紀元前5世紀頃、インドのガウタマ・シッダールタ(ブッダ)によって、世界の三大宗教の一つである仏教が誕生した。
原初のブッダの教え(生きることの本質のさとりと人生苦の縁起・縁滅の法)はその後、多くの仏教徒の思索と実践を経て、約1千年後には生きとし生けるものが共に生きている世界の本質と実利へと人びとを導く仏教へと発展する。
その最新の仏法、すなわち密教の『大日経』と『金剛頂経』の教えのすべてを、唐に留学していた空海は長安の青龍寺の恵果和尚(746~805)から学び、インド伝来の密教第八祖となって806年に日本に帰国した。
その空海が、嵯峨天皇から東寺(796年の創建)を823年に賜った。
824年6月に造営別当に任ぜられた空海は、その翌年の4月には「講堂」の見取図を作成している。それまでに顕教系の薬師如来を本尊とする「金堂」は完成していたから、その背後(北側)に密教の教えを説く、講堂と講堂諸尊の造営を計画したのだ。
講堂と諸尊は839年に落成したが、空海はその4年前に高野山に入定している。
空海が日本の都に浮かべた国家鎮護の方舟には、インドをルーツとする21体の仏像が配された。その容姿、その色彩、その形相に平安の人びとが感じた驚きは如何ばかりであっただろうかー
それから1千年以上の時が経った。
空海の方舟は時代の荒海に耐えて、今日に辿り着いた。
手もとの東寺パンフレットに「講堂の扉を開け、心を動かしてみてください」とある。
いまを生きるわたくしたちとしても、そのバラエティーに富んだ仏像を通して語られる空海密教の深遠なる教えと、本堂(金堂)の薬師信仰に見られる人間の幸福願望に学びたい。
◆現世利益<金堂>
人間は自らの体験を記憶していて、その記憶の組み合わせによって未来を予測することができるが、その知能によって、生活の喜びとなる以下のような事柄を日々願い、祈る。
(1)生きとし生けるものが共に生きる喜び(光明普照)
(2)無心に成し遂げる仕事(随意成弁)
(3)尽きることのない物資(施無尽仏)
(4)正しい道(安心大乗)
(5)許しの心(具戒清浄)
(6)五体満足(諸根具足)
(7)治癒(除病安楽)
(8)女人救済(転女得仏)
(9)正しい知見(安心正見)
(10)重圧からの解放(苦悩解脱)
(11)食の満足(飲食安楽)
(12)衣の満足(美衣満足)
そうして、これらの事柄の獲得と持続を、日光(太陽)による昼夜、月光(月)による12ヶ月、十二支の年度と方位(時と場)にわたって、つまり生涯にわたって願い、祈りながら暮らしている。
それを今日的に言うならば幸福への願いを司っているのが「薬師(やくし)如来<バイシャジュヤ・グル(梵名*)>」であり、その脇侍(きょうじ)として幸福の時と場を遍く照らすのが「日光菩薩」と「月光(がっこう)菩薩」である。(これを「薬師三尊」という)
*梵名:梵語名の略。古代インドの文語であるサンスクリットによる名まえ。
また、薬師如来を信仰する人びとを災いから護(まも)り助けているのが「十二神将(じゅうにじんしょう)」であり、以下の大将たちである。
(1)びから大将<ヴィカラーラ(梵名)>:知力。
(2)しょうとら大将<チャトゥラ(梵名)>:生命力。
(3)しんだら大将<キンナラ(梵名)>:生活力。
(4)まこら大将<マホーラガ(梵名)>:ストレス調節。
(5)はいら大将<パジュラ(梵名)>:扶助力。
(6)いんだら大将<インドラ(梵名)>:大地の恵み。
(7)さんてぃら大将<シャンディラ(梵名)>:エネルギー。
(8)あにら大将<アニラ(梵名)>:豊饒さ。
(9)あんてぃら大将<アンディーラ(梵名)>:観察力。
(10)めきら大将<ミヒラ(梵名)>:自在さ。
(11)ばさら大将<ヴァジュラ(梵名)>:強靭さ。
(12)くびら大将<クンビーラ(梵名)>:身体力。
これらの神々のはたらきによって、人びとの幸福への願いがサポートされている。
以上のようなことで、人間はその知能によって常に幸福を願って生きているが、生まれた時代や社会情勢、各種の災害、生まれついた家庭環境によって、それらは願い、祈るだけで叶えられるものではない。
そこで、そのように個人の運命を支配し、人間を幸福から遠ざけている世の要因を挙げ、そこから何とか這い上がれないかと思案する。それを十界(じっかい)という。
(1)まず、幸福からもっともほど遠いところに、戦争による殺戮や天地自然の災いがもたらす世<地獄界>、
(2)戦争・飢饉・貧困がもたらす飢えに苦しむ世<餓鬼界>、
(3)本能のままに弱肉強食を繰り広げている世<畜生界>がある。
(4)次に、互いの手前勝手な自我を満足させるために悪徳のはびこる世<修羅界>、
(5)人間が人間のみの幸福を求めて、自然環境を汚染・破壊する世<人界>、
(6)それと、人間のちからではどうすることもできない事柄を神のちからに頼りすがる世<天界>まで、人間の際限のない欲望が生みだす世がある。(このように、幸福の願いには自他共にこれで十分というものがないから、祈りにも際限がないのだ)
(7)そのようなことで、心ある者は人生の疑問と苦悩を抱き、正しい見解を得ようと思い、あらゆることを学び<声聞界>、
(8)おのれの肉体と精神の修行による自意識的なさとり(縁覚界)を求め、
(9)やがて、慈しみの心をもって自他の幸福のために行動するようになる(菩薩界)。
(10)そうして、すべての生命のもつ無垢なる知のちからがつくりだしているありのままの世界(仏界)に目覚める。(つまり、欲望の充足という幸福から、生きていること自体がそのままで幸福であるというさとりに至る)
この生命のもつ無垢なる知のちからによる生命のダイナミズム*を説いたのが空海の密教であり、金堂では、薬師如来と十二神将、それに日光菩薩(右)、月光菩薩(左)の両脇侍を安置し、人びとの幸福の羅針盤となってその願いを叶えるが、講堂においては、その願望を人びとにもたらす自我を乗りこえて、自我の根源にある生命そのもののもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによって成り立っている自然界を、21体の仏像によって説く。
*ダイナミズム:哲学用語。自然界の根源を力(ちから)とし、これを物質・運動・存在・時間などの一切の原理とする説。空海は、自然=生命の根源の力を六大(六つの粗大な物質要素)、すなわち地大(固体)・水大(液体)・火大(エネルギー)・風大(気体)・空大(空間)と識大(知)とし、それらのエネルギー代謝と無垢なる知によって、生命世界が存在すると説く。
◆生命のダイナミズム<講堂>
建築空間:外壁と内部の柱・梁等、露出する木部はすべて朱(しゅ)塗り。壁・天井は白。
矩形の長い方の南側を正面とする。
講堂の中央には、知を発揮している生命そのものの存在を象徴する大日如来(だいにちにょらい)を中心に、その生命のもっている無垢なる五つの知のちから「五智如来(ごちにょらい)」が配置されている。
この大日如来のグループに対面して右側には、五つの知のちからに対応する五つの知のはたらき「五大菩薩(ごだいぼさつ)」が配置され、左側には、それらの知の母胎である身体の成長・維持と日々の欲望・情動を制御するはたらき「五大明王(ごだいみょうおう)」が配置されている。
須弥壇の四方と左右には、国土と異文化交流と豊穣と福徳を守護する「四天王(してんのう)」と、宇宙の創造神「梵天(ぼんてん)」と、天空と大地の支配神「帝釈天(たいしゃくてん)」が配置されている。
以下は、これらの仏像が物語る無垢なる知のちからとそのはたらきがつくりだす世界である。
[I] 五智如来(ごちにょらい)
五智とは、大日(だいにち)・阿閦(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・阿弥陀(あみだ)・不空成就(ふくうじょうじゅ)の五如来が有している無垢なる知のちから、
(1)大日如来<法界体性智(ほっかいたいしょうち)>:真理の世界そのものの本体がもつ知。
(2)阿閦如来<大円鏡智(だいえんきょうち)>:清らかな鏡に万象を映ずるように、一切万有をありのままに認識する知。
(3)宝生如来<平等性智(びょうどうしょうち)>:あらゆる存在を平等なるものと認識する知。
(4)阿弥陀如来<妙観察智(みょうかんざっち)>:あらゆる存在を差別あるものと認識する知。
(5)不空成就如来<成所作智(じょうそさち)>:生きとし生けるものにはたらきかけ、救済し教化する活動的な知。
を指す。
また、空海は、法界体性智は第九アマラ(=無垢)識、大円鏡智は第八アーラヤ識(大脳辺縁系と視床下部:食欲・性欲・群居欲などによる情動と呼吸・睡眠制御)、平等性智は第七マナ識(言語野と側頭葉:言語と判断・記憶)、妙観察智は第六意識(前頭葉:思考・意志・感情)、成所作智は前五識(頭頂葉・後頭葉:視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の各知覚と姿勢・運動)、の各認識作用を転回して得られると説く。
1、大日(だいにち)如来<マハーヴァイローチャナ(梵名)>(中心)
梵名は、遍く法界の隅々まで光り輝く(光明遍照(こうみょうへんじょう))という意味で、ビルシャナ仏ともいう。
仏教の開祖、ブッダの存在とその教えを宇宙の真理そのものとし、その真理が太陽のごとく輝き、遍く地上を照らすことに喩える。
それでは、今日における宇宙の真理とは何であろうか。
38億年前、海水の中で生命が誕生した。
生命は物質を構成要素とし、物質自らが子孫を産みだす設計図<DNA>と、その転写機能をもち、それらによって、まちがいなく成長・繁殖し、太陽光と大気と水を基本エネルギーとして生きている。そのことがすべての生命に共通する自性のすがた(自性身:じしょうしん*)である。
その本質によって、生命は進化し、多様な種を誕生させた。種とは、同じすがたをしているグループを指し、その形質がDNAによって等しく流出してきて、環境に適合し、子孫を繁栄させたもの(等流身:とうるしん*)である。
また、種ごとの個体は遺伝の法則によって、少しずつ変化した個性(変化身:へんげしん*)をもち、その雌雄の個性の掛け合わせが、次世代の新たな個性をもつ個体を生み、進化している。
そうして、そのように生まれてきた無数の個体そのもの(受用身:じゅゆうしん*)が、それぞれに38年億前の原初生命を受け継いだものである。個体は受け継いだその身体を用いて、それぞれに生き、成長し、他と接触するから、個体には自他がある。
その個体をもつ生物が一様に、早い遅いはあれ、動作(成長と行動)を起こし、対象物や環境とコミュニケーションをとり、そうして、それぞれの生の意志を主張している。
その活動のすべてが、あらゆる生命が生まれながらに具えもっている知<法界体性智:生命知>によって為されている。
その象徴を大日如来と呼び、それらが人間として顕現(けんげん)したのが仏教の開祖、ブッダの存在とする。
*法身(ほっしん)の一つ。法身とは、大日如来が五智をもって顕現した種々のすがたを指す。
2、阿閦(あしゅく)如来<アクショーブヤ(梵名)>(右、後部)
梵名は、動かない・不動・ゆるぎない・無瞋恚の意味で、大円鏡智として「鏡のようにすべてを映しだす」といわれる。
それでは、鏡のように映しだされる生命の事柄とはどのようなことであろうか。
すべての生物にとって、生存の根幹を成しているのは呼吸と睡眠である。
植物は、呼吸によって体内に取り入れた空気中の二酸化炭素に水を加え、光に反応させ、炭水化物を生産する。そのとき、廃棄物として酸素を放出する。
動物はその植物の生産する炭水化物を食べ、体内に取り込み、吸い込んだ酸素で燃焼させ、それをエネルギーとして活動できる。そうして、二酸化炭素を放出する。
その二酸化炭素を植物が摂取する。(この循環によって、動植物が共に生きられる)
また、1日24時間で1回転する地球上で誕生したすべての生物は、その自転にともなう昼夜交代の明と暗のリズム<概日(がいじつ)リズム>によって、基本的に昼間には起きて活動し、夜間には眠って休息することを繰り返している。
この明暗の交代が、脳の視床下部にある「生物時計」というからだのリズムを作りだす部分にインプットされ、昼夜のリズム=からだのリズムとなる。
このリズムにしたがい、人間の体温は朝低く、夕方高くなるように変動し、ホルモンは、糖代謝を調節して生存に不可欠な糖質コルチコイドや、からだの生長を促す生長ホルモン、体温や睡眠に関係があるメラトニンなどの分泌量を増減させている。
メラトニンの分泌量が増加すると、人間は睡眠に入るという。
呼吸と睡眠、そこにすべての生物に共通する本質がある。
だから、その呼吸と睡眠に関わる環境は、絶対に清らかに保たれなければならない。
それが生きるための根幹となる知<大円鏡智:生活知>である。
3、宝生(ほうしょう)如来<ラトナサンバヴァ(梵名)>(右、前部)
梵名は、財宝を生み出すという意味で、平等性智として「すべての存在には絶対の価値があるということを示す」といわれている。
すべての生物は、その生活を維持するために、動物であろうが植物であろうが、衣食住を必要とする。それらをすべての生物が自ら生産し、相互扶助する。その扶助のネットワークによって、自然界が成立している。
そのように、物質から創造された生命が、生きるために物質とエネルギーを自己生産する能力を発揮し、そうして、その生産した物質とエネルギーを互いに利用しあうことによって、生命界が維持されている。
だから、その全体から見れば、生物のすべてはどのような生命であれ、平等の創造性をもつ。
これを<平等性智:創造知>という。
4、阿弥陀(あみだ)如来<アミターバ(梵名)>(左、前部)
梵名は、無量の光明という意味。
無量の光によって、何が意識に映じるのだろう。
あらゆる生物は、万象のあるがままを、知覚によって観察し、判別し、世界を学習する。そうして、対象とのコミュニケーションをはかることによって、個体の自他、個体と種、個体と自然とが共に生きることができている。
観察とコミュニケーションの知、その対象となる世界は無量である。
それが<妙観察智:学習知>である。
5、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来<アモーガシッデイ(梵名)>(左、後部)
梵名のアモーガとは、空疎でない・空しからず・確実なという意味。シッディは成就・完成の意。何事も漏らさず成し遂げることを意味する。
何によって漏らさず成し遂げるのだろう。
あらゆる生物は住む環境に合わせた身体能力によって、
鳥は大空に羽ばたき、
虫は地にもぐり、
魚は水に泳ぎ、
けものは林に遊ぶことができる。
そうして、その行動力において、無垢なる習性を発揮し、衣食住と配偶者を得て繁殖できる。
そこに、種ごとの行動における固有の所作(動作・行為・作業)があり、また、個体の個別の性格を示す所作(ふるまい・身のこなし)もある。
それが<成所作智:身体知>である。
これによって、何事も漏らさず成し遂げられる。
[II] 五大菩薩(ごだいぼさつ)
1、金剛(こんごう)波羅蜜多(はらみた)菩薩<生命活動の原理>(中心)
金剛は「堅くてどんなものにもこわされぬもの」の意味をもつから、したがって、真理や原理を示す。「波羅蜜多」は梵語のパーラミターの音訳で「完成・到達」の意。「菩薩」は梵語のボーディサットヴァの音訳で「さとりを得た(あと)衆生(の立場で利他行を行う者)」の意。
大日如来が衆生を救済するために、菩薩のすがたに化身したものといわれるが、大日のちからを生命知すれば、その生命知によるはたらきの原理を示す。
生命知のはたらきの原理とは何なのだろう。
生物は生命を維持するためにその体内において、一連の化学反応を休みなく行なっている。それを代謝という。その代謝によって、体内に取り込んだ物質を分解してエネルギーを得、そのエネルギーを使って、有機物質を合成・生産している。そのことによって、生物は自らの成長と繁殖を可能にしている。また、自らが生産したその物質とエネルギーを相互扶助することによって、すべての生物が共に生きられる。
それが生命のはたらきの原理であり、その生命が完成させたはたらきによって、生物は活動し、その活動によって自然界の生態系が維持されている。
その究極のはたらきに、生命の知の根源がある。
2、金剛薩埵(さった) <生の理念>(右、後部)
梵名をヴァジュラ・サットヴァという。ヴァジュラはもともと金剛石(ダイヤモンド)の意味で、転じて壊れないもの(不壊)・堅固なものの意。金剛杵をもつ。
すべての生物は、清らかな呼吸と安らかな睡眠を得ることによって存在できる。だから、その基本的な生存条件は絶対に確保されなければならず、障害があってはならないし、常に自由でなければならない。そうして、そのわが身に起きる当然の欲求を、他にも思いやることができれば、そこに生きているものどうしの慈愛がある。
その慈愛に満ちた輪の中に、日々の喜びがある。
3、金剛宝(ほう)菩薩<生産と創造>(右、前部)
無機物質(二酸化炭素と水)から、太陽光を利用して有機物質(炭水化物)を生産しているのが植物であり、その光合成と呼ばれる天然の食糧プラントによって、動物は食べ物を得ることができる。
その植物を食べて育つ草食系の動物を肉食動物が食べ、エネルギーにする。
この唯一無二の食物連鎖を原理とする相互扶助によって、あらゆる生物は共に生きられる。
その連鎖によって、あらゆる生命が開花し、成長し、繁殖できるから、自然界が成立している。
4、金剛法(ほう)菩薩<法則の発見と表現>(左、前部)
万象は法則をもち、その法則は日々の観察の積み重ねによって発見される。
その発見された法則に道理が潜む。
法則と道理が分かれば、そこに世界に対する対処の方法がある。
そうして、その処方箋を描くには、的確な表現力(イメージ・シンボル・単位と数量・作用)が必要であり、その表現を媒体として万象の法則はコントロールされる。
5、金剛業(ごう)菩薩<身体の防御と遊戯>(左、後部)
自然界の相互扶助の原理からすれば、それぞれの個体が共に生きていること自体が、互いの衣食住を救済する潜在的作用そのものである。
そのような連鎖の中で、個体そのものは敵対する対象と苛酷な環境から身を護り、障害を打破・克服し、成長して子孫を残さなければならない。
そうして、そのような日々にあっても、あらゆる生物は住み場である空間(空中・地面・水中)にその身を委ね、無心に遊び、生きている喜びのひとときを得る。
[III] 五大明王(ごだいみょうおう)
1、不動明王<アチャラナータ(梵名)>(中心)
梵名は、(我欲に)動じない・不動の聖者・尊という意味。
すべての障害を打ち砕き、生命の道にしたがわないものを無理やりにでも導き、救済する役目をもち、常に火焔の中にあって、その燃えさかる炎であらゆる障害を焼き尽くすちからをもつのが不動明王である。
これほどの意志とパワーをもって、生きとし生けるものの心と肉体を統御・調整するはたらきをするものとは、何者であろう。
思い当たるものとしては、今日の脳科学において解明されている内分泌物質(ホルモン)の統御・調整に関わる視床下部と大脳辺縁系のはたらきがある。
視床下部は体内の自律神経系と内分泌を交接させる機能をもち、身体の恒常性を保つ神経性調節と体液性調節を維持保証するちからと、各種のホルモン物質の分泌を統括している下垂体を制御する絶大なるちからをもつという。
しかし、その視床下部を統御・調整しているのが、陸上の脊椎動物がその前脳を発達させた大脳辺縁系である。
大脳辺縁系のはたらきとは、個体維持と種族保存の基本的生命活動をたくましく推進する欲求の心の座を形成し、その食欲と性欲と群居(集団形成)欲の成否を記憶していることによって、情動(快・不快・怒り)を起こす座でもある。
したがって、その情動が視床下部を通して下垂体に伝わり、すべてのホルモン物質の分泌に関わるという。
まさしく、最強の座の不動の主(あるじ)が大脳辺縁系なのである。
2、降三世(ごうざんぜ)明王<トライローキャ・ヴィジャヤ(梵名)>(右、前部)
梵名は、三世を調伏した(降伏させた)者という意味。
過去・現在・未来の「三世」にわたる悪い因子を調伏するという。
前述の内分泌物質でいえば、下垂体のはたらき(副腎・甲状腺・性腺などのホルモン制御と成長ホルモンの分泌)に相似している。まさしく、授かった遺伝形質を克服し、個体がたくましく成長し、繁殖することに勝利するちからをもつ。
3、軍荼利(ぐんだり)明王<クンダリー(梵名)>(左、前部)
クンダリーはもともと、とぐろをまくもの・蛇(コブラ)・環状をなすもの(コイル)といった意味で、ヨーガ(とくにハタヨーガ)でいうクンダリニー(体内のチャクラ(輪)といわれるインド身体論でいう器官を循環する(性的な)エネルギー)。
目に見えない外敵・煩悩や障害を除くちからを指す。
甲状腺ホルモンのはたらき(細胞代謝・呼吸量・エネルギー産生の促進。昆虫・両生類等の変態促進)に相似している。
金剛界では甘露軍荼利菩薩とよばれることから「甘露をいれる壺」という意味や、不治の妙薬の意味をもつともいうから、甲状腺ホルモンのはたらきに似つかわしい名である。
4、大威徳(だいいとく)明王<ヤマーンタカ(梵名)>(左、後部)
梵名は、死神ヤマ(閻魔)を除くものの意。
水牛に跨り、田んぼの泥水の中を歩き回るように、あらゆる障害を乗り越えて進んで行くちからを示す。
副腎ホルモンのはたらき(糖・電解質のバランス。性ホルモンの調節。アドレナリン等ストレス反応の調節)に相似している。
ストレスは、人間が対象を知覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)し、記憶する能力をもつことから、そこに快・不快が生じて起こる。
また、戦争や災害による死、飢え、弱肉強食の世、悪徳、幸福の欲求、神への願望によっても起こる。
そこからどうすれば、心と肉体を安らかさへと導くことができるのか、そのために人びとは、他者に施しをし、身を戒め、恥を耐え忍び、心を安定させ、精神を集中し、無垢なる知に目覚めることを求めることになる。
そのあらゆる道の途中にストレスが存在している。
5、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王<ヴァジュラヤクシャ(梵名)>(右、後部)
梵名は、雷を放つ武器をもち、どのような障害をも貫く聖なるちからをもつ神という意味。
雷を放つ神の武器、金剛杵(こんごうしょ:ヴァジュラ)で、一切の悪いものと三世のさまざまな欲望を打ち砕くという。
副甲状腺ホルモンのはたらき(カルシウムやリン酸の調節)に相似する。
すなわち、強靭なる骨格をもつ健康な肉体には、健全なる心が宿るという。
[Ⅳ] 天(神)
1、持国天(じこくてん)<ドリタラーシュトラ(梵名)>(右端、前部)
東方の守護神。
梵名は「国土を支えるもの」の意味。
国土の秩序を護り、支える神。
2、広目天(こうもくてん)<ヴィルーパークシャ(梵名)>(左端、後部)
西方の守護神。
梵名は「異なる目をもつ者」の意味。
口を閉じ、はるか遠方を見渡し、異文化との交流を図る神。
3、増長天(ぞうちょうてん)<ヴィルーダカ(梵名)>(左端、前部)
南方の守護神。
梵名は「発芽し始めた穀物」の意味。
五穀豊穣を司ることから、万物の生長と繁殖の神。
4、多聞天(たもんてん)<ヴァイシュラヴァナ(梵名)>(右端、後部)
北方の守護神。
梵名は「ヴィシュラヴァス神の息子」という意味で、彼の父親の名に由来するが、「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるところから、多聞天と訳された。
財宝・福徳を司る神。
梵名の音訳から、毘沙門天(びしゃもんてん)とも呼ばれる。
5、梵天(ぼんてん)<ブラフマン(梵名)>(右端、中部)
古代インドのバラモン教の主たる神の一つ、万物の根源である梵(ブラフマン)を神格化した「宇宙の創造神」で、ヴィシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)と共に最も重要な神とされる。
6、帝釈天(たいしゃくてん)<シャクローデーバーナーム・インドラ(梵名)>(左端、中部)
「シャクロー」の音訳「釈」と「インドラ」の意訳「帝王」から帝釈天と呼ぶ。
古代インド神話では、最強の神として二頭立ての馬車あるいは象に乗り、金剛杵(こんごうしょ)を執って毒竜と戦い、雨を下界に注ぎ、大地を潤す武神として、人びとの信仰を集めた。
梵天が「宇宙の創造神」ならば、帝釈天は「大地と生命の支配神」。
人間は古代の昔から、自然現象や万物を形成している目に見えないちからを神に擬することによって、神話の世界を創造し、それらを身近に置く知恵をもっていた。
そのことによって、天空を自由に飛び、敵と戦い相手を負かし、雨を降らせ、穀物を実らせ、金銀財宝や幸福までもが支配できるというイマジネーションをもつことができ、そのイマジネーションによって、精神を自在にコントロールすることができた。
ブッダも人間の知が生みだしたこれらの神々を否定しなかったし、この講堂においても、知の重要な一員としての神々を、世界の守護神として配することを空海は忘れなかった。
以上が、東寺講堂の方舟に搭乗している21体の仏像の物語るところである。その要点をまとめると、
(1)五智如来:生きとし生けるものは、共通する無垢なる五つの知のちからをもつ。
(2)五大菩薩:その無垢なる知のちからのはたらきによって、生命の秩序が保たれている。
(3)五大明王:生きとし生けるもののからだの成長・維持は、根本的に物質によって制御されている。(したがって、知といえども物質によって制御されている)
(4)天(神):知がもたらす共通のイマジネーションによって天界が生まれ、その天界の神々によって人びとは結びつき、宇宙に秩序が与えられた。(つまり、知によって人間は護られてきた)
というようなことになる。
これらの無垢なる知のちからとそのはたらきがもたらしている生命の秩序によって、世界が成り立ち、そこに人間の居場所もあると空海は説く。
これらの知があるから、現世利益だけではない幸福がこの世にはある。
あとがき
空海は高野山を人間の肉体と精神が自然と共に生きている存在であることに目覚める修行の場として開いた。
自然環境の中にこそ、人間の生きる真実があると理解していたからだ。
その自然の真実とは、生命が生きる原理のことである。
その原理を説いたのがインド伝来の密教であった。
空海は密教を正式に学ぶ以前に、すでに山岳修行によって、自然の秩序の根幹を感得していた。
そのことは、彼の青年時代の詩「山中に何の楽(たのしみ)か有る」によって分かる。
その山中には、自然を形成する物質要素の地・水・火・風・空があり、それらの物質要素によってかたち作られた生物たち(山鳥や山猿や季節の草花)の生活があり、その自然界を五感によって捉え、言葉にすることのできる人間(ただ独り修行する空海自身)の無垢なる精神(知)があると描写する。
その山中での目覚めがさとりであると彼は記している。(「菩提の妙果、以て因と為す」)
青年期の空海がすでに理解していた、そのような自然の原理を説いたのが『大日経』と『金剛頂経』、すなわち密教の教えだったのだ。
その教えが、平安の都に展示され、今日に伝えられた。