【学園用地】
さきに中納言の職を辞した藤原三守(ふじわらのただもり)卿は京都左京の九条に邸宅をもっておられ、その屋敷の広さは二町(約四千坪)あまりで、敷地の中には五つの広間のある家屋が建っている。敷地の東側は施薬慈院(せやくじいん:今日でいう病院)に隣接していて、西側の近くには(わたくし空海が朝廷から賜った)東寺がある。南側は野辺おくりをする墓地にほど近く、北側には国の衣料・食糧を保管している官営倉庫がある。
屋敷に湧き出る泉は鏡のように澄んでいてその水面に周囲の景色を映し出し、庭を左右に流れる小川はあふれんばかりの豊富な水量である。また、松林や竹林があり、風が吹くとその葉のふれあう音は琴を奏でているようだし、紅白の梅や柳の緑が雨にぬれると、錦の彩りのように美しい。春にはうぐいすがさえずり、秋には大きな雁が泉に渡ってきて、そして飛び去ってゆく。暑い夏もここで憩えばその暑さを忘れ、清々しい涼しさを得ることができる。
(地相をみれば)西には白虎(びゃっこ)にあたる大道があり、南には朱雀(すじゃく)にあたる池もある。(「四神相応」の地相:東西南北の四方向のそれぞれに方位を守る神がいるとし、北「玄武」になぞらえる山、東「青龍」になぞらえる流水、南「朱雀」になぞらえる池、西「白虎」になぞらえる大道があるところに位置する土地を吉相とする。訳者)
この場所には、修行する者が求めて散策するという閑寂な自然があり、わざわざ深山に出向かなくてもここでこと足りる。しかも、この場所までは日常的に朝から夕まで車や馬が往き来しているという利便さもある。
【用地取得のいきさつ】
わたくし空海はかねてから、学問を目指す者であれば、身分に関係なく誰でもが自由に学べる開かれた教育の場がつくれないかと思っていて、そのときは
「儒教」(人としての徳性と、家族と社会における人間関係の教え)
「仏教」(人はなぜ生きるのかと、人々の幸福に奉仕するための諸行為の実践の教え)
「道教」(自然の道理にしたがって生きると身体と精神の教え)
の三教科を兼ねそなえて学べる総合学院にしたいと願っていた。
あるとき、そのことを皆の前でお話しすると、前述の藤原三守卿がわたくしの計画に賛同され、即座に千金にも値する個人の屋敷を学園用地としてお使いくださいと申し出られた。不動産契約などまったくなく、自らの慈悲の行為として、未来ある若者たちを育てるためにその土地と家屋のすべてを寄付されたのである。
昔、インドの長者スダッタがブッダに僧園を寄進するために、その国の王ハシノクのもっていた庭園を買い求めようとして、王の息子のジェータ王子の要求により、その庭園の地面いっぱいに黄金を敷きつめたという説話があるが、わたくしの場合はそのような苦労もなく、その説話にも値するようなすばらしい庭園を藤原卿から寄進していただいたのだ。
わたくしの願いはこのようにして、実現に向かうこととなった。
現実のものとなった学園計画を進めるにあたって、わたくしは校名を考え、「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」と命名した。(この意味は、この学園でもろもろの学問を総合的に学ぶ機会を得た若者たちが、自らの教養の畑を耕し、そこに知恵の種を蒔き、その種がよく耕やかされた土壌によって、りっぱな芽を出すことを願っての名である)
さて、以下はこの学校での教育理念とその教科、教科を教える教師の人材、それに運営方法等について示したい。
1 総合教育の論拠
『九流』(きゅうりゅう:古代中国の学者が説く九つの思想)
一、陰陽家(いんようか):万物の生成と変化は陰と陽の二つによって起こされると
する思想。
二、儒家(じゅか):孔子によって体系化された人の徳性、仁・義・礼・智・信と人間
関係の倫理によって社会秩序が保たれるとする思想。
三、墨家(ぼくか):儒教に対抗する思想。上下の公平を唱え、他国への侵攻を否定し、
賢者の考えにみながしたがうことによって得る平等主義の思想。
四、法家(ほうか):社会を治めるのは儒教の仁義礼などでなく、法律であると説く思想。
五、名家(めいか):名<言葉>と実<実体>との関係を明らかにしようとする論理学思想。
六、道家(どうか):老子によって説かれた自然の道理にしたがって生きようとする思想。
七、縦横家(じゅうおうか):巧みな弁舌と策略で、相手を説き伏せる外交術の思想。
八、雑家(ざっか):儒家、道家、法家、墨家などの諸思想を照らしあわせて取捨した
思想。
九、農家(のうか):農業の技術を伝え、農耕を勧め、衣食住を充足することを本分とし
て生きる思想。
『六芸』(りくげい:古代中国の六つの基本教養)
一、礼:礼節
二、楽:音楽
三、射:弓術
四、御:馬術
五、書:文学
六、数:数学
以上の中国の思想と学芸は個人が世間を渡るための舟や橋であり
『十蔵』(じゅうぞう:インド仏教哲学の説く十種のこころの段階による社会学)
『五明』(ごみょう:インド仏教者が修得しなければならない五つの学芸)
一、工巧明(くぎょうみょう):工芸・工学技術、天文暦学
二、医方明(いほうみょう):医学と薬学
三、声明(しょうみょう):言語と文法学、文学
四、因明(いんみょう):論理学
五、内明(ないみょう):仏教学
以上のインドの仏教者が学ぶ社会学と諸学芸とこころの学問(内明)は、社会生活全体の
幸福に資するものである。
だから、過去においても、現在にあっても、未来にわたっても、知恵のある仏教者は世間のあらゆる学芸を学びそれらを修得するとともに、仏教の教えによって慈悲のこころによる他者への施しを自覚し、その屈託のない行動力と学芸による人文・自然の(今日でいう科学)技術を用いて、善導のための各種施設を築き、土木・治水事業を行ない、田畑の恵みのために気象をとらえ、医療と福祉により人々を救い、その言葉と声により人々を癒し、言語力により異国の文化を導入し、論理力によりまちがった考えを論破する。
料理にも、すっぱい・にがい・あまい・からい・しおからいの五つの味があるように、一つの味ではご馳走はできないし、音楽も、五音階(古代中国の音階、ド・レ・ミ・ソ・ラ)の一つの音のみで、妙なる調べを奏でることはできない。
人が身を立てるのも、国を治めるのも、悟りの世界に楽しむのも、世間の多くの学芸に通じていなければ、その目的を広く達成することができないものなのだ。
そのような訳で、そのことを理解し仏教に初めて帰依された欽明天皇以来の歴代の天皇と大臣たちにより、多くの寺院が建立され、仏教の教えが日本国に広まるようになったのである。
しかしながら、寺院の僧侶は経しか唱えず、世間のすぐれたといわれる学者は中国の書物のみを読みふけっている。彼らは儒教・仏教・道教の書物のすべての学問を知ろうとする気概なく、まして、社会づくりに役立つ五明の学問の書には触れることもないという情けない実状である。
そこで、わたくし空海は、この綜芸種智院を設立し、広く三教の書物を蔵書し、それらを教えることのできる才能ある多くの先生を招きたいと思う。どうか、三教の広い学問の光が、この混迷の闇の世界を照らしますように、そして、教わる者のこころの段階(個人の能力レベル)にあわせて、それぞれの教育馬車が用意され、それらに学生と教師が乗り、くつわを並べて広大な知の庭を駆けて行けますように。
2 学園設立問答
ある人がわたくしの計画に対して問う、「あなたの考えは結構なことである。しかし、今までも私学校を試みた人がいるが、うまくいったという話を聞いたことがない。例をあげれば、吉備真備(きびのまきび)の儒教と仏教を教える二教院、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の芸亭院(うんていいん)など、開校はしたがつづかなかった。あとはうやむやになっていて見るかげもないではないか」
答えよう、「ものごとがうまくいくか、駄目になるかは、必ず人による。すぐれた人物が出るかどうかは、その道を究めて行くかどうかにある。大海は多くの川の水が流れ込んでこそ深くなり、ヒマラヤの山も小さな積み重ねがあって高くなる。大きな建物も多くの木材に支えられて建つのであり、一国の元首も多くの臣下によって支え保たれる。そのように、多くの同志がいれば事業は支えられ、同志が少なければ事業が傾くのは自然の理である。この理にしたがい、いま、わたくし空海が願うところは、天皇の許可の下、諸大臣の協力を得て、貴族や僧侶等、各界の人々がみな、わたくしの計画に賛同し、助力してくださるようになることです。そうなれば、この事業はきっと成功し、いつまでもつづけて行くことができるでしょう」
問いかけた人が言う、「そのとおりですね」
また、ある人が問う、「国家が広く、諸学芸の教育事業を展開している。現在すでに権威ある地方の国学や中央の大学があるというのに、蚊の鳴くような存在の私立の小さな学校を開設することに何の意義があるのですか」
答えよう、「わたくしの留学していた中国の都、長安では街区ごとに勉学塾があり、広く子供たちが学んでおり、また、長安以外の各県にも学校があり、青色の衿の制服を着た生徒たちが毎日通っている。だから、才能ある知識人が都にはあふれており、地方の何処に行っても、学芸に秀でた多くの教養人に出会うことができる。ところが、わが国には平安京にたった一つの大学があるだけで、街には長安のような勉学塾はありません。このため、庶民の子は勉強しようにもその場はなく、地方の若者が学問を志しても遠く大学は離れているため、教育の環境を得ることは不可能です。そのようなことですから、いま、わたくしは学校を創設し広く若者に門戸を開こうとしているのです。善いことだと思いませんか」
問いかけた人が言う、「そのようなことが実現すればすばらしいことだ。まるで、太陽や月の光のように輝かしいことだ。この世に天地があるように永くつづく事業となることと信じます。これこそ、国の将来のためになる計画であり、人々にとって、美しい宝石のような価値をもつものですね」
さて、わたくし空海はごく至らない者ですが、いま一息のちからを尽くし、モッコの土を運び上げ、その土で周りを廻らす丘を築くごとく、わたくしをとりまくすべての恩に報いることができるように、ひたすらこの事業に邁進したいと思う。
3 教育成立の条件
『論語』にいう、「人はおもいやりの美風のあるところに住むべきであり、わざわざそうでないところを選んで住むことは、賢い人のすることではない」と。また同じ書に、「人はおもいやりのあるところに住み、よき人間関係を築き、さらにすぐれた人格を形成し、学問に励まなければならない」と。
『大日経』では、「仏教者として人々を導く師になるには、まず、あらゆる学問と芸術を学び、その知識を高めるべきである」と。
『十地論』では、「知恵のはたらきを実践する者は、まず、五明のあらゆる学芸を学び、それらの真理に通じていなければならない」と説いている。
だから、善財童子(ぜんざいどうじ)は、真理を求め、南インドの百十の都市を巡り歩き、教師となる五十三人の人々を訪ねて教えを乞い、常諦菩薩(じょうたいぼさつ)は、一つの都市の中で人々のおもいやりに助けられ、その慈悲の施しに常に涙しながら真理の道を求めつづけたという。
したがって、教育の条件が整えられるには
一に、真理を求める者がおもいやりのある環境に居ることができて<処>
二に、そこに、五明(工学・医学・語学・論理学・仏教学等)の学問あり<法>
三に、そこに、五明の学問を教える有能で人徳のある多くの先生がいて<師>
四に、学ぶ者と教える者が教育に専念できるようにすべての者の衣食が保障される
<資>が必要である。これらの四つが備わって教育は成立する。
ですから、この、処・法・師・資の四つの条件を充たした学校を創設し、その門戸を開き、民衆の中の多くの好学の若者の芽を育て、その豊かな人材によって社会を導きたいのである。
4 教科と教師の人材
ところで、おもいやりのある環境があり、学問の豊富な文献が蔵書されていても、教師が欠けていれば、学問の理解を得ることはできない。だからまず、すべての教科にわたって有能で人徳のある教師を募らなくてはならない。
募集する教師には大きく二種あり、一つは仏教者(仏法を究める者)としての教師、二つには世間一般の学者としての教師である。前者は(仏教部で)仏教の経典などを教え、後者は(学芸部で)仏教以外の学問の書を教える。
中国の長安に留学していたときのわたくしの師、恵果がいつも言われていた「仏教の教えはこころの教えであり、そのこころをもって世間の学芸を学び、その双方のちからで人々の幸福のために尽くすのがほんとうの仏教者である。それがブッダの教えの真実であるから、仏教と学芸、両方に仏教者は必ず通じていなければならない」と。
□仏教部教師心得
仏教者たるものは、仏教の二種の教え、顕教(こころの教え)と密教(いのちの知のちからの教え)の双方に通じていなければなりません。(でなければ、教育に偏りがでることになり、学生たちに片方だけの教えを与えることになります)
また、仏教以外の学問の書に通じたければ、世間の学者から学びなさい。
もし世間の者で仏典を学びたい者がいれば、僧侶を教師とし、教師となる僧侶は、慈しみを与え、苦を除き、楽を喜び、共に平等であるとの限りなく広いこころと、施しと、やさしさをもった言葉と、奉仕と、共にいそしむ行為によって労苦をいとわず、相手の身分によって差別なくしっかりと教えを伝えてください。
□学芸部教師心得
まず、以下に挙げる書物のいずれかに精通していること。
『九経』(きゅうけい:九つの儒教経典)
一、「易経」(えききょう):自然現象を万物の事象の象徴としてとらえ、生成変化を予測
する教え。
二、「書経」(しょきょう):中国最古の歴史書。紀元前の堯・舜から夏・殷・周の帝王の
言行録を整理したもの。君主の臣下に対する言葉/臣下の君主に対する言葉/君主が
民衆に下す宣誓の言葉/君主の意志や命令の言葉/重要な歴史的事件のあらましが
書かれたものに整理されている。
三、「詩経」(しきょう):中国最古の詩全集。各地の民謡を集めた<風(ふう)>/貴族や朝廷
の公事・宴席などで奏でる音楽の歌詞<雅(が)>/朝廷の祭祀に用いた<頌(しょう)>の
三つに大別される。
四、「礼記」(らいき):古来の"礼"に関する諸文献を集めたもの。日常の礼儀作法や冠婚
葬祭の儀礼、官爵・身分制度、学問・修養などが解説されている。
五、「左伝」(さでん):春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)の略。紀元前中国春秋時代の
王や諸侯の死亡記事、戦争や盟約などの外交記事、日食・地震・洪水・虫害などの
自然災害に関する記事等が年表として記録されているものを解釈したもの。
六、「孝経」(こうきょう):孔子が門弟の曽子に"孝"について述べたことを、曽子の門人が
記したもの。
・個人は、親に仕えることから始まり、社会に仕え、やがて他から仕えられる。
・国のリーダーは、自らの親を愛するように民衆を愛するならば、民衆もまた、
リーダーを慕う。
・社会人は、自らの父母を愛するようにリーダーや目上の人に仕えることが
孝となる。
七、「論語」(ろんご):儒教の始祖、孔子の言行録。おもいやりのこころ<仁>/おもいやり
の行ない<義>/おもいやりの礼儀<礼>/正しい学問<智>/正しい行ない<信>を説く。
八、「孟子」(もうじ):孔子の孫弟子、孟子の思想書。他者を思うこころ/不正を憎む
こころ/譲るこころ/是非を判断するこころの四つのこころを人々は元々もっている。
それらによって君主も政治を行ない、人民のこころを得ることによって天下を治め
るようになれば、役人はみな王に仕えたがり、農民はみな王の田畑を耕したがり、
商人はみな王の市場で商売をしたがり、旅人はみな王の領内を通行したがり、
他国の王の下で苦しむ人民もみな王に相談しに来るだろうと説く。
九、「周礼」(しゅらい):周王朝の理想的な制度について書き記したもの。官職を六官に
分け、計三百六十の官職について記す。天官<治>(国政を所管)/地官<教>(教育を
所管)/春官<礼>(礼法・祭典を所管)/夏官<兵>(軍政を所管)/秋官<刑>(訴訟・刑罰を
所管)/冬官<事>(土木工作を所管)。
『九流』(きゅうりゅう:中国の思想を九つの流派に分類したもの。詳しくは記述済み)
『三玄』(さんげん:中国の三つの自然思想)
一、「老子」(ろうし):紀元前五世紀頃、春秋時代の老子の思想書。自然を観察すると生命
は連鎖し、循環している。何かが欠けると何かがそれを補い、全体としてバランス
をとっている。ところが人間社会の君主は摂取するのみである。自然の道理を知る
君主がいれば、その人こそ名君であると説く。
二、「荘子」(そうじ):紀元前三、四世紀頃、荘子(そうし)の思想書。"無為自然"つまり、
あるがままをテーマとし、その洞察眼によって自然の本質を説く。老子が自然の
道理とその道理の人間社会での活用を説いたのに対し、荘子はあくまでも自然の
道理を友としてその中に遊んだ。
三、「周易」(しゅうえき):太古からの占いの知恵を体系化した書。易とは変化を意味し、
万物の事象が過去・現在・未来へと生成変化していることを説く。易の字は日と
月を合わせているから、太陽や月、それに星の運行から万物の運命を読みとること
を意味し、周はあまねくの意味である。
『三史』(さんし:中国の古代王朝の歴史書。中国の王朝の歴史を二十四史とするが、その
第一史から第三史までの歴史書)
□第一史、『史記』(しき):前漢の武帝の時代に司馬遷(しばせん)によって編纂された
古代王朝の歴史書。
(1)「本紀」(ほんき):五帝から漢の武帝までの記録。
一、五帝(ごてい):人類誕生を呼称して、天皇、地皇、人皇から始まり、つぎに、
人類に文明をもたらした黄帝、堯、舜等の伝説上の五帝を記述する。
二、夏(か):紀元前二〇七〇年頃から紀元前一六〇〇年頃まで。夏王朝の始祖は舜帝
に命じられて黄河の治水などの功績をあげた。
三、殷(いん):紀元前一六〇〇年頃から紀元前一〇四六年まで。夏王朝を滅ぼした
新王朝(実在したことが考古学的に確認されている最古の王朝)。商ともいう。
社会形態は氏族ごとの集落<邑(ゆう)>の連合体で、数千の邑を数百の族長が
支配し、その連合体の上に殷王がいた。(青銅器文化をもち、その芸術性は高い)
四、周(しゅう):紀元前一〇四六年から紀元前二五五年まで。殷を倒した王朝。
(この時代に王が不在になった期間、大臣の合議制によって政治を行なわれこと
から、そのことを指して、歴史に登場する共和制の始まりとする)春秋時代には
その支配は縮小し、戦国時代には各諸侯が自分が王であると称していたが秦
(しん)国によって統一される。
五、秦(しん):周代から紀元前二〇六年まで。周代、春秋時代、戦国時代にわたって
存在し、紀元前二二一年に中国を統一。王は中国の伝説上の聖王、三皇五帝に
ならい自らを皇帝と名のる。始皇帝(しこうてい:紀元前二五九年から紀元前
二一〇年)は度量衡(長さ/容積/重さの単位)を作り、文字を統一し、郡県制(行政
区画)を実施した。また、北方騎馬民族への備えとして万里の長城を築く。その
領土は南方(今日のベトナム北部)にまで及んだ。始皇帝亡きあと、秦王朝は内乱
と造反により紀元前二〇六年に滅亡する。
<項羽>(こうう:紀元前二三二年から紀元前二〇二年。秦末期の楚の武将。秦に
対する造反軍の中核となって、劉邦とともに秦を滅ぼした)
六、劉邦(りゅうほう):前漢の初代皇帝。反秦連合軍に参加し、秦の都を陥落させる
が項羽によって、西方の漢中へ左遷され漢王となり、のちに東進して項羽を
討ち、中国全土を統一した。
<呂雉>(りょち:劉邦の正妻。夫の死後、皇太后として実家の呂氏一族によって
政権を維持したが、その内情はどろどろしたものであった。しかし、この時代
は対外遠征などの大事業もなく、国民の生活は安定していた)
七、文帝(ぶんてい):紀元前二〇二年から紀元前一五七年。前漢五代皇帝。呂雉崩御
の後、即位した。その政策は戦乱によって疲弊した民の休養と農村の活性化に
あった。贅沢を嫌い、孝行を尽くした。そのことにより、食糧は倉庫にあふれ、
財政は豊かであった。
八、景帝(けいてい):紀元前一八八年から紀元前一四一年。前漢六代皇帝。文帝の
第五子。紀元前一五七年に即位。文帝の政策を受け継ぎ外征を控え、倹約に
努めた。また、農業政策は減税に取り組み、国民のほとんどが農業に従事し、
経済は安定していた。
九、武帝(ぶてい):紀元前一五六年から紀元前八七年。前漢七代皇帝。景帝の代十子。
紀元前一四一年に即位。呉や楚等、諸国の反乱により有力な諸侯が倒れ、中央
集権化が進む。諸侯の領土を分割させる策や、有能な人材を地方ごとに推挙さ
せ登用する制度や、国民に儒教の教えを徹底させるなどによってその体制を強化
した。しかし、外征による財政難と増税により、民衆は流民化し社会は荒れた。
犯罪取り締まりのため強化された厳罰主義は密告の風潮を生み、多くの冤罪者
が出た。
(2)「表」:太古の王朝の系譜、諸侯の年表、役人の在職年表等の記録。
(3)「書」:古代の音楽・天文・治水・経済等の文化や制度史。
(4)「世家」:王族や諸侯の家系的歴史や思想家等の系譜的歴史記録。
(5)「列伝」:六十九の項目に分類された人々の生き方の記録。武将/参謀/政治家/役人/
学者/医者/異民族/遊侠/男色/芸人/占い/商売等々。
□第二史、『漢書』(かんじょ):後漢の章帝時代に班固によって編纂された歴史書。
前漢紀元前二〇二年から紀元後八年まで。史記と並んで中国古代二十四史の中の
双璧をなす書。史記とのちがいは「書」を「志」に改め、「世家」を「列伝」に組み込み、
新しく「百官公卿表」を入れ、官制の沿革を記録している。
□第三史、『後漢書』(ごかんじょ):南北朝時代に范皣によって編纂された歴史書。
後漢二五年から二二〇年まで。(この中の「列伝巻七十五・東夷伝」に日本についての
記述があり、一〇七年に倭の国の王、師升が奴隷百六十人を漢の皇帝に献上したと
ある)
『七略』(しちりゃく:古代の図書目録)
一、六芸(りくげい):教養書
二、諸子(しょし):思想書
三、詩賦(しふ):詩と韻文の書
四、兵書(へいじょ):兵術書
五、術数(じゅっすう):占い書
六、方技(ほうぎ):医薬書
七、総記
『七代』(しちだい:中国古代二十四史の第五史から第九史までと、それに第十二史、第十三史を加えた計七代の歴史書。二八〇年の晋の時代の始まりから隋の時代の終わり六一八年まで)
□第五史、『晋書』(しんじょ):唐時代に国家事業として編纂された晋王朝の歴史書。
二八〇年前から三一七年まで。晋の統一前を記した陳寿の『三国志』(二二〇年から
二八〇年までの魏・呉・蜀三国の史書「第四史」)の伝が含まれる。
□第六史、『宋書』(そうじょ):南朝の宋の歴史書。四二〇年から四七九年まで。
宋・斉・梁に仕えた沈約が編纂した。(この中の「夷蛮伝」に倭の五王が朝貢したとある)
□第七史、『南斉書』(なんせいしょ):南朝の斉の歴史書。四七九年から五二〇年まで。
□第八史、『梁書』(りょうじょ):梁の歴史書。五〇二年から五五七年まで。
□第九史、『陳書』(ちんしょ):南朝の陳の歴史書。四三九年から五八九年まで。
唐の史学家、姚思廉(ようしれん)が編纂した。
□第十二史、『周書』(しゅうしょ):北周の歴史書。
□第十三史、『隋書』(ずいしょ):隋代五八九年から六一八年までの歴史書。
(この中の「律歴志」に宋斉代の祖沖之が円周率を三.一四一五九二七の位まで計算
したとある)
以上の書物や、詩歌・韻文の文法に精通している人たちは、それぞれの書物を教科書として、その才覚でもって、学生たちを啓発しようではないか。そのためにこの学園に来て共に寝起きし、共に教えようではないか。
もし仏教者で、これらの書物を学びたい人がいれば、学芸部の教師は後漢時代の官吏推薦要項にあるように、理知の才と孝志と清廉なこころで教えるようにしてください。
もし若い学童で文字の読み書きから学びたいという者があれば、先生として慈悲のこころをもち、わが子と思い、身分や貧富にこだわらずきちんと教え、そのこころおこたることのないように教えてやってください。この世界の生きとし生けるものはみなわが子とは、ブッダの言葉であり、世界に住むものはみな兄弟であるとは、孔子の言葉です。教える者と教わる者が、親子・兄弟のように縁あって結ばれていることを忘れてはなりません。
5 給費制度のこと
人は食べなければ生きていけないとブッダも孔子も言われています。したがって、教育を広めるためには、必ず人々の生活が保障されていなければなりません。仏教者にしても世間の学者にしても、教師であっても学生であっても、教育の場にいる者にはどの人にもみな等しく給費を与えることができなければなりません。
しかし、わたくし空海は僧侶の身でありますから、それらを充分に手当てすることができず、学園開設にあたっての場の準備をすることぐらいしかできません。国の将来の人材を育てようとのお気持ちがあり、慈善のこころをおもちの方々、わたくしと同じように、わずかな物資、わずかな費用でもかまいませんので、わたくしの願いに協賛してお助けしていただきたく思います。そうして、末ながく、一致協力してブッダの教えであるよりよい社会づくりを展開しましょう。
八二八年十二月十五日
空海記す
あとがき
千二百年前、国際的にみれば東洋の果ての新興国であった日本が、すでに文明国であったインドや中国のすぐれた文化とその学問から学ぶことは当然のことであったであろう。それらの学問の総合化を空海が目指し、上手くカリキュラム化しているのには感嘆せざるをえない。当時の大方の人々にとっては、ばらばらのものであったであろう空海の挙げる学問の一つひとつを当訳文にすべて記すことによって、綜藝種智院での総合教育の全容を見ることができる。そこに、知の巨人であった空海の目的がある。しかし、その総合教育の場は空海入定後、程なく閉校に至ったという。実践されたことが夢のようであり、さりながら、人間形成を主軸とし、そこから生まれる知のちからによって社会を築いて行こうとするその普遍的な総合教育のあり方は、今日の人々にとっても永遠の目標である。