はじめに
『声字実相義』は820年前後(平安時代初期)の空海の著作である。この書の前半部分で空海は古代インドの言語学者パーニニ(前4世紀頃)によって確立されたサンスクリット語の文法、格変化や複合語解釈法、それに字母を用いて言語の構造や意味を論じている。
空海は密教経典に記されたサンスクリット語(梵語)箇所の意味を知るために、密教成立の地インドの言語と文法を修得していたのだ。
この文法は紀元前のギリシア語やラテン語などの文法と類似しており、インドのカルカッタ在任中にサンスクリット語を独学で研究していたイングランドの法学者ウィリアム・ジョーンズが、1786年にアジア協会で「これらは共通の祖語から分化したと考えられる」(印欧語学)という見解を示したことにより、その後の言語学発展の契機となったものである。
現代言語学は、パーニニの文法理論がサンスクリット以外の言語にも適応できるものとして、その汎用性を認めているが、特筆すべきはパーニニが文法を作り上げるために用いた「補助的シンボル」というツールが、今日、プログラミング言語をデザインする際のスタンダードな方法になっていることである。
このことによって空海の説く言語論が、古今の文明の言語に共通する文法をバックにしたものであると知ることができる。
聡明な空海のことだから、普遍的な文法をもつ言語によって綴られた真理のみが、後世に伝えることのできる唯一無二の真実の教えであるとの確信をもっていたにちがいない。それが真言の教えになった。
しかし、その教義には如来や菩薩名などを筆頭として、象徴的な語彙が数多く使われており、門外漢にとっては分かりづらいものとなっている。
そこで、まず、象徴的語彙の意味を今日の思想と言葉に置き換え、その上で世界を形成する三要素、物質、生命、環境とは何かに対する答えを言語に課し、言語はそれらの真実のすがたをどのように把握しているのかを考察した書として『声字実相義』を読み解けば、この日本初の言語学書の意義が現代人にも理解されるのではないかと思う。
以下はそのことを試みる訳文である。
声字実相義(訳文)
当論は、第一に言語とは何かを述べ、第二に論題(タイトル)の解釈、第三に本論となる言語論の典拠と言語の定義、その定義の展開と問答から成る。
〔論理構成〕
- 言語とは何か
- 言語の構造
- (イ)論題:声と字と実相との関係性とは
- (ロ)論題の梵語〈複合語解釈法〉による論証
- 本論
- (イ)言語論の典拠
- (ロ)言語の定義
- (ハ)定義の展開
- □ 第一の定義〈物質のひびきとしての言語〉
- □ 第二の定義〈住む世界と呼応する言語〉
- □ 第三の定義〈形象を区別・編集する言語〉
- (A)形象の定義
- (B)定義の展開
- 物質のすがた
- 生命のすがた
- 共生のすがた
- すがたの把握
- (□ 第四の定義〈言語外のありのままの世界〉)
Ⅰ言語とは何か
はじめに、言語とは何かを述べる。
そもそも生きとし生けるものはいのちのもつ無垢なる知のちからによって、自然を住みかとしてともに生きている。そのいのちの一員でもある人は、対象となるモノ・コトを声によって表現し、それを文字で表記し、コミュニケーションする言語世界をつくり出した。
言語は、人がその知覚と意識、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・考えるによって、対象をとらえ表したものである。
また、この五感と意識による感受は、個々の個体が、行動・コミュニケーション・意思の三つの活動を行なうことによって起こり、その活動の結果である。
このあらゆるいのちが平等にもっている三つの活動は、全世界にみちていて永遠である。
このいのちの三活動において、生きとし生けるものは、
一に、誕生し、いのちとともに生きるちから
二に、自然環境とともに生きるちから
三に、衣・食・住を生産・相互扶助するちから
四に、観察・学習するちから
五に、からだを動かすちから
の五つの無垢なる知のちからを発揮している。
また、この知のちからによって生きとし生けるものは、
一に、継承されたいのちの存在そのもの
二に、多様な種としてのすがた
三に、遺伝によって変化するすがた
四に、自他の固有のすがた
の四種のありのままのすがたをあらわし、生存することができている。
これらはいかなるいのちの世界にもそなわっていて、欠けるということがない。
以上の知のちからとすがたをいのちは本来もっているのだが、人は愚かな生き方をし、 そのいのちの本来の知のちからとすがたから離れてしまっている。しかし、すべてのいのちにそなわっているこの無垢なる知のちからに目覚めるならば、人はその根源の知のちからによってさとりへと導かれるであろう。
このさとりの教え「いのちのもつ無垢なる知のちからとすがた」へと導かれるには、その教えが人の発する声とその文字によって説かれるため、声と字の意味が明らかになってこそ、真実の相を理解できるのである。
いわゆる「声字実相(世界の真のすがたを表わす言語)」は、身体行動とコミュニケーションとそれを行使する者の意思の三つの活動を因として、いのちのもつ無垢なる知のちからから発せられるのであり、そこに生きとし生けるものが本来的にそなえもっている本質がある。
このいのちのもつ無垢なる知のちからから発せられる根源の言語のひびきによってのみ、生きとし生けるものはその迷いの長き眠りから目覚めるのである。
そのため、人びとを導く真実の教えであればいかなる教えであっても、その説くところが「声字実相」によらないものがあるだろうか。
いま、わたくし空海は、師の導きによって会得した真実の言語について語ろうと思う。
これからさまざまな教えを学ぼうとする者たちも、心をみがき、この言語学に通じていて欲しい。
以上で言語とは何かといった序論を終える。
Ⅱ言語の構造
(イ)論題:声と字と実相との関係性とは
「声」は(人が喉と舌と歯と唇と、それに鼻を使い)吐く息、吸う息を調整することによって出す空気のひびきである。ひびきは声となって耳にとどき、その微妙な音の差によって意味が生じることから、声こそがすべてのひびきの原型である。
口から発声された音が意味をもたないものにならずに、モノ・コトの名称や意味をあらわすことを「字(語意)」という。
字は人の住む世界、すべてのモノ・コトの意味を伝えるから、これを「実相(真のすがた)」という。(世界で起きているモノ・コトは言葉にしないかぎり、その意味を伝えることはできない)
つまり、世界の実相を伝えるために字があり、その語意の原型が声である。
このように言語に構造があり、その関係を「義(論理)」という。
また、自然界を構成する物質の形状、固体(地)・液体(水)・エネルギー(火)・気体(風)の四つの要素が触れあって起こす音のひびきも自然の奏でる声(音)である。
とすれば、古代中国の五音階〈五声(ごせい)〉
- 宮(きゅう)-ド
- 商(しょう)-レ
- 角(かく) -ミ
- 徴(ち) -ソ
- 羽(ら) -ラ
- 金属で作られた楽器
- 石で作られた楽器
- 糸を張った楽器
- 竹から作られた楽器
- ヒョウタンなど植物の実から作られた楽器
- 土を焼いて作られた楽器
- 皮を張った楽器
- 木製の楽器
- 主格(何々は/何々が)
- 呼格(何々よ)
- 対格(何々を/何々に)
- 具格(何々によって)
- 為格(何々の為に)
- 奪格(何々から)
- 属格(何々の/何々に属する)
- 処格(何々に/何々において/何々へ)
音声が意味をあらわすのは、そこに語意があり、それが文字となっているからだ。文字とは、人がその五感と心によって対象から得たイメージを声と字によって表現し、自己の意思を伝えようとすることによって成立したものなのである。
(ロ)論題の梵語〈複合語解釈法〉による論証
論題「声字実相」は声と字と実相による複合語であるが、その関係性を以下の梵語〈複合語解釈法〉によって説明してみる。
(弘法大師空海全集第二巻・「声字実相義」松本照敬〔注〕より)
「声字実相」という複合語を上記によって解釈すると
2、「声」と「字」によって世界の「実相」が表現・伝達できるようになったので、世界の「実相」は「声字(言語)」である。
2、「声字(言語)」は世界の「実相」を表現したものであり、世界の「実相」はことごとく「言語」によって語られる。したがって、「言語」は世界の「実相」を有し、世界の「実相」は「言語」の中に含まれる。
2、「言語」は世界の「実相」がなくても世界の「実相」そのものである。
2、「声」は空しくひびくのみで帰着するところがないが、「字」は各種の文章を構成し、記すことができるので、「声」と「字」は同じではない。
以上の解釈によれば声と字と実相による複合語「声字実相」の五(相違釈)の関係性は浅く、三(持業釈)・四(隣近釈)の関係性は深く、一(依主釈)・二(有財釈)の関係性は浅と深、両方の見方を含んでいる。
Ⅲ本論
(イ)言語論の典拠
いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚めた者の綴る言葉の
その字と単語と文章のそれぞれには
インドの最高神インドラの作った文典のように
世界のもろもろの真のすがたが包含されている
だから、その真実の言葉を発するには
まず、時と場を選び
次に、言葉のもつ意味と所作を相応させ
そこにありのままのすがたが立ち現れるよう務めなければならない
もし、すべてのいのちがもつ本来の知のちからでもつて奥深い意味を解釈すれば、真理を語る言葉の一つひとつの文字、一つひとつの単語、一つひとつの文章にはそれぞれに限りない意味があり、そこにはもろもろの"いのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきとすがた"が雲のように湧きあがり、過去・現在・未来にわたって休みなく一つひとつの意味を説いていっても、なお説きつくすことができなくなる。だから、凡夫には、今はその一端を示すことしかできない。
また、詩句のはじめに、「いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚めた者」とあるが、これは、自然とともに生きているいのちの個体としての、それぞれのからだが発揮している無垢なるさとりの活動を示している。(これは、本文最初の言語とは何かに記された、すべてのいのちが有する"知覚と意識のはたらき"と、そのはたらきの根源にある、"五つの知のちからから成るいのちのありのままの四つのすがた"をもつものが、等しく為す生の活動"行動・コミュニケーション・意思"のことである)
多様な種の個体とその兄弟の異なる個性とそれらの群れが発揮している、無垢なる知の無量の活動によって世界が築かれていて、そこに真理であり、それこそが世界のあるがままの実相なのである。
このあるがままの世界の真のすがたを語るのが声であり、それが言葉になった。言葉によって、あらゆるモノ・コトに名と意味がつけられ、それが文字になった。
以上が、『大日経』の中の一つの詩句に示された「声字実相」の解釈となる。
また、当経典のなかに梵語(サンスクリット語)による言葉が記されているが、まさしく、世界の真のすがたを語る声である。声は梵字(サンスクリット語の文字)によって記され、その説かれる文章はまさしく実相そのものなのである。
また、当経典に、梵語(サンスクリット語)の母音の「ア」字は、口を開いて息を発するとき最初にでる音のひびきであると記されている。これが声である。「ア」は、宇宙における唯一無二のいのちの存在を意味している。これが、声字(言語)の始まりであり、そのことがまさに実相に他ならない。
(ロ)言語の定義
五大(ごだい)にみな響(ひびき)あり
〈物質の要素にみなひびき(声)があり〉
十界(じっかい)に言語を具す
〈すべての世界は言葉によって意味をもつ〉
六塵(ろくじん)ことごとく文字なり
〈知覚によってとらえた対象はすべてが文字になるが〉
法身(ほっしん)これ実相なり
〈言語外のありのままのすがたこそが真実の世界である〉
上記の詩句は、言語の三つのはたらきと言語外のありのままの世界を定義している。
第一の定義:物質のひびきとしての言語
第二の定義:住む世界と呼応する言語
第三の定義:形象を区別・編集する言語
第四の定義:言語外のありのままの世界
以下は、この定義ごとの論理展開である。ただし、第四の定義は言語外の世界であるので、ここでは省く。
(ハ)定義の展開
□ 第一の定義〈物質のひびきとしての言語〉
はじめに、「五大にみな響あり」を展開する。
五大とは
一に地大(固体)
二に水大(液体)
三に火大(エネルギー)
四に風大(気体)
五に空大(空間)
である。
この五つの要素には、表面的な意味と奥深い意味がある。表面的な意味は物質を構成する要素であること。奥深い意味は、梵語(サンスクリット語)のア・バ・ラ・カ・キャの五字がこの要素に対応する声(音)であること、また、あらゆるいのちのもつ無垢なる知によって発揮される、生命力・生活力・創造力・学習力・身体力と、そのちからが展開する慈悲のはたらきとも対応していることである。
〈物質の要素〉 | 〈梵語〉 | 〈いのちの知のちから〉 |
---|---|---|
固体 | ア | 生命力 |
液体 | バ | 生活力 |
エネルギー | ラ | 創造力 |
気体 | カ | 学習力 |
空間 | キャ | 身体力 |
このように、物質の五要素と、人の発する声と、いのち(生物)のもつ無垢なる知のちからとそのはたらきのことごとくが、音のひびきをもち、すべての音のひびきが物質を離れて存在することはない。物質こそが声(音)の本体であり、ひびきがその作用である。だから、「五大にみな響あり」という。
□ 第二の定義〈住む世界と呼応する言語〉
つぎに、「十界に言語を具す」を展開する。
いのち(生物)の形成する世界は十種に分類される。
以上の世界のすべてに、それぞれの言葉があり、話し声が聞こえる。
その声は長短や高低、それに音色や節回しをもっている。この多様な音声によって語られる話しを綴ったものを文章という。文章は単語によって綴られ、単語は文章によって意味が明確になる。したがって、文章家が「文章は単語であり字である」というのは、字や単語は文章として綴られることによって意味を成すということなのだ。
そのような文章が十種の世界の状況下で語られるとき、その話し(挨拶・気分・心情・用件・要望・説明・ストーリー・思想・信念・意見・願い・祈りなど)において、それぞれの世界と呼応する言葉(多様な表現と語意)が各人によって生み出される。
(例えば、一の世界においてはあるがままの美しい自然のひびきと呼応する言葉が語られ、二の世界では慈しみの言葉が語られ、三ではさとりの言葉、四では祈りの言葉、五では神々の言葉、六では生活・文化・政治・経済・科学・歴史などの知識と礼節の言葉、七では罪と罰の言葉、八では本能の発する言葉、九では飢餓に苦しむ言葉、十では殺戮や死に直面した言葉が聞こえてくる。このように、それぞれの生存世界と呼応して言葉が際限なく生みつづけられている)
経典では、一の世界で語られる言葉をもつブッダ(目覚めた者)を
一、真を語る者
二、実を語る者
三、ありのままに語る者
四、誤りなく語る者
五、偽りを語らぬ者
という。
これらの五つの言葉、真の語、実の語、ありのままの語、誤りのない語、偽りのない語を梵語でマントラ(いのちのもつ無垢なる知のちからから発せられる真実の言語)というが、このマントラの一言の中に、上記の五つの意味が含まれている。だから、インドの仏教哲学者ナーガールジュナはマントラを秘密語と名づけた。この秘密語を「真言」としたのは、漢訳者が前述の五つの意味の中の一つだけを採りあげて翻訳したことによる。
無垢のいのちが最初に発する「ア」音が、しだいに転じていって、世間に流布する言葉となるのだ。
世界の真実のすがたを示す語を真言と名づけ、いのちのもつ無垢なる知から離れた語を偽りの語という。偽りの語を語ると迷いの闇に苦しみ、真実を語ると苦しみは除かれ楽になる。これが、言葉が毒にも薬にもなるといったことである。
□ 第三の定義〈形象を区別・編集する言語〉
つぎに、「六塵ことごとく文字なり」を解釈する。
この定義の六塵(ろくじん)とは、人の知覚(五感)と意識のことである。このはたらきによって、世界がとらえられる。
第一に目に見えるもの、二に耳に聞こえるもの、三に鼻によって嗅げるもの、四に口によって味わうもの、五に手とからだによって触れられるもの、六に意識によって考えられるものである。
この六つはたらきによって、とらえられたものが言語になる。
本論では、上記の知覚のはたらきの内、目によってとらえられるもの「形象」について、以下、詳しく分析する。
(A)形象の定義
詩句にして、定義する。
顕・形(ぎょう)・表等の色(しき)あり、
〈人の目に見えるものには、色彩とかたちと動きがあり〉
内外(ないげ)の依正(えしゃう)に具す。
〈それらの要素によって、いのちと、そのいのちの宿る生物と、生物の住みかとなる環境がすがたをあらわしている〉
法然(ほうねん)と随縁(ずいえん)とあり、
〈それらのすがたには、あるがままのものと、条件によってあらわれているものとがあり〉
よく迷いまたよく悟る。
〈人はそのとらえ方によって、よく迷わされ、よく気づく〉
この詩句の第一の句は、人が目によってとらえることのできる三つの要素をあげている。
第二の句は、見る対象となる世界を構成しているのは物質と生命であり、それらがあらゆる環境とあらゆる生物のすがたとなって、世界に色彩とかたちと動きを与えていることをあらわし、
第三の句は、見えているそれらのすがたは、あるがままに生じているものとするか、あるいは条件によって生起しているものとするかの二通りに判断され、
第四の句では、そのさまざまな、色彩とかたちと動きが、それらを見たときのとらえ方によって愚かな者には毒となり、本質を見抜くことのできる賢い者には良薬となることを説いている。
(上記の句にしたがって、以下は各、定義を下記の見出しによって展開する)
第一句:物質のすがた
第二句:生命のすがた
第三句:共生のすがた
第四句:すがたの把握
(B)定義の展開
1物質のすがた
第一句の「色彩とかたちと動き」とは、人が目によって認識している要素は三種であることを示している。一に色彩、二に形状、三に動態の三種である。この三種について、それぞれに考察してみよう。
《色彩》
自然を構成している五つの要素は色彩をもつ。一に黄色(土)、二に白色(水)、三に赤色(火)、四に黒色(風)、五に青色(空)である。黒色は(色彩を失った状態であるから)色ではないといった見方もある。
影と光、明と暗、雲とかすみ、塵と霧、それに空の色の変化も色彩である。
また、視覚によって認識されるすべての色彩。
この色彩に対して、人は好い色、悪い色、どちらでもない色と区別しているが、心には、もともと、青、黄、赤、白、赤紫、水色などなく、明と暗もない。それは視覚の対象にあり、それらを区別したものなのである。
《かたち(形状)》
形状を分類して、長いと短い、粗いと細かい、まっすぐとまっすぐでない、高いと低いという。また、四角形、円形、三角形、半円形などという。また、色彩の配分によって、形状を成すものもある。
この形状もまた、視覚の対象となるものを区別したものであり、心にもともとあるものではない。
《動き(動態)》
動きには、人の動作を分類した、取る、捨てる、まげる、伸ばす、歩く、止まる、座る、横になるなどと、(物理学的な)動きを原因として、物象が生じたり、滅したり、存続したりすることがある。
(動きを定義すれば)生じたところには再び生じないで、他のところに移動し、連続、断絶、遠近となって生じることをいう。あるいは、移動せずに、その場所においての変化することをも指す。
また、働く、作るなどの動作のちがいも動きである。
人の心は、男と女の見かけの動作(うごき)や肌の色(いろ)やすがた(かたち)の違いによって惑わせられるが、もともとのこころにはそれらはないのである。
その見る対象となるものを識別したものが字(語意)となる。したがって、色彩・かたち・動きが言葉となった。
この見えるものを、先に述べた十種の世界でとらえると、十種の世界にはそこに住むものの世界と、その住みかとなる環境としての世界があるから、二十の区別された世界があり、それぞれの世界にそれぞれの言葉があることになる。
つぎに、インドの仏典『瑜伽論(ゆがろん)』(瑜伽行唯識学派の根本論書)に説かれている、目に見える万物の現象について述べる。
《物質の構成》(原初、分子・原子問答)
分子によって生じるというのは、分子こそが、万象を生起させる前提条件となるからである。この原理によって、もろもろの分子が、万象を生起させる原因となる、と説く。
このように、分子と万象を比較してみると、物質には、生みだす作用、依りどころとなる作用、確立させる作用、保つ作用、増大させる作用の五種の作用があることを知る。
またつぎに、物質において、物質存在の最小単位となる極微〈原子〉を想定すれば、その原子が生起することはない。なぜなら、人が目にする物質は、自らのエネルギーにより、集合して生起するが、その大きさは微細か中ぐらいか粗大かである。しかし、これは原子が集まって物質を成しているのではない。原子とは、観察者であるヒトがその知性によって、分量の極限を分析していって、最小単位の極微の物質を仮定した概念にすぎないからだ。
また、物質と現象の観察にあたって、物質の存在を確認する方法には二種ある。
一つは、観察者と存在物質との相対性の関係:物質の極微の存在をヒトが観察していて、そこに、色彩・かたち・動き・ひびき・匂い・味・テクスチャー等が認められれば、物質は存在し、認められなければ、そこに物質は存在しないということ。
一つは、観察者と認められる物質のすがたとの関係:観察する極微の物質の存在が、色彩・かたち・動き・ひびき・匂い・味・テクスチャー等に分離できずに、混合して物質の中に認められる状態。すがたは感じられるが、かたちは確認することができないといったこと。この場合は、さまざまなものを石で磨って粉末にし、水で練り固めたような物質の状態であり、その状態を胡麻やいんげん豆の集まりのように見なすべきではない。
また、万象は物質(分子)によって起こり、物質のもつ、構造と質量を超えることはない。だから、分子の構造によって、それぞれの物質の位置が固定されると、そのとおりに万象が発生することになる。このことによっても、観察される万象には物質が必ず存在しているのである。
また、諸原質が〈分子〉と名づけられるのは、物質がその性質を保って存在しうる最小の構成単位であるから分別の〈分〉であり、あらゆる現象の元となるから〈子〉という。
万象は、物質の特性、固体・液体・エネルギー・気体として存在し、これを人が、色彩・かたち・動き・ひびき・匂い・味・テクスチャー等として認知する。この認知は知覚器官、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚による。ここでは、客観性を担保するために、意識の領域をはずす。
以上が分子・原子問答となる。
このように、さまざまな目に見えるものが、すべてにわたって識別され、まさに文字になった。
(文字にならなくても)色彩によってさまざまな記号を書くことや、生物や静物を描くこと、錦(にしき)・刺繍をほどこした布・あや織り・うすものなどのデザインも、すべてが目によって伝えられるもの(視覚言語)である。
各種仏典において、目に見えるもののさまざまな分類が詳しく記しているが、それらが、前述の生き物の十種の世界と、その住みか(環境)となる十種の物質世界を出ることはない。
この世界を目で見て、識別したものが言葉となったが、この言葉に愚かな者は執着し、むさぼり、怒り、さまざまな誤りを犯す。そのことを詩の第四句で「よく迷わされ」という。賢い者は、目に見えるものによって成立した言葉が、人がその視覚によって世界を観察し、識別したものに過ぎないことを知っていて、それに執着することもなく、だからといって、捨て去ることもない。さまざまな世界の真のすがたを見て、理想郷を打ち立て、言葉以前のいのちのもつ無垢なる知のちからによって、あるがままのはたらきを為し、そうして、上に向かってはすべてのいのちの共生を祈り、下に向かっては生きとし生けるものを救済し、自己の利と他者の利を調和させ、円満にする。だから、詩の第四句に「よく気づく」という。
2生命のすがた
つぎに、第二句の「いのちと、そのいのちが宿る生物と、生物の住みかとなる環境がすがたをあらわしている」を考察してみよう。
これには三つのことが説かれている。
第一に、生物のすがたに、色彩・かたち・動きがある。
第二に、環境にも、色彩・かたち・動きがある。
第三に、これらの、色彩・かたち・動きは、生物と環境にそれぞれにそなわっているものではなく、いのちの住みかとなる環境と、そこに住むものとしての関係、すなわち、共生する関係(生態系)の中から生まれ出ている。
『華厳経(けごんきょう)』(三世紀中央アジアで成立した仏典)につぎのようなことが説かれている。
《生命の構成》(原初、分子生物学)
『経』にいう。
「いのちの有するからだは不思議である。(固体と液体と気体によってエネルギーを産生する)世界がことごとくその中にある」
またいう。
「からだの一毛の中に、多くのいのちの海があらわれている。一つひとつの毛に、その多くの海があり、その海がすべての生物のいのちにあまねくゆきわたっている」
またいう。
「一つの毛孔の中にも、推測できないほどの多くの海がある。その数は数えきれない量であり、いろんなすがたを成して、存在している。その海(細胞)の一つひとつに、遍照尊(へんじょうそん・DNA)がおり、細胞の海の集まりの中で、妙法(いのちの真理)の教えを説いておられる。その細胞の中にも大小の分子があり、そのさまざまなすがたは数えきれない量である。このように、いのちを有するすべての生物を形成している微塵の細胞の一つひとつの中には、みな遍照尊が入っておられるのである」と。
今、これらの教えによって、つぎのことが明らかに分かる。
いのちを有する生物のすがたは大小さまざまである。
- 生命圏全体のすがた。
- 説明することのできないほどの細胞数をもつ、巨大な生物のすがた。
- 少ない細胞による小さな生物のすがた。
- 一つの細胞のすがた。
- 細胞の中の分子のすがた。
これらの大小によって、あらゆるいのちの単位が、互いに内となり、外となって共生し、生命環境を築き、そこを住みかとして生存している。
この「内にもなり、外にもなる生物とその環境」すなわち、意識をもついのちとそのいのちを構成する物質的なるものが、互いに共生しているところに、必ず、色彩とかたちと動きがそなわっている。だから、詩の第二句に「いのちと、そのいのちが宿る生物と、生物の住みかとなる環境がそのすがたをあらわしている」という。
(今日の分子生物学では、地球上の生命の誕生を、無機質の微粒子群が海水の中で化学的変化を繰り返し、その巨大分子に含まれる大量の物質を一単位として包括する方法として、粘性の膜によって、海水と分子を包み込む細胞が創造された時点とする。物質存在の元となる原子、原子が結合して分子となり、分子が結合して巨大分子となり、その巨大分子が生みだしたものが細胞である。これがいのちの最小単位である。その細胞の中において代謝活動が行なわれるから、いのちがエネルギーを得て維持されているし、その細胞の一つひとつに遺伝情報物質DNAが存在する。このDNAがいのちの知のちからのおおもとである)
3共生のすがた
つぎに、第三句の「あるがままのものと、条件によってあらわれているものがある」を考察してみよう。
目に映じる、色彩・かたち・動きは、無心にして見れば、ありのままの無垢のすがたである。それは、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきによって現出したものが、生物とその住みかとなる自然環境となるからだ。
(この無垢なるいのちのすがたを説いた仏典がある)
『大日経』にいう。
「そのとき、あらゆるいのちと自然が調和し
等しく生きるあるがままの世界があらわれると
いのちの住みかである地上は平らになり
手のひらの上にすべてがあるかのように見えた
山々は金・銀・琥珀にあふれ
海中は真珠と珊瑚によって満たされ
谷には甘く・冷たく・やわらかく・かるく・清く・臭くなく・のどごしよく・何一つ悪いものを含まない水が湧き出し
その水のほのかなよい香りが辺りにただよい満ちている
空には数えきれないほどの野鳥が飛びかい
湖には水鳥たちが集い、みやびに鳴く
野には季節の花々が咲き
森にはいろんな樹々が茂り、それらがほどよく並んでいる
大地の奏でる無数の音色は
自然のリズムに調和し
その妙なるメロディーに
人も耳を傾け、聞き入っているー
今、いのちをもつ無数のものたちが
その太古よりつづくいのちの道程をふり返り
互いの連鎖によって築かれている自然の園に
それぞれがそれぞれに固有の部屋をもっていることを慈しんでいる
そこに、いのちの座があり
その座はいのちを途切れることなく継承しつづけてきた
無垢なる知のちからによって
生じたものである
いのちの宇宙は
大きく広がった蓮の花のようー
その中で、ありのままのすがたをもつあらゆるいのちが
安住している」と。
それでは、いのちのもつ無垢なる知はどのようなすがたをとって世界にあらわれるのか、その四つのすがたを次に説く。
〔一のすがた〕
〈大日尊〉を、梵語では、マカビルシャナブッダという。大ビルシャナ仏とは、宇宙における唯一無二の"いのちの存在とその知"そのものをあらわす。その存在があるから、あらゆる生物と環境があるがままに成立しているのだ。だから、詩文に、「あらゆるいのちと自然が調和し、等しく生きるあるがままの世界があらわれる」という。
〔二のすがた〕
太古からそのいのちを途切れることなく引き継いできて、あらゆる種のそれぞれの今ある個体をも〈大日尊〉という。だから、詩文に、「いのちを途切れることなく継承しつづけてきた、無垢なる知のちからによって生じた」と説く。
また、『大日経』にいう。
「ときに、すべてのいのちには、生存し、共生するための知のちからがそなわっている。
一に、自然と共生するちから。
二に、衣・食・住を得るちから。
三に、生物の種としてのちから。
四に、知覚のちから。
五に、観察し、学習するちから。
六に、困難を克服するちから。
七に、道を求めるちから。
八に、他に対する慈しみのちから。
九に、無心に尽くすちから。
十に、無心に生きるちから。
これらの十のちからをもったさまざまないのちが自然の中で生活するとき、そこに限りないすがたが、色彩・かたち・動きとなってあらわれ、世界を彩る」と。
この文は、あらゆる生物の個体がもっている、生きる知のちからを明らかにしている。
〔三のすがた〕
あらゆるいのちが両親(雌雄)の結び付きによって、それぞれに父母の性質を受け継いで生まれてくるが、その父母の性質の配分によって同じ兄弟でも性格や容姿が異なる。そのようにして生まれてくるものをも〈大日尊〉という。この多様な性質の展開の稀有なる一つによって、世界があまねく照らされることとなると、そのことを大日と名づける。
このようにして生まれてきて、限りない慈しみの光を放ったのが釈迦(紀元前五世紀)である。ビルシャナ(サンスクリット語でヴァイローチヤナ:広く照らすの意)ともいう。
『大日経』に、「数えきれず、はかり知れない長い時間の修行によって、いのちの根源の知のちからを得、その知のちからによって慈悲の行ない、善き行為を人に施すこと・煩悩を戒めること・人を損なわないこと・教えを求めて努力すること・心を乱さないこと・あるがままであるあることの六つを生涯において完遂した人」と釈迦のことを説く。
これが人間ブッダによるいのちのありのままのすがたである。
〔四のすがた〕
あらゆるいのちの種のその種をも〈大日尊〉という。同じ種はその同じであるということによって、慈悲をもってお互いの生を照らし、また種が違っても、いのちをもつ者どうしとして他の種を照らすことになる。
引用した詩文の続きには「たちまちにして出現する」と説いているが、この意味は、しばらくの間であるが相手と同等の身になって、あらゆるいのちが慈悲に目覚めることができることを指す。しかし、そのすがたはたちまちにして隠れてしまう。
詩文には、そのようなすがたがあらわれる聖なる環境については述べていないが、そのすがたが一瞬たりともある以上、どうして、その住みかとなる環境がないことがあるだろうか。
上記に説いたいのちのありのままの四種のすがたと、それらによって彩られるさまざまな環境は、いずれもいのちのもつ無垢なる知のちからのあらわれである。
これらのすがたをかたちで区別すると、大小とか、粗大と微細とかに分類されるけれど、横にみればいのちの無垢なる知のちからのあらわれとして、まったく平等であって、同一なのである。
この平等のすがたがあるがままであり、区別の視点で見るから、そこに比較が生じ、その比較のためにわざわざ条件を設定することになる。そこで、詩の第三句に「あるがままのものと、条件によってあらわれているものとがある」という。
このようないのちのすがたと、そのいのちの住みかが、ことごとく、色彩・かたち・動きをそなえ、多種多様な生物と自然の美しい景観を成しているのだ。
これらはいのちのもつ無垢なる知のちから側から、そのいのちのすがたと住みかをまとめてみたのであるが、生物分類の側からまとめて考察してみても同じことがいえるだろう。
生きとし生けるものには、本来的にいのちのもつ無垢なる知のちからがあり、そのちからによって生きているのだから、そのすがたとその住みかとなる環境はあるがままの存在である。
また、生命と物質と意識の三種の世界と、前述した十界の五~十の世界に存在するいのちとその環境は、そこに生存しているものの行為が原因となって成立している世界だから、そのことを称して、「条件によってあらわれているもの」という。
また、『大日経』に「生きとし生けるものの世界を染めるには、真の味をもってする」とあるが、この味とは色彩のことであり、いのちとその住みかとなる大地があるがままに存在していることを赤土色によって示す。
4すがたの把握
つぎに、第四句の「よく迷わされ、よく気づく」を考察してみよう。
根源的な知のちからをもつあらゆる生物と、その住みかとなる世界(環境)とが発揮している、色彩・かたち・動きによって、愚かな者はこころを動揺させられ、それに執着し、賢い者はその本質を洞察し、それらを慈しむけれども執着しない。だから、詩の第四句に「よく迷わされ、よく気づく」という。
生みだされるものは、いのちそのものとそのいのちのもつ無垢なる知のちからと、その知のちからの宿るあらゆる生物と、そうして、それらの生物の住み場となる環境である。
そこに数限りないすがたがあるのだが、それをあるがままにとらえるのが〈イメージによる描写的把握〉(感性)であり、識別し、それが原因と条件によってあらわれているとしてとらえるのが〈概念による論理的把握〉(理性)である。その把握の違いによって世界の見え方に差異が生じ、そのことによって、よく迷わされ、よく気づく。
このように、目に見えるあるがままのイメージ世界と、目に見えるものを概念に変換し、その論理によって構築される世界、つまり、心象か概念かという言語のもつ二面性によって把握される世界は、それぞれが異なる文脈を展開することになるから、同じ対象を見ても違うすがたが生じるのだ。
そのようなことだから、他の知覚、聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって生じる言語も同様に考察することができよう。
以上、すでに目に見えるものの言語と実相を論じ終えた。
声字実相義