長澤弘隆
密教21フォーラム事務局長・真言宗智山派満福寺住職
空海の代表作といわれる『秘密曼荼羅十住心論』(略称『十住心論』)は内容が深長膨大で容易に完読できない。そのコンサイス版といわれる『秘蔵宝鑰』にしても同じである。そこで、この両書を教材にして、空海の密教思想の中心をなす「十住心」をできるかぎりわかりやすく説き明かしてみた。もともとは、真言僧の理解に供するためのものであるが、空海に関心をお持ちの篤学の士にも読んでいただければ幸いである。
まえがき
弘仁六年(八一五)六月、京の高雄山寺にいた空海は嵯峨天皇に高野山の下賜を上奏した。それに対し嵯峨は、異例の早さで、翌七月には紀伊国司への太政官符をもってこれを裁可し、空海の高野山造営の願いをかなえた。
空海は、翌年七月から年末にかけ、實恵(じちえ)や泰範(たいはん)らの弟子を高野山と紀ノ川南岸の山麓に派遣し現地調査をさせた。そこは、若き日に山林修行者として幾度となく渉猟した旧知のところであった。空海は弟子たちに高野山周辺の地形・地理や水銀鉱脈のこと、また山麓の丹生の一族と丹生都比売神社のことなど詳しい事情を教え、さらに山上の予定地や資材・人夫の調達などについて具体的に指示したであろう。
實恵や泰範らはまず、紀ノ川南岸の山麓に拠点をつくった。それが今の慈尊院だと思われる。慈尊院は弘仁七年(八一六)の創建というから、紀ノ川の水運に至便なこの要衝の地に、建設資材や人夫・生活必需品などを集め、それらを山上にあげるための根拠地としてここに堂宇を建立し、当面の宿坊あるいは修行の道場とし、また高野山造営に関する庶事万端を司る寺務所(政所)としたものと思われる。
弘仁八年(八一七)、空海は再び實恵・泰範たちを高野山に入らせ、山上伽藍の予定地にまず堂宇(一・両の草庵)を建てさせた。
そして、翌年弘仁九年(八一八)十一月、勅許後はじめて自らも高野山に登った。おそらく實恵・泰範たちは先に山上に上り空海一行を迎えたであろう。この時には丹生の一族や土地の有力氏族あるいは治山治水に明るい山の民や資材運搬・建築土木に堪能な人夫たちも集まっていたと思われる。寝食等の準備も調っていたであろう。
更ニ西ニ向テ去ルコト両日程ニシテ、平原ノ幽地アリ。名ヅケテ高野ト曰フ。
計ルニ、紀伊国伊都郡ノ南ニ当ル。四面高嶺ニシテ、人蹤蹊絶エタリ。
今思ワク、上ハ国家ノ為ニ、下ハ諸ノ修行者ノ為ニ、
荒薮ヲ芟ク夷ゲ、聊カ修禅ノ一院ヲ建立セン。(『性霊集』)
翌弘仁十年(八一九)の春、空海は山上を七里結界して密教による作壇法(地鎮鎮壇作法)を七日間修した。造営の着手は今の「根本大塔」のところだったという。
高野山は、吉野・熊野・高野の三つの「野」に象徴される日本随一の古代宗教霊地の一角にある。「野」とは「野辺」に通じ、ヤマとサトの中間にあって、死者を葬りその霊が仮泊するにふさわしい地形やサトとの距離を保ったところである。京の化野(あだしの)や紫野もその例で、丹生都比売神社のある天野もふくめ、空海の高野山造営にはこの「野」に潜む古代のミステリー観念も作用していたと思われる。
並ビニ此ノ山中ノ地水火風空ノ諸鬼等ニ白サク。
今上ハ諸仏ノ恩ヲ報ジテ密教ヲ弘揚シ、下ハ五類ノ天威ヲ増シテ群生ヲ抜済センガ為ニ、
一ラ金剛乗秘密教ニ依リテ両部大曼荼羅ヲ建立セント欲フ。
所有ル東西南北四維上下七里ノ中ノ一切ノ悪鬼神等ハ皆我ガ結界ヲ出テ去レ。
所有ル一切ノ善神鬼等ノ利益アラン者ハ意ニ随テ住セヨ。(『性霊集』)
空海は先ず山上を七里結界して諸魔を除き、そこに丹生・狩場(高野)の二明神を勧請した。清められた「野(ノ)」にサトの神を祀り、そこを現(うつ)の仏国土(ヤマ)とみなすことで、サトの丹生の一族や土地の氏族たちに新しい神仏習合のグランドデザインを示したのである。人々は、かつてこの山域で見たことのある若き乞食僧が、今や天皇まで動かし高野山に新しい神仏習合の霊域を造営する稀有の「菩薩」となって現れたことに大いに沸いたであろう。
高野山の山麓の天野の里には、空海が以前から時々滞留していた丹生都比売神社があった。この神社に、土地の人々が信奉する丹生都比売大神(にうつひめおおかみ、丹生明神)と高野御子大神(たかのみこおおかみ、狩場明神・高野明神)が祀られていた。
其ノ社ノ廻リニ十町許リノ沢アリ。人到リ着ケバ即時ニ傷害セラル。
方ニ吾ガ上登ノ日巫税(祝)ニ託シテ曰ク。
妾、神道ニ在テ威福ヲ望ムコト久シ。
方ニ今菩薩此ノ山ニ到ル。妾ガ幸ナリ。(『御遺告』)
この『御遺告』の記述によると、
〈私は、神道にある身ですが、威福(仏法、密法)を永く待ち望んでいました。今まさに、菩薩(空海)がこの山に来てくれました。(それが何より)私の幸せです。〉
というのである。
巫税(祝)とは、巫女のような神の言葉を人間に媒介する者のこと。空海はこの巫税(祝)を代理人として高野山の取得と造営を丹生津姫命から許されたということになる。
これを案ずるに、高野山は天野の里に祀られている丹生津姫命(丹生都比売大神)の神域にあって丹生の一族がこれを領していたが、この神の山に密教僧である空海が入ることを神自身が許しこれを歓迎したのである。
神が菩薩を容認した。そればかりか、近づくと人体を傷つけるほど毒性の強い水銀の採掘や利用までを許可したとの意味でもあろう。すでに神仏習合が行われていた。
空海は、山岳修行の熟達者であった。ヤマに入るしきたりや礼儀作法に通じ、ヤマで鍛えた霊的なパワーにも事欠かなかった。その上、ヤマの民が見たこともない不思議な密教の儀礼や聞いたこともない真言をあやつった。水銀の精製や利用方法やその背後にある道教にも通じていた。ヤマの民が引きつけられるカリスマ性にも満ちていた。天野の里の丹生の一族は氏神である丹生都比売大神もろともに空海を歓迎し帰依したのである。
ときに、丹生の一族や巫税(祝)のことであるが、具には紀伊丹生氏、つまりは丹生都比売神社の社家「天野祝(あまののはふり)」の家系をいう。この紀伊丹生氏は、四世紀頃には紀伊国伊都郡の地にきていたと言われ、先住の大伴氏から土地を譲られ、現在の伊都郡かつらぎ町三谷に丹生酒殿神社を祀った。以後、紀伊丹生氏は大伴氏や土豪の紀氏と血縁の関係をもち、紀伊丹生総神主家として代々続く。
高野山造営にあたって、空海が協力要請の手紙を送った土地の有力者というのも、この紀伊丹生氏の当時の当主だったということが、最近研究者によって明らかにされた。その手紙とは、
である。
ときに、空海が高野山に入山する時に、二匹の犬を連れ狩人の姿をした「南山の犬飼い」に出会ったという話があり、その犬飼いが狩場明神だったという伝えもよく知られているところであるが、その狩場明神とは、実際は空海と同じ時代の紀伊丹生氏の当主丹生家信という人で、家信の死後、空海が狩場明神として、今の伊都郡かつらぎ町宮本に祀った(丹生狩場神社)という説がある。
「狩場」とは、ヤマの民が狩猟する場所とする見方もあるが、鉱山とくに銅山のことをいう言葉である。ヤマの民(例えばサンカなど)の隠語だともいう。
丹生家信は、宣化天皇(四六七~五三九)を祖とする丹治氏から、延暦十二年(七九三)に丹生氏に養子として入り丹生総神主家を継いだことが伝えられているが、丹治氏といえば秩父の銅(「和同開珎(わどうかいほう)」、七〇八)で知られ、本拠地を河内国丹比郡とし、中央の大伴氏や藤原氏や紀伊国の紀氏にも根を張っていた。今の秩父地方を開墾した「武信」という人は、この家信の子だという説もある。
狩場明神については従来この地一帯の土豪の首領だという説があった。興味深いのは、その土豪とは坂上(さかのうえ)氏、首領とは犬甘(いぬかいの)蔵吉人のことで、犬甘蔵吉人を犬飼蔵人と読み、坂上氏の先祖である阿智使主(あちのおみ)のあとに蔵人の名が見えるところから、坂上氏の人だという推定である。『紀伊続風土記』には「犬甘蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同廿二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし」という。
坂上氏といえば、桓武・平城・嵯峨の三天皇政権の軍人のトップとして蝦夷を征伐し「薬子の乱」を鎮圧した征夷大将軍坂上田村麻呂を思い出すが、坂上氏は紀伊国伊都郡から紀ノ川の北方の今の橋本市一帯を本拠とし、丹生都比売神社には(氏子長者として)財政や神馬の管理などで信助を惜しまなかったと言われている。ちなみに、空海と坂上田村麻呂は、同じく嵯峨天皇のブレーンであった。
さて、空海が高野山に入山の途中出会った「南山の犬飼い」が丹生総神主家当主の丹生家信だったとすると、「丹生」すなわち水銀の守護神である丹生都比売と、その丹生都比売の祭祀を行う神職が、空海によって銅(カラ)の守護神(狩場明神)としてシンクロされた(水銀と銅が合体した)ことになる。
また、紀伊丹生氏すなわち天野祝氏は丹生都比売命の祭祀を司る神職であって、実際に水銀の鉱床を探して採掘したり、水銀を精錬して鍍金剤にしたり、薬品加工して丹薬にしたり、朱色の顔料にしたりする技術をもたなかったという。
それを天野祝氏にもたらしたのはおそらく秦氏であろう。死体に朱(丹生)を施して再生を願い死霊(怨霊)を封じる古代からの呪術的な習俗もおそらく秦氏がもたらし、それを天野祝氏の神職が司祭したことも考えられる。
ときに、空海が高野山を開創してから一二〇〇年。空海は兜率天の雲間から一二〇〇年後のこの国の在り様や「吾が先跡」を「問ふ」ていることだろう。
母国日本は、二十一世紀の前期、末弟たちが護っている高野山は、平成二十七年(二〇一五)に開創一二〇〇年を迎え、中門の再建も無魔円成し記念法要や記念事業そして団参などで賑わった。また大師信仰の人たちの記念参拝もあり、山上は連日「南無大師遍照金剛」や「ありがたや 高野の山の岩陰に 大師は今もおわしますなる」の声がやまなかった。
また、仏教の僧である空海が神域内の高野山に入るのを歓迎した丹生都比売大神や狩場明神(高野御子大神)を祀る丹生都比売神社や、高野山造営の際の基地になった慈尊院にも多くの参詣者が見え、かつて何度も往復した「町石道(ちょういしみち)」にも人影が見えた。
旧都奈良に目を転じると、若き日にお世話になった大安寺・元興寺(がんごうじ)・興福寺・唐招提寺・西大寺・久米寺が往時の姿にないものの今もなお大きな伽藍を残し、別当をつとめ密教化を試みた東大寺は盧舎那仏(るしゃなぶつ)とともに健在である。また、大宰府の観世音寺や和泉の槇尾山寺(まきのおさんじ、施福寺)や長岡京の乙訓寺(おとくにでら)も現存し、京都の教王護国寺(きょうおうごこくじ、東寺)も高雄山寺(神護寺)も大覚寺も「吾が先跡」を残している。
さらに広く俯瞰すれば、山林修行の山となった葛城山・金剛山・吉野山、そこから紀伊半島を南に伸びる大峯山系の奥駆道(おくがけみち)、そのゴールの熊野大社や熊野と高野山を結ぶ小辺路(こへぢ)、そして厳しい修行をした四国の太龍ヶ岳(だいりゅうがたけ)・室戸の窟・石鎚山(いしづちさん)、ふるさと讃岐の善通寺や満濃池も旧跡として存在し、四国八十八ヵ所の霊場には大勢のお遍路のなかに外国人の姿も見える。
一方、今年で戦後七十年。この七十年で、日本と日本人はずいぶん様変りした。
昔、としよりを家族みんなで世話をした。
あれから七十年。今、長生きのとしよりを世話するのは介護施設の他人スタッフ。
昔、としよりは頑固で威張っていた。
あれから七十年。今、若い者に遠慮し、正論も小言も言えない弱者。
昔、日本の父は威厳があり重く大きかった。
あれから七十年。今、威厳どころかやさしくて軽くて子に甘いパパ。
昔、日本男児は逆境に強く自己責任感が強かった。
あれから七十年。今、つまずくと、むしゃくしゃして「誰でもよかった」殺人。
昔、日本の母は貧しくてもわが子を養った。
あれから七十年。今、ケイタイ片手に、育児放棄・わが子虐待のママ。
昔、日本女性はヤマトナデシコでつつましかった。
あれから七十年。今、胸をはだけ、へそを出し、太もも露出の挑発系。
昔、子供は親に従い先生を敬い友と親しんだ。
あれから七十年。今、親をも殺し、先生をもなぐり、友をもイジメる修羅童子。
漫談家の風刺ではないが、あの慎ましく清廉潔白で、道徳心に篤く志操の高かった日本人がモノやカネに固執し、アメリカや西欧から教えられた「自由」を自分勝手や無責任ややりたい放題とまちがえ、「民主主義」を個人主義・自己中・利己主義とはきちがえ、「人権」を甘やかしやわがままに変質させている。
長期ローンで建てた家には老父母の部屋がなく、共働きの核家族には子供が成長するにつれすきま風が吹き、親子関係がこじれると積木くずしがはじまる。老父母は気づけば年金生活となり、老後資金と身体の調子を気にしながらの毎日。いつの間にか、子供の頃にしつけられた公衆道徳はどこかに飛び、ある人は生活費に困って万引きしスーパーの店長や警察のご厄介になっても悪びれず、ある人は神社仏閣の神仏の前でもレストランでも見学先の施設でも帽子をとらない。
若者は、薬物や危険ドラッグに酔い、ネット上ではののしり合い、むしゃくしゃすればひとを怨み社会を憎み、ついには「誰でもよかった」殺人。子供たちは友だちをいじめて死に追いやり、家に居場所のない子は深夜徘徊し、子を叱る親もなく、親に子をしつける力もなく、周囲は見て見ぬふり、先生は総じて「仰げば尊し」の対象ではなくなった。
仏教はと言えば、鎌倉時代、比叡山の天台宗から出た法然・親鸞・栄西・道元・日蓮らが、日本の仏教を変質させてしまった。鎌倉仏教を日本仏教の改革―つまり国家鎮護や朝廷に奉仕する仏法を民衆の苦しみを救うための仏法に変えた―という人がいるが、そうした解釈は後世の付会(ふえ、こじつけ)であって鎌倉時代には民主主義はなかった。仏教思想史の基本から見れば改革ではなく変質である。
何が変質だったか。
日本の仏教は、釈尊にはじまる全仏教史(原始仏教→小乗仏教→大乗仏教→密教)をおよそ順序の通り取り入れていた。飛鳥時代の仏教伝来当初は大乗経典や仏像彫刻が主流であったが、奈良時代になると律(りつ)・倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)が伝わり、平安時代になって天台(大乗)と真言(正統密教)が伝えられた。鎌倉仏教は、この仏教史の流れを逆流させ、仏教史の流れの通りきていた日本の仏教を「大乗→密教」から「密教→大乗」へと戻してしまった。
変質の第二は、国家鎮護の「王法」として、天下泰平と万民豊楽を希求する「仏法」として、天皇から民衆まで現世を生きるための法だった日本の仏教を、現世をあきらめて来世をたのむ厭世術へ、そして死者を弔い死霊をあの世に送る術、すなわち今言う葬式仏教へと変質させた。以後、日本の仏教は死者儀礼・祖先供養に軸足を移し仏教思想史の流れから大きくはずれたが、それが皮肉にもその後幾度かの法難をしのぎ生き残る有効手段となった。
変質の第三は、空海も最澄も仏教を総合的に学び、自宗においても総合学習を基礎においていたが、鎌倉仏教は「一仏」・「一経」・「一行」に偏した。「一」に偏して「多」を排し、日本の仏教を他宗を容れない択一的な「一乗」主義に変質させた。
現代になると、在家仏教の『法華経』絶対主義が抬頭し、創価学会・立正佼成会・霊友会・仏所護念会などの新興宗教が信者を増やした。なかでも、創価学会の折伏による信者獲得運動は、激しい時はカルトそのもので、マインドコントロールにかかって『法華経』絶対の異常な排他的精神状態になった人が多かった。「個」の信仰に的が絞られ、先祖を護る菩提寺との寺檀関係を断つ人も出た。類似の「択一」絶対のカルトは今もなお後を絶たない。
空海は心を痛めているであろう。
「母国」日本はいったどうしたのか。道徳心に富んでいたあの日本人はどこに行ったのか。思いもしなかった方向に流れた日本の仏教の行く末はどうなるのか。
この機会に日本や日本人の何たるか、日本の独自の価値世界とは何か、それを忘れている人・知らない人たちに示しておかなければならぬ。鎌倉仏教が仏教思想史の流れを逆流させ日本の仏教を変質させたことも言っておかなければならぬ。日本人の宗教観は多様・多重で、「一」に偏して独善になることは本来ではないことも言わねばならぬ。ならばもう一度かつてまとめた「十住心」をもとに、日本や日本人や日本の仏教を問い質さなければならない、と。
「十住心」とは、
一、異生羝羊住心 煩悩に溺れ、食欲と性欲の業欲に染まったままの心のレベル
二、愚童持斎住心 煩悩にブレーキをかけ、業欲を抑え他に施そうとする道徳心のレベル
三、嬰童無畏住心 煩悩を超えた、清らかな宗教心のレベル
四、唯蘊無我住心 煩悩と格闘した釈尊と声聞(小乗アビダルマ)のレベル
五、抜業因種住心 独りで煩悩と闘い、サトリをめざす縁覚(小乗)のレベル
六、他縁大乗住心 煩悩を断つ「空」の深層心理学(大乗の唯識)のレベル
七、覚心不生住心 煩悩を断つ「空」の論理学(大乗の中観)のレベル
八、一道無為住心 煩悩に染まる凡夫に「仏性」を見る(大乗の天台)のレベル
九、極無自性住心 煩悩もなく広大無辺な真理の世界(大乗の華厳)のレベル
十、秘密荘厳住心 煩悩を菩提に転化する深秘の方法(密教の真言)のレベル
空海は、仏教思想史の最終段階である「密教」の正嫡(第八祖)であった。
空海は、その立場から一身に仏教思想史の本流を背負っていた。
空海は、仏教思想史の本流をこの日本にもたらした。
空海の「密教」は、仏教思想史の総合学であり他宗兼学の総合学習を方法とした。
空海の「密教」は、世俗に生きることとサトリの世界に生きることを一如に総合した。
空海の主著『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』は、まさにその象徴で、「十住心」(人間の心の十段階)を説きながら実は仏教思想史をきちんとトレースした仏教総合学であった。
この本は、その「十住心」が問うた諸問題について「空海が今この世にいたら何と言うか」、そうした視座を加えながら、改めて「十住心」にかかわる諸問題を問うたものである。
そのなかで、釈尊にはじまる仏教思想史や、インド・中国・日本の宗教・信仰や道徳思想や、日本の仏教の諸問題にできるだけはば広く目を凝らし、さらには、仏教書としては異例ながら、「十住心」にふれてくる現実社会の諸問題にも、日本の伝統文化を保守する立場から世事法談として言及した。私たち真言僧は常々、永い歴史のなかで淘汰されてきた日本の伝統としての宗教習俗や信仰や社会倫理や道徳律を守り伝える保守の現場にいるからである。
近年、空海の総合学の「知恵」と「方法」に学ぶ人が多くなった。
多様な価値観や情報が錯綜する現代、とりわけ玉石混淆の多彩な価値観や情報がネット上を高速に飛び交う時代、人にはそれらを総合化し独自に編集して新たな価値観や情報を創り出す能力が求められる。すなわち博学多識の能力と情報編集能力と想像力と直観力と創造力などである。時代は「知」の総合の時代、「一」に固執した「択一」的なアナログ思考では通用しない時代になった。多様のコラボレーションとシナジーの時代である。
こうした時代に、本書が空海の密教を学ぼうとしている好学の士の手引きとなり、あるいは真言宗の次代を担う僧侶の皆さんの道しるべになれるなら、望外の幸せである。
なお、本書は学術書ではないので引用文献や参考図書の「註」などによる紹介はしていない。また、本文中に自著・寄稿などの文に手を加えて用いたところがある。予め付記しておきたい。
はじめに
『十住心論』は、真言宗の要諦を明かす書でありながら、釈尊にはじまる仏教思想史を総合編集した書でもあり、仏教思想の基礎的な要語や概念を理解していないと読んでもわからない。例えば、「我」・「無我」、「凡夫(ぼんぶ)」・「衆生(しゅじょう)」、「六道(ろくどう)」・「三界(さんがい)」などの知識が必須である。空海はそれを、第三住心の「嬰童無畏住心(ようどうむいじゅうしん)」で詳しく述べるが、初学の人のために予備の知識としてここに略説しておくことにする。
然るに、仏教は一言で言うと人間の自我・我執、すなわち人間が生きる上で生じる本能的な生存欲(食欲・性欲・所有欲などの我欲)をどう制御(密教では昇華・浄化)し、人間が瞬時瞬時に五感で感じ心でとらえる時間的空間的な存在や事象や精神世界すべてにどう執著しないか、つまり人間の心のなかに本能的に潜む「我」の意識(「人我(にんが)」)を自制し、すべての存在や事象をそう在らしめている時間的・空間的な「我」(「法我(ほうが)」)を、否定する「無我」の思想である。これは釈尊の修行とサトリの内容がそうであり、それは当時のインドのバラモン教や森林の修行者・思弁家・論師の立場(「三十種外道(さんじゅっしゅげどう)」)がみな「我」論だったことに対治するものだった。
仏教では、「我」に執著する心のレベルの者を「凡夫」とか「衆生」と言う。「凡夫」・「衆生」とは、私たち人間が五感でさまざまな存在や事象を感受し、それを判別認識し、思考し概念化し、感情や知識に訴え、時に行動する、その日常的な心のレベルを言う。この「凡夫」・「衆生」がさまようのが「六道」輪廻の世界。世界といっても物質的な空間ではなく、これも心のレベルである。ただし、人間はまるまる「凡夫」・「衆生」ではない。人間には心の在り様によって仏道修行者のレベル、すなわち声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)のレベルもありうるからである。
「六道」(「六趣」)とは、周知のように、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の世界。これをまた地獄界~天界と言ったりもする。人間は常に(生きる上で)「我」にとらわれるため、その報い(「因果応報」)として「六道」をさまよい、そこから離脱(「解脱」)することができない、とする。この輪廻の思想が仏教思想の根底にある。
「六道」のうち、地獄・餓鬼・畜生を「三悪道(さんあくどう)」・「三悪趣(さんあくしゅ)」・「三途(さんづ)」と言い、修羅・人間・天を「三善道(さんぜんどう)」・「三善趣(さんぜんしゅ)」と言う。地獄・餓鬼・畜生・修羅を「四悪趣(しあくしゅ)」とも言う。
「十住心」では、第一段階の「異生羝羊住心(いしょうていようじゅうしん)」が「三悪趣」にあたることを述べ、修羅を除いた「五道(「五趣」)」を説く。
具体的には、
地獄は、生前の悪業の報いで、死後、閻魔大王をはじめとする十王に裁かれ、最重罪のものが堕とされる世界。「八大地獄」(「八熱地獄」)のほかにそれに付随して「八寒地獄」があるが、詳細は後述する。
餓鬼は、生前の物惜しみと貪りの報いで、死後、髪は茫々と伸び、針のようにやせ細り、腹だけが大きくふくらみ、口から火を噴いて食べる物がみな口に入らず炭になる、そういう姿の餓鬼となってずっと飢えと渇きにさいなまれる世界。
畜生は、食べるか寝るか、人に従ってペットになるか働くか、発情期がくればオスがメスを追いかけ交尾する、そうした本能のままにしか生きられない畜生の世界。
修羅は、修羅場というように、争いごと・勝負ごと・テロ・戦争のように、互いが敵対してやったりやられたり、怒りと憎しみと傷つけ合いと殺し合いの世界。
人間は、私たち人間のレベル。我執にとらわれ、四苦・八苦に悩む苦の娑婆。しかし、心に本有(ほんぬ)の菩提心が宿っていることを自覚し、発心・修行して「六道」輪廻から脱し、サトリの智慧に至る可能性をもつ。
天は、天上界の天人の世界。「六道」輪廻では最上のレベル。人間のような我欲・我執もなく、瞑想や善行に励むのだが、瞑想や善行においてなお執著や感情が生じ、サトリや解脱には至らない世界。
「三界」とは、「六道」を含め、別な観点から見た人間の心のレベルで、「欲界(よっかい)」・「色界(しっかい)」・「無色界(むしっかい)」を言う。
まず「欲界」は、人間が五感から生じる五欲におぼれる世界。「六道」の地獄・餓鬼・畜生・人間のうちの「器界」と天の一部の「六欲天(ろくよくてん)」が含まれる。
「器界」とは、「須弥山(しゅみせん)」世界の「四大洲(しだいしゅう)」(第一章に後述)。
「六欲天」とは、天でもまだ五欲にとらわれている世界で、天のうちの最下層。「四大王衆天(しだいおうしゅてん)」・「忉利天(とうりてん)」・「夜摩天(やまてん)」・「兜率天」・「化楽天(けらくてん)」・「他化自在天(たげじざいてん)」がある。
○「四大王衆天」は、「須弥山」の中腹にあり、仏法守護の四天王がいる天。
○「忉利天」は、「須弥山」の頂にあり、仏法守護の帝釈天がいる天。
○「夜摩天」は、「忉利天」の上にあって、昼夜を分かたず光明を放ち時によって五感の快楽が生じる天。
○「兜率天」は、「夜摩天」の上にあって内外の二院があり、内院では弥勒菩薩が説法を行い、外院は弥勒に随伴する天人たちの遊楽の場。五感の楽しみによって喜びが心に充ちる天。
○「化楽天」は、「兜率天」の上にあって、自分の五感の楽しみを変化させて楽しむ天。
○「他化自在天」は、「化楽天」の上にあって、他人の楽しみに応じて自分の楽しみを変えることが自在な天。
次いで「色界」は、人間の五欲はなくなり、事物への執著や感情が残っている天人の世界。その事物への執著や感情も、善行や禅定によって次第になくなる境地。その境地に、「初禅天」・「二禅天」・「三禅天」・「四禅天」の四天がある。
○「初禅天」は、
▽「梵衆天(ぼんしゅてん)」:梵天(ヒンドゥーの神ブラフマー)に随う伴衆たちの天。
▽「梵輔天(ぼんほてん)」:梵天を守る護衛の天。
▽「大梵天(だいぼんてん)」:梵天のいる天。
の三天。
この「初禅天」において天人は五欲を克服し、不善の法から離れ、心を集中して瞑想を行うが、意識がある対象におぼろげに結びついたり(「尋(じん)」)、それをあれこれと思惟したり(「伺(し)」)して心が乱れることがある。しかし、五欲や不善の法を離れることから心に喜び(「喜(き)」)が湧いたり心身の安楽(「楽(らく)」)を感じることができる。
○「二禅天」は、
▽「少光天(しょうこうてん)」:この天に生ずると身体から少量の光明が発する天。
▽「無量光天(むりょうこうてん)」:この天に生ずると身体から無量の光明が発する天。
▽「光音天(こうおんてん)」:声の代りに口から光を発する天。
の三天。
この「二禅天」において、コトバや「尋」・「伺」の雑念がなくなって心の集中が進み、我苦を観ずることもなくなり「喜」と「楽」を感受することができる。
○「三禅天」は、
▽「少浄天(しょうじょうてん)」:楽しい感覚とその清浄感を少し感受する天。
▽「無量浄天(むりょうじょうてん)」:楽しい感覚とその清浄感を無量に感受する天。
▽「遍浄天(へんじょうてん)」:楽しい感覚とその清浄感があまねく充満する天。
の三天。
この「三禅天」では、「二禅天」で感受した「喜」は感じなくなり、「喜」を遠離することを感受することができる。それによって、瞑想の対象の正しい直観(「正念(しょうねん)」)と、それに基づいて、あるがままの正確な認知(「正知(しょうち)」)の境地にいることが多くなり、身体が「楽」になる。
○「四禅天」は、
▽「無雲天(むうんてん)」:下位の「遍浄天」などに雲集しているような天人がいない天。
▽「福生天(ふくしょうてん)」:凡夫でも福徳のある者が生ずる天。
▽「広果天(こうかてん)」:凡夫が生ずることができる最高の天。
▽「無想天(むそうてん)」:心のはたらきがない無念無想の天。
▽「五浄居天(ごじょうこてん)」:以下の五天。
▼「無煩天(むぼんてん)」:心が集中した瞑想で、身心を煩わせるものがない天。
▼「無熱天(むねつてん)」:煩悩の熱がなく心が乱れない天。
▼「善現天(ぜんげんてん)」:善行の成果が現れる天。
▼「善見天(ぜんけんてん)」:煩わせるものがなく、十方を自在に見ることができる天。
▼「色究竟天(しきくぎょうてん)」:我欲がなくなり事物や感情への執著だけになった色界において、心が不動となった瞑想の極みの境地。大自在天(ヒンドゥーのシヴァ神)がいる天。
以上の九天。
この「四禅天」では、「尋」・「伺」もなく、「三禅天」の「楽」もなくなり、心の集中は不動となり(「不動定(ふどうじょう)」)、「捨(しゃ)」と「正念」だけとなり呼吸も微弱になって入息・出息を感じなくなる。苦もなく楽もない境地。
最後に「無色界」とは、「欲界」・「色界」の執著から離れ、瞑想の微弱な心のはたらきだけの世界。「空無辺処(くうむへんじょ)」・「識無辺処(しきむへんじょ)」・「無所有処(むしょうじょ)」・「非想非非想処(ひそうひひそうじょ)」の四天がある。
○「空無辺処」は、事物への執著がなく、物質的空間の感覚もなく、作為も一切なく、無限に広大な虚空を観じる境地。
○「識無辺処」は、外なる広大な虚空がなく、内なる認識作用(「識(しき)」)が過去・現在・未来の三世にわたって広大無辺であることを観じる境地。
○「無所有処」は、外の虚空も内の「識」もなくなり何も存在するものがないと観じる境地。
○「非想非非想処」は、「無所有処」を越え、意識がわずかにはたらいている境地。想い浮かべるものもなく、想い浮かべるものがないでもない、無念無想の境地。インドでは森林の行者・仙人がこの心のレベルをもって禅定の最高レベルとした。