金剛界マンダラは方形を井桁(いげた)に区切った九つの区画の中に、生きとし生けるものがもつ知の原理をテーマ毎に図示したものである。
中央の区画には生きとし生けるものがもつ知の要素を三十七尊(五如来と三十二菩薩)にして端的に示し、その要素がすべての区画に"の"の字形に展開して行き、生命の無垢なる活動〈九会〉に到達すると説く。また、そこから逆回りすれば、中央に図示された三十七種の知があらゆる活動の帰結点でもある。
以下は、各区画に図示された知のテーマ毎への今日からのアクセスとなる。
■初会 知の三十七種の表象〈成身会(じょうじんね)〉-中央-
生きとし生けるものはみな
対象を知覚し、イメージ化し、快不快を判別し、感応する四つの知をもつ。
その感応力があるから、生きとし生けるものはみな
香り・花(色彩と形)・灯り(光)・潤いの四つの知によって癒され
喜び・身を飾り・歌い・舞う四つの知によって内なる情感を発露させて
生を楽しむことができる。
それらの十二の知によって個体と外界とが端的に結ばれている。
生きとし生けるものはみな
以上の五つの知のちから〈如来〉と、そのそれぞれの知のちからがそれぞれに為す四つのはたらき〈菩薩〉を加え、計二十五の知とそれに最初の十二の知〈諸菩薩〉を加え、合計三十七種の知によって生きとし生けるものは生を謳歌している。
(その生を謳歌している)
生きとし生けるものはみな
固体・液体・エネルギー・気体の四つの形質をもつ物質からその身体が成り立っていて、物質がいのちを有することになれば、そのいのちには必ず三十七種の知が具わっている。
だから、世界には知をもつ多彩ないのち〈賢劫一千仏〉が存在し、共に生きている。
また、人間だけがもつ創作力という名の知が生んだ古代の神々〈二十天〉が、世界の四方を守ってくれているとし、それらもまた、いのちのもつ知のちからの範疇であるとする。
■二会 知の象徴化〈三昧耶会(さんまやえ)〉-中央下-
成身会の知を仏塔・五股杵(ごこしょ)・宝珠・蓮華などの個別的な具象によって図示し、全体のもつ意味を暗喩(あんゆ)する知。
仏像そのものは抽象的なものであるから、そのちからやはたらきを具象によって表わし、その意味を伝え共有する。
今日では物理現象を起こす個別要素を記号と数値に置き換え、その方程式によって物質・エネルギー・空間・時間から成る模擬宇宙(存在の全体像)を組み立て、その普遍的法則を思索する。
それが量子論、相対論になった。
そのような図式も象徴を用いることによって宇宙の真理を暗喩する知の事例である。
■三会 知の言語化〈微細会(みさいえ)〉-中央下の左-
生きとし生けるものはみな、いのちのもつ知が行なう三つの活動〈行動・コミュニケーション・意思〉を用いることによって、共生している。
その活動の対象となる世界のすべてが言語である。
なぜなら、諸々の物質現象があって、その現象を認識するのが知であり、その把握した対象を人間は言葉・文字にするから、世界の存在そのものが言語である。
その多彩な言語をもってすれば、万物の極小の単位までも表現・伝達できるから、世界は観察者達の洞察力によってそれぞれのすがたを現わし、それらのすがたが概念(言語)となり、その次々と生じる概念によって世界観は永遠に改編されつづけ、止むことがない。
そのようなことで、言語による知の世界の完成形を未だに誰も見たことがなく、未来はいつも観察時を起点とするから現在にのみ存在する。
ここで示される図では大日如来と諸尊のすべてが、その知によって為す三つの活動を象徴する〈三股杵(さんこしょ)〉を背にして、際限のない瞑想に浸っている。
■四会 知の相互作用〈供養会(くようえ)〉-左中段-
生きとし生けるものはみな、それらがもつ知のちからを相互に作用させることによって、共生し、交わり、いのちの形状・形態をさまざまに変化させてきた。
変化させることによって、身体にダメージをもたらす地球規模の激変にも耐え、環境に適応する種を出現させ、これまでいのちを繋いできた。
また、そのような多種多様のいのちのもつ知のちからとそのはたらきが相互に作用するから、自然界に自ずと生態系が形成され、その生態系という名の巨大な知の文脈が実在することによって、自然界の秩序が保たれている。
広大なる宇宙のなかで、いのちのもつ知のちからの全存在の象徴が〈大日如来〉であり、その知のちからが発揮するもろもろのはたらき〈諸尊〉は部分ではあるが、その部分は全体の一部であり、全体は部分によって成り立っているから、ここでは大日如来と諸尊が相互に蓮華をもち、相互に供養しあうことによって世界が成り立っていることを図示している。
■五会 四種の知の祈り〈四印会(しいんね)〉-左上段-
生きとし生けるものはみな
この「四つの印(表現媒体)」による祈りは、生きる喜びのすがた(表象)・身を飾り(象徴)・歌い(音楽/言語/文字)・舞う(作用)行為ともなり、いのちあるものの日々の楽しみとなぐさみとして、喰う寝る行為とともに生活の根幹を成すことになる。
■六会 いのちのもつ無垢なる知のちからの祈り〈一印会(いちいんね)〉-中央上-
微細であろうが巨大であろうが、生きとし生けるものはみな同じ要素、五大(固体・液体・エネルギー・気体・空間)から形成されており、その生命維持活動に必要なエネルギーと物質を生体内で起こす代謝(生化学反応)によって獲得し、生存している。
また、それらの生存するものすべてが意識の根源となるもの〈DNA〉を有しているから、そこにいのちのもつ無垢なる知の出どころがまちがいなく存在する。
その生きとし生けるものがもつ無垢なる知のちからを象徴しているのが〈大日如来〉である。
智拳印(ちけんいん)を結び、五大で成り立っているいのちを左手の五本の指で示し、その中の生気(気体)を示す人差し指を、生きとし生けるもののもつ無垢なる五つの知を示す右手の五本の指で包み、いのちの存在と無垢なる知とが同体であることを示している。
■七会 個体の繁殖を司る知〈理趣会(りしゅえ)〉-右上段-
生きとし生けるものとして存在するもの〈金剛サッタ〉は基本的に雌雄のいずれかの性を有し、その双方の結びつきにおいて雌が子を孕むから、繁殖し、過去から現在へ、現在から未来へと個体を引き継ぐ。
この事実を外しては、知そのものの存在はない。
それぞれの個体のいのちが継承されるには雌雄が性交しなければならず、もっぱら雄の方が求愛し、雌がそれを受け入れ、触れ合い、互いに愛情を高め、共に絶頂に達し、受精して子が出来ることになる。
それは、知覚→イメージ→判別→感応の認識プロセスと同じであり、逢う喜び、身を飾り、愛を歌い、愛に舞うこととも同じパターンである。
直接的な知の表象、それが求愛行動であり、そこにいのちのもつ知が集約される。
■八会 個体の成長と体調を司る知〈降三世羯磨会(ごうざんぜかつまえ)〉-右中段-
今日の科学によれば、すべての個体には親から引き継いだそのいのちの一生を賄うための質料(諸物質)と形相(体のパーツ)の設計図を仕込んだメモリー物質(DNA)が具わっており、身体はその設計図にしたがって生成され動かされているということや、その身体の成長と性と体調は内分泌物質によってコントロールされていると解明されている。
ここでは、その物質のもつ知によって過去・現在・未来の三世代へと確かに個体を引き継ぐはたらきを示す〈降三世明王〉が、成身会の図に示す五つの知のちからの内の〈大円鏡智〉のもつ四つのはたらきの筆頭〈金剛サッタ〉(生きとし生けるものの存在そのものを示す)の位置に取って代わる。
また、成身会の最外周の外金剛部(げこんごうぶ)に配置されている二十天※の四隅に、天女である下記の神々が付け加えられる。
つまり、知は精神だけの産物ではなく、物質の発揮する知を伴うことによって実在すると説く。
その役割を担っているのが降三世明王なのだ。
・那羅延天(ならえんてん):梵名はナーラーヤナ(原人の子の意)。大力神
・倶摩羅天(くまらてん):梵名はクマーラ(童子の意)。無垢なる心をもつ少年神
・金剛天(こんごうてん):原理神
・梵天:創造神
・帝釈天:戦闘神
―――
・日天(にってん):太陽神
・月天(がってん):月神
・金剛食天(こんごうじきてん):荘厳神
・彗星天:土星の神
・滎惑天(けいわくてん):火星の神
―――
・羅刹天(らせつてん):破壊神(煩悩を食い尽くす神)
・風天:風神
・金剛衣天(こんごうえてん):胎児の衣、すなわち大悲神
・火天(かてん):火(エネルギー)神
・多聞天(たもんてん):福徳の神
―――
・猪頭天(ちょずてん):維持、修復の神
・焔摩天(えんまてん):時間(死)の神
・金剛調伏天(こんごうじょうぶくてん):勝利神
・毘那夜迦天(びなやきゃてん):除災招福神
・水天:水神
■九会 個体の活動を司る知〈降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ)〉-右下段-
生きとし生けるものはみな行動し、コミュニケーションし、互いの意思を行使して、共生している。そのすべてが知の存在そのものなのだ。
また、八会でも述べたように、今日の科学ではあらゆる種の個体を形成している細胞の一つひとつの中で、メモリー物質(DNA)が休みなく活動していて、それぞれの個体に起こった危機的状況に対処した潜在的な物質があれば、その情報が記録され、変異した遺伝情報が次世代に引き継がれることが解明されている。
そのように、生の外なる活動と内なる物質のもつ情報とがクロスしたところに知の真実のはたらきがある。
知は表層において現れるものだけではなく、過去からも引き継がれて現在を生き、未来へと受け渡される深層部分にもあるものなのだ。
図に示される十字の形の羯磨杵(かつましょ)はそのようなことを今日では象徴する。
いずれにしても、生きとし生けるものの活動のすべてはいのちのもつ無垢なる知のちから、すなわち大日如来と相応、一体化したものであり、神々に託した知のちから(宇宙や自然の法則)にも守られているとする。
この最終領域で、知は余計な論理と煩悩を離れて、過去・現在・未来へと引き継がれる確かな存在となるから、そのことを降三世と呼ぶ。
以上が金剛界マンダラに示される「知の九つの領域」である。
これらの実在している知によって、生きとし生けるものは共に生きているのだから、それ以上に大切な知など何処にあるだろうか。
■あとがき
「喜び・身を飾り・歌い・舞う」や「求愛行動」などのきわめて世俗的な事柄によって、しかもそれらを生の根本として肯定する『金剛頂経』の教えは、全体を把握していればその意図と真意が理解できるのだが、その個所だけに目をやれば誰もが戸惑ってしまう。
また、マンダラに図示されている仏像を真言(サンスクリット語)で唱えればご利益があるという教えは、まずは信じるしかないのだから、それに少しでも疑いをもつようでは信心にならない。
しかし、「存在として現象するものは実在の言葉である」(『声字実相義』)との空海の教えを読めば、言葉は現象としての存在そのものであると解釈できるから、真言に願いを叶えるちからがあっても不思議ではないし、「草木すら成仏するのだから、どうして人びとが成仏しないことがあろうか」(『吽字義』)と説いてあると、自然体としての我が身を信じ、生まれる前から具わっているといういのちのもつ無垢なる知のちからに身を委ねることによって、さとりが得られるのではないかと真剣に思う。
そうなれば、野鳥の生態に見られるように喜び・身を飾り・さえずり・空を舞うことは生きることそのものであり、求愛行動は個体のいのちを次世代に継ぐための行為であるという、ありのままのいのちのすがたがそこにある。
さて、以上の戸惑い・信心・存在・言葉・生態観察などのすべての思いは、人のもつ知によって判断される事柄であり、知がなければ判断も何も存在しなかったのだから、いろんな思案をすることのできる自分自身がなぜか愛おしい。
だから、それらのさまざまな思いをそのままに受け入れ、密教に親しみたい。
その上で金剛界マンダラに今日の科学と思想を介して向き合えば、以下のような知のもつ実相が見えてくる。
実在する知は
これは知の範疇とそれらの知の表現方法と構造を示すものである。
だから、すでにさとりを得た者の目をもってとらえた知の実相である。
この実相は方便などという生半可な論理によって説明できない。言葉にならないから図示して見せる。
その九つに区画された巨大な平面図は折りたたまれている知の九つの層を広げて見せたものである。
それらを折りたためば初会一枚に戻る。
また、ここで説かれている知は表象(イメージ)としてとらえられるものと、体内物質が情報とその作用をもって表わす知と表裏一体を成しているから、物質とイメージは最初から一体のものであるとも説く。
だから、この教えはブッダの説く十二因縁の"無"や、ナガールジュナ(龍樹)が物事の存在を相対的に考察し、そこに固定した実体が認められないから"空(くう)"であるとした大乗の教えとはまったく次元の異なるものである。
論理がもたらす迷妄の知から離れたところにある真実の知のことを金剛界マンダラは説いているのだ。
その知によって生きとし生けるものは共に生きている。
だから、自然界は秩序を保つ。