第二章 人間の良心を問う
一、愚童持斎住心
「十住心」の第二は「愚童持斎住心(ぐどうじさいじゅうしん)」である。
愚童とは、因果の道理(善因善果・悪因悪果)を知らず、未熟で稚拙な考え方しかできない心のレベル。持斎とは、在家の仏教信者が精進潔斎(しょうじんけっさい)すること。
この住心は、我欲・我執に支配され自己中心に生きる人間にも、時として善良な心がめばえ、倫理道徳や仏教の戒律に従う心が育ち結実する可能性があることを言う。この心のレベルは、「六道」では人間(人趣・人間界)・天(天趣・天界)にあたる。
『十住心論』では、それをまず次の「六心(ろくしん)」から説く。
「六斎日」は、一ヶ月に六日(八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日)、仏教の信者が「八(斎)戒(はっ(さい)かい)」を守って精進潔斎し、父母等に食事をふるまって孝養を尽くす日。
「八(斎)戒」とは、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒・正午以降に食事をしないこと・天蓋付きの足の高いベッドに寝ないこと・歌舞音曲を避け、化粧品や装身具をつけないこと。在家の仏教信者の戒律。
この「六心」は、我欲・我執に支配され自己中心に生きる人間本来善良な心が具わっていて、食欲について言えばそれが食欲を抑える自制心として顕れて節食を促し、節食の自制心から父母等に食事をふるまうことで喜びを知ること。さらに父母等への孝養が他への布施・供養に向い、そして我欲・我執から離れることにつながると言っている。つまり、空海は、人間が「我」の本源である生存本能を自制することが道徳や持戒のはじめだと言っている。西欧ではこれが逆で、自我や利己を主張して対立しながらも、互いが理性をもって話し合い折り合うマナーやルールが道徳なのである。
二、節食を忘れた日本人
しかし、飽食の時代の日本、グルメに慣れた今の日本人に節食の例を探すのは至難のワザである。たしかに節食を心がけている人が相当にいるが、みな成人病患者、あるいは肥満の人の減量や体型維持あるいは細身美容などの理由ばかりで、節食した分余ったお金を父母や家族に食事をふるまうどころか、節食してやせるだけでも余計な出費である。これでは我欲・我欲のための節食である。
日本人の食生活は戦後西洋化され、農耕民族らしい野菜中心の食事から狩猟民族のような肉中心の食事が多くなった。それとともに食材も豊富になり、食卓に並ぶメニューも多くなって食べ過ぎやカロリーオーバーが日常的になった。これが、糖尿病・高血圧・高脂血症・脳梗塞・心筋梗塞を増やしている。
これは、戦争で負け、戦後食料不足とモノ・カネの貧困にあえいだ日本人の物質的反動と、アメリカのモノの豊かさがまぶしくうらやましく見えた精神的反動のせいであり、かならずしも日本人の本性ではない。
日本人はもともと何ごとにも慎ましく、食事とてやたら食べ過ぎたりぜいたくをする国民性ではない。今の飽食・グルメは貧しかった日本人のヤケ食いである。だから、おそらく将来、日本人が日本人らしいまともさを蘇えらせたら、飽食・グルメはバブルだったという時がくる。決め手は、日本人が昔のような「腹八分」という食のモラリティーを取り戻すことである。
西欧では、自分の腹を満たすことは善であり、グルメは美であり、他に食事をふるまうことは社交で、いずれも自己満足のため、我欲・我執の充足こそ人間らしさなのだ。
時に、空海がこの「愚童持斎住心」の冒頭で「六心」を言い、その一番に節食を挙げたのは、生存本能の第一の食欲をどう抑制するか、おそらく山岳修行者として、仏教僧として、密教の阿闍梨(あじゃり)として、自身が永くテーマとしてきたからにちがいない。
禅の修行者が、極度の節食をして修行の妨げになる我欲・我執を自制するように、若き日の空海も「虚空蔵求聞持法」を修する時などは断食を厭わなかったであろうし、その以前漢籍の素読暗唱に明け暮れた時も腹八分を心がけたであろう。食欲の抑制は睡魔とも関連し、空海にとって終生のテーマであったに相違ない。
死の二年半前の天長九年(八三二)十一月から、穀味を断って瞑想にいそしんだ。空海は、腹を満たさないこと、節食が人間らしい道徳のめばえだと言う。今の日本人はこのストイックさに学ぶべきである。
三、形骸化した持斎
さて、節食に次いで持斎である。空海が例にしたのは、六斎日に精進潔斎し、父母等に食事をふるまい孝養を尽くすことだった。
この持斎は、今の日本ではお盆が一番これに近いであろう。七月盆は七月十三日が迎え盆、十六日が送り盆。八月も同様である。
今は亡き各家のご先祖が一年に一度、懐かしいわが家に三泊四日で帰ってくる。
家族みんなそろってお墓にお参りし、お墓で提灯に火を灯し、あるいはお寺の本堂で迎え火をいただいて提灯に火を移し、お墓に行けない場合はわが家の玄関先で「おがら(=麻がら、表皮をむいて乾燥させた麻の茎)」を焚き、その迎え火を盆棚のローソクに移す。
盆棚には、仏壇の上部中央にお祀りしているご本尊様とご先祖のお位牌を、きれいに拭いて正面奥にお飾りし、その手前には小束にしたミソハギを乗せた平たい器と、ナスとキュウリをさいの目に切った「水の子」の乗せた平たい器を並べ、季節の果物や心づくしの食べ物も供え、仏花にお灯明・香炉・線香などを手前に置く。
盆中、とくに夕食は離れて住む家族もみんなそろい、あの世とこの世合同の一家団欒となる。一家の主は、盆中は仕事の手を休めて精進し、もっぱらご先祖に孝養を尽くし、家族・親族に食事をふるまい、地方では親戚が互いに盆中に訪問し合い、ひとときを飲食を中心に過す。
都会に住む若い家族も、お盆には遠近を問わず里帰りし、ご先祖のお墓で手を合わせ盆棚に都会の土産を供える。八月のお盆は、全国一斉に仕事を休みご先祖への報恩感謝の日々を過す。しかしこれも近年形骸化し、盆休みが海外旅行やレジャーのためのバカンスと化している。
お盆は『佛説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』に由来する。『佛説盂蘭盆経』は中国で創られたいわゆる偽経であるが、東アジアの家族主義を基調とした先祖・父母への孝養を説く。実際の内容はどんなものか、漢文からの現代語私訳をここに出しておく。
このように(私は)聞いた。
ある時、仏(世尊)は「舎衛国(しゃえこく、コーサラ国の首都シュラーヴァスティー)」の「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくえん、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ))」におられた。
(釈尊十大弟子の一人)大目乾連(だいもっけんれん、目連尊者)がはじめて「六(神)通」を得て、(亡き)父母を(あの世から)救い、乳をふくませて育ててくれた恩に報いようと思い、「(六)道」を透視する(神通の)眼で世間(「六道」)を観視すると、亡き母が餓鬼(道)のなかにいるのを発見した。飲食するのも見えず、(やせ細って)皮と骨が連なり立っていた。
目連は悲しみ哀れんで食鉢に飯を盛り、母のところに往って与えた。母は鉢の飯を得て、左手でもって障し(ささえ)、右手でたたいて飯を食べるのであるが、口に入らず火炭と化し遂に食べることができなかった。目連は大叫悲号し、啼泣して馳せ還り、仏にこのことを告げて具に申し上げた。
仏が(それに答えて目連に)言った。
「汝の母は(生前の)罪根が深くからまっていて、汝一人の力ではどうすることもできない。汝が孝順の声で天地を動かしても、天神・地神・邪魔外道(じゃまげどう)・道士・四天王神も、どうすることもできない。(だから)まさにすべからく十方の僧の威神力をもって解脱を得るべきである。私は今まさに汝のために救済の法を説こうと思う。一切の難儀はみな憂苦を離れ、罪障を消除せしめるだろう」と。
(また)仏が目連に告げた。
「十方の僧の七月十五日の僧「自恣(じし)」の時(「夏安居(なつあんご)」という雨季の修行が終る七月十五日に、僧が互いに自分の罪障を告白し合う時。僧はこの修行が終ると徳を積み威徳の力を得る)、七世の父母および現在父母が厄難のなかにある者のために、飯食・百味(ひゃくみ)・五果(ごか)を具え、盆器に香油をそそぎ、ローソクを立て、床に臥具を敷き、世の甘美をつくしてお盆のなかに着け、十方の大徳・僧を供養しなさい。
まさにこの日には、一切の聖衆、或いは山間の禅定にあり、或いは「四道」の果を得、或いは樹下で経行をつとめ、或いは「六通」自在の教化を行う。声聞・縁覚或いは「十地(じゅうじ)」の菩薩は、大人権現して比丘となって現れ、大衆のなかにあってみな同一心にて鉢を受け、和して飯をつらねるのである。清浄な戒を具し、聖衆の道その徳は洋々たるものである。
これらの「自恣」の僧を供養する者は、現世の父母・七世の父母・六種の親属は、「三途」の苦を出ることができ、まさに解脱し衣食は自然なものとなる。
もしまた、人に父母の現在する者あれば福楽が百年、もしすでに亡き七世の父母あれば天に生じ自在に化生して天の華光に入り、無量の快楽を受ける」と。
時に仏が命じた。
「十方の僧はみな、先ず施主の家のために呪(陀羅尼)を唱えて七世の父母に祈願し、禅定を行い、その後食を受けるように。初めて食を受ける時は、先ず安んじて仏塔の前で呪を唱え、祈願し終って食を受けるように」と。
その時、(世尊の説法を聞いていた)目連と比丘及びこの大会の大菩薩衆はみな大歓喜し、目連の啼泣の声は釈然と消えた。この時、目連の母は、この日に一劫の餓鬼の苦から脱することができた。
その時、目連がまた仏に告げて言った。
「弟子(私)を生んでくれた父母が、僧の威神力の故に、「三宝」の功徳力を蒙ることができました。もし未来世の一切の弟子で孝順を行ずる者は、またまさにこの盂蘭盆を奉じ、現世の父母そして七世の父母に至るまで救済すべきではないでしょうか」と。
仏が言った。
「大いに善いかな、快き問いである。私はまさに説こうと思う。汝、今また問う。善男子よ、もし比丘・比丘尼・国王・太子・王子・大臣・宰相・三公・百官・万民庶人がいて、孝慈を行う者あれば、みなまさに生んでくれた現世の父母や過去七世の父母等のために、七月十五日、仏歓喜の日、僧「自恣」の日、百味の飲食をもって盂蘭盆中を安んじ、十方の「自恣」の僧に施し、乞い願いなさい。現世の父母をして寿命百年、無病と一切の苦悩の患いのなきことを。さらに七世の父母をして餓鬼の苦から離れせしめ、天人のなかに生じ、福楽の極まりなからしめんことを」と。
仏が告げた。
「諸々の善男子、善女人よ、この仏弟子にて孝順を修する者は、まさに念念中に常に父母の供養乃至七世の父母を記憶し、年々七月十五日、常に孝順の慈をもって、生んでくれた父母や七世の父母を記憶し、盂蘭盆をなして仏及び僧に施しをなし、もって父母長養慈愛の恩に報いなさい。一切の仏弟子はまさにこの法を奉持すべきである」と。
その時、目連や比丘・四輩の弟子、仏の所説を聞き歓喜して奉行した。
以上、このお経が先祖・父母への孝養や持斎を説いていることがわかる。
時に、仏事もまた持斎といえるであろう。仏事のあと席の清宴を「お斎(おとき)」という。これを一般に「清め」と言うが正式には「お斎」で、参会者に食事をふるまうのである。葬儀のあとや法事のあとの清宴は「お斎」、通夜の場合は「通夜ぶるまい」と言う。
食事のメニューは、昔は自宅の台所で近所のご婦人や施主に近い女性が用意した精進料理でナマモノを避けた。これは死者を出したあと続けて食中毒等の不心得を起し、たびたび親戚やご近所に迷惑をかけることを防ぐ配慮であると同時に、家中の者にとっては喪中は身を慎み、粗食で過ごす意味でもある。仏事の「お斎」は精進料理と決まっていた。
しかし近年、グルメ時代の影響で「お斎」も様がわりで、お刺身もにぎり寿司もステーキもありになった。参会者に「出席してよかった」と思ってもらう配慮の意味では仕方のないことかもしれないが、「お斎」の意味をはずすのはいかがだろう。仏事が黒の礼服を着て神妙に行う持斎ではなく親戚の食事会になっていないか。亡き人を肴にした遊興の宴会とあまり変らなくなっていないか。ここにもどこかパーティー感覚が見え隠れする。
著名人や政治家や企業のトップなどの告別の式を「○○○○さんを偲ぶ会」などと銘打って、無宗教のお別れパーティーにすることがしばしばある。当事者と関係者はこれがその人らしいしかも当世風の告別式だと思い込んでいるようだが、この人たちには死者との別れの「文化」がわかっていないのだろう。
結局、死者を美化し、その死者を肴にして飲食する、魂の抜けたパーティーに過ぎず、誰も身をつつしみ精進潔斎などしていない。出された食事は主催者の施しではなく、等価交換感覚の食事である。
空海は、大同二年(八〇七)二月、唐から帰国して大宰府に留まっている間、何かと世話になっている大宰府の副官田中少弐の母の一周忌法要のために、願文を書き、千手観音をはじめとする「十三尊曼荼羅」を画き、『般若心経』・『法華経』を写経して供養の品に供え、少弐自身には自ら造った梵漢対照の『千手(観音)儀軌』を贈っている。これら供養の施与物は、空海が持斎でいう布施供養である。
四、「三つ子の魂」の貧しい現状
人としての善良さやまじめさや自制心や道徳心が実際にめばえ育つのは幼児期である。自我の意識がめばえ育つ幼児期に、善悪の区別や他者への気づかいなどを通じて自我意識の出し方を「しつけ」るのは第一義的に親であり、同居の家族であり、幼稚園であり、保育園である。
昔からこの国では、幼児期に家庭で子供をきちんと「しつけ」ることが当然であった。心がまだまだ純粋なうちに「していいことと悪いこと」や「ひととの交わり」などを口だけではなく「生活を通して」身につけさせたのである。幼い時に「しつけ」られたことは一生忘れない、それが「三つ子の魂、百までも」ということわざになった。家長を中心とした家族制度がしっかり機能していたからできたのである。
しかし戦後、この家族制度(少なくとも三世代家族)を古いとか封建的とか自由がないとか負の部分を全てであるかのように矮小化してこれを捨て、生れ育った実家に老父母を残し、通勤の都合や子供の学校の都合を表向きの理由として実家のしがらみから距離をおき、長期のローンで大都市周辺に建てたマイホームにパパ・ママ・子供二人の核家族を営み、アメリカ式の自由で個人尊重の生活をエンジョイした。
しかし、そうした核家族で育った子供たちはどうなったか。わがまま・自分勝手・生意気・自分の非を認めない・他を責める・頭でっかち・口は達者・理屈っぽい・がまんができない・葛藤に弱い・遊べない・自然と交われない・手が不器用・道具使いが不器用等々、モノ・カネが豊かになっても人間の子供の心は豊かになるどころかかえって劣化するようになった。
小学校低学年で授業中にさわいだり席を立ったりしてじっとできない子供に手を焼くことはしばしばであり、自我の発露であるケンカや乱暴沙汰を起して注意されると、たいてい「ボク(ワタシ)、やってないもん」とウソが先行し事実を指摘されるまでウソをつき通す子供の出現は、何よりの証左である。
だいたい、ローン返済のための仕事で親は疲れていて、子供の「しつけ」にかかわることに消極的な上、やさしくてものわかりがよく、子供のわがままを黙って許すのが私たちの時代の親の愛情で、昔の親のように頑固で威張っているのは古い、と錯覚し、子供を甘やかす。親が「しつけ」の手を抜けば子供は我欲・我執をむき出しわがままになる。当然のことだ。
よく指摘されることだが、自分の子が公衆の面前でいたずらや悪ふざけやわがままをやっていても注意をしなかったり、あるいは口だけ注意してあとは見て見ぬふりをする親が目立つ。家のなかではいいことでも外ではいけないことがある。その区別も教えられないのである。
自由と放任の勘ちがい、この戦後日本の自由のはきちがえを、身をもって実践したのはいわゆる団塊の世代とその次の世代である。昔だったら、わが子の行儀の悪さや不始末は親の責任であり家の恥であった。今は、先生がダメ、社会が悪い、である。
私立幼稚園を二十年やってつくづく思った。今の幼稚園教育は、自分の子を「しつけ」られない、あるいは「しつけ」の手抜きをしている若い親に代って、園長や担任の先生が「しつけ」る場になってしまった、と。
朝早く起きる。かならず朝食をとる。自分で着替えや靴のかたづけができる。トイレも自分でできる。こんなことは子育てのイロハであるが、夜ふかし朝寝坊の両親のもとで育った子はこれができない。朝寝坊で遅刻。朝食抜きでアクビばかり。自分の服や靴の始末ができない。そして、おもらし。わが子がまだそうした「できない」子であることを知ると、そういうヤンパパ・ヤンママは「叱る」・「どなる」・「コゴトを言う」。まだ何もわからない子に理性的に寄り添ってやるのではなく、直情的に口で服従させるのだ。子供を叱る前に、親自身の生活を改めることが先である。
幼稚園・保育園に「しつけ」をゆだね、それで別にかまわない。親の教育力という以前に、一人の人間として、子の親として、「生きる」こと自体が軽いのである。今の日本の三つ子の魂はこんな貧しい事情にある。
小学生になって学童になると、さすがに集団生活のなかで社会性が身についてくるが、この時期の放任が一番よくない。幼児期と同じく、子供の「しつけ」は親が第一義である。
ところで、道徳心のめばえと育ちという意味で、現在小学校で行われている「道徳教育」はどんな内容なのか、「道徳」を教科にするという話もある、ここで少し見てみたい。
小学校一・二年生では、以下の項目を、道徳の時間で、ほかの授業で、休み時間や放課後に、また家の人といっしょに、地域の人といっしょに、行うことになっている。
(1)きそく正しく気もちのよい毎日を
(2)自分でやることはしっかりと
(3)よいと思うことはすすんで
(4)すなおにのびのびと
(二)人とともに
(1)気もちのよいふるまいを
(2)あたたかい心で親切に
(3)ともだちとなかよく
(4)お世話になっている人にかんしゃして
(三)いのちにふれて
(1)いのちを大切に
(2)生きものにやさしく
(3)すがすがしい心で
(四)みんなとともに
(1)やくそくやきまりをまもって
(2)はたらくことのよさをかんじて
(3)家族のやくに立つことを
(4)学校の生活を楽しく
(5)ふるさとに親しみをもって
これが中学校になると、
(1)調和のある生活を送る
(2)目標を目指しやり抜く強い意志を
(3)自分で考え実行し責任をもつ
(4)真理・真実・理想を求め人生を切り拓く
(5)自分を見つめ個性を伸ばす
(二)人と支え合って
(1)礼儀の意義を理解し適切な言動を
(2)温かい人間愛の精神と思いやりの心を
(3)励まし合い高め合える生涯の友を
(4)異性を理解し尊重して
(5)認め合い学び合う心を
(6)人々の善意や支えに応えたい
(三)生命を輝かせて
(1)かけがえのない自他の生命を尊重して
(2)美しいものへの感動と畏敬の念を
(3)人間の強さや気高さを信じ生きる
(四)社会に生きる一員として
(1)法やきまりを守り社会で共に生きる
(2)つながりをもち住みよい社会に
(3)正義を重んじ公正・公平な社会を
(4)役割と責任を自覚し集団生活の向上を
(5)勤労や奉仕を通して社会に貢献する
(6)家族の一員としての自覚を
(7)学校や仲間に誇りをもつ
(8)ふるさとの発展のために
(9)国を愛し、伝統の継承と文化の創造を
(10)日本人の自覚をもち世界に貢献する
主たる項目は、小学校・中学校通じて「自分自身に関すること」(自律、自立)・「他の人とのかかわりに関すること」(他者の尊重)・「自然や崇高なものとのかかわりに関すること」(生命や崇高なものの尊重)・「集団や社会とのかかわりに関すること」(社会規範の自覚、家庭・地域・国の一員の自覚)の四つが共通のテーマになっている。
学校においては、「校長の方針の下に、道徳教育の推進を主に担当する教師(以下「道徳教育推進教師」という)を中心に、全教師が協力して道徳教育を展開するため、次に示すところにより、道徳教育の全体計画と道徳の時間の年間指導計画を作成」「学校の教育活動全体を通じて、道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度などの道徳性を養う」(「新学習指導要領・生きる力」)ため、「道徳の内容は、生徒が自ら道徳性をはぐくむためのものであり、道徳の時間はもとより、各教科、総合的な学習の時間及び特別活動においても、それぞれの特質に応じた適切な指導を行うものとする。その際、生徒自らが成長を実感でき、これからの課題や目標が見付けられるよう工夫する」(「同」)のである。
このような取組みが小・中学校では行われているのに、その実効性が疑われるような事件が起きると、いったいどうなっているのかとつい思ってしまう。
先日も、横浜市の公立中学校の生徒五人が、修学旅行先の長崎市で、被爆体験を話していた「長崎の証言の会」の老語り部(原爆被災者)に対して、「死に損ないのくそじじい」と大きな声で暴言を吐き、他の生徒に「お前らも笑え」「手をたたけ」とそそのかした。態度の悪かったある生徒を「それなら出ていきなさい」と注意したところ、その生徒の仲間四人が集ってきて仕返しをしたのである。当該中学校は、前から地域では知られた問題校とか。学校は「ねばり強く指導」と建前論を言うが、それにしてもどこが「道徳」教育か、何が「修学」旅行か。
五、仏教入門としてのモラル
空海は次いで、仏教倫理の「三帰(さんき)」・「五戒」・「八戒」・「十善戒」を説く。
「三帰」とは、仏・法・僧、すなわち三宝(さんぼう)への帰依である。
仏(「ブッダ」)は、サトリを開悟した釈尊、あるいは如来・菩薩・明王・天など。
法(「ダルマ」)は、サトリの智慧。仏の教え。経論に説かれる仏法。
僧(「サンガ」)は、瞑想修行し経論を学ぶ出家僧の教団。「僧伽(そうぎゃ)」
在家経典のなかに「三帰礼文(らいもん)」(「三帰依」)があり、次のように唱えられている。
まさに願わくば衆生と共に大道を体解(たいげ)して無上意(むじょうい)を発さん。
自ら「法」に帰依したてまつる。
まさに願わくば衆生と共に深く経蔵(きょうぞう)に入りて智慧海の如くならん。
自ら「僧」に帰依したてまつる。
まさに願わくば衆生と共に大衆を統理して一切無礙(むげ)ならん。
次いで、「五戒」である。空海はこれを儒家の「五常(ごじょう)」と一体化して説く。
「五戒」とは不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒で、僧俗を問わず仏教教団の基本の戒律。「五常」とは儒家が説く人倫の徳目で、仁・義・礼・智・信である。
空海は、仁(思いやり・哀れみ)は不殺生に通じ、義(利欲を離れること・道義・正義)は不偸盗に通じ、礼(礼儀)は不邪淫に通じ、智(学識・学問を積むこと)は不妄語に通じ、信(友情や約束を守ること・ウソをつかず誠実なこと)は不飲酒に通じると言う。空海のなかでは仏教の戒律と儒家の道徳が一体化している。
ついでながら、東洋の道徳思想を代表する儒家の思想にここでふれておく。儒家の思想を儒教とよく言うが、専門的にはあやまりである。
儒家の思想とは、孔子(こうし、BC五五二~四七九)を始祖とする中国の社会倫理思想で、仁・義・礼にもとづく理想社会の実現を説く。主要典籍に、「四書」(『論語』・『孟子(もうし)』・『大学』・『中庸(ちゅうよう)』)と「五経」(『易経(えききょう)』・『書経』・『詩経』・『礼記(らいき)』・『春秋』)がある。
儒家の思想を簡略に言えば、仁・義・礼・智・信の「五常」の徳を、君主から民に至るまで身につけ、実践して善良な社会を実現することである。良き時代の中国は、拝金欲・領土欲・領海欲・資源欲・覇権欲むきだしの今の中国とちがい、思いやりがあり、信義に篤く、礼儀を重んじ、教養に富み、約束は必ず守ることを道徳とした。仁といい、義といい、礼といい、智といい、信といい、今の中国に学び直してもらいたいものばかりだ。
この点、日本は古くから「四書五経」を学問とし、とくに朝廷官僚やのちの武家社会の規範や生き方となった。江戸時代、武家の子は各藩の藩校でその素読に親しみ、誰でもが『論語』『孟子』を諳んじた。「五常」に加えて忠(国や国王への忠義)・孝(親への孝養)は、敢えて言えば戦後まもなくまで、永く日本人の高い志操のもとになった。今でも、礼儀の正しさから言えば日本人は世界で一番であろう。
ブラジルで行われたサッカーのワールドカップ会場で、日本代表が負けてもサポーターは自席のゴミをきれいに片づけて帰り世界のメディアの注目するところとなった。海外から来た外国人はみな日本人の親切さと礼儀正しさに驚く。東アジアの儒教文化圏で、真の意味で儒家の道徳が生きているのは日本だけと言っても過言ではない。朝鮮半島はよく儒教文化だと言われるが、昨今の国の指導者ははたしてそうだろうか。
「礼にはじまり礼におわる」とは、柔道・剣道・長刀・相撲など武道一般に通ずる心得で、相手を倒す技の競い合い、あるいは本当なら死に至る格闘技でありながら、相手を尊び相手の技に敬意をもって正々堂々と闘うのである。相手を敬うことでむやみな闘争心を抑え、冷静に自分の技を発揮する、そういうことにも通じる。しかし、国際大会で見る外国選手のマナーはとても礼とは言えない。もともと自我を出し闘争心を表に出す彼らは、試合終了後ろくな礼もできない。柔道でおぼえたことは礼ではなく、ただ勝てばいい自我の満足である。
空海は、奈良から長岡京に都が遷る頃旧都奈良に上り、十五才から十八才にかけて、叔父の阿刀大足に付いて、大学寮受験のための『周易』・『尚書』・『孝経』・『周礼』・『儀礼』・『礼記』・『毛詩』・『春秋左氏伝』・『論語』といった漢籍を徹底して素読・暗記した。おそらく、漢詩や書も相当勉強したに相違ない。その才は、のちに入唐の際、足止めを食った福州で、遣唐大使・藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)の依頼で代筆した福州の観察使(かんさつし)閻済美(えんさいび)への嘆願書(「福州ノ観察使ニ与ヘテ入京スル啓」)がすべてを物語っている。 嘆願書を読んで、閻済美は、空海の漢籍と中国の故事と書文の素養がただならぬことに驚いた。直ちに遣唐大使の(選抜された)一行は都長安に向えたのである。
「八戒」については、この章の冒頭でふれた。
次に「十善戒」である。
空海は言う、
盗まず知足にして衆生に施せば、資財壊せず天上に生ず。(不偸盗)
邪淫を遠離して染心なければ、自妻に知足す況や他女をや。
所有の妻妾侵奪せず、これ円寂の器として生死を出ず。(不邪淫)
妄語せざれば常に実言なり、一切みな信じて供すること王の如し。(不妄語)
両舌語を離れて離間なければ、親疎堅固にして怨の破することなし。(不両舌)
もろもろの悪口を離れて柔軟の語なれば、勝妙の色を得て人みな慰んず。(不悪口)
道義の語を思いて綺語を離るれば、現身にすなわち諸人の敬を得。(不綺語)
他の財を貪せず心願わざれば、現には珠宝を得て後には天に生ず。(不慳貪)
瞋を離れて慈を生ずれば、一切に愛せらる、輪王の七宝これによりて得。(不瞋恚)
八邪見を離れて正直に住するは、これ菩薩の人なり煩悩を断ず。(不邪見)
時に、江戸時代の律僧慈雲尊者(じうんそんじゃ、慈雲律師、名は飲光(おんこう)、号して慈雲、享保三年(一七一八)~文化元年(一八〇四))は、「正法律(しょうぼうりつ、釈尊が定めた戒律、二百五十戒)」を唱導し『十善法語(じゅうぜんほうご)』十二巻を著して戒律の復興につとめた。
尊者はつとに律僧として知られているが、僭越ながら疑問を覚えるところがある。
尊者は言う。
衆生幾許かある、世界海の在るところ、かならず衆生ありて充滿す。
此の世界海・衆生界、ことごとく自己相縁起の儀にして、苦樂昇沈のある處なり。
此の中に人道は貴し、禽獣は賤し。
經律の文に人を殺すを大殺生といふ、禽獣を殺すを小殺生といふ。
初めに人道の貴きを信じ、如上の妄業を遠離するを不殺人と名づく。
此の仁慈の徳をおし広めて、禽獣蟲魚に及ぼすを不殺生戒と名づくるなり。
まず、上の文で、尊者は不殺生戒を人道だと言い「世間戒」(世俗の道徳)にしている。不殺生戒を含む「十善戒」は大乗の菩薩が持する「出家戒」ではなかったか。
次に、人道は尊く、禽獣は賤しいと言い、人を殺すのは大殺生で、禽獣を殺すのは小殺生だと。これはいかがなものか。尊者には命あるものを同等・平等と見ない差別意識があるのか、仏者としてうかつではないか。
これでは禽獣に対する人間の傲慢とも受けとれ、まず不殺生を説く資格がない。なぜなら、不殺生戒は命の平等を前提としているからであり、出家前の釈尊がカエルが蛇に飲み込まれるのを見てショックを受けた話がその象徴である。釈尊は尊くてカエルが賤しければ、そんな話はあり得ない。釈尊とカエルは命において同等・平等なのである。
次に、初めに人道の尊きを信じ、妄業(もうごう、我欲に染まる宿業=殺生)を離れ、人道の仁慈(おもいやり)の徳を禽獣蟲魚に及ぼすことを不殺生戒だとする。
尊者のなかでは、禽獣蟲魚に対する人間側からの憐憫(哀れみ)の情が不殺生戒なのである。こんな情緒的で軽々しい不殺生戒はありえない。「世間戒」にするからである。「十善戒」としての不殺生戒は、そもそも菩薩が持する戒律であって、世間「衆生」のための戒めではない。空海は殺生を離れて利慈が生ずると言っている(前掲引用)。利慈がすなわち不殺生ではない。
戒律とはそもそも、仏道修行者あるいは在家信者の自己の内に向けられた自己規制の戒めであって、世間利益の仁慈の行ではない。尊者には、人間が他の生きものの生命を奪って生きている、残酷で「申し訳ない」生きものだという、厳粛で深刻な自覚が感じられないのである。
釈尊は命あるものの生命の実相を瞑想によって深く洞察し、あらゆる生命が自己保存のために燃やす業火(ごうか)に気づき、それを「無明(むみょう)」(アヴィドヤー、根本煩悩)と言った。仏教の瞑想の修行は、その「無明」を超克するためであり、釈尊は「四諦(したい)」・「八聖道(はっしょうどう)」・「十二因縁(じゅうにいんねん)」を説きサトリに到る道とした。それはまた、苦の娑婆からの解脱の道であり、生命の「業火」のなかに生きながらそれを滅却する方法である。その解脱の境界を「涅槃」(ねはん、業火が吹き消された状態)と言った。
だから釈尊の仏教は、瞑想修行の妨げになる生命の業火のなかでも一番激しく燃える殺生を第一に戒めた。不殺生戒とは、釈尊の仏教のもっとも深い部分につながるモラリティーだったから、修行者が守るべき一番目の戒律となったのである。
この不殺生戒は、世間世俗から離れモノ・コトへの執著を捨てようとする修行者だからこそ「虫も殺してはいけない」とまで規制する。これを、そのまま世間に強制すれば、害虫や病虫や毒虫の害が広がり、エボラ出血熱のようなウィルス感染症が蔓延し、逆に社会的に無責任な妄言ともなる。ここのところをまちがってはいけない。
六、死者への畏敬と感謝
「十善戒」とはほど遠い世間の生活のなかで、最も日本人らしい持斎はといえば死者儀礼である。一つには葬儀・法事・墓参りであり、一つには仏壇お参りであり、一つには本山参拝や霊場巡拝、あるいは古寺巡礼や祈願寺への参詣である。これも、身をつつしみ心を正し神妙に手を合わせる意味で持斎である。
葬儀は、仏教とかホトケとかに無関心・無知識の以前に、老若に関係なく死者を弔うマナーや方法にうとかった人がにわかに仏教やホトケに急接近する入口である。どんなにでたらめな人生を歩んでいる人でも、葬儀の場では死者を前にして神妙にふるまう。これも持斎の一種と言っていい。
人が一生を終えて後生に生れ変ろうとする別れの厳儀を、困窮の故に、無縁社会の故に、省いたり(直葬)、簡略化する(家族葬)ことが流行っている。
いかにも当世風のようなこの葬儀。これをしかけたのは首都圏や大都会の葬祭業者で、人間関係も薄く費用もかけたくない人を対象にはじめた安売りの商法。家族や親族だけで行う葬儀は以前からいくらでもあったし、葬儀の形式や規模や費用は喪主の考えで決めればいいことで、それをわざわざ直葬だとか家族葬だとか言う必要はない。
大都会の片隅で隣近所と交際もせず、ひっそりと生きてきた人ならいざ知らず、生前お付き合いのあった人たちに知らせもせず、まるでこっそりと内緒で葬儀を出すことが、人間関係が密で義理を重んじる地方の町で通るだろうか。
人は一人で生きているわけではなく、多くの人に世話になり、その人たちに支えられて生きている。そうした人たちに最後のお別れをし、故人に代って家族が感謝の気持をあらわすのが葬儀であり、人として当然の礼儀だ。お金がなければないように、やり方はいくらでもある。会葬者にかける迷惑を言い訳にして安あがりの葬儀を行い、人と人のつながりまで薄くするのは自ら無縁社会に参じるようなものである。日本人はそうした他人行儀を好まない。親しい人が亡くなれば涙を流し、礼服を着て弔問にいき、遺族を慰め励ますものである。それを敢えて無視するのは人としての道に反する。
ところが、そういう一時の流行に便乗し「戒名は要らない」などとはやしたてる宗教学者がいる。
そういう宗教学者は、戒名が日本の「改名」文化の一つだということをおそらく知らないのだ。高僧には「大師号」があり、力士には「四股名」があり、芸人には「芸名」があり、俳人には「俳号」があり、書家には「書号」があり、吟詠家には「吟号」があり、作家や漫画家には「ペンネーム」があり、歌舞伎や商店には「屋号」・「家号」がある。
日本ではじめて「院殿号」を授与された足利尊氏は、武家の統領として将軍に上りつめたが「殿上人(てんじょうびと)」にはなれなかったため、「法名」に「殿」を加え死後「殿上人」になった。「等持院殿(とうじいんでん)仁山妙義(にんざんみょうぎ)大居士」である。
「戒名は要らない」という理屈には、ごく普通のお葬式ができない困窮や、「何でも安ければいい」という消費者感覚や、何でも等価交換の感覚で損か得かを考えるクセが見え隠れする。葬儀や戒名の費用はモノを買う代金ではない。先にもふれたように、故人への感謝のしるしである。寺はそれを故人の菩提を弔う志納金として預る。それが、高いとか安いとか、口にすること自体昔は不謹慎だった。死者の尊厳を前にして、めったなことを言うものではなかった。それだけ死者と家族の関係が濃かったのである。
付け加えて言うが、散骨だとか樹木葬とか、変った埋葬方法が世間の耳目を集めている。 「墓地埋葬法」では原則として「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない」(第四条第1項)とし、「刑法」で「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する」(一九〇条)となっている。散骨について法務省は、節度をもって行う分には葬送の祭祀としてやむを得ないとしているが、法律で禁止する話でもないが変ったことはやらない方がいい、というのが本音だ。
葬儀が終ると、初七日から四十九日までお墓参りである。花を供え線香を手向け合掌するだけで心が改まり浄められる。これも持斎である。
亡き御霊は、まず不動明王(初七日)に迎えられ、この世への未練を断ち切り、仏の世界に一歩踏み出す心をゆるがないものにする。
次いで釈迦如来(二七日)に迎えられ、無事に「三途」の川(「三悪趣」)を渡り、仏の教えの第一歩である「無我」の教えを授かる。
次いで文殊菩薩(三七日)に迎えられ、とらわれのない大乗の「空」の智慧を聞く。
次いで普賢菩薩(四七日)に迎えられ、自分にも堅固な菩提心が宿っていることを知る。
次いで地蔵菩薩(五七日)に迎えられ、自分の人生が家族の支えとなり人の支えにもなったことを教えられる。
次いで弥勒菩薩(六七日)に迎えられ、大慈悲の心でこの世に在る人たちを護ることを諭される。
次いで薬師如来(七七日)に迎えられ、病の人あれば薬を与えるように、あらゆる人の苦を取り除くことを自覚する。
次いで、百日後に観世音菩薩(百日忌)のもとに迎えられ、さまざまな姿でこの世に現れ、自分の名を呼び助けを求める人を助けることを教えられる。阿弥陀如来の補佐も行う。
次いで、一年後に勢至菩薩(一周忌)のもとに迎えられ、智慧の光で「三途」の川のところに戻らないよう守られる。観音様とともに阿弥陀如来の補佐を行う。
次いで、二年後に阿弥陀如来(三回忌)の極楽浄土で無量の智慧の光明に迎えられ、安楽の世界に安住する。
次いで、六年後に阿閦如来(七回忌)のもとに迎えられ、いよいよサトリの境地を堅固にし、煩悩の誘惑に動じない心をもつ。
次いで、十二年後に大日如来(十三回忌)のもとに迎えられ、宇宙的真理の世界=「法界」そのものになる。
十六年後(十七回忌)、二十二年後(二十三回忌)・二十六年後(二十七回忌)も同様である。
次いで、三十二年後に虚空蔵菩薩(三十三回忌)のもとに導かれ、虚空のように広大無辺の智慧と慈悲を身につける。
仏教の知恵は、死者の御霊(仏性)が無事「命のふるさと」(=仏の世界。あの世)に帰れるように、密教の仏たちから十三の仏を選び出し、その仏徳を時間軸によって順序だてた。
インドの仏教では、サトリに至らない人はみな死後輪廻転生し、死後七週間(四十九日)目に生前中の行状により「六道」のどこかに生れ変ると考え、死後七週間(四十九日)を「中陰(ちゅういん)」または「中有(ちゅうう)」とした。
日本の仏教もこれに基づき、「中陰」の期間を「喪中」あるいは「忌中」と言い、この期間が明けるのを「満中陰(まんちゅういん)」あるいは「喪明け」「忌明け」と言って仏事を行う。死者の御霊(仏性)は七日ごとに生前の罪を問われるのだが、遺族の追善の行い(墓参など)や四十九日忌の読経の声によって赦免され、御霊(仏性)は仏の世界への道を次のステップへと進むのである。
この忌日・年忌の法事も、黒の礼服で身を慎み、住職に読経回向をたのみ、参会者に食事をふるまい、七世の父母に孝養を尽くすという意味で持斎にあたる。仏事を葬式仏教の一環だという理屈で軽んじる人がいるが、持斉という日本のマナーを知らないのだろう。
先祖を祀る仏壇に、季節の花を絶やさず、毎朝水等の仏供を新たにして灯明を灯し、線香をあげて在家の「お勤め」を行うのも持斎と言える。
仏壇には、上段の中央に、真言宗では大日如来を祀る。阿弥陀様や観音様やお地蔵様など、大日如来の変化身(分身)を祀ってもよい。その右には宗祖の弘法大師の像または掛け軸を、左には不動明王あるいは興教大師の像または掛け軸を祀る。そして、その下段の左右に先祖の位牌を祀る。
さらに、水・香・花・線香・食べ物・灯明を調える。
水(閼伽(あか))を供えることは、誰にでも平等に施す徳(布施)を意味し、
香(塗香(づこう))を手に塗ることは、身心を清めて戒を守る徳(持戒)を意味し、
花を供えることは、花が暑さ寒さに耐えて咲くように、耐え忍ぶ徳(忍辱)を意味し、
線香(焼香)を立てることは、線香が燃え尽きるまで燃え続けるように、仏道修行に励む徳(精進)を意味し、
食べ物やお菓子や果物などを供えることは、心が落ち着き瞑想に励む徳(「禅定」)を意味し、
灯明を灯すことは、心の闇を除きサトリの智慧に至る徳(「智慧」)を意味する。
水(閼伽)以下六種のお供え(「六種供養」)は六波羅蜜(ろくはらみつ)の実践に通じるということからしても、仏壇を常に奉ずることも持斎と言っていい。
時に人は旅に出る。修学旅行といえば奈良・京都の古寺めぐりが定番である。哲学者の和辻哲郎(わつじてつろう)は『古寺巡礼(こじじゅんれい)』を書き、写真家の土門拳(どもんけん)も写真集『古寺巡礼』を著した。この古寺めぐりに象徴的な日本人の寺めぐり寺参りも、崇高なものへの畏敬という意味で人間の心を高める。宗教心というレベルではないものの仏像や伽藍のかもし出す非日常の崇高さに心を打たれることは、日本人が古くから持ち続けてきた美意識であり、仏教入門の初歩でもある。その神妙な感動は、持斎のレベルとしても一番高いものであろう。
寺めぐり、寺参りには、四国遍路や観音霊場・不動尊霊場巡拝や七福神巡りなどがあるが、次の「嬰童無畏住心」でふれる。
七、この国のかたち
空海は、「十善戒」に続いて「不正治(ふしょうち)国王」と「正治国王」の例を出し、王のモラリティーに国の盛衰がかかっていることを説き、さらに人間界の最高の王として金・銀・銅・鉄の四種の「輪王(りんのう)」を説く。
徳・不徳を中心にかなりの字数を費やして仏教から見た「国王論」を論じているのは、空海が嵯峨天皇や藤原一門をはじめとする朝廷中枢との親交や、あるいは渡来氏族秦氏(はたし)一族とのよしみを通じて、王朝政治の現実をよく知っていたからにちがいない。
日本は戦後、天皇を国家と国民統合の象徴とし、その地位は主権者である国民の総意に基づく(憲法第一条)ものとしたが、もともと日本は聖徳太子の「十七条憲法」の時代から天皇を父祖と仰ぎ「仏法」を重んじる立憲君主国である。
天皇は、神の道・人の道に篤く、人格高潔にして円満、教養と品格を具え、国民の崇敬の的であり、日本人の誇りであり、いわば国民共通の父でもある。私たち日本人のモラリティーはこの天皇をある意味模範とし、人格高潔で教養・品格を具えることを志操としてきた。この頃の日本人に足りないのはそこである。天皇・皇后両陛下や皇族方を国民が身近に感じ親しみをおぼえるのはいい。しかしそれにも超えてはいけない一線がある。皇室情報がスキャンダル化されて報じられることが時々あるが、皇室まで国民目線で低俗化するのはよくない。
然るに、天皇を父と仰ぎ、神の道・人の道に篤く、人格高潔にして円満、教養と品格を具え、志操高く生きようとしてきた日本人が、戦後どこかに消えてしまった。
戦争に負けて食べる物もない塗炭の苦しみを味わった日本人は、人格高潔や教養や品格ではなく、今日明日を生きるための食べ物や物を買うためのお金を渇望した。だからモノが豊かでお金もあるアメリカの物質文明にあこがれそれをマネた。
そうした大きなパラダイムシフトのなか、戦後の復興は食糧確保からはじまった。そこから経済発展・経済至上主義が生れた。それはそれで国民の生活を落ち着かせ民生安定に寄与したが、同時に国民を経済優先主義(心よりモノ・カネ)・経済合理主義(損か得か、安ければいい)に導いた。
そこに自由・民主・人権である。自由をいいことに日本人は自分勝手や無責任をおぼえた。民主をいいことに国や社会よりも個人優先になった。人権をいいことに自分の非や自己責任を認めなくなった。あの志操高き日本人はいつの間にかいなくなった。
時に、自由とは、思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由、集会の自由、結社の自由、言論の自由、出版の自由、表現の自由、職業選択の自由、居住移転の自由、外国移住の自由、国籍離脱の自由、生存権、財産権、法の下の平等、これらが自由権として戦後憲法で保障された。この自由権という権利は、基本的人権(人間が人間らしく生きられるための権利)の一つであるが、自己責任を重んじ自分の権利を強く主張しなかった日本人を権利偏重に変質させた主因である。
端的に言えば、アメリカや西欧の義務と一体の権利思想を、日本人はそのように受け取らなかった。戦後日本人にとって権利とは、軍国主義のもとで言いたいことも言えず買いたいものも買えず不自由な生活を何年も強いられた反動で、今度は身勝手・わがまま・利己主義・放任・ひとの迷惑おかまいなし・言いたい放題・公衆道徳無視・社会秩序無視もまかり通り、義務は負わないでいい、である。
昨今の、生活保護を受けている人が、たった今受給したばかりの給付金をもってパチンコ・競輪・競馬・飲み屋に足を向け、市民税を滞納して家宅捜査された人が怒り狂い、学校給食代を滞納しては集金に来た係員に食ってかかり、薬物所持やスピード違反・酒気帯びで路上摘発を受けて逆切れ等々、守るべき義務などそっちのけの言いたい放題。自己責任の放棄、これが今の日本人の自由と権利の意識である。どこが、人間が人間らしく生きられるための権利か。
然るに、言論の自由について一言。
それは人権にうるさく、反戦平和にこだわり、社会的弱者にやさしい、といわれている一部の新聞・テレビの偏向ぶりである。左系もまじめならけっこうであるが、政治や社会の問題を意図的に左に誘導する手は汚い。どこの社とは言わないが、情報公開・情報公開と他には迫りながら、自分に都合の悪いことは黙り通す。権利ばかりを主張し義務を追わない悪しき見本だ。
信教の自由についても一言しておきたい。
この自由で、天皇絶対・軍国主義の背景となった「国家神道」は戦争責任を問われるかたちで社会の表舞台から退場し、英霊や戦争犠牲者の慰霊供養を担った仏教寺院からも国民の心が離れていった。神道も仏教も神も仏も、「崇高なもの」の座をアメリカン・デモクラシーに明け渡した。これにより、日本人の伝統的な信仰や宗教習俗は色を失い、精神的な背骨を失くした。
アメリカは戦争中、日本兵の精神的な強固さにさんざん苦しめられた。GHQの日本統治の中心課題は日本を二度と戦争のできない国にすることだったが、日本兵の強さの背景を狂える国家神道だとみなし、日本人から神道を除くこと、そして神道だけでは宗教施策として首尾が一貫しないため、仏教もキリスト教もすべて含めて信教の自由という、人権尊重にみせかけた日本精神の骨抜きを謀った。この謀りごとは見事に的中した。戦後、日本人は宗教に無頓着になり、無宗教・無信仰の人口が圧倒的に増えた。巧妙な宗教弾圧である。
神を尊崇し、仏を信奉し、崇高なものに敬虔だった日本人が、目には見えぬ価値世界よりもアメリカからもたらされる物量の豊かさやハイカラな物質文明に目がくらむようになったのは、アメリカの占領政策にとって上々の成果だった。政教分離はその果実である。
結果、日本では神とは何か、仏とは何か、神道とは何か、仏教とは何か、神社とは何か、寺とは何か、釈迦とはどんな人か、キリストとはどんな人か、釈迦の弟子にどんな人がいたか、キリストの弟子にどんな人がいたか、彼らはどんなことをした人か、死後の世界・あの世とは何か、霊魂とは何か、そういうことを聞いたり、教えたり、議論したり、知ったりすることが、実用的でなく、得でもなく、従って無意味なこととして片づけられるようになった。日本人が精神的な価値よりも物質的な価値を選ぶようになったのは、皮肉にも信教の自由のせいである。
民主もどうか。
民主とは国民主権の略で、国の統治は国民の意志によって決まることを言い、これにならい、総理大臣を決めるのも、都道府県の知事を決めるのも、市町村長を決めるのも、代表取締役を決めるのも、各種法人の代表を決めるのも、PTA会長を決めるのも、自治会長を決めるのも、国民の投票や関係者の賛否によって行われる。
しかし、選挙を民主主義の象徴のようによく言うが、今の日本の選挙の実態は憲法の認める国民の権利とはおよそかけ離れたところにある。だいたいが、選挙期間中に遊説カーに乗った候補者あるいは運動員が候補者名と「よろしくお願いします」を連呼しなければ、国民の大半は投票に行かない。時には、選挙管理委員会がヘリコプターまで飛ばし投票を呼びかけなければ、投票率は惨憺たる結果に終る。
さらに、選挙事務所に詰めているとわかるが、国政選挙も地方議会や首長選挙も候補者側は「電信柱にも頭を下げろ」、夜の個人演説会でも有権者の前で大衆迎合のオンパレードである。日本の民主主義はあきらかにアメリカや西欧のそれとちがい、国民という名の気まぐれな大衆あるいは愚民にわがままを許すポピュリズムだ。衆愚政治と揶揄される所以である。
戦後、民主主義のおかげで日本の女性の地位が向上し、男女同権・男女平等雇用・男女共同参画社会が言われるようになった。しかし、戦中の世代はともかく、戦後生れの団塊の世代やその次の世代、そのまた次の世代の家庭で、夫と妻が平等の生活をしている実態があるだろうか。男女同権は名ばかりで依然として男尊女卑。仕事をもつ妻に家事と育児の一切を押しつけ家では何もしない夫はいないか。男女平等雇用と言いながら、仕事の内容や労働条件や待遇の面で依然女子社員に厳しい職場はないか。妊娠・出産で差別(マタニティーハラスメント)を受けないか。セクシャル・ハラスメントはないか。空々しい実態が報道されている。未婚の女子社員の退社時間の遅さは結局晩婚を促し少子化を助けている。男女共同参画社会もけっこうだが男性の生きる力が劣化している。それを女性が補えというのだろうか。ますます女性が子供を産めなくなる。
空海はおそらく、男女同権は、理屈はわかるが、現実は各々の性のちがいや人としての成りたちのちがいを無視しがちである。男は男、女は女。同権だからといって何でも男女を同等にするのは無理。例えば男女雇用平等とは名ばかりで、女が男と同じように深夜まで働いていてはだいたい家庭が成りたたない。夫婦がもたないし子も産めない。夫が帰りのおそい妻の分を家事でカバーしてくれるならいいが、日本の男性はいまだにそれができない。私なら、互いに異質な二つのもののちがいを活かしながら、二つが一つになって両立ができる「二而不二」を考える。西洋の男女同権はそもそも、男と女の性や能力のちがいを人権でいっしょにしようというのだが(反男尊女卑)、二律のちがいを撞着させる知恵としては粗雑だ、と言うだろう。
その人権もまた、怪しい。
毎年どこかで河川の氾濫や土砂崩れが起るたびに、避難住民が学校の体育館や公民館などに長期雑居する光景を見るにつけ、豊かなはずのこの国にしては国民の生命と安全を守る方法があまりにもお粗末、もっと言えば非文化的・非人間的で、どうみても人権尊重とは言えない。
平成二十三年三月十一日、東日本大震災の被災地では、多くの人が着の身着のままで緊急避難したが、避難場所となった学校の体育館や公民館は、例によって冷たいフロアに布団・毛布、寒くて不健康で不便で不自由ななか、何百人もの人が窮屈なスペースで雑居し、プライバシーも何もあったものではなかった。
電気は停電したままで、暖を取るストーブも灯油もなく、食べる物も飲み物もなく、すぐに体調を崩す人・病気にかかる人が出た。しかし誰が救急車を呼ぶのか、誰が医療機関につなぐのかわからない。電話も通じない上、避難所の司令塔がいないのだ。
地震発生の翌日全町民の避難指示が出された福島県大熊町では、病院に入院していた患者が医師も看護師も乗っていないバスで避難所をたらい回しにされ、その揚げ句十時間以上もバスに揺られ二百三十kmも離れたいわき市の高校の寒い体育館に搬送された。搬送途中・搬送後、十数人の死者が出ている。
この貧しい現実は、被災者は誰でも、とりあえず広く冷たいフロアで雑魚寝させることしか考えていない、と言っているに等しく、憲法第二十五条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある。国は、すべての生活部面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」(生存権)に背いている。災害の時は「すべての生活部面において」に含まれないのか。避難住民は「すべての国民」に入らないのか。避難生活は「健康で文化的な最低限度の生活」なのか。
どうやらこの国は「豊かさ」の意味をはきちがえてきたようだ。「豊かさ」とはモノ・カネの多さの尺度であって、国民一人一人の基本的人権がいかなる時も担保されている配慮、つまり人間が人間らしく扱われる配慮ではないのだ。
同じことが原発事故とその後の退避・避難対策にも言える。地震や津波ばかりでなく、施設内の事故でも付近住民の人命に大きな影響をもたらす原子力施設を誘致しながら、地元自治体はいざという時に地域住民を放射線から守る施設も持たず、福島県では十六万人の人が県内外に分散退避させられている。その結果、一時避難先の(他県の)施設で通路にも寝かされるという、まるで難民のような扱いさえ受けた。これが民主主義国家の人権か。
最後に、自由・民主・人権を謳った憲法そのものはどうか。
現行の日本国憲法が、昭和二十年年末から翌二十一年にかけて、日本政府と占領軍総司令部(GHQ)とのせめぎ合いのなか、総司令部案(マッカーサー草案)を日本政府が受け容れるかたちで成立したことは、周知のことである。原文は英語であり、これを外務省が仮の和訳を試み、それを閣議に提出した。
総司令部が自ら草案をつくった背景には、日本の戦後処理に権限をもつ極東委員会でソ連やオーストラリアが天皇制廃止を言い出しかねなかったため、日本政府に憲法の起草をまかせていてはダメだというマッカーサーの判断があったと言われているが、いずれにしろ総司令部の日本統治の主目的は、表向きは日本を自由主義陣営に取り込み対ソ連共産主義の砦にすること、すなわち米軍の駐留であり、裏は日本の戦争能力と日本人の精神性のはく奪であった。マッカーサーが憲法担当のホイットニー民政局長に最初に示したいわゆる三原則では、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」となっていた。つまり自衛権も認めなかったのである。
ともかく日本は敗戦国の悲哀で、戦勝国の占領軍の前には思うような国のかたちを実現するのは不可能だった。要すれば、自由も民主も人権も急に着せられた上着のようで似合うはずがなかった。中身は全然変わらないのだ。日本人は器用で、その似合わない上着をそのうち脱ぎ、自分に合った上着を勝手に作って着るようになった。それがいわゆる戦後民主主義と言われるもので、あの慎ましく清廉潔白で、道徳心に篤く志操の高かった日本人がモノやカネに固執し、自由を自分勝手や無責任ややりたい放題とまちがえ、民主主義を個人主義・自己中・利己主義とはきちがえ、人権を甘やかしやわがままに変質させた。
空海の時代、日本は、東大寺の盧舎那仏を主尊とする仏国土(「華厳国家」)から東寺の護国立体曼荼羅が示す大日如来の仏国土(「密厳国家」)に転じ、天皇(「正治国王」)を中心とする中央集権の律令国家であった。全国に地方行政を兼ねる国分寺を置き、釈迦如来あるいは薬師如来を祀って地方の民の安寧を祈った聖武天皇以来、この国は「仏法」と「王法」の一致こそが国のかたちの根幹だった。「王法」による行政は「仏法」では「衆生」教化の利他行だったのである。天皇も朝廷貴族も「仏法」を重んじ、自らを律する規範や国を治める根本精神として共有した。今は仏国土思想も「王法仏法」もなくなり、国民に主権があり、天皇の立場は国民の総意に基づくことになっている。
然るに、その主権在民の民主国家ニッポン。志操高き日本人はいなくなり、戦後新生日本の新しいパラダイムになった自由も民主も人権もはきちがえられ、政府(行政府)と国会(立法府)はいざという時に国民の生命・財産を守れず、宰相にはなってはいけないような人までが宰相になる。主権在民の民主国家はかっこうや体裁だけで肝心の中身がない。みんな自分中で「利他」の精神がないのである。
今の中国のあくどい領海侵犯や海洋進出や、中国人観光客のマナーの悪さを見て、日本人の誰もが眉をひそめあさましいと思うだろう。たとえ世界第二の経済大国になったとしてもあの自分勝手やわがままに国際社会は決して尊敬などしない。かつてエコノミックアニマルと揶揄された日本にとってはいい教訓である。
経済大国それ自体はいい。しかしそれで国際社会の尊敬を得られると思ったら大まちがいだ。日本がこれからめざすべき道は「衣食足って礼節を知る」。すなわち経済大国から国民みんなが礼儀礼節に篤く民度が高い「品格大国」である。国民の民度が高くなければ、民主主義は有名無実に等しい。
二〇二〇年の東京オリンピックは、日本が経済大国から品格大国に生れ変ったことを内外に知らしめるいい機会だ。「おもてなし」とは、立派な競技施設や選手村や美味しいご馳走だけではない。それに携わる人が親切で礼儀正しいことであり、日本人みんながそうであることだ。その原風景は四国遍路の「お接待」。徳島県神山町が今「ふるさと創生」で脚光を浴びている。
八、危うい生命倫理
人間の道徳心のめばえや育ちを論じるこの章の最後に、人倫の道をはずしてもなお恥じない脳死移植の問題にふれておこうと思う。医学の発達や医療の献身に異論を言うつもりはない。ただし、科学界は時に傲慢になり暴走もする。それを問うているのである。
人類社会は、人間の理性や文明の証しとして、人肉を漁ること・人肉を食べること・人肉を売買すること・人肉を何かのために供すること、すなわちカニバリズムをタブーとしてきた。タブーとは、文明から取り残された未開種族に見られる野蛮行為や習俗を文明社会が「禁忌」として忌避する事柄で、これは人類社会共有の禁止規範である。
ところが、この文明社会において、脳死状態となったある人の、心臓も動き体温もある生体から臓器を切り取り、その結果その人の生存を(故意に)終らせてでも、他の生体に移植する人肉のやりとりが行われ、この国ではそれを法制化していかにも文明社会の先進医療であるかのように偽装され、臓器売買までが闇の世界で行われるようになった。
しかし、日本人のほとんどはこの犯罪的医療のおぞましさにたじろぎ、「臓器移植でしか助からない命を救う」という美談を半信半疑としてきた。「輸血だって、角膜移植だって、肝移植だって、腎移植だって、臓器移植に変りはない」と言う人がいるが、日本人の死生観・生命観・宗教観・人生観は脳死移植というタブー破りを容易に受け容れようとしなかった。
旧「脳死移植法」が成立した当初、関係者は「(これで日本の「脳死移植」は前進し)三年で一〇〇〇例は可能だ」とうそぶいたが、現実は十年でわずかに八十一例に過ぎなかった。この惨憺たる結果に、功をあせる脳死移植推進派の人はカニバリズムのおぞましさを省みず、また指定病院の体制が未だ十分でないことを承知で、またぞろ政治の力を借りて「臓器移植法」の改悪(更なるタブー破り)に走ったのである。
平成二十一年(二〇〇九)六月十八日、改悪「臓器移植法」(いわゆるA案)が衆議院で可決された。これによれば、臓器提供をする場合にかぎり脳死を人間の死とし、臓器提供をしない場合は脳死は人の死ではないとした「旧法」(これも動いている心臓を体温のある生体から切り取り、人為的にその人の生存を止める医療殺人を極めて政治的に国家権力を借りて正当化した異常な法律だったが)に込められていた「脳死臨調」や有識者または宗教者・市民有志の慎重論・反対意見に対する配慮も葬り去られ、脳死は臓器提供しようとしまいと一律に、この国に住む人間の「死」ということになった。
およそ人間の「死」の定義は、単に移植外科医や脳死移植を待つ人の都合のためにあるのではない。「死」を認識しそれを悲しむことが人間共通のものである以上、「死」の定義は人類共有のものでなくてはならない。
ところが改悪法A案は、WHO(世界保健機関)の「臓器移植は自国で完結を」(〇九年五月)という指針、すなわち「今後はアメリカに行っても脳死移植を受けられなくなる」事態をこれ幸いに、いっこうに進まない日本の脳死移植の現状を打開するために、脳死を人間の「死」に加えることを強行した。この国の衆議院は、人類共有のものであるべき「死」の定義を移植外科医や脳死移植を待つ人の都合だけのために法制化し、ふたたび文明社会のタブーを破った。
改悪法A案は、脳死状態から蘇生する可能性が子供にはあるとして、「旧法」が認めなかった十五才未満の子供の脳死移植を可能にし、さらに「旧法」の生命線というべき「本人の意志」を放り捨て脳死移植は「家族の同意」だけで可能とした。
この結果、生命倫理の歯止めが完全に取り除かれ、「臓器移植でしか助からない命を救う」という美名のもと、蘇生するかもしれない脳死状態の児童が、「本人の意志」に関係なく、身体を切り裂かれ生きている臓器を切り取られ、恣意的にあの世に強制送致されてもよいということになった。
改悪法A案に賛成した国会議員はすべて、自分が脳死状態になった時はかならず臓器提供をするばかりでなく、妻・夫・息子・娘・孫もみな臓器提供することを誓約し公表すべきである。改悪法に賛成しておいて自分は臓器提供をしないばかりか、家族も同じでは理屈に合わない。率先垂範して、この国の脳死移植の進展に協力してはどうか。政治的ポーズなら誰にでもできる。この問題に手を染めた以上、政治的道義的責任をとらなければ政治家である資格はなく、単なる政治的パフォーマンスに過ぎなくなる。
然らば、普通の外科手術も臓器移植も政治や法律(国家権力)の力を必要とはしないのに、なぜ脳死移植だけが政治や法律の力を必要とするのか。脳死移植は、心臓も動き体温もあり、ヒゲも伸びお産もできる生体から、生きた臓器を切り取り、その結果その人の生存を人為的に終らせてしまう殺人行為を前提にしている。それ故、法律の力を借りて移植外科医が殺人罪で訴えられないよう保護する必要があるからだ。
こんな政治的な特例扱いを受ける医療行為がほかにあるか。そこまでして移植外科医の身分を守らなければならないこと自体、脳死移植がそもそも殺人と表裏一体のタブーであることを証明している。「臓器移植でしか助からない命を救う」医療がタブー破りの「禁忌」である限り、それは仁術や人道であるはずがない。筆者は先ずそのことを問うているのである。
医療はもともと、社会規範や人倫道徳に合致し、かつ崇高な生命倫理にもとづいて行われるべきものである。事実、この国の医療も、かつては「医は仁術」と言われ、人道の模範だった。国家権力を借り殺人行為を正当化してまで強行する医療を仁術や人道というだろうか。日本の仁術や人道とは、我欲と物欲とをサイエンスで満たすことを人間の幸福とする欧米のプラグマティックなヒューマニズムとちがうのである。
さらに、自分が生き永らえる(自己の生存本能を満足する)ために、あるいはわが子を少しでも永く生かしてやりたい(父性・母性本能を充足したい)ために、他人の臓器まで欲しがること、さらには他人の「死」を心のどこかで期待すること、そのおぞましさも問うてみたい。
人間には寿命がある。老いも若きも異なりなく、人間は、与えられた命を、与えられた有限の時間を、生かされ生きているのである。見ず知らずの他人の臓器を欲しがり、人為的に殺された人の臓器をもらい受け、それで平気なのか。生きる時間が多少伸びた分、それをただただ生存するだけで無為徒食に過すとしたら、それで幸せか。それを問うては失礼か。
医療はしばしば科学という武器で自然界を征服しようとする。理系の人はこの武器が万能だとよく錯覚をする。移植外科の独善と傲慢は、この科学至上主義・自然征服主義の典型である。欧米では山は人間が征服するものだが、日本では山は神仏の宿るところ、人間が拝むものなのである。日本の山の頂にはよく神仏が祀られている。その精神が日本人の身体観となり、日本人は永く肉体と精神を分けなかった。動いている心臓を切り取ることは、その人から心や魂を抜き取ることを意味するのだ。デカルトはそこがわからなかった。肉体と精神を二分したのである。それが欧米の医療の基本理念で人間の生命観にもリンクしている。
「ターミナルケア」という言葉がある。「終末医療」といわれる。欧米では「死」はすなわち生命の「ターミナル」(終着駅)で、これ以上生きることはないのである。しかし、湯川秀樹や井筒俊彦から世界レベルの哲学と評された空海の密教では、「死」は「不滅の滅」。始めもなく終りもない不滅無限の大生命(大日如来)から生れた生滅有限の生命活動を終えて、またその大生命のもとに帰ること。日本的に言えば、「仏となってあの世で永遠に生きる」のである。これが東洋の知恵であり農耕民族日本人の精神風土である。
空海は、「死」期をさとると五穀(食物)を断って五臓六腑を浄め、弟子たちに遺誡した日と時刻に(弥勒菩薩の)三昧(瞑想)に入った(「即身成仏」の)まま、高野山で有限の生を終えた。空海は、無垢なる六大所成の仏身となって「法爾自然」の原郷(大日)に帰ったのである。
阿字の子が 阿字のふるさと 発ち出て また発ち帰る 阿字のふるさと
切り取られた五臓六腑が自分の死後も他人の身体のなかで生きているという実質半死半生の人は、美談の主にもかかわらず、生命の原郷に帰る途中生死の境で迷うことになろう。私たちはこの生死の境で迷う半死半生の生命を「仏」とは言わない。「仏」とは迷いの世界を越えた人のことだからである。日本人は「死者」を「仏さま」と言っておがむ。脳死移植推進派の人のように、人間の冷厳な「死」を軽々しくもてあそべないのである。
最後に「脳死移植」のおぞましい闇の歴史にもふれておく。その闇とは、移植医療先進国といわれるドイツの医学にかつて暗い影を落とした優生学や人体実験であり、そしてその優生学の信奉者ヒットラーが行ったあのユダヤ人の迫害と大量虐殺(ホロコースト)であり、ドイツに並ぶ移植医療先進国のアメリカも優生学的な政策で長いこと人種差別を行ってきた、ということである。
とくに、ヒットラー時代のドイツの強制収容所で、回復の見込みのない収容者(ユダヤ人)の臨床実験が行われていたことは、ニュルンベルグ裁判が明らかにしたところである。生きる見込みのない人の身体を、ある意図のもとに強制的に切り刻むことは、この強制収容所の人体実験に由来すると言っても過言ではなかろう。身体の自由を奪われ、意思の表明もできない、まったくの弱者を、無慈悲に死刑台に送るこのような医療行為の亡霊が、移植外科医には自覚されないまま今の脳死移植に影を落としていないか。よくよく考えてみることである。
世界で最初の心臓移植手術を行った南アフリカの心臓外科医クリスチャン・バーナードは、アメリカのミネソタ大学で心臓移植を修得し、交通事故で脳死状態になった黒人女性の心臓を白人男性に移植し、「この移植には人にいちばん近い形をしたもの(黒人)を使った」とうそぶいた。世界初の心臓移植は、黒人の人権を認めなかった人種差別国南アフリカで行われたのである。かのドクターは黒人女性のドナーを人間ではなくモノと見ていた。
脳死移植は、このような優生学的人種差別、非人道の医療からはじまった。そして、生命の選別という悪しき本質は今もなお変っていない。もともと人体実験の犠牲になってきたのは、奴隷や犯罪者や死刑囚や、貧困層や被差別民や知的障害者たちであった。日本の臓器売買の闇ルートで買われる臓器はフィリピンほか東南アジアの貧困層のものだといわれ、中国における臓器提供者はほとんどが死刑囚である。
九、科学の暴走という不道徳
空海は、科学者でもあった。
若き日に奈良の大学寮で「四書五経」ほかの漢籍を学ぶ一方、仏教の「五明(ごみょう)」の学(声明(しょうみょう、音楽・音韻)・因明(いんみょう、論理学)・内明(ないみょう、仏教教理)・医方明(いほうみょう、医学・薬学)・工巧明(くぎょうみょう、技術・技芸))を単なる学問ではなく衆生救済の術として学んだ。
このうち理系の「医方明」と「工巧明」は、空海と丹生(丹砂・辰砂・朱砂、硫化水銀)の関係を深いものにした。
空海には、若い頃、山林修行中に道教系の修行者から不老長寿の秘薬として丹薬をもらい、それをずっと服用していたフシがある。そのことが、あるいは丹生都比売神社へのかかわりの動機であったかも知れない。いずれにしても、高野山の麓で丹生の採掘が行われていることを知り、実際にその現場に足を運び丹生を産する山の民と親しく交わった。あるいは自ら丹薬を造っていたかもしれない。
また、丹生が防腐・防虫剤や塗料(朱色)として木造建築や石棺・石室の内壁に有用だったり、東大寺の盧舎那仏造顕で知られるように金メッキに必要なことも承知していた。すなわち、空海が今で言う薬品・冶金とその効能について相当に詳しかったことは想像に難くない。
空海は、綜芸種智院で仏教(密教)のほかに諸芸諸学を学ぶことを義務づけたように、自利と利他の範囲において宗教とサイエンスを矛盾させなかった。今の時代に生きていれば、人間の尊厳や生命に益する範囲で高度な先端科学を容認したであろう。しかし、サイエンスが人間の欲望のあくなき追及のために暴走するとすれば、それはノーに相違ない。
第二次世界大戦がはじまってまもなくの昭和十四年(一九三九)から、ナチスドイツは天然ウランを使った原子爆弾開発を進め、たびたび核分裂実験に成功していた。
日本においても、昭和十五年(一九四〇)頃からウランを使った原爆の基礎研究がはじまり、十六年(一九四一)には陸軍航空本部が理化学研究所に開発を委託。十八年(一九四三)には仁科芳雄博士を中心にいわゆる「二号研究」が開始され、翌年にはウラン235の濃縮実験がはじまった。同じく海軍も京都大学の荒勝文策教授に依頼し、遠心分離による濃縮法が検討され(「F研究」)、実際にウランの採掘や入手にも入った。
このような敵対国の動向にあせったアメリカは、昭和十七年(一九四二)、ロスアラモス国立研究所のロバート・オッペンハイマーをリーダーに、イギリス・カナダとともに原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)に着手。昭和二十年(一九四五)七月、世界ではじめて原爆実験に成功し、早速その一ヵ月後の八月六日広島にウラン型を、八月九日に長崎にプルトニュウム型を投下し、無辜の市民数十万人を一瞬にして大量虐殺した。
アメリカは今でも、大戦を終結させるためのやむを得ない理性的選択だったと言うが、この人類史上はじめての核兵器使用は、核の時代の幕開けであり、科学の暴走のはじまりであり、人間の理性がどこまで核の凶器と狂気を自制できるか、科学がどこまで人間の尊厳や生命に益する範囲にとどまるかという重い課題を人類社会に残すことになった。
その後世界は核兵器の保有によって軍事的アドバンテージを競う時代になり、米・ソという核大国が「鉄のカーテン」をはさんで対峙し、その間イギリス・フランスが核兵器を保有し、ソ連が崩壊して東西の対立が緩和されると中国が台頭し、核を保有してアジアの覇権をねらい、インド・パキスタンについでイスラエル・イラン・北朝鮮・シリア・ミャンマーが核保有国とみなされる時代になった。みな自国防衛のための核抑止力の論理である。
しかし核兵器はまちがいなく人類破滅の凶器である。人間の理性がどこまでこの凶器を管理できるかわからない。そこに人間の理性をやすやすと超えてしまう新しい脅威が跋扈しはじめた。インターネットを通じて国家の機密情報までが盗まれたり、改ざんされたり、破壊されたりする時代、いつ、誰が、核保有国の核のボタンを遠隔操作で押すかも知れず、そのサイバーテロを防ぐノウハウが核保有国すべてにあるだろうか。あるいは、破壊活動組織がどこかの国の原子力潜水艦を乗っ取り、核のボタンをにぎったとしたらどうなるか。
人類滅亡の危険をはらむ武器を持たなければ国際社会の平和が維持できない、他国を危険な武器で脅さなければ自国の平和や国益が守れない、そんなキナくさい論理を人類社会の常識にしたのはアメリカである。そのアメリカは、その論理がここのところ自縄自縛に陥っている。古くなった核兵器の更新と維持に莫大な予算がかかる。アメリカの経済がそれについていけないのである。アメリカには人類の未来のため核兵器廃絶に向けて自ら先頭に立ち実効あるものにする責任がある。銃には銃で核には核で応戦する論理は、地球上に真の平和をもたらさない。人類平和に武器は要らない。理性に基づいた良識と良心さえあれば充分である。
ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルは、ダイナマイトの爆発力が兵器に使われ「死の商人」と評されたことを悔い、自分の財産のすべてを人類のために貢献した人に分配することを遺言した。
また、人類ではじめて原爆を成功させたロバート・オッペンハイマーは、戦争を終らせるための特殊兵器だったはずの原爆が世界のパワーバランスを保つための道具になってしまったことに絶望し、「科学者は罪を知った」と述懐した上で核兵器の国際機関による管理を発案し、核兵器に反対する立場をとった。
二人とも、人類社会に恩恵をもたらすと思っていた自分の科学が、人類滅亡に直結する方向に暴走する危険を遅ればせながら思い知り、そしてその恐怖におののいたのである。核保有国の指導者には、この二人のおののきと良心の呵責こそ必要である。
同じことが原子力発電についても言える。
平成二十三年(二〇一一)三月十一日、宮城県沖を震源地とする大地震と津波が東北地方の太平洋沿岸部を襲い、青森・岩手・宮城・福島の四県に甚大な被害を与えた。死者・行方不明者一万八千人余、建物の全壊・半壊四十万件余、ピーク時の避難者四十万人余、現在二十四万人余、直接的な被害額十六兆~二十五兆円、自然災害による経済的な損失としては史上最高となった。
なかでも、福島県浜通りにあった東京電力福島第一発電所の四基の原子炉が、高さ十五mの大津波に襲われすべての電源が機能不全となった結果、一号炉・二号炉・三号炉の炉心冷却が止り、核燃料が高熱で溶け出し(メルトダウン)、原子炉を格納している建屋は次々と水素爆発を起して吹き飛び、大量の放射性物質が福島県内を中心に飛散した。ひとつまちがえば、首都東京をふくむ東日本全体、すなわち日本の半分が高濃度の放射性物質にさらされ壊滅する非常事態だった。これで日本は原爆と原発事故で合計三度、世界一の被爆国となった。
福島第一原発の事故後、一週間のあいだに飛び散った放射性物質の量は七七万テラベクレル(七七万兆ベクレル)。そのうち、セシウム137は一万五千テラベクレルで広島型原子爆弾の一六八個分、ヨウ素は十六万テラベクレルで広島型原爆の二・五個分、ストロンチウム90は一四〇テラベクレルで広島型原爆の二・四個分だったという。ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、そしてノーモア・フクシマである。
原発事故の当事者となった東京電力は、現場の吉田昌郎所長とスタッフの決死の対応で万一の事態を脱したものの、依然現場は大変厳しい状況にあり、打つ手打つ手が後手後手だったり機能しなかったりで不評を買い、さらに避難生活を余儀なくされた福島県民への対応でも不信不満を買った。
それにしても東電は、人類破滅の凶器になりうる核を扱う電力会社でありながら、しばしばその企業倫理を疑われていた。
平成十四年(二〇〇二)の八月、アメリカ人の技術者によって、福島第一・第二原発のトラブル記録の改ざんや隠蔽が告発されたが、東電は「記憶にない」「記録にない」の一点張りで、その後の調査が難航した。
平成十九年(二〇〇七)七月には、日本共産党福島県委員会が、耐震設計想定の二・五倍の揺れがあった中越沖地震の際、柏崎刈羽原発で起きた放射能漏れと火災事故を教訓に、福島原発に対して「耐震安全性の総点検等を求める申入れ」を行ったが、ナシのつぶてだった。
翌二十年(二〇〇八)十二月には、国際原子力機関(IAEA)が、日本の原子力発電所の耐震設計は時代おくれで、巨大地震が発生した場合はもちこたえることができないと警告し、すでに老朽化している福島第一原発の危険性を指摘したのだったが、東電はそれに耳を貸さなかった。
原発が国策事業であり、電力がほぼ独占事業であり、ともに国という権力機構を味方につけていることが東電を傲慢にしたのか、あるいはいわゆる「原子力村」(原発に巣食う官僚・政治家・産業人・研究者・メディアなど)特有の科学至上の驕りがそうさせたのか、東電にはひとの異見に耳を貸す謙虚さもなく、万一の事態を想定しそれに着々と備える責任感もなく、それにお金をかける経営感覚もなかった。彼らが信じていたのは、おそらく費用対効果という投資効率と人間の知恵(科学技術)が自然の力に屈するはずがないという慢心に基づく安全神話であった。いずれも科学的合理主義の落し子である
空海に言わせれば、人間に恵みをもたらすのはその人その人の心であり、物がどんなに豊かでも心が貧しければ物は恵みにならない。空海にとってサイエンスは自利・利他の補助的方法であり、本題ではない。
然るに、戦後日本を支配する科学万能の盲信、科学の暴走をも辞さない科学世界の人たちの傲慢は、時として人倫の道をはずれ、不道徳に陥っても懲りず、いかにも科学的に、合理的に、モノを考え、判断し、そのように生きることが人間らしいと私たちを惑わしてきた。しかし、私たちは、原発が思わぬところから非常事態になること、人間の知恵(科学技術)など自然の猛威の前にはひとたまりもないことを目の当たりにし、科学的合理主義が私たちの生命や国土を奪う危険を察知した。
科学は宇宙に進出しさまざまな便利供与を人間社会にもたらしているが、宇宙に人間が作り出したゴミをばらまいている。再生医療は万能細胞の実用化の段階に入った。難病に苦しむ人には福音であるが、生命の尊厳や神の領域に人間が踏み込むことに疑問を持つ医学者もいる。人間社会はすべて唯物論で割り切っていいのか、仏教唯心論の空海はノーと言うだろう。