神など)への執著はあるが空の智慧に至るのも可能であると言い、「十六外道」を紹介する。

すなわち、

○「雨際(うさい)」:因のなかに果がすでにあると執著する論者ヴァールシャ。
○「数論(すろん)」:あらゆる存在や事象の本質はもともと実在であるが、縁によって生ずるというインド「六派哲学」のサーンキヤ学派。
○「声論(しょうろん)」:音や声の本質は常住不変であるが、縁によって発せられて顕われるという「六派哲学」のミーマーンサー学派。
○「勝論(かつろん)」:過去も未来も実在とする、「六派哲学」のヴァイシェーシカ学派。
○「時論(じろん)」:勝論と同じ思想のカーラ・ヴァーダ(「時論派」)。
○「犢子部(とくしぶ)」:プドガラ(補特伽羅、輪廻転生の主体となる自我)を主張する小乗部派の一つ。
○「伊師迦(いしか)」:イーシャカ(支配者・最高神)を信じ、その永遠性や過去世のことがわかる宿住智(しゅくじゅうち)を説く論者。
○「無繋(むげ)」:現世の苦の原因は、過去世で行った行為であると説く論者。
○「自在変化(じざいへんげ)」:世間の苦楽の原因は大自在天の姿の変化にあると説く論者。
○「害正法(がいしょうぼう)」:供儀(くぎ)のために命ある者を殺すのを正法であるとする論者。
○「辺無辺」:上下(縦)には限りがあるが、横には限りがないという論者。
○「不死矯乱(ふしきょうらん)」:不死の浄天にいて、それは秘密で言えないという論者。
○「諸法無因」:存在するものすべて、因なくして生ずるという論者。
○「断見」:「欲界」の人間・天と、「色界」の「四禅定」で生じる「四大」(地・水・火・風)と、「無色界」の「四禅定」で生じる微細な物質は、自分の死後はみな滅してなくなるという論者。
○「空見」:「尋」・「伺」や禅定によって、因果も施与も祭祀も、善悪の応報の報いも、「阿羅漢(あらかん)果」も実在しないとする論者。
○「最勝」:闘いや口論の多い時代、バラモンは最も勝れた種族であると説く論者。
○「清浄」:ガンジス河での沐浴によって諸悪が滅するとか、狗戒(くかい、犬のマネをする苦行)・油墨戒(ゆぼくかい、油や墨を身体に塗る苦行)・露形戒(ろぎょうかい、裸の苦行)・灰戒(はいかい、灰をからだに塗る苦行)・自苦戒(じくかい、自らを苦しめる苦行)・糞穢戒(ふんえかい、糞をからだに塗る苦行)を守れば涅槃に至ると説く論者。
○「吉祥」:「尋」・「伺」や禅定により、太陽や月や星宿の運行を見て、それらを供養し、神呪(じんしゅ)を誦し、茅の草を敷く、天文を占う者(歴数者)。

このうち、数論すなわちサーンキヤ学派、声論すなわちミーマーンサー学派、勝論すなわちヴァイシェーシカ学派は、古代インドの「六派哲学」のうちの三学派である。

サーンキヤは、プルシャ(「絶対知」を本性とし微細な実在として無数に存在する精神原理、神我、純粋精神、見る者=観照する者)とプラクリティ(すべての事象の本源的な物質原理、物質的本源、見られる者=被観照者)の二元の実在を説き、プルシャ(「絶対知」、見る者)がプラクリティ(見られる者)を観照することにより、プラクリティが変化してすべての事象が生じるという。
 人間そのものを苦とし、その苦から解脱するためには、プラクリティから生じる「ブッディ」などの「二十五諦」(二十五の原理)をよく理解し、ヨーガを実修しなければならない、とする。ヨーガ学派は思想的にこのサーンキヤ哲学に依拠している。

ミーマーンサー学派は、ヴェーダの聖典に説かれる祭祀の研究をする学派。祭祀の実践こそ現世・来世の果報につながるという。ヴェーダの祭祀に伴いヴェーダの聖典語に聖なる実在を認め、「声」(「シャブダ」)の常住不変を説く。
 ヴェーダーンタ系のサンスクリット文法学者バルトリハリは、同文法の先学パタンジャリの、「コトバが発せられた時に、つぼみから花が開くように、ことばの霊威(言霊)がはじけ出る」という「スポータ」説を受け、ヴェーダの聖語である「声」(「シャブダ」)は永遠の実在(ブラフマン)としてすべての現象の奥にひそんでいて、それが発音される時は声として生じるのではなく、現象として顕現するという「声顕論(しょうけんろん)」を説いた。

ヴァイシェーシカ学派は、「実体」・「属性」・「運動」・「普遍」・「特殊」・「内属」のカテゴリー(「六句義」)によってすべての現象世界を説明する。これらはみな知とは離れた実在であるとする多元論的実在論。カナーダが著した『ヴァイシェーシカ・スートラ』を根本とする。

○「実体」には、地・水・火・風・虚空・時間・方角・アートマン・意(マナス)があり、地・水・火・風は原子。虚空はエーテル(大気)。時間・方角は遠近・早い遅いなどと位置。アートマンは精神的現象、意は知覚・思考の器官である。
○「属性」は、色・味・香・触が実体に内属するもの、数・量・別異性・結合・分離・遠さ・近さが一般的属性、認識・安楽・苦痛・欲求・嫌悪・意志的努力がアートマンに内属する。
○「運動」は、投げ上げ・投げ下げ・収縮・伸長・進行の五つ。
○「普遍」と「特殊」は、共通の認識が「普遍」、個々の認識が「特殊」。
○「内属」は、以上の五つの句義が不可分の関係にあること。

以上、「六派哲学」の三学派であるが、実際の思想内容はもっと複雑多岐である。「六派哲学」にはさらに、ミーマーンサーと同系のヴェーダーンタ学派(「梵我一如」)、サーンキヤと同系のヨーガ学派(「八支のヨーガ」)、ヴァイシェーシカと同系のニヤーヤ学派(「因明」、論理学)がある。この六派が、それぞれに二派一系の関係になっているのを空海は知っていたのだろう。サーンキヤとミーマーンサーとヴァイシェーシカの三派で六派に代えたのである。空海がいかにインド思想史にも詳しかったか、これでわかる。

二、ヒンドゥーの神々と道教の神々

空海は、密教がヒンドゥーの神にも仏格を付与し、護法善神(ごほうぜんしん)として受容したことにも精通していた。先に述べたとおり、空海は宗教心のめばえを説くこの「嬰童無畏住心」で、それらの帰依を認めた。

以下に、主なものであるが、「胎蔵マンダラ」の「外金剛部院(えこんごうぶいん)」に採り入れられたヒンドゥーの神々を略記しておく(ただし、煩瑣になるので、妃尊・眷属・神仙・星宿(九曜・十二宮・二十八宿)などは省く)。

まず、最外院の上部(東方)、

○「伊舎那天(いしゃなてん)」:シヴァ・ルドラともいわれる、鬼門の方位を護る。
○「堅牢(地)神(けんろう(ぢ)しん)」:プリティヴィーと同体(男尊)、大地を守護する。
○「日天(にってん)」:太陽神、スールヤ(太陽)の父。
○「帝釈天(たいしゃくてん)」:帝網で有名なインドラ、東方を護る。
○「持国天(じこくてん)」:ドリタラーシュトラ、東方を護る。
○「(大)梵天((だい)ぼんてん)」:宇宙本源の神ブラフマン(梵、神我)。
○「火天后(かてんこう)」:火の神アグニの妃。

次に、右側(南)、

○「火天(かてん)」:火の神アグニ、東南の方位を護る。
○「自在天女(じざいてんにょ)」:ルドラの妃ラウドリー、七母女の一人。
○「毘紐女(びちゅうにょ)」:ヴィシュヌの妃ヴァイシュナヴィー、七母女の一人。
○「夜摩女(やまにょ)」:ヤマの妃ヤミー、七母女の一人。
○「薬叉持明(やくしゃじみょう)」:樹林に棲む鬼神ヤクシャ。
○「増長天(ぞうちょうてん)」:ヴィルーダカ、東方を護る。
○「難陀龍王(なんだりゅうおう)」:ナンダ龍、八大龍王の一。
○「烏波難陀龍王(うはなんだりゅうおう)」:ウパナンダ龍、八大龍王の一。
○「阿修羅(あしゅら)」:アスラ。
○「閻魔天王(えんまてんのう)」:死神ヤマ。南方を護る。
○「黒闇天女(こくあんてんにょ)」:カーララートリー、ヤマの妃あるいは妹。
○「太山府君(たいさんふくん)」:チトラグプタ、閻魔の補佐(記録係)。中国では「十王」の太山王(泰山王)。
○「荼吉尼衆(だきにしゅう)」:鬼女神ダーキニー、奪精鬼、時代が下ると白狐に乗る女天、日本では荼吉尼天(稲荷神と同体)。
○「迦楼羅王(かるらおう)」:鳥神ガルダ(金翅鳥)。
○「鳩槃荼(くはんだ)」:鬼神集団クムバーンダ。

次に、下部(西)、

○「涅哩帝王(ねいりちおう)」:死神ニルリティ=羅刹(ラークシャサ)の別名、西南を護る。
○「大自在(だいじざい)」:マヘーシュヴァラ、シヴァ神。
○「鳩摩利(くまり)」:鳩摩羅天の妃クマーリー。七母女天の一。
○「遮文荼(しゃもんだ)」:チャームンダー、七母女天の筆頭。
○「水天(すいてん)」:水の神ヴァルナ、西方を護る。
○「毘楼博叉天王(びるはくしゃてんのう)」:ヴィルーパークシャ、広目天、西方を護る。
○「那羅延天(ならえんてん)」:ヴィシュヌの化身ナーラーヤナ(クリシュナ)。
○「弁才天(べんざいてん)」:福徳・学芸の女神サラスヴァティー。
○「鳩摩羅天(くまらてん)」:クマーラ、シヴァ神の子スカンダ、韋駄天。
○「月天(がってん)」:月の神チャンドラ。

次に、左側(北)、

○「風天(ふうてん)」:風の神ヴァーユ。
○「摩睺羅迦(まごらが)」:身体は人間、首は大蛇の鬼神マホーラガ。
○「緊那羅(きんなら)」:半身半獣の鬼神キムナラ。
○「俱肥羅天(くびらてん)」:富・財宝の神クベーラ。『金剛頂経』では毘沙門天の別名。
○「毘沙門天(びしゃもんてん)」:ヴァイシュラヴァナ、多聞天、北方を護る。
○「毘那夜迦(びなやか)」:シヴァの集団を率いるヴィナーヤカ、象頭人身、男女が抱擁する尊像は秘仏の歓喜天・聖天。
○「摩訶迦羅(まかから)」:破壊の神マハーカーラ、転じて戦闘・財福の仏尊大黒天。

以上、空海がこの「嬰童無畏住心」で認めたインド的な価値世界から護法善神として仏教に採り入れられた主なヒンドゥーの神々を枚挙してみた。

然るに空海は、中国固有の宗教である道教をこの住心に入れないのであるが、ヒンドゥーと同じく、民衆が帰依する世間の信仰という意味で、ここに少しふれておく。

『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』や『徒然草(つれづれぐさ)』などに、空中飛行や数々の神通力で知られる久米仙人(くめのせんにん)の話がある。空海がその東塔の下で『大日経』を発見したという大和久米寺の開祖である。吉野の龍門寺に篭り仙術を身につけて神通力を得、ある日吉野川の上空を飛行していたところ、岸で洗濯をしている女の白い足の脛を見て神通力を失い墜落してしまったという。

この「仙人」とは、道術(不老不死を得るための法術、方術)を使って不老不死を得た道士(道教の修行者、方士)のこと。道教の最高理念である「道(どう)」を体現した人、といった意味で神仙(しんせん)ともいう。現世の身で天空に昇るのを天仙、高い山に住するのを地仙、死後死体から抜け出して仙人になるのを尸解仙(しかいせん)という。
 前漢の学者劉向(りゅうきょう)が書いた仙人の伝記『列仙伝(れっせんでん)』には、老荘思想の祖老子(ろうし)や漢方医学の祖の黄帝(こうてい)など七十人余の仙人が挙げられ、西晋・東晋の道教家葛洪(かっこう)がまとめた『神仙伝(しんせんでん)』には、老子をはじめ九十人余の神仙が紹介されている。

それとはまた別に、中国人からよく帰依・信仰されている「八仙」といわれる仙人がいる。鍾離権(しょうりけん)・呂洞賓(りょどうひん)・韓湘子(かんしょうし)・李鉄拐(りてっかい)・張果(ちょうか)・曹国舅(そうこっきゅう)・藍采和(らんさいか)・何仙姑(かせんこ)である。

空海は、天長元年(八二四)二月、勅命によって、折からの干ばつや飢饉を脱するため京の「神泉苑」で雨乞いの祈祷を行った。その功験によって三日間雨が降り続け、日本全国の田畑が潤ったといわれている。
 神泉苑は、内裏の南側にあり、二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑であった。延暦十九年(八〇〇)に桓武天皇が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていた。

その神泉苑の池に龍が棲んでいるといわれていた。
 龍は中国の空想上の神獣でインドのナーガに似ている。「龍王」ともいわれ、日本では龍神と言われる。龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、恵みの雨を降らせてくれる雨の神である。竜巻は字の如く、龍が天に向って上昇飛翔する姿である。中国では、皇帝の権威のシンボルに使われた。昇り竜は、日本でも発展・繁昌・繁栄のシンボルとして人気がある。
 平安京を「風水」で観ると、神泉苑の池は「龍口水(りゅうこうすい)」といわれ、「龍脈」(京洛を囲む山々)の「気」が(平安京の)「龍穴(りゅうけつ)」に向って動くその軸線上にかならず配置される水場である。龍が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば龍は逃げてしまい、「龍脈」の山々は存在しても「気」はなくなってしまう。神泉苑は龍を生かすための水場だというのである。

この話、道教が深くかかわった実話である。空海の頃、干ばつのたびに宮中などで雨乞いの祈祷が行われた。当時この種の祈祷は道士の独占的分野だったであろう。空海は占術・呪術・道術をとっくに経験し、同時に道教・陰陽道の限界も知っていた。

時に、道教の神々は多種多様である。
 そのうち最高神とされるのは、「太元(たいげん)」(天地開闢以前の混沌の世界)を神格化した元始天尊(げんしてんそん)、「道」を神格化した太上道君(たいじょうどうくん)、老子を神格化した太上老君(たいじょうろうくん)の「三清(さんせい)」である。天上界の玉清境・上清境・太清境に住むという。

次に、この「三清」を補佐する玉皇室大帝(ぎょくこうしつたいてい)・北極紫微大帝(ほっきょくしびたいてい)・天皇大帝(てんのうたいてい)・后土(こうど)の「四御(しぎゅ)」である。
 玉皇室大帝は、人間界から天上界を、また神々を統括する天帝。
 北極紫微大帝は、日・月・星の運行・四季・風水を所管する天帝。
 天皇大帝は、万有・生霊(いきりょう、生きている人間の霊魂)・戦を所管する天帝。
 后土は、大地の母神、陰陽と生物の成育を所管する天帝、である。

道教の寺院のことを道観(どうかん)とか宮観(ぐうかん)、あるいは庵・廟・殿・閣・堂・洞・祠・院というが、みなその聖域には「三清」・「四御」を祀る「三清殿」「四御殿」を擁している。

そのほか中国の神話伝承の帝王・男神・女神・男仙・仙女・天女・天仙・軍神・門神・漁の守護神・北斗七星・星神・龍・河の神、日本の七福神で知られる福禄寿や寿老人、同じく庚申信仰の青面金剛(しょうめんこんごう)、七夕の織姫、端午の節句の鍾馗(しょうき)、三国志の関羽(かんう)も加わる。

そして四方を護る「四神」。青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)である。平安京は、東の大文字山、南の巨椋池(こぐらいけ)、西の嵐山、北の丹波高地で囲まれ、風水でいう「四神相応(ししんそうおう)」だと考えられた。

然るに、仏教でいう教理に当るものは何なのか。すなわち「道の教え」「道の信仰」の「道」とは何かである。それは、『老子』が説くように、宇宙万物一切の本源的にそうあらしめている実在であり、その実在がそうあるべくしてある法則性=真理である。道教の神々はその「道」にかなった信ずるべき存在なのである。

三、日本の神々と神仏習合

空海が、宗教心のめばえを説くこの住心でヒンドゥーの神々やインド思想への帰依を認めたのを敷衍して、日本人の宗教心を永く支えてきた日本の神々にもふれなければなるまい。

日本人にとって、山は人里に恵みをもたらす神であり、山体はご神体であり、山に登ることは神域に「入らせていただく」ことであり、山の恵み(水・木の実・新芽・きのこ・食獣など)を取るには神への儀礼があり、里からは仰ぎ拝むものであった。西洋人のように、山を征服して人間が知恵や道具で自然に打ち勝つことを誇ることは傲慢不遜であり、日本人はそういった自惚れをもたなかった。自然のなかに神意を感じ取り畏敬の念を育んだのである。

この自然信仰、つまりアニミズムは、山の神・海の神・野の神、水の神・火の神・地の神・空の神・風の神、太陽の神・月の神、田の神、雷の神等々八百万の神を生み、あるいは人々の願いごとを神格化し、護国の神、作物豊穣の神、縁結びの神、学問の神、技芸の神、戦さの神、子孫繁栄の神、安産の神、富財の神、商売繁昌の神、開運厄除の神、村の鎮守の神、も現れた。これらを今は、「民俗神道」と言っている。

そのほかよく見ると、宮中三殿の皇祖神(こうそじん、天照大神(あまてらすおおみかみ))・皇霊・天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)のように天皇・皇族が祀る神(皇室神道)、全国津々浦々、氏子や信者の組織があって、年中祭礼を行ったり日常の祈願祈祷を行っている神社の神(神社神道)、教祖個人の宗教体験をもとに教義を広め信者を組織化する神道の奉祭神(教派神道系)、賀茂真淵(かものまぶち)や本居宣長(もとおりのりなが)や平田篤胤(ひらたあつたね)のような国学的な神道が奉ずる神(復古神道)、がある。

そうしたなか、日本の家屋の神棚にたいていは祀られている皇大神=天照大神(伊勢神宮・内宮、ご神体は八咫鏡(やたのかがみ)、天皇家の皇祖神、日本人の総氏神様)の信仰は、事の次第は別として、日本人の宗教心の代表と言えよう。

天照大神は、『古事記』に天照大御神、『日本書紀』には天照大神と説かれている女神で、イザナギ・イザナミの子。別に、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)、大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)と言われるように、太陽神でもある。天津神のうち三貴神の一人で、いわゆる天岩戸伝説で知られている。
 イザナギが「黄泉(よみ)」の国(地下の死の世界)から生還し、黄泉の国の汚れを洗い清めた際、その左目からアマテラスが生まれ、イザナギはアマテラスに「高天原(たかまがはら)」(天津神の住む天上界)を治めるように命じた。この時、アマテラスの弟スサノオはイザナギから海原を治めるように命じられたが、イザナミのいる「根の国」(=黄泉の国)に行きたいと言い出して言うことを聞かず、天地を破壊したため怒ったイザナギに放逐されてしまう。
 それでも「根の国」に行こうとするスサノオは、その前に「高天原」のアマテラスに会いに行くのだが、山川草木みな鳴動をしたため、アマテラスはスサノオが高天原を奪いにきたと思い、弓矢をととのえて待ちかまえた。スサノオは「高天原」を奪う考えがないと誓約をした。その際、アマテラスはスサノオのもつ「十拳剣(とつかのつるぎ)」を噛み砕き、その時吹いた息から三柱の女神(「宗像(むなかた)三女神」)が生れ、次にスサノオがアマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕き、その時吹いた息から五柱の男神が生れたので、スサノオに邪心なしとなり疑いが晴れた。
 ところが、スサノオは気がゆるんで田の畔を壊したり御殿に糞をまき散らしたり、機屋で神への布衣を織っていたアマテラスの邪魔をして手伝いの織女を殺してしまったり、乱暴をくり返すため、アマテラスは天岩戸のなかに隠れてしまう。国中が真っ暗になりいろいろな災いが生じたが、八百万の神々が集まってアマテラスを天岩戸から引出し、スサノオは高天原から追い払われた、という。

日本独特の神仏習合の一つである真言宗系の両部神道は、この天照大神を「胎蔵界」の大日如来とし、伊勢神宮外宮の豊受大神(とようけのおおみかみ)を「金剛界」の大日如来とし、両界曼荼羅に画かれた諸尊を本地とし日本の神々を垂迹とし、また伊勢内宮を「胎蔵界」とし、外宮を「金剛界」とした。また、仏身の法・報・応の「三身」と天地開闢の神三柱を一体化し、「法身」を国常立尊(くにのとこたちのみこと)、「報身」を国狭槌尊(くにさつちのみこと)、「応身」を豊雲野尊(とよくもののみこと)とした。

神仏習合のもとは、仏教が伝来して日本の神々も少なからずその影響を受けたことにはじまる。日本の神々も仏法によって解脱が可能とされ、神前において仏典の読経が行われ、神社の敷地内に寺も建てられた(「神宮寺」)。のちに、日本の神々は仏の化身であり人々の願いに応えるために仏が神の姿に化身したもの(「権現(ごんげん)」)で、本来同一一体だという本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想に発展し、仏教の側(真言・天台)では神道の理論を宗義に採り入れる動きが本格化した。そのうちの真言系が両部神道であり、天台系が山王神道である。
 神仏習合、これは本当に日本人らしい両立主義(デュアリズム)で、二律のどちらかを捨てどちらかを選ぶのではなく二律ともに活かす深い知恵である。空海もこれに従った。

熊野は、本宮の主神が家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、家都御子大神ともいう)で、本地仏は阿弥陀如来(来世の救済)。新宮の主神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)で、本地仏は薬師如来(過去世の罪悪の除去)。那智の主神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、熊野結大神ともいう)で、本地仏は千手観音(現世の利益)である。
 この熊野の異教共存の実際をユネスコは世界に稀なる宗教文化として世界文化遺産に登録し、憎しみと殺戮の連鎖が止まない戦争当事国に示した。

日光では、男体山を大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)のご神体、千手観音とし、女峰山を田心姫命(たごりひめのみこと、宗像三女神の一)、阿弥陀如来とし、太郎山を味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと、大国主命の子)、馬頭観音とする。このうちの、三柱の神が二荒山大神として日光二荒山神社に祀られ、仏教の三仏が輪王寺(天台宗)本堂の三仏堂に祀られている。
 その日光の東照宮に、徳川初代将軍徳川家康が東照大権現として祀られている。死してのち家康は神になったのである。家康のブレーンだった天海僧正の唱導する山王一実神道によって、豊臣秀吉の豊国大明神の「明神」号を先例とせず、新たに「権現」号が用いられた。「大権現」家康の本地仏は薬師如来である。薬師如来は天台の密教では「胎蔵界」の大日と同体とされ、「胎蔵界」大日を通じて伊勢の天照大神に通じる。また薬師如来は、比叡山延暦寺の本尊でもあり、日吉大社(比叡山の神道=山王神道)の地主神の本地仏でもある。

宮島の厳島神社は、平清盛が『法華経(開結共)』(開経=『無量義経』・本経『妙法蓮華経』・結経『観普賢菩薩行法経』)を納めた(「平家納経」)ことでもすでに明らかなように、もともと神仏習合であった。主祭神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと、海上安全の神)の本地が弁財天であり、奥の大聖院(真言宗御室派)が別当寺であった。明治の神仏分離により神社の弁財天は隣接の大願寺(高野山真言宗)に移された。

藤沢市江の島の江島神社も、江戸時代までは弁財天を祀るお寺で、三つの別当の坊を擁して金亀山与願寺といった。明治以降は、宗像三女神(多紀理毘売命(たぎりひめのみこと、田心姫)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと、市杵嶋姫命)、田寸津比売命(たぎつひめのみこと、多岐都比売命))を祀る神社になった。

空海ゆかりの丹生都比売神社は、空海がまだ山林修行者だった頃にすでにあり、丹生(硫化水銀)を採掘する山の民が女神丹生都比売命(天照大神の妹・稚日女(わかひるめのみこと))を祀っていたが、たびたび訪れてくる沙弥(しゃみ)空海に境内の一部を住坊のために提供をした(曼荼羅院)。そのような事情があり、空海が丹生都比売神社の神領である高野山に入るについて丹生都比売命から歓迎の意(神託)を表されたのである。

彼ノ山(高野山)ノ裏ノ路辺ニ女神アリ。名ヅケテ丹生津姫命ト曰フ。
其ノ社ノ廻リニ十町許リノ沢アリ。人到リ着ケバ、即時ニ傷害セラル。
方ニ吾ガ上登ノ日、巫税(祝)ニ託シテ曰ク
妾、神道ニ在テ威福ヲ望ムコト久シ
方ニ今、菩薩此ノ山ニ到ル妾ガ幸ナリ
(『御遺告』)

私が高野山に登った日、(丹生津姫命が)巫税(祝)に託して言った。
〈私は神道にある身ですが、威福(仏法、密法)を永く待ち望んでいました。
今まさに菩薩(空海)がこの山に来てくれました。(それが何より)私の幸せです〉
と。
 「丹生都比売命」(神)はずっと菩薩(空海=仏)が来るのを待ち望んでいたのである。

爾来、この社は高野山とともにあり、高野山に参詣する人はかならず先にお参りする慣習となっている。空海の住坊曼荼羅院はのちに高野山上に移され山王院と言われた。今の金剛峰寺の前身である。
 往時、「胎蔵界」大日如来を安置する多宝塔、弘法大師像を祀る御影堂、高野山の僧侶による祭祀の中心で愛染明王を祀る持所、高野山の僧侶が大祭の時列座する透廊(すきろう、右前殿)、不動講を行う不動堂、仁和寺から贈られた一切経を納める一切経蔵、神社の祭祀の際高野山の学侶方が泊まる大庵室(おおあぜち)、行人方が泊まる長床、その行人方が使う祭具を収納する宝蔵、不動明王を祀り行人方が護摩を焚く護摩所、四祭神の本地仏を祀る山王堂、などの仏教の堂塔を擁し、鎌倉期などに高野山が疲弊荒廃した時には山上の僧侶はみな神社に保護されたという。

この神仏の両立共存は日本人の生活レベルでも徹底された。人々はみな、家のなかに神棚と仏壇を飾り、毎日日本の総氏神アマテラスと祖霊にその日の無事を祈ってきた。一つ屋根の下に、いまだに神と仏が同居している。
 明治政府は愚かにも、日本の文化遺産たるこの神仏習合を破壊した。廃仏毀釈・神仏分離である。慶応四年(一八六八)三月、明治政府は太政官布告をもって「神仏分離令」を発布し、明治三年(一八七〇)一月、天皇の神格化、神道の国教化、祭政一致を宣言する「大教宣布」を出し、神仏習合の禁止、仏像を神体とすることの禁止、神社における堂塔など仏教色の追放、寺院の廃寺や統合、僧侶の神官への転向や還俗(農夫・工場労働者)、仏像や仏具の破壊や廃棄、仏事の禁止、境内を除く寺領の没収などを徹底実施した。

この弾圧によって、江戸時代に住民行政や福祉や教育の公的機関として、また民衆教化などによって一定の社会的役割を担い、幕府から保護されてきた寺院は社会の表舞台から追放され、神仏習合の主役からも降りることになった。空海以来、宮中と永くかかわってきた真言宗も、大きな痛手をこうむった。神仏習合を自ら実践し、国家鎮護・王法仏法の基礎をつくった空海からすれば、「何と愚かなことを、日本古来の宗教文化をズタズタにする狂気」である。

神仏習合のもとになったのは日本人の多様な宗教受容性だった。大晦日にお寺で除夜の鐘を突き、その足で神社にも初詣する。お正月に、神社とお寺の新年札を受ける。教会で結婚式をして子ができると水天宮や神社で安産の腹帯を受け、誕生すると神社や寺に初参りする。人が亡くなると菩提寺の住職に葬儀をたのむ、等々多様である。これをして日本人は宗教に無節操だという人がいるが、無節操なのではなくこれをシンクレティズム(諸教混淆)と言う。

シンクレティズムは多神である。多神は東洋の宗教の特長で、インドではヒンドゥーの神々を生んだ。中国では道教の神々を生んだ。日本では八百万の神や仏教の如来・菩薩・明王・天を共存させた。一神教ではあり得ないことだ。
 アジアモンスーン地帯には深い緑の森がある。森にはケモノ道を含めていくつもの道があり迷った時にはいずれかの道をたどれば目印になる木や景観があって助かるが、砂漠ではそうはいかない。見渡すかぎり砂丘以外の何もない。迷った時はたった一つの神を信じるほかない。アジアの森林は多神を生み、アラブの砂漠は一神でしか生きられない。一神教の代表のようなキリスト教の聖地エルサレムは森林のなかではなく、地中海性気候の乾燥のなかにある。

話を日本の神々に戻す。次に「国譲り」の神話で有名な出雲大社の大国主命(おおくにぬしのみこと、大国主大神、記紀では大国主神)である。

大国主はスサノオ(素戔嗚命)の子あるいは子孫といわれ、国づくりをした神として知られている。国とは「葦原中国(あしはらのなかつくに)」(「高天原」と「黄泉の国」の間の世界)つまりこの日本の国土のことである。アマテラスは「高天原」(天上の世界)を治め(天津神)、大国主が「葦原中国」(地上の世界)を治めた(国津神)のである。

その国づくりには、スクナビコナ(少名毘古那、須久那美迦微)が天乃羅摩船(あめのかがみのふね)でやって来て協力したという。やがて、スクナビコナは「常世」(「黄泉の国」)に帰り大国主は一人で国づくりを続けることになった。一人でどのようにすればよいか、思案しながら言うと、そこへ光り輝く神がやってきて「私はお前の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である」と名乗り、私を祀れば国づくりに力を貸すと言った。それが、大和(奈良)の三輪山の大神神社に祀られた大物主神(おおものぬしのかみ)であるという。

大国主は苦労の末国を平らかにするが、やがて高天原のアマテラスら天津神が「「葦原中国」はアマテラスの子孫こそが治めるべきだ」と言い出し、タケミカヅチ(建御雷之男神・建御雷神、タケミカヅチオ)ら何人かの神を出雲に送って国譲りを迫った。大国主は、息子の事代主(ことしろぬし、言代主)が答えると言い、タケミカヅチが美保ヶ崎で漁をしていた事代主に言うと事代主は国譲りを受け入れたが、大国主はさらに建御名方神(たけみなかたのかみ)が答えると言い、タケミカヅチがまた建御名方神に迫ると建御名方神は力くらべを主張。結果、負けた建御名方神は逃げ出したが諏訪湖で追いつめられ、とうとう承知した。

大国主はこれを聞いて、「富足る天の御巣」のような大きな宮殿を建てることを条件に国譲りを承諾して姿を消した。この「富足る天の御巣」のような宮殿が出雲大社である。
 神無月(十月)にはこの出雲大社に八百万の神が集まって神議を行う。出雲では神々がそろうので神在月(かみありづき)といい、他の地方では神が不在なので神無月という。八百万の神が全国から集まること(「神集」)から、のちに全国一の縁結びの神と言われるようになった。平成二十五年には六十年ぶりの式年遷宮があり、一年間多くの参詣者でにぎわった。

四、山岳信仰と修験

日本の山岳信仰の祖・役行者(えんのぎょうじゃ、役小角(えんのおずね))の本拠地は大和の金剛山・葛城山だった。
 この山は、空海の時代には日本の山岳修行のメッカになっていたはずで、鎌倉時代前後には組織化された修験(顕)が盛んになり、大峯修験(密)とともに最盛期を迎えた。今の和歌山市加太沖の紀淡海峡友ヶ島(四島)を起点に和泉山脈から金剛山地に入り、金剛山・葛城山・二上山・逢坂を経て明神山北麓の亀の瀬まで、霊威が宿る二十八ヶ所に『法華経』二十八品を一巻ずつ納める経塚が祀られた。紀伊半島の行場には、『法華経』を納めて行場とした例がよくある。山岳信仰が仏教化した当初、『法華経』の経巻をもつ持経の行者が主役だった。
 この峰中、大和葛城山は、役行者が生まれそして行場を拓いた霊山で、役行者の誕生地には七世紀前半に舒明天皇によって建立されたという吉祥草寺が現在もあり、隣接の金剛山には、六五五年に役行者が創建したという転法輪寺(真言宗醍醐派大本山)があって、今も醍醐寺系の修験が盛んに行われている。金剛山の頂からは、吉野から紀伊半島を南北に貫き熊野大社へと連なる大峯山系の山々が見える。二十才の空海が、大学寮を出奔してまず向ったのはこの山ではなかったか。親や親族みなが期待していた朝廷官僚への栄達の道を捨て、大安寺で教えられた「虚空蔵求聞持法」を会得するため山の乞食修行者になったのである。

今の日本にこういう二十才の若者がいるだろうか。立身出世が約束された恵まれた環境に身を置きながら、それを捨て貧してまで自分の魂が叫ぶ世界をめざす、そういう若者である。
 有名大学に入って官僚や一流企業の社員になり、一生無難に食べられることを人生の目的にしている人がいると思えば、小学校高学年ですでに勉強から頭が離れ、無理して高校に入ったものの勉強も部活もふるわず、そのままドロップアウトして、鳴かず飛ばずの人生を仕方なく無為徒食している人もいる。
 どちらにしても、今の二十才、空海のようではない。内では自分の内なる魂に耳を澄まし、外に向っては宇宙大の真理・真実の声を聞く。それでいて王法と仏法を「二而不二」で両立させるリアリスト。どうしてもと思えば命をかけて東シナ海を渡り、遠路世界一の都唐の長安に留学する。彼の地ではかねて勉強していたインドの言語をインド僧に付いて磨きをかけ、当時の中国語を自由に操った。師恵果和尚をして「君が来るのを永く待っていた」とも言わしめた。空海の当時とは比べものにならないくらい国際化しボーダーレスになった時代、海外留学志望の大学生が減っているという。空海のようなスケールの、若い日本人がどうして出ないのか。空海から見れば歯がゆいかぎりだ。

空海は次いで吉野に移ったに相違ない。
 吉野には昔、吉野修験の進発地「柳の渡し」から吉野山とは対岸の側に比曽(山)寺という寺があった。今世尊寺となっている。そこが昔の吉野の入口である。この寺に八世紀前後の頃元興寺で義淵(玄昉・行基や道慈・道鏡らの師)から法相を学び三論・華厳も修めた神叡という唐僧がいて、二十年間「虚空蔵求聞持法」を修してはよく成就したという。その神叡こそが空海に求聞持法を教えた人だという話があるが、神叡は天平九年(七三七)に入滅していて、空海の若き日と時代が合わない。

ところで、大安寺と比曽(山)寺(=比蘇寺)とは実は密接な関係にあった。当時、例えば法隆寺と福貴山寺、興福寺と室生寺のように、平地の寺院と求聞持法などの山林修行を行う山岳寺院とがセットの関係にある結びつきがあったのである。最澄の剃髪の師といわれる大安寺の行表はこの比蘇寺で晩年を送り大安寺に帰って亡くなっている。山林修行に強い関心をもちはじめた当時の空海が大安寺で比蘇寺の神叡のことを聞き、葛城山から近いこの吉野に足を運び神叡の消息をたずねても不思議ではない。

空海に吉野を教えたのは元興寺の護命ではなかったか。神叡は元興寺の法相において護命の大先輩にあたる。しかもこの比蘇寺に伝わる「自然智(じねんち)宗」においても先達であったといわれる。
 「自然智宗」とはこの比蘇寺を舞台に神叡らが拓いた山林修行のグループである。大自然のなかに身を置いて真言・陀羅尼を唱えつづけ、清浄な自然と一体になった時自らの心のなかに顕れる「一切の事物の源底を、あるがままに知る」直観智をみがく雑密の一種で、元興寺や興福寺の法相僧も加わっていた。護命がこの「自然智宗」のなかにいたであろうことは、『性霊集(しょうりょうしゅう)』にも見えている(巻十)。

空海の回想では「ここに、一沙門あり」、その「一沙門」に「虚空蔵菩薩求聞持法」を教えられたという。「一沙門」は、大安寺の勤操だと一般にいわれている。しかし、別な説では、同じ大安寺の戒明だともいう。しかし想像をたくましくすれば、この「自然智宗」の護命か、護命から紹介された無名の行者ではなかったか、と言うのも可能である。

空海少年ノ日、好ンデ山水ヲ渉覧セシニ、吉野ヨリ南ニ行クコト一日ニシテ、
更ニ西ニ向テ去ルコト両日程、平原ノ幽地有リ。名ヅケテ高野ト曰フ。
計ルニ紀伊國、伊都郡ノ南ニ当ル。
(『性霊集』)

この有名な『性霊集』の記述により、沙弥になる前の空海が吉野からかなりの早足で大峯山の行者道を踏破し、途中で山を下り、十津川村のあたりから今の小辺路を通り一気に高野山に上ったであろうことが想像できる。空海の仏教者としての基礎訓練は、いわば日本の山岳信仰の伝統に入ることからはじまったのである。

日本の神々が天地にあまねく八百万の神であるように、日本の山々は仏の住む霊山・霊峰とみなされた。富士山の富士は不二=「胎蔵界」大日であり、日本全国あちこちに大日岳という名の山がある。ほかにも、釈迦岳・薬師岳・地蔵岳・不動ヶ岳・阿弥陀岳(弥陀ヶ原)・観音岳・千手ヶ岳・普賢岳など仏の名を山名にした例は数え切れない。
 これらの山に入るには、里で身を清め、道中「慚愧懺悔(ざんぎざんげ)六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と口に唱え、山を登るということは仏の体内に入ること(密教でいう「入我我入」)、すなわち仏と一体になるのである。

日本の山岳信仰を代表して日本三霊山がある。富士山・立山・白山である。
 富士山は、最初日本を鎮護する神の住む山として崇められた。修験の始祖・役行者が早々と登っている。奈良時代になって火山活動が活発になると、「火山」を意味するといわれる「浅間(あさま)」を用い、火山神の浅間大神(あさまのおおかみ)が鎮座する霊山として信仰されるようになった。しかし、火山活動が止まないため朝廷は浅間大神を祀る神社を営み噴火鎮めの祭祀を行った。それが今の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)である。この社の祭神は「火中出産」の神話で知られる火の女神木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと、木花之佐久夜毘売)で、浅間大神と同体である。
 平安時代になると、富士修験(村山修験)の祖・末代上人が頂上に大日寺を建て、山頂部分の八つの峰(八神峰・富士八峰)を胎蔵曼荼羅中央の「八葉(蓮台)」に見立てた。富士修験では浅間大神を浅間大菩薩・浅間大権現・富士権現と言ったりする。みな大日如来を本地仏とする。
 江戸時代になると、江戸を中心に富士講・浅間講による登拝が盛んになり、後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどになった。

その富士山が世界文化遺産になった。はずかしいことに、富士山=俗化した山・ゴミの山であったため、人の手が入っていない自然遺産の登録など望むべくもなく、信仰や美術や景観の対象としての文化遺産の登録に切り替え、やっと関係者の要望が叶ったのである。
 もっとも、地元関係者や観光業者にとって、もくろんでいた観光客増加=地元経済の活性化が現実になり全国から人がくれば富士講・御師などの伝統的な信仰文化などはどうでもよく、自然遺産だろうが文化遺産だろうが「世界遺産」の名が欲しかっただけなのである。だいたい、富士山が信仰の山だなどと知らなかった人が日本人の大半であろう。

富士山だけではない。立山は、室堂平と黒部側(長野県)の大観峰がトンネルでつながり、昔地獄といわれた地獄谷付近も今はサンダルばき・タンクトップの軽装観光客が歩き、極楽になった。白山も、スーパー林道が東海北陸自動車道「白川郷IC」で結ばれ、室堂のビジターセンターなど宿泊施設も整備され、山ガールの姿も目につくようになった。しかし、山頂付近の神祠・神社に手を合わせる人は少なく、山岳信仰の山だと思って登る人は稀である。みんな、レジャー気分であり、自分の若さや体力を試す自己満足=自我の発露の山行きであり、人間が神の山・仏の山を汚し穢すなどという頭はまったくない。中高年登山者でにぎわう北アルプスや南アルプスや八ヶ岳などでも同様だ。山に入らせていただくのではなく、山を人工的に開発し人間の利便性に山を合わせる、山頂に登ることが自然を征服する快感であり人間らしさだと思う西洋志向の傲慢。「夏がくれば思い出す」尾瀬も同様である。至仏山は仏に至る山なのに。

空海は山のマナーを知っていて、不浄や穢れを山に持ち込まなかった。一流の山岳信仰者であり、修験行者であり、求聞持法の仏者だった。

日本の山岳信仰は修験と深い関係にある。この項の最後に少し修験にふれておく。
 修験は、サトリを求め、身心を潔斎し、山に伏し、山に篭って、命がけの厳しい修行を行う山岳修行である。それを専門に行う人を修験者(しゅげんじゃ)とか山伏(やまぶし)という。

修験の山は、空海が入ったであろう大和の金剛山・葛城山や吉野・大峯のほか、北から拾えば早池峰山(はやちねさん、岩手)・鳥海山(山形)・羽黒山(山形)・吾妻山(山形・福島)・磐梯山(福島)・男体山(栃木)・富士山(静岡・山梨)・戸隠山(長野)・御嶽山(長野)・石動山(いするぎやま、能登)・白山(石川)・立山(富山)・伊吹山(岐阜・滋賀)・愛宕山(京都)・鞍馬山(京都)・犬鳴山(いぬなきさん、大阪)・熊野(和歌山)・大山(鳥取)・石鎚山(いしづちさん、愛媛)・英彦山(ひこさん、福岡・大分)と主なものだけでもこれだけある。

ところで、修験とはどんなものでどんな行をするのか、大峯奥駆け修行の例で示しておく。
 修験は、日本古来の山岳信仰に神道や仏教(雑密)や道教や陰陽道等が習合した日本独特の山岳修行である。修験者にとって、山は神威や祖霊や仏の宿る聖なる場で、決められた時期に入り、俗世間で汚れた身心を清め、命がけの荒行を行い、山の霊力に触れて生きる力を授かり、生きかえって里の暮らしに戻る、よみがえりや再生の行場である。
 その山に住む聖なる神や仏たちも、時代が下ると仏教の仏を「本地」とし神道の神を「垂迹」とする「本地垂迹」が行われるようになった。修験と神仏習合は表裏一体の関係にある。
 しかしその修験道も、明治五年に廃仏毀釈・神仏分離のあおりで廃止され、修験の多くは仏教色を消すために神道の姿をとった。そのため、仏教と神道の両方を残し今に伝えられたのは大峯修験と出羽修験だけとなってしまった。

今の大峯奥駆修行は、熊野本宮大社から「山上ヶ岳」の大峯山寺を経て吉野川六田の「柳の渡し」までの行程を「順峰」といい、三井寺・青岸渡寺(天台系)がこれを行い、他のほとんどは吉野から入る「逆峰」(修験宗系)である。この奥駈道には、靡(なびき)といわれる行場が七十五ヵ所あり、行者はそこで法螺(ほら)貝を吹き、錫状(しゃくじょう)を鳴らしながら 、お経やご真言を唱える。そのほか、断崖絶壁の岩場や千仞の谷を眼下にするなど命がけの危険な山道を踏み越える約一週間の厳しい山岳修行である。また密教的な観点から、全行程のまん中あたりに位置する「釈迦ヶ岳」手前の「両部分け」から吉野よりの北側を「金剛界」に、熊野よりの南を「胎蔵界」とみなすことになっている。

行程を略記すれば、
 「柳の渡し」で吉野川に入り水垢離をとり―銅の鳥居(発心門)で秘歌唱和―蔵王堂を出発―水分神社・金峯神社で新客(初参加者)のために新客修行を行い―女人結界の石標から青根ヶ峰への道に入り―愛染宿―二蔵宿―(大天井岳)―五番関―洞辻茶屋―鍋冠行者堂―「表の行場」(油こぼし・鐘掛・お亀石・西の覗き)―大峯山護持院参籠所 ―「裏の行場」(蟻の戸渡り・胎内くぐり・平等岩巡り)―大峯山寺―小篠宿―阿弥陀ヶ森―脇の宿―普賢岳―(経筥石・笙の崫)―薩摩ころがし―稚児泊―七曜岳―行者還岳―講婆世宿(聖宝宿)―聖宝八丁―弥山―(大山蓮華)―八経ヶ岳―明星ヶ岳―(七面山遥拝)―楊子宿―仏生ヶ岳―孔雀ヶ岳―(両部分け)―(椽の鼻)―空鉢ヶ岳―(杖捨て)―(馬の背)―(念仏橋)―釈迦ヶ岳―深仙宿―大日岳―太古辻―前鬼山へ直行―「裏行場」(三重滝・天の二十八宿)―(小仲坊)―前鬼口(バスで上北山村浦向へ。民宿等で半日、休みをとる。最近の大峯奥駆修行は前鬼山からバスなどで熊野本宮・速玉大社・那智大社にお参りすることが多い)―(林道を通り行仙岳の取り口から山中に入り太古の辻からくる奥駆道に戻る)―笠捨山―鎗ヶ岳―地蔵岳―四阿宿―菊ケ池―香精山―(一旦里へ下山)―上葛川(民宿泊)―(蜘の口から奥駆道に戻る)―稚児ノ森―花折塚―玉置辻―宝冠ノ森―玉置辻―玉置山頂―玉置神社―大森山―五大尊岳―大黒岳―吹越山―七越峯―備崎(熊野川を渡る)―大斎原―熊野本宮大社。七日間の行程である。

五、熊野信仰

熊野信仰は日本古来の信仰を今も伝えている。
 熊野には古くから「海上他界」の信仰があり、早くから海の漁を営んできた土地の漁民は、死者を舟に乗せ水葬にして海の彼方の「常世(とこよ)」に送った。熊野の「クマ」は「隈」で、山々が幾重にも重なる奥まった地形の意味。『日本書紀(にほんしょき)』にも伊弉冉尊(いざなみのみこと)の葬送地の伝説があり、古来「黄泉(よみ)の国」や「根の国」つまり死者の霊がおもむく「他界」だとみなされた。
 空海の頃には仏教の影響を受けて「常世」・「黄泉の国」・「他界」に仏の「浄土」という観念が重なり熊野は観音の「補陀洛(ふだらく)浄土」であると信じられるようになった。最終の「普門品」第二十五で観音信仰の利益を説く『法華経』の持経行者や、「補陀洛信仰」の海辺の行者たちも熊野に入るようになり、神奈備(かんなび)の山や里や海辺が仏教を受容し次第に神仏の習合するところとなった。

空海の時代のあと、仏教が浄土思想に傾くと、本宮の祭神家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)を阿弥陀如来とみなすなど、神仏を融合し異なる二つの聖なるものを一体化し両立する日本人独特の知恵としての「本地垂迹」が熊野三山の信仰を支えるようになった。

「常世」といい「黄泉の国」といい「他界」といい「浄土」といい、熊野は死者を浄化する聖地だった。その熊野に深い山中での「擬死(ぎし)再生」(山中で一度死に、蘇って帰る)の体験を積む熊野修験が盛んになり、法皇や上皇や皇族が「蟻の熊野詣」を行う際にも道中修験者の作法に従い、祓いや垢離(こり)で身心を清め、王子社に御幣を納め経供養を行うようになる。熊野というバーチャルな「黄泉の国」に詣で、そこで一度死んだこととし(擬死)、また蘇ってもとに帰る(再生)、という生命の再生装置が、熊野をして熊野たらしめる根本の原理であった。やがてこの「擬死再生」体験のシステムは、時代を越え四国(死国)に遍路となって伝わることになる。

世界遺産となった熊野古道はそのすべてが本宮をめざしている。京や難波から紀伊半島西部の海辺を南下する紀伊路、紀伊路から紀伊田辺で分かれ山路を越える中辺路(なかへじ)、紀伊田辺で分かれずにそのまま海浜をたどり東部の那智勝浦から入る大辺路(おおへじ)、高野山から下り山道を本宮へほぼ直行する小辺路(こへじ)、伊勢から紀伊半島の東部を南下し新宮から入る伊勢路、そして吉野からの大峯奥駆道である。
 この霊地熊野への往還の道を辺路(へち、へぢ)と言った。その辺路(へち、へぢ)を歩いて行場に往き、そこで修行をする行者を辺路(へんろ)と言った。辺路(へんろ)は、のちに遍路となり四国霊場を順拝する人のことを指すようになるが、熊野信仰や熊野修験や熊野詣や辺路の観念が四国遍路の底流となっていることは疑いない。

熊野は霊地であり聖域である。そうした霊域には古来女人禁制の規制が厳しく布かれたものだが、熊野は老若男女や身分階級や出家在家などの区別なく詣でる人を拒まなかった。とくに近代になって、長い時期一般社会から隔離され非人間的扱いを受けてきたハンセン病患者の人たちを受け入れていたことは特筆に価する。

熊野三山とは、本宮(熊野本宮大社)・新宮(熊野速玉大社)・那智(熊野那智大社)の三つの聖地を総称して言う。もともと別々の信仰だったものが、「本地垂迹」という信仰形態により本宮の極楽浄土が来世の救済を、新宮の瑠璃光浄土が過去世の罪業の消滅を、那智の補陀洛浄土が現世の利益を受け持つという三位一体の信仰システムに再編されたのである。

本宮はもと、熊野川・音無川・岩田川の合流地点の中洲、現在地から五百m下流の大斎原(おおゆのはら)にあったが、明治二十二年の大洪水で大きな被害を受け現在は近くの高台に移築された。この大斎原には十二の社殿や神楽殿や能舞台などがあり、今の本宮大社の八倍の規模を誇ったという。本宮は、熊野三山と熊野信仰の中心であり、日本全国に三千社以上ある熊野神社の総本宮である。
 大鳥居をくぐって参道を進み百五十八段の石段を登る。その両脇には熊野大権現と書かれた奉納幟がたくさん立ち並んでいる。石段を登りきると正面に神門、向って左手には礼殿が見える。神門をくぐると、広大な神域に四棟の社殿が静かに重々しく並んでいる。中央が第三殿の本社である。証誠殿(しょうじょうでん)といわれ、主祭神の家都美御子大神(または家都御子大神)が祀られている。

新宮(熊野速玉大社)は、もと新宮の市街地から約一~二kmほど南に位置する神倉山の巨岩「ゴトビキ岩」をご神体としたという説があり、古くから熊野川の河口付近に鎮座している。
 JR紀勢本線「新宮」駅から徒歩で十五分、車で五~六分のところに速玉大社があり、すぐ朱塗りの鳥居が目に飛び込んでくる。鳥居をくぐって参道を進み摂末社を右手に見ながら行くと、右に神宝館が、その左には樹齢千年といわれる堂々たる梛(なぎ)の木が立っている。昔、熊野三山の造営奉行だった平重盛が植えたと伝えられ、今は国の天然記念物に指定されている。梛は熊野三山の御神木で、その葉を笠の代りにかざすと魔除けになり、熊野詣の道中災いから身を守ってくれるという。またその種を使ったナギ人形は縁結びや夫婦円満のご利益があると言われている。
 さらに参道を進むと神門に出る。神門をくぐると昭和期に再建された真新しい朱塗りの社殿が五棟並んでいる。左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿、第四殿、神倉宮の三社相殿、第五殿から第十二殿までの八社相殿(あいでん、複数の神を合祀する社殿)である。
 向って左手の方に礼殿があり、その前に第一本社と第二本社が並んで建っている。第一本社は、結宮(むすびのみや)といい、熊野結大神(くまのむすびのおおかみ、那智大社の主神)を祀り、第二本社は、速玉宮(はやたまぐう)といい、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)を祀っている。この二神が速玉大社の主神である。「速玉」が男神、「結」が女神の夫婦神で、もともとは一社殿に祀られていたそうである。

那智大社は今那智山中腹の高台にあるが、もとは那智の滝の滝壷の付近にあったと言われている。社殿は、南向きの礼殿のうしろ正面に朱塗りの社殿が五棟、その左側に八神を合祀する八社殿と、合わせて十三(熊野十三所権現)の社殿がカギの手に立ちならんでいる。主祭神は正面向って左から二番目の第四殿に祀られている。結宮とも呼ばれ、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同体とされている。
 那智といえば落差百三十三mの日本一の直瀑那智の滝の名で知られているが、ここにはこの大滝を「一の滝」として四十八の行場になっている滝があり、滝をご神体と仰ぎ水垢離をはじめとして大峯奥駆行など厳しい修行を行う修験道が青岸渡寺(せいがんとじ、天台宗)の指導で今も行われている。
 大滝には熊野那智大社別宮の飛瀧神社があり、大己貴命(おおなむじのみこと)が祀られているが、社とはいっても本殿も拝殿もなく滝を直接拝むのである。この祭神の本地は千手観音で、飛瀧権現(ひろうごんげん)と呼ばれている。大滝の岩壁には千手観音の磨崖仏が彫られ、大滝の近くには千手堂が建っていたと言われているが、大地震の際に岸壁が崩落し、千手堂も失くなった。しかしこの千手堂に代るかのように、飛瀧権現本地千手観世音菩薩を本尊とする朱塗りの三重塔が昭和四十七年に再建され、那智の新たな象徴になっている。

青岸渡寺は日本を代表する補陀洛浄土の霊域にふさわしく、西国三十三ヶ所観音霊場第一番の札所となっている。
 寺伝によると、仁徳天皇の頃、インドから熊野に流れついた裸行(らぎょう)上人が那智の滝の滝壷から見つけた観音像を安置して草堂をむすんだと伝えられ、そののち推古天皇の時代に諸堂宇が建立され、大和の生仏上人が如意輪観音を安置しこの観音像を胎内に納めたという。この如意輪観音を本尊としたことから一般にこのお寺を如意輪堂と言った。
 平安時代以降は修験道場として熊野修験の一大本拠地となり、最盛期には七ヵ寺三十六坊を有していたが、明治期の廃仏毀釈で今は本堂を残すだけとなった。明治七年(一八七四)以後、正式に青岸渡寺と名づけられ天台宗の寺として再興された。今の本堂は天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉が弟の秀長に命じて再建したもので、室町末期の建築様式を残し重要文化財に指定されている。

中世には日本最大の霊場として栄えた熊野であったが、江戸期には紀州藩の宗教政策で神道化され、それまで熊野信仰の普及に多大な貢献を果たしてきた熊野修験者や「念仏聖」・「熊野比丘尼」らの修行や布教活動が抑圧された。その結果、熊野信仰は次第に衰微していく。
 明治時代には神仏分離令により決定的なまでに衰微した。神仏習合により神と仏が渾然一体となって融和していた熊野信仰にとり、国家による神道の国教化は大きなダメージとなった。これによって熊野に詣でる人は激減した。

六、大師信仰(一) 四国遍路

四国遍路は、白衣に身をつつみ、手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)に地下足袋をはき、菅笠(すげがさ)をかぶって杖をもち、身のまわり品を入れた笈(おい)を背負って歩くのが本来の身支度である。すなわち「死装束」を着て死出の旅路に出るのである。四国は「死国」であり、瀬戸の海を渡ってひとたび四国に入れば二度と帰れないかもしれない死を覚悟の修行旅だった。熊野の「擬死再生」の信仰は四国の辺地にも伝わっていた。
 一周一四〇〇km、歩き遍路の昔は、当然行き倒れて遍路道で命を落とす人も多かった。通りかかった遍路や土地の人たちの手で路傍に埋葬された。手にもっていた金剛杖が墓標の代りになった。しかし、遍路はすでに阿波で「発心」している。空海によれば「発心すれば即ち到る」(『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』)。お大師様に導かれ「速疾成仏(そくしつじょうぶつ)」なのである。

時代が替り、白衣姿の遍路を今なかなか見ない。中高年の間で流行っている山行きの服装に一枚の笈摺(オイズル・オイズリ、袖のない白の薄い羽織、笈で背中が摺れるのを防ぐための上着)程度。みんな思い思いの軽装だ。ジーンズなどを着用している人もいる。当然、遍路道を死に場所だなどと考えてはいない。心の癒し、自分探し、亡き家族の供養、興味半分、誘われた旅、何かの記念、さまざまだが、かならずみんな家や仕事に戻る。
 しかし、四国遍路はまことに不思議で、いかなる理由で四国に渡ろうが結願して家路に着く時は、誰でもお大師様との「同行二人(どうぎょうににん)」を心に刻み、身につける。最後に高野山奥の院の大師御廟の前で、合掌して無事の結願を報告感謝し最後のおつとめをすれば、読経中に涙があふれて止まらなくなるのである。

時に四国遍路は、地元の先達や先達資格のある遍路タクシーの運転手の案内でまわるに限る。道案内はもちろん、本堂と大師堂でのおつとめ(読経)の先導も、納経の世話も、昼食や宿の手配も、道々の名所旧跡等の観光案内も、すべて兼ねている上、お接待や善根宿などの風習や大師信仰の有難い経験などを聞かせてくれる。各札所で顔も効くし、急病の時も病院につないでくれる。観光ツーリストのツアー遍路もいいかもしれないが、信仰の面では勧められない。観光気分で浮つくのだ。一番いいのは、菩提寺の住職が先達で案内してくれる遍路である。

四国遍路に出る時は、できれば写経を八十八ヵ所分書いて持参し、各札所の納め場所に納めたい。納経とは、仏典を書写してお寺に納めること。遍路の場合は『般若心経』一巻でいい。ほとんどの遍路は写経はもたずおつとめ(読経)だけであるが、本来は写経・読経の両方ともが望ましい。両方ではじめて納経なのであり、だから納経帳に朱印がもらえるのである。白や色のついた納札は遍路の必需品であるが、順拝回数で色がちがい、自慢や競い合いをしているようであまり好ましくない。また、もし御詠歌ができれば、おつとめに続けて各札所の御詠歌を唱えるといい。鈴・鉦はなくてもいい。御詠歌も加えられれば最高である。

遍路道の途中や札所の近所で、「お接待」を受けることがある。四国独特の「おもてなし」で、道ばたで食べ物や飲み物や路銀を手渡されたり、「接待所」でお茶やうどんやお菓子をいただいたり、あるいは無料の簡易宿泊所「善根宿(ぜんごんやど)」もある。この頃は車に乗せてくれることもある。これも大師信仰の表れで、地元の人は「何ごともお大師さんのおかげ」であり、そのおかげのおすそ分けとして遍路をあたたかく迎え、布施の功徳を積んで大師への報恩行としている。
 道々であたたかい人の気持ちにふれると、お大師様が姿を変えて助けてくれたのではないかと思う。やさしく言えば、そういう思いがもとになって「大師と二人連れ」(「同行二人」)が自然発生したのであろう。「南無大師遍照金剛」が自然に口から出るのである。

遍路が順拝する四国八十八ヵ所の霊場は次のとおりである。

●発心の道場(阿波、徳島県) 二十三ヵ寺

一番竺和山 一乗院 霊山寺鳴門市大麻町板東塚鼻一二六
二番日照山 無量寿院 極楽寺鳴門市大麻町檜字段の上一二
三番亀光山 釈迦院 金泉寺板野郡板野町大字亀山下六六
四番黒巌山 遍照院 大日寺板野郡板野町黒谷字居内五
五番無尽山 荘厳院 地蔵寺板野郡板野町羅漢字林東五
六番温泉山 瑠璃光院 安楽寺板野郡上板町引野八
七番光明山 蓮華院 十楽寺阿波市高尾字法教田五八
八番普明山 真光院 熊谷寺阿波市土成町土成字前田一八五
九番正覚山 菩提院 法輪寺阿波市土成町土成字田中一九八‐二
十番得度山 灌頂院 切幡寺阿波市市場町切幡字観音一二九
十一番金剛山 一乗院 藤井寺吉野川市鴨島町飯尾一五二五
十二番摩廬山 正寿院 焼山寺名西郡神山町下分字中三一八
十三番大栗山 花蔵院 大日寺徳島市一宮町西丁二六三
十四番盛寿山 延命院 常楽寺徳島市国府町延命六〇六
十五番薬王山 金色院 国分寺徳島市国府町矢野七一八‐一
十六番光耀山 千手院 観音寺徳島市国府町観音寺四九‐二
十七番瑠璃山 真福院 井戸寺徳島市国府町井戸北屋敷八〇‐一
十八番母養山 宝樹院 恩山寺小松島市田野町字恩山寺谷四〇
十九番橋池山 摩尼院 立江寺小松島市立江町若松一三
二十番霊鷲山 宝珠院 鶴林寺勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾一四
二十一番舎心山 常住院 太龍寺阿南市加茂町龍山二
二十二番白水山 医王院 平等寺阿南市新野町秋山一七七
二十三番医王山 無量寿院 薬王寺海部郡美波町奥河内寺前二八五‐一

●修行の道場(土佐、高知県) 十六ヵ寺

二十四番室戸山 明星院 最御崎寺室戸市室戸岬町四〇五八‐一
二十五番宝珠山 真言院 津照寺室戸市室津二六五二‐イ
二十六番龍頭山 光明院 金剛頂寺室戸市室戸町元乙五二三
二十七番竹林山 地蔵院 神峯寺安芸郡安田町唐浜二五九四
二十八番法界山 高照院 大日寺香南市野市町母代寺四七六‐一
二十九番摩尼山 宝蔵院 国分寺南国市国分五四六
三十番百々山 東明院 善楽寺高知市一宮しなね二‐二三‐一一
三十一番五台山 金色院 竹林寺高知市五台山三五七七
三十二番八葉山 求聞持院 禅師峰寺南国市十市三〇八四
三十三番高福山     雪蹊寺高知市長浜八五七‐三
三十四番本尾山 朱雀院 種間寺高知市春野町秋山七二
三十五番醫王山 鏡池院 清瀧寺土佐市高岡町丁五六八‐一
三十六番独鈷山 伊舎那院 青龍寺土佐市宇佐町竜一六三
三十七番藤井山 五智院 岩本寺高岡郡四万十町茂串町三‐一三
三十八番蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺土佐清水市足摺岬二一四‐一
三十九番赤亀山 寺山院 延光寺宿毛市平田町中山三九〇

●菩提の道場(伊予、愛媛県) 二十六ヵ寺

四十番平城山 薬師院 観自在寺宇和郡愛南町御荘平城二二五三‐一
四十一番稲荷山 護国院 龍光寺宇和島市三間町大字戸雁一七三
四十二番一カ山 毘盧舎那院 仏木寺宇和島市三間町字則一六八三
四十三番源光山 円手院 明石寺西予市宇和町明石二〇一
四十四番菅生山 大覚院 大寶寺浮穴郡久万高原町菅生一一七三
四十五番海岸山     岩屋寺浮穴郡久万高原町七鳥一四六八
四十六番医王山 養珠院 浄瑠璃寺松山市浄瑠璃町二八二
四十七番熊野山 妙見院 八坂寺松山市浄瑠璃町八坂七七三
四十八番清滝山 安養院 西林寺松山市高井町一〇〇七
四十九番西林山 三蔵院 浄土寺松山市鷹子町一一九八
五十番東 山 瑠璃光院 繁多寺松山市畑寺町三二
五十一番熊野山 虚空蔵院 石手寺松山市石手二‐九‐二一
五十二番瀧雲山 護持院 太山寺松山市太山寺町一七三〇
五十三番須賀山 正智院 円明寺松山市和気町一‐一八二
五十四番近見山 宝鐘院 延命寺今治市阿方甲六三六
五十五番別宮山 金剛院 南光坊今治市別宮町三‐一
五十六番金輪山 勅王院 泰山寺今治市小泉一‐九‐一八
五十七番府頭山 無量寿院 栄福寺今治市玉川町八幡甲二〇〇
五十八番作礼山 千光院 仙遊寺今治市玉川町別所甲四八三
五十九番金光山 最勝院 国分寺今治市国分四‐一‐三三
六十番石鈇山 福智院 横峰寺西条市小松町石鎚甲二二五三
六十一番栴檀山 教王院 香園寺西条市小松町南川甲一九
六十二番天養山 観音院 宝寿寺西条市小松町新屋敷甲四二八
六十三番密教山 胎蔵院 吉祥寺西条市氷見乙一〇四八
六十四番石鈇山 金色院 前神寺西条市洲之内甲一四二六
六十五番由霊山 慈尊院 三角寺四国中央市金田町三角寺甲七五

●涅槃の道場(讃岐、香川県) 二十三ヵ寺

六十六番巨鼇山 千手院 雲辺寺三好市池田町白地ノロウチ七六三‐二
六十七番小松尾山 不動光院 大興寺三豊市山本町辻四二〇九
六十八番七宝山     神恵院観音寺市八幡町一‐二‐七
六十九番七宝山     観音寺観音寺市八幡町一‐二‐七
七十番七宝山 持宝院 本山寺三豊市豊中町本山甲一四四五
七十一番剣五山 千手院 弥谷寺三豊市三野町大字見乙七〇
七十二番我拝師山 延命院 曼荼羅寺善通寺市吉原町一三八〇‐一
七十三番我拝師山 求聞持院 出釈迦寺善通寺市吉原町一〇九一
七十四番医王山 多宝院 甲山寺善通寺市弘田町一七六五‐一
七十五番五岳山 誕生院 善通寺善通寺市善通寺町三‐三‐一
七十六番鶏足山 宝幢院 金倉寺善通寺市金蔵寺町一一六〇
七十七番桑多山 明王院 道隆寺仲多度郡多度津町北鴨一‐三‐三〇
七十八番仏光山 広徳院 郷照寺綾歌郡宇多津町一四三五
七十九番金華山 高照院 天皇寺坂出市西庄町天皇一七一三‐二
八十番白牛山 千手院 国分寺高松市国分寺町国分二〇六五
八十一番綾松山 洞林院 白峯寺坂出市青海町二六三五
八十二番青峰山 千手院 根香寺高松市中山町一五〇六
八十三番神毫山 大宝院 一宮寺高松市一宮町六〇七
八十四番南面山 千光院 屋島寺高松市屋島東町一八〇八
八十五番五剣山 観自在院 八栗寺高松市牟礼町牟礼三四一六
八十六番補陀洛山 清浄院 志度寺さぬき市志度一一〇二
八十七番補陀洛山 観音院 長尾寺さぬき市長尾西六五三
八十八番医王山 遍照光院 大窪寺さぬき市多和兼割九六

結願のあと、高野山奥の院の大師御廟に詣でて無事結願を感謝し、帰宅後菩提寺の御本尊にも御礼・報告をする。その際、掛け軸に菩提寺の朱印の枠があれば、住職に納経帳と同じように記入してもらうのがよい。

空海の時代、熊野にも四国にも、いや島国日本の海岸線の多くに「海上他界」・「補陀楽渡海」や「龍神信仰」・「龍宮伝説」といった言葉で語られる、海洋信仰があった。 熊野にも四国の足摺にも、海のかなたの「他界」や「浄土」に向けて一隻の手漕ぎ舟に十日程度の食料を積んで海上に出て行った人たちの話がたくさん残っている。
 この「海上他界」信仰をはじめたのは、死者を水葬で見送った海辺の民であり、水葬などの死者儀礼を行う時や海辺の民が「龍神」に海上安全や大漁を祈願する際の指南役である行者であろう。
 行者は、おそらく海辺の洞窟や「龍神」などを祀る粗末な社に寝起きし、漁民から施食してもらったり、乞食して飢えをしのぎ、海に突き出た突端の岩や、海べりの断崖の頂や、海水が削った洞窟や、波静かな小さな入江の霊域や、神が宿る滝水や巨岩巨木や清水や、奇瑞のある自然現象の行場を巡り歩き、読経を行い、御幣を献じ、水中に入って水垢離を行う自然崇拝の職業的行者だったにちがいない。彼らが、夜に行場で焚く火は、赤々と漆黒の夜空に舞い上がり、夜の漁の舟に「龍神」の加護利益を約束する火であった。
 彼らには、師もなく弟子もなく、行法らしき軌則もなく、戒律もなく、神奈備でも雑密でもなく、ただその村落の人々の幸福安寧や自然の恵みの順調なることのために、大自然のなかに身を投じて霊的な能力をみがくことが修行であった。
 その彼らが、自ら拓き、日々修行の道として往来した「海べりの行者路」を辺路(へじ)と言い、彼ら行者のことを辺路(へんろ)と言った。辺路(へじ)は行者しか知らない秘密の路で、女人の通行は禁じたにちがいない。辺路(へじ)とは、辺地(へち)であり、陸路の「縁(ふち)」すなわち海岸線などを意味する。

後世、彼らのなかから、山岳修験に入り、熊野三山を中心に修行を重ね、さまざまな行法を身につけ、峰から峰へ、峰から里へ、里から里へ、里から海辺へ辺路を拓き、時とともに辺路は単なる行者路から位の高いやんごとなき人たちが熊野に詣でる参詣道となった。上皇や皇族の「熊野詣」の際道中のさまざまな決まりごとや王子社などでの修法の指南をしたのは彼らであり、こうして、海辺の行者は単なる辺路(へんろ)ではなくなり、行者しか知らない海辺のローカルロードに過ぎなかった辺路(へじ)は、都から高貴な人々が往来する「往還」の参道に変身する。

辺路(へじ)が、海辺の行者が行場へおもむき、そこに篭り、大自然の霊威と交感してまた帰る往復の路、すなわち「往還」の路であったように、参詣道となった辺路(へじ)も、都から来て熊野に何日かお篭りし、同じ道をまた帰る「往還」の道である。
 四国にも「海上他界」・「補陀楽渡海」や「龍神信仰」・「龍宮伝説」といった海洋信仰が古くからあったことは先ほどもふれた。四国八十八ヵ所霊場のお寺に伝わるさまざまな伝説や霊験話を聞くと、いかに海洋信仰が四国の人々の生活や信仰に深くかかわってきたかがわかる。

四国遍路は、最初辺路(へんろ)と言い、霊場を順拝することを辺地(へち)修行と言った。熊野と同じく、海辺の行者が海辺の行場を順拝することを指している。
 『梁塵秘抄』には、

われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、
衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、
四国の辺地(へち)をぞ常に踏む・・・
とある。

十一世紀になると、大師信仰がさかんになり辺路(へんろ)は海べりを順拝する辺地(へち)修行から、弘法大師の霊徳を慕い、その大師に結縁し、わが身の現世の利益や行く末の加護を祈る遍路に変化した。
 その後は、修験の山伏の修行が目立つ時期もあったり、江戸期になって庶民のものになり、以後さまざまな曲折を経て、昨今では、観光・健康・信仰三拍子そろった修行旅行にもなった。そして、今、何回目かの遍路ブームである。

昭和四十年代まで、四国霊場のそこここでいわゆる「へんど」を見た。今のホームレスではないが、家族を捨て、仕事を捨て、世を捨てて、四国遍路の途中で行き倒れになり、死体となって発見される孤独な遍路があとを絶たなかった。つい先日まで、遍路には人間や社会の暗部がつきまとっていた。大師はそういう部分をも引き受けてくれるのである。

遍路は目的地に行って帰る往復ではなく、一番に始まり四国を一周して八十八番で結願する「循環」である。世界の巡礼道でこの「循環」型はめずらしい。熊野古道の「往還」とは対照的である。

なぜ「循環」か。それはすなわち、発心の道場(阿波・徳島県)→ 修行の道場(土佐・高知県)→ 菩提の道場(伊予・愛媛県)→ 涅槃(讃岐・香川県)という仏道修行の段階の順序であり、発心門(東)→ 修行門(南)→ 菩提門(西)→ 涅槃門(北)という曼荼羅の「四門」でもある。
 遍路は、自分の心に菩提心が宿っているのを自覚してそれを発起し(発心)、その心を堅固に保ちながら難路苦行もいとわず煩悩を断ち(修行)、煩悩の雲が晴れてサトリの智慧を得(菩提)、その智慧に住して静かで安らかな境地に至る(涅槃)。それは「往還」ではなく「循環」である。

七、大師信仰(二) 高野山

いわゆる大師信仰とは、「ありがたや 高野の山の岩陰に 大師は今も おわしますなる」という御詠歌のとおり、お大師様は亡くなったのではなく、今もなお高野山奥の院の御廟(岩窟)のなかに留まり瞑想に入っている、という「留身入定(るしんにゅうじょう)信仰」である。

高野山は、凛として清寂な比叡山とは逆で、山上街をなし、人の行き来や営みが下界の街と同じようににぎやかであるが、奥の院一番奥の御廟(燈籠堂の裏正面)近くはさすがに静かで空気も澄み、御廟の前で手を合わせ読経すると、「よく来られましたね」というお大師様の低い声が聞こえてくるような有難さに満ち、「ありがたや・・・・」が心にしみてくる。

今年は高野山開創一二〇〇年の勝縁。全国から連日高野山に詣でる人が絶えない。山上は、大師を慕う参詣者であふれている。宗派の末寺の住職が引率する団参もあり、ツーリスト会社が募集したツアーもあり、熱心な大師信者の大師講もあり、中高年の夫婦やグループもあり、家族連れもあり、リュックサックを背負いカメラを首からぶら下げた一人もあり、みな壇上伽藍から奥の院へ、奥の院から壇上伽藍へ、疲れも知らず押し寄せている。
 ある人が言ったことがある。高野山参りは信仰・健康・観光のいいことづくめだと。ただの観光旅行はお金を浪費した上、帰ったあと疲れが出るが、高野山参りは先祖供養のため、家内安全のお願いのため。お金は惜しくもなくムダでもなく、帰ったあと疲れが出ないとも。

宿坊もこの記念の年に合わせてあちこちでリニューアルや設備改善が行われ、どこも一流の旅館とそん色ない。高野山にお参りの際は日帰りではなく是非宿坊に泊まるべきである。宿坊は単なる旅館ではなく、お大師様のそば近くで、身を清め心を洗い、精進をいただいて、早朝先祖の回向法要に参座する参篭修行の宿である。
 回向法要にはきちんと衣服をととのえ身づくろいをして参加する。今流行の帽子をかぶってとか、男性のカジュアルな半ズボンなどはもってのほか。遅刻も禁物。堂内の外陣に座を選び正座する。昔釈尊は、姿勢を正して降魔(ごうま)を追い払った。正座とは諸魔を払いのけるということである。

まもなく住職・伴僧が入堂し読経がはじまる。足のシビレも修行のうち。身を慎むということを普段していないことがわかる。法要が終ると、申し込んでおいた人に先祖回向の証(日牌(一年間毎日回向)あるいは月牌(一年間月一回回向)の証など)が渡される。堂を出ると、心が清められたさわやかな気持ちが湧いてくる。

次に、言うまでもなく、高野山の中心である総本山金剛峯寺には是非お参りすべきである。今から一二〇〇年前に空海が高野山を開創した折に、丹生都比売神社の神域内にあった住坊の曼荼羅院を山上に移し山王院としたのが金剛峯寺のはじめだと言われているが、今の金剛峯寺は、第二代座主の真然(しんぜん)が祀られている廟所の地に、文禄二年(一五九三)、豊臣秀吉が母堂の菩提のために高野山の客僧だった木食応其(もくじきおうご)上人に命じて建てたもので、青厳寺・興山寺といわれていた。これを明治二年(一八六九)に合併し、全国の末寺を代表する総本山としたのである。寺名は、『金剛峯楼閣(こんごうぶろうかく)一切瑜伽瑜祇(いっさいゆがゆぎ)経』というお経の経題からとったと言われている。

金剛峯寺から壇上伽藍(だんじょうがらん)へは、蛇腹道(じゃばらみち)を経てほどなくである。空海が造営した当初の伽藍は、おそらく薬師如来を祀る講堂(今の金堂)と、空海の住房また持仏堂であったという現在の御影堂(大師堂)、そして丹生・高野両明神社くらいのものであっただろうか。
 次に建立が企てられたのは、大毘盧遮那(だいびるしゃな)法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)といわれた二基の多宝塔、すなわち「金剛界」の大日如来を祀る西塔と「胎蔵界」の大日如来を祀る東塔であったろう。これで恵果和尚から授かった「金胎不二」の密教に基づく道場が実現し、高野山の山上に金胎両部の曼荼羅海会が顕れ、日常的に密教の行(三摩地法)や潅頂ができるようになったのである。

伝えによれば、根本大塔も空海が「南天の鉄塔」を模して計画をしたといわれ、空海入定後五十二年を経た仁和三年(八八七)にやっと完成したといわれている。「南天の鉄塔」とは、密教の根本経典である『大日経』・『金剛頂経』の成立の聖地としてシンボライズされた伝説上の大塔で、「南インドの鉄塔」という意味である。
 この鉄塔のなかで、龍猛(りゅうみょう、龍樹、真言付法の第三祖)が「金剛薩埵」(第二祖)から『大日経』・『金剛頂経』を相承し、それを涌出(ゆうしゅつ)したというのである。実在説もあるが、古来真言宗では両経の「鉄塔涌出」説については種々の論議がある。

密教では塔(ストゥーパ)を「法界塔婆(ほっかいとうば)」つまり大日如来と見る。つまり「金剛薩埵」が大日如来から両部の大経を相承し、それを龍猛に授けたとする。あるいはこの塔を龍猛の本有菩提心(ほんぬぼだいしん)の具象だという解釈もある。

根本大塔は西塔と東塔との中間に建てられ、「胎蔵界」大日を主尊に「金剛界」の「四仏」がそれを囲み、柱には「十六大菩薩」が描かれていて、金胎両部の主尊像が集合し、二つで一つ(「金胎不二」)であることを表している。これこそ、師恵果和尚の密教の具現ではなかったか。

根本大塔・金堂・御影堂が囲むように、壇上伽藍の中央に「三鈷の松」が立っている。かつて唐土を辞する日、空海は寧波(ねいは、ニンポー)の紅衛塘(こうえとう)の浜辺に立って海上安全を修法し、持っていた三鈷杵を海に向って投げた。その三鈷杵が海を越えて高野山に落ち、今「三鈷の松」になっている。

壇上伽藍をなお西方に行けば、右手の奥に西塔が、正面の奥には山王院のほかに丹生明神・狩場(高野)明神・十二王子・百二十伴神の社殿が鎮座している。この社こそが、山麓天野の丹生都比売神社とともにある高野山の神仏習合の本体である。これらの祭祀には今でも丹生都比売神社の宮司職が出仕して祭礼を行うと聞く。

壇上伽藍を拝んだあと、是非霊宝館にも足を向けるべきである。ここには、永い間高野山が収蔵保存してきた仏像・法具・仏画・空海直筆の文物など、貴重な密教宝物や美術品が展示されている。

時に、高野山に行くには昔は難儀だった。周囲を標高九〇〇mからの内と外の八峰が囲んでいる。内の八峰は壇上伽藍の四方四遇を囲む峰で、伝法院山・持明院山・中門前山・薬師院山・御社山・神応丘・獅子丘・勝蓮華院山。外の八峰は奥の院の外周に聳える峰で、今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山という。

高野山造営の際、空海と弟子たちが何度も上り下りしたのはおそらく、今「町石道」となっている「高野街道西口」、通称「大門口」ルートにプラス三谷坂(勅使坂)の上部であったろう。
 この道は、史録に確かな事例として、治安三年(一〇二三)関白藤原道長が登り、寛治二年(一〇八八)白河上皇も登っている。その第四皇子で仁和寺第四世門跡の覚法法親王も、この二道を使って高野山に詣でている。
 道長が参詣した頃は、寺領もわずかで東寺の末寺に甘んじ山奥の荒れ寺のように寂れていたらしいが、道長の子で関白太政大臣となって藤原氏を栄華に導いた藤原頼道をはじめ摂関家や法親王が参詣するにつれ、大師の眠る霊山として次第に活気をとり戻していった。時を経ても藤原氏一族による空海への帰依・サポートがそこに見える。
 おそらくこの二道は、空海らが高野山に入る頃には主要な登山道として通じていたはずで、もともとは丹生一族やヤマの民が狩猟や山の幸や水脈確保や水銀採掘等のために古くから整備してきた生活道であっただろう。

のちに、高野山に上る参詣道は七本にもなった。「高野七口」といわれる。江戸時代の古地図などでわかる。
 「高野七口」のうちで、「京街道」・「京・大阪道」・「東高野街道」・「裏街道」などとよばれる「不動坂口」は、奈良や京・大阪方面からきて橋本で紀ノ川を渡り、学文路から極楽橋を経て大門をめざす最短コースで、江戸期から大正時代にかけては茶屋や宿屋が軒を連ね、一般庶民の往来がもっとも多かったといわれている。昔は七本の道に女人堂があって、明治五年までは女人禁制の故に女性はそこまでしか入れなかった。現存する女人堂はこの「不動坂口」のものである。
 「龍神街道」とよばれる「湯川口」は、高野山の南の有田や龍神温泉方面から湯川・護摩壇山を経て花園そして大門への道で「龍神口」・「保田口」・「梁瀬口」ともいわれる。
 「熊野街道」とよばれる「大滝口」は、熊野本宮方面から十津川村・野迫川村を経ていくつもの峠を越え大門をめざす熊野古道の一つ小辺路のことである。最近世界遺産になったことでこの道が人の耳目を集めている。「熊野口」ともいわれる。
 「熊野街道」の「相の浦口」は、「龍神口」と「大滝口」の中間のルートで有田や龍神方面から相の浦を経由して今の霊宝館のところに出るルート。昔から一番参詣者の少なかった参道である。
 「大峰街道」とよばれる「東口」は、文字通り大峰山と高野山を結ぶ修験行者道で、大峯山の山上ヶ岳から洞川・天川村阪本を経て、今井辻・陣ヶ峰・桜峠そして中の橋に出るルート。「大峰口」ともいわれる。
 「大和街道」といわれる「黒河(くろこ)口」は、橋本筋から紀ノ川を渡り、賢堂・市平・久保・黒河・平などの小集落を通り、奥の院の北東方に連なる摩尼山と楊柳山の間の黒河峠を越え、「奥の院」の裏手の三本杉のところへ出るルート。「大和口」・「粉撞口」ともいわれる。
 そして「高野街道西口」ともいわれる「大門口」が、慈尊院から天野を経て山上の「大門」をめざすルート。これが昔の表参道で、「町石道」(「胎蔵マンダラ」分)になっている。

まだ最近の話であるが、この「町石道」を往復してハイカーや参拝客を道案内する犬がいた。名前を「ゴン」と言う。昭和六十年代に南海電鉄の九度山駅からほど近い丹生橋の付近にいた野犬で、利口で人になつき、高野山や慈尊院に詣でる人を案内していたが、平成元年頃からは慈尊院に住みつき、毎日のように慈尊院と大門の間を往復していた。空海がはじめて高野山に登った時に道案内をした二匹の犬とイメージが重なり話題となっていたが、平成十四年の老衰で亡くなった。

高野山は空海の入定後何度か衰微の時期があった。そのたびにそれぞれの参道も荒れたことであろう。
 現在の「町石道」は、もともと空海が木材の五輪塔婆を建てたものといわれているが、鎌倉時代の文永二年(一二六五)に遍照光院の覚斅(かっきょう)上人が一町ごとに石の五輪塔を建てることを発願し、幕府の要人であった安達泰盛らの勧進によって、後嵯峨上皇はじめ幕府の有力者だった北条政村・時宗たちの援助も集り、二百余基が二十年後の弘安八年(一二八五)に完成したものである。この表参道の一大整備プロジェクトによって寺勢かならずしも芳しくなかった高野山はふたたび隆盛に向った。

「町石道」には二つのルートがある。一つは壇上伽藍から大門を経て麓の慈尊院までの山道二十km。もう一つは壇上伽藍から金剛峯寺を経て奥の院の「御廟」に至る山上平坦の道四kmである。
 壇上伽藍から慈尊院までの山道には、根本大塔近くの中門跡西側の杉林のなかにある一町石から一町(百八m)ごとに慈尊院境内の石段途中にある百八十町石まで、百八十基の五輪塔が建っている。この百八十基の五輪塔それぞれに「胎蔵曼荼羅」百八十尊の梵字(「種字(しゅじ)」)が刻まれている。このほか、途中一里ごとに一本、合計四本の里碑が建てられていて、それを加えて百八十四本である。

壇上伽藍から奥の院「御廟」までの道には、根本大塔東の石段下にある愛染堂の前の一町石から一町ごとに奥の院「御廟」(玉垣内)の三十六町石まで、三十六基の五輪塔が建っている。これらのそれぞれに「金剛界曼荼羅」の三十七尊の梵字が刻まれている。しかし古来、本尊大日如来の分の一基がない。
 この理由は、「元来、三十七基を造立したというのが通説になっているが、三十六町石は御所芝に建てられており、三十七町石を建てていたとは考え難い。従って三十七基造立したとすれば、中門(大塔近くに中門跡がある)の前に基石を建立して、それを大日如来に当てたものか。又は、町石三十六基全体をして大日如来に当てたものと考えられる」(『高野山町石道の研究』愛甲昇寛)と言われている。

五輪塔に刻まれている文字をよく観察すると、鎌倉時代の年号のほか施主名や「為○○○○」という為書きがあり、親族縁者の供養や仏法興隆の祈願を目的としたことがうかがえる。施主には太上天皇から貴族・高級武士・僧侶の名が見え、北条家の執権政治に名を馳せた安達泰盛など鎌倉幕府中枢の人の名が目立つ。二道をあわせて二百二十基。「町石道」は「金剛界」・「胎蔵界」のすべての仏たちを動員した「曼荼羅の道」である。
 この「町石道」は、覚斅上人をはじめ山上の高僧たちが考案したといわれるが、高野山への参道に一町ごとの道標を建てるというプロジェクトディベロッパーとしての知力ばかりでなく、高位高官の人たちを動かす動員力や、彼らを単なる外護者に終らせず両部諸尊の曼荼羅海会に引き込む教理的な構想力(潅頂の応用)には感嘆するほかない。

さらに言えば、吉野・熊野・高野と三つの「野」に象徴される古代宗教のトライアングルをなすこの地域は、「ヤマ」と「サト」の観念が古くから濃厚にあったところである。全行程を「俗」(人間、サト)から「聖」(大日如来、ヤマ)へ、「聖」(大日如来、ヤマ)から「俗」(人間、サト)へ往還する「ヤマ・サトの道」でもあった。

人々はこの「町石道」を登って「山上他界」で世俗の塵を払い、生れ変って六根清浄となりサトに下りた。そして、ヤマでその身についた霊気をサトにもたらし、サトでの暮しのなかでヤマへの信仰とそのご利益を説いたであろう。これを密教的に言えば、「町石道」を往還することは金剛・胎蔵両曼荼羅の諸尊海会にこの身を投帰し、大日如来のまばゆい遍照の光に照射されて海会の諸尊と「無二一体」となる、イニシエーションの儀礼だったとも言える。

八、観音・不動・地蔵・稲荷・聖天の信仰
(一)観音信仰

東照宮で有名な日光はもと観音信仰の霊場だった。観音菩薩が住む山、あるいは降り立つ山のことを補陀落(サンスクリットでポータラカ)といい、「ふだらく」は「ふたら」、「ふたら」は二荒山神社の「二荒(ふたら)(にこう)」、「二荒(にこう)」が日光(にっこう)となった。「日光」とは、江戸時代に芭蕉がきて「あらとふと 青葉若葉の 日の光」と詠んだのを依用している。
 この観音霊場を開いたのは空海が碑文を寄せて称えた勝道上人で、頂上をきわめた男体山を千手観音とした。男体山のふもとの中禅寺はもと二荒山神社の神宮寺であるが、(十一面)千手観音(通称、立木観音)を祀り、坂東三十三ヵ所観音霊場の第十八番札所になっている。

熊野那智地域にも日光と同じく、古くから補陀落信仰があった。こちらは、「山上他界」ではなく「補陀落渡海」である。海の彼方に「常世」があり、そこに向って渡海船で漕ぎ出すのである。船には四方に鳥居を建てた箱室があり、海辺の行者がそのなかに入り、入ったら絶対に出ないのである。この例は、四国の室戸岬・足摺岬、茨城県の那珂湊にも見られた。

このような「他界信仰」とは別に、『観音経』に説かれる三十三化身をもとにした三十三ヵ所観音霊場順拝の観音信仰がある。関西の西国三十三ヵ所、関東の坂東三十三ヵ所がもとであるが、いつの頃からか埼玉県の秩父地方に「秩父三十四ヵ所霊場」ができ、合計で「日本百観音」と言うようになった。この霊場をお参りして歩くことを巡礼・順拝という。

観音巡礼の趣旨は、生きる上で重ねてしまう罪業がこの巡礼によって消滅し、あの世の入口の閻魔大王の裁きにより地獄・餓鬼・畜生の悪趣に堕とされないようにするためである。
 その裏づけとして、『観音経』の冒頭で、

仏が無尽意菩薩に告げた。善男子よ、もし無量の百千万億の衆生がいて諸々の苦悩を受けているとすれば、この観世音菩薩(の名)を聞いてその名を一心に称えると、観世音菩薩はすぐにその音声を観じてみな解脱を得ることができる。
と言い、観音の名を一心に称えれば苦から救われることを教えている。観音信仰の原点である。

(二)不動信仰

次に、仏教国としては日本だけにさかんな不動信仰である。
 火焔を背負い忿怒の姿の不動明王(信仰上は不動尊)は、「降魔(ごうま)」を仏徳とする。「降魔」とは、マーラ=仏道修行とくに瞑想をさまたげる魔物(煩悩・誘惑・愛、悪魔・天魔)を降伏させることである。「胎蔵曼荼羅」では「持明院」においてこの不動明王を主尊とし、忿怒の形相(ぎょうそう)をもって仏教に不信の者や我欲に染まり菩提心の自覚をもたない者を懲らしめ、慈悲の心で仏道へと導く役割を与えている。
 空海は、この不動明王の役割を相当に高く評価していたのであろう。東寺(教王護国寺)の「立体曼荼羅」では向って左のスペースに不動明王を中心とする五大明王を鎮座させ、この国の鎮護の大役を与えた。外敵や仏教に不信の者がこの「仏国土」を侵さないようにである。

「六郷満山(ろくごうまんざん)」の修験(天台宗系)で知られる大分県の国東半島に、熊野磨崖仏がある。左右の脇に高さ三mの矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を従えた高さ八mの巨大な不動明王(上半身像)が、岸壁に刻まれている。またその右側には、高さ六.七mの大日如来の磨崖仏(上半身像)が堂々と登りくる人をみつめている。不動明王は、大日如来の「教令輪身(きょうりょうりんじん、我欲に染まる衆生の煩悩を右手の利剣で砕き、それでも仏道に向わない衆生を左手の慈悲の縄で縛り、背の火焔で煩悩を焼き尽くし、衆生を仏道に向わせる役割)」であるから、まさに「大日大聖不動明王」の理にかなった構図である。

さらに、場所を移して「鬼会(おにえ)の里」の天念寺に行ってみると、寺の目前を流れる長岩屋川の巨岩にまた三m余の不動明王を中心とした不動三尊が刻まれていた。「川中不動」という。この天念寺で毎年旧正月の七日に行われる修正鬼会(しゅしょうおにえ)の際、鬼会の主役をになう若者たちが垢離のため下帯ひとつでこの不動明王の前の川水に飛び込む。
 この不動明王は、たびたび氾濫して水害が絶えない長岩屋川の流れを鎮めるために刻まれたと伝えられているが、その背景には六郷満山の守護仏としての不動信仰があったのであろう。熊野磨崖仏も川中不動も、山岳修行者が霊威を強く感じる場所だったに相違ない。

このように日本の不動信仰は山岳信仰のなかでひろまった。もとをただすと、修験の行法に密教の加持祈祷の要素が潜んでいるし、密教の加持祈祷の代表である護摩行は不動護摩が基礎になっていることも無縁ではないであろう。成田山をはじめ今日本の不動信仰をになっている寺は大なり小なり山岳信仰・修験の要素をもっていて、信者たちは不動尊のそうした霊威ある加持力・守護力に信をおくのである。

高野山の南院には、空海作といわれる「波切不動」が祀られている。唐の留学からの帰途、空海の乗った船が東シナ海の大波に翻弄されると、空海は恵果からいただいた霊木を用い一夜にして不動明王を謹刻し海上安全を祈願すると、その不動明王は右手にもつ利剣で逆巻く波を切り裂いて船を助けたという。
 日本の大きな漁港近くには、この「波切不動」を祀る寺が多い。漁船の航行安全・漁の安全、ひいては大漁祈願を祈る漁師の人たちの不動信仰がそこに見える。

このほか、近畿・四国・関東・北関東に三十六不動尊霊場がある。三十六という数は、不動明王の眷属(けんぞく、従者)である「三十六童子」に由来する。

(三)地蔵信仰

お地蔵さん、地蔵尊、地蔵菩薩は、観音様・お不動様とともに日本の仏尊信仰を代表する仏で、そのなかでもとくに庶民の生活に一番密着した願いごとやご利益の対象になっていることに特長がある。
 サンスクリット名のクシティガルバが「大地を宿すもの」「大地を胎内とするもの」といった意味であることから、地中のさまざまな生物や植物の根を生み育てる仏とか、人々の世間苦を身代りになって引き受け、地獄の責め苦から救う「代受苦(だいじゅく)」の仏と言われる。

空海の時代、平安京入口の羅城門の左右に東寺と西寺があった。東寺は空海が、西寺は守敏(しゅびん)という僧が住持だった。
 守敏は日頃、嵯峨天皇と親交のある空海をいつもねたましく思っていたが、空海を重用する嵯峨・淳和の二帝をとうとう逆恨みするまでになり、修法によって干ばつの飢饉を起すことを企み、三千世界の「龍神」を全部捕らえて小さな水瓶のなかに押し込めてしまった。干ばつの飢饉に困った淳和はそれとも知らず守敏に雨乞いの祈祷をさせた。しかし、十七日目にやっとわずかばかりの雨が降っただけであった。

淳和は、いっこうに功顕のない守敏に代り、空海に雨乞いの祈祷を命じた。しかし、祈祷をはじめて七日が経っても雨は降らなかった。空海はおかしいと思い、観法によって三千世界の「龍神」を探してみると、守敏によってみな水瓶のなかに閉じ込められていた。そこで空海は、一頭だけ残っていたヒマラヤの北方に棲む「善女龍王(ぜんにょりゅうおう)」を勧請すると、金色の八寸大の「龍神」の姿となり、身の丈九尺ほどの蛇の頭に乗って池に降り立った。淳和はその観想を空海から聞いて、和気真綱(わけのまずな)に命じ御幣や供物を「龍神」に供えた。空海が修法を再開したところたちまち黒雲が涌き起り、三日三晩大雨が降り続いた。

守敏はこれを不服として空海をますます逆恨みしついに矢を放って殺そうとした。ところが、そこに地蔵菩薩が現れて矢を代って受け、空海は命拾いをした。守敏はこれによって失脚し、以降西寺とともに歴史の舞台から姿を消したという。この地蔵菩薩の背中には、矢が刺さった傷が残った。この地蔵菩薩は今、「矢取(やとり)地蔵」として羅城門跡公園の入口に立つ小堂に祀られている。

地蔵信仰の展開には、いくつかのパターンがある。
 一つは、今の「矢取地蔵」のような「代受苦」地蔵の信仰。東京巣鴨の「とげぬき地蔵」や病気・災難の身代りを引き受ける「身代り地蔵」など。
 一つは、子供の守護仏としての信仰。妊娠・安産の護りとしての「子安地蔵」。子供の成長を護る「延命地蔵」。月満たない流産・死産で親よりも先に亡くなった嬰児を救う「水子地蔵」。早世を親不孝とされ、それ故「三途の川」が渡れずに「賽の河原」で鬼に責められる子を救う地蔵。
 一つは、道祖神としての地蔵信仰。日本全国、町や村の境界の辻に立っている地蔵尊。墓地の入り口などに立っている「六地蔵」。外から病気や災いをもたらす悪霊や悪鬼が入らないように「結界」を護る地蔵尊である。
 さらには、甲冑を身につけ、右手に錫杖、左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがった武人の「勝軍地蔵」。武家の間で武運長久・子孫繁栄の守護仏となった。京都愛宕山、愛宕神社の火防の神の本地仏である。

然るに、地蔵信仰の代表は地蔵盆、なかでも京都の地蔵盆であろう。
 地蔵盆は、京都・滋賀・奈良・大阪・三重・若狭・神戸など関西で盛んであるが、お盆月の八月、宵縁日の二十三日を中心に前後の三日、町辻や村辻にある小さな地蔵堂や臨時に「延命地蔵」を祀ったお仮屋に近所の大人・子供があつまり、子供たちの無病息災・無事成長などを祈る。この頃はかならずしも縁日の前後でなく、それに近い土・日に行われることが多くなった。世話をする大人たちも、集まる子供たちも、その方が都合がいいのだ。
 地蔵盆は、大人が子供を接待する行事で、子供たちのためにお菓子・食べ物・遊び道具などを準備する。もとはと言えば「町」や「字」や「組」といった小規模単位の共同体で行われていた「地蔵講」のなごりである。お地蔵さんはほとんどが「延命地蔵尊」で、カラフルな化粧が施され、そのまわりで子供たちが遊んだり飲食をする。子供の守護仏としての地蔵信仰の代表的な例である。

(四)稲荷信仰

稲荷信仰も日本では盛んである。神社庁に属する全国の神社のうち四割が稲荷社だという。
 稲荷神は、五穀と養蚕を司る穀物神(宇迦之御魂(うかのみたま))・農耕神(倉稲御魂(うかのみたま))で、稲荷明神ともいわれる。

稲荷信仰では神の使いとして狐が活躍する。密教では稲荷神をヒンドゥーの鬼神ダーキニー(荼枳尼天(だきにてん))で代替するが、荼枳尼天は夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)と同種で、人の死を知りその肉を食らう鬼神であったが仏に降伏させられて善神となり、これが日本では狐を「田の神」の使いとする農民の信仰と結びついて、稲荷は即狐と考えるようになった。

空海はこの稲荷神と縁が深かった。
 天長三年(八二六)十一月、空海は多忙な高野山造営の合間をぬって、前年の講堂の建立につづき、東寺にわが国初の自らの設計監理になる密教様式の五重塔の建設に着手した。
 南都の官大寺にはいくつも立派な五重塔が建ち並んでいるが、一層部分の四角の芯柱を本尊(「金剛界」大日)にみたて、それを中心に柱の四面を背に「金剛界」の「四仏」が四方を向いて坐る配置は東寺の五重塔にしてはじめてであった。塔自体が大日如来(「金剛界」)、つまりは「法界体性塔」である。この五重塔の用材を空海は伏見の稲荷山から調達したという。
 一説では、この稲荷山の聖域から木材を切り出したため、それがたたって淳和天皇が病気になった。朝廷は官寺である東寺の造営にかかわることであったのでその罪滅ぼしに従五位下の官位を伏見稲荷社に与え、天慶五年(九四二)に正一位を、応和三年(九六三)に京の東南の鎮護神と定めたという。

平安初期、この山には朝鮮半島から渡来した秦氏の祖霊・山神・穀霊の稲荷神の社が祀られていた。和銅四年(七一一)二月、初午の日に、秦氏の遠祖である秦公伊侶具(はたのきみのいろく)が伊奈利山(稲荷山)三ヶ峯に三柱の神を祀ったのである。
 秦氏は、山背国葛野郡(今の京都市右京区太秦)や同じく紀伊郡(今の京都市伏見区深草)や河内国讃良郡(今の寝屋川市太秦)などの土地に土着し、農業土木や養蚕や道具機械の技術によって栄えた。京の太秦を本拠地とし、そこに蜂岡寺(はちおかじ、広隆寺)を建立したり、松尾山には松尾大社を祀っている。
 桓武の平安京遷都の際には財力と技術を提供して朝廷の認めるところとなり、有数の氏族となった。「八色の姓」(やくさのかばね、天武天皇が定めた身分制度)では「忌寸(いみき)」の姓を賜り、その系譜には明法家(みょうぼうか、律令法学者)のほか神社の社家・朝廷の官人・郡司などに数多くの名がみえる。

この秦氏の祖霊や稲荷社を祀る伏見稲荷山は、奈良時代から鞍馬山や愛宕山とともに修験道の聖地でもあった。空海の頃、東寺の密教僧の山林修行の場としても使われていた。
 空海は嵯峨や淳和を通じあるいは朝廷の役務を通じ、官寺である東寺の造営別当として秦氏一族の者との交わりが充分にあったにちがいない。さらに東寺の密教僧の山林修行の場として、秦氏系の神職・社家の理解と協力も得ていたであろう。秦氏の側も嵯峨と空海の関係を知っていて空海には格別に好意的であったと思われる。伏見稲荷山は、東寺の造営別当として空海にとっては必要不可欠の山であった。

東寺と伏見稲荷を結ぶ祭礼が今もつづいている。毎年、四月下旬の最初の日曜日から五月の三日まで行われる伏見稲荷大社の「稲荷祭」である。
 東寺に伝わっている『稲荷大明神流記』に、次のような伝説があるという。

弘仁七年(八一六)、空海は紀州田辺で稲荷神の化身である異形の老人に出会った。身の丈八尺、骨高く筋太くして、内に大権の気をふくみ、外に凡夫の相をあらわしていた。老人は空海に会えたことをよろこんで言った。
「自分は神であり、汝には威徳がある。今まさに悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか」と。

空海はこう答えた。
「(中国の)霊山においてあなたを拝んでお会いした時に交わした誓約を忘れることはできません。生きる姿はちがっていても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛させたいという願いがあります。神さまには仏法の擁護をお願い申し上げます。京の九条に東寺という寺があります。ここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください」。

弘仁十四年(八二三)正月十九日、空海は嵯峨天皇の勅により、東寺を鎮護国家の密教道場にすることを任された。その年の四月十三日、紀州で出会った神の化身の老人が稲をかつぎ、椙の葉を持って婦人二人と子供二人をともない東寺の南門にやってきた。空海は、大喜びして一行をもてなし、心から敬いながら、神の化身に飯食を供え、菓子を献じた。その後しばらくの間、一行は八条二階堂の柴守長者の家に止宿した。
 その間、空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に十七日の間祈りを捧げて稲荷神に鎮座いただいた。これが現在の稲荷社(伏見稲荷)であり、八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿をつくって伏見稲荷、東寺、御旅所を回らせたのである。

稲荷神は本来食料生産の農業神であるが、時代とともに産業の神・商売の神・開運出世の神などにもなった。空海や東寺と関係の深い京都伏見稲荷を総本社としている。

(五)聖天信仰

最後に聖天(歓喜天)信仰である。
 歓喜天がヒンドゥーの毘那夜迦(ヴィナーヤカ)であることは前に触れたが、実際の尊像は象頭人身の単神と、象頭人身の男女神が抱擁している双身一体の秘仏。厨子に収めて歓喜天の修法に熟練した己達の行僧でなければ開けてはならない。従って、信者は歓喜天に代り十一面観音像を拝むのが通例になっている。
 聖天信仰の本筋は、尊像の姿からもわかるように夫婦和合・夫婦円満のご利益である。そのほか、財福成増・縁結び・商売繁昌・病気平癒・災厄消除・悪運除断など、信者の祈りの功徳力と行僧の念誦力とお聖天の加持力と、この「三力」が融合する結果、祈れば必ず成就しないことはないと信じられている。ただし、行者には不浄や穢れや怠慢が許されず、信者には中途でやめるような信仰を避け、一心に信奉し加護利益を祈る信仰の日々が要請される。

聖天信仰といえば、信者にも厳格な心得が求められるので心しなければならない。

○聖天に心から帰依しおまかせする。
○聖天の信心は一生怠らず続ける。
○家に御札をお祀りし、身心を清浄にして毎日お参りする。服喪期間・女性特有の期間はそのかぎりでない。
○お参りする時は純粋な気持で一心に祈り、ご利益を疑わない。
○願いごとが成就しない時は、まだその時がこないか、祈りにまちがいがあったか、聖天の意にそわないお参りをしていたか、よく省みて正すのがよい。
○どんな願いごとも可、願いごと成就のために自ら努力するも可、しかし願いごとの成就・不成就は聖天の意にまかせる。
○信心努力しても足りない時は、聖天祈祷に熟達した僧侶(行者)の法力に頼むのがよい。
○もし願いごとが成就したら、聖天に感謝するのはもちろんお寺や社会に布施を行えばさらに加護がいただける。
○信心が我欲の満足のためだけだと聖天の意にそわず、ご利益が少ない。
○願いごと成就には浴油供か華水供の祈祷があり、もし成就した時は、御礼として大般若経の転読や百味供養に奉参するとよい。もちろん浴油供でもよい。
○聖天は怖い仏様とか、七代の子孫の福貴を一代で取ってしまうとか、世間の風聞雑言があるが、みな根拠のない迷信である。

以上、空海が認めた、あるいは認めるであろう日本の信仰を述べてみた。
 拾い出してみるとまだ、阿弥陀信仰・往生信仰、法華信仰があり、天狗・鬼・星宿等のほか地方土着の民間信仰があり、数えきれないほどの新しい神道系・仏教系の新宗教信仰があり、何よりも祖先崇拝があるが、この項はこの辺でとどめおくことにする。

九、受難に耐える日本の仏教

鎌倉時代にあの世・来世・極楽の観念が広まって以来、人間が死んでこの世と別れることを往生とか成仏と言い、あの世に旅立つ死者の葬送儀礼に日本の仏教がつきあうようになった。室町時代には、初代将軍足利尊氏には死後法名が日本ではじめて授与され、武家の間に仏式の葬儀が行われるようになり大名は代々当主を祀る菩提寺を持った。葬式仏教のはじまりである。

然るに、室町時代にはじまった葬式仏教は、戦国時代を経て江戸時代には一般民衆の間にも定着した。これに基づき、幕府は寛文年間に「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)」の作成を諸藩に命じ、今でいう住民登録簿に宗旨の記載を義務づけ、民衆はいずれかの宗旨に属する寺の檀家として登録されることになった。檀家制度のはじまりである。

約十年後の元禄時代には、地方の寺院にも「過去帳」(「過去霊簿」)が備えられ、檀家の死者の戒名・法名が記録され、墓も土まんじゅうに木の墓標ではなく、石で造られるようになった。
 以後日本の仏教は、一部の祈願寺院をのぞいて、おおかた檀家の葬儀とその追善供養を本業とするようになった。

幕府の保護のもとで隆盛を誇った仏教寺院に、明治になって突如法難が襲った。
 明治元年(一八六八)、明治新政府は太政官布告によって「神仏判然令」(「神仏分離令」)を発し、明治三年(一八七〇)には詔書「大教宣布」によって神道の国教化を宣した。国家神道と廃仏毀釈の宣布である。

強大な軍事力を背景とした西洋列強の脅威に備えるため、明治政府は近代国家建設を急ぎ、国力増強の求心力を天皇絶対の中央集権体制に求めた。神仏分離・神道の国家神道化、仏教の弾圧はその一環だった。
 これによって、多くの寺が廃寺の憂き目に遭い、仏堂・伽藍が破壊され、仏事が禁じられ、土地・田畑・山林ほかの寺有財産が没収され、還俗させられた僧侶は数知れず、金銅仏・石仏までが首をはねられた。没収された財産は軍事費に、還俗させられた僧侶は一部が神職に転向させられたほか、多くは兵役や軍事物資増産のための労役にとられた。これによって江戸期に存在した仏教寺院と僧侶は半分以下になったといわれる。

国から保護を受ける公的で特権的立場から放逐された上、国家神道・皇国思想・文明開化の新しいパラダイムが闊歩するなかで著しく存立基盤を失った寺院は、仏事や布教活動も思うにまかせず、檀信徒の信助も乏しく、坊さんの姿も少なくなり、多くが仏堂・伽藍の維持さえも困難な状況になった。下寺といわれた規模の小さな寺は無住となり、檀家ごと本寺に吸収され、本寺住職が兼務することになった。
 公職・聖職の立場から一転して寺院を自力で経営することなった住職は、自坊護持のために宗教活動が即収入につながることを心がけなければならなくなった。
 祈願寺の住職は護摩などの祈祷行に一層勤しみ、祈祷札を背中に背負って行商まがいの頒布行脚をして信者を獲得し、正月・五月・九月の参拝を奨励した。檀家寺の住職は境内や所有地に墓地を造成し、墓所の提供による檀家の確保・増加に努め、その檀家から墓地永代使用料や葬儀・法事の布施を仰ぐことで寺院収入を確保した。

この法難の時代、寺の台所をまかなったのは残った農地からの食糧だったが、若い弟子たちがいなくなったあと、代って台所を支えたのは地域や有縁の女性たちだった。その女性たちのなかから宿縁によって住職と夫婦になり、住職を補佐する傍ら農地を耕して自給自足を計り、檀家の相談相手になって寺を支える人が出た。廃仏毀釈は、政治の力で、物理的に強制的に、住職を出家の道から在家の道へと転向させたのである。

以来、寺院に長く続いた住職と弟子という護持の体制が不可能となり、それに代って住職とその家族という体制になった。当時の僧侶の名誉のために言うが、僧侶が自ら堕落して女性を求めたのではない。寺を守るため、ひいては日本の仏教を守るため、やむなく女性を寺に容れたのである。明治五年(一八七二)には、太政官布告によって僧侶の肉食妻帯や長髪は自由にしてよく、法務の時以外は一般の服を着ていいことになっていた。
 しかし、筆者の曽祖父などは破戒の僧として地域や檀家から非難され、寺から放逐されそうになった。寺を守るための次善の策とはいえ、僧侶が妻を迎えること、ましてや子を成すことなど、一般にはまだまだ受け容れられない不道徳だった。それでも曽祖父は、檀家もわずかの荒れ寺を夫婦で汗を流して復興させ、寺には住職を助ける家族が必要なことを周囲に認めさせた。そうした辛い苦難を経て、日本の仏教は明治の法難の時代を切り抜けたのである。

その廃仏毀釈に次いで寺院基盤に大きな打撃を与えたのは、戦後マッカーサー司令部が占領政策として行った農地解放と新憲法が定めた信教の自由である。これよって寺院の存立基盤を支えていた農地資産と食糧自給、仏教寺院を支える宗教基盤だった檀信徒の帰依・帰属の意識や信仰心・先祖への孝養心のタガがはずされてしまった。

明治以降何とか自足していた寺院の食糧も自給できなくなり、住職は仏堂・伽藍を護持し、寺の助けとなっている家族の生活を守るため、宗教活動と一体化した商業アイテムを考案し、自己矛盾を承知でそれを実践し自活の道とした。
 本来純粋な宗教儀礼であるはずの祈願(加持祈祷)も葬儀(死者儀礼)も法事(先祖供養)も、それに付随するお札・お守りも、戒名・お塔婆も、みな「○○料」収入の対象となったのである。仏堂・伽藍を維持し家族の生活を守るには、寺の規模にもよるが今では年間数百万~数千万円を必要とする。各住職は、その財源をどう賄うか、それについては檀信徒にどの程度の信助を頼むか、日々悩むのである。

一方、新憲法が定めた信教の自由は、日本人を明治からの国家神道・皇国思想・軍国教育の強制から解放したが、国の公的機関が宗教とかかわりをもつことがタブーとなり、公教育の場である学校は宗教(や宗教的教義)に触れることがご法度となった。その影響で、家庭や地域では土着信仰・伝統習俗や○○信仰・先祖供養の伝承を旧世代が次世代に伝えることまで消極的となり、伝統宗教の軽視や無信心や無神論が日本人の間では恥ずかしくないことになった。加えてさらに、アメリカが持ち込んだ自由や個人主義そして物質的な豊かさによって日本人の精神は骨抜きの状態となり、日本人は精神的な充足よりも物質的な満足に心を奪われるようになった。

さらに、日本では宗教というものが世俗の価値観のなかに埋没し、損か得か、安いか高いか、流行っているか流行っていないか、という大衆感覚によって選ばれる対象になった。
 それはまた、既成仏教各宗も新興宗教も、新宗教も新々宗教も、神道もキリスト教も、市民感覚ではみな横並び感覚であって、その時その時の必要性と有用性によって自由に使い分けされる、そんな生活アイテムに過ぎなくなった。

日本の仏教寺院は、おおむね信者寺と檀家寺の二形態で現世利益と先祖供養という日本人の宗教意識に寄り沿い、今日までしたたかに生き延びてきた。明治時代から敗戦まで国家神道のシンボルとして君臨してきた幾多の神社が、戦後はひと気のない鎮守の杜や街のなかの一角で神職の姿もなく人影もなく寂としてたたずんでいるのに比べ、お寺は葬式坊主と陰口を言われようが、おがみ屋稼業と揶揄されようが、戦後も重い手かせ足かせを背負いながら護法護寺の道をたどってきた。高度成長期には、総じて中流階級となった檀信徒の浄財寄進によって仏堂・伽藍の再建や新築などの山容整備も盛んに行われ、戦後の復興めざましいものがあった。

しかし、ここのところにきて暗雲が垂れこめてきた。戦後の復興から高度成長期・バブル期を経て、寺院の存立基盤をおびやかす社会構造の変化が忍び寄っている。一つには農山漁村の過疎、地域の衰微である。

まず、人口・経済・就労・就学の大都市集中と農山漁村の過疎化・地域経済の弱体化により、農山漁村に所在する寺院に維持困難な例が目立ちはじめた。人口の減少・地域の衰微といったやがて寺院の基盤を本格的にゆるがす問題が、もともと人口の少ない農山漁村からはじまっているのである。そして日本全体の少子化・人口減少と地方都市の衰微である。ある時期、農山漁村の人口が流入した地方都市も今、少子化・人口減に悩んでいる。

寺院の経済基盤はその地域の経済力に直結している。地域経済が衰微した町の寺は、不動産などからの特別な収入でもないかぎり、檀信徒からの収入だけでは仏堂・伽藍と住職及びその家族の生活も維持できないことが多い。そうなると、住職や寺族が他に職を兼業し、その個人収入で寺を維持せざるを得なくなる。
 今や全国どの地方に行っても、人口減少と地域衰微の問題は寺院経済を直撃し、寺院基盤を弱体化に導いている。近現代の法難を何度かしのいできた仏教寺院だったが、檀信徒の減少という暗雲が今垂れこめている。シャッターを下ろした商店、明日はわが身である。

然るに、寺院基盤をおびやかす社会構造の変化にもう一つ、核家族による「家」・家族制度の崩壊がある。

信者寺を永く支えてきたのは「講」といわれる信者組織であるが、信者の多くは世代交代をしても子が親の跡を継いで講員になってきた。「○○講」の一員として「○○不動」「○○観音」を信仰することは、いわばその「家」の信仰と言えた。核家族の時代になって、日頃親と同居していない若い世代には、親が「○○講」に入って「○○不動」・「○○観音」を信仰しようが直接関係がない。無関心でいられる。もし親が亡くなっても自分は自分、跡を継ぐか継がないかは自分の自由である。最近は講元さんの跡継ぎに悩む信者寺も多い。すでに「講」に依存することをやめて、不特定多数の個人参拝を増やす努力に切り替えて成功している信者寺もある。

檀家寺を永く支えてきたのは、国家神道・皇国思想・軍国教育の洗礼を戦前に受けた世代。神仏を畏敬してやまない人たちであるが、この世代は自分たちが受けた教育で信じ込まされた価値観が敗戦によって全部否定されたため、子供たちに戦前の価値観例えば国には忠、親には孝、神仏には畏敬、先祖には供養という伝統精神を強制せず、本人たちの自由意志に委ねる道を選んだ。
 新しい世代は、戦後アメリカが持ち込んだ個人主義や女性(嫁)の人権尊重の洗礼を受け、家付き・カー付き・ババア抜きの核家族を形成した。その結果、若い世代に「○○家」という「家」意識がとみに希薄になり、その「家」の家柄とか家系とか、親が続けてきた信仰やその家の先祖代々の戒名といった古い価値体系にはほとんど無関心になった。

さらに、老人世帯と次世代世帯の別居は、若い世代に親の扶養とか家督や信仰の継承の意識をなくさせ、老いた親には息子や娘家族への気兼ねや遠慮の気風を惹起し、老後生活や自分の死後のことで次世代に迷惑をかけないようにする風潮を常態化させた。
 親の葬儀に当ってお布施を負担する自覚のない息子・娘が急増し、親の残したわずかな年金貯蓄で賄おうとする例が目立つ。そういう次世代がまた、経済的な余裕がないのである。この世代は節約・貯蓄よりも消費・ローンが優先するから、親より実質困窮していることが多い。この頃は葬儀・法事のお布施ディスカウントを平気で求めてくる次世代の施主もいる。人生や生活に窮すれば、親孝行も先祖への感謝もない世代がそこにいる。

「家」とか家族制度を基盤にして永く命脈を保ってきた檀家制度は、戦後民主主義の定着や核家族の常態化とともに実質崩壊を余儀なくされた。今の檀家寺は形骸化した檀家制度の残骸の上で四苦八苦している。戦前あるいは戦後しばらくの間、檀家総代・世話人といえば地域の名家・名門・大農家・資産家・大商家から選ばれた。よく言われたことだが、お寺の本堂などを建てるのに、総代・世話人で建築費全体の半分はまかなうものだと。その名家・名門・大農・資産家・事業成功者が今はいなくなった。戦後の農地解放で大地主・大農はいなくなり、事業家はなかなか四代と続かない。商売の寿命は実質四十年といわれている。貧富の差をなくして中産階級を増やした戦後経済の成功のうらで、寺院基盤の一つである檀家制度が実質崩壊していったのである。

少子化社会の到来は、仏教寺院に檀信徒の減少をもたらし、その存立に大きな影を落としている。
 まず、少子化によって檀信徒数の増加にストップがかかった。仮に、子供が二人の檀信徒がいたとして、男一人女一人の場合、まず男子の分家がない。分家した兄弟など親族親戚の縁で増えてきた檀信徒の数は、この例でいくと増加しない。

また、男二人女ゼロの場合、長男が家を継いで信者や檀家の施主を引き継ぐにしても、次男はどうなるかわからない。あとを継いだ長男が結婚し、また男子に恵まれれば先につながるが、最近は結婚をしない男子も多い。結婚しても子を成さないまたは子ができない夫婦も増えた。さらに長男が離婚したり若死にしたりして「家」の形態を維持できないような事例も増えた。こういう場合、次男がいても結婚をしたあとだと家を継いでくれる例は少ない。このように、跡継ぎ長男がいたとしてもその次の代が続かず、信仰寺や菩提寺との縁が切れてしまうことがある。

女の子だけの場合、昔は婿養子を迎えて家督を相続したものだが、この頃は親が娘に遠慮して娘をみんな外に出し、時に嫁いだ娘夫婦の理解をえて○○信仰や先祖の供養が継続することはあるが、家督と信仰とお墓の守りが先々絶えてしまうことを余儀なくされる例が増えている。

そして、少子化によって一家族単位の家族数が減った。すなわち檀信徒の総数が減っている。檀信徒の総数が減れば自然に正・五・九の参詣や護摩祈願の申込みも葬儀・法事の数も総体的に減る。寺院の経済基盤にとって檀信徒の減少は大きな打撃である。

さらに、少子化は檀家寺に供養主のいない無縁仏や無縁墓の増加ももたらしている。
 子に恵まれなかった家、跡継ぎの息子がいても結婚をしない家、跡継ぎ息子が結婚はしたが子に恵まれない家、娘をみんな外に出してしまった家、いろいろな事情で家督の相続もなく親の信仰や先祖のお墓を守る人も絶えてしまうケースが増えている。檀家寺では、お墓を守る人がいなくなる家に対し、永代供養や墓所の返還・解体と遺骨の最終処理について、現施主に判断と処理を具体的に求める動きが増えている。

こうした先行き不安の時代に「葬式は要らない」・「戒名は要らない」が追い打ちをかける。これも法難である。

数年前、『葬式は、要らない』という愚かな本が出て世間をさわがせた。
 新聞の広告欄にはデカデカと、

「葬式は贅沢である。葬式の先にある理想的な「死」のあり方。本当の葬式とは何か!」
「巨大な祭壇・生花そして高額な戒名は、本当に必要か?」
「いま東京で急速に普及する「直葬」とは何か?」
樹木葬、宇宙葬、手元供養、友人葬を知っていますか?」
「もう止まらない簡略化の動きと墓の無縁化
「外国には見られない社葬の習慣
戒名の料金はなぜ高いのか?」
「世界の仏教国の中で、戒名があるのは日本だけ
「戒名を、家族で、自分でつける方法
「葬祭業者にいっさい頼まず、完全に自前の葬式は可能である」
というキャッチコピーが踊った。

書いたのは、かつてテレビによく登場したがオウム真理教との関係を取りざたされ一時蟄居同様にしていたはずの通称宗教学者。世の中の耳目を集めるような本を出してほくそ笑むのは勝手だが、まともな宗教学者ならばこんな出版企画には乗らない。いかにも大衆迎合で学究としての節操を疑う。
 もし葬式や戒名にお金がかかることを批判するなら、まず原価計算や対価交換では考えない特殊価値の経済が日本の社会には厳然とあることを学術的に認めてからにすべきである。無形の価値を多く含む宗教儀礼を損得勘定で考えること自体、学問的ではない。
 また、人の死や遺体の最終処理に立ち会い、(戒名をつけて)死者の魂を仏の次元へと引導し、家族の死の納得と受容にかかわり、悲しみに寄り添い、ケアし、事後の相談や心の傷の療治をする仕事を、坊さんの代りに誰がどのようにやるのか、否、やれるのか、そして古くからこの国で行われてきた伝統的な死者(葬送)儀礼が今になってなぜ要らないのか、学者らしく学術論文で明かすべきである。

世の中が不景気になるとどういうわけか、お葬式の簡素化が声高に言われ、葬祭業者叩きやお寺いじめがはじまる。
 かつてNHKの「クローズアップ現代」が「戒名の値段」と題し、首都圏に住む地方出身で菩提寺もない老夫婦の例を挙げ、葬祭業者に支払った戒名料の高さを問題にしたことがあった。その視点は番組のタイトルが示すように、戒名料の額が高いか安いかという消費者目線。取り上げられたのは、首都圏の大都会の事例で地方ではほとんどあり得ないレアケース。それでも、番組としては高い視聴率だったことを彼らは強調し、それが世論であり、消費者の目線に合わせることが民主社会の当然だと言いたいようであった。

公共放送も大衆迎合で視聴率を取る時代になった。視聴率=世論の支持、これを背景にしていれば何でも通る、そういうメディア独特の習性を感じた。「戒名の値段」と称し死者の尊厳にかかわる戒名をスーパーの買い物のような目線に仕立てる番組は、富める時代も窮する時代も日本人が永く許容してきた戒名の文化や戒名料にふれることもなく、なぜ今になって戒名料の高い安いを問わなければならないのか、その本質を言うわけでもなかった。
 すなわち、「戒名の値段」の本質は実は戒名料そのものにあるのではなく、大都会に暮らす、菩提寺のない老夫婦の「終活」資金のやりくりの問題だった。それは老夫婦すべてに共通するわけではなく個々の問題である。余裕のある人は高い安いなど言わないし、いかなる困窮者であっても菩提寺の住職に相談すれば相応の対処をしてくれるはずである。人生も終盤になって、自分の最後の始末にどれくらいの費用がかかるか、それを予め調べ準備しておくか否かは個々の心がけの問題であって、「戒名の値段」などと言っていかにも戒名料に問題があるかのように日本を代表する公共放送がクローズアップする問題ではないのである。

ここにも戦後民主主義と古い日本の伝統文化のせめぎ合いがある。私たちは古い日本の伝統文化の側に立つ。死者の尊厳にかかわる問題を、高いか安いか、得か損かで考えること自体、日本の伝統では人として恥ずかしいことなのである。

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