立論-さとりの理念-
紀元前5世紀頃、インドのガウタマ・シッダールタ〔ブッダ〕が説いた「十二因縁」や「四諦」によると「あらゆる存在は因果関係で成立しているから、原因となる存在がなければ結果としての存在もない。そのように、因によって、果としてのモノ・コトが生じるから、心を迷わす執着の対象となるモノ・コトはもともとあったのではない。だから、もとは無である存在に執着することはない」となる。
その「存在の無」をあらためて考察したのが、紀元初頭の学者、ナーガールジュナ〔龍樹〕である。彼はモノ・コトの存在を、相対性によって考察していったが、その相対させる双方の相を特定するには、まず、それらの片方ずつの相対性を求めて、その存在を証明しなければならず、無限の還元におちいる。だから、存在は特定できず、分別もできないと結論付けた。
そのように、特定も分別もできない存在の相が集まって出来ている世界、すなわち空なる世界を超える真実の世界とは何かを求め、その実在する世界に生きとし生けるものが慈しみをもって集い、みなが助け合い、穏やかに暮らすことを願う教え、それがブッダの説くほんとうの教えである。だから(*以上前文、筆者による付加)その大いなる教えを求める、もっとも賢くて心の広い者は、不老不死や天界の教え、それに、自己の心を迷いから救う小さな教えを求めない。
(ブッダが説き、ナーガールジュナが考察した、個々の存在は特定も分別もできないといった空なる世界の扉の向こうには、)生きとし生けるものすべてが平等に有している、いのちの無垢なる知のちからとはたらきがつくりだす真実の世界<マンダラ>がある。そここそが、無垢なる知をもつものが集う場である。
その真実の世界を体得しようとすることが、無上のさとりを求める心を起こすこと、すなわち"発菩提心(ほつぼだいしん)"であり、人間もまた、無垢なる知がつくる生命世界の一員であるから、そこに入ろうと願うならば、まず、さとりを求める心を起こし、その道を歩き始めるのである。
その道においては、次のさとりのイメージが必須となる。
「生きる行為」(呼吸・生産・相互扶助による普遍の行動)
「存在とは何か」(自性の有無)
「絶対自由の心」(あるがままの世界)
これらが、さとりの道の途上にある者が学ぶべき三つの教科となる。
(この教えは、論理によって説かれるのではなく、つまり、ことばや文字によらずに、認識の根源であるイメージによって、心から心へと伝えられるのである)
(以下は、上記三つのイメージについて解説する)
1 生きる行為
「わたくしは、すべての生けるものの世界にあって、その生きものに恵みを与え、それらの心身が安らかで楽しくあるように願います。また、それらのいのちが、わが身にそなわっているいのちと、一体のものであると感得します」
このなかの「恵み」とは、すべての生きものが根本的に有している、呼吸と生産と相互扶助のちから(慈悲)を示し、それらの恵みのはたらきによって、生けるもののことごとくが、この地上に安住できていることを指す。
その世界こそが、無上のさとりの世界である。したがって、自己の小さな心の迷いに対処する、教えを聞いてさとる者の教えや自らさとる者の教えである無我の世界とは、明らかに次元の異なる教えなのだ。
だから、『華厳経』にもいう。
「生きとし生けるものは、どのようなものであれ、いのちの無垢なる知のちからをもっていないものはいない。しかし、妄想やさかしまな考えにとらわれているから、その無垢なる知がつくりだしている真実の世界に気づかない。妄想を捨て去ることさえできれば、あらゆることの真実が見え、自然に生じるあるがままの知のちからを知り、囚われのない自由な知を体得することができるのである」と。
また、「安らかで楽しく」とは、すべての生きものが、いのちの無垢なる知のちからをもって生きているから、それらの生に対して、軽んじたり、おごることなく、慈しみをもって接するようになる。その慈しみ(の原点である、相互扶助の知のちから)によって、すべての生きものが、求めに応じて助け、わが身を惜しむことなく、心身が安らかで楽しめるように念じなければならない。そうすれば、信頼すべき存在となれるであろう。その信頼によって、たとえ、相手に不備なものがいたとしても、無理強いすることなく、相手に合わして助けをほどこすことができる。
2 存在とは何か
「モノ・コトは、人間がそれらを分別するから、その存在が認められるのだが、その認められたことが、存在の自性であるとはいえない。それはなぜか」
(モノ・コトの観察者である人間の心の鏡には、あらかじめ各種の色が付いていて、その鏡に映しだされたモノ・コトが、存在の本質である訳がない。では、どのような色に染まっているのだろうー)
凡夫は、世間の名誉や利欲、財産に執着して、裕福さを求め、むさぼりやいかり、それに愚かさの感情と、見る・聴く・嗅ぐ・味わう・触れるの快感を求めて行動し、それらをモノ・コトの判断基準にする。
また、欲望の究極の教え(道教やバラモン教など)を信じる者は、不老不死や天界への生まれ変わりを望むが、それらへの願望は、物質や精神に対する欲に囚われていて、その延長上にある空想の世界から脱けだすことができていない。
また、ブッダの説く、四諦(これ生ずればこれ生ず、これ滅すればこれ滅す)、すなわち、苦・集・滅・道の教えを聞いてさとる者と、同じくブッダの説く、十二因縁の因果の連鎖の教えによって自らさとる者は、その教えに囚われていて、無我のさとりに浸ることはあっても、それ以上の無上のさとりを求めようとしないから、物質や精神の実体を知ることもない。
(その物質や精神の実体とは次のようなものである)
すべての物質は、固体・液体・エネルギー・気体のたった四つの要素によって出来ていて、その要素の組み合わせが、万物の素質と形状をつくりだしている。
人間は、万象を五感によって知覚し、その知覚が描きだすイメージにより情動を起こし、それらを記憶する。それらの記憶の総合によって紡ぎだされる人格表現、それが精神となる。
(そのようなことであるから、)すべてのモノ・コトは自性をもたず、不変でもないから、空なる存在である。だから、空であるものに囚われることはない。(したがって、物質と精神がもたらす欲望の究極の教えを信じる者たちは、空であるものに囚われることを望んでいる)
また、五感<前五識>の知覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が対象をとらえることによってつくりだすイメージ<第六意識>を空なるものとして克服しても、心には、実在する空間とからだの状況を、その事態の文脈によってとらえる知<第七マナ識>と、生きるための欲求となる、呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動をつかさどっている知<第八アラヤ識>があり、それらは、第六意識によるモノ・コトの分別とは関わりのない、存在の本質に関わる無垢なる知であり、その根本の知に目覚めることは、自己に心の迷いをもたらしている自我からの解脱とは次元の異なるものなのだ。
いま、無上のさとりを求める者が、以上のような存在イメージをもち、また、生きとし生けるものすべてに恵みを与え、それらの心身の安らかさと楽しさを願うならば、そのゆるぎない大きな慈悲の心によって、すべての教えを超越し、迷える凡夫の生き方から、いのちの無垢なる知のちからのはたらきにしたがう、あるがままの生き方に入ることができるだろう。
また、すべての存在は自性をもたないということが、(ブッダとナーガールジュナによる)因果論と相対性による考察によって論証されたが、そのような論証がなくても、実体としても次のようなことが云える。
そもそも、妄想による存在が繰り広げられることによって、限りない欲望が惹き起こされ、それらが迷いとなり、殺し合い・飢え・畜生・犯罪・ヒューマニティー・神の世界にさまよい生きることになる。しかし、さとりによって目覚めれば、妄想が惹き起こしていた迷いの存在は消える。だから、自らの本性をもつ存在など無いのである。
また次に、いのちの無垢なる知のちからがもたらす慈悲のはたらきは、生きとし生けるものを救済する。そのはたらきは、病気に応じて薬を処方するように、もろもろの教えをほどこし、それぞれの迷いに応じてその迷いを断つ。そうして、あたかも筏で河を渡ってしまえば、その筏は必要なくなるように、もろもろの教えは捨て去られる。それは、自らの本性がないからである。
『大日経』にも説かれている。
「もろもろの存在に、その本性はない。いうならば、虚空のような相(すがた)である」と。
以上のようなことが、「存在」のイメージである。
まさに、次のように理解すればよい。
「あらゆる存在は空である。だから、存在は生滅しないし、心身もあるがままであり、執着すべきものは何も無い」と。
『華厳経』十地品(じゅうじぼん)にも次のように説かれている。
「慈悲の心をもち、無垢なる知のちからを主として、それらが手だてとなれば、無上のさとりの教えを信じる清らかな心に、いのちのはかり知れない知のちからが蘇ったということである。
そのとらわれのない、すべてを理解できる無垢なる知は、自らにもともとそなわっていたのであり、他から与えられたのではない。
その知に目覚めることこそが最上のさとりというものだ。
生きとし生けるものの子として、そのさとりの心を起こせば、凡夫の世界から、いのちの無垢なる知のちからのはたらいている真実の世界へと向かうことができる。
その自らのもつ無垢なる知のちからのはたらきによれば、さとりの条件に欠けるということがなく、すべてのいのちと平等のあるがままの世界に入ることができるだろう。
このような心がわずかでも生じれば、さとりの道のスタートラインに着けるのだ。
そうなれば、その心が不動なること、ヒマラヤの山のごとくである」と。
また、同経典によれば、「いのちの無垢なる知のちからのはたらきは、すべて、大いなる慈悲の心を根本としている」とも述べている。
また、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』においても同じことを述べている。
また、『涅槃経(ねはんぎょう)』においても、「チュンダ(ブッダに最後の食事を捧げた人)に敬礼する。チュンダのからだは人間の肉体をもつが、心はいのちの無垢なる知のちからのはたらきをもつ者である」とある。
同じく、『涅槃経』で、次のように説いている。
「世の中への慈愛によって、人びとを苦から救う名医にも喩えられるブッダは、その行為と知、ともに静寂なる無上のさとりの世界におられる。
その(無上のさとりによって)絶対自由の心をもつ方に敬礼します。
さとりを求めようとする心を起こすときも、さとりの境地にあるときも、自由な心に変わりはないが、最初にさとりを求めようとする心を起こすことのほうが難しい。
なぜかというと、そのさとりが自らの心の迷いに向けられたものでなく、慈悲の行ないによって他を救おうとするものであるから、そのような心を初めから起こすこと自体が難しいのだ。しかし、難しさを克服しただけに、そのさとりを求める心が起きたときには、すでに、人間と神を含め、世界全体を導こうとしており、自らの利益のみを求める心は超えられているし、三つの迷いの世界、欲望と物質と精神がもたらす境界をも超えている。
だから、そのときの心(無上のさとりを求める心が起きたとき)がもっとも尊いのだ。
それらのことは、『大日経』住心品にも説かれている。「さとりを求める心を因とし、大いなる慈悲を根本とし、手だてをもって究極とする」と。
3 絶対自由の心
無上のさとりを求める者が、最初の「生きる行為」の根本のイメージと、二つめの「存在」の自性のイメージを観じ終わると、次には、あるがままの世界(あらゆる生きものが呼吸することによって生き、夜になると眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、日が昇ると起きて活動し、成長する。そんな純然たる生命世界)に住している「絶対自由の心」をもつ自己に目覚める。
その感得されたイメージによれば、あらゆる生きものは、いのちの無垢なる知のちからによって「絶対自由の心」をもって生きているが、しかし、人間だけが、むさぼり・いかり・おろかさの欲望にしばられて生きていると気づく。
そこで、人間にも宿っているいのちの無垢なる知が、巧みな手だてでもって、無上のさとりを求めるように人びとを導くのである。
(その手だてとは、以下のようなものである)
月輪(がちりん)のイメージ:心に浮かべた白い円のなかに、自らがもつ無垢なる知のちからを映しだす方法である。それはあたかも、満月の光が白く輝き、すべてのものを明らかにするように、あさはかな分別の影をなくし、隠されていた根源の知を照らしだすのだ。
(では、月輪に映しだされる、いのちの根源の知とは、どのようなものであろうか)
生命のもつ五つの知のちから<五智(ごち)>
生きとし生けるものは、そのすべてが、いのちの無垢なる知のちからをもち、そのはたらきによって生きている。
(1)生活知<大円鏡智(だいえんきょうち)>
あらゆる生きものどうしが、共に呼吸・睡眠を無心に為して生きている知。
(2)創造知<平等性智(びょうどうしょうち)>
あらゆる生きものどうしが、共に衣・食・住を生産・相互扶助している知。
(3)学習知<妙観察智(みょうかんざっち)>
あらゆる生きものどうしが、共に持ち前の知覚によって住む世界を観察し、コミュニケーションを取り合い、秩序を保っている知。
(4)身体知<成所作智(じょうそさち)>
あらゆる生きものどうしが、共にからだを空間に遊ばせ、生を無心に楽しむ知。
(5)生命知<法界体性智(ほっかいたいしょうち)>
太陽の光と水と大気の恵みによって誕生した生命が、さまざまな環境に適応して個性をもち、多様な種を生みだし、共に生きることによって豊かな自然を構成している知。
この五つめの生命知から、生活知・創造知・学習知・身体知の四つの知が流出している。そうして、その四つの知のちからはそれぞれに、生存(呼吸/睡眠)・生産(衣食住の相互扶助)・法則(コミュニケーションと秩序)・行動(所作と遊び)の原理を有していて、その原理が、過去・現在・未来にわたって、もろもろの知のはたらきを生み育てる母となっている。
また、四つの知のちからは、一つの知がそれぞれに四つの分野のはたらきを為し、そのはたらきは全部で十六分野になるから、その十六分野がそれぞれに月の満ち欠けの一分となり、つまり、新月から満月に至るまでの十六段階に見立てられるのである。
十六種の空
また、『大般若経』には、第一種の空「人間の五感と意識による六根は、感受する対象があって、その機能を発揮できるものであるから、六根自体に自性は存在しない」から始まり、第十六番目の空「実体的な自我と万象は、いずれも、その存在を特定することができないから、それらへの執着は実体をもたないものとなり、執着をいだいている者の自性もまた、存在しない」と説いている。
その十六種の空をさとるごとに、心の根源にあるいのちの無垢なる知のちからが次々と開示され、そのはたらきによって、自他を導くことになる。そのはたらきは、殺し合い・飢え・畜生・犯罪・ヒューマニティー・神の各種の生存状況にあっても、変わることがない。
十六分の一の空によってもたらされる、無垢なる知の輝きは、月輪の十六分の一ずつの明るさに喩えられ、空が増すごとにだんだんと明るさを増し、やがて、十五夜の満月に至り、何の妨げのない名月となるのだ。
根源の言語「ア字」
(人間が声を出して、そのひびきのちがいを聞き分けることによって、双方の意思を伝え合うことが言語であり、その声を記号化して書き記したものが文字である。その表音文字において、世界の言語に共通している原初母音の「a」は、人間が最初に発する声であり、この声音からすべての言語が誕生した。したがって、「ア字」そのものが万物の知の根源であり、もともと存在していたものになる)そのように、「ア字」のもつ意味を感得できる者が、心を定めて、この文字を(月輪の八葉の蓮の上に)イメージすれば、そこに、世界の真実を垣間見ることが可能になる。また、「ア字」を常に見て、万物の知を展開すれば、言葉は無限大に広がり、そうして、その言葉によって、自在に万物をコントロールできるようになる。まさに、いのちの無垢なる知のちからのすべてが表現・伝達できるようになるのだ。
身体・言語・心の作用<三密(さんみつ)>
自らがもつ、いのちの無垢なる知のちからとはたらきを開示させるために、身体・言語・心をどのように作用させればよいのか。
「身体的作用」:手と指のしぐさにより、いのちの無垢なる知のちからとはたらきを招く方法。
「言語的作用」:声音のひびきとその文句により、いのちの無垢なる知のちからとはたらきを誤りなく表わす方法。
「心的作用」:無垢なる知のイメージ(まるくて、白く清らかな月輪)を心に浮かべ、そのイメージを操作することにより、知のちからとはたらきをコントロールする方法。
さとりの階梯<五相成身観(ごそうじょうしんがん)>
自らに宿る、<いのちの無垢なる知のちから>をさとるための階梯。
(1)(分別による迷いから離れて)自らの心の根底にある<いのちの無垢なる知のちから>にアクセスさせたまえ。「第一、通達菩提心(つうだつぼだいしん)」
(2)まるくて、白く清らかな月輪のイメージを心に浮かべ、そのなかに自らのもつ<いのちの無垢なる知>を映し見る。「第二、修菩提心(しゅぼだいしん)」
(3)そこに映しだされる<いのちの無垢なる知>によって、あらゆる生きものどうしが、共に大気を呼吸し、夜になれば眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、日が昇ると起き、その光によって活動し、成長している。そのまぎれもないいのちの原理を月輪のなかに見る。「第三、成金剛心(じょうこんごうしん)」
(4)そのまぎれもないいのちの知の原理によって生かされている、わたくし自身のからだが見える。「第四、証金剛心(しょうこんごうしん)」
(5)そのからだの、<いのちの無垢なる知のちからとはたらき>の目覚めを堅固にさせたまえ、完成させたまえ。「第五、仏身円満(ぶっしんえんまん)」
以上の五段階のイメージによって、自らのもつ<いのちの無垢なる知のちから>とからだが一体となるのである。
すべての生きとし生けるものは、生まれながらにして、すでに無垢なる知とからだが一体化しているさとりを得ているから、生きものの種に進化の早い遅いがあったとしても、みな同じことをさとって、生きて来たし、生きているし、生きて行けるのだ。
清濁の環境であれ、あらゆる社会状況(殺し合いから神の世界)にある生きものであれ、あるいは自らだけのさとりにある者、他を救う者、あるいは過去・現在・未来の世界の生成と破滅のとき、あるいは生きものの多様な種のなかに、<いのちの無垢なる知>は宿っていて、そのちからとはたらきによって世界が保たれている。
だから、『大日経』「成就悉地品(じょうじゅしつじぼん)」にも説かれている。
「このような心の真実のすがたこそが、ブッダが説かれたことなのだ」と。
生命のすがた<四種法身(ししゅほっしん)>
いのちの無垢なる知のちからとはたらきがつくりだす生命のすがた。
(1)太陽光の下、呼吸と食物の連鎖、すなわち物質燃焼によるエネルギーを交換することによって、あらゆる生きものが共に生きているすがた。<生命圏:自性身(じしょうしん)>
(2)多様な種の個体が、親から受け継いだ、たった一つのかけがえのないすがた。<個体:受用身(じゅゆうしん)>
(3)同じ親であっても、それぞれの個体は遺伝の法則によって異なる個性をもつ。その変化するすがた。<個性:変化身(へんげしん)>
(4)生命が進化し、多様な種となり、種の形質がDNAによって等しく流出してくるすがた。<多様な種:等流身(とうるしん)>
このすべてのすがたを、一個ずつの生命がもっている。
以上の無上のさとりを求める行為とその存在とあるがままの世界のイメージのなかに、いのちの無垢なる知が蔵されている。その知の蔵を開けねばならない。そうすれば、それらの知によって、あらゆる生きものが導かれるのだ。
もし、そのような心の根底に帰ることになれば、生きとし生けるものが存在するこの世が、そのままにして浄土となる。
そのさとりを求める心を詩にして説く。
もし、人あってさとりを求め
いのちの無垢なる知のちからを得ることができれば
父母によって生まれたこの身そのままで
たちまちにして、ブッダ(目覚めた人)になる。
(この『菩提心論』は)『金剛頂経』(いのちの原理の教え)を学ぶにあたって、自らのもつ、生きることの根源の知にアクセスする方法を論じる書である。
あとがき
空海の教学を学習するには、本人の六種の著作(『弁顕密二教論』『般若心経秘鍵』『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『秘蔵宝鑰』)と、本人の著作ではないこの『菩提心論』の一冊を加え、テキストとする。したがって、この『論』が空海の教学にとって必要不可欠のものであると分かる。(視点を変えれば、空海にとってこの論書が、密教を学ぶための教科書であったということであり、他は自らの著作である)
空海はその著『二教論』で、『瑜祗(ゆぎ)経』に説かれている「五大(四大)」「五智」「三密」「四種法身」等の密教の主要概念を紹介しているが、それらの概念と同じものが、この『論』でも展開されている。
また、さとりとは、形而下のインスピレーションによって、あるがままの世界と絶対自由の心に目覚めることであると思われるが、そのような事態を、ダイナミズムと象徴的なイメージによって説く手法は、空海の著作に相通じるものである。
さて、この論書が、自らの心の本性を観察するための、お坊さんにとっての実践書であると承知しているが、今日を生きる世俗にとっても、生命をあらためてイメージするための方法を示してくれているように思う。