〈巻上〉
1序論
わたくし空海の考察したところによって、ブッダについて端的に説明すると、ブッダ(目覚めたもの)には三種のすがたがある。
一に、さとりの本体である無垢なる知のちからそのもの〈法身(ほっしん)〉。
二に、無垢なる知のちからが人びとに応じてはたらくすがた〈応身(おうじん)〉。
三に、無垢なる知のちからが人びとの救いのためにさまざまなかたちをとってあらわれるすがた〈化身(けしん)〉。
(因みに、無垢なる知のちからとは、さとりの世界を説く『金剛頂経』の教えの核心「五智より成る四種の法身」の五智にもとづく。詳しくは後述。また、大乗仏教で一般的に説く三身は、釈尊のさとりそのものである絶対真理〈法身〉、誓願・修行が報われ、相応のさとりを得て慈悲のはたらきをするもの〈報身(ほうじん)〉、人びとの救いのためにさまざまなすがたかたちをとってあらわれるもの〈応化身(おうけしん)または変化身(へんげしん)という〉の三種である。-訳者注、以後カッコ内同様)
また、ブッダの教えには二種がある。
一つは、(釈尊がさとりの後に菩提樹の下で思惟した法によって)人びとの救いのために相手の素質・器量に応じ、言葉によって分かりやすく説く教え、すなわち応・化身の教えが顕教。
一つは、釈尊のさとりそのものである無垢なる知のちからの教え、すなわち法身の教えが密教。その内容は奥深く、真実である。
この内、顕教には膨大なる数の経典があり、その教えは修行過程の設定の仕方によって各種に分かれていて、さとりの手段も異なる。また、修行における徳目を布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つをもって基本とし、さらにはさとりに要する無限大の時間の長さが説かれている。
これらが、人間ブッダすなわち釈尊の法の教化に関わる要旨である。
金剛頂経系の『分別聖位(ふんべつしょうい)経』の三身説によると、 〈変化身(応化身)〉は、修行階位下段のものと、個人的な手段によってさとりを得ようとするものに、それらに見合った教えを説き、他のためにさとりを享受させるもの〈他受用身〉は、修行階位上段の菩薩になったもののために唯一の教えを説くとある。これらはみな顕教である。
これに対して、人間ブッダとなった釈尊のさとりの内側にある、すべてのいのちが本来的に有している無垢なる知のちからそのもの〈自性法身〉に自らが目覚めたもの〈自受用身〉は、その自らがもつ根本の知のちからとそのはたらきに、自己の生の活動である、身体(行動性)・言葉(コミュニケーション性)・心(意思性)を委ね、あるがままに生きることができるのである。これが密教である。
このいのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきの実践、つまり、身体と言葉と心をあるがままに活動させるさとりの世界には、顕教の説く修行階位上座のものといえども入ることができず、まして、自己中心的なさとりを得るものなどは、このさとりの知の世界に近づくことさえできない。したがって、『十地(じゅうじ)経論』『釈摩訶衍(しゃくまかえん)論』には、このさとりの世界は人びとの宗教的素質・器量とはかけ離れたものであると説き、『成唯識(じょうゆいしき)論』『中(ちゅう)論』には、言葉によって表現することも思考することもできない世界であると説く。
それはその通りで、これらの経論書が説くのは、釈尊のさとりを精神の最高地点とし、そこに至るための階梯を設定し、その設定されたすべてをクリアするには一生をかけても無理とする教えだから、その書き手であるさとりを決して体験することのない論者たちは、果分(さとり)の世界を知る由もなく、知らないことは記すことができない。
それでは、そのような者たちの説く経論では、仏法の要(かなめ)であるさとりの世界を知ることができないのか、そうでもないのだ。修行の到達地点すなわち目標としてのさとりのことは記しているし、明らかにさとりの無垢なる知そのものを示す論書・経典もある。それらをわたくし空海が以下に紹介するから、ぜひ、新しい仏法を学び取って欲しい。
そのような状況ではあるが、いずれにしても、そのさとりの世界と向き合うには、まず、顕教によって築かれている迷いの壁を取り払っておかなければ、先に進めない。
その壁とは、顕教の膨大なる経典によって、そのすべてを理解しなくてはならないとし、そこで足がすくんでしまって、先に進めない壁だ。
牡羊は前を見ずに突進するから、すぐに垣根につかえてしまうし、旅人の初心者は関所ではないところを関所だと思い込み、そこにとどまってしまう。
このような者は、仏法を求める道の途中で、目的地の広告看板に過ぎない絵に描いた城の中で休息してしまっている人や、柳の黄色の葉を黄金だと思って喜んで遊んでいる子供と同じで、ほんとうの宝の山には気づかないものなのだ。
そのように、精製すると乳が特上の美味しい食べ物〈醍醐〉になることを知らず、宝珠と魚の目玉との見分けもつかないような者にとっては、さとりがもたらす良薬も、甘露の慈雨も何の役にも立たない。
しかし、自らのもつ無垢なる知のちからを信じることのできる善男善女ならば、ああでもないこうでもないと、仮の教えばかりで築かれている顕教の氷の壁ぐらい、簡単に融かすことができるでしょう。そうなれば、さとりの世界は目の前にあらわれるのだ。
この密教の教えの核心、いのちのもつ無垢なる知のちからのことは、さとりの目標として多くの経論に触れられているのだが、論者自身がそのことに気づかずにいる。そこで、わたくし空海が各種の経論からその部分の文を抜き出し、大乗の先にある新しい仏法経典の紹介も含めて、真言密教の論拠としてまとめたいと思う。
当論書が、仏法を学ぶ者のきっと役に立つことでしょう。
2本論
2-1密教の論拠問答
そればかりか、中国の唐代から代宗の時代には、金剛智(こんごうち)や不空(ふくう)という僧によって、密教が盛んになり、その教義が流布されていたのだが、それらが顕教に取り込まれて、それぞれの宗義の範疇に吸収されてしまったのだ。このことは、仏法の醍醐味を知らない者たちがしでかした過ちであり、それが世に賢人と呼ばれた人たちであったことが口惜しい。
2-2論拠の例証
(イ)龍樹の『釈摩訶衍論』には、
「あらゆる生きとし生けるもの(衆生)には、遥か昔に生命が誕生したときから、いのちのもつ根本の知のちから(本覚)がそなわっていて、それは捨てたり離れたりできるものではなかったのだから、どうして、その自らのもつ無垢なる知に目覚めるのに前後や今といった時の差異が生じるのだろうか。また、仏道修行に励んだり怠ったり、聡明であったり愚かであったりなどと、個体差があるのはなぜだろうか。もし、いのちが無垢なる知のちからを平等に有しているのなら、みなことごとくが同時に発心(ほっしん)し、修行して、その知に目覚めるはずである。
そうならないのは、無垢なる知のちからそのものにも強・劣の別があるからだろうか、あるいは煩悩に厚さ・薄さの違いがあるからだろうか。
もし、初めの疑問に答えるならば、そうではない。なぜなら、本来、いのちの有している無垢なる知のちからは過去からの限りない知を受け継いできたものであり、そこに増減はないからだ。
また、後の疑問に答えるならば、そうではない。なぜなら、さとりによって目覚める無垢なる知のちからは、最初から煩悩を断ったところにある。
だから、それらの種々の差が生じるのは、人が物事を区別して考えるからであり、本来、無垢なる知のちからは平等である。
もしそうであれば、すべての修行者が、すべての悪を断ち、すべての善を行ない、修行の最上段に至り、ブッダの三身を成就し、常・楽・我・浄の四徳をそなえることが、それをもってさとりとすることが正しいことなのだろうか、はたまた、それはさとりとはいえないものだろうか。
答えははっきりしている。そのような相対的な考えにこだわって修行をすること自体が、さとりとは程遠いものなのだ。
そうであれば、清浄なる本覚、すなわち、自らのもつ無垢なる知のちからの目覚めは、顕教の修行によっては得られないし、他力によってあらわれるものではないことになる。
また、顕教のさとりの世界は、一切の存在に対する有・空の見方を超え、その有・空によって存在を論証するという片寄った執着からも離れたところにあるとするから、本来、すべてのいのちが有している自然で清浄なる根本の知の存在が、言葉や思考によって表現できないところのものとなってしまう。
この境地をさとりというべきか、無知というべきか。
これもまた、存在を相対的にとらえた結果によって証明する境地であるから、無知である。
このように顕教の見地によると、本来の目覚めである、いのちのもつ無垢なる知のちかの為す絶対世界は、空(くう)の論理をもってしてもとらえられず、仮(かり)の存在としても理解できず、また、その中道でもない。
したがって、どのような論理を用いても立証できず、言葉も及ばず、思惟も及ばないところとするこのような心の状況、すなわち一心は、はたして、さとりなのか、無知なのか。
答えは無知であって、さとりの段階ではない。(ともかく、何も分からないという境地だから、さとりではない)
三自一心摩訶衍(さんじいっしんまかえん)の法は、自らの本体・すがた・はたらきが一心となって為すところに絶対世界があると説く。そうして、一心の一は、一ではなく一切なのだから、一に固定した実体はなく、それはあくまでも因分として仮の一であり、心も、一心が一切の心なのだから、これも因分としての仮の一心である。また、自我はなく、無我であることが真理であるから、立証できない仮の我を我と呼び、立証できない仮の自をもって、自らというと説く。大乗思想によって考察すると、このようなことになるのだが、それでもなお、自らの本体・すがた・はたらきが一心となって活動しているところにあらわれるのが絶対真理の世界であると説く。
このおく深くてはかり知れない境地はさとりなのか、無知なのか。
答えは、無知であって、さとりの境地などではない。
しかし、人のもつ識別が起こす差別と相対から離れ、言語や思考からも離れた不二絶対の境地を説くのが不二摩訶衍(ふじまかえん)の法なのだ。
そのとおりなのだが、その境地をさとりと呼ぶべきか、それとも、それも無知が為せる業とすべきか」。
〔空海の解釈〕以上の重層の問答は、はなはだ興味深い。細心の注意をはらって、この究極の境地を吟味してみよう。ここでは一一(いちいち)の深い意味を記すことができないが、もっともっと、検証が必要だ。
また、この『釈論』(『釈摩訶衍論』の略称)第一には、
「(問い)なぜに不二絶対の法には原因・条件がないのか。
(答え)それは、この法があらゆる教えから独立したところに存在し、説く相手の宗教的素質・器量にもこだわらないからだ。
(問い)なぜこだわらないのか。
(答え)宗教的素質・器量などとは関係のない絶対の存在を説く教えであるからだ。
(問い)では、なぜに不二摩訶衍の法を打ち立てるのか。
(答え)それは説く相手という、相対的な存在を気にしなくてよいからだ。
(問い)この教えは無垢なる知のちからとそのはたらきという絶対真理に対応できるであろうか。
(答え)対応できる。
(問い)では、現象世界の存在とも対応できるのか。
(答え)それはできない。現象としての存在は固定した実体をもたないからだ。それらの固定した実体をもたないものに不二絶対はない。だから、さとりの因分とする、修行階位のしかるべき達成や、個人的なさとりの技法などによっては、同じように不二絶対には到達できない。
すべての生きとし生けるものの本性は、無垢なる知〈不二絶対の知〉のちからを生まれながらにそなえもっていて、それは宗教的素質・器量とか、教説による区別とかとは初めからかけ離れたものである。この無垢なる知に目覚めるところに不二絶対の存在があり、それが〈果分(さとり)〉になる。
このように、さとりの教えは因と果に二分され、果分が不二絶対の教えであり、その果分に対し、〈因分(さとりに至る修行要因)〉によって立てる教えは、一心の境地に本体・すがた・はたらきの三つの要素をプラスした四つと、そのそれぞれに絶対真理と現象世界との二種があるとして、計八タイプもの複数の部門に分けて人びとの救済にあたるというものである。これらの法門は人びとの宗教的素質・器量に応じて考案されたものであり、また、大乗という複数のさとりの手法に順じさせているから、その教えは原因・条件によって設定されたものである。
(問い)どうして、原因・条件に応じた法を説くのか。
(答え)それは人びとに宗教的素質・器量の差があるからだ。
(問い)このような八タイプの部門別の真理によって、人びとは救われるのか。
(答え)それ自体によっては救われる。
(問い)それではその救われた人びとが不二絶対という果分を得るのか。
(答え)それはない。なぜなら、因分として複数に分類すること自体が、長大なる修行過程のそれぞれの段階に相応させた結果であり、そこに固定した実体はないから、不二絶対の果分には永遠に近づけない」。
また、第十には、
「この『釈論』は、大乗の教え〈因分〉と不二絶対の教え〈果分〉とを説く。
不二の教えこそが、大乗の教えに勝るものである。『大本華厳契(だいほんけごんかい)経』の説くところによると、不二絶対という勝れた徳性は、未完の論理による大乗の教えでは達成できないものとしている。
そうではあるが、流布している『華厳経』(大乗経系)には次のような説がある。
華厳の説くところの無垢なる知のちからは、生きとし生けるものの世界と、その住みかとなる自然世界と、それらの共生している世界との三種の世界の教えのすべてを摂取したものであると。
それならば、そこに、不二絶対の世界が存在するのではないか。
違う。華厳の説く無垢なる知のちからが摂取するのは、あくまでも、三種の世界における原因・条件だけで、果分の世界はそこに入っていないのだ」。
〔空海の解釈〕龍樹の『釈論』の説く、不二絶対の知の存在〈不二摩訶衍(ふじまかえん)〉やその無垢なる知のちからによる恵み〈円円海(えんえんかい)の徳〉は、あらゆるもののそれ自体が生まれながらにそなえもっている本性〈自性法身(じしょうほっしん)〉であるが、人の目に見えるものではないので、その永遠・普遍の存在を目に見えるものとして表現したのが大日如来である。だから、密教という。詳しくは『金剛頂経』を読めば理解できる。
(ロ)『華厳五教章』第一巻には、
「今まさに、釈尊がいのちのもつ無垢なる知のちからに目覚め、すべてのものがあるがままに映し出される境地において、説き明かされた唯一絶対の教え〈一乗教〉を部門別に開示する。
その第一部門では、一乗教の成立にあたって、それを二門に分け、別教と同教とする。
次に、そのうちの別教を二分する。
一には不可説のさとりそのもの〈果分〉、このことについては『十地論』に、さとりの境地に至る修行の段階〈因分〉については説くことはできるが、さとりの境地そのもの〈果分〉については説くことができないと記しているそれである。
二には釈尊がさとりの境地で考察した法を用いて、修行者の素質・器量に応じて説く教え〈因分〉である」。
また、『五教章』第四巻には、
「そもそもさとりの世界を説こうとしても、論理によれば、その真理そのものが互いの条件(因分)によって生起しているから、自在で際限なく、とらえどころがない。それでも唯一絶対の教えを説くための部門を、だいたい二つ分けると、一には、究極のさとりそのものがとらえた世界のすがた。二つには、さとり後に考察した因縁論によって説く世界である。
初めのさとりによってとらえた世界のすがたとは、自在無碍であり、一が一切に通じ、一切が一に集約される世界であるから、その様相を説くのは不可能である。『華厳経』の説く、究極のさとりの世界は分別できずに融合しているというのがこれである。
また、その重々無尽の部門を立て、その真理を説くが、互いの条件によって際限なく生起しているものは論理によってとらえること不可能である。
だから、『十地論』に、因分可説・果分不可説という。
問い、そうであっても、『華厳経』仏不思議品などでは果分(さとり)の種々の相を説いているではないか。
答え、そこに説かれる果分は、修行の到達度によって得られるところを相対的に示したもので、思いつくさとりの概念を述べたものに過ぎない。真実のさとりを説いたものではない。なぜなら、この仏不思議品は、修行の段階としての因を論じているから、仮にでも果がなければ論理として成立しないという理由による。
問い、果分は不可説であって説けないのに、なぜに因分を論じることができるのですか。
答え、人間ブッダとなった釈尊の行なった修行の段階が実際にあり、その結果としてさとりの境地があったからだ。その段階を想定した修行過程を説く以上、その先にさとりがなくてはならない。ただし、そのさとりそのものが不可説であるから、さとった者以外にとってはさとりの世界は永遠に未知の領域となってしまう」。
〔空海の解釈〕『十地経論』と『五教章』の、さとりの境地は説くことができないとする文と、前出『釈論』の不二絶対のさとりの世界は説くことができないとする文は、同じ意味をもつ。
これは、顕教においては因分だけが論理によって説明できるとする立場を取り、相対的に果分は説明することができない領域として、その到達点をブラックボックス化してしまった結果である。
密教においては顕教が不可説とする果分を説く。のちほど紹介する『金剛頂経』で確認して欲しい。
(ハ)天台大師の『摩訶止観(まかしかん)』第三巻には、
「存在を考察すると、三つの真理〈三諦(さんたい)〉がある。
一に、あらゆる存在は固定した実体をもたないという真理〈空〉
二に、そのように固定した実体をもたないものが存在しているという真理〈仮〉
三に、その空と仮から離れたところに真実のすがたがあるとする真理〈中道〉
の三つである。
これらが相互に関連し、融合しているのが世界の真実のすがたであるから、この世界に至ると、あらゆる存在の本性はとらえることはできない。したがって説くことはできないし、説いてはならない。
とらえることのできないものは説けないはずだが、それでももし乞われれば、三諦の説き方には三つあると天台宗では教える。
その三つの方法とは、
一は、相手の素質・器量にしたがってたとえ話で説く方法。たとえば、乳を知らない人に、その色をほら貝・粥・雪・鶴の四つの比喩をもって説いてみても、かえって、その事例にとらわれ、論争におちいる破目になる。それと同じことで、仏教の教理そのものが分からない凡夫に三諦の道理というような難しい事柄を理解させようとして、慈悲心から始めてもそれらを理解できるわけがなく、まして、さとりによって得られる、永遠・安楽・実存・清浄などはもっと理解不能。それぞれが、有るとか、無いとか、自分勝手な解釈に固執して、他を非難するのが落ち。これでは仏法の甘露を飲んで、かえって早死にするようなものである。
二は、相手の素質・器量に応じながら、次第にさとりのことを教える方法。これも、一の方法と同じ結果にしかならない。
三は、自らのさとりのままを説く方法。空・仮の二諦によってすべてを否定・滅尽してみても、それはすがたかたちがなく、実証することのできない世界であり、言葉によって表現することも思考することもできない代物なのだ。したがって、中道だけによっても、三諦をもってしても、いずれも伝達できない境地であり、個人的なさとりを得た者にも、まして凡夫にも伝えることはできない。前述したたとえ話のように、物事を見るちからのない者には、何を話しても無駄なのだが、それ以前に、説法すること自体を最初から断念せざるをえない教えなのだ」。
〔空海の解釈〕このようなことであるから、天台宗の教えは三諦のみであり、空・仮・中の三諦を一瞬にして同時に念じることをもってさとりとしている。このように限りない否定とそのまた否定の論理によって、すべての存在を滅し尽す境地、これを他の宗においても至極としているが、このさとりによれば、もしも、さとりによって真実の世界が開示したとしても、その世界は自らの説く教義によって言葉にすることができないのだから、すぐに閉ざされてしまうという矛盾が起こる。このパラドックスは、求道者にとっては困ったことである。密教は、その開示された世界を閉ざすことなく前に進むさとりの教えである。
(ニ)『入楞伽経』第八巻にいう、
「釈尊が大慧(だいえ)に告げた。わたくしが説法するのは、個人的にさとりを得ようと熱心に励んでいる者の修行を、その者と等身大〈応化身〉になってサポートし、もっと大きなさとりへと導くためである」と。
〔空海の解釈〕この文によると、修行者の身の丈に合わせてサポートするために説かれたのが『法華経』であり、この経が釈尊のさとりそのもの〈法身〉の教えとするのはあやまりである。
(ホ)法相宗の慈恩法師による『大乗法苑義林(ほうおんぎりん)章』巻第二の「二諦義(にたいぎ)章」には、
「『瑜伽(ゆが)論』や『唯識(ゆいしき)論』は、二つの真理〈二諦(にたい)〉を説く。世俗の真理〈世俗諦(せぞくたい)〉と仏法の真理〈勝義諦(しょうぎたい)〉である。
二諦には、それぞれに四重の意味があり、
世俗諦は、
一、名ばかりの真理〈有名無実(うみょうむじつ)諦〉
二、原因と条件による真理〈随事差別(ずいじしゃべつ)諦〉
三、方便によるさとりの真理〈方便安立(ほうべんあんりゅう)諦〉
四、自己体験によるさとりの真理〈仮名(けみょう)非安立諦〉
勝義諦は、
一、本質やはたらきにあらわれる相対的真理〈体用顕現(たいゆうけんげん)諦〉
二、苦の克服の道理による真理〈因果差別諦〉
三、空の論理による真理〈依門顕実(えもんけんじつ)諦〉
四、一切の言葉を超えた無差別平等の真理〈廃詮談旨(はいせんだんじ)諦〉」。
また、「無差別平等の真理の段階は、絶妙に言葉を離れ、すべてのありかたを超えるから勝義であり、人間ブッダのさとりと同じ境地によって世俗諦の四段階を超絶することから、勝義諦と名づける」とも。
また、「この真理の究極の段階は、特定の立場に立つものでなく、言葉をもってしても説くことができず、唯一の真実の法界である」とも説く。
〔空海の解釈〕このように、存在を超絶する各種の概念を創作し、そこを理想の到達地点とするのが顕教である。だが、そこに現実性はないから、そのような観念から離れたところに真実の世界はある。言葉が成す概念から離れ、いのちのもつ無垢なる知のちからにその身をゆだねること〈自性法身〉によって得るさとり、そのさとりをもたらす知を説くのが真言密教である。その知が『金剛頂経』などの経典に説かれている。
(ヘ)龍樹(りゅうじゅ)の『大智度論』巻五には、
「あらゆる存在を考察すると、
生じないし、滅しない、
断絶しないし、連続しない、
同一ではないし、別でもない、
去ることもないし、来ることもない、
との八つの見解を得ることができる。
この八つの絶対真理によって、あらゆる執着から離れ、無益な議論からも離れ、言葉による分別を超越する。
わたくし龍樹は、人間ブッダである釈尊の〈因縁論〉を用いて存在を考察し、以上の結論に至った。そのブッダに頭が下がる。
まことにあらゆる存在は、生にあらず、滅にあらず、不生にあらず、不滅にあらず、非不生滅にあらず、また非非不生滅でもない。
このように解脱した境地にあっては、空にあらず、不空にあらず。もろもろの無益な議論は捨て去り、言葉も必要ない。心は融通無碍にして動かず退かず、すべての存在が不生不滅の状態として把握できる。
これが、あるがままの真実の世界に入る最初の門になる」。
また、巻三十一には、
「現象を離れた絶対真理はない。なぜなら、現象が実在しているからこそ、その実在するものを考察し、実在するものには固定した実体がないと論証できる。その論証によって、空(くう)という絶対真理が生まれた。だからといって、現象が空であるということにはならない。空はあくまでも実在している現象から導き出された真理なのだ。
人びとが観察することのできる実在する現象、それらの現象が生起・消滅・存続・変異を繰り返している。そのそれぞれの瞬間の存在実体の有無を確認しようとして、不生・不滅・不住・不異という結論を得た。これは、存在を論証するのに物事を相対的に分別して考察してみても、そこに固定した実体をとらえることはできなかったということだ。
だから、このようなことを説くのは、あくまでも言葉がもたらす分別への固執を破るためであり、そこに、真実の世界に入るための最初の門がある」とも。
(ト)『般若燈論』巻十五、「釈観涅槃品(かんねはんぼん)」第二十五の詩に、
本来、ブッダは説法しない
なぜなら、すでに言葉による分別を離れたところにいるのだから
大乗(空の論理)を説くことなどない
また、人びとを救済するために各種のすがたかたちをとるというものが
さとりを説くこともない
ブッダはさとりそのものを説くことなど考えていないのだから
その応化身である者がブッダに代わって真理を説くことなどできない
さとりの渦中において、人間ブッダは説かず
そこにあるのは分別を離れたあるがままのすがただけである
そのように相対的な存在から隔絶した状況において、慈悲心はない
生きとし生けるものには固定した実体がないのだから
そのものがさとったとしてもそれは実体を伴わないものである
実体をもたないものに慈悲心があるわけがない
清弁論師(しょうべんろんじ)の解釈には、
「さとりの本体とは何かについていえば、存在には固定した実体がないというのが仏教の教えであるから、そこにはどんな分別もない。その意味で不二平等の知とそのすがたがさとりの本体といえよう。
そういうことで、この詩は仏法の道理を明らかにするものである。
今ここに、さとりの本体は不二平等の無垢なる知のちから〈如来〉そのものであるといえるから、その如来の知について述べたい。
あらゆるいのちが平等にもつ無垢なる知のちからは言葉による分別を超えているというが、その知に目覚めれば、まず、慈悲心をもって、あらゆる生けるものを救済しようとする願いが起こる。
すべての生きとし生けるものはともに助け合って生きているから、そのための根源的な知を有している。だから、その知は慈悲の心と生存するためのちからとなり、それらが行使できるように、さまざまなすがたかたち〈応化身〉をとってあらわれ、そのものたちのもつ広い意味での言葉(コミュニケーション)が開示されることになる。
このようなことを根底にもつ説法においては、個々のさとりの修行段階や境地に対応することがあったとしても、その目的は大きな慈悲世界の中での無垢なる知の目覚めへと、すべてのものを導くことにある」。
また、「このように広く自在なさとりの説法においては、誰が説いたとか、誰が聴くということはないから、如来は、説く場も、説く教えも特に必要としない」と。
また、同論書の「釈観邪見品(かんじゃけんぼん)」第二十七には、
「『般若経』の中で、認識プロセスは色・受・想・行・識であるが、その認識対象となっている色〈万象〉そのものに固定した実体がなく、そのようなものから認識が起こるのだから、その感受によって、快・不快の判断や迷いを起こす必要はない。
この道理を知ることによって、すべての無益な議論や意見の相違などの見解を断じ、心は静寂である。
これがさとりの自覚であり、万象は空であり、すべての分別もない。そのことを示すのがこの『般若燈論』の趣旨である」と。
〔空海の解釈〕これらの文によると、無益なもろもろの議論を止め、何事からも隔絶した静寂さこそが究極の境地ということになる。このように、顕教の立場ではすべての存在が否定されたところでさとりの完成とする。だが、密教ではそのような立場をとらない。分別によるすべての煩わしさから解放されたところの先に、あるがままの世界が開示するから、その真実の世界を積極的に示す立場に立つ。 『大智度論』の著者本人が、自分の説くところはあくまでも真実の仏教への入り口に過ぎないと述べていることに、心ある賢者は気づかなければならない。
(チ)龍樹の『大智度論』巻三十八には、
「仏法は二つの真理〈二諦〉に分けられる。
一つは世俗の真理であり、もう一つはさとりの真理である。
世俗の真理はブッダと衆生との間で説かれる真理であり、これに対して、さとりの真理はブッダと衆生という相対的立場をとらないから、説く者と説かれる者との関係はなく、したがって、衆生という立場はない。
また別の二つでは、諸尊の名称だけしか知らない者と諸尊の名称とすがた〈名号:みょうごう〉を知る者とに分ける。
また別の二つに分けられる者には三種類がある。
一、仏道の初心の者と、修行を積んでいる者。
二、一つの事柄に固執する者と、広く物事を見ることができる者。
三、相手の言葉を正しく理解する者と、相手の言葉を正しく理解できない者。
この内、諸尊の名称だけしか知らない者、仏道の初心の者、一つの事柄に固執する者、相手の言葉を正しく理解できない者は、ブッダの存在と生きとし生けるものの立場が分からない。
これに対し、諸尊の名称とすがた〈名号〉を知り、修行を積み、固執せずに広く物事を見、相手の言葉を正しく理解できる者は、ブッダの存在と生きとし生けるものの立場が分かっている」と。
〔空海の解釈〕最初の二つの真理は通常の大乗の教えであり、次の二つに分かれる真理には八タイプの者がいる。諸尊の名称のすがたを知らない者などのグループには、さとりの真理に説く者と説かれる者との関係はないと説き、後の諸尊の名称とすがたを知る者などグループには、さとりの真理にブッダの存在と生きとし生けるものがあると説く。なぜそう説くのか、よく考えよ。
また、いわゆる諸尊の名称とそのすがた〈名号〉のことは真言の教えにある。
『菩提場(ぼだいじょう)経』巻三には、名号について次のような文がある。
「弟子の文殊がブッダに聞いた。あなたはいくつの名号(いのちのもつ無垢なる知のちからが展開する各種のすがたとそのフレーズ)をもって、この世界において教えを説かれるのですか。ブッダは次のように答えた。
いわゆる帝釈天、梵王、大自在、自然(じねん)、地、寂静(じゃくじょう)、涅槃(ねはん)、天、阿修羅、空(くう)、勝(しょう)、義、不実、三摩地(さんまじ)、悲者、慈(じ)、水天、龍、夜叉、仙、三界主、光(こう)、火(か)、鬼主、有(う)、不有(ふう)、分別、無分別、須弥山、金剛、常(じょう)、無常、真言、大真言、海(かい)、大海、日(にち)、月(がつ)、雲(うん)、大雲、人主(にんしゅ)、大人主、龍象(りゅうぞう)、阿羅漢(害煩悩)、非異、悲不異(ひふい)、命(みょう)、非命(ひみょう)、山(せん)、大山(だいせん)、不滅、不生、真如(しんにょ)、真如性(しんにょしょう)、実際、実際性、法界、実、無二、有相(うそう)と名づける。
文殊よ、わたくしはこの世界において、限りないほどの数の名号を成就し、もろもろの生きとし生けるものを教化した。いのちのもつ無垢なる知のちから〈如来〉そのものが直に作業をしているのではないが、その知のちからが、多様な種の無数の活動(行動性・コミュニケーション性・意思性)を通じて広く真理の輪を展開しているのを、わたくしは見ているのだ」と。
(リ)龍樹の『釈摩訶衍論』巻二にいう。
「言葉の表象には五種類ある。言葉の本質には二種類がある。心のもとになる意識には十種類がある。
これらについては、経典によってさまざまな説があるが、概ね次のようなことである。
言葉の表象について『入楞伽経』巻三には、
一に相言説:もろもろの現象の色・かたちをとらえた言葉。
二に夢言説:過去の経験を夢に見、その夢にとらわれた言葉。
三に執着言説:過去の活動の喜怒哀楽に執着して生じる言葉。
四に無始言説:過去からの無益な議論の連続によって生じる言葉。
の四つまでを説く。
言葉の本質について『金剛三昧経』真性空品第六には、
舎利弗(しゃりほつ)がブッダに問う、すべての教えは言葉と文章によって表わします。しかし、この言葉と文章だけでは、真実は伝わらないという。ブッダはどのように説法されるのでしょうか。
ブッダが答える。わたくしのさとりの本質は、いのちのもつ無垢なる知のちからによる。だから、衆生の言葉によっては表すことができない。しかし、すべてのいのちがもつ普遍的な知のちからにしたがって真実を説くのである。衆生が理解できる言葉は文章のかたちによるが、わたくしが語る言葉は意義による。
これが真実語であるが、かたちを表わそうとする語はことごとくが空(くう)しか説けない。だから妄語(もうご)である。
では、真実はどのような言葉によってとらえられるのか。
万象(実在)を相対的に説けば空論に至り、その論理的に空なるものが、つまり固定した実体をもたないものが存在する。また、実在(有)と空(無)の二相を離れたところに真実の相があるわけでもないし、それらの三つの相を離れたところに真実の存在があるのだ。それは定まった場所ではなく、さとりという境地にある。
その境地に立って説かれる言葉が、
五の如義言説である。
以上、五種類の言説の中で、前の四つは虚妄の言葉であって、真実を語らず、第五の言葉だけが真実を説く。
『大乗起信論』で馬鳴(めみょう)菩薩が、いのちのもつ無垢なる知のちから〈如来〉の説法は言葉のかたちを離れたものだと述べているのは、前の四つの虚妄の言葉のかたちから離れることを指す。
また、言葉は、対象をとらえた心がその対象を表現・伝達するために生まれたものだが、対象をとらえる心には、自我となる九種類の意識と十番目の無垢なる意識がある。
一に眼識〈視覚〉
二に耳識〈聴覚〉
三に鼻識〈嗅覚〉
四に舌識〈味覚〉
五に身識〈触覚〉
(以上を前五識という)
六に意識〈思考・意志・感情〉
七に末那識(まなしき。染汚意ともいう)〈言語・思慮・煩悩〉
八に阿梨那識(ありやしき。阿頼耶とも訳し、蔵識ともいう)〈生存欲求〉
九に多一識(たいつしき。別にアマラ識ともいう)〈生存知〉
十に一一識(いちいちしき。別にフリダヤ識ともいう)〈生命知・平等一如〉
この十種類の内、初めからの九番目までの自我という何らかの色の付いた意識では、真理をとらえることができない。十番目の無垢なる意識のみが、さとりによる真理をとらえることができる。
前出の馬鳴菩薩が、いのちのもつ無垢なる知のちから〈如来〉によるさとりは、心の対象を離れたものだと述べているのは、一から九番目までの意識がとらえた対象を離れるということである」と。
〔空海の解釈〕言葉の五種類説、心のもとになる意識の十種類説、また言葉のかたちを離れ、心の対象を離れたところの世界が、この『釈論』に明らかに説かれているのだ。だから、〈如義言説〉や〈一一識〉の領域を賢者であれば理解することになるであろう。そのことによって、顕教による迷いを取り除け。
(ヌ)龍樹の『菩提心論』(『金剛頂発菩提心論』の略)には、
「さとりを求める心をおこしたものたちは、その修行段階において、もっとも勝れた教えを選択し、生きとし生けるものがともに自然の中で生きて行けるように慈悲の願いと、自らの身体と言葉と心との三活動をいのちのもつ無垢なる根本の知のちからと一体化させる行につとめ、それらを戒めとして、一時も怠ってはならない。そうすれば、心身すなわち物心一体のさとり〈即身成仏〉を得ることができる。このさとりの法は真言密教以外の諸教では説かないことである」と。
〔空海の解釈〕龍樹の多くの論書の中で、この論書こそが密教の教えの肝心なところを論じたものである。したがって、顕教と密教の違いやその教えの浅さ深さ、さらにはさとりの遅さ速さ、そうして勝劣、すべてがこの『菩提心論』に説かれている。
この論書で諸教というのは、他のために説いてそれを享受させる教えや、相手の素質・器量に合わせて教えを説くなどの顕教のことであり、これに対して、いのちのもつ無垢なる知のちからそのものと即座に一体となれることを説くのが密教である。その具体的な教えは『金剛頂経』の密教経典に説かれている。
以上、『弁顕密二教論』巻上
〈巻下〉
(ル)『六波羅蜜(ろくはらみつ)経』の第一にいう。
「いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚めた人間ブッダの釈尊は次のように法を説かれた。
その清浄さを雲が日の光をさえぎるように
煩悩の塵がおおっている
無垢なる知のちからはあらゆる徳をそなえ
永遠性と安楽性と無我性と清浄性のすべてをもとから完成している
この無垢なる知のちからを求めようとするならば
それは分別が起こす煩悩を離れることによって開示されるのだ
第一の法とは、いのちのもつ無垢なる知のちからの目覚めである。
第二の法とは、修行によって感得する清浄なる心とすがたである。
第三の法とは、過去における無垢なる知のちからによる無量の法と、わたくし釈尊が今説く教えである。
これらの教えが、生きとし生けるものを教化し、したがえ、純化させ、成熟させるのだ。
わたくしの弟子である阿難陀(あなんだ)たちにも、このすべての教えを伝え覚えさせている。
この教えは、次のような五つの手段を通じて説く。
一に経、二に律、三に論、四に中論、五に教えの真髄を凝縮した言葉(真言)である。
わたくしはこれらから、人それぞれに合った手段を選び、教えを説くのである。
もし、ある者が閑寂な山林での坐禅修行を願うならば、その者には経蔵を説く。
もし、ある者が教団の規律の中での修行を願うならば、その者たちには律蔵を説く。
もし、ある者が仏法論理の思索を願うならば、その者には論蔵を説く。
もし、ある者が存在の有無から離れることを願うならば、その者には中論を説く。
もし、ある者が以上の願いの達成に至らず、もろもろの戒めを破り、数々の重罪を犯したならば、その罪を消滅させ、解脱を得、ただちに寂静へと向かわせるために、もろもろの真言を適宜に説く。
これらの五つの手段を用いて法が説かれるならば、乳が加工されるとだんだんと美味しい食品になって行くように法は熟成する。人びとにとっての乳である経は、戒律によって酪(らく)に変化し、経論によって生蘇(しょうそ)になり、大乗の三蔵によって精練されて熟蘇になり、真言によって甚深微妙(じんじんみみょう)の特上の味である醍醐(だいご)になるのだ。
そのようなことであるから、弥勒よ、わたくし亡きあとはこの五つのそれぞれの手段を、わたくしの五人の弟子たちが、それぞれに受持するように準備してある」。
〔空海の解釈〕この文によれば、醍醐味のたとえによって、仏法のもっとも熟成したものが真言である。したがって、中国の各宗派が、自分のところの宗旨が醍醐であると主張しているが、それは誤りである。
(ヲ)『入楞伽経』第九には、
「いのちのもつ無垢なる知のちからの領域には、迷妄なるものが立ち入ることはできない。そこで、その知に目覚めたものが亡きあとは、未来においてその知を誰が受け継いでくれるだろうか。
大慧(だいえ)よ、心配することはない。やがて、勝れた僧が南インドに現れるであろう。その名を龍樹という。その僧が存在の有無を論破し、存在は分別によってとらえることができないとして、人びとを無上の法に導くであろう」と。
〔空海の解釈〕この無上の法というのが真言密教のことである。将来において、勝れた僧、龍樹がその法に導いてくれるであろうと明らかに説いている。経を疑ってはならない。
また、巻二にいう。
「大慧よ、いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚めたもののすがた〈法身(ほっしん)〉を絶対真理として、そこに至る道を段階別に設定し、各段階の修行をし、その修行の結果、しかるべ段階まで到達したもの〈報身(ほうじん)〉の説く法は、すべての存在には個別のすがたと共通のすがたがあるとして、すがたの分別に執着し、その分別されたところの仮のすがたによって価値を定める。
大慧よ、これを分別虚妄のすがたという。
大慧よ、このような分別虚妄のすがたに取りつかれた人びとのため説くのが、報身の説法なのだ。
大慧よ、これに対していのちのもつ無垢なる知のちからに目覚めたもの〈法身〉の説く法は、修行の段階などとはかけ離れたものであり、内なるさとりがもたらす聖なる心による教えとなる。
大慧よ、これが法身の説法のすがたなのだ。
大慧よ、人びとの救いのためにさまざまなすがたかたちをとるもの〈応化身(おうけしん)〉のはたらきとその教えは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の修行や、認識の分類と制御、意識の段階などの心のはたらきや、瞑想による意識の上昇などのすがたを説く。
大慧よ、これを応化身のはたらきや説法のすがたという。
また、さらに大慧よ、いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚めたもの〈法身〉の説く法というものは、外界を認識することから起こる心の乱れから離れ、主観と客観という相対的な立場からも離れ、ふるまいのすがた、意識の段階からも離れたものだから、個人的なさとりの手法の違いとか、仏教以外の思想による論理や精神訓とは、明らかに異なるものである」。
また、巻八には、
「大慧よ、さらに応化身の立場では、人びとを教化するための説法において、あるがままのいのちのすがたも、いのちのもつ無垢なる知のちからも、その知のはたらきを説くこともない。つまり、さとりそのものの世界を説くことはない」とある。
〔空海の解釈〕この経によれば、さとりと向き合う立ち位置に三つのすがた〈法身・報身・応化身〉があり、その立ち位置によって説法にも領域があると分かる。
その領域を見れば、応化身はさとりそのものを説かないことが明白である。ただ法身だけがさとりを説き、さとりによって得るいのちのもつ無垢なる知のちからと、その知の成す世界が明かされる。このことは、後述する文によって理解できるであろう。
(ワ)『〈金剛頂〉五秘密経』に次のように説く。
「顕教において修行する者は、無限の時間を経た後に無上のさとりを得ると説くが、それは生きている間にさとることは不可能であるということである。そこで、あらゆる存在は論理によっては分別できないから空(くう)であると学び、さとりそのものを言葉で説明できないものとし、その修行途中で身に付けた慈悲の心と行ないを説きながら一生を終える。
もし、無上のさとりを得たいのなら、あらゆるいのちが有している無垢なる知のちからが展開しているありのままの生命のすがたと、それらの生命がもつ知の原理を図示した世界〈マンダラ〉の中に、自らの立ち位置を見つけることだ。そのためには、しかるべき指導者〈阿闍梨〉に付き、その指導にしたがってマンダラにアクセスすることである。そうすれば、無量・無尽の生命の目的を知ることができ、その生命の一員としての自らの立場に目覚めることになるであろう」と。
〔空海の解釈〕顕教の説くところでは、さとりの世界は言葉によって説明できないし、思考することもできないとしている。しかし、さとりの本体であるいのちのもつ無垢なる知のちからが成す世界のすがたとその原理を図によって示すことになれば、その視覚的な世界に誰もがアクセスできる。
(カ)『〈金剛頂〉瑜祗(ゆぎ)経』にいう、
「五智より成る四種の法身(いのちのもつ無垢なる五つの知のちからの原理〈金剛界〉によって成る四種のいのちのありのままのすがたをもつものたち)が、(お互いに環境をすみわけ)その知のちからのはたらきとなる生の活動〈行動性・コミュニケーション性・意思性〉をあるがままに行なっている」などと。
また同経にいう、「大乗の修行階位の最上段の教えによっても、このようなことを知る由もない」とも。
また、『〈金剛頂〉分別聖位(ふんべつしょうい)経』には、
「いのちのもつ無垢なる知のちからによって、どのような種のすがたをもつものであっても、生きとし生けるものは同一平等の知の原理によって共生し、あるがままにその知のちから〈如来〉のはたらき〈菩薩〉にしたがって、それぞれの生の活動をすることができている」とも説く。
〔空海の解釈〕これらの経典は、ことごとくが、いのちが本来的に有している無垢なる知のちからの原理とそのすがたを説いている。したがって、それらの知のはたらきによって、生きとし生けるものは自らの生を楽しみ、満足することができているのだ。
このことは、『入楞伽経』において、いのちが本来的に有している無垢なる知のちからによってさとりは得られるのだが、そのことが、観念的な修行手順によってさとりに到達しようとしている者には分からず、その結果、その者たちの教えでは、慈悲のはたらきは為してもさとりの説法はしないとする説と見事に合致する。それが顕教の欠落している部分である。
もし知恵のある人が、これらの密教経典の文を目にする機会があるならば、さとりは自らのなかにもともと存在しているものであると気づき、雲霧はたちまちに晴れて、閉ざされていた門は自然に開錠されるであろうに。それは、(荘子の寓話にある)井戸のなかの魚が自由に大海に泳ぎ、垣根のなかを住みかとしていた鳥が自在に大空に羽ばたくようなものであるし、乳色の分からなかったものがその色を見て理解し、万年の暗闇が明けてたちまちに日の光りが射すようなことである。
(ヨ)『〈金剛頂〉分別聖位経』にいう。
「真言宗というのは、いのちのもつ無垢なる知のちから〈法身〉を開示した教えであり、自らのもつその知に目覚めること〈ブッダ〉の法である。
この無垢なる知のすがた〈胎蔵マンダラ〉と原理〈金剛界マンダラ〉は、両部マンダラ図となっており、図の構成に示す無垢なる知のちから〈如来〉の各種部門別の展開の中で、その個別の部門を担うそれぞれの知のちからのはたらき〈菩薩〉と人びとは縁を結ぶことによって、それぞれにさとりを得ることになる。
この縁によって、人びとは生命・物質・意識から成る世界を超えて、いのちのもつ無垢なる知のちからが成しているあるがままの世界の一員となり、その世界全体の中での自らの立ち位置と、ありのままのすがたに目覚め、無垢なる五つの知のちからとそのはたらきから成る真実の世界を享受することになる〈以上は真言宗の大要を示すものである〉。
人間ブッダである釈尊も、インドのマガタ国において長い修行を経て、目覚め、その無垢なる知のはたらきによって、縁起の法と縁滅の法を思惟し、人びとの素質・器量に応じた真実の生き方を説かれた。(しかし、無垢なる知のちからそのものについては一般に向かって説くことなく沈黙を保ち、その教えは"師資相承"とされた)
そうして、沙羅双樹のもとで入滅された。
人びとは人間ブッダを供養し、釈尊の思惟された十二縁起の法を継承することによって、勝れた報いを得、寂静の世界と慈悲の心をとらえることができるようになった〈これが人間ブッダ(応化身)となった釈尊の教えと恵みの概略である〉。
以上の人間ブッダの教えは、無垢なる知のちからそのものが、観念としての法界(真理の世界)や、その観念世界へ至るための修行階位のしかるべき達成(報身)を証しとして、その達成者たちの身心を目覚めさせ、ただちに無上のさとりへと導くという教えと同じことにはならない〈これは本来、自ら目覚めたものがその目覚めを他に享受させる他受用身の教えとして分類されるべきものである〉。
いのちのもつ無垢なる知のちからを自ら享受したものは、その知のちからが無量のはたらきとなって流出するが、その個々のはたらきは、同一の無垢なる知のちからの原理によってコントロールされているから、生きとし生けるものすべてがあるがままに活動して、それでいて自然に秩序を保つことができている。
それらの個々のはたらき〈菩薩〉を為すものの全体の中での位置と、中央のコントロールセンターにいる無垢なる知のちから〈如来〉の展開する各部門での配属関係によって、知の世界は構成されるから、それらはマンダラ図にして示すことができる。
人びとは、この図によって示される無垢なる知のすがたの個々と縁を結ぶことができ、それは全体と交わることでもある。
そのことによって、さとりの世界に入るのだ。
この無垢なる知の世界では、生きとし生けるものすべてによる相互扶助の慈悲の願いによってみなが結ばれているから、全体の福利がそこにはある。
このようなマンダラ図を目の前にして、その教えを耳にするものは、そこに視覚化されさとりのすがたと原理が描かれているから、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきが成す世界のイメージをたちまちにして把握し、その世界の一員としての自らの立ち位置に目覚めることになる〈これは、いのちのもつ無垢なる知のちからそのもの(自性法身)と、それを自らが享受すること(自受用身)と、その恵みとを示すものである〉。
〔空海の解釈〕この『経』に、明らかに三身(自性法身・自他受用身・応化身)の説法の区別と浅深、さとりの遅速と勝劣を説いている。これは『入楞伽経』の説く三身説法と通じている。
さとりそのものである法身は説法しないと顕教の学者たちはいうが、ここではさとりによって開示した知の世界がはっきりと描かれているから、その点は誤りであると分かる。
顕教と密教の二教の区別は、以上のようなことであるから、よくよく考察して欲しい。
2-3密教経典の解釈
(イ)『〈金剛頂〉瑜祗経』には、 ※以下文中の〈 〉内は空海による注釈
「あるとき世尊、金剛界の遍照如来〈これは人間ブッダのさとりが、いのちのもつ無垢なる知のちからの存在そのものであり、その知の輝きが世界をあまねく照らすので、その徳をたたえて遍照という〉は、五つの無垢なる知のちからから成る四種のありのままのいのちのすがたのことを説かれた。
〈五つの無垢なる知のちから、五智とは、
一に、大円鏡智(だいえんきょうち:澄んだ水の表面に万象が映ずるように、一切万有はありのままであるとする知。したがって、ありのままの個別のすがたそのものが普遍性をもった存在であり、平等なものであるとさとる。〔生活知〕)
二に、平等性智(びょうどうしょうち:澄んだ水の水面が同じ高さになるようにあらゆる存在は平等であるとする知。そのことは、生きとし生けるものがそれぞれの衣食住を得るために、生産という創造行為と、食物連鎖という相互扶助によって共生しているように、すべての生けるものの利益は平等であるとさとる〔創造知〕)
三に、妙観察智(みょうかんざっち:澄んだ水の表面がすべてを正確に映し出すように、あらゆる存在を正しく観察・学習する知。その観察により、生きとし生けるものの自性は泥田に咲く蓮の花のように清浄であるとの真理を得、その清浄さをもってすべてを教化するから、すべてが平等になるとさとる。〔学習知〕)
四に、成所作智(じょうそさち:清らかな水がすべてのものに浸透し、その成長を育むように、生あるものどうしが互いにはたらきかけ、ありのままに成すべきことを為し、ともに生きる知。したがって、生きとし生けるものの活動は、その動作そのままに平等であるとさとる。〔身体知〕)
五に、法界体性智(ほっかいたいしょうち:澄んだ水があらゆるところに行きわたるように、すべての生命に行きわたる知。その永遠・普遍の知の存在に目覚める。〔生命知〕)
以上の五つの無垢なる知のちからを、五方の如来(東方の阿閦・南方の宝生・西方の阿弥陀・北方の不空成就・中央の大日)によって象徴する。
五つの無垢なる知のちからによって成る四種のありのままのすがた、四種法身(ししゅほっしん)とは、
一に、自性(じしょう)法身:知をもつ生命そのもの
二に、受用(じじゅゆう)法身:個体そのものとしての自・他のすがた
三に、変化(へんげ)法身:個性による差異をもつすがた
四に、等流(とうる)法身し:多様な種をはじめ、万有一切のかたちあるもののすがた
このいのちの四種のすがたには、タテ・ヨコの二つ意義があり、ヨコは四種のすがたが一体となったところに自己のすがたがあるから自利であり、タテは生命が受け継がれ、種や万有一切のかたち・個性・個体をそれぞれに伝えるから利他である。これらについて、もっと深く知りたければ師に聞きなさい〉。
いのちのもつ無垢なる知のちからの原理である金剛界〈これは法界体性智の大日如来の世界〉を、自在に観察し〈これは妙観察智〉、慈悲の心を得ることができれば、生きとし生けるものの平等なる存在に目覚め〈これは平等性智〉、ともに生きる世界のすべてが心に映し出され〈これは大円鏡智〉、壊れることのない知のちからの活動〈身心が一体となり、つまり自然・物質(客体)と心(主体)が一体となった成所作智の活動(行動性・コミュニケーション性・意思性)を為すこと〉を得る。この境地において、無垢なる知のちから〈如来〉が展開する数々のはたらき〈菩薩〉を金剛界マンダラの中に見ることになる。十六大菩薩や四摂行、あるいは内の四供養、外の四供養の菩薩である。
(金剛界九会マンダラの中央にある成身会「金剛界大マンダラ」の構成を見ると、中央に一大円輪があり、その中に金剛界五仏の大日如来・阿閦如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来が配されているが、中心にあるのが法身大日如来であり、四方に金剛・宝・法・羯磨の菩薩を配する。その大日グループの四周、東・南・西・北に配されているのが上記の如来たちである。以下はその如来と如来の随伴者となる菩薩の数々である。
東には、健やかなる呼吸や睡眠、それに自由闊達に生きる生活を司る知のちから〔阿閦(あしゅく)如来〕を中心に、生きるものにとって基本的な権利となる四つの生活原理を象徴する〔四親近(ししんごん)菩薩〕を四周に配する。
① 金剛薩埵(さった):生存
② 金剛王:自由
③ 金剛愛:慈愛
④ 金剛喜:喜び
南には、衣食住を生み出し、それを相互扶助する創造の知のちから〔宝生(ほうしょう)如来〕を中心に、生きとし生けるもの行なう四つの生産・創造原理を象徴する〔四親近菩薩〕を四周に配する。
① 金剛宝:産物
② 金剛光:技術と美
③ 金剛幢(どう):相互扶助
④ 金剛笑:充足
西には、万物の違いを観察・学習する知のちから〔阿弥陀如来(無量寿如来)〕を中心に、生きとし生けるものの学習原理を象徴する〔四親近菩薩〕を四周に配する。
① 金剛法:真理
② 金剛利:価値
③ 金剛因:原因と条件
④ 金剛語:表現と伝達
北には、仕事・所作・遊びなどの身体活動による知のちから〔不空成就如来〕を中心に、生きとし生けるものの四つの行動原理を象徴する〔四親近菩薩〕を四周に配する。
① 金剛業:作業
② 金剛護(ご):守り
③ 金剛牙(げ):攻め
④ 金剛拳(けん):技(わざ)
また、知のちからとそのはたらきの原理によって生きるものは、その情感の発露として、内なる四つの振る舞い〔内の四供養菩薩〕を行なう。
① 金剛嬉(き):喜び
② 金剛鬘(まん):飾り
③ 金剛歌(か):歌
④ 金剛舞(ぶ):舞い
以上、法身如来である大日とその四つのパワーを中央の中心に据え、その四方に如来の知のちからを四分類したものを配し、それぞれの知のちからがそのちからを行使するのに、四つの原理を伴うとする。その行使というはたらきを象徴するのが菩薩であり、4×4の十六大菩薩である。それに知による情感の発露として四つの振る舞いを行なう菩薩を含め、計29の諸尊が一大円輪を成している。
その一大円輪を万物の質料となる、固体(地大)・液体(水大)・エネルギー(火大)・気体(風大)の四つを象徴する四金剛(四天)が、空間(空大)の四方から支える。もちろん、一大円輪そのものがいのちのもつ知のちからとそのはたらきだから、意識(識大)であり、全部で六大となる。この六大によって生命が存在し、生命が存在するから知があること示す。
それらの物質と生命と知を、無数の生きとし生けるもの〔賢劫(けんごう)一千仏〕が取り巻く。
それらのいのちをもつものの生を、四つの物質が癒す〔外(げ)の四供養菩薩〕。
① 金剛香:香り
② 金剛華(げ):花
③ 金剛燈:灯り
④ 金剛塗(ず):潤い
また、それらのいのちをもつものは、それぞれに知覚をもち、その知覚が四つのはたらきを為して世界をとらえている〔四摂(ししょう)菩薩〕。
① 金剛鈎(こう):知覚の鉤(かぎ)によって対象を引っ掛け
② 金剛索(さく):感受の索(なわ)で引き寄せ
③ 金剛鎖(さ):イメージの鎖(くさり)につなぎ
④ 金剛鈴(れい):感情の鈴(すず)を打ち振る
と図示される)
これらの知覚の4つのはたらきと、生を癒す4つの物質と、無垢なる知のちからとそのはたらきの25と、それに知の情感の発露となる振る舞いの4つが、計37諸尊となってマンダラに図示され、それらが、金剛(壊れることのない知の原理)の月輪に住し、それぞれがその無垢なる知のちから(如来)の原理によって、それぞれにそのはたらき(菩薩)を行使する。
そうして、それらのすべてのはたらきは、生の無垢なる活動、行動性・コミュニケーション性・意思性によって行使されるのだ〈これらの37尊は、自性法身の無垢なる知のちからの原理とそのはたらきの根本を明かしたものである〉。
また、これらの知のちからのはたらきは、五つの無垢なる知の原理という光明によって、際限なく微細に行使され、広大無辺の世界に遍満する。これは、報身の菩薩にはできないことである。
この光明には自在にはたらく威力があり〈これは37尊の無垢なる知の原理が、無尽であることを明かし、それらが順次に出現すると説かれているが、もし、もともとあるものとすれば、それらのはたらきは同時に世界に満ちるであろう〉、常にあらゆる世において、壊れることのないすがたかたちをとって、生きとし生けるものに恵みを与え、自らは一時として休むことがない〈ここでいうあらゆる世とは生の活動そのものであり、壊れないとは知の原理を表わす。すがたかたちとは知の原理によるはたらきである。したがって、常に無垢なる知の原理によって生の活動を為し、過去から未来にわたって自他の区別なく、生きとし生けるものすべてに妙法の楽しみを享受させるのである〉。
(金剛界大マンダラ、成身会の一大円輪の中心には法身大日如来がいるが、生命のもつ知そのもののちからを象徴する。したがって、その四方に生命活動の根幹を成すちから、つまりもっとも完成された知のちから〔四波羅蜜(しはらみつ)菩薩〕が配される。
① 金剛波羅蜜:代謝性
② 宝(ほう)波羅蜜:産生性
③ 法波羅蜜:清浄・平等性
④ 羯磨(かつま)波羅蜜:作用性
この四波羅蜜の完成された知のちからと、四如来〔阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就〕はそれぞれに連動する)
金剛界成身会、一大円輪の五如来のそれぞれを象徴する印(標識となるもの)をもって、五如来がそれぞれに随える四菩薩の、そのはたらきに伴う四徳、生きとし生けるものすべてを救済するはたらき〈大慈悲の徳〉と、無垢なる知のちからの原理の教えを説くはたらき〈説法の徳〉と、いのちのもつ無垢なる知のちからそのもののはたらき〈密教の円満の徳〉と、無垢なる知のちからをもって煩悩を断つはたらき〈鋭利な無垢なる知の徳〉の四つの徳を説く。
〈ということは、五如来のそれぞれの五印には、五如来のそれぞれに随う四菩薩のはたらき、四徳がそなわっているのだ。これは自らのさとりの楽しみを享受するために、常にいのちのもつ無垢なる知のちからが、徳を伴ってはたらいているということである〉。
無垢なる知のこのような奥深さは、知のちからをもつ如来が、その知のちからのはたらきを為すもろもろの菩薩を随えていることによって示される〈これはいのちのもつありのままの知のちからの原理を有するものすべてが、そのちからによるはたらきを徳によって自ら制御していることを明かしている〉。だから、その徳によって、全体が調和するように仕組まれているのだ。その調和している生命世界が、密厳・華厳の世界である〈密とは無垢なる知の原理をバックボーンとする生命活動であり、華とはさとりによって開花した生命のありのままのすがたである。厳とはそれらの生命が種々の徳をそなえていることである。つまり、無垢なる知のちからが無量の徳と無尽の生の活動をもって、生命とその住みかである世界を展開している。これがマンダラである。また、金剛(金剛界マンダラ)は知の原理を表わし、清浄(胎蔵マンダラ)は知のすがたを表わし、大日如来はその双方に通じているから、諸尊もまたその双方をそなえているのだ〉。
このいのちのもつ無垢なる知のちからによって世界は、慈悲を展開し、生きとし生けるものの徳と知を成就することになった〈マンダラの無量の諸尊も、無垢なる知のあらわれである自然の道理を鏡として生活すること(普賢菩薩のはたらき)を、代表格の知として、生きとし生けるものすべてを救済する手立てとしている〉。
このように、常に過去・現在・未来を照らし、休むことがない無垢なる五つの知の光明が、生きとし生けるものすべてに平等に行き渡っているのである。
〈この五つの知は、五つの質料である、地・水・火・風・空から成り、それぞれの質料がそれぞれを象徴する印をもっているから、その印を示すだけで、五つの知のちからが発揮され、生の三つの活動(行動性・コミュニケーション性・意思性)と、いのちのありのままのすがたがあらわれ、それらの活動とそのすがたが断たれることなくつづくことになる。これが諸尊の象徴する意義なのである。
この清浄なる生の諸活動とそのすがたによって、自他の利益と安楽がもたらされる。また、無垢なる知のちからによれば、知は心のはたらきであり、身は心の本体であるから、この心身による生の諸活動とそのすがたは、生きとし生けるものすべてにとって、平等・普遍のものとなる。
つまり、五つの質料からなるいのちのもつ無垢なる知のちからの諸活動は、その数、無量であるから、その身心は、自然環境と生きとし生けるものとその生態系に満ち溢れ、そのはたらきは一瞬たりとも休むことがない。
以上のような真理をあらわす世界、すなわちマンダラにあっては、そこに説かれている一つひとつの文(フレーズ)、一つひとつの句(用語・名称)がみな無垢なる知のちからとそのはたらきの名号であるから、その広大なる知の原理と知のすがたのそれぞれの全体図(両部マンダラ)が把握できていて、はじめて、知と生の諸活動と、諸尊の一つひとつのすがたの存在意義が分かるのだ。文字面だけでその意味を大乗経典に求めるから、まちがった解釈をしてしまう。その解釈によって、密教の教えを疑ってはならない、疑ってはならない〉」。
(ロ)『大毘盧遮那経(大日経)』に、
「あるとき世尊(人間ブッダ)は、いのちのもつ無垢なる知のちからの原理が開示している場におられた。そこにまず集合していたのは、無垢なる知のちからの原理のはたらきを司るものであった。
この無垢なる知のちからの原理のはたらきの一つである、理性によってとらえられたもののリーダーを虚空無垢執金剛菩薩という。
この者を筆頭として、その原理による無数のはたらきを為すもの、それだけではなく、他にも多くの無垢なる知のさまざまななすがたを成すものに囲まれて、ブッダは教えを説かれた。
その教えは、永遠の日輪のように、生の三つの活動である身体(行動性)と言葉(コミュニケーション性)と心(意思性)にみな平等に光をふり注ぐものであった。〈これは自性法身の説法(無垢なる知をもつ生命そのものの説法)を明かす〉(つまり、人間ブッダの知のちからを日輪によって象徴する)。
この時点で、いのちのもつ無垢なる知のちからの根本のはたらきをするものにあっては、普賢菩薩(生活知のはたらき)を上座とし、知の原理を執行するものにあっては虚空無垢執金剛菩薩(光のはたらき)を上座とし、それらの中心で、いのちの知のちからの輝き(大日如来)そのものとして象徴されることになった世尊は、自らの身体と言葉と心の無尽の活動をもって、その教えをあらわされた〈これは受用身の説法(自らの身体をもって無垢なる知のちからを享受する、または他に享受させる)を明かす〉。
とはいえ、大日如来によって象徴されるいのちのもつ無垢なる知のちからは、如来の身体、あるいは言葉、あるいは心から生じるものではなく、生滅する定まった場をもつものでもなく、それはあらゆる生きとし生けるもののすべての行動、すべてのコミュニケーション、すべての意思の活動を通じて、あらゆる場と時において無尽蔵にあらわれるものだから、それらの真理のすがたを象徴する種々の言葉、真言をもって説かれるのだ〈これは変化身(応化身)の説法(あらゆる個体のそれぞれの個性に合わして、無垢なる知のちからとそのはたらきを目覚めさせる)を明かす〉。
また、執金剛菩薩(理性のはたらきによる真理)・普賢菩薩(生活の根本となる知のちからのはたらき)・蓮華手菩薩(感性のはたらきによる真理)などの無垢なる知のちからのはたらきであるあらゆる真理のすがたを表わす真言によって、あまねく十方に説く〈これは等流身の説法(多様な種のすがたとなってあらわれ、ともに生きるための知)を明かす。あらゆる真理のすがたには、暦・星座・方位の原理・神話などの神々も知のすがたとして含まれ、この『大日経』で説く四種法身にもタテ・ヨコの二つの意義があると理解されたい〉」。
また、「大日如来となった人間ブッダは、そこに集った本来的に無垢なる知のちからの原理をもつものに向かって、自らのその知のちからに目覚めよと告げた。そうして、生きとし生けるものすべてが自然界であるがままに活動できるのは、その知のちからのはたらきがあるからだとつづけた。
では、そのいのちのもつ無垢なる知のちからにアクセスするにはどうすればよいのか、それには、あまねく無量の世界に至ることのできる清浄なる真言のキーワードをもって、種々の真理の門戸の前に立つことである。そうすれば、それぞれの本性にしたがって扉が開くのだ。そこに生きとし生けるものすべての歓喜がある。
これらの意味することは、人間である釈迦牟尼世尊が、時空を超えてその無垢なる知のちからのはたらきを広く果たすことのできる如来という普遍的な存在になったということである。〈『大日経』のこの文は、大日如来(自性法身)の三身(受用身・変化身・等流身)がもろもろの世界を通じて無垢なる知のちからとそのはたらきを為すことが、釈迦如来の三身のごとくであると明かしているが、釈迦すなわち人間ブッダの三身と、無垢なる知そのものを象徴する大日如来の三身とは同じではないと知っておくべきである。(胎蔵マンダラにおいて、中央の大日如来が随える四つの根本となる知のちから〈如来〉とそのはたらき〈菩薩〉を示す〔中台八葉院〕とは別に、その上部にある、個体の一生を司る知のちからのはたらきを示す〔遍知院〕をはさんで、その上にわざわざ〔釈迦院〕の枠を設け、釈迦如来とその八人の弟子たちが配されているから、大日如来が実在する人間としてのすがたをとったものが釈迦如来である)〉」。
(ハ)『守護国界主陀羅尼経』巻九には、
「いのちのもつ無垢なる知のちからによる真言の教えは、すでに以前から説かれていたものであるが、その知に目覚めたわたくし釈迦牟尼も今、この菩提樹の下の知の原理道場において、もろもろの国王やあなたたちのために、その知のちからによる真言の要約を説くのである」と。
(ニ)『大智度論』巻九には、
「ブッダのすがたには二種ある。一は共通する根本の知をもって存在するいのちそのもののありのままのすがた(法性身:ほっしょうしん)であり、二は雌雄によって生じる個体としてのすがた、すなわち歴史上の実在する人物としての釈尊(父母生身:ぶもしょうしん)のすがたである。
前者は、十方の虚空に遍満して、数限りない。また、そのすがたかたちは無駄なく、どれもこれもが無垢なる知のちからによって貴(たっと)く装われている。
また、無量の生の輝きと無量の声(表現・伝達)を有する法性身とコミュニケーションをとるものも虚空に満ちている〈このコミュニケーションをとるものも、生きとし生けるもののありのままのすがた、法性身をもつものであり、煩悩をもつようなものではない〉。
受け継がれてきた種々の身体のすがたと、そのすがたを表わす種々の名称をもつものと、それらの住みかとなる種々の環境とが、いのちのもつ無垢なる知のちからによってコントロールされ、調和するから、生きとし生けるものは共生することができている。このように無垢なる知のちからは常にすべてのものを救済し、ひと時も休む暇がない。これが法性身の真のすがたである。
この法性身に目覚め、十方の生きとし生けるものと、もろもろの罪の報いを受けるものを救済したのが生身の釈尊であるから、この人間ブッダが生涯において行なった説法は、人の法そのものである」。
また、「無垢なる知のちからそのものである法性身は常に光明を放ち、常に説法をしているのだが、生けるものは何らかの罪を犯しているため、それが見えず、聞こえない。たとえるなら、日が出ても見えず、雷が大地を振るわしても聞こえないようなものだ。自らがもつ無垢なる知のちからに目覚めないのは、生きるがために積み重ねてきた不浄な行ないによって心がすっかり汚れてしまっているからであり、それは汚れのない鏡は清らかな水面を照らし、それを映すが、鏡が曇っていて水が不浄であれば、どのような影を映さないようなものである。そのように、生けるものの心が清浄であれば、無垢なる知を見ることができ、もし心が不浄であれば、自らのもつ無垢なる知は見えないのである」。
また、いう、「『密迹(みっしゃく)金剛経』の中で説くように、いのちのもつ無垢なる知のちからを象徴する如来は生きとし生けるものの生の三つの活動、行動性・コミュニケーション性・意思性を通してあらわれるが、諸天はそのようなさとりのちからをもたない」。〈以上に挙げた経論などの文は、顕教と密教の区別を明らかにし、法身の説法(密教)についての論拠である。これをよく読み、その意味を理解し、賢者であるならば自らの迷いを解け〉。
2-4顕密の度合い
ところで秘密にも二つの意味がある。一つには衆生の秘密、二つにはいのちのもつ無垢なる知のちからそのものである如来の秘密である。
衆生はその分別によってありのままの真実の存在をおおい隠してしまうから、それは自らが作り出す秘密である。
また、人びとの救いのためにあらゆるすがたかたちをとる応化身の説く教えは、相手の症状に応じた処方薬のように、その教えは実用的なものであるから秘密ではなく、無垢なる知のちから、すなわち、如来によってさとることになった受用身の説く教えは、師資相承によって他に享受させるものであり、修行階位や精神的向上のマニュアルによって得られるようなものではないから、これを如来の秘密という。
このように、秘密の名はいくらでも論じることができるから、それに限りはないのだが、あえて究極の秘密ということであれば、いのちのもつ無垢なる知のちからそのものである法身如来の教えであろうか。
また、人びとの救いのためにあらゆるすがたかたちをとる応化身も真言を説き、これを秘密の教えと称するが、これと無垢なる知のちからそのものである法身の説く真言の教えを比較すると、応化身の教えの真言はツール(仮)であって、真実(実)そのものではない。このように、秘密にも仮と実があり、時と場に応じてまちがいのないように摂り入れるべきである。
以上、『弁顕密二教論』巻下
あとがき
空海の著作のうち、この『二教論』と、もう一つの『十住心論』は〈タテ・ヨコの教判の書〉と称されている。
釈尊のさとりを説くにあたって、さとりに至るまでの精神階梯や縁起・縁滅の法や空の論理などを説く顕教と、さとりそのものによって開示した五つの無垢なる知と、その知によって成るいのちの四つのありのままのすがた〈五智より成る四種の法身〉と、それらの生のあるがままの活動、行動性・コミュニケーション性・意思性〈三密〉を説く密教との、二つの教えを比較したものが『二教論』〈ヨコの教判〉であり、人間の心と思想の体系を生存欲・倫理(善と徳)・真理(瞑想/神/哲学)・無我論・因果論・唯識論・空観・主体と客体・一多相入・個と全体の表記〈マンダラ〉の十段階に分け、密教思想に至るまでを論じたものが『十住心論』〈タテの教判〉である。
また、著作年代が『二教論』は815年頃と推定され、『十住心論』は830年であるから、前者が密教布教のためのものであり、後者が思想体系のなかでの空海密教哲学の位置づけを論述したものである。
さて、この『二教論』によって、仏教が大乗から密教へと転換する論拠を学ぶことになり、結果、大乗の範疇を出て、その先の随分と遠いところまで弘法さんと一緒に歩いて来た気がする。
ここまで来ると大乗が観念的な教えであり、密教が現実の洞察にもとづいた教えであると分かる。世間では理解できないことを神秘的であると称するが、空海の論理展開は緻密で合理的であり、その密教哲学は今日の世界観に照らし合わして符合するところが多い。
知の巨人と称される空海との楽しい巡礼となりました。合掌
尚、『十住心論』は、当「空海論遊」上に小生の『十住心論』第十住心を読み解く-両部マンダラの世界があります。