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『空海の夢』ノート 6

●12--長安の人

 ここでの主題は、空海が二十年の留学年限をやぶり、たった二年足らずで長安を去ることにした決断のことだと言う。その結論らしきものを探してみると、次の文に突き当たる。

 般若三蔵については、彼が日本に渡ろうとしていたという話もある。
 その熱情がおそらくは空海を動かした。
 なぜ、インドからはるばる唐に来て二十余年を布教翻訳に努めた賢人が日本などにおもむこうとするのか、と空海はおもっただろう。
 そしてしばらくしてその本意を見抜いたにちがいない。もはや唐土には真の仏教が実る可能性が少ないのではないか。
 般若三蔵ほどの僧が親しみ慣れた唐土を去る決意をしているのなら、自分が留学生として二十年をこの国に送ることはまったくの無駄ではないか。

 しかしどこで切り上げるか、何を成果とするか、

 般若三蔵が空海にもたらしたもうひとつの巨きな影響は語学力、もうすこし正確にいえばその自在な言語力であった。
 空海はサンスクリットを学びつつ、この醴泉寺にたたずむ老僧の世界言語観念ともいうべきもののすさまじさに大いに共感したのではなかったか。そしてまた般若三蔵の原語漢語をとりまぜた訳出感覚の新しさにも舌を巻いたのだとおもわれる。

 ふつうの空海伝では、長安で師となる恵果和尚と出会い、「汝を待つこと久し」と言われ、千人を超える弟子を越してたった半年で金胎両部の密法を伝授され、「東国にこの法を弘めよ」と言われたことをもって留学年限をやぶっての帰国理由としている。
 しかし松岡さんはリアルにとらえた。空海の急きょ帰国の理由は、般若三蔵の日本渡航希望への感動と、彼のいない長安の日々のつまらなさの予感である。

 この章の結論のようなこの部分をはさんで、空海の長安の日々が綴られている。松岡さんはかなり詳細に書かれている。いかに唐の当時を調べられたかがわかる。史実的な記述をつまみ食いしてもはじまらないので、松岡さんの着眼の点を私なりに拾っておくことでお許し願いたい。

 空海は長安で西明寺に落ち着く。西明寺は奈良の大安寺(の道慈)がモデルとした大寺であった。
 長安は最後の爛熟期。海外からの文化の流入が頂点に達していた。
 当時の中国仏教は、各宗派ともピークに達していた。
 華厳は空海も関心を深くしていた。澄観と宗密の時代に入っていた。空海が長安に入る六年前、般若三蔵が『四十華厳』を訳出。
 密教は、不空の黄金時代が終わり、一行から恵果の時代。恵果が両部の密法を伝えた義明が亡くなり、義明の代りを探していた。
 動乱期らしく呪法が流行していた。道教の崇拝、老荘思想の研究、密教の密呪、道仏を問わぬ呪法の隆盛。
 仏教全般では、行香・読経・梵唄・斎会が流行。こののち、経師・唱導師・化俗法師、さらに遊化僧・遊行僧などの民衆教化も盛んになる。
 ゾロアスター教、マニ教、キリスト教(ネストリウス派)・イスラム教も行われていた。
 唐語の会話ほか、サンスクリット、声明、梵字の学習機会に恵まれた。
 筆づくり、書、詩文を楽しむ機会にも恵まれた。

 松岡さんは、般若三蔵にフォーカスしながら、さらにその般若三蔵も漢訳した「華厳」とのかかわりから目を離さない。

 空海はその博覧の般若三蔵に師事した。当然に新訳華厳の一部始終に目を通すか、その奥義を口頭で聞かされたにちがいない。時を経ずして恵果の両部の純密に参入する直前の空海が、こうした「華厳体験」をしていたことは見逃せない符牒であろう。

 そこで、師となる恵果との出会い。空海は貪欲に青龍寺の恵果をたずね、両部密教の研鑽にあけくれる。そして密法受法、金胎両部の潅頂を受ける。
 (目的をはたして帰国を決意し)空海は急ぎ密教経典や儀軌の書写、マンダラ・仏画・密教法具の製作に時間を費やす。

 帰途、越州に約五ヶ月滞在。龍興寺の「順暁」(最澄に断片的な密教を教えた密教僧)に逢う。すでに最澄が密教を持ち帰ったことにショックを受けたにちがいない。また華厳の「神秀」にも逢っている。この神秀から華厳の法蔵の著書をもらう。のちの華厳重視につながっているのではないか。

 長安での奇跡的幸運をおみやげに空海は帰国する。長安の日々については、別途『空海の風景』(司馬遼太郎)や『曼陀羅の人』(陳舜臣)をお読みいただくのも一考である。



●13--初転法輪へ

 帰国した空海は時間をかけて待つ。何を待ったのか。そして待ちながら何をしていたのか。この章はそのことを追う。

 空海が高階真人遠成に託して朝廷に出した『請来目録』には、長安での異例の成果が満載されていた。朝廷の反応はどうだったか(結局、奈良東大寺の僧綱所ではその価値がわからず、最澄の目に触れることになる)。そこを通じて空海は新都の動向や時代の動向をリサーチした。

 朝廷の混乱。桓武天皇の衰弱死。早良親王の乙訓寺への幽閉排斥と怨霊恐怖。平城天皇。薬子の乱。洪水、疫病。伊予親王(桓武の皇子、その侍講が阿刀大足)の幽閉と自害。
 仏教界の変換期。遷都による南都六宗の疲弊。最澄の天台新仏教(密教も含む活動)の台頭と奈良への波及(高雄山寺での潅頂、遮那業の認可)。

 大宰府の観世音寺に約一年、静観と待機。その間、次官・田中小弐の母の法事に千手観音を別格に置いた十三尊曼陀羅をつくる。帰国後はじめての密法活動。都では『請来目録』に記された密教の典籍・文物リストを見た最澄が狼狽する。

 和泉の槇尾山寺(大安寺の勤操が管理)に移動。国司の指令、伊予親王事件から逃れた阿刀大足や勤操らが介在。ここに滞留すること二年、何をしていたか。
 香気寺(現在、高貴寺)で思索。有名な七言絶句。「閑林に独坐す 草堂の暁 三宝の声 一鳥に聞く 一鳥声あり人心あり 声心雲水 倶に了了」

 この槇尾山寺での空海を松岡さんは次のように表現している。

 ほぼ入手しおえた全素材を前にしてじっくりとその蒸留の時を味わう日々であった。「密」とは何か、その一点を考え抜く時期であった。これまでの密教はあれこれの仏教流派のひとつでしかなかった。しかし、槇尾山寺の空海が考えていた「密」はすべてを包含しうるものでなければならなかった。

 この槇尾山寺で、空海はさまざまな人の訪問を受けたにちがいない。かつて大安寺で交わった旧友も東大寺の役僧も急な山道を登ってきたであろう。最澄の天台新仏教への対抗を訴えにきたとしてもおかしくはない。密かに密教の教示を願い出る南都の僧がいたとしても不思議ではない。

 法相の「徳一」はどうだったか。この時代の仏教界の動向をさぐるのにこの南都の学僧を見逃すのは不備の謗りを受ける。当時の奈良仏教を代表する空海より二十五才先輩のこの学僧に、入唐以前に奈良の諸寺を渉猟していた空海が三論や法相や華厳の何かを教えてもらっていたかもしれないのだ。なぜなら、「徳一」は最澄の天台には真っ向から論争(三一権実の論争)を挑み、六年間一歩も引かなかったが、空海には一貫して好意的だったらしい。空海も、「徳一」から『真言宗未決文』を示されたが、直接反論をするようなことはしなかったという。
 どこかで気脈を通じていたらしいことは、空海四十二才の時に会津磐梯の恵日寺にいた「徳一」に宛てた手紙でわかる。
  聞くならく、徳一菩薩は戒珠玉の如く智海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫を振って東に往く。初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重。

 「徳一」は、藤原家の血統をもつ貴族で興福寺で学んだ。のちに共に東大寺の僧正になる良弁と当時の奈良仏教を背負っていた。空海は、興福寺の南円堂を日本最初の密教立て設計で建立し、東大寺別当にも任じられた。「徳一」の関係する会津から常陸にわたる寺院は、ほとんど空海の開基・「徳一」の初代という記録があるとも聞く。二人の並々ならぬ関係をそこに見ない方が変だ。
 空海の待機の中に、「徳一」との情報交換、とくに長安で空海に親切だった般若三蔵によって訳出されたばかりの『四十華厳』の情報など、華厳思想の解釈交換があったとしてもおかしくはない。



●14--アルス・マグナ

 前章で、曖昧ながら、槇尾山寺で空海の頭の中に構想されつつあったものを「これまでの仏教を包含するもの」と言っていた松岡さんは、この章で空海そのものになったように松岡流密教構想を開陳する。それを称して「アルス・マグナ」、「直感」と「方法」を駆使して編集された「大いなる方法」である。

 章の前半は、「直感をもたらす情報系の介在」についてである。

 まず、ヒトの脳の情報保存のおおざっぱさ。
「ヒトが生物史に内在して継承してきた」第一情報系。ついで「われわれに入ってくる第二次的な」情報系。ヒトの脳の情報保存のおおざっぱさからして、これは「そのままではあまり役に立たない」。そこで情報の「ゆらぎやゆさぶり」が必要性。これによって第二次的な情報系が蘇生し、第三次的なノン・ローカルな序列のなかに位置づけられはじまる。「しだいに自己組織化をはたすプロセスになる」。「これがふだんは認識世界だとか思考世界だとかとおもいこまれている当の正体」。

 「直感」とは、「ある別の第三次的な情報系に属しているシンボルがふいに介入したときに生ずる一種の断面図」。ある別の第三次的な情報系とは、「とくに本書では古代情報系を重視したい」「なによりもシンボルに富んでいるから」。

いずれにしても、その強烈なシンボル群(信号)が既定の情報組織を一瞬にして組み替えてしまうところ、そこに直感の出現があった。

 (テレビの番組が)一瞬ながらある必要な場面のぬきあわせによって新しい情報組織に変わってしまうようなものである。

 密教はそのぬきあわせをおこすことによって成立してきた宗教だった。
 ここではとりあえず直感が新しい場面集であったことを指摘するにとどめることにする。

 一方の「方法」。「直感が場面集」だとしたら「方法は回路群」。松岡さんが考えるエディトリアル。

 空海にとっては鄭玄や淡海三船や大伴家持の編集工学にヒントをえて、さらに般若三蔵や恵果からも示唆をえて、すでになかばの設計がおわっていたはずの回路群である。

 槇尾山寺での二年間、空海は「右脳に直感、左脳に方法」を動員して、「日本」というOSで動く独自の密教ソフトを創出しようとしていた。そのコンテンツを、松岡さん流にまとめたのが「空海のアルス・マグナ」である。

 

I 絶対の神秘--神仏の共鳴から

  1. 絶対者の設定
    1. 大日如来に始まる
    2. 法身による説法
    3. 即身成仏の可能性
  2. 諸神諸仏の統合
    1. よみがえるヒンドゥ神
    2. 如来と菩薩の蝟集
    3. 神仏習合の妙
  3. 意識の神秘主義
    1. 意識は進化する
    2. 顕教から密教に及ぶ
    3. 三密加持のバランス
  4. 流伝と付法
    1. ヨーガ・ルネッサンス
    2. タントリズムの系譜
    3. 真言八祖となる

II 象徴の提示--イメージのコミュニケーション

  1. 声字と言語
    1. 真言における霊性
    2. 呼吸宇宙観と声の現象学
    3. 阿字と吽字にきわまる
  2. 象徴的伝達性
    1. 大日経と金剛頂経の典拠力
    2. 果分可説の自信
    3. 経典に博物学を見る
  3. マンダラ・シンボリズム
    1. 金胎両部の海会
    2. 極大と極小の対同性
    3. 図像と場面による凱歌
  4. メタファーの自由
    1. 魅力的引用の駆使
    2. 偈と頌の創造性
    3. 連想と同定の冒険

III 儀礼の充実--華麗なるパフォーマンス

  1. 修行と戒律
    1. 山林密教の記憶
    2. 入山と結界の場所論
    3. 浄化のための階梯
  2. 事相と教相
    1. 伝授と講式の様式
    2. 得度と加行の絶対化
    3. 三昧耶戒から潅頂への順序
  3. 宇宙大の空間へ
    1. 密教的荘厳と声明の活用
    2. 十八道次第による道場の宇宙化
    3. 法会における真言神秘性の確保
  4. 生きている密呪
    1. 身体重視の瞑想観
    2. 神変加持祈祷の体系化
    3. 連続する印契

IV 統合と包摂--普遍世界を求めて

  1. 対の思想
    1. 三教指帰の出発点
    2. 陰陽二元性を応用する
    3. ホロニック・システム
  2. 華厳から密教へ
    1. 流砂の華厳と南海の密教
    2. ビルシャナの変更
    3. 重重帝網のネットワーク
  3. 十住心論の構想
    1. 法蔵と澄観に学ぶ
    2. 全仏教史の包摂を成就する
    3. 九顕十密と九顕一密
  4. 観念技術と方法論
    1. 鄭玄の方法論的活用
    2. 梵語・漢語・和語の相似律
    3. コトとモノの共振へ

V 活動の飛躍--アクティビティの深化

  1. 生命の海
    1. 生死の哲学を越える
    2. 「即身」の拡大
    3. 全生命史の上に立つ
  2. 仏法と王法の橋梁
    1. 不空と恵果に学ぶ
    2. 真言院の設定
    3. 密教ナショナリズムの超克
  3. 社会観と教育観の統合
    1. 社会事業への投企
    2. 宗教的教育機関の確立
    3. 遊行の可能性へ
  4. 文化の形成
    1. 芸術の肯定
    2. 宗教言語の一般普及
    3. 全対応主義の展開
 おそらく空海の構想には遠慮がなさすぎたのだとおもう。

 空海だけがとびぬけていた。

 空海が飛びぬけているのと同じように、松岡さんがここに示したヘッドラインは飛びぬけた空海「編集」だ。四十才でこれができることも飛びぬけている。この一覧を見て、私は松岡さんが並はずれた編集者であることと、空海に「入る」には、私が学んだ文献考証に埋没する中国学や仏教学ではだめだということがわかった。真言僧の空海知らず、の一因を痛感した。

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