さとりの昇華―『為亡弟子智泉達嚫文』(訳文)
もろもろの原因・条件を離れると
存在する物事はあるがままである。
それに対し、原因・条件にとらわれる世界では
もろもろの因縁によって、海の波のように物事が起きては消滅する。
だから、岩にぶつかる波のように、心は絶えずゆれ動き
「十二の因縁」
が起こす迷妄の波に人は苦しめられる。
移り変わる原因・条件が心に映し出すその時々の識別は、欲となり、物質となり、精神となって人の心をとらえて離さず
また、欲と物質には充たされるということがないから、そのことによって人の心に次々と迷いを生じさせ、それでなくとも死と飢えと本能と悪事と人間と神とが混在し、それらが移ろっているこの世に、余計な辛苦をもち込む。そうして何も分からぬうち、迷いのままに寿命を断たれ、蜉蝣(かげろう)のように死ぬ。
(その迷いと苦しみは)
消滅したかと思えば、また生じ、浮き雲のよう。
現われたかと思えば、また隠れ、泡(あぶく)のよう。
(人びとは)
この世の移り変わる天国と地獄に苦楽し、
人のもつ理性と畜生のもつ本能に一喜一憂する。
嘆け、嘆け、まぼろしの世に生きる凡夫よ、
遥かなるかな、遥かなるかな、凡夫にとってのさとりの世界は。
そこで、覚者ブッダ(釈尊)はそのことを哀れと思い
多くの迷える者を誘(いざな)い、慈悲の心をもって耐え忍ばせ、さとりの世界へと導くのである。
(その様子は)
広く網を投げては、迷いの海に沈むものたちを魚のように救いあげ、
高く網を張っては、飛散するものたちを鳥のように絡めとり、
そうやって捕らえたものを、ブッダの知の刀によって自在に調理し、大乗仏教の空(くう)という名の鍋に入れて煮炊きしているようである。
(ブッダのさとりとは)
(ブッダは厳しい修行の末、肉体を痛めつけることでは何も得られないと気づき、身体を休めて食事を摂り、清らかな環境を選び、静かに瞑想することによって、)ありのままの身体の存在と無垢なる知のちからに目覚めた。そうして、滅びることのない常と、苦を離れた楽と、自由で束縛のない我と、迷いのない浄の境地を得た。つまり、さとりを得た。そこで、その場にとどまり、その解放感を数日の間、楽しんだ。
(その後、ブッダはそのさとりについて次のように考察した)
自分も凡夫も同じいのちあるものであり、さとりによって開示した、いのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきは、生きとし生けるものが共に生きるために生まれながらに身につけている知の原理にもとづくものだから、そこに自我による作意はない。
人は自らのいのちに宿る、ありのままの無垢なる知のちからにまかせる「無為の為(何もしないということを実行することによって目的を成すこと。身体の緊張を解き、五感を離れ、現象と理屈を忘却するならば、自由な境地に到る。つまり、静かに瞑想し、迷妄の垢に汚れた身心の束縛から自由になること)」によって、さとりを得るのだと。
その行為について、誰があれこれと詮索するだろうか。
(亡き弟子智泉のこと)
亡き智泉(789年-825年。享年37歳)のことを偲べば、わたくしの弟子であり、密教の教えを継ぐ立場にあった。
また、わたくしの姉の子であり、俗世ではわたくしの甥。仏道に入って、わたくしの最初の弟子となった。
親に尽くすように、わたくしに仕えて二十四年。
常に敬意の念をもって密教の説く法を習い、金剛界(いのちのもつ無垢なる知の原理の教え)と胎蔵(知のすがたの全体像とその秩序を説く教え)の両部の教えをあますところなく修得していた。
したがって、人の行為(行動・コミュニケーション・意思)のありのままをさとっていたから、けっして他人の欠点をあれこれと口にすることはなかった。
(中国三国時代の思想家であり、竹林の七賢の指導者でもあった)阮籍(げんせき)は人の過ちをけっして口にしなかったと評価されているが、そのような人物は阮籍だけではなかったのである。
また、怒って人に嫌な思いをさせることはなかった。
(孔子の最高位の弟子)顔回(がんかい)は「学を好み、怒りをあらわさず、けっして過ちを繰り返さなかった」と『論語』に記されているが、それが智泉の生き方そのものであった。
(因みに、顔回は孔子から後継者と見なされていた。だが、孔子に先立って没してしまった。それだけに早世した時の孔子の落胆は激しく、孔子は「ああ、天われを亡ぼせり」と慨嘆したという)
智泉は修行するときも、同じ屋根の下にいるときも、宮廷に仕えるときも、山に籠もるときも、絶えず影のようにわたくしに寄り添い、離れなかった。
また、わたくしの手足となって僧の教育に尽くしてくれた。
わたくしが飢えれば、おまえも飢え、わたくしが楽しめば、おまえも共に楽しんだ。
孔子の弟子顔回は、いつも師の言うとおりにしていたから愚かであると思われていたが、孔子の教えを理解し、もっとも守っていたのは彼であったし、ブッダの弟子アーナンダは常に師のそばにいて片ときも離れなかったから、その言葉のすべてを一番よく覚えていた。
智泉よ、おまえはわたくしの顔回、わたくしのアーナンダだったのだ。
わたくしの願いは、ブッダが実践された真実の教えを伝えるために、さとりによって得たいのちのもつ無垢なる知のちからのもつありのままのはたらきを、行動・コミュニケーション・意思によって示し、迷いによって心を閉ざされている人びとを一人でも多く目覚めさすことなのである。(その活動をおまえと一緒にもっと長くしたかった)
ところが、おまえはわたくしよりも先に亡くなってしまった。
孔子は亡くなった弟子顔回のために自らの馬車を売り払って棺を求めたとあるが、弟子に先立たれる悲嘆がわたくしにも降りかかろうとは誰が想像できたであろうか。
ああ、哀れなるかな、哀れなるかな、
これ以上の哀れなことがあるだろうか。
ああ、悲しいかな、悲しいかな、
これ以上の悲しいことがあるだろうか。
朝、目が覚めれば夢で見た虎はいなくなるから怖がらなくても済むように、さとりをひらけば日常の存在がまぼろしのように実体のないものだと会得しているはずなのに、愛する者とのこの世での別れに涙が溢れる。
広大なる密教の海のまだ航海半ばだというのに、わたくしと一対であった智泉という梶が早くも折れてしまい、大空をまだ飛びきっていないのに、仏法の新天地に向かう渡り鳥の羽の智泉という名の片方の羽が早くももがれてしまったのだ。
ああ、哀れなるかな、哀れなるかな、
また哀れなるかな。
ああ、悲しいかな、悲しいかな、
尚も悲しいかな。
生者必滅の定めはさとりを得ていたブッダでさえそれを逃れられない(のだから、弟子智泉の死もこの世の定めに従っただけなのだと分かっているのに、尚も悲しみをこらえきれない)。
(真言の意義)
(思い起こせば)智泉よ、指で結ぶさまざまな印によって真言(インド、サンスクリット語を用いた仏法のキイワード)を教えたとき、おまえはまちがえることなくそれらを学び取った。
真言の一字一画にはあらゆる経典の教えが含まれているのだから、それだけでおまえはすべての経典をマスターしていたことになる。
だから、その真言を唱え、思念することによって、おまえの中からあらゆる迷いが容易く消えたのだ。
おまえは言葉の母音の「阿(ア)」の一字がすべての文字と文章の存在の元であると、サンスクリット語の声音文字「梵字悉曇(ぼんじしったん)」を習って知っていたから、(その「阿」字を開けばあらゆる世界へアクセスできるように)「(分別できないとの意味から物質の五大要素の一つ)水を表わす鏝(バン)」の一字によって、いのちのもつ無垢なる知の原理を象徴する金剛界大日如来へとアクセスし、如来の展開する五つの知(生命知・生存知・創造知・学習知・身体知)を開き、そのちからとはたらきをすでに修得していた。
そのように、知のすがたの秩序ある全体像「胎蔵マンダラ」をもおまえは長い時間をかけて習い、その秩序をもたらしている知の原理「金剛界マンダラ」の方はその心髄を(前述したように)すでに修得していたから、それらの両部マンダラの広大なる世界に、真言を用いて自由に出入することができていたのだ。
(観想によるさとり)
まず、いのちのもつ無垢なる知の光を月輪の輝き、自らがもつ潜在的な無垢なる知のちからを泥田に咲く蓮の花に例えてイメージし、その清浄なる心をもって月輪の輝きを自己のものとする。
その観想によって、心のすべての迷いが取り除かれる。
次に脳裏に取り入れた知の光をもって、この身はいのちの存在<金剛薩埵>そのもの、
この身はいのちのもつ無垢なる知のちから<法界>そのものとする。
この身と、いのちの存在としてのこの身と、いのちのもつ無垢なる知のちからを発揮するこの身は三つにして一つである。
おまえはそれらの観想と真言によってその身のままでさとりを得て、いのちのもつ無垢なる知のちからの原理と秩序ある知のすがたが成す広大なる空間、すなわち両部のマンダラ世界に入ることができた。
(真言によるさとり)
『大日経』具縁品にいう、「我覚本不生(がかくほんふしょう)云々」(いのちのもつ無垢なる知のちから、すなわちさとりはもともと自己にあったものなのだ)と。
また、真言にいう、「曩莫三曼多没駄南(ノウマクサンマダボダナン)阿三迷底里三迷三摩曵娑縛訶(アサンメイチリサンメイサンマエイソワカ)云々」(あまねくもろもろの無垢なる知のちからに帰依します。比べるもののない自己とそのいのちの存在とそのいのちのもつ知によって成すすがたの三つに差別はないとの教えの奥深く有難きことよ)と。
このような真言、このような偈(げ)は、いのちのもつ無垢なる知のちからをこの身に示し、その真理をこの心に表わすものである。
真言をひとたび聞くと、
四つの大罪(殺・盗・淫・妄語)を犯すことなく、無垢なる知のちからを阻害する原因(善や信心を拒否する心)も除かれる。
真言をひとたび唱えると、
生きとし生けるものの行為、行動(身体)・コミュニケーション(表現伝達)・意思(自己意識)の三つは一体のものであるとさとり、
次に自己といのちのもつ無垢なる知のちからと生きとし生けるものはみな平等であるとさとり、
その次にいのちのもつ無垢なる知のちからが、生命(自性身)・個体(受用身)・遺伝(変化身)・種(等流身)の四種の根源的なはたらきを為しているから、多種多様な無数の生きものが現われ存在していると感得し、それらが同じいのちであるとさとる。
(密教の教義「マンダラ」とわたくし空海の願い)
智泉はわたくしの最初の弟子であったから、密教の教義を誰よりも早く習い、修得し、教育係として多くの僧を育ててくれていた。そのおまえが亡くなった今、わたくしがおまえに代わって、再びそれらの教えを説こうと思う。
「金剛界マンダラ三十七尊」(いのちのもつ無垢なる知のちから<如来>とはたらき<菩薩>を三十七種に分類し、それを人間の知の原理・規範として示すもの)
(いのちのもつ無垢なる五つの知のちから<五仏>)
1 生命知<大日如来>
2 生存知<阿閦(あしゅく)如来>
3 創造知<宝生(ほうしょう)如来>
4 学習知<阿弥陀(あみだ)如来>
5 身体知<不空成就(ふくうじょうじゅ)如来>
(いのちのもつ完成された知のはたらき<大日如来の四波羅蜜菩薩>)
6 代謝性<金剛(こんごう)>
7 産生性<宝(ほう)>
8 清浄性<法(ほう)>
9 作用性<羯磨(かつま)>
(生存・生活の原理<阿閦の四親近菩薩>)
10 存在<金剛薩埵(こんごうさった)>
11 自由・尊厳<金剛王>
12 慈しみ<金剛愛>
13 喜び<金剛喜>
(創造・生産の原理<宝生の四親近菩薩>)
14 形・物品<金剛宝>
15 美・価値<金剛光>
16 創作・流通<金剛幢>
17 豊かさ・平等<金剛笑>
(学習の原理<阿弥陀の四親近菩薩>)
18 真理<金剛法>
19 理論<金剛利>
20 実証<金剛因>
21 表現・伝達<金剛語>
(行動の原理<不空成就の四親近菩薩>)
22 救い<金剛業>
23 守り<金剛護>
24 攻め<金剛牙>
25 技(わざ)<金剛拳>
(情感の発露<内の四供養菩薩>)
26 遊び<金剛嬉>
27 飾り<金剛鬘(まん)>
28 歌<金剛歌>
29 踊り<金剛舞>
(物質による癒し<外の四供養菩薩>)
30 香り(焼香)<金剛香>
31 花と色彩<金剛華(げ)>
32 灯り<金剛燈>
33 潤い(塗香)<金剛塗(ず)>
(知覚のプロセス<四摂菩薩>)
34 知覚の鉤(かぎ)に引っ掛け<金剛鉤(こう)>
35 感受の索(なわ)で引き寄せ<金剛索(さく)>
36 イメージの鎖(くさり)に縛り<金剛鎖(さ)>
37 感情の鈴(すず)を打ち振る<金剛鈴(れい)>
「胎蔵マンダラ」(いのちのもつ無垢なる知が展開する世界を精神と物質、感性と理性に仕分け、その全体像を示す図)※印、諸仏代表例
宇宙と生命を形成している五つの物質要素<五色界道>(知の司令センター外周)
・視床下部ホルモン<不動明王>
※・右脳<蓮華部発生(ほっしょう)菩薩>
※・左脳<発生金剛部菩薩>
※・思考する者<釈迦如来>
・DNA<千手千眼(せんじゅせんげん)観自在菩薩>(左端)
・素粒子<金剛蔵王(こんごうぞうおう)菩薩>(右端)
※・創造性<文殊菩薩>
・解毒作用<孔雀王母(くじゃくおうも)菩薩>
※・土と地の恵み<地蔵菩薩>
※・安心安全(進歩)<除蓋障菩薩>
・国土を支える神<持国(じこく)天>(東方の守護)
・万物の成長と繁殖を司る神<増長(ぞうちょう)天>(南方の守護)
・異文化、異言語を理解する神<広目(こうもく)天>(西方の守護)
・法と福徳を司る神<多聞(たもん)天>(北方の守護)
・天地と言葉の創造神<梵天>(東)
「四種マンダラ」(いのちのもつ無垢なる知を四つの表現・伝達媒体によって示す図)
□イメージ(すがたかたち)<大マンダラ>
□シンボル(象徴となる個別のかたち)<三昧耶(サンマヤ)マンダラ>
□文字(文字・言語)<法マンダラ>
□作用(作用・活動・動作)<羯磨(かつま)マンダラ>
願うのはこれらのマンダラによって示される無垢なる知のちから(如来)とはたらき(菩薩)が、わたくしに応じ、わたくしの信心によってそれらの無垢なる知のちからとはたらきが感受できますように。
この無垢なる知のちからとはたらきはいのちあるものが必ず有し、わたくしもすべてのいのちと同様に、個体・液体・エネルギー・気体・空間・意識によって成るものであり、その物質と無垢なる知のちからとはたらきによって、世界とわたくしとが、障りなく矛盾なく、一つになり融け合うことができますように。
このように、無数の神仏によって象徴される無垢なる知のちからとはたらきを人は本来もっているのに、そこに到れず、凡夫のままのわたくしたち。
いのちのもつ無垢なる知のちからの象徴である大日如来を海とすれば、わたくしたちはその海の水の一滴であり、大日如来の分身である。
分身であれば本来、救いの必要などはないのだが、現実のわたくしたちは迷いの苦しみの中で生きているから、神仏を拠りどころとして、それらに救ってもらうしかないのだ。
生きとし生けるものはみな
の無垢なる五つの知「五智(ごち)」のちからとはたらきをそなえもっている。
その世界を開き、
「十識」(龍樹『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』に依る)
- 視覚
- 聴覚
- 嗅覚
- 味覚
- 触覚
(以上を前五識という)
第七識:末那識(まなしき。染汚意ともいう)<記憶・判断・言語・煩悩>
第八識:阿梨那識(ありやしき。阿頼耶とも訳し、蔵識ともいう)<生存知>
第九識:多一識(たいつしき。別にアマラ識ともいう)<生命知>
第十識:一一識(いちいちしき。別にフリダヤ識ともいう)<さとり>
の第十段目のさとりに到る。
つまり、さとりに到る前の第九識(多一識)はまだ開かぬ蓮の花のつぼみのようだから、そのつぼみを開花させて九尊(くそん:胎蔵マンダラの中央、中台八葉院の五如来と四菩薩))性蓮(しょうれん)の宮を授けたまえ。
そのさとりの世界を都とし、
いのちのもつ無垢なる知のちからの象徴である大日如来よ、
無数の国土に降臨されて、民を救いたまえ。
生きとし生けるものを救い上げ、
無知によって迷い苦しむものを真理に導き、
無垢なる知のちからをもっていることをすべての者たちに自覚させたまえ。
あとがき
この法施を読めば、空海が密教の教義を龍樹の『菩提心論』や『釈摩訶衍論』によって講義していたことがうかがえる。
そのことは空海の『弁顕密二教論』に記されているところでもある。
それよりも、その仏法を共に布教する縁をもった師と弟子との密接な関係とその弟子との死の別れが、読む人の心を打つ。
しかし、それ以上に興味深いのはブッダのさとりと密教について、空海が言及していることである。
「(ブッダは厳しい修行の末、肉体を痛めつけることでは何も得られないと気づき、身体を休め、食事を摂り、清らかな環境を選び、静かに瞑想することによって、)ありのままの身体の存在と無垢なる知のちからに目覚めた。つまり、そうして、滅びることのない常と、苦を離れた楽と、自由で束縛のない我と、迷いのない浄の境地を得た。つまり、さとりを得た。そこで、その場にとどまり、その解放感を数日の間、楽しんだ」。
(その後、ブッダはそのさとりについて次のように考察した)
「自分も凡夫も同じいのちあるものであり、さとりによって開示した、いのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきは、生きとし生けるものが共に生きるために生まれながらに身につけている自然の知の原理によるものだから、そこに自我による作意はない。人は自らのいのちに宿る、ありのままの無垢なる知のちからにまかせる無為の為(何もしないということを実行することによって目的を成すこと。身体の緊張を解き、五感を離れ、現象と理屈を忘却するならば、自由な境地に到る。つまり、静かに瞑想し、汚れた身心の束縛から自由になること)によって、さとりを得るのだと」。
「その行為について、誰があれこれと詮索するだろうか」と記している。
密教はその「無為の為」によって開示する自然の知の理を説く教えである。
それがいのちのもつ五つの無垢なる知<五智>なのである。その知のちから<如来>とはたらき<菩薩>によって成る清らかなさとりの世界がマンダラなのであり、それらの無垢なる知のちからを誰もがそなえもっているのだから、すべての作意を捨て、その知に身心をゆだねよと説く。
そこに人生の迷妄からの救済がある。