1総論
1-1序
(いのちの無垢なる知のはたらきを象徴する)文殊菩薩は、(生きとし生けるものすべてが等しく為すことのできる、生産と相互扶助の)知恵の剣によって、もろもろの無益の議論(による自我の主張)を断ち切る。
(人間による、その無益の議論によらずに、すべてのいのちがもともと有している、無垢なる知のちからを開示させ、その知の調和による知恵を発揮させることができる)般若菩薩が説く梵文(古代インドの経文)は、衆生の迷いを取り除き、さとりに導いてくれる師である。
(また、そこに記されている)梵字(古代インド語)のチク(般若)とマン(文殊)は
それぞれの一文字のなかに、いのちのもろもろの教えを含んでいるという。
(さて、)際限なくつづく人生において、人間がさとりを求めようとするならば
ただひたすらに瞑想し、正しい思索を積み重ねるしかないが
(幸いにして、)ブッダ(インド、紀元前五世紀)が修行によって、すでに、いのちの無垢なる知のちからに目覚めておられたから、(そのさとりによって、)般若と文殊の理念が生み出され、両菩薩による、さとりの言葉が説かれるようになった。
その言葉の深部が示す意味とはたらきを、わたくし空海がこれから説き明かそうと思う。
(その深遠な事柄については、先人たちがなぜか説かなかったことであるので、それらを説くことが、為すべきことなのか、そうしてはいけないことなのかは分からない。その是非の判断については賢者に委ねたい)
(そいうことなので)ブッダよ、(言うべきでないことを言ってしまうことになるかもしれませんが)お許し下さい。
(いのちの無垢なる知のちからの目覚めにもとづく)ブッダの教えは、遥かにあるものではなく、わたくしたちのからだのなかにもともと存在しているものである。だから、このからだを捨てて、どこに、迷いとか、さとりが存在していることになるのだろう。
そこで、自らに内在しているさとりに目覚めるために、密教においては、さとりの過程を、いのちをうごかしている基本原理図と、そのいのちが展開する知の世界図として示し、人びとがその図の上をたどれるようにし、また、顕教においては、ブッダの教えにもとづく経典を各様に解釈し、その解釈の柵のなかで、それぞれの宗派の馬に鞍をつけ、駆け出すことになった。
さて、前述した般若菩薩によって説かれた経文『大般若波羅蜜多心経』がここにある。文章は一枚の紙に満たなく、たった十四行にすぎない。その内容は簡単であるが要領を得ていて、しかも、短いけれども深い意味を含んでいる。
(その『心経』の要点を以下、述べる)
(まず、経文の始め部分の)<深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみつた)>の一句のうちには、1、伝承されたブッダの説法。2、ブッダの教えにもとづく集団規律。3、ブッダの教えの解釈論。4、いのちの無垢なる知のちからのはたらき。5、原初の言葉(古代インド語)によって綴られたブッダの教え等、さまざまな視点から説かれた悟りの教えがことごとく含まれていて尽きることがなく、また、諸宗が説く、それぞれの教えによる求道の成果が、<三世諸仏依般若波羅蜜多(さんぜしょぶつえはんにゃはらみつた)>から<三菩提(さんぼだい)>までの(経文後半の)一行に、あますところなく取り込まれている。
(また、経文の出だしとなる)観自在菩薩(生きとし生けるものすべてが、持ち前の知覚によって、世界を観察し、そうして反応し、他とコミュニケーションを図ることのできる知のはたらきを示す菩薩)は、その自在な観察力、すなわち、学習力よって、無知を克服し、一切の苦しみや災いを乗り越え、真実の世界に目覚めることができる。<観自在菩薩(かんじざいぼさつ)><度一切苦厄(どいっさいくやく)><究竟涅槃(くきょうねはん)>
それらの学習を人間は、認識プロセス(1、モノ・コト→2、知覚→3、イメージ化<形象/シンボル/声と字/作用>→4、イメージによる分析と判断→5、認識<分別によるモノ・コトの記憶>)<五蘊(ごうん)>にしたがって為し、そうして、その知覚され、認識されたモノ・コトが、時間的経緯(過去・現在・未来)を通じても、普遍的な事象であるかを思考・検証する。<三世諸仏(さんぜしょぶつ)>
ブッダが「この世界は論理によって分別することができないから、認識的には空なる存在であり、その空なる存在こそが、世界の真理である」と説くと、(生きとし生けるものすべてが、清浄なる自然と呼応<呼吸・睡眠・エネルギー循環>して、無心に生きられる知のはたらきを示す菩薩)普賢は、あらゆる存在は融通無碍なるものであると気づき、微笑んだ。<色不異空(しきふいくう)空不異色(くうふいしき)>
ブッダが「あらゆる存在現象は、生じず滅せず、連続も断絶もなく、一でもなく多でもなく、去来しない」と説くと、(生きとし生けるものすべてが、みな等しく、生産と相互扶助を担うことのできる知のはたらきを示す菩薩)文殊は、無益な議論を止めて、(すべての存在はエネルギーの移動に過ぎない。そのエネルギーからみれば、すべては不変であると知ることができる。そのような)連鎖のなかでしか存在しえない個々を、人間の認識作用で一々、把握・分析してみても際限のないことであると気づき、(しょうがないと)笑った。<不生不滅(ふしょうふめつ)不垢不浄(ふくふじょう)不増不減(ふぞうふげん)>
ブッダの説く「実在する空間と現象はあるがままであり、そこに認識作用を及ぼしているのは人間である。だから、対象となるものの存在は認識主体と不二である」との言葉に、(生きとし生けるものすべてが、そのからだを動かし、空間に遊び、楽しむことのできる知のはたらきを示す菩薩)弥勒は、(「そう、実在しているのはあるがままの世界と、この形而下のからだのみである」と、)手をたたいて喜んだ。<是故空中(ぜこくうちゅう)無色無受想行識(むしきむじゅそうぎょうしき)>
(ブッダの説く、)十二因縁(1、人間は知覚とその知覚したことをイメージできる能力をもって生まれてくる。2、だから、世界を識別することを性とする。3、識別することによって、あらゆるモノ・コトを分類し、それらに名まえをつける。4、そうして、分類し、名まえがつけられたモノ・コトを、目・耳・鼻・舌・身体・意識によって認識する。5、認識されるモノ・コトは、色とかたちとうごき・声と音・匂い・味・感触・法則である。6、それらの認識によって、あらゆる対象となる世界に遊ぶことができる。7、しかし、そのことによって心に快・不快が生じ、8、快・不快によって情動を起こす。9,そうして、情動を記憶することによって心に執着が生じ、10、その執着によって生きようとする。11、その生への執着のちからによって人間は生まれ生まれて、12、そうして、老い、死ぬ)、すなわち、<無無明亦無無明尽(むむみょうやくむむみょうじん)乃至無老死亦無老死尽(ないしむろうしやくむろうしじん)>は、(何事も、人間のもつ認識作用によってとらえられた事柄であるので、その認識が作用しなければ、世界はあるがままに存在していて、生じることもないし、滅することもないということを)自らさとる者に教え示し、四諦(これ生ずればこれ生ず、これ滅すればこれ滅す)、すなわち、<苦・集・滅・道(く・じゅう・めつ・どう)>は、(自らさとるのではなく)教えを聞いてさとる者に示される。
(以上のように、経文の教えは奥深く、)ましてや、経文の最後に説かれる(古代インド語の)<ギャテイ>の二字は、もろもろの教えによるさとりへの到達を告げ、<ハラソウ>の二字は、(ブッダの教えの原点である)無垢なる知のちからの目覚めを告げている。また、それらの古代インド語の一つひとつのひびきは、原初の言葉のもつ、情景を開示させる無限のちからを秘めていて、その場面で展開される教えには、永遠に尽きるということがない。
このように、この経文を唱え、学習するならば、生きとし生けるものすべてが根源的に有している、いのちの無垢なる知のちからのはたらきが発揮され、心の安らぎと生きるパワーが与えられるのだ。そのように、まことに深い意味をもった経文なのである。
1-2経題について
『仏説摩訶般若波羅蜜多心経(ぶつせつまかはんにゃはらみつたしんぎょう)』の言語的分析。
<漢語>「説」「心」「経」の三字のみ<梵語>(古代インド語)による読み方『ブッダ・バーシャー・マハー・プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラム』「ブッダ(仏)」:真理に目覚めた人。「バーシャー(説)」:秘密を開示して、説法すること。「マハー(摩訶)」:偉大、多いこと、勝れている。「プラジュニャー(般若)」:さとりによって得られる真実の知恵。(いのちの無垢なる知のちからのはたらき)「パーラミター(波羅蜜多)」:達成した、完成。「フリダヤ(心)」:中心、心髄。「スートラム(経)」:貫き通る、まとめ保つ。(言葉を繋ぎ、教えを伝承すること)(「真理に目覚めた人が説く、勝れた知のちからのはたらきに達成するための心髄の経文」)
当経題そのものは、いのちの無垢なる知のちからのはたらきをもつ「人」が、そのちからの原理「法」を、字と声で簡潔に説くことを意図している。したがって、文脈を構成する文字の一つひとつは平易であっても、実は、どれも真理の深い意味を併せもっているから、文字そのものは「喩え」である。
1-3説法の場
この『心経』のさとりの教えは、ブッダが鷲峯山(じゅぶせん)におられた時、弟子のシャーリプトラ(舎利弗)たちのために説かれたものである。
1-4翻訳本
この経には、数種類の翻訳(梵語→漢語)があるが、今、わたくし空海が解釈するのは、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の訳である。
1-5「般若心」とは
この経文の最終に唱える<ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジソワカ>は、いのちの無垢なる知のちからのはたらきを示す<般若>の言葉のパワーを秘めているから、「般若心(般若の心髄)」という経題が付けられた。ある者が「『般若心経』は『大般若経』を要約した内容を含むから、心と名づけられた。(したがって、)両者は同じ説法の場で説かれた教典である」というが、前者の内容に後者の片鱗が見られるといっても、龍に蛇のうろこが付いているから、龍が蛇であるとは云えないように、両者は別々の場で説かれた教典なのだ。
2各論
2-1区分
この経典の説く内容は大きく五つに区分できる。
(一)さとりの過程を説く部分。「観自在(かんじざい)」より「度一切苦厄(どいっさいくやく)」に至るまで。
(二)無垢なる知のはたらきを説く部分。「色不異空(しきふいくう)」より「無所得故(むしょとくこ)」に至るまで。
(三)さとりのもたらす恵みを説く部分。「菩提薩埵(ぼだいさった)」より「三貘三菩提(さんみゃくさんぼだい)」に至るまで。
(四)原初の言葉への回帰を説く部分。「故知般若(こちはんにゃ)」より「真実不虚(しんじつふこ)」に至るまで。
(五)原初の言葉のひびき(真言)による経文を説く部分。「ギャテイギャテイ」より「ソワカ」に至るまで。
の五つである。
(以下は、区分ごとの解釈となる)
2-2さとりの過程
さとりの過程には五つある。因・行・証・入・時である。
(1)あらゆる生きものが共通して有している、いのちの無垢なる知のちからが人間にもそなわっていて、その知に目覚めようとすることが、さとりを求める原因〔因〕となる。<観自在>
(2)いのちの無垢なる知のちからによって、対象を観察(学習)すれば、そこに真理が開かれる。その真理に至る道が修行〔行〕である。<深般若>
(3)実在する対象があって、認識は作用する。その認識が作用しなければ、対象は分別されずに空(くう)のまま〔証〕である。そのあるがままの空の世界が開くことによって、無垢なる知のちからも発揮される。<照空>
(4)無垢なる知のちからによって、自然の道理と一体になれば、安らかな境地を得る〔入〕ことができる。<度苦>
(5)いのちの無垢なる知のちからは、多様ないのち(種)がさまざまな歳月〔時〕をかけて(つまり、長い修行時間をかけて)得たものである。<時>
詩文によるまとめ。
(世界を)観察し、学習するということは人間の認識作用によるからその作用がなければ、世界は分別されずにあるがままの空(くう)である(その空の世界で、)いのちを果てしなくつなぐ者たちは(人間の認識作用に頼らなくても、)自らがそなえもっている無垢なる知のちからのはたらきによって無心に生きてきた
2-3無垢なる知のはたらき
知のはたらきにも、五つある。
(1)生活知のはたらき<普賢(ふげん)菩薩>
<「色不異空」から「亦復如是(やくぶにょぜ)」まで>
生活知とは、生きとし生けるものすべてが、自然と呼応(呼吸・睡眠・エネルギー循環)することによって生きていることができる知。その衆生のからだが必ずもっている、知の根本のはたらきによって、自然現象そのものが知であり、知が自然現象となる。
(そのように、生きて呼吸していることが生活していることの根源であり、その生活を守るために、あらゆるいのちと自然とが共生している。その共生のおかげで、多様な種が地球上に生まれ、存在しているし、また、その一つひとつの個体のもつ、無垢なる知のちからも発揮されることになる)
詩文によるまとめ。
現象としての存在と、その存在が論理によっては分別できないという空の考察とは、もとより二つのものではない(つまり、)現象としての存在と、知によって考察された存在の道理は、本来的に同一のものである(この世界においては)現象と知、知と知、現象と現象は妨げなく関連しあって存在している。(そのことは)見えないちからの本体も、そのはたらきによって見分けがつくように、大海(無垢なる知による真理の世界)のちからも、その波立ち(現象)がなければ分からないようなものだ
(2)創造知のはたらき<文殊(もんじゅ)菩薩>
<「是諸法空相(ぜしょうほうくうそう)」から「不増不減(ふぞうふげん)」まで>
(生きとし生けるものは、この世に生まれ、成長し、生産と衣食住の相互扶助のはたらきを、みな等しく為すことができている。その連鎖している創造のはたらきからみれば、すべての存在は)
生じないし、滅しない。
断絶しないし、連続しない。
同一ではないし、別でもない。
来ることもないし、去ることもない。
この八つの否定によって、この世界には、とらわれるべきことは何もなくなるから、執着の心を絶つことができる。(だから、生きとし生けるものすべてが、それぞれの持ち分の能力を無心に発揮し、自然を形成し、循環させている)
詩文によるまとめ。
八つの否定の剣が、無益な執着を断ち切るそれを行なうのは、すべてのいのちがみな平等にもっている、生産と相互扶助による連鎖の剣であるそこには、あらゆる分別を否定した世界<空>があるそうして、そこから生じる慈悲のはたらきこそが、もっとも奥深いのだ
(3)身体知のはたらき<弥勒(みろく)菩薩>
<「是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき)」から「無意識界(むいしきかい)」まで>
(生きとし生けるものすべてが、そのからだを空間に遊ばせ、生を無心に楽しむことのできる知のはたらきをもつ。その知にしたがえば、)このからだは、外界の認識対象から離れて本来的に自由であり、その自由は、あるがままの自然の道理にしたがうことによって得られる。(そう、自然とからだはもともと同じものであり、それを遮断しているのは認識による分別である)
詩文によるまとめ。
自我と分別へのとらわれを、いつになったら断つことができるのだろうか(それには)無限の時がかかるだろう人間の心の根底にあるのは、生きるための無垢なる知のちからのみであり(それ以外の分別によってとらえられた)世界は仮のすがたにすぎない
(4)因果知のはたらき<声聞(しょうもん)・縁覚(えんかく)>
<「無無明(むむみょう)」から「無老死尽(むろうしじん)」まで>
認識作用は知覚の対象が存在することによって生じるものであるから、その認識によって形成されている自我に、もともとの実体はない。また、知覚の対象となる存在がなければ、認識は生じないということになるが、この二つの真理は、教えを聞いてさとる者の教え(声聞)と、自分自身でさとる者の教え(縁覚)の二つの教えとなる。
詩文によるまとめ。
風に散る木の葉に因果の道理を知るどれくらいの年月をかければ、人間は生死の繰り返しをさとるのだろうか光る花の露が消えるのを見て、迷いが取り除かれるように声聞と縁覚も自らの迷いを取り除くための教えなのだ
また、ブッダの説法した<「無苦集滅道(むくしゅうめつどう)」>は、聞いてさとる者の教えとなる。
詩文によるまとめ。
白骨になれば自我はない人間は永遠に生きることができない(そういうことで、)学ぶべき師とすべきは、(今、ここにある)わたくしのからだ<不浄>と、その知覚<苦>と、その心<無常>であるが、それらによってとらえられた認識は、対象があって生じたものだから、わたくしのものといった実体がない<無我>そのようなことを学ぶ者は、どのようなさとりの楽しみにひたるのだろうか
(5)学習知のはたらき<観自在(かんじざい)菩薩>
<「無知(むち)」から「無所得故(むしょとくこ)」まで>
(生きとし生けるものすべてが、持ち前の知覚によって、住み場所となる世界を観察し、あるがままに反応し、他とコミュニケーションを取り合うことができることによって、自然が調和している。そのような観察力が真実の学習力である。その学習知でもって、対象を観察すれば、)そこには、いのちのわけへだてがなく、清らかなる世界が展開している。だから、美しい蓮の花が泥田に咲くことを喩えとして示し、生きる苦しみから人びとを救うことをイメージとするのである。
詩文によるまとめ。
(泥田に美しく咲く)蓮の花を観察すれば、心は清らかと知り蓮の実を見て、心に徳が宿っているとさとるその境地に至れば、主観(知)と客観(自然)の対立は消え論理とインスピレーションと慈悲から成る三種の教え(知)が、いのちの無垢なる知のちから(自然)へと回帰するのだ
2-4さとりのもたらす恵み
詩文によるまとめ。
諸宗の修行者たちの修すべきは因・行・証・入である(そのさとりがもたらす)まどやかな安らぎと、無垢なる知のちからのはたらきによって過去から受け継いできた心身と、その住み場である環境は、見事に調和する。何か調和していないといったことがあるだろうか
2-5原初の言葉への回帰
教えを聞いてさとる者の発する言葉と、自らさとる者の発する言葉と、慈悲による救済を行なう者の発する言葉と、いのちの無垢なる知のちからのはたらきに目覚めた者の発する言葉は、それぞれが原初の言葉のもつ真実のひびきをもっていて、順次に、<「大神呪(だいじんしゅ)・大明呪(だいみょうしゅ)・無上呪(むじょうしゅ)・無等等呪(むとうどうしゅ)」>という。そのひびきをもつものこそが真実<「真実不虚(しんじつふこ)」>の言葉であり、一切の苦<「能除一切苦(のうじょいっさいく)」>を取り除いてくれるはたらきを示すことができる。
詩文によるまとめ。
(いのちの無垢なる知のちからのひびきによる)原初の言葉(古代インド語)は、その一文字に一切の文を含み、その一つの意味に一切の意味がそなわっているその知性(人と法)のひびきは不生不滅を表わし、発せられる一つの声に一切の存在がある(そういうことなので、そのひびきの本体と)声と字と人と法と真理は常に一体であり原初の言葉のすべてが真実の世界を告げることができる
2-6原初の言葉のひびき(真言)による経文
この部分は、五種類の原初の言葉のひびき(真言)によって真理が説かれている。
はじめの<ギャテイ>は、教えを聞いてさとる者の言葉のひびき。
二番目の<ギャテイ>は、自らさとる者の言葉のひびき。
三番目の<ハラギャテイ>は、慈悲による救済を行なう者の言葉のひびき。
四番目の<ハラソウギャテイ>は、いのちの無垢なる知のちからのはたらきをさとる者の言葉のひびき。
五番目の<ボウジソワカ>は、上述したすべての教えをさとったという言葉のひびき。
詩文によるまとめ。
原初の言葉のひびき(真言)は不思議であるいのちの無垢なる五つの知のちからのはたらきを示す、普賢菩薩<生活知>・文殊菩薩<創造知>・観自在菩薩<学習知>・弥勒菩薩<身体知>・大日如来<生命知>をイメージして唱えれば、無知の闇は除かれるその一字のひびきに千の道理を含みこの身、そのままにして真理の世界に目覚める<ギャテイ、ギャテイ>と行き行きて、円寂の境地に至り<ギャテイ、ギャテイ>と去り去りて、空の原初に入る無知の闇に覆われている者には、この世界は仮の住まいにすぎないがしかし、われら生きとし生けるものすべてがもつ、いのちの無垢なる知のちからに目覚めた者には、この世界は人間本来の拠りどころである
2-7真言について
(経文を、その論理性だけを中心に読み解くと、論理にしたがう限られた意味しか、文字はもたなくなる。しかし、原初の文字は、知覚されたモノ・コトがイメージ化され、そのイメージが声字によって記号化されたものであるから、その記号をイメージに変換すれば、元のモノ・コトの場面が状況として伝わるという豊かな機能を本来もっていた)
イメージを伝えるには、文字以外にも、形象(画像)・作用(壇法)・シンボル(手印)等があるが、それらの伝達手段と同様に、イメージに変換できる機能をもった原初の声字、それが真言である。
だから、経文の声字をメディアとして、それを受け取る側の人のイメージが、モノ・コトの真実を開示させることができるというのが密教の教えであり、あくまでも、経文に記された文字による論理の整合性にこだわるのが顕教の教えである。(声字そのものには顕密はなく、それを受け取る人側に顕密はある)
上記のような多様なメディアを駆使して、ブッダも説法されたが、その説法するのも、黙して語らないのも、あらかじめ、相手の機根を読み取ってからという判断があった。(今日においても、)原初の言葉のひびき(真言)によって、ブッダの教えを説くのも、黙して説かないのも、相手によることである。
(ブッダの教えは、原初、古代インド語によって語られ、伝承された。その言葉のひびきは、漢語・日本語とは異なるものである。伝承され、翻訳された経文に古代インド語による原語が含まれていたら、その部分は、そのままに発声して、その説くところをイメージによって、感受・感得するしかない。龍樹の記した『中論』から、モノ・コトの存在は言葉の論理によっては証明できないということを知っていた空海にとって、形而下のちからを発揮する梵語のひびきのもつ意味は大きかったにちがいない)
2-8むすび
わたくし空海は、真言の教えによって『心経』の内容を五つに区分し、簡略に解釈した『心経』の一字、一文は、無限の真理の世界と結びついている(そこに説かれている)無垢なる知と、その知のちからは、わたくしのなかにもあるものだ眼を閉ざされた者には見えなくても(生産と相互扶助による創造の連鎖を無心に果たす知のちからをもつ)文殊と、(いのちの無垢なる知のちからのはたらきによる総合の知恵を発揮する)般若は、よく人びとの迷いを断ちその(無垢なる知の)甘露を注いで、迷える人びとをうるおし、救済する(さあ、わたくしたちも)ブッダと同じく、(自らがもつ、いのちの無垢なる知のちからに目覚めることによって)根源的な無知を断って、分別による迷いの世界を打ち破ろうではないか
あとがき
『般若心経』に関しては、数多くの注釈書があるが、一般的な解釈は、膨大な『大般若経』の空の論理を要約した経典であるとされている。しかし、空海の解釈はそれとは異なり、ブッダの形而下のさとりを説き明かす独自の経典であるとしている。
その解釈によれば、秘密の鍵によって『心経』を開けると、そこに真理の世界があるとし、実際にブッダのさとりの根本を弟子に託して開示してみせている。
また、論理によって証明されたことのみが、真理であるとする顕教の見解に対し、論理を超越した真言(古代インド語の言葉のひびき)にも、真理をダイレクトに伝えるはたらきを認める空海思想の大らかさによって、『心経』が読み解かれている。
論理か、知覚か、真理を開示するための人類の永遠のテーマである。