はじめに
梅棹忠夫/吉良竜夫編『生態学入門』の序説に
「人間とはどういうものか?人間を理解するのに、人間と自然とを対比してとりあつかうのも一つの方法であり、また、人間を自然の一部としてとりあつかうのも一つの行き方である。後の行き方をとるならば、自然というのは世界と同義であり、その場合、問題は、この世界において、人間とはどのような位置を占めるか、ということになる。
この世界に存在するあらゆるものとともに、人間もまたこの世界の構成要素の一つであることは疑いない。世界における人間の位置づけとは、世界の他の構成要素と人間との関係を明らかにすることにほかならない。関係を明らかにし、さらに、なぜそのような関係においてあるかを明らかにすることにほかならない」とある。
また、「生態学が、生活する有機体と、世界の他の構成要素との機能的連関の科学である以上、人間だけを対象とするということ自身が矛盾である。人間と動物、人間と植物、そして、人間と無機的自然との交渉が、はじめから問題であったのである」とある。
これらの今日の生態学の学問的理念、空海が千二百年前にその哲学的課題とし、その答えをインド伝来の密教の教えに求めたものと同質のものであると思う。
以下は、それらの課題に空海はどのような答えを見つけだしていたのかを考察したい。(そのことによって、今日の人々が抱えるエコロジカルな生き方への先人による知恵を学ぶことになる)
Ⅰ 物理的秩序<六大(ろくだい)>
空海の『即身成仏義』即身の詩の第一句に
「六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり」(固体<地>・液体<水>・エネルギー<火>・気体<風>の存在要素と、それらから成るあらゆる生命とその生命の有する知覚<識>は、空間<空>の中で常にさえぎるものなく、無限に結びつき、とけあっている)とある。
同じことを『生態学入門』でも説く。
「住み場所は、空間であり場所である。それは、生物自身が、そして世界の構成要素自身が、すべては空間的にしか存在していないという構造によっている」とある。
また、「各種生物の生存するこの空間は、物質によって形成される地形<固体>と、その場所の気候<エネルギー>や土壌、水質<液体>と、大気<気体>によって物理的特性をもち、そこを棲み分ける生物(植物/動物)によって、景観という相互に知覚<意識>しあう環境を生じている。(このあらゆる生物の有する知覚能力とエネルギー代謝による広義の意味での意識が空海の説く<識>である。この要素を加えて、地・水・火・風・空・識の六大を存在の構成要素としたのは空海の先見であった)」とある。
空海は今日の生態学によって分析された存在の根元となる要素とまったく同じ要素をすでに洞察していた。そうして、それらによって形成される物理的秩序の中にヒトの存在を置いた。
Ⅱ 生物的秩序<四種法身(ししゅほっしん)>
(1)三十八億年前、地球上の海の中で生命は誕生した。その生命は物質を構成要素とし、物質が自らその形質を受け継ぐ情報機能<DNA>を生み、進化し、太陽光エネルギーを得て生きている。そのことがすべての生命に共通する、自性(じしょう)のすがたである。
(2)その自性によって、生命は多様な種を生みだした(種の数は二百万種の数倍といわれている)。その種とは、同じすがたをしているグループを指し、その形質は遺伝によって等しく流出してくるので等流(とうる)のすがたである。
(3)しかし、その種ごとの個体は遺伝の法則によって少しずつ異なり、個性をもつ。その異なりが変化(へんげ)のすがたとなる。
(4)そうして生まれてきたそれぞれの個体そのものが受用(じゅゆう)のすがたである。個体は享受された個性によって、それぞれに生き、他と交わる。したがって、個体には自と他のすがたがある。
・自性法身-生命存在(進化・生命圏・エネルギー代謝)のすがた<大日如来>
・等流法身-多様な種のすがた
・変化法身-遺伝の法則によるそれぞれのすがた
・受用法身-個体そのもののすがた<自・他>
それらの生命の無垢なるすがた<法身(ほっしん)>よって、地球上に存在する個々の生物が生物的秩序を保っている。そうして、その生物は六大の相互作用によってすがたを成していると空海は説く。ヒトもその法身の現われである。その法身を自覚せよとも。(そこに、それぞれの個体に宿された、生まれもったかけがえのない創造性がすでに存在する)
Ⅲ 文化的秩序<四種曼荼羅(ししゅマンダラ)>
あらゆる生物の種は物質自らの創造性によって、地球上に生まれ、その生命と物質によって形成される自然(景観)を住みかとして繁殖している。
その中にヒトもいる。ヒトはその知でもって、そのような世界を認識でき、ヒト自らが自然に創造性を加えることを性(さが)とする生物である。(この性は人間中心主義の性であり、前章の大日如来の自性法身とは異なる)
その創造性とは以下のようなものである。
ヒトは、神経細胞<ニューロン>の電気的パルスによって脳内に浮かぶイメージを
(1)「形象」:万象の色彩・形態・動きによるすがた<大マンダラ>
(2)「シンボル」:象徴となる事物・事象/声音のひびき<三昧耶(サンマヤ)マンダラ>
(3)「単位」:数と文字による理論<法マンダラ>
(4)「作用」:万象の運動と相互作用/ヒトの行為<羯磨(カツマ)マンダラ>
によって創造、伝達する能力をもつ。
それらの創造性によって
「宗教」:霊なるちからの本体への帰依と生きる節度
「芸術」:各種メディアによる美のイメージの具現化
「哲学」:真理の論証
「科学」:万象の識別と実証、技術とモノづくり
が生みだされる。
そのことによって、また、ヒト科の文化の諸相も生みだされている。
この文化的な知の諸行、ヒト特有の生態にもとづくものであり、他の生物が無心に衣食住を自然に得て生活していることとは著しく異なる。(このヒト科の文化的生態、特に「科学」による飽くなき技術の進展が、すべての生物の相互扶助によって築かれている生態系の秩序と自らのもつ本来の創造性をも破壊することになる。それは、一つにはヒトも自然の生態系の秩序の一員であることを「技術の際限なき進歩による欲望の実現」という名の負の落とし穴をもつ創造性によって混乱させられるからであり、もう一つには情報を代替する道具によって実在する空間から自らの生身のからだを遠ざけてしまうからだ。からだは自然そのものであり、自然は生態系の秩序そのものである。そこに本来の無尽蔵の創造性が秘められており、生の喜びもある。その喜びをヒトは喪失しつつあるのではないだろうか)
では、それらの知の創造性をもってヒトは世界の他の構成要素(物理的環境・多様な生物・文化様式)と共に如何に生きるべきか、空海の究極の哲学がそちらに向かう。
Ⅳ 行為の秩序<三密(さんみつ)>
ヒトは住み場所となる風土の中で、その持ち前の創造性によって固有の文化を形成する。その創造性の根元に、六大による<物理的秩序>と、四種法身による<生物的秩序>と、四種曼荼羅による<文化的秩序>が相互に照らしあう世界があると空海は教える。それらのすべては生命の存在知そのものである大日如来から生まれるものであるとも。そこにヒトの性(さが)でもある創造性の昇華を見いだすことができる。(そうすれば、自らの母胎である自然生態系を破壊してまで創造性を実行しようとは思わないだろう)
その創造性はからだと言葉と思考の三つ行為によって実践される。そのそれぞれの根元に生態系の秩序を司る大日如来の摂理が潜んでいる。そのことを空海は密とした。
・身密(しんみつ)-手を使い、足を動かす(所作と運動)<シンボルと作用>
・口密(くみつ) -口を開き、声を発する(言葉のひびき)<シンボルと単位>
・意密(いみつ) -心を起し、念を動ずる(イメージ)<形象(色彩・形態・動き)>
・ヒトは手足で道具を使い、美しい布を織り、田を耕し、種を蒔き、家を建て、道を拓く。そして、踊り、指で仕草を示す。
・そのような生活の日々の中で、言葉のひびきで意思を示し、物語の世界を創作し、それを共に語り、歌い、他と共感しあう。
・それらの創造性は、ヒト自らがそれぞれの個性をもってあるがままの真実の存在をイメージできるからである。
そのようにからだと言葉と思考が一体化したところに、ヒトの創造性が発揮する無垢なる行為の秩序があり、そのすがたは大日如来と共にある。
Ⅴ 生態系への回帰<即身(そくしん)>
Ⅰの章の空海の即身の詩の第四句に
「重々(じゅうじゅう)帝網(たいもう)なるを即身と名づく」(生命圏の生態系の中にヒトはいる)とある。
ヒトがその生命圏の輝きの中の一員であること、それがそのままにして我が身である。そのことを空海は即身と名づけた。
本論のはじめに「この世界において、人間はどのような位置を占めるか」、また「世界の他の構成要素と人間との関係を明らかにし、なぜそのような関係においてあるかを明らかにすること」が今日の生態学の学問的理念であるとしたが、ここに至って、空海がその答えを千二百年前にすでに示していたのだ。
今日の科学の創造性の中で生きなければならない者のエコロジカルな世界への希求、それは、ヒトに即身なるところがある証拠でもある。しかし、今日尚、その即身から離れつつある創造性は、生態系を壊すことまでして何処に行こうとしているのだろう。