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【空海前史】日本仏教の黎明 ~仏像の伝来~

 仏教がインドに生まれて日本に伝来するまで、約千年の歳月を要している。一つの情報伝達の期間としては、現代では想像を絶する長さである。
 釈尊の時代にインドという国があったわけではない。あの広大な亜大陸が初めて一つの帝国にまとまったのは、仏滅後200年を経たマウリア朝第3代のアショーカ王の時代である。現存する仏典資料はすべてアショーカ王以降のものであるため、それ以前の仏教がどのようなものであったかについては、ほとんど推測の域を出ない。言い換えれば、釈尊ご自身のことについても、実はよくわからないことのほうが多い。
 アショーカ王は八万四千と伝えられる仏塔を各地に建立し、石柱や岩壁に法勅を刻んで仏教の教えを広めた。仏教だけではなく、バラモンの教えやジャイナ教その他の多くの宗教も同様に保護したが、アショーカ王がいなければ、インド仏教は存在していなかった可能性がある。仏教の側からするとアショーカ王は大恩人であるが、アショーカ王は統一帝国の建設にあたって仏教の教えを利用したのだと私は思っている。
 もちろんそれは悪い意味でいうのではなく、西は現在のアフガニスタンに及ぶ大帝国の実現のためには強力な武力だけでは不十分であり、人心を掌握する普遍的な原理が不可欠だったからである。後のクシャーナ朝のカニシカ王が北インドから中央アジアにまたがる大帝国を築いたときも、アショーカ王の前例にならったに違いない。日本では、聖徳太子が同じ考えで仏教を重んじて国家建設にあたったと推定しうる。

 仏教は誕生以来、500年間は偶像崇拝がなかった。アショーカ王時代の仏塔の欄楯の仏伝レリーフなどには、仏陀のいるべき場所に法輪や菩提樹や仏塔が刻されていて、仏陀の姿だけはなく、見る者に不思議な印象を与える。それはそうした象徴表現にとどまっていたということであり、法輪や菩提樹や仏塔を見て人々は拝んだわけであるからまったく偶像崇拝を禁止していたとは言えないが、少なくとも仏陀の姿を人間のように造形化することは憚られていた。
 ユダヤ教や初期のキリスト教も偶像を禁止していたし、イスラム教は今でも完全に偶像崇拝を禁止している。日本の神道にも偶像崇拝はなかった。
 紀元1世紀頃から北インドのガンダーラ地方で仏像彫刻が始まった。北上した仏教思想と東漸した西方のギリシャやローマの造形技法の融合によるものと言われている。相前後して北インドのマトゥラーでもインド独自の仏像彫刻が始まり、これ以後、仏像彫刻は全インドに、そしてさらに仏教の伝播するすべての地域に広まっていった。
 仏陀を人間の姿に具象化するということは、東西文化の融合という契機があったのだとしても、それまでの教義の一大転換というべき事態であったはずである。実際にマトゥラーにおいては、西方文化の影響を受けずに、インド独自の仏像彫刻が始まっている。教義の変更か、もしくは何か重要な教義の展開がなければ、そうやすやすと「偶像崇拝」が生まれ、それがたちまちのうちに広まるということは考えられない。それは何によるものだったのだろう。

 仏教史の中で仏像製作が始まったということは既成事実として当然のように思われているので、これまでこうした問いかけはなされたことがなかったが、もし仏教に仏像がなかったとしたら、すなわち仏像彫刻が生まれなかったら、その後の仏教史は違ったものになっていたであろう。その可能性は十分ありえたのである。
たとえばイスラム教がいつか将来偶像崇拝を取り入れるということは絶対にありえないであろう。もしあるイスラム教徒が神像を造って拝むようになれば、それはイスラム教徒にとって重大この上ない違反だと糾弾され、もはやイスラム教とはみなされなくなるだろう。信仰のあり方として、それほどの大きな転換であったはずのことが、仏教においては、いともやすやすと乗り越えられてしまい、それ以後、仏像は仏教徒にとって不可欠な礼拝の対象となった。
 これは仏教という宗教が本質的にそなえている柔軟性を物語る一事であるとも言えようが、仏身の具象化という一大転機の消息を窺うに、私見によれば、そこには「観仏」という瞑想修行法の開発があり、仏像彫刻の発祥と展開は、おそらくそれと軌を一にしている。

 たとえば浄土教の発端の経とも言われ、後の天台宗の修行法で重視されるようになる常行三昧の基礎となった『般舟三昧経』には、「観仏」の修行法が説かれている。
 般舟三昧の「般舟」とは「プラティウトパンナ」の音写語で、「現在」を意味し、この瞑想法のことを「諸仏現前三昧」とも、あるいは「現在仏悉在前立三昧」「常行道三昧」「仏立三昧」などともいう。諸仏を目の当たりに、現在におわすかのように視覚化するという瞑想法のことだが、『般舟三昧経』には次のような興味深い一節がある。

  心、仏と作る。心、自ら見る。心はこれ仏心なり。これ、如来の心なり。
これ我が身心なり。仏を見る心は自ら心を知らず。

 実に見難きは自らの心―なのである。
人は自らの心を、つい卑しんで煩悩の渦巻くところと思いがちである。たしかに煩悩はある。あるどころの話ではなく、まぎれもなく煩悩の住みかである。だが、住みかということは、心は煩悩そのものではない。心自体は煩悩ではない。では、自分の本当の心とは何か。

 仏陀の教えによると、本来の心は清らかなものである。人の心は本来清浄であるというのが、仏教史を通じて釈尊以来の一貫した教説である。
 日常生活において離れがたくつきまとう煩悩は、いわば月を覆う雲のようなものにすぎない。本来の心は仲秋の満月のように清浄で、光り輝いている。
 これを修行論として言えば、理想とすべき仏心をどう求めるかではなく、仏心をどう形成するかでもなく、自らの本来の心をどう自覚するかということになる。
 最終的に密教の阿字月輪観として完成する修行法の基礎となる考えは、釈尊以来の「自性清浄心」という根本教説を受け継いだものなのである。
 自心に仏を観よという瞑想法は、本来あるべき自己の心の最高の状態をシュミレートしてみよ、ということであった。
 仏像は礼拝の対象であると同時に、そうした瞑想法における格好の手がかりとして必然的に要請されたものだったとは言えないだろうか。
 そして自らの内に仏陀を観るということは、仏陀の崇高な慈悲の精神を自らの行為としていかに発揮すべきかという課題を大乗仏教の担い手にもたらした。
 それまでの出家修行者は、もっぱら自らの苦を克服するために修行に励んでいた。それ自体は何ら責められるべきことではなく、むしろ奨励されていた。出家者に利他の精神は必要ではなかった。慈悲は仏陀のみが発揮しうる崇高な精神であるとされていた。
 それに対して、仏陀の前世の行為にならい、衆生済度の利他の精神こそが大切であると考える人たちが出現した。彼らは自らを「菩薩」と称した。菩薩とは、仏陀の前生譚(ジャータカ)としてすでによく知られていた仏陀の前世における名称であった。
 仏陀の前世にならい、自らを菩薩と称した人々こそが大乗仏教の担い手であった。そのような菩薩としての生き方を鼓舞して「勇者の行進」といい、それを名付けて「首楞厳」(「シューランガマ」の音写語)といい、そうした生き方そのものが偉大な瞑想(三昧)なのだと説いた初期大乗の経典として、『首楞厳三昧経』がある。

 かくして、仏陀釈尊の姿を人間のように具象化することは、タブーではなくなった。さらに進んで、造仏という行為自体が尊いことであるとされるようになった。
 もちろん、ただ人間に似せて像を造るだけではいけない。人間の形をしていながら、最高の人間像として造形化されなければならない。それはギリシャ彫刻のように究極の肉体美を追求することではなく、人間の精神が最高レベルに達した状態をあらわすものでなくてはならない。
 初期のガンダーラ彫刻における仏像は、まだギリシャの王侯貴族を模したようなものであった。最も秀逸なものですら、ギリシャ彫刻の影響下にあることを免れていない。つまり高貴な俗人という域を脱していない。
 インド仏教はイスラム教徒によって壊滅的な打撃を受けたので、残念ながらインド国内に現存している仏像は、ほとんど見るべきものがない。ほとんどすべての仏像は顔が損傷しているか、頭部が欠損している。かろうじて残存していたものは、イギリスの植民地時代に本国に持ち去られ、大英博物館に収められてしまっている。
 だから、インドの仏像彫刻がどこまで完成度を高めたか、推測の域を出ないが、およそ人間の精神が最高レベルに達した状態の造形表現というのは、世界のあらゆる造形美術の中でも仏像をおいて他に例をみない。それは、いつ、いかにして完成したか。

 そもそも偶像崇拝を禁止している多くの宗教において、こうした造形表現が生まれる余地はない。西洋中世のルネッサンスの芸術は人類の造形表現の最高峰を示すものであったが、仏像に匹敵するものはない。
 決して贔屓目でいうのではなく、仏像彫刻の最高傑作は日本で生まれた。それには仏教伝来後、さほどの歳月を要することではなかった。

 欽明天皇13年の年(西暦552年)にわが国に仏教が伝来した。インドに仏教が生まれてから千年も後のことである。
 仏教の何が伝来したのであろうか。『日本書紀』によると、「百済の聖明王が釈迦仏像と幡蓋・経論を献ずる」とあるが、幡蓋・経論はともかく、釈迦仏像を初めて見た当時の日本人は、今では考えられないほど驚愕したことであろう。それはどういうことか、お分かりだろうか。
 日本は大昔から八百万の神々を尊んできた土地柄であったから、大陸や韓半島では仏教が盛んだと聞き、それが日本にもたらされたとしても、外来のものだからという理由で排斥することもなかったであろう。神々の仲間が増えたという程度のとらえ方をし、むしろ無条件で歓迎したことであろう。実際に『日本書紀』によれば、仏を「蕃神」と呼び、神々の一種と考えていたようである。
 それがなぜ、よく知られているように、当初、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との間で対立し、仏教を受容するかどうかで争われたのであろうか。
 両氏は当時の朝廷の政治を左右する二大豪族であり、仏教伝来がなくても対抗する傾向にあった。特に帰化人を通じて早くから大陸の文化に理解を持っていた蘇我氏が崇仏派になり、古来の祭祀を司っていた物部氏が中臣氏と共に反対側の排仏派に回ったというのも当然のことであった。
 ただ、ここで崇仏派といい排仏派といい、崇拝されるべき、もしくは排除されるべきとされた「仏」とは、具体的に何をさしたかというと、それは仏教の教えではなく、つまり仏教の思想内容をさしていたのではまったくなくて、ほかでもなく具象的な仏像そのものであったということである。
 『日本書紀』の欽明天皇13年冬の条に、百済の聖明王が釈迦仏の金銅像、幡蓋、経論を献上すると、天皇は仏像を礼拝すべきかどうかと群臣に尋ねた、とある。あくまでも問題の焦点は仏像を礼拝すべきかどうかということであった。
 物部尾輿と中臣鎌子はこれに反対し、わが国の天皇は春夏秋冬に天神地祇を祭拝してきたのに、今それをやめて蕃神を拝めば、おそらく国神の怒りを招くであろうと述べた。
 そこで天皇は仏像を蘇我稲目に与え、試みに礼拝させることにした。稲目は小墾田の家にそれを安置し、礼拝し、向原寺を建立した。
 その後、疫病が流行し、多くの死者が出たので、物部尾輿と中臣鎌子は、これは蕃神を拝んだ罪であるといって、仏像を難波の堀に捨て、堂塔を焼き払った。
 こうしたことが続いたが、結局は蘇我氏が勝利を収め、すなわち仏教受容が確定したのであるが、『日本書紀』の記述から窺えるように、対立する両氏とも仏教の教義なり思想を理解した上で、その受容を巡って争っていたのではない。
 問題視されたのは、単純明快に仏像なのであった。仏像を拝んでもよいか否か、ということであった。何だ、そんなことかと思われるかもしれないが、これは現代人が想像する以上に、当時の日本人にとって重要なことであった。
 排仏派の物部氏の言い分を敷衍すると、次のようになる。わが国は太古の昔から偶像崇拝をしてこなかった。別に仏教の思想が問題なのではない。釈迦なる外国の「神」を拝んではいけないと言っているわけでもない。仏教の「偶像崇拝」が問題なのだ。それはわが国古来の信仰の形を根底から覆すことになる許し難いことである。きっとこう言いたかったのであり、実際にこういう趣旨のことを述べたであろうと思われる。
 旧来の信仰を守る日本人にとって、金色に輝く仏像がもたらされたことは驚天動地の出来事であったのだ。

 先年、アフガニスタンのバーミヤンの大仏がタリバンによって破壊されたが、この蛮行に胸を痛めたのは仏教徒だけではなかった。人類の文化遺産に対する冒涜であると世界中が非難した。だが、あえてイスラム教徒の側に立って言うと、偶像崇拝を禁止している彼らにとって、自国に巨大な「偶像」があるということは許し難いことなのであった。偶像崇拝を認めるか否かということは、それほど大きな懸隔のある問題なのである。

仏教の伝来並びに受容という場合の「仏教」とは、当時の日本人にとって「仏像」のことであったということを再度強調しておきたい。
礼拝の対象が仏像という形に具象化されていることが、どれほど当時の日本人にとって驚愕すべきことであったか。この点についてこれまでほとんど注目されたことはなかったが、事情はそんな案配であった。
しかし、ひとたび仏教(イコール仏像)を受容した日本は、あらん限りの技術・技巧をこらして、世界最高の傑作を次々と生み出してきた。
江戸末期にペリーの黒船に驚いて、そのわずか半世紀後に日本は世界最大の造船国になった。それと同じようなことが、今から1400年以上も前に起きていたのである。
日本仏教史といえば、そのほとんどすべての書物が、仏教の思想の展開に重点を置いている。その基本は、現存する諸宗派の開祖の思想であり、日本独自の思想の展開があったのは事実である。だが、日本仏教に特有の、しかも日本仏教において完成したといってよい、世界に断固として誇れる「仏像の歴史」があったことを忘れるべきではない。
 
 北魏滅亡後、大陸に新たに仏教文化が絢爛と花開いたのは、梁の武帝の時代であった。そのころ、韓半島において日本に縁の深い百済は危機に瀕していた。
その時代の百済の情勢はさておく。百済は起死回生策を図って、おそらくは梁より手に入れたばかりの、かけがえのない貴重な仏像を、日本に献上した。それが日本における仏教の公伝となった。日本は結局、百済の期待に応えることはできなかったのだが。
 百済には4世紀末に仏教が伝わっている。西暦384年が百済仏教の始まった年である。その百済からの日本への仏教の公伝は西暦552年。いかに情報伝達の遅い時代だったとはいえ、文化なり人の交流が盛んに行われていた百済から、160年以上も仏教に関して情報が伝わらなかったということがありえようか。
仏教公伝以前に、仏教のなんたるかを日本人はかなり知っていたと考えるべきである。『日本書紀』の記述は、その受容をめぐって相当の悶着があったことを、蘇我氏と物部氏の対立という図式で象徴的に物語っているにすぎない。

他国はいざ知らず、わが国には昔から、「偶像崇拝」の習慣がなかった。尊ぶべきものを形にするということを憚ってきた。古来の神道はもとより、ユダヤ教も初期のキリスト教もイスラム教も、それ以外にも、世界の多くの宗教は、「偶像崇拝」の習慣のないほうがむしろ普通である。インドの初期仏教においても、それは同じであった。
 日本は仏教の受容、というより、仏像の受容をめぐって160年以上も思案し、論議を重ねてきた上で決断したとみるべきであろう。そして、ひとたび受容した途端、後は一瀉千里であった。
 日本は仏教国になった、というだけではない。仏教公伝200年を記念して行われた天平勝宝4年(西暦752年)の東大寺大仏開眼法要は、国際色豊かな大イベントであった。世界史上最大の青銅製の大仏建立にあたった仏師・国中連公麻呂に匹敵するのは、世界文化史の中でもミケランジェロぐらいのものであろう。
大仏のみならず、東大寺戒壇院の四天王像や東大寺法華堂の執金剛神像、あるいは日光・月光菩薩像、唐招提寺の鑑真和上像も公麻呂の作とされている(田中英道著『国民の芸術』)が、その芸術的完成度は比類なく、世界最高の彫像といって過言ではない。
この伝統はやがて鎌倉期の運慶・快慶などに受け継がれていく。人間精神の最高レベルの造形表現としての仏像は、もはや偶像崇拝がどうのという議論を超えて、その極限の美が追求され、果して日本において見事に完成したのであった。
 東大寺の大仏は光背などの完成に、開眼法要後さらに20年を要した。空海が誕生したのは、その頃である。世界の文化の中心地であった大唐帝国に一歩も引けをとらない仏教文化がすでに日本で完成していた。入唐した空海が唐の都で臆することもなかったのも蓋し当然のことであった。
(『智青』「密教の遊歩道」58所収)

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