一、(自らのもつ、いのちの無垢なる知の目覚めを説く)八つ文章
問う。「諸経論によると、さとりを開くには長い修行が必要であると説いている。それなのに、あなたは今すぐにこの身そのままで、さとりを得ることができるという。どうしてですか」。
答え。「そのことが、密教の教えであるからだ」。
問う。「その教えは、どのように経典に説かれているのですか」。
『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』では、
「心を一点に集中すれば、さとりを得る(1)」<この心の一点とは、いのちの無垢なる知のことである>と説いている。
また、「生きとし生けるものが、いのちの無垢なる知のちからによって、朝・昼・夕・夜を生きるならば、この世において、自らの生きる喜びを得て、(いのちの無垢なる四つの知<生活知・創造知・学習知・身体知>と、それぞれの知のもつ四つのはたらきの)十六の分野に目覚めることができる(2)」とも、
「この教えこそが、この世の無上のさとりである(3)」とも、
「まさに、自らのからだそのものが、いのちの無垢なる知のちからの原理が具現化したものであると知るべきである(4)」とも説いている。
『大日経(だいにちきょう)』では、
「この自らのからだをもって、自由自在に行動できる能力を得て、思うままに空間に遊び、しかも、いのちの無垢なる知のちからに無心にしてしたがうことができる(5)」と説いている。
また、「この身のまま、いのちの無垢なる知のちからを体得しようと願うならば、それらのすべてではなく、自己の個性に合った、知のちからやはたらきをイメージしなさい。そうすれば、師の真実の言葉による導きのもとで、その知のポジションを得て、(全体を構成している一部としての)自己のさとりに到達する(6)」とも説いている。
また、『菩提心論(ぼだいしんろん)』には、
「この身そのままでさとりを得ることができるのは、自らのもつ、いのちの無垢なる知のちからを説く、密教の教えのみである(7)」と説いている。
また、「もし、人あってさとりを求め、自らのもつ、いのちの無垢なる知のちからに目覚めることができれば、父母から授けられたこの身のままで、たちまちにして、ブッダ(目覚めた人)になれる(8)」とも説いている。
二、自らのもつ、いのちの無垢なる知の目覚めの詩
(一)万物(生きものをふくむ)を構成している、六つの要素<地(固体)・水(液体)・火(エネルギー)・風(気体)・空(空間)・識(意識)>は、お互いにさえぎることなく、常に相応し、とけあっている。「万物の本体」
(二)万物は四種類の知<形象・シンボル・文字・作用>によって多角的に観察・表現・伝達されるが、それらの知は、それぞれが万物と結びついていて、離れることがない。「万物のすがた」
(三)いのちの無垢なる知のちからと、生きもののもつ三つの知の活動<動作(運動)・コミュニケーション(情報交流)・精神(意識)>が応じあうとき、たちまちにして、そこに真実の世界が開示する。「個体のはたらき」(四)いのちの無垢なる知のちからによって、すべての生きものが、お互いを照らしあって生きていることを、この身そのままの存在、すなわち「即身」という。(五)あらゆるものは、あるがままに量り知れないほどの多くのいのちのすがたを成していて、それらのすべてが無垢なる知のちからをそなえている。「あるがままの存在」(六)すべての生きものには、対象に反応する心の作用と心の主体がそなわっていて、そのはたらきは数かぎりない。「心の作用/心の主体」(七)それらのはたらきには、それぞれに、いのちの無垢なる五つの知<生命知・生活知・創造知・学習知・身体知>のちからがそなわっていて、欠けることがない。「生命知」(八)その無垢なる知のちからとはたらきによって、すべての生きものがお互いを鏡のように照らしあうとき、そこに目覚めがある。すなわち「成仏」である。
〔詩:訓み下し文〕
(一)六大(ろくだい)無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり(二)四種(ししゅ)曼荼(まんだ)各(おのおの)離れず(三)三密(さんみつ)加持(かじ)すれば速疾(そくしつ)に顕(あら)わる(四)重重(じゅうじゅう)帝網(たいもう)なるを即身と名づく(五)法然(ほうねん)に薩般若(さはんにゃ)を具足して(六)心数(しんじゅ)心王(しんのう)刹塵(せつじん)に過ぎたり(七)各(おのおの)五智(ごち)無際智を具す(八)円鏡力の故に実覚智なり
(以下は、上記詩の句ごとの解説である)
三、(一)の句「万物の本体」
万物は、固体・液体・エネルギー・気体という物質の状態と、その物質を存在さす空間と、それらの物質と空間が存在することによって誕生した生きもののもつ意識の、計六つの要素によって構成されている。
(その六つの要素が展開する言語を)『大日経』の詩に説いてある。
「わたくしは、万物の六つの要素が存在の大本であるから、本来的に不生であること(ア)、言語による分別を超えるものであること(バ)、けがれのない本体であること(ラ)、原因と条件にとらわれない存在であること(カ)、虚空のようにさまたげなく自由な存在であること(キャ)をさとった(ウン)」と。()内、梵語
この詩が導く梵語の<ア字>はもともと存在していて、新たに生じたものでないとの意味から<地>を示し、<バ字>は分別できないとの意味から<水>を示し、<ラ字>はけがれのないとの意味から<火>を示し、<カ字>は原因と条件を吹き払うとの意味から<風>を示し、<キャ字>は虚空のようにさまたげがないとの意味から<空>を示し、わたくしがさとったという<ウン字>は精神のはたらきであるから<識>を示している。
また、『金剛頂経』でも万物を構成する六つの要素のことを説いている。
(その他の経典でも、万物の本体について説いている)
この万物の本体である六つの要素が、すべての生命と物質の本体であり、それらによって、生きとし生けるものの世界と、その住み場となる環境世界と、いのちの無垢なる知のちからが発揮される世界がつくりだされている。
以上のことを詩にして説く。「(万物の本体である六つの要素によって)多様ないのちのすがたとそのすがたをうごかしているいのちの原理とその住み場となる自然環境が生まれたそうして、万物と、その分別されたすがたといのちの無垢なる知のちからをもつものの教えと、その教えを聞いてさとるものと自らさとるものと、慈悲のつとめに励むものとが生きとし生けるもののもつ心よって生じることになったのだブッダもまた同様のことを説法された(そのようにして)心をもつものの世界(生命)といのちなきものの世界(物質)が(六つの要素によって)つぎつぎと成立した生成し、存続し、変化し、消滅するすべての存在が常に、このようにして生じている」と。
また、つぎのようなイメージによって、六つの要素を体得せよと『大日経』に説いてある。
「イメージ(意識)しよう自らのからだが虚空の宇宙(空間)にあることをそうして、足より臍(ほぞ)に至るまでが大金剛輪<ア字不生の大地>であることをそこから心(むね)に至るまでがまさに水輪であることを水輪の上には火輪(エネルギー)があり火輪の上に風輪(気体)がある」と。
また、六つの要素は『大日経』に、つぎのようにも説かれている。
「いのちの原理を知るものよ、わたくしは、あらゆるいのちの無垢なる知のちからを用いて、人びとを教え導くのである。(そのために)生きものの多様なすがたを地上に現出させ、それぞれの役わりを演じさせ、固体・液体・エネルギー・気体をまとめ保って、そこに意識を宿させ、あらゆる空間に存在させているのである。
そのあらゆる生きものが形成する世界・清らかな物質より成る世界・その双方を結び、調和させている知の世界は、すべてが、万物の本体である六つの要素から造りだされたものである。そうして、そのような真理の教えを聞いてさとる者、自らさとる者、そのさとりによって慈悲の行ないへと進む者も、同じ六つの要素から生まれたものなのである」と。
以上のように、物質が意識をもち、意識が物質を成している。ということは、主観である知が、客観的対象となる物質そのものであるから、物質そのものが知の本体でもあるのだ。
このように、知と物質が宇宙において、障害と境界なく、お互いにコミュニケーションし、応じあって、永遠不変であり、あるがままの真実の世界のなかで、究極的に存在していることになるのだ。
四、(二)の句「万物のすがた」
六つの要素によって生じている万物のすがたとはたらきを観察・表現・伝達できる知のメディアには、
(1)「形象」:色・かたち・動きによる、すがたの表現。<大マンダラ>(2)「シンボル」:象徴的な事物・事象を用いた、差別化と意味化。<サンマヤマンダラ>(3)「言語」:文字と数量による意味の編集。<法マンダラ>(4)「作用」:物質のはたらきと人のはたらき。<カツママンダラ>
の四種類があり、この知のメディア<マンダラ:万象の本質が集合している場>によって、世界が意味をもって開示する。
また、これらの知のメディアによって観察・表現・伝達される物象と事象は無量であり、一つひとつの量は虚空に等しい。それらが互いに関連しあい、かれはこれを離れず、これはかれを離れない。その光景は、まるで空の光がさえぎるものがなく、さからいあうこともないようなものである。
五、(三)の句「個体のはたらき」
万物が知によって、すがたを現わしている世界で、あらゆる生きものが、動作(運動)・コミュニケーション(情報交流)・精神(意識)の三つの知の活動を行なっている。それらの活動のそれぞれを通じて、いのちの無垢なる知のちからが開示されることになる。
(その開示の一つの方法として)手で印を結び<動作>、真実の言葉を発し<コミュニケーション>、<精神>を統一するならば、そこに、いのちの無垢なる知のちからが応じることになる。
その無垢なる知のちからとは、『金剛頂経』によると、
(1)生活知<大円鏡智(だいえんきょうち)>
あらゆる生きものどうしが、共に呼吸・睡眠を無心に為して生きている知のちから。
(2)創造知<平等性智(びょうどうしょうち)>
あらゆる生きものどうしが、共に衣・食・住を生産・相互扶助している知のちから。
(3)学習知<妙観察智(みょうかんざっち)>
あらゆる生きものどうしが、共に持ち前の知覚によって住む世界を観察し、コミュニケーションを取りあい、秩序を保っている知のちから。
(4)身体知<成所作智(じょうそさち)>
あらゆる生きものどうしが、共にからだを空間に遊ばせ、生を無心に楽しむ知のちから。
(5)生命知<法界体性智(ほっかいたいしょうち)>
太陽光と水と大気の恵みによって誕生した生命が、さまざまな環境に適応して、多様な種を生みだし、共に生きることによって豊かな自然を形成している知のちから。
と説いている。
以上の五つの無垢なる知のちからによって、世界が調和し、保たれている。その知のち
からが、個体のもつ三つの知の活動と応じあうとき、そこにさとりがある。
六、(四)の句「即身」
この身そのままとは、いのちの無垢なる知のちからと応じあう、あらゆる生きもののも三つの知の活動が、お互いにとけあい、さまたげのない状態にある身である。
また、この身の「身」とは、わが身と、いのちの無垢なる知をもつ身と、あらゆる生きものの身である。
それに、四種類のすがたをもつ「身」である。生命圏を形成している普遍的存在としてのすがたをもつ身と、親から受け継いだ個体としてのすがたをもつ身と、(遺伝の法則によっ)個性あるすがたをもつ身と、多様な種としてのすがたをもつ身とである。
また、三種類の「身」がある。言語によってあらわれる身と、個性によってあらわれる身と容姿によってあらわれる身とである。
そのような、さまざまな身が縦横にかかわりあって、お互いを映しだしている。だから、かの身はこの身であり、この身はかの身である。いのちの無垢なる知のちからをもつ身は、生きとし生けるものの身であり、生きとし生けるものの身が、無垢なる知をもついのちの身である。また、ちがう身でありながら、同じ身であり、ちがわない身でありながら、それぞれがちがう身であるのだ。
それらの身は、いのちと、いのちの原理と、そのいのちの原理にしたがい生きるものたちであり、また、動作と、コミュニケーションと、精神との三つの知の活動によって生きるものたちであり、また、心と、いのちと、生きとし生けるものたちである。
このように、すべての身は平等であり、平等であって一つである。一つであって、しかも量り知れず、量り知れずして、しかも一つである。そうして、乱れることなく、調和を保っている。
七、(五)の句「あるがままの存在」
『大日経』にいう。
「(いのちの無垢なる知のちからの中心を成す)生命知は、一切の自在なる存在の根源である。(生命が存在しなければ、知も存在しないのだ)これ以上の自明の理はない」と。
しかし、(愚かな生きものは)そのことをさとることがないから、生命の存在というもっともシンプルな真理を説くのである。
また、「万物の存在は因果関係によって証明できない。なぜなら、原因そのものが作用の主体に生り得ないから、結果は生起しないのだ。(なぜ、作用の主体に生り得ないのかというと)原因の原因を追究し始めると、無限の還元におちいり、原因は足場をなくしてしまう。だから、空である。空なるものから結果は生じない」とも説く。
このように、万物は生じることはないし、そこにあるがままといったことのみが真理である。
また、『瑜祗(ゆぎ)経』にいう。
「いのちの無垢なる知の中心<生命知>から生まれた、四つの知<生活知・創造知・学習知・身体知>のちからのもつ、それぞれの四つのはたらきから、あらゆる生きものが無尽に流出し、それらのすべてが<生命知>のちからを宿している」と。
このように、すべての存在はそのままで完成しており、現にあるがままの存在であり、少しも欠けるところがない。
八、(六)の句「心の作用/心の主体」・(七)の句「生命知」
無垢なる知のちからを、あらゆる生きものが有している。(その知のちからが集合することによって、生きものの住み場となる自然が形成され、保たれている)
万物に満ちているそれらの知のことを「英知」・「心」・「法」とも呼ぶ。
詩句に説かれる「心の主体」とは、太陽光と水と大気の恵みによって誕生した生命が、さまざまな環境に適応して、多様な種を生みだし、共に生きることによって豊かな自然を形成している「生命知」を指す。
「心の作用」とは、万物が同じ要素から成ったものであることを承知したうえで、各種現象の相を区別してとらえることを指す。
それらの心のとらえる知のすべてに、<五つの知>がそなわっている。その知が宇宙のあらゆるところに満ちている。
九、(八)の句「成仏」
目覚めた人<ブッダ>とは、どのようなことをもって、そのように呼ぶことができるのか。答えよう。高台に置かれた球形の鏡が、万物の色・かたち・動きをことごとく映しだすことができるように、あらゆる生きものが有している、いのちの無垢なる知のちからが万物を映しだすときには、寂として一切を照らし、道理にそむくことなく、しかもあやまりがないのだ。
この鏡のような無垢なる知を、すべてのいのちあるものが必ず有している。迷える人間といえども、それらのいのちあるものと異ならないのだから、どうして、無垢なる知のちからを有していないことがあるだろうか。
(この身そのままが、生命・物質・意識から成る知の主体であり、客体であり、本体なのであると空海は説く。そのことに形而下において目覚めることが成仏である)
あとがき
この『即身成仏義』の論考は、空海教学の学習書である『十住心論』『弁顕密二教論』『般若心経秘鍵』『菩提心論』の新要約につづくものである。
即身成仏の成仏とは、ブッダ(目覚めた人)に成るという意味であり、親から授かったこの身のままで、真実の世界に目覚めることが可能であると空海は説く。
この書の原型となるのが『菩提心論』であるが、その『論』と比較すれば、存在の本性や生きる行為とは何かについて、より明確にし、万物の表現方法となる、四種類に分類した知のメディア<マンダラ>論を付加している。また、生きとし生けるものの真のすがたについても、ダイナミックに論じている。
また、諸教学書のなかで当書は、生命の存在とは何かを問う哲学書として位置づけられ、その実存主義的な帰結を示すさとりの世界は、今日の生態学がとらえる生命圏の連鎖のイメージに限りなく近いのだ。