一、幻(まぼろし)
目の前に見えるものはみなまぼろし
あらゆるものはみな仮のすがたであり
その仮のすがたがこころの意識の闇にイメージとなって浮かぶ
イメージはもともとこころの中にあるものではなく、だからといって、こころの外にあるものでもなく、わたくしたちを惑わしている。
すべての生きているものの住む場と、そこに生きているものと、それらを生みだすいのちの世界(生命圏)は、つくる、つくられる(衣食住の相互扶助)の中で成立している。
そのハスの花が浮かぶ広大な水中のような生命圏は
目の前には見えず
だからといって無いわけでなく、わたくしたちの住む世界として存在する。
(その世界の中で)
人は春の庭に咲く桃の花を愛でて楽しみ
秋には水に映る月を子どもが取ろうとする。
夏の朝に湧き上がる雲は夕には雨となって地に降りそそぎ
冬の回雪は女性のすがたとなって軽やかに舞う。
そのように、目の前にあるものに人は日々こころを奪われ
それらに迷わされなければ、いのちの清らかな存在に気づくことができるのに
愚かにも人は目の前の見えるものによって迷いつづける。
わたくしたちは無垢のいのちの存在そのものの住むところに、いつになったら帰れるのだろう。
二、陽炎(かげろう)
のどかな春の日の風景はゆらめき
かげろうはゆらゆらと立ち昇って広野にひろがる。
しかし、ゆらめいているけれど、かげろうのすがたは見えず
そのすがたを見ようとして人はさ迷い
遠くから見ればあるのに、近くによって見れば、かげろうのすがたはない。
まるで走る馬や流れる川のようにかげろうは見えても、そこにすがたはなく
何事につけても、そのように実体のないものであるにもかかわらず、人は自分の見たことだけを主張し、議論を交わす。
街に美男、美女がいっぱいいると思い
そんな男と女の分別をするために迷い
まして、できもしないのに、悟りを開いた者と賢い人を見分けようとする。
そのように、見えるものを目でとらえ、イメージし、快・不快の情動によって識別するから、その識別が新たな(美男・美女等の)情動を生みだしている。しかし、物事の真実は人の浅はかな判断においては識別できないものと分かれば情動はなく、情動がなければ(美男・美女等への)執着もない。そうして、すべては空(くう)なるものと知る。
すべてを空無と考察すると、知覚と識別による迷いと、生の欲求による渇望と、死と、悪への絶え間ない畏れは、見えているけれども無く、聞こえているけれども無いものとなる。(すべては認知することができない空なるものである)
特に、瞑想によって、こころの中から情動と識別が消え、こころと世界が一体となり
いのちの光りの輝きを一瞬、見たとしても
慢心してはならない、あざむかれてはならない、その光ですらかげろうかもしれない。
こころにイメージによるすがたなく、何もないことこそがすべてが生じる母胎である。
三、夢(ゆめ)
いっときの眠りのうちに、人は無数の夢を見る。
あるときは楽しく、あるときは苦しい、予想もつかない夢を見る。
その夢の中での人との出会いや畏れの世界に
泣き、歌い、悶える。
しかし、眠っているときはほんとうに起きていることだと思っていても、目が覚めればそこには何もなく
そうして、それが夢だったと知る。
そのように、迷える人も暗いこころの部屋に閉じこもっていて、いつまでも夢を見つづけているようなもの
とかく世の中は憂いごとの連続である。
道を求める人が悟りの境地に入ったとしても、それはいっときの夢かもしれない、愛着してはならない。
世間の人が苦しみの世界にとらわれていたとしても、それはいっときの夢かもしれない、そこにさ迷い留まってはならない。
気が集まれば生が始まり
いのちがなくなれば、元の物質に戻って死ぬ。
帝王も貴族も大臣も
春には栄え、秋には落ち、川の流れのごとく逝く。
それは夢のようであり、そこに生の根底があり
その根底の自覚によってこそ、人も生命圏の完全な輪の中の無垢なる一員となれるのだ。
四、鏡中の像<映像>
昔、インドの長者ヤジュナダッタは、邸宅にあった円形の鏡に顔の一部しか映らなかったことを恐れ
中国の秦王の城にあった四角の鏡は人のこころの正邪を映したという。
その鏡のように、人のこころに映る像がどこから来て、どこに去るのかは分からない。
それらはみな原因と条件によって生じたものというが
その映像は、固定的に存在しているものではなく、だからといって存在しないものでもなく、言葉によってその存在を論証できるものでもなく
人の思慮分別から遠く離れたところに存在する。
すべての存在は、それ自体の原因によって生じるものではなく、他の作用と共に生じているものでもなく、他の原因によって生じるものでもない。
そのようなことなのに、世間の人々はこころに映じる像の存在に執着してさ迷う。
こころに映る像とそれを見る人は、同じものでも異なるものでもなく
それは、声の意味することと声のひびきを発する人の関係のようなもの。
静かな僧房で瞑想していれば、こころに映じる像はおさまり
お堂で香を焚き、真理の言葉を口ずさむと、そのひびきは澄みわたり
自らのからだと言葉と意識の三つのはたらきと、すべてのいのちが本来的に有している三つのはたらき、繁殖・成長し、うごく個体としての<からだ>と、そのからだによって感知されるひびきの差異としての<言葉>と、生命環境の情報をとらえ反応することのできる神経細胞と脳がつくりだす無垢なる<意識>が、静かに共鳴して、無念無想の境地が開かれると
すべてのいのちの鼓動と感応する世界に入る。
しかし、慌てて動揺することはない、それがほんとうの世界なのだ。
こころとはこころの映像などではなく、そこに実在する世界そのものである。
五、蜃気楼(しんきろう)
海上に厳として美しい城郭が浮かび
その蜃気楼の中に、走る馬や通行人が行き交う雑踏までが見えている。
愚かな者はそれを見て、そこに都市があると思い込み
知恵のある者はそれを見て、それが架空のものであると知っている。
実在する都市もいつかは崩壊し、消えてなくなることを思えば蜃気楼と似たようなもの
人々が蜃気楼のような都市を築き、その場所に執着していることをみれば、幼子が無いものをねだり、それに執着していることを笑うことはできないだろう。
人のほんとうに住むべきところとは、自然の築き上げた世界の中にしかないのである。
六、響(ひびき)
口の中、あるいは峡谷、あるいは家屋の空洞部分に風が吹き込み
空気がふれあうことによって音のひびきが生じる。
ひびきを聞くのは人であり、その人に賢い者もあれば愚かな者もあり聞き取りかたはさまざまで
ある者はそのひびきに怒り、ある者はそのひびきに喜び、互いに同じということはない。
しかし、音のひびきが生じる原因と条件を調べてみても、そこにあるのは風の吹きぬけるところにある形状のちがいだけであり
聞き手の情感がそこに生じているわけでもなく、滅しているわけでもなく、始めもなければ終わりもない。
だから、その情感を起こしているのは聞き手である人であり
風のひびきに耳をたぶらかされてはならないのだ。
七、水中の月
まどかな月は虚空に輝きわたり
地上のすべての河川、すべての器の水にその光りを映している。
そのように、いのちの光りも意識の静寂の闇にあって
生きとし生けるもののすがたを照らしている。
水に映るまるい月は月影であり
個体に宿る自我もいのちの光りの影である。
その虚空の闇を照らすいのちの光りの平等を人々に説き
そして、いのちの知のちからをもって慈しみの衣を身にまとわなければならない。
八、水泡(すいほう)
雨は濛々として天上から降り
水中にさまざまな水泡が立つ
水泡はたちまちに生じ、たちまちに消えるが、それでも水そのものである。
この水泡は、自らの作用主体によって生じたものなのか、あるいは他の原因と条件によっ て生じたものなのか、そうではない、水泡は水の元素そのものの作用である。
そのように、こころに生じる変化の不思議も
こころの中のいのちの知のちからが作用する変化であって、不思議ではなく
すべてのいのちの有している知のちからのはたらきと自らのこころは本来一体であり
その原理は万物をその中に宿すことのできる水の原理と同じであると知るべきである。
九、空華(くうげ)<錯視>
目の中できらきらと咲く花、空華(くうげ)に何の実体があるだろうか
そこには実像としての存在はないのである。
そのように、空間そのものは虚空であり
雲や霧が曇ったり晴れたりすることを濁っているとか清んでいるとかというが
(それらは空華と同じであり)
本来のこころは(空華にとらわれず)あるがままのすがたである。
迷える者は常に迷いの世界を見つづけ、あるがままのすがたを忘れているが
(その迷いを生みだしている)苦・生・死・悪と、貪り・怒り・愚かのこころの空華に
とらわれることなく、それらを起こしている目・耳・鼻・舌・身・意識のはたらきをも鎮めよ。
十、火の輪
燃えるたいまつの火を手に、それを四角に振れば四角い火の輪になり、円形に振れば円の火の輪を描く
つまり、こころの思いのままに種々の変化を起こすことができる。
そのように、人がこの世に生を受けその存在を示すために最初に発する言葉「ア」字のひびきと文字を自由に振ることができれば
万象の真理を無限に表わすことができるのである。
この十種の心象表現は、道を求める者にとってのガイドであり、悟りを得るための手本となる。この手本によって無数の経典の深い意味に達することができ、その説くところの真理を得ることができる。だから筆を執って記すことにした。この文を見れば、わたくしの説く生の根底の教えの意図するところをご理解いただけるだろう。千年の後々の人も、わたくしの意図を忘れないようにして欲しい。
右京神護寺空海
八二七年三月一日記す
あとがき
『十喩(じふゆ)詩』の喩(ゆ)とは教えさとすこと、たとえることの意味をもつ。たとえることの意味とすれば、比喩(ひゆ):物事の説明に、これと類似したものを借りて表現することである。比喩には、隠喩(いんゆ):たとえを用いながら、表面的には何々の「如し」「ようだ」等を出さない手法と、直喩(ちょくゆ):「たとえば」「あたかも」「さながら」何々にようだ。何々の「如し」、何々に「似たり」などの語を用いて、たとえるものと、たとえられるものとを直接比較して示すものとがある。
まさしく、上記の文章表現手法<修辞法>を駆使して書かれたのが空海の『十喩詩』である。(空海はたとえるものと、たとえられるものとのあらゆる言葉の知識をもつ人であった)
今日の西洋の書に『イメージ・シンボル事典』アト・ド・フリース(オランダの文学博士)著1974年刊がある。その著者序に「本事典は難解なシンボルあるいはイメージに出会ったときの参照の一助に供すべく編まれたものである。本事典が提供するのは、ある種の単語や記号等が過去の西欧文明において人々の心に喚起し、将来もまた呼び起こすと思われる種々の連想である。思うに現代の心象表現(イメジャリー:シンボル・イメージ・アレゴリー・比喩・記号・類型等の諸概念)が、いかに斬新奇抜に見えようとも、多くは過去において、すでに述べられたり使われたりしたものの中に、その源泉を見出しうるからである」とある。
一千年前に東洋の空海の記した『十喩詩』すなわち『十種の心象表現』は、生の根底となる教えを象徴的なイメージのたとえによって説いたものであるから、文明のちがいはあっても、オランダのフリース博士の云う、源泉となるものである。
因みに、前記事典の最初の項に「A」字があるが、その象徴するところは、季節では春か新年、天体では太陽、神の荘厳さ、幸福であると記されている。何やら、西洋文明においても「ア」字の発するひびきの意味するところは同じなのである。
さて、空海の生きていた時代から千年の後々の世俗の一人として、この詩文に出会えたことを喜びとする。訳者
尚、訳文中の"いのちの知のちから"の意味については、小生の空海論考「空海の教え-自然哲学からのもう一つの見方」を参照していただければと思う。