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空海の詩文を読む(その四)

水の思想 -『大和州益田池碑銘』(訳文2018.11改訂)

<はじめに:水の理念>
そもそも夜空に輝く五穀を司る星と銀河の流れの深い功徳によって、
雨は地上に降りそそぎ、
その雨水を貯えた湖水と大海の広い恵みによって、
万物が潤う。
そのおかげでさまざまな草(植物)が生い茂り、
動物はそれらの草に頼って(植物は細胞内の葉緑体で光エネルギーを吸収し、そのエネルギーの助けを借りて水を酸素と水素に分解する。そうして、その水素を使って体外から吸収した二酸化炭素<無機物>から炭水化物<有機物>を作る。この過程で酸素が空気中に放出される。動物は空気中の二酸化炭素から栄養素となる炭水化物を作れないので、植物を食べるか、植物を食べる動物を食べ、摂取した炭水化物を呼吸によって得た酸素で燃やし、エネルギーにする。また、さまざまな植物が連携して多様性のある森を作り、森の地面が雨水を貯え、湧き水となって清流を作る。その豊かな森の環境があるから、さまざまな動物がそれぞれに住むための場を得て)長く生きる。
季節ごとに東西南北から吹く風にしたがって、
種をまき、苗を作り、それを植えつけると穀物は天候にしたがって自然に育つが、(その穀物を含む)万物の本体は諸元素によって作られていることになると、その中でも水の元素(水素)は(すべての物質、あるいはエネルギーの源であり、他の元素はすべて水素をもとにできているから)元素の頂点に位置する。
水のもたらす恩恵は、何と広大で絶大なることよ。

<益田池開発のいきさつ>

 さて、イザナギ・イザナミの二神が生んだ多くの島からなる国(日本列島)を神武天皇が東征した際、太陽の化身である三本足のカラスが熊野から大和(奈良県)までを道案内したというが、その大和に益田(ますだ)池がある。
 (池のある地域は3~4世紀初頭に朝鮮半島から渡来した阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする土木建築技術や製鉄・織物の技術をもった帰化系氏族集団の倭漢(やまとのあや)が集中して居住しているところで)池となった場所は漢諳(かんあん)という人の邸宅跡である。この場所は古くは村井という地名をもつ。

 去る弘仁十三年(822年)仲冬の月(旧暦11月)に、もと監察使であった藤原三守(ふじわらのただもり:後に左京九条の私邸を綜藝種智院用地として空海に提供した人物)と大和の国守の紀末成(きのすえなり)らは、この村井からすそ野に広がる一帯の地域(大和国高市郡、現在の奈良県橿原市)の肥沃な土地がまだ田地として開墾されていないのをもったいないと思い、旱魃(かんばつ)にも対応できる開発事業(高市郡高取町の南東部に源を発して北に流れる、古くは檜隈(ひのくま)川、久米川とも呼ばれる現在の高取川の鳥屋橋北から鳥坂神社まで堤防を築き、川をせき止め、灌漑用の貯水池を造り、その水によって大和の国の六郡の土地を潤し、田地として改良する計画)を朝廷に願い出た。
 この事業計画を聞いた嵯峨天皇はただちに許可し、藤公・紀公の両人と(土木技術に通じ、前年に讃岐国の満濃池修築を短期間で完成させた空海の弟子であった)真円律師らに命じて、事業を開始させた。
 だが、まもなくして嵯峨天皇は上皇となり、嵯峨野の離宮(今日の大覚寺)に移り、それにしたがい藤公は(嵯峨天皇の皇太子時代からの旧臣であったから、上皇と外部との取り次ぎ役を務める一方、それまでの務めであった帯刀を許された武官の)職を辞し、紀公も越前に国替えになってしまった。

 弘仁十四年(823年)の四月に新しく即位した淳和天皇は、中国古代の聖天子堯(ぎょう)が舜(しゅん)に帝位を譲り、舜がその国土を統御したように、嵯峨天皇からその帝位を譲られ、輝く徳をもって国土を照らし、日本列島万民の上にその慈しみの心を注ぐことになった。
 新天皇は早速、宰相に大伴国道(おおとものくにみち)を指名し、国政をとりしきらせ、藤原広敏(ふじわらのひろとし)を抜てきして大和の国守に任命した。したがって、両公が益田貯水池開発事業を引き継ぎ、監理することになった。

新しい体制の下、
(現場に向かう水路には)土を積んだ青色の舟が鳬(ケリ:チドリ科の鳥。小群を作って行動し、攻撃性が強い)のように行き交い、
多くの馬が集められ(船着き場から現場へと)毎日、土を運び、
赤色の舟は人夫を乗せて馬のように速く走り、
(土木建築技術をもった帰化系氏族集団である倭漢の地元の)大勢の人夫が日夜現場に集まった。
荷馬車は稲妻のように(一晩中)ゴロゴロとひびきを立て、
男女の人夫たちはドンドンと雷の落ちるように土をつき固めたから、
(工事は着々と進み)土は雪がコンコンと降るように積み上がり、
堰堤(えんてい:川の水をせきとめるための堤防。湖面に対して弓なりに湾曲し、その長さ南北約200メートル、高さは約8メートル、土手の断面の巾は約30メートル)はたちまち雲のように盛り上がった。
その築造しているすがたはまるで霊なる神が(巨大な手で)土をこね、
(こねた土をつき固め、幾重にも積み重ね)大きな炉で焼きあげているかのようだった。
(そうして、)完成までに日数をかけず、年数を要することなく工事は(825年に)完成した。
この池を造ったのは人であるが、工事が成功するように取り計らったのは天のちからである。

<池のある地の人文地理>

 ところで、池の位置する環境は、
 龍蓋寺(りゅうがいじ:今日の岡寺。開祖は義淵僧正。わが国、法相宗の祖であり、その門下には東大寺の基を開いた良弁、菩薩と仰がれた行基がいる。因みに、益田の池の造成を指導した真円律師も法相宗を学んでいる)を左(東)にし、日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥陵(しらとりのみささぎ)を右(西)にする。
 南には湖水を前にして大墓(おおつか:方角的には与楽鑵子塚(ようらくかんすづか)古墳が近くにあり、遠くには巨勢山(こせやま)古墳群があるがそれらのことか)がそびえ、畝傍山(うねびやま)が北にそばたつ。
 すぐ近くの北東方向には久米寺(くめでら:空海はこの寺の塔の中で真言宗の根本経典の一つである『大日経』を発見したとされる)があり、鬼門の方角を鎮め、南西には宣化天皇(せんかてんのう:諱(いみな)は檜隈高田皇子(ひのくまたかたのみこ)。在位中、「食は天下の本である。黄金が万貫あっても飢えを癒すことはできない云々」という勅令を出して、大臣であった蘇我稲目(そがのいなめ)に籾を貯蔵させ、凶作に備えたといわれる)の陵があり、万民の命である食を守る。
 この池の周辺にはそのほか、うずくまった虎のように十幾つの歴代の天皇陵が長くつながって点在し、それらの周りを龍が臥せているような曲がりくねった岡が取り囲んでいる。

<池の景観>

 (益田池の南方向を眺めると)稜線の松の緑の上には白い雲がゆったりとうごき、そのふもとを檜隈川(ひのくまがわ:今日の高取川)の水が激流となって(北へと)くだり、益田池へと流れ込む。
 (その水をゆったりと湛えた)池の水面には春になれば(紫や黄色の)刺繍のような草花が映し出され、(その美しさに)見とれて行楽者は帰ることを忘れ、秋になれば池の周囲の林には紅葉の錦が広がり、人びとは厭きることなく遊ぶ。
 オシドリとカモは水に戯れて歌を交わし、渚に遊ぶ黒い鶴(ナベヅル)とくちばしのつけねが黄色い白鳥(コハクチョウ)は羽をひろげて舞い競う。
 亀は首をのばし、フナとコイは尾鰭を振る。
 水辺のカワウソは魚を捕らえると岸に並べ、ひな鳥は成長すると餌を母鳥に運び恩返しをする(というが、鳥獣もここでは自らの習性を披露する)。 
 みるみる嵩(かさ)を増す水が大空を呑み、重なる山々の影すべてが水面に逆さまに映し出されることとなると、深さは大海に似て、広さは(中国の)長江・黄河に次ぐ淮河(わいが)をも超える。
 (この池は)昆明池(こんめいち:中国雲南省、昆明にある滇池(てんち)を漢の武帝がまねて長安城の西に掘らせた人工池)も仲間ではないと笑い、阿耨達(あのくたつ:ヒマラヤの北にあるという金・銀などの宝石を岸とし、竜王が棲み、その四方からガンジス河などの四つの大河が流れ出て世界を潤すという湖)をも小さいと馬鹿にしているようだ。

<池の機能>

 強がる虎が水面をたたくと、さざ波は大波となって夜空の銀河にまでそそぎ(それぐらいに豊富な水量をもち)、(たとえ)水神である龍が唸って(大雨を降らし、)堤が決壊するようなことになっても、水量は(堰堤の下を通したヒノキの巨木をくりぬいた導水管を開けば、水は池の外側に排水できるので)余裕をもって調整できる。
 (だから、中国の荘子のいう)水の精の河童ですら、この堤を溢れさすことはできず、旱魃を起こすという恐ろしい女神も、この水底を涸らすことはできない。
 おかげでこの益田池に貯水された水は、大和の国の六つの郡の灌漑用水路に引き込まれ、田畑を潤し、豊かに流れる。

<池と農政>

 このように天子によって善政が行なわれると、万民の生活は(せっせと真面目に働けば、作物は豊かに稔るから)保障される。
 (収穫時になれば、その喜びをからだじゅうで表わし)民は知らず知らずのうちに手足を動かして舞い、稲穂を一杯に積んだ多くの荷車を囲んで、誰かが腹を打って豊年満作を歌えば、皆が周りで手を打ち、足で大地を踏み鳴らし、最後には万歳を唱え、日々の疲れを忘れる。

(だが、そのような豊作の喜びも歴史の中で一瞬の出来事)「蒼海(そうかい)変じて桑田となる」(古代シルクロードの都市において、青海原のような湖が干上がって桑畑になるような大変動がたびたびあった。そのように環境の移り変わりははげしく、人びとが水の恩恵を忘れてしまうと、池はたちまちに干上がり桑畑になってしまう)という。
 そのことを心配して、(開発当事者がこの広大な貯水池とその水辺の美しい景観が将来、失われることのないようにと)わたくし空海に(池の意義を人びとに伝え、不変の祈りを込める)銘文を書くようにと求めてきた。

 拙僧は不才の身であるが「仁に対しては固辞すべからず」という。そこで、時を見つけて一生懸命に文章を作った。

 (まず前段として、水の理念、貯水池の計画と実施のいきさつ、池のある場所の人文地理、池の景観、水量の調整と灌漑用水の分配域、それに土地改良事業による豊作の喜びなどを開発記としてまとめ、事業の全体像を把握してみた。それらをもとに綴ったのが)以下の銘文である。

<銘文>
(世界が)目に見えず、耳にも聞こえず、天帝の出現する以前
(渾沌の状態において)まだ天地の(すがたかたちの)兆しもなく
(天地万物の祖であるという)盤古(ばんこ)も出現せず
(天地がなかったから、日本の根源神)国常立(くにとこたち)も生まれていなかった
(そのようなある時、)宇宙の気が突然に動き
葦の芽のような微細な粒(つぶ)がたちまちに目覚め
八方に飛び散り(一瞬の内に宇宙は膨張し)
基本となる元素が縦横に組み合わされて、万物のさまざまなすがたかたちが生まれた

(そうして、天には)太陽と月とが運行し(昼夜が生まれ)
(地には大海に流れ出る)谷川を挟む山々がそびえた
(その天地の間には生命が誕生し)多様な種が森のように茂り連なり
それらが交配を繰り返して進化し
(そうして、その中から登場した人類は)木の実や根菜類を採集して食していたが
(やがて、栄養効率のよい)イネ科の穀物を食することを覚え
雨であろうが人の手によって貯えられた水であろうが
その水が注がれることによって穀物は潤いを得て成長するのだと知った

先代の嵯峨天皇と後を継いだ淳和天皇は
ともに思慮あつく、民を慈しみ
その才知をもって広く事にあたり
慈悲と思いやりをもち
余計な仕掛けをすることなく
(おおらかに仕事を成し)成功を得ること神のごとし
物を豊かにし、生活を潤すことは雨のごとく
(その結果として、)民は春のように栄える

天皇は雷のとどろきのように(益田池開発事業の)開始を告げ
役人たちはすぐさま仕事に取りかかった
(この開発計画は)紀末成と籐原三守が草案を作り
(それを嵯峨天皇が)事業として許可されたのだ
(その後、淳和天皇がその事業を引き継ぎ、)大伴宰相が実施計画を立て
(新任の)大和の国守藤原広敏が実施に当たった
天地の道理を知る人は、すぐれた技術を作り出し
民はみな、その工法を後押しした

ここに一つの池が存在する
その名を益田という
そこに水を貯えたのは人のちからであるが
成功させたのは天のちからである
(作業に就く)荷車や馬は霧が湧き出るように集まり
(地元の帰化系氏族集団の大勢の)男女の人夫は雲のように連帯し
(得意とする土木建築技術を発揮できる地元での仕事に)みなが子どものように帰郷して来てくれたから
実働、まる一年もかからずに池は完成した

(池は)深くて広く(※推定面積は約45ヘクタール前後)
水は鏡のように透き通っていて青色
水面の光はゆらめいてどこまでも広がり
その眺望は果てしない
(この池には)多くの谷川の水の集まり
(その水が大和の田地の)多くの用水路に流れ出る
魚は泳ぎ、鳥はつかり餌を漁る
水の神である幼き龍もここに潜む

田の水路に水は溢れ
開墾した土地に種を播き
せっせと育てた苗を(水をはった田に)民が植え
(苗は)すくすくと成長して(稲穂を付け、)それを民が刈り取る
(刈り取った稲穂が)島や丘のように積み上がると
兵も民も充たされる
(中国の孟子の説く)井田(せいでん:正方形の九百畝の田地を井形に九等分し、周囲を民田として八戸に分け与え、一戸あたり百畝、すなわち十反を分け与え、中央のみを公田として八戸の民で協同して耕作させ、その公田の収穫のみを税として納めさせる農地制度)はわれわれ民のための制度
(民は日の出とともにはたらき、日が沈めば家に戻って憩い、水は井戸を掘って飲み、田を耕して飯を食う)
(この暮らしがあれば民のための政治はすでに実現されている。だから)天帝のちからなどもう必要としなくてよいのだ

 天長二年(825年)、巳の年、九月二十五日、これを(石碑に刻み、池を見下ろす南の丘の上に)建てる。

『性霊集』巻第二「大和の州益田の池の碑銘」より

あとがき

 物質としての水の存在から始まり、水をコントロールすることによって得られる食糧生産と労働と豊かな環境、そのために政治が為すべきことなどが説かれる。

 具体的には以下のような項目から成る。
 一、水が草を育て(光合成と炭水化物)、その草を食べて動物は生きる。<植物学>
 二、水という元素(水素)があるから、万物が生まれる。<物理学>
 三、貯水池をつくり、田地を潤す。<土地改良事業>
 四、水中と水辺が多様な生物の住みかとなり、そこに人も遊ぶ。<環境と共生>
 五、貯水池の位置する場所の歴史と文化。<人文地理>
 六、水田によって、民が食べるに困らない国づくり。<労・農政>
 七、水のある環境の変遷。<文明論>

 ここに世界を見る人間空海の確かな目がある。

 余談ながら、この"益田の池"は万葉集の歌に由来する<歌枕>にもなっている。
 「恋は増す(益す)」との意に掛けるからである。また、益田の池に浮いているジュンサイ(ぬなわ)は池の名物となったが、こころの揺れうごく様を表わし、その採集にあたって、茎を「手繰る」から「苦しい」を導くという。
 そのような比喩をもって作られた詩が後拾遺和歌集にある。「わが恋は ますだの池の浮きぬなは くるしくてのみ年ふるかな」である。通釈すると、わたくしのあなたへの想いはますます募り、益田の池に浮いているジュンサイのように揺れうごいている。その根茎を手繰り寄せるように、この恋は苦しいことばかりで、歳月ばかりが過ぎて行く。というようなことを詠ったものである。
 当時の人びとにとって、どれほどこの"益田の池"が大和の国の風情として愛されていたかが分かる。
 しかし、今日そのすがたは堰堤の一部の遺構を残すのみで、もう水辺の風景はないし、銘文を刻んだ石碑も何処かに消えた。

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