直感、現観、直感情報系、場の設定、場面集、観念技術、第三次的情報系、マンダラ、ホロニクス、ホワイトヘッド、有機体哲学。この章で松岡さんが語ろうとしていることのキーワード・ヘッドラインである。
私は『空海の夢』の読み方でずいぶん試行錯誤をした。どう読めば内容がわかるか、ただそれだけのために読み方を何度替えたかわからない。
やっと見出した方法が、キーワード検索法のような読み方である。これから読むところを一度通読しながらキーワードに赤線を引く。そのキーワードと次のキーワードの間に何が述べられてどんな意味がつながっているのか、それに気をつけながらもう一度そこを読み直す。これで『空海の夢』はずいぶん私のものになった。
まず直観。
古代の直観。
むしろ直観情報系とも言いたくなるような相互に共有できる類的な直観の交通が可能であった。
直観をめぐる先駆的研究。
直観のタイプのちがい。
アインシュタインが「エーテルの風」の反省のためにみせた仮説時の直観様式とディラックが「電子の海」の発案のためにみせた仮説時の直観様式。
世阿弥の能舞台と利休の茶室。
直観様式のもつ消息を伝える発言。ベルグソンの方が少し進んでいる。
ベルグソンが直観には不純なものがまじっているようだともらしたこと。
デカルトやスピノザが神の原始的本性がそのままわれわれの直観様式にあずかっていると考えた推理。
数学にさえ直観のみによる証明が可能という。ヒルベルト。
「どんなに小さくても穴のあいた球面はいつも面に広げることができる」という証明に必要なのは直観だけである。
直観様式にひそむタイプ。それはいわば「場面」のちがいのこと。
仏教経典の差は場面設定の差。場面の差が説法の情報内容を変えた。例えば、
『法華経』。場所、王舎城郊外の霊鷲山。そこに無数の比丘・比丘尼が集り仏陀が説法する。
『転法輪経』。鹿野苑。五人の弟子に仏陀となったばかりの釈迦が説法する。
『維摩経』。維摩居士の病室。文殊との問答。
『華厳経』になると「七処八会」、七ヶ所の場面、八回の集会。お経の中でも場面を変化させる。
しかも、仏陀伽耶の大塔あたりから須弥山へ、そして利天・夜摩天・兜率天・他化自在天へと上昇していく。・・・そこが古代に充ちていた直観様式の有効性。・・・場面が須弥山にとんだというだけで・・・内なる須弥山構造が具体的に対応できたはずなのである。
松岡さんは、この「場面の設定」は古代宗教の特色。「古代神話が壮絶な場面集であったことに起因する」と言う。
ただ、古代神話がおおむね実在の場所の記憶にもとづくデフォルメーションをくりかえしていたのにたいし、宗教はその場面をしだいに観念技術によって空想し、ついにまったく実在の場面とは関係のないイマジナリー・シーンにまで昂める事に成功した。
「観念場面」。プラトンの洞窟の場面。
密教は「観念場面」をきわだって導入した。『大日経』は「金剛法界宮」。空海いわく、「秘密曼荼羅金剛心殿の如くにいたりては、これすなわち最極究竟の心王如来大毘盧遮那自性法身の住処なり」。
こと直観様式にかんするかぎり、デカルトやスピノザあるいはベルグソンらの泰西の哲人よりも、東方の密教者たちの方が急進的な方針をもっていたということは驚くべきことである。
直観には一挙集中が起こる。そのことは今世紀の大脳生理学の発達によっても解明されなかった。
「記憶と判断の解明」には多くの努力が払われたが、われわれの頭の中で起こる「ガラリとした変化」については手がつけられていない。・・・同様に入信や憑依などのさまざまな特殊力を発揮する宗教的信仰における「おもい」も、また意識の科学は介入するにいたっていない。
松岡さんは、「仕組みが一変するところ」にこそ直観様式の介在がある、と考えている。
直観とは単なるひらめきではなく、むしろわれわれの意識の奥にひそむ場面を借りて顕在化してくるある根源的な情報代謝力ともいうべきものなのである。
松岡さんはまた次のように言う。
少年の砂場や少女のゴザによる「おもいつき」--これらはわれわれが問題にしている直観様式のひとつのアーキタイプである。・・・砂場やゴザによって支えられている「おもいつき」の隠されたconfigurationが直観様式のアーキタイプにあたっている。・・・ひじょうに乱暴にいえば、マンダラ原理の発生にはこうした直観様式の蘇生があずかっていると考えられる。ただし、砂場は進化して須弥山に、ゴザは発展して聖壇にまでおよんでいたわけだった。
また、直観様式もマンダラも、そこに次々とシンボルをおさめこむことができる、きわめてアーティフィッシャルな装置(マンダラでは諸尊・種子・三昧耶など)だが、直観様式のあるタイプにはシンボルが自動的に作用して次々ににんしきを発達させる、ある組み合せがありうることが知られている、とも。
このように直観様式のあるタイプに属するconfigurationが時として求心的な力をもつことを発見したのは、おそらく修行者たちであろう。かれらは観念場面を想定し、そこにシンボルを集め、これをあれこれと動かす術にふけるうちに、それが一気に白熱化し、それこそ光速化する帝網のごとくに溶けあってしまう光景を発見した。
以上、難解な中にもマンダラにひそむ直観様式と観念場面の介在そしてシンボルの集合とその組み合せの白熱化の連関ではあった。
マンダラ・ホロニクスの「ホロニクス」。理論生物学者のフォン・ベルタランフィや、その理論の継承者でもあるアーサー・ケストラーのことば。「どんな部分にも全体の動向がふくまれているような、そのような関係にあるひとつの部分=全体系」。
生命をホロニック・システムとしてとらえる研究。ヘルマン・ハーケン、清水博。
マンダラのホロニック・システム。
シンボル参集の場面を想定した再生装置には共通の「シンボルの代換性」がある。マンダラのイコンにも代換性がある。その代換性が、「部分における全体性」を発揮する。
代換性を包摂しているからこそ、マンダラはつねにホロニックな様相を確保しつづけてきたわけだった。
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド。「意識の自然」をはじめて完成した哲学として表現しえた人。
有機体哲学。『過程と実在』。actual entity。松岡さんには、それが仏教の六現観の「究竟現観」にかぶさってみえる、と言う。
一個の有機体はそれが存在するためには全宇宙を必要とする。
●28--想像力と因果律
さて、『空海の夢』の終章をかざる本章。そこに、松岡さんは現代の「想像力と因果律」の対立をヘルマン・ワイルのことばを借りてもってきた。
現代におけるいっさいの矛盾は生きている者と死んでいる者との対立にある。
このことばを松岡さんは自分なりに発展させて「想像力と因果律の対立」と言った。
人々が奔放なおもいや自由なねがいを実行に移そうとすると、その多くが社会史の築いてきた力によってはばまれることは誰もがよく知るところである。そこで人々はしかたなく因果律の範囲内で、因果律のかたちにあわせた想像力でがまんすることになる。あとはまったく実行力のともなわない想像力が文化をうめつくす。
個人的な想像力と社会的な因果律の対立も深刻であるが、一人の心境に出入りをくりかえすあくことのない「想像力を失った因果律」の動向も、もっと深刻である。これは「自己イメージの対立」という生物界では人間のみがもっている怖るべき矛盾というべきである。
最後に、本書で松岡さんに見えてきたこと。
「想像力と因果律の宥和」の懸命なる追及。
宗教とは、ある意味では想像力と因果律を共有することである。・・・・それが生きてある者と死んである者とのあいだにおける共有にまで進んだときに、宗教ははじめて「生命の海」をもつことになる。空海は、そのことを「即身」というふうにみた。
この最後の結びに及んで、私はまだわからないところの多さに立ちすくんでいる。また、他日を期したい。ただ、四十才の松岡さんが渾身の思いで書き綴ったであろうことだけはこうしてノートにしてみるとよくわかる。その四十才の松岡さんに還暦の私はまだはるか遠く及ばないということだ。
この本は、私が恵命尽きる瞬間まで座右に置き、阿字のふるさとまで脇にかかえて持参する本であることは論を待たない。