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東北復興に見える新たな差別 永年「負の歴史」を背負ってきた東北に終止符を

 未曾有の大震災で被災した東北の人たちが、取り乱すこともなく、騒動もなく、冷静沈着に、我慢強く、秩序を保ち、そして励まし合い、譲り合い、助け合い、悲しみに耐えてがんばっている姿に、海外のメディアから賞賛の声があがった。
 その被災者の姿に、宮本常一が言った「忘れられた日本人」を思い出したのか、傷を負った「母なる国」ニッポンが見えたのか、あるいは被災地の「ただならなさ」に心をゆさぶられたのか、皆が久しぶりに連帯感をおぼえ、年末京都清水寺の管長をして一文字「絆」を書かせた。ややもすれば自分勝手な個人主義に走り、地方の町でさえ隣人互助の意識が薄くなった日本人に、いざとなれば皆が連帯していたわり合う共同体意識がまだ残っていたのだ、この国も捨てたものではない、とうれしくもなった。

 しかし時が経って1年後の今、義援金は激減し、「がんばろう東北」フィーバーは冷め、「絆」どころか東北へのいたわりや支援は影をひそめ、あろうことか「東北=放射能」の(過剰不安のなせる風評被害や)いわれなき差別が起きている。
 余震も大幅に減り、空間放射線量も一部を除いておおむね通常のレベルになり、鉄道や道路も被災地以外は復旧したというのに、観光客は元に戻らず、観光地のホテル・旅館・物産店・食堂ほか関連業者は四苦八苦。一部は休業や廃業に追い込まれた。今の時期に物見遊山で東北に入るのは東北の人に失礼ではないか、という上等な遠慮ではない。まるで東北全体が放射能汚染地域であるかのような、気分的で言いがかり的な東北忌避である。

 福島県は依然放射能汚染と風評被害にさらされていて、県産の農産品は安全なものまで不買差別を受け、スキー場に人影はなく、福島の故に縁談を断られたり、避難先(他県)の学校では福島からきたというだけで避けられいじめに遭う児童すらいる。
 宮城・岩手のガレキを受け入れる自治体はなかなか現われず、受け入れ先として名前の挙った自治体では反対の声があがるなど、まるで普天間基地の移転にどこの自治体も手を挙げないでいる差別構図と同じである。

 放射能に汚染されていない災害廃棄物ぐらい、処理可能な施設をもつ自治体は率先して受け入れたらどうか。被災地の復興はガレキの処理から始まるのだ。ガレキを受入れないのは畢竟「東北は復興しなくてもいい」と言っているに等しく、放射能汚染を疑う住民の理解が得られないという理屈は、災害廃棄物の安全性確認と説明の努力不足を棚に上げ、受入れ賛成の民意には背を向け、反対住民に便乗して自ら放射能の風評被害を煽ぐことになり、つまりは「放射能被害は東北だけが受け持て」と言っているのと同じだ。
 こうした新たな差別をつくり、傷ついた東北に受けた傷以上の痛手をさらに背負わせ、何が「絆」か。あれほど言っていた「がんばろう東北」は口だけで、本音は「保身差別」なのだ。自分さえよければいい保身エゴに溺れる人は、海外メディアが称賛した東北の人たちから何を学んだのか。豊かな野も山も清流も放射能で汚され、いわれなき風評被害に今なお悩む準被災地から、そう言いたくなる。
 それでも東北はへこたれない。強くて前向きである。たしかに日本人の多くは災害の際に取り乱さないし、我慢もするし助け合いもする。しかし東北の被災者はその日本人の善良な気質をはるかに越えている。すべてをあるいは多くのものを失った喪失感やいわれなき差別のなかで、悲痛でありながら絶望もせず前向きである。いったい、このへこたれない強さは何か。
 察するに、厳しい気候風土、豊かでなかった生活、永年背負ってきた「負の歴史」等から学び身につけた忍耐、クラッシュからの再生、いざという時に連帯して助け合う地縁・血縁の共同体、そうした自衛の知恵というか危機対応力が具わっているのではないか。

 東日本大震災復興構想会議の委員を務める、作家で臨済宗福聚寺住職(福島県三春町)の玄侑宗久師は言う。
 「今回、被災した人々の状況がさまざまに報道され、国内だけでなく国際的にも大いに称讃されたことを、我々は肝に銘じなくてはならない。世界が称讃したのは、東北人が農民や漁民として培い、今なお保ってきた忍従の徳、あるいは天災を従容と受けとめる謙虚だが力強い姿ではなかっただろうか。
 この国の主流が、経済原理に基づく競争原理で都市を形成しているとすれば、東北にはまだ別な世界が色濃く残っている。「絆」とか「共生」などと敢えて呼ぶまでもなく、協働の思想が彼らのなかには当然のこととして今なお息づいているのである」と。
 さらにまた、「東北は、常に体制から遅れ、体制を陰で支え、また時には体制から攻められるものとしてあった。ヤマトタケルや坂上田村麿の蝦夷征伐に象徴されるように、東北人はいつも主流を脅かす異端として存在してきた。同時に東北は、広く縄文文化の土壌であり、狩猟採集という、自然と共に生きる暮らしを脈々と受け継いできた。縄文時代には人間同士の殺し合いが一件も見つかっていないが、そのこともこの地方の文明の基本的性格を物語るものだろう」
と言っている。
 思えば東北は、永く「負の歴史」を背負ってきた。時の政権によく攻められ服属・同化(五戦五敗)させられてきた。
 「負の歴史」は、古代ヤマトタケル(日本武尊)による日高見国(ひたかみこく、蝦夷の地、東方の辺境、実際には陸奥国)の蝦夷平定にまでさかのぼる。以来ずっと、蝦夷と「中央」政権は、反乱と鎮圧・懐柔・服属をくり返し、鎮圧のたびに蝦夷の民は畿内周辺や西日本に封じられ、「中央」への同化を強制させられた。

 弘法大師空海の出自である讃岐の佐伯氏は、やはり朝廷に服属した蝦夷の民で讃岐に封じられた一族だといわれているが、おそらくヤマトタケルによって伊勢神宮に献じられた蝦夷の俘囚のうち、翌年讃岐などに移された佐伯部ではないかと思われる。しかし空海の父善通は在地の豪族の佐伯直を名乗っていたことから、空海が生れた頃には讃岐の佐伯氏は俘囚の身を脱し、讃岐の佐伯部を管掌する身分だったとみられる。

 ちょうどその空海が、唐に渡ろうという時代、道奥(みちのく=辺境・異境=陸奥)では、「まつろわぬ民(=朝廷に服属しない民=蝦夷)」の反乱が起こっていた。首領は胆沢(いさわ、今の奥州市)の豪族だったアテルイで、その軍勢を、征夷大将軍坂上田村麻呂が延暦21年(802)に攻略し、胆沢城を築いた。しかし、みちのく蝦夷の反乱はこれで収まったわけではなく、弘仁2年(811)、文室綿麻呂が事態を平定するまで、朝廷と蝦夷の紛争は続いた。

 さらに、前九年の役(天喜4年(1056)~康平6年(1063))と後三年の役(永保3年(1083)~寛治元年(1087))を経て、陸中平泉を本拠とし奥州を支配した藤原氏は、清衡・基衡・秀衡・泰衡の四代が、百年にわたって独自の政権を維持し文化の華を咲かせた。とくに仏教文化はめざましく、長治2年(1105)、平泉に最初院(後の中尊寺)を建立し、永久5年(1117)に毛越寺を再興して壮大な伽藍と庭園を造営した。天治2年(1124)には中尊寺の金色堂も建立された。堂内には阿弥陀三尊が祀られ、宇治の平等院と並んでわが国屈指の浄土様式建築となった。
 しかし、この独自の政権もやがて「中央」政権との軋轢に巻き込まれ、関東(鎌倉)の背後に独自の政権があるのを恐れた源頼朝によって滅ぼされる。やはり、みちのくは「中央」から見て服属させるものであった。

 余談ながら、奥州藤原氏はもともと、「中央」藤原氏の末流であり、俘囚の長頭(トップ)といわれ、初代の清衡の出自清原氏も出羽国の俘囚長であった。
 さらに、明治新政府が、戊辰・会津両戦争に敗れた会津藩に下した挙藩流罪は過酷だった。旧会津藩士とその家族1万7千人は虜囚となり、下北半島は斗南の不毛原野に追いやられた。入植した藩士たちの生活は困窮を極め、開墾は進まず、干物にした海草や木の実を食べて飢えをしのぎ、老いた犬の肉まで口にしたという。

 斗南藩の権大参事をつとめた山川浩は、
   みちのくの 斗南いかにと 人問わば
     神代のままの 国と答えよ

と言い残した。
 薩長を中心として西日本から東上してきた官軍は、みちのくの会津藩には容赦がなかった。維新の志士を徹底弾圧した会津藩への怨念や報復だけではなかったろう。
 厳しい気候は近代になっても東北にたびたび凶作をもたらした。「やませ」による冷害である。昭和5年~9年に発生した昭和東北大飢饉は、餓死者を多く出したばかりでなく、米がとれなかった農家では稗(ひえ)や粟やキビなどで飢えをしのぎ、それでもなお食べられない時は、口減らしのために男児を丁稚奉公に女児を女中奉公に出し、年頃の娘を身売りし、赤子を川に流して間引きもした。この東北の窮状は、それを見かねた石原莞爾ほか東北出の軍人を動かし、(戦争特需をもくろんだのか)満州事変につながったといわれる。時代は少し前だが、石川啄木は、

  はたらけど はたらけど
    わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

と詠み、テレビドラマになった「おしん」も明治期の東北農民の貧しさと悲しさを今に伝えた。

 私たちの世代(戦中生れ)ならおそらく、中学時代の友のなかに中卒で東京(の個人経営の商店など)に住込み就職した人がいたことをおぼえているであろう。東北ではそれが集団就職であったし、井沢八郎の「あヽ上野駅」だった。東北の十五の春は、安い賃金で文句も言わず長時間働く労働力を、大挙して首都圏に供給する春でもあった。
 この時代、集団就職者のための「若い根っこの会」ができ、「根っこの家」を中心に親睦・激励・支援等の活動を行った。なかでも東北出身者のつながりは強く、辛い者同士の励ましの場になった。ふるさと東北にもあったであろう「結(ゆい)」(農作業の互助)や「講」(伝統文化や祭り事の実施)や「組」(隣人や同業者の互助)といった一種の共同体を思わせるものだった。

 さらに高度経済成長期になると、雪の季節、東北の働き手の男たちはこぞって首都圏の建設現場に出稼ぎに出て季節雇いの労務にはげみ、日雇い並みの賃金を大事に貯めては家族に仕送りをした。家に残ったジイちゃん・バアちゃん・カアちゃんの「三ちゃん」は、働き手が出稼ぎから帰るまで田畑の世話をし農作業をうけもった。これが「三ちゃん農業」といわれたものである。
 父親が出稼ぎに出た家の中学校1年生の子が綴った文に、「もう荷物はなかった。たばこくさいにおいもなかった。・・・母の顔もゆがんでみえた。涙のでるのをこらえてねどこにはいった」とある。
 出稼ぎはやがて常態化・長期化し、働き手は1年に一度2年に一度、お正月などに帰省するだけになった。「涙のでるのをこらえてねどこにはいった」次世代も都会での稼ぎや暮しのよさを敏感に感じ取り、高校を出ると東京の大学や職場をめざすようになった。こうして東北の農業は高齢化・空洞化し、人口は過疎化に拍車をかけることになったのである。
 大震災後、独自の「東北学」の立場からその発言が注目されている赤坂憲雄氏(民俗学者・学習院大学教授・東日本大震災復興構想会議委員・福島県立博物館長)が共著『東北再生』のなかで、
 「この大震災によって、白河以北/以南のあいだに太い線引きがなされ、東北はあらためて辺境=みちのく(道の奥)として再発見されたのかもしれない。千数百年前のヤマト王権による「蝦夷征討」以来、東北は辺境=みちのくとしての負の歴史を背負わされてきた。近代のはじまりの戊辰戦争においても、奥羽越列藩同盟を結んで戦い、敗北した。
 東北はそうして、敗者の精神史に縛られ喘いできた。敗戦にいたるまで、東北における国家的な開発プロジェクトはたったひとつ、明治10年代の野蒜築港であり、それは台風の高潮によって挫折を強いられた。しばしば自嘲のごとくに、戦前の東北は、東京への貢ぎ物として「男は兵隊、女は女郎、百姓は米」を差し出してきた、と語られる。そんな東北はもはや過去のものだ、東北は十分に豊かになった、と感じ始めていた。錯覚であった、大震災がそれをむき出しにした。
 戦後の東北は、電気と部品と食料を東京への貢ぎ物としていたのである。東北の豊かさは、なんと危うい構造のうえに築かれているのか。東京に電気を送るための原発を受け入れるのと引き換えに、福島県の相双地方には、わずかな物質的豊かさが与えられた。そこはかつて、「浜通りのチベット」と言われていたらしい。やはり原発を受け入れてきた青森県の下北半島と、構造は瓜二つといっていい」
と訴えている。

 また、先程の玄侑宗久師は復興構想会議で、
 「漁民が恵比寿神を祭るなら農民も稲荷神を祭る。特に漁村などでは正月14日までに葬儀をすると神さまの機嫌を損ない、船の安全が脅かされるとさえ考える。いわば彼らの独特の信心が、経済原理や効率主義に従わせないのである。
 彼らの心根が、そのような信仰、つまり自然に対する畏敬の念によって形成されたのは明らかだろう。また農業の「結い」や漁業の引き網における協力を持ちだすまでもなく、彼らにおいて人との繋がりは当然のことなのである。
 そこから導かれる復興構想の基本理念は、東北人に色濃く残っている「自然への畏敬」、および共同体の尊重だろうと思う。自然は、畏れ宥めるものであって、敵対し、戦って勝とうという相手ではない。また人間は、同じ畏れの元で助け合い、和合しつつ暮らす存在である。むろんこれは、日本人すべてに本来は当て嵌まるはずなのだが、残念ながら無意識なほどに西欧化し、効率化した現代日本にはむしろ稀な考え方になってしまった」
と提言している。

 『東北再生』の共著者山内明美氏は言う。「ここは、地獄絵図のような生き死にの紡がれた歴史のなかで、くり返し死の淵から再生をとげてきた場所だからだ。「東北」はきっと再生する」と。
 このたびの大震災はあろうことか、永年「負の歴史」を背負ってきた東北にまたもや大きな試練を与えた。願わくば、この試練が歴史の転換点となり、「中央」服属の「負の歴史」に終止符が打たれることと、東北が自然への畏敬を忘れることなく、その気候・風土・伝統・文化に根ざした独自の産業・経済を発展させる「イーハトーブ」(宮沢賢治)を実現するよう願ってやまない。

 私たち(僧侶)は、東北復興について至って微力であるが、常に瞑目して殉難者や被災・避難の人たちの悔しさ・悲しさに寄り添い、それを「代受」する地蔵菩薩の三昧に励みながら、もし口を開くなら、口先の「がんばろう」とか「絆」ではなく(それが建前だということを東北の人はすでに見透かしている)、東北の人たちが思い出させてくれた「忘れられた日本人」(宮本常一)や、かすかに見えた「母なる国」日本や、先人たちがそこに神々を見て敬った穢れなき山や川や野や海を、21世紀に生きる私たちが科学を妄信し放射能で汚してしまった罪と業の深さを言い、それを語り継いでいきたい。

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