1 序論
ブッダの教えには二種類がある。一つは、人間ブッダ(目覚めた人)や普遍のちからを有する理想の人格像(如来)が、相手に応じて説く教え<顕教>であり、もう一つは、ブッダに悟りをもたらした、自らに宿っている無垢なる知のちからの形而下のはたらきによって会得する教え<密教>である。
『分別聖位(ふんべつしょうい)経』によると、ブッダが、宗教心や悟り(目覚め)を求めている相手に応じて説いたのが顕教であり、これに対して、ブッダが目覚めたという、すべてのいのちが本来的に有している無垢なる知のちからに自らが目覚め、そのはたらきによって、真理の楽しみを味わうために、自らのからだと言葉と意識をその無垢なる知と一体化させ、(言葉による分別以前のすがたの)世界を知覚し、(そのインスピレーションによって)真実の世界を感得することを説くのが密教である。
このヒトの行動を司っているからだと言葉と意識による、いのちの無垢なる知のちからの発露は、修行によって生まれるものではなく、ましてや、信仰によってもたらされるものでもない。また、その悟りによって開示される世界は、言葉によって表現することも、思考することもできないと各種経論に説かれている。(つまり、記すことができない)という。
(それはその通りで、そのように説かれるのは経論そのものが、ブッダの悟りを論理的に解釈したものだから、因分(条件)は記すことはできても、果分(悟り)のインスピレーションの世界は論理によって記しようがない。しかし、因分をよく読み解けば、そこに悟りによって展開する世界が隠れていると知ることができるのだ)
そこで以下は、密教についての広く理解を得るために、経論のなかに説かれている密教の教義を抜粋して、その解読のお手本を示すことにする。
2 本論
2-1問答
問い。顕教と密教との区別とは何か。
答え。ブッダが自らの悟りをもとに他の者に説く教えを顕教というのに対して、ブッダに悟りをもたらしたいのちの無垢なる知のちからの本体を説き明かしたものが密教である。
問い。ブッダの説法については諸宗の認めるところである。しかし、いのちの無垢なる知のちからの本体(法身:ほっしん)については、言葉によって表現することも、思考することもできないと諸経論にいう。そのように説き示すことのできないものを、あなたはどのようにして論じようとしているのですか。
答え。(そうではない)そのように諸経論に述べられているは、悟ることのない者には、その本体が理解できないからだ。(だから、言葉によって表現することも、思考することもできないものとした)
問い。そうであれば、すでに法身については述べられていて、その本体に触れた者もいたはずである。そうすれば、そのことが論じられたはずであるが。
答え。(その本体に触れた者がいたとしても、当時においては)論理(因、すなわち条件よる筋道の展開)によってとらえられることは説き示すことができる<因分可説>が、悟りといった形而下の事柄については論理によって説き示すことができない<果分不可説>としていたので、賢人たちは、論理にしたがうことしか経論に記さなかったのだ。
問い。では、そういうことであれば、どのような経論に密教の教えが説かれているのでしょうか。
答え。『五秘密(ごひみつ)経』(不空訳)、『瑜祗(ゆぎ)経』(金剛智訳)、『分別聖位(ふんべつしょうい)経』(不空訳)、『大日経』(善無畏、一行訳)、『楞伽(りょうが)経』(菩提流支訳)、『金剛頂経』(不空訳)などの経典と、『菩提(ぼだい)心論』(不空訳)、『大智度(だいちど)論』(羅什訳)、『釈摩訶衍(しゃくまかえん)論』(筏提摩多訳)などの論書である。
問い。その経論のなかの証拠となる箇所を教えてください。
答え。承知した。わたくし空海があなたのために日輪を飛ばし、暗夜を破り、いのちの無垢なる知のちからの原理(密教の教え)を開示して、顕教の説く論理の壁を砕いてみせましょう。
問者。それでは、ただひたすら、お聞きかせ下さい。
2-2例証
(イ)『釈摩訶衍論』には、
「あらゆる生きとし生けるもの(衆生)には、そもそも生命の始原から、いのちの無垢なる知のちから(本覚)がそなわっている。
(そのようなことであるから)その本来的にそなわっているものが、修行によって生じたとか、教法や教導とかによって習得されるということはない。
(そうであれば)その知は因縁によって生じたものではなく、もともと実在していたものである。だから、不二絶対のものである。
不二絶対の知とは、『華厳経』によると、自然を器として、そのなかで、あらゆる生きものが誕生し、育ち、共生し、多様な種の相互扶助によって自然界を形成している知である。
その知を感得(果分)することになれば、眼前に展開するのは、一(いち:あらゆる種のそれぞれの個体)がすなわち一切(いっさい:自然界の全体)に通じ、一切がすなわち一に集約される世界であるから、その世界を一々、論理によって説き示すには限度を超えている」とある。
(ロ)『華厳五教章』第一巻には、
「今まさに、ブッダがいのちの無垢なる知のちからに目覚め、生命圏のあるがままのすがたを映し出すこととなると、その不二絶対の世界を説こうとしても、その世界に目覚める道程(因分)については説くことはできるが、悟りの境地(果分)については説くことができない」とある。
また、第四巻には、
「万象のすべては、互いが条件(因分)となって無限に生起しているから、いかに教理をめぐらしても、その一々からなる全体像のインスピレーション(果分)を説き明かすことは不可能である。故に、『十地論』に因分可説・果分不可説(道程の分位は説くことができるが、悟りの分位は説くことができない)という」とある。
(ハ)『天台止観(てんだいしかん)』第三章には、
「この三つの真理、個別の存在は言葉によって論証できないという真理<空>と、そのような論証できない現象が実在し、空間を構成しているという真理<仮>と、その実在する空間と現象を知覚し、把握しているのは人間の意識であるという真理<中道>は不可思議であり、これらの真理によれば、あらゆるモノ・コトはその個別の性格を決定づけることはできないのだから、説くことは不可能である。
(そのようなことなのに)もし、相手にそれらの真理をもちいて、モノ・コトを説くこととなると、それらの論議はすべて不毛なものとなる」と。
(その論議の範疇にあるのが顕教である)
(ニ)『楞伽経』第八巻には、
「ブッダ(目覚めた人)が説法するのは悟りを得ようとしている者へのサポートとしての言葉である」とある。
(だから、その言葉を聞き学んだとしても、そこに悟りそのものが開示している訳ではないことになる)
(ホ)慈恩法師の『二諦義(にたいぎ)』には、
「『瑜伽(ゆが)』や『唯識(ゆいしき)』において、最高の真理は言葉や思考を絶したところにある」という。
したがって、言葉の論理によっては説くことのできないところに至り、あらゆる存在を超越する境界までが顕教の教えであるが、その境界を超越したところに、いのちの無垢なる知のちからが開示している。その開示された知を説くのが『金剛頂経』などの密教の経典である。
(ヘ)『大智度論』巻五には、
「(ブッダの説いた縁起論に習って、あらゆる存在を考察すると、)生じないし、滅しない。断絶しないし、連続しない。同一ではないし、別でもない。去ることもないし、来ることもないとの八つの見解を得ることができる。
この八つの絶対真理(空)によって、あらゆる分別から離れることができ、そこに、あるがままの真実の世界へ至る最初の門がある」という。
また、巻三十一には、
「現象(存在)を離れた絶対真理(空)はない。なぜなら、空間と現象が実在するから、空を論証することができるからだ。しかし、その空の概念が、世界を形成しているわけではない。このように、物事を相対的に分別して考察するから、存在の状況を生起・消滅・存続・変異するととらえ、それらを不生・不滅・不住・不異であると説くが、それらは、あくまでも言葉がもたらす分別への迷執を破るための否定の論理(方便)に過ぎないのだ」とある。
また、同著者による『般若燈(はんにゃとう)論』の「観涅槃品(かんねはんぼん)」の詩に
「いのちの無垢なる知のちからそのものが、他に説法するということはない
無垢なる知にはもともと言葉による分別などなく、したがって、大乗(空の論理)を説く必要もない
また、(その知のちからに目覚めた)ブッダや如来がいのちの無垢なる知そのものを説くこともない
いのちの無垢なる知は真理を説こうと考えていないし、説法者がいのちの無垢なる知であることもない
悟りのなかのブッダは説かず
そこにあるのは、分別を離れたあるがままの空であるから、慈悲心もない
(そうして、空の論理によれば)生きとし生けるものは実体をもたないから、(そこに宿る)いのちの知のちからも実体をもたない
いのちの知のちからが実体をもたないから、また慈悲の心もない」とある。
上記(巻五・巻三十一・『般若燈論』)の論理によると、分別した世界はすべて空であるから、もろもろの議論は無駄であり、沈黙を保つことが究極の境地ということになる。(そうなると、顕教では、すべての存在を否定したところに悟りがあることになるが)密教では、分別による煩わしさから解放されたところに、あるがままの実在する世界が開示するから、その真実の世界を積極的に表示しようとする立場を取る。
また、『大智度論』巻三十八には、
「(ブッダの悟りを説く立場には)二つの真理がある。一つは、いのちの無垢なる知のちからに目覚めたものが生きとし生けるものを救済するという相対的な立場と、もう一つは、いのちの無垢なる知のちからそのものが生きとし生けるものであるとの絶対的な立場である」という。
(ト)『釈摩訶衍論』巻二にいう。
「言説には五種類がある。そのことについて、『楞伽経』巻三に次にように説かれている。
一に相言説:もろもろの色・かたちに執着して生じる言説。
二に夢言説:過去の経験を夢に見て、それが夢であると分かっていても、その夢が起こさす言説。
三に妄執言説:過去に体験した喜怒哀楽の記憶に執着することによって生じる言説。
四に無始言説:始まりのない無益な議論によって生じる言説。
五に如義言説:すべての教えは文言によるが、その文言がそのまま真実であることはない。それなのにブッダは悟りによる教えをどのような文言でもって説法されたのかと『金剛三昧経』にあるが、万象(実在)を相対的に説けば空論に至り、その空なる存在は固定的なものではないから実在するものにならない。また、実在(有)と空(無)の二相を離れた間に真実の相があるわけでもないし、それらの三つの相を離れたところに真実の存在があるのだ。その存在によって説かれるのが如義言説である。この言説だけが真実そのものであるから、悟りの真理を説法することができる」と。
(チ)『菩提心論』には、
「いのちの無垢なる知のちからとはたらきに目覚めるために、過去に悟りを求める心をおこした者たちは、絶妙にして言説を離れ、あらゆる生物が共に生きて行ける慈悲の心と、その心を実践するために、からだと言葉と意識を一体化させる修行を怠ることはなかった。そうすれば、言葉の分別によって自然を理解するのではなく、自己も自然の一部として生かされている存在であるとのインスピレーションを得ることができる」と説く。
この論書こそが密教の肝心を論じたものである。
以上、弁顕密二教論 巻の上
(リ)『六波羅蜜(ろくはらみつ)経』第一にいう。
「いのちの無垢なる知のちからに目覚めたブッダは、生命の存在は永遠に清浄であると悟った。
その清浄さが見えないのは、雲が日の光をさえぎるように、欲望の塵が心をおおっているからだ。
無垢なる知のちからはもろもろの徳をそなえ、それらが、永遠性と安楽性と無我性と清らかさのすべてを満たしている。
この無垢なる知のちからを求めようとするならば、分別から離れることによって開示されるのだ」と。
(ヌ)『楞伽経』第九には、
「いのちの無垢なる知のちからには、迷いが立ち入るといったことがない。そのことに目覚めたブッダの入滅後に、そのような知を誰が受け継ぐのだろうか。(心配することはない)やがて、勝れた僧が現れるであろう。その名をナーガールジュナ(龍樹)という。その僧が存在の有無を論破し、存在は分別によっては、とらえることができないと説くであろう」という。
この教えによって、密教の門は開かれた。
また、巻二にいう。
「いのちの無垢なる知のちからによって、他に教えを説くとき、すべての存在するものには、特殊なすがたと共通するすがたがあるというが、そのこと自体が分別であり、そのような分別をもつ人びとに教えを説くことになるのだ。
また、無垢なる知のちからに因縁はないから、そこに存在するのは、あるがままのいのちのすがたである。
また、その知のちからに目覚めたブッダが他に説いた教えは、人の真実の所作のあり方である」と。
また、巻八には、
「ブッダは、人びとを教化するにあたって、あるがままのいのちのすがたも、いのちの無垢なる知のちからも、その知のはたらきも説かなかった」とある。
このように、(あらゆる生きとし生けるものが本来的に有している)いのちの無垢なる知のちからだけが悟りをもたらすのだが、その知のちからそのものについては、ブッダは沈黙を保った。
(ル)『五秘密経』に次のように説く。
「あらゆる存在は、論理によっては分別できないと考察し、その修行を通じた知と慈悲の実践によって、無我と縁起の空を自覚するとしても、それは無上の悟りにはならない。
もし、(無上の悟りを得たいのなら、)あらゆるいのちが有している無垢なる知のちからと、その知のちからによって展開されている生命のすがたと、それらのすがたをもつものが行なう知のはたらきの世界<マンダラ>のなかに自らが入ることだ。そうすれば、無量・無尽の生命の目的に達することができる」と。
このように、無上の悟りは、言葉による論理思考によっては会得できるものではないと知るべきである。
また、『瑜祗経』にいう、
「いのちの無垢なる五つの知のちからと、生命のすがたを形成する四種の原理をもって、生きとし生けるものが共に地上に住している」と。
また、『分別聖位経』には、
「どのような種の個体であっても、生きとし生けるものは同一平等の原理によって存在している」という。
これらの経典の説は、ことごとくが、いのちが本来的に有している無垢なる知のちからとそのはたらきの存在を示している。したがって、生きとし生けるものは、それらの知によって、自らの生を楽しみ、満足することができると説き明かしている。(そのような無垢なる知によって、人間も大いなる悟りを得られるのだ)
このことは、『楞伽経』において、「いのちが本来的に有している無垢なる知のちからが生きとし生けるものに悟りをもたらし、人間ブッダもその知に目覚めることによって普遍の悟りを得たが、その知の本体については沈黙を保った」とする説と合致している。
もし知恵のある人が、これらの諸経典の文章を目にするならば、(悟りは他から学んで得られるものではなく、自らのなかにもともと存在しているものであると気づき)雲霧はたちまちに晴れて、閉ざされていた門の鍵も開くであろう。それは、井戸のなかの魚が自由に大海に泳ぎ、垣根のなかの鳥が自由に大空に羽ばたくことを得るようなものである。
(ヲ)『分別聖位経』にいう。
「いのちの無垢なる知のちからに目覚めたブッダは、インドのマガタ国においてその知にしたがって、人びとの能力・気質に応じた真実の生き方を説かれた。(しかし、無垢なる知そのものについては説くことなく沈黙を保たれた)
その(ブッダが説くことなく沈黙した)無垢なる知のちからとはたらきそのものを開示したものが<マンダラ>であり、そのマンダラによって根源の知を修得しようとするのが真言宗の教えである。
ここに、仏教に二つの教えが生まれた。一方は、無垢なる知によって悟りを得た人間ブッダが説いた教えであり、もう一方は、固体・液体・エネルギー・気体・空間によってすがたを成しているあらゆる生命が、本来的にその身に宿している無垢なる知のちからによって集合する場に、自らも参加するための教えである。
(いずれの教えも、いのちの無垢なる知のちからを根源とするが、一方は、その知に目覚めた説法者による教えであり、もう一方は、その形而下の直接的な知のちからによって、自らが目覚める教えである)
2-3註解
(イ)『瑜祗経』には、
「すべての生きとし生けるものに宿る、いのちの無垢なる知のちからとそのはたらきは、以下のような普遍的原理によって成り立っている。
1、自然の五つの要素<五大(ごだい)>
自然界を構成している物質要素は、固体(地大)・液体(水大)・エネルギー(火大)・気体(風大)・空間(空大)の五つであり、それらの形質によって、あらゆる生物も造られている。
2、生命のもつ五つの知<五智(ごち)>
五大によって造られたすべての生物は、そのすべてが、いのちの無垢なる知のちからをもち、そのはたらきによって共に生きている。
(1)生活知<大円鏡智(だいえんきょうち)>
あらゆる生物が呼吸・睡眠・生殖を無心に為して生きている知。
(2)創造知<平等性智(びょうどうしょうち)>
あらゆる生物が衣・食・住を生産・相互扶助している知。
(3)学習知<妙観察智(みょうかんざっち)>
あらゆる生物が持ち前の知覚によって住む世界を観察し、そのちがいを知り、コミュニケーションを取り合う知。
(4)身体知<成所作智(じょうそさち)>
あらゆる生物がからだを空間に遊ばせ、生を無心に楽しむ知。
(5)生命知<法界体性智(ほっかいたいしょうち)>
太陽の光と水と大気の恵みによって宇宙に誕生した生命が、その多様な種によって自然界を形成し、存在している知。
3、生命の四種の無垢なるすがた<四種法身(ししゅほっしん)>
五つの知のちからのはたらきによって生きている生命の四種の無垢なるすがた。
(1)生命存在<自性(じしょう)法身>
太陽光の下、呼吸と食物の連鎖、すなわち物質燃焼によるエネルギー代謝よって、あらゆる生物が生きているその普遍のすがた。
(2)個体<受用(じゅゆう)法身>
多様な生物の種のその種の個体を受け継いで生まれてきた、たった一つのかけがえのないすがた。(自他の関係がある)
(3)遺伝<変化(へんげ)法身>
同じ種であっても遺伝の法則によって異なる個性を生物はもつ。その変化するすがた。
(4)多様な種<等流(とうる)法身>
生命が進化し、多様な種となり、種の形質がDNAによって等しく流出してくるすがた。
4、生態系<三種世間(さんしゅせけん)>
あらゆる生物は自然に住み場を得て生活している。その生活によって、生物と自然との共生が生まれる。その持続する共生関係は生物の有する無垢なる知のちからのはたらきと物質のエネルギー代謝の循環に委ねられている。
(1)自然<器(うつわ)世間>
(2)生物<衆生(しゅじょう)世間>
(3)エネルギー代謝の循環<智正覚(ちしょうかく)世間>
5、ヒト科の行動原理<三密(さんみつ)>
すべての生物は五大によって造られ、五つの知のちからとそのはたらきによって生き、四種の生命原理によってすがたを成し、自然界をすみわけ、それぞれの生態系を維持している。それらの隠れた諸原理にしたがいながら、ヒトもその無垢なる発露となる、からだと言葉と意識によって生きている。(でも、ほとんどのヒトはそのことを自覚していない)
(1)からだ<身密(しんみつ)>ヒトは手足を用いて、道具を作り、美しい布を織り、狩をし魚や鳥やけものを捕らえ、水を引き、畑を耕し、野菜や穀物を育て、料理をし、井戸を掘り家を建て、道を拓き港を開き、そうして、遊び、踊り、指で仕草を示し、他者と結びつく。(2)言葉<口密(くみつ)>暮らしの日々のなかで、ヒトは言葉のひびきで意思を示し、そうして、語り歌い、他と共感しあう。(3)意識<意密(いみつ)>からだと言葉による創造性の発揮は、ヒトがあるがままの真実の存在をこころにイメージできるからである。
(以上の項目こそが、悟りの本体なのだ)」と説かれている。
(ロ)『大日経』に、
「あるとき、ブッダは、いのちの無垢なる知のちからの開示する場におられた。そこには、そのちからのはたらきによって生じた、すべての真実の存在が集合していた。ブッダはそれらの存在に囲まれ、自らにも宿る普遍的な知によって、身体と言語と意識にわたって平等の説法をされ、その説法によって、生命の総体的な存在と、生きとし生けるものの一つずつの個体と、その個体によって異なる個性と、多様な種によって構成される自然界のそれぞれのすがたの妙を説き明かされた」とある。
また、「そこに集った本来的に無垢なる知をもつものに向かって、ブッダは、生きとし生けるものすべてが自然界を形成している一員であると告げた。そうして、それらの生きとし生けるものたちを通して、ブッダの目覚めた知は広く、そのはたらきを果たすことになった」ともある。
(ハ)『守護国陀羅尼経』巻九には、
「いのちの無垢なる知のちからを、形而下においてはすでに感得することができたが、わたくしブッダが今、この菩提樹の下の道場において、もろもろの国王やあなたたちのために、その形而下の悟りにもとづいて、真実の生き方を言葉をもって説くのである」とある。
(ニ)『大智度論』巻九には、
「いのちのすがたのとらえ方には、二種ある。一つは進化し、多様な種として存在しているすがたであり、二つは雌雄によって生じる個体としてのすがたである。前者は、十方の虚空に遍満して、量り知れず限りがない。また、その色やかたちは端正で、それぞれの種のすぐれた特徴をもって飾られている。また、無量の光明、無量のひびきを有している。それらの種が相互に衣・食・住を扶助することによって生きているから、一瞬の間もその生は休息することがない。(それらの生きとし生けるものが、皆、共通する無垢なる知のちからを有している)」とある。
2-4秘密の判別
秘密には二つの意味がある。
一つは、分別によってあるがままの真実の存在をおおい隠してしまう衆生自らが生じさす秘密である。
二つは、ブッダの秘密であり、説法する相手の素質・力量に応じて、効き目のあることを説こうとするから、あえて秘して、誰もが本来的に有しているいのちの無垢なる知のちからのことは説かない。
しかし、その説かないとする秘密の教えもまた、無垢なる知のちからによるダイレクトな形而下の教えと比べるならば、説くための借り物であって、真実ではない。
そのように、秘密にも借り物と真実との区別があるから、時と場に応じて、受け取るべきである。
以上、弁顕密二教論 巻の下
あとがき
空海の著作のうち、この『二教論』と、もう一つの『十住心論』は<横竪(おうじゅ)の教判の書>と称されている。
ブッダの悟りを説くにあたって、言葉の論理によって説く顕教と、形而下の体験とイメージによって説く密教があるとの二つの教法を論じたものが『二教論』であり、人間思想を体系的に第一住心から第十住心の十段階にまとめ、密教に至る階梯を論じたものが『十住心論』である。
前者は比較論<横の教判>であり、後者は思想の進化を論じる<竪の教判>である。
また、著作年代が『二教論』は八一五年頃と推定され、『十住心論』は八三〇年であるから、前者が密教布教のための論書であり、後者が思想体系のなかでの空海密教思想の位置づけを目指したものである。
さて、当論遊において、竪の教判『十住心論』のダイジェストをすでに発表させていただいたが、今回は横の教判『二教論』のダイジェストとなった。これで、空海の横竪の教判の今日的解釈に手をつけたことになる。密教の修学は、単に理論によっては把握できないことを承知しているが、そこに今日の生態学理論をもってくることによって、世俗にも少しは風通しのよいものになったのかなと思う。