論は、密教の「引き込み」から、空海の幼少そして空白の七年へ、『三教指帰』の仏教選択宣言へ。
空海こと真魚は、延暦十年、十八才で奈良の大学寮・明経科に入る。
当時の大学、正しくは大学寮には、学科がいくつかあった。明経科・文章科・明法科・算科などで、文章科は中国の詩文や歴史を学び、明法科は律令国家のしくみや法令を学び、算科は天文暦数を学ぶ。
真魚は明経科にすすんだ。明経科とはいわば行政科といったもので、朝廷をはじめ国の高級官僚を養成する大学寮では、この明経科がいわば基幹学科であった。明経科を勧めたのは阿刀大足であろう。それはまた父佐伯田公の希望でもあり、中央官僚として名をなした佐伯今毛人のような栄達を夢みる一族の期待でもあった。
大学での勉強は中国の経書の素読・暗誦である。
それは『周易』を鄭玄・王弼の『注』(注釈書)で、『尚書』『孝経』は孔安国・鄭玄の『注』で、『周礼』『儀礼』『礼記』『毛詩』は鄭玄の『注』で、『春秋左氏伝』は服虔・杜預の『注』で、『論語』は鄭玄と何晏の『注』で、研究するのではなく暗記するのである。『注』の一字一句をまちがうことなく暗誦できた者だけが高等官試験に合格する。
さらに唐語と音韻と書と詩文といった言語系の諸学を学んだに相違ない。松岡さんは、空海の声は低く深くよく響いただろうと言う。そのことがこの大学寮の頃には「内外の風気わずかに発すれば必ず響くを名づけて声という」風気言語哲学や声字実相にまで思想化されていたと思うのは早すぎるだろうか。
時代は平城京から長岡京へ。南都仏教の衰微と山林修行者の増加、そして比叡山の最澄の動向。
空海は、佐伯院に止宿しながらとなりの大安寺や歩いても一時間とかからない東大寺や興福寺に出入りしていたにちがいない。
大安寺は唐から帰った帰国僧や朝鮮半島からの渡来人・帰化人などが自由に出入りしていた国際文化交流のお寺だった。東大寺は総国分寺・僧綱所として国家仏教の中心機関であり、空海が関心をもつことになる華厳思想の中心寺院でもあった。興福寺には性相学のすぐれた学僧が多くいた。
空海は大安寺で勤操あるいは戒明から虚空蔵求聞持法のことを教えられたという。あるいは吉野比蘇寺の沙門という説もある。しかしほぼたしかなことは、この大安寺は当時の雑密やタオイズムもふくめ山林の修験情報から渡来の仏典や海外文化情報まで、さまざまな仏教情報が伝わってくる一大情報センターだったということである。
一方東大寺には膨大な仏教典籍や政治行政文化資料があって、空海は佐伯今毛人などのつてで割りと自由に出入りし必要に応じて閲覧できていたのではないか。のちの空海の華厳評価は単に南都仏教への政治的配慮の側面はあるとしても、この東大寺で『華厳経』についてかなり進んだ教授を受けていたのではないか。その恩義的人間関係が終生空海の頭を離れなかったとしても不思議ではない。興福寺も多分同様であっただろう。空海はのちに東大寺には「真言院」を建て、興福寺では南円堂の設計に当たっている。
松岡さんは、大学寮の頃からすでに空海は「山」を偵察していたと言う。
生駒から南に二上山・葛城山・金剛山。そこから奥に吉野・大峰・熊野。その奥に高野。そしてまた故郷四国の山々、洞窟。
そうした山中では、四書五経が役に立つはずもなく、虚空蔵求聞持法のようなダラニのもつコトダマの力だけが空海を守ったにちがいない。
空海二十四才、仏道選択の宣言書『三教指帰』を著す。思想劇を借りて、仮名乞児の真魚・空海が儒(教)と道(教)に反駁を加える。
●10--方法叙説
この章で、松岡さんは経学者「鄭玄」と思想編集者「淡海三船」を挙げて、空海の「集めて一つに大成する綜合力」、エディトリアルオーケストレーションの妙、編集構成力の先駆者として空海の前に置いた。
『三教指帰』編集の謎に迫る。
まず、中国の典籍の引用多用などの異能について。
大学受験の暗記体験だけで『三教指帰』が書けたともおもえない。
またいつまでも漢籍の一部始終を記憶しつづけているともおもえない。
「求聞持法」がずばり記憶術だとしても、はたして漢籍の記憶につかわれたかどうか。
イメージ・プロットの下敷きにしたといわれる法琳の『弁正論』や最も引用の多い『文選』、『芸文類聚』などこそ手元にあったとしても、そうそう全冊にとりこまれて綴ったとはおもえなくなってくる。
おそらくは、このレーゼ・ドラマは何度にもわたって集積され、改稿され、そのうえで総合的に構成されたのではないか。
「断片から総合へ」、また「一から多へ」という方針。
続いて、空海がどのようにして「集めて一つに大成する」方法を獲得したかということについて。
松岡さんは、『三教指帰』以前の空海に芽生えていたものを探す。しかし大学寮をはじめそのような術を教えられた人は身近にはいない。
そこで松岡さんは、「鄭玄」という中国経学書の註釈家(訓詁学)に目をつける。なぜか。空海が奈良の大学寮で学んだ中国の経学の書はおおかた「鄭玄」の『註』で学ぶことになっていた。明経科の学生にとって「鄭玄」はほとんど必修だった。空海はその「鄭玄」の『註』を暗記していただろう。その「「鄭玄」の学問的特徴は一口に総合的折衷学と比較的方法論にある」。
学生時代、私も『論語』を「鄭玄」で読んだ。インド哲学の「スートラ(経)」も同じだが、中国の古文献は『註』で読むのが日本の漢文学(あるいは中国学)の伝統になっている。
松岡さんは言う。「「仏教には鄭玄はいないものか」とおもったことだろう」。しかし南都仏教にはいなかった。そこで松岡さんは、空海の耳に聞こえていたであろう思索者の「淡海三船」を登場させる。
「淡海三船」。
鑑真和上の日本渡海記である『唐大和上東征伝』の編集者。何度も大学頭になって当時の学生があこがれていた存在。その詩文を空海が読まなかったはずがない。伝に「性識聡敏にして群書を渉覧す」とある。
そして、大安寺碑文。「六合のうち老荘は存して談ぜず。三才のうち周孔は論じていまだ尽きず。文繋、視聴に窮まり、心行、名言に滞る。三性の間を識るなく、誰か四諦の理を弁せん・・・・・」。
「淡海三船」の儒・道批判と仏教志向の文である。
ここで松岡さんが言いたかったことは、
こうした先駆者の業績を青年空海がすでにエディトリアルの眼光で射抜いていただろうという
そのことだ。
エディトリアルとは結集ではない。どちらかといえば結縁というものである。
そういう意味では諸学に対する遊撃性をもってあたらねばならなかった。
それは思想の方位(ディレクション)という相対性に向きあって、たえず自在な選択力をもつということでもある。
その選択力があればこそ、いつでも必要な諸条件から出発して「綜芸」をめざせた。
●11--内は外
話は、密教が何を「内」にし(隠す)、何を「外」にする(表立たせる)か、という問題に移る。その視点から真言八祖、つまり「付法」と「伝法」の系譜の中で、「内」にされたものと「外」にされたものを見ていく。
そして、密呪などの(行者の)内側(内面)に向うインサイドパワーとそれを試すために外側に放出するアウトサイドパワーが必要で、そのアウトサイドパワーが人々に密教を知らしめたというところから論を起こす。
次いで、空海には「内と外」に対する絶妙な感覚がある。それはどこから生れたのだろうか。それは師・恵果だと言う。「内外の一対」。
さて、「外」に出た密教の系譜。
善無畏。インドのナーランダー寺院で達磨掬多に学ぶ。八十才の頃長安に入り、玄宗皇帝に国師として迎えられる。『虚空蔵求聞持法』を訳出。洛陽に移って『大日経』を口述訳、これを一行が筆受した。
金剛智。南インドのバラモンの出身。ナーランダー寺院で出家。大乗の中観・唯識の諸経論を学ぶ。さらに南インドで金剛頂経系の密教を修め渡唐。長安・洛陽で金剛頂経系の密教経典を漢訳する。中国密教の初祖。
不空。西域の生れ、北インドのバラモンを父にもつ。長安で金剛智の弟子となる。主として金剛頂経系の密教を修め、二度にわたってインドに入りセイロンにも行った。請雨止雨法をはじめ祈祷密教を行い、安禄山の変など内乱・外寇の絶え間ない時代に国家安穏を祈祷した。
この金剛智・不空の師弟によって多くの『金剛頂経』系の密教経典が漢訳され、中国の密教が本格化した。
恵果。中国人、馬氏。曇貞・不空に師事。不空から『金剛頂経』系の密教を受法する。また善無畏の弟子玄超から『大日経』系と蘇悉地経系の密教を受法する。金胎両部の密教を受法。空海をはじめ諸外国からきた弟子に差別なく伝法を行った。
以上、次章「長安の人」の前ぶれか、空海が現れる以前の唐の長安の密教事情である。
あらためて「真言八祖」について記しておく。「真言八祖」には「付法の八祖」と「伝法の八祖」がある。
- 「付法の八祖」。密法の師から弟子への直接伝授の系譜。真言宗の「血脈」はこれをとる。空海のあとに各本山の歴代化主や座主の名、そして入壇潅頂の師の名、そのあとに自分、そのあと死者の戒名となる。
大日如来--金剛薩--龍猛--龍智--金剛智--不空--恵果--空海。
大日如来と金剛薩はヴァーチャルな存在。大日如来は密法を説くほとけ、金剛薩は大日如来の説法を聞く側の代表質問役。
龍猛。南インドのバラモン出身。龍樹とも言われ大乗中観派の「空」の論理を大成した。密教ではこの龍猛が南インドの鉄塔の扉を開いて金剛薩から『大日経』『金剛頂経』を授けられたとする。
龍智。伝説的でよくわからない。龍猛の故跡である南インドの黒峰山に隠遁して秘法を伝えているという民間信仰がある。善無畏が学んだナーランダー寺院の達磨掬多だという説もある。 - 「伝法の八祖」。密法(大日経・金剛頂経)伝承の系譜。真言宗の道場に掛けるのはこちら。
龍猛--龍智--金剛智--不空--善無畏--一行--恵果--空海。
一行。中国人、張氏。若くして禅・律・天台を学び、のちに善無畏から大日経系の密教を、金剛智から金剛頂経系の密教を学ぶ。禅・律・天台・密教に通じ、道教の暦学や祈祷も修めた。善無畏が洛陽で『大日経』を漢訳する時、善無畏の口述を筆記した。