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マンダラの方舟

胎蔵マンダラと今日の視点

 千二百年前、空海は当時の国際都市、唐の長安に渡り、ヒトのあらゆる知性と行動の根底を一つの場に収斂させる"かたち"を、青竜寺の恵果(インド伝来の密教第七祖)から学んだ。そのかたちこそが"マンダラ"であった。
 "マンダラ"は時空の海を越えることのできる普遍的な"かたち"なのか、そうであるならば、今日の学問によって知ることのできる世界をも、その"かたち"に収斂できるはずである。
 そうして、"マンダラの方舟"を今日の海に浮かべる、以下の試みは為された。(したがって、本論考は、現行マンダラにおける修行者のための教義的解釈ではなく、あくまでも世俗による知的遊びに過ぎないものである。しかし、マンダラの説く包括的な世界観に、今日の人々が学ぶ一歩になればと思う)

Ⅰ 知の基本〔中台八葉(ちゅうだいはちよう)院〕
 わたくしたちヒト科を含め、生命が宇宙に存在できるのは、それらの住みかとなる惑星
<地球>が、太陽の光 (エネルギー)がほどよく届くところにたまたま位置し、そして、その惑星が水をたたえているおかげである。その水(海水)の中で生命(細胞)は、太陽エネルギーを得て、奇蹟的に誕生し、遺伝情報物質DNAによって、形質を受け継ぐ生物として進化してきた。その進化の先にヒトもいる。ヒトが太陽から生みだされた子であるというとらえ方はまちがいのないところであり、そのヒトが住み場所を感知し、世界の全体像を感得し、そこから導かれる自己の生き方と他への施しを意識することのできる霊なるちからを授かった生物として存在している。
 ヒトの生は、そのように自他を意識し、意識の根元といえる第一の生命知〔大日(だいにち)如来〕、太陽の光と水と大気によって育まれ、あらゆる生命が共通して有するDNAの知によって生まれた多様な種によって形成される、あるがままの生命圏の一員としての存在を得て、第二に、生活知〔宝幢(ほうどう)如来〕による生存欲求(呼吸・睡眠・生と世界の感知・行動)を無心に為し、第三に、身体知〔天鼓雷音(てんくらいおん)如来〕によってからだを空間に遊ばせ、楽しみ、第四に、学習知〔無量寿(むりょうじゅ)如来〕によって世界の妙を観察してコミュニケーションを取り合い、第五に、創造知〔開敷華王(かいふけおう)如来〕によって衣食住を生産・相互扶助し、そして、また、生活知、身体知、学習知へ循環させている。
 その循環の輪、法界体性智(ほっかいたいしょうち)の無心の悟りによって、生活知は、大円鏡智(だいえんきょうち)となり、創造知は、生物間の相互扶助によって生きている個体が、その点において対等であるとの平等性智(びょうどうしょうち)となり、学習知は、モノ・コトの真理を理解し、その価値観を他と共有するための妙観察智(みょうかんざっち)となり、身体知は、行為の自由の中に自然の摂理の作法をともなう成所作智(じょうそさち)となる。それらの悟りの行為によって個体は順当に維持され、あらゆる生物がそうしているように、ヒトの生の営みが生命圏の中で担保される。
 それらの知のちからの営みの元は、今日の脳科学によって解明されていて、ヒトの脳の各部のはたらきと比較することができる。

・生活知〔普賢(ふげん)菩薩〕は<大脳辺縁系・視床下部・脳幹>による生存欲求、呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動(快・不快)の制御のはたらき。
・身体知〔弥勒(みろく)菩薩〕は<目・耳・鼻・舌・身からの情報を感知する大脳頭頂葉・後頭葉>による、運動の統合・随意運動・体性感覚、知覚・認識・理解のはたらき。
・学習知〔観自在(かんじざい)菩薩〕は<大脳前頭葉・側頭葉>による、思考・想像・意志・感情、判断・記憶のはたらき。
・創造知〔文殊(もんじゅ)菩薩〕は<大脳言語野>による左脳箇所:存在の場のひびきの感知と言語・数量等による意味の創造と伝達/右脳箇所:存在の場の三次元的(立体的)な認知による空間と形態の創造のはたらき。(その創造にあたっては、手と目・からだの寸法とうごき・心理作用等と、聴覚・嗅覚・味覚・触覚が重要なはたらきを為す)

となる。(また、仏教の説く「唯識論」と比較すると、ア-ラヤ識:大脳辺縁系・視床下部・脳幹のはたらき/マナ識:大脳言語野のはたらき*識別による情動を仏教では指していると思われるが、本来はヒトの空間的存在を認知すると共に、そのことを言語化する創造脳である/意識:前頭葉・側頭葉のはたらき/前五識:頭頂葉・後頭葉のはたらきと対応できる)

Ⅱ 存在形態と色彩〔五色界道(ごしきかいどう)〕
 物質によって世界は形成されている。そのことは何人も否定できない。有機物も生命もその構成物は物質である。物質が海水の中で、自らの知のちからとはたらきをもつことによって、生命は誕生した。
 その物質は、固体〔地〕・液体〔水〕・エネルギー〔火(燃焼)〕・気体〔風〕・空間〔空〕として存在し、それらによって世界は形成されている。宇宙もそうであり、極微の世界もそうである。
 また、物質は色彩とかたちとうごきによってすがたを現わし、その中でも色彩によって、ヒトは物質を印象的に識別しているのであるが、その色彩は、太陽光線のうち、物質に吸収されなくて反射された光の色を物の色としてヒトが感知しているに過ぎない。光の波長のちがいで、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫などの色が生じ、それらの色がすべて反射され、混合されると白色になり、すべて吸収されると黒色になる。また、光がなければ色は生じず、ヒトは物を視覚によって見ることができない。
 因みに、草木の葉の緑と花の色が美しいのは、あらゆる植物が太陽の光をもっとも直接的に利用<光合成>することによって生まれた生物であり、光の波長をからだの主成分である炭素と同調させているからである。つまり、虹の色がそのまま花の色となったのだ。その見事な色が自然界を彩り、ヒトや昆虫の目を楽しませている。
 それらの物質と色彩によって、世界は形成されており、その美しい景観の中で生命の知のちからとはたらきも生起している。

Ⅲ 個体制御〔遍知(へんち)院と持明(じみょう)院〕
 ヒトはからだの精力・成長力・周期力・気力・環境適応力の各はたらきを制御、促進するための司令塔を、発達した大脳ではない、あらゆる動物(昆虫・魚・鳥をも含む)に共通する元々の脳(中小はあるが)の中心にもっている。それらのはたらきはホルモンと呼ばれる微量の物質を脳が自発的に分泌することによって為されている。

・「精力」は視床下部ホルモンと性腺ホルモンのはたらき(体温調節/下垂体ホルモンの調節/飲食欲・性欲・情動行動等の制御/性ホルモン分泌)〔不動明王〕
・「成長力」は下垂体ホルモンのはたらき(他ホルモンの制御/成長ホルモンの分泌)〔降三世(ごうざんぜ)明王〕
・「周期力」は松果体ホルモンのはたらき(二十四時間リズムとメラトニンの分泌/性機能発達/新陳代謝/季節の繁殖行動)〔般若菩薩〕
・「気力」は副腎ホルモンのはたらき(糖・電解質バランス/性ホルモン調節/アドレナリン等ストレス反応調節)〔大威徳(だいいとく)明王〕
・「環境適応力」は甲状腺ホルモンのはたらき(細胞代謝・呼吸量・エネルギー産生の促進/昆虫・両棲類等の変態の促進)〔勝三世(しょうざんぜ)明王〕

 ヒト科を含め、あらゆる動物(水棲類・両棲類・爬虫類・鳥類・ほ乳類・昆虫類)のからだと情動をコントロールしているのは微量の脳物質<ホルモン>であると今日の科学が解明した。その根底の上に、ヒトの意識もある。マンダラに登場する「明王」はその根底の物質のはたらきに相似している。

Ⅳ 右脳と左脳〔観音(かんのん)院と金剛手(こんごうしゅ)院〕
 前出、大脳の言語野において、そのはたらきをしているのが主に左脳であり、その対となる右脳においては、存在の場を空間的に感知するはたらきをしていると記したが、本来的にいえば、モノ・コトの起きている場がそこにあり、そこから言語が生まれたのだから、両者はもともと一体化したものであった。(しかし、ヒトは言語のもつ利便性と伝達性によって社会を築き、その社会的価値観によって生きるようになった)
 言語に偏れば理に走り、理屈のみの社会が出来上がり、言語を無にすればイメージに走り、感情のみの社会が出来上がる。
 いずれにしても、原点から洞察すれば、実在する場があってヒトの立つ位置もあり、場がなくなれば、虚ろな言語のみによって浮遊する社会<情報化社会>が現れる。
 そこで、ヒトの寄って立つ位置、かけがえのない水と緑の惑星<地球>の生命圏のイメージからくる慈しみのこころ<自然との共生>〔観世音(かんぜおん)菩薩〕の自覚と、その行ないとしての言語による創造性〔金剛薩埵(こんごうさった)〕をもった世界観<エコロジカルな社会ビジョン>の形成が必要である。
 そこにのみ、生命の根元の知のちからとはたらきによるゆるぎない世界が実在することになる。

Ⅴ 識別の哲学〔釈迦(しゃか)院〕
 言語を生みだしたヒトは、モノ・コトの識別によって次々と作りだされる世界により、こころを迷わされることになったが、識別がなくても世界は初めからそこに存在し、その中でヒトも他の生物と共に生きているというゆるぎない根底がそこにある。この根底の自覚がなくては、世界を個別に識別してみてもそこに生まれるのは言語によって記憶される情動への執着だけである。そのことを最初に説いたのが釈迦如来、すなわちブッダ(紀元前五世紀、仏教の開祖)である。
 ブッダは菩提樹の下で、ヒトのこころに生じる迷いの根源を、十二の因と果によって以下のように考察した。
1、ヒトは、意識する脳をもって生まれてくる。
2、だから、世界を分別することを性(さが)とする。
3、分別することによって、あらゆるモノ・コトを声にし、それらを聞き分け、言葉にする。
4、だから、ヒトは言葉を作り、世界を識別するようになった。
5、識別によって認識されるものは
  ・色彩とかたちとうごき
  ・音
  ・匂い
  ・味
  ・感触
  ・法則
  である。
6、それらによって、あらゆる対象となる世界をヒトは識別しなければならない。
7、しかし、識別した対象によってヒトはこころに快・不快を感じ
8、その快・不快によって、情動を起こす。
9、情動は識別された言葉によって記憶され、記憶されるから執着が生じ
10、その執着によって、ヒトは迷いながら生きている。
11、その迷いの中で、ヒトはこの世に生を受け
12、生を受けたから、老い、死ぬ。
 そうして、ブッダは「ヒトの執着が、識別を因とし、情動を果としている」と気づき、次に、「因と果をもたらす識別は、ヒトの言葉が作りだしたものであるから、もともとはないものである。因がなければ果は生じない」と瞬時に悟った。
 この悟りによって、以下の公式が成立する。

・それがあるから、これが生じる。
・それがなければ、これは生じない。
・これが生じなければ、それはない。
 つまり、
・識別があるから、情動が生じる。
・識別がなければ、情動は生じない。
・情動が生じなければ、執着はない。執着がなければ迷いない。<悟り>

Ⅵ 理論の世界〔文殊(もんじゅ)院〕
 ブッダの悟りから七百年後に、識別によるモノ・コトの存在の有無を考察したのがナーガールジュナ(紀元二世紀、大乗仏教の論者)である。その結果、存在は論理によっては識別できないということを実証した。そうして、以下の公式を説いた。

 生じないし、消滅しない。
 断絶しないし、連続しない。
 同一ではないし、別でもない。
 去ることもないし、来ることもない。

 この結論がその後の仏教の説く"空(くう)"へと展開するのだが、しかし、この結論を得るために、ナーガールジュナが用いた理論に意味がある。それは、存在を考察するには、「作用と作用主体の相対性」によって、すべての事柄が論破できるとしたことだ。
 因みに、アインシュタインの『特殊相対性理論』によれば、光速<作用主体>と同じ速度になると、時間は止まり、空間はゼロになり、質量は無限大になる<作用>が生じる。また、『一般相対性理論』によれば、重力<作用主体>の大きい場では、時間は遅くなり、空間は収縮し、質量は増大する<作用>が生じるという。このように、今日においても、作用と作用主体によって、宇宙そのものの存在が論じられているのだ。
 ナーガールジュナも相対性によって、モノ・コトの存在の有無を論じたが、個々の存在を相対性によって論証することにより、その実体は論理によって識別できないことから、存在を空(くう)なるものとした。
 アインシュタインは、空、すなわち宇宙を理論物理学として考察し、光と重力を<作用主体>とし、時間と空間と質量に<作用>するちからを<シンボル>と<単位>によって示し、存在そのものの空の絶対性をも否定した。物理学的に観れば、空(くう)の存在すらないのだ。
 一方は古代インド哲学であり、一方は今日の西洋科学である。西洋科学の方はその理論にしたがって、宇宙を観察し、そのことを証明しようとしているが、インド哲学によれば、証明する事柄すべてが、あくまでもヒトの認識している一瞬の出来事に過ぎないのだ。
 インドにおいてはその後、作用と作用主体による考察は、仏教哲学の範疇に止まったが、西洋科学はその理論によって、今日尚、壮大なる空(くう)の夢〔文殊菩薩〕をみている。

Ⅶ 万物の構造〔虚空蔵(こくうぞう)院〕
 物質の元素は原子であるが、その原子もまた、元素をもつ。それが量子である。量子は、粒子性<物質の性質>と波動性<状態の性質>双方の性質をもち、電子が量子の代表的な存在である。つまり、空間において、何らかのちから<エネルギー>が確認されたところに究極の物質が存在する。〔虚空蔵(こくうぞう)菩薩〕
 幾つかの原子が集合し、化学的性質を保った最小の単位が分子である。その内、数千から数万の原子からなるものを高分子と呼ぶ。ゴムやプラスチック、それに、たんぱく質やDNAなどである。〔金剛蔵王(こんごうぞうおう)菩薩〕
 この高分子の上の巨大分子から、細胞<生命>が誕生した。(それは、天文学的な時間の流れのなかでの地球上で起こった、たった一回の奇蹟によって、わたくしたちに与えられた)
 自ら生活し、体内で高分子物質を生産・生成または合成し、繁殖する物質、それが細胞である。ウイルスを除き、すべての生物が細胞からできている。
 その生物のすがたは多様であり、一つひとつの細胞が独立して生きている単細胞生物から、同じような細胞が集まってコロニーや群体を形成して一緒に生きているもの、また、特殊化した細胞からなる多細胞生物まで、さまざまである。それらの種の数は二百万種の数倍もあり、種ごとの個体を形成する細胞の数と個体数と種の数を掛けると、細胞の数は無尽蔵となる。〔千手千眼(せんじゅせんげん)観自在菩薩〕
 因みに、ヒトの個体は六十兆個の細胞から成り立っている。その細胞の一つひとつに生きるためのはたらきがあり、その総体がヒトのすがたとなる。そして、細胞の一つひとつが広義の意味での知(それぞれが自らのはたらきを為すことができる無心の知)をもつ。その細胞の知のはたらきによる意思(これも広義の意味で)の総体は、ヒトの精神の許容範囲をはるかに超えている。ヒトは言語によって意思を伝達しているが、細胞は言語がなくても相互に意思を伝達し合っているのである。その意思が生きるための根源の理念であり、ヒトはそれらを言語化することはできない。何しろ六十兆個の細胞間における意思の伝達なのだ。(そこは、言語よる情動や執着の及ぶところではない)
 細胞一つひとつの意思、それは何を因として発せられるのか、そこに自然のちからがある。そのちからとは、太陽の光(色波長・暖かさ)/月の引力/地球の磁場と重力/昼夜の周期/季節の周期/風(強弱・方向・冷暖)/大気の成分(酸素・二酸化炭素)/水/土壌/体内の摂取物質・分泌物質による化学反応/その他の環境などである。これらのちからに細胞は呼応する意思をもつ。その意思は電気的パルスとなり、他にも伝達されるという。したがって、果も自然のあるがままである。

Ⅷ エネルギーの循環〔蘇悉地(そしつじ)院〕
 生物の個体における物質代謝にともない行なわれるエネルギーの出入り・変換のことをエネルギー代謝という。一般的には植物が、太陽光線のエネルギーを転じて化学的エネルギーにし、その植物を動物が食べ、化学的エネルギーを熱及び機械的エネルギーに変化させて体温維持や運動などを行なっている。
 つまり、植物は光合成によって、太陽エネルギー(太陽の中心部で行なわれている、水素原子がヘリウム原子に変わる"核融合反応"の際に発生する核エネルギーのこと。そのエネルギーは非常に短い波長から長い波長まで、さまざまな波長の光となって地球に届いている。光そのものがエネルギーなのである。そのうち、<紫外線>は目に見えないが生物に強い作用を与え、ヒトの目に感じる<可視光線:虹の七色>と、目に見えないが熱を感じることのできる<赤外線>が、あらゆる生物のその生存にとって必要不可欠な作用を与える)を電気エネルギー・化学エネルギーに変換し、空気中の二酸化炭素と水から、糖類(炭水化物)を合成する。このときに、水の分解過程から酸素ができる。動物はその酸素によって呼吸ができ、自然界の無機物質を利用して植物だけが作り出すことできる炭水化物(有機物質)を食糧として摂取し、カロリーを得て、地球上に生存できる。その動物が生きて、二酸化炭素を吐き出し、植物が炭水化物を生産するのを手助けする。そして、死して土にかえり、微生物が死骸を分解し、土壌に栄養を与える。その土の栄養分を得て、植物がまた、芽を出す。そこに見事に成就された<エネルギーを介在した>世界の輪(わ)がある。

Ⅸ 生活と技術〔地蔵(じぞう)院と除蓋障(じょがいしょう)院〕
 さて、ヒトは根元の知のちからとはたらきによって、どのように文明を築けばよいのか、そのことを考察してみよう。
 ヒト科社会の生活には、二つの局面がある。一方はヒトも生命圏の一員であることの慈しみをもって、自然と共に簡素ではあるがこころ豊かにに生きようとする局面〔地蔵菩薩〕と、一方はヒトの生みだした技術の進歩によって生活の不便さを取り除き、快適さを求めて生きようとする局面〔除蓋障菩薩〕である。
 今日においては、この二つの局面が分離し、後者によって著しい自然破壊が起きている訳だが、その解決方法ははっきりしている。前者を基軸として両者を一体化させること、それ以外にない。(その一点に向かってマンダラのすべてがある。したがって、その理念はすでに説かれている)
 以下は、生活要素とその技術のマンダラ的あり方を参考までに掲げる。

 学習・育児・健康:自然体験とモノづくりを通じた教育/慈しみの医療・介護技術。
 衣・食・住:地域固有の文化に根ざした自給自足経済/自然エネルギーを活用した生産・流通技術。
 住み場所:来街者へのもてなしと美しい景観を形成するまちづくり技術。
 移動・交流:環境への負担を減らした交通技術/広場と小路の創出。
 掟:安心して生きることのできる社会保障制度。
 精神:遊び・共感・実在空間創造の情報技術。
 自然との共生:地球にやさしい環境保全技術。

Ⅹ ヒトと天体〔最外(さいげ)院〕
 宇宙に浮かんでいる地球をイメージしてみよう。太陽からの光を受けて青く輝いている球体が見える。その球体は傾いた地軸をもち、二十四時間で一回転する。球体に光のあたっているところが昼であり、その反対側の暗いところが夜である。(この昼夜が1日になる)自転しながら球体は一年(365日)をかけて太陽を一回りする。地軸が傾いているため、太陽の高度が冬と夏とで変わる。太陽が低いと寒く、太陽が高いと暖かい。そこに季節が生じる。赤道を除き、春夏秋冬、北半球と南半球で逆転するが、寒暖の強弱を繰り返している。
 古から、ヒトは夜空に輝く星を見上げて、その多くの星座を羅針盤とし、東西南北の方位を確認した。天空には星の神々がいる。その神々の四季の移り変わりにしたがい、ヒトは自然からの恵みの時期を知り、大海原の旅をする者は四季によっても位置を変えぬ星<北半球では北極星、南半球では南十字星>を見つけ、その燈し火によって進路を定めた。
 大地においても定めた方位によって、ヒトは自らの位置を確認し、季節によって四方から吹く風の助けを借りて、作物を育て、その方位からの災いと恵みの歴史をも記憶し、方位ごとに神を置き、住む土地の福徳・安泰・豊穣・文化を祈願した。
 また、地球の周りをほぼ四週間(28日)かけて回る月の満ち欠けを基準として、一年を分け十二ヶ月とし、(太陽暦も含めて)週七日、曜日も定められた。ヒトビトは秋の満月の夜にはその明かりの下で踊り、冬の新月の闇の中では赤々とたいまつを燃やして邪気を祓い、春を迎える準備をする。
 そのようにして、宇宙に浮かぶ地球を住みかとするヒトは、天体を時空の周期の定点(右脳と左脳を同時にはたらかせ、時間と移動の中でのヒトの立ち位置を立体的に定めた点)としてとらえ、人類共通の恒常的な文化部分を築いて来た。

あとがき
 今日のマンダラ・シフトと方位を明解にしておこう。

 中心が生命根元部(知の基本院/存在要素と色彩/個体制御院)
 東方が精神部(識別の哲学院/理論の世界院)
 西方が物質部(万物の構造院/エネルギーの循環院)
 南方が科学部(左脳院/技術院)
 北方が生存部(右脳院/生活院)
それらのすべてを取り巻いているのが天体院である。

 今、わたくしたちは西方のあらゆる物質の構造を分析し、それらを自在に操るエネルギー技術を手にしつつあるのだが、その無邪気な行為が結果的に宇宙の秩序を破壊していることも事実である。それに対し、東方は精神によって宇宙に屈託なく遊ぶ技術である。また、南方は科学技術の進歩によって文明を築いている方向であるが、そのことによってわたくしたちの生活の基本的な部分を見失わせている世界でもある。見失いつつあるもの、北方の生存し続けるための基本的な要素と、忘れてはならない根元的な生活の知恵を大師がすでに千二百年前に説いておられた。その大師の方舟が時空の海を越えて、今日の海に浮かんでいる。

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