≪空海の祈り≫
空海の父親は佐伯の氏族であった。
佐伯の名は、7~8世紀頃、日本列島の中部地方以東、関東から東北地方一帯の自然と共に暮らしていた先住民族が大和朝廷の遠征軍によって集団で捕虜になり、その一群のことをサヘキ(異言語を話す一連の人たち)と呼んだことに由来する。
そのサヘキが、すでに支配下にあった近畿以西の四国を中心とした諸国に集団移住させられ、民族固有の優れた資質を発揮し、集団の長であった者が朝廷とともに新しい国づくりに参画するようになって、それまでのサヘキという呼び名に佐伯の文字を当て氏族名としたのだ。
因みに、空海の生きた9世紀前後の大和朝廷の領土は北緯40度、今の秋田県中部辺りが国境線であり、それより以北の人たちは朝廷に未だ隷属していない異民族として侮べつする呼称「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた。したがって、サヘキはエミシであった。そのエミシや、その後12~13世紀の歴史に登場する北海道のアイヌ(エゾ)が、日本列島の先住民族、縄文文化1万年の流れを汲む人たちであることは、今日の考古学者や文化人類学者の認めるところである。
もっとも、空海の母親はその兄、阿刀大足(あとのおおたり)が天皇の皇子の家庭教師を務める家柄であり、空海は土着系と渡来系の双方に縁をもって生まれた人であった。
そのような列島民族の流動する事情と、豊かな森林が水田へと変容する風景の中で空海は育った。
13歳で地方官吏養成機関に入学し、15歳で前述の母方の伯父について、論語、孝経・史伝・文章等を学ぶ。
18歳で大学に入学し、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学ぶが、立身出世のための学問に限界を感じ、それ以上の真理を求めて20歳すぎには山林での修行に入り、自然のもたらす深遠なるちからに目覚め、そうして31歳で正規の留学僧として唐に渡る。
33歳でインド伝来の密教の第八祖となって帰朝し、その後、その教え"いのちのもつ無垢なる知のちから"をもって万民の幸福を願った。
そこには、立場の異なる民族どうしが協働して新しい国づくりにあたる寛容の精神と、開墾が進む森と水の保全を願う、空海の祈りがあった。
≪いのちと大地のイメージ≫
空海の主要書の一つに『声字実相義』がある。声と字、すなわち「言語」と、言語によって表われる物事の実相、すなわち「言語によって表現される世界のすがた」の義、すなわち「言語のはたらきと言語によって表現される世界のすがたの真理」を説いた書である。この言語哲学において、空海は「人が世界を理解しているのは、世界を識別した結果であり、その結果を声のひびきと文字にし、コミュニケーションを取り合っている」と分析している。しかし、その言語によって語られる識別された世界が、それを語る人格を含めて、どこまで真実を伝えることができているのかと自問している。
そこで、空海は物事のあるがままの真実を伝えるために、言葉の論理ではなく、事象の展開する時と場を設定し、そこにシンボルとなる事物を登場させ、それらをイメージ描写し(つまり、情景を描き)、そのイメージを受け手の脳裏へと直接投影する。この方が、一方的な論理による説得よりも、情報の送り手と受け手がともに余計な注釈なしにイメージ世界を共有することができるからである。(空海がその著作の中でよく引用する『荘子』の寓話もこの手法を用いている。そこには、人が知覚によってとらえた物事のイメージによって世界観が成立しているのだから、その原イメージを描写することによってのみ真実は伝わるとする『荘子』の姿勢がある。論理はイメージを概念にし、その文脈によって正否を判断することになるから、その既成概念の範囲のことしかとらえていないことが多い。そんな些細なものをもって世界と対峙するから偏った判断をすることになるのだ。だから、それを避けたところに思考の自由を求めた。それが寓話となった)
さて、空海はその著『声字実相義』の「共生の事象」の頁に、『大日経』に説く "いのちと大地のあるがままの世界"を引用している。
そのとき、あらゆるいのちと自然が調和し
等しく生きるあるがままの世界があらわれると
いのちの住みかである大地は平らになり
手のひらの上にすべてがあるかのように見えた
山々は金・銀・琥珀にあふれ
海中は真珠と珊瑚によって満たされ
谷には甘く・冷たく・やわらかく・かるく・清く・
臭くなく・のどごしよく・何一つ悪いものを含まない水が湧き出し
その水のほのかなよい香りが辺りに満ちている
空には数えきれないほどの野鳥が飛びかい
湖には水鳥たちが集い、みやびに鳴く
野には季節の花々が咲き
森にはいろんな樹々が茂り、それらがほどよく並んでいる
大地の奏でる無数の音色は
自然のリズムに調和し
その妙なるメロディーに
人も耳を傾け、聞き入っている―
今、いのちをもつ無数のものたちが
その太古よりつづくいのちの道程をふり返り
互いの連鎖によって築かれている自然の園に
それぞれがそれぞれの固有の部屋をもっていることを慈しんでいる
そこに、いのちの座があり
その座は途切れることなく継承しつづけてきたいのちの
無垢なる知のちからによって
生じたものである
いのちの宇宙は
大きく広がった蓮の花のよう―
その中で、ありのままのすがたをもつあらゆるいのちが
安住している。
物質と生命と意識とによって形成されている大地の平らかなる一瞬と、無窮の時の流れを詠った詩文である。
そのイメージから「自然界は生命圏として成り立ち、その中でさまざまな生物の種が生きている。それらのいのちのすべては、親があることによってこの世に生を受け、地上にそれぞれの住み場所を得、生きとし生けるものの相互扶助のはたらきと、そのはらきにしたがういのちの原理によって生かされている。その原理を司っているのは、いのちの有している無垢なる知(環境に調和すべくプログラムされている根源の知)のちからである。そのおかげで、あらゆる生物が環境を住み分け、共生し、安住できる」と今日からは読み解ける。
また、いのちのもつ無垢なる知がどのようなちからを発揮し、そのすがたをあらわしているのかを『大日経』は以下のようにも記していると言う。
ときに、すべてのいのちには、生存し、共生するための知の
ちからがそなわっている。
一に、自然と共生するちから、
二に、衣・食・住を得るちから、
三に、生物の種としてのちから、
四に、知覚のちから、
五に、観察し、学習するちから、
六に、困難を克服するちから、
七に、道を求めるちから、
八に、他に対する慈しみのちから、
九に、無心に尽くすちから、
十に、無心に生きるちから、
の十のちからを生まれながらにもっている
さまざまないのちが大地の上で生活するとき、
そこに限りないすがたが、色彩・かたち・動きと
なってあらわれ、世界を美しく彩る。
あらゆるいのちが、生きる局面に対して、十の知のちからを発揮していることをここでは述べているが、そのいのちの一員でもある人間の知性は、それらのちからの内、五の観察し、学習するちからによって得た事柄を言語と論理によって知識化したものであるが、その知識偏重の世界では生きていることの本質がごっそりと抜け落ちている。無心にしてもつ、あるがままの十の知のちからを発揮して人も生きなければならない。そうすれば、そのすがたによって世界は美しく彩られると密教は説く。
そのいのちのもつ無垢なる知のちからによって生きる人びとが日本にいた。アイヌモシリ(人間の静かな大地)に住むアイヌ民族である。
≪日本の先住民族アイヌについて≫
日本の先住民族であるアイヌについて、G8サミット市民フォーラム北海道のパンフレットに以下のように記されている。
この島にいつからアイヌ民族が住み始めたかは、はっきりしませんが、アイヌ文化が成立したのは12~13世紀ではないかと言われています。その頃、アイヌの人たちは漁労や狩猟、植物採集を主な生業にし、交易も行なっていました。アイヌの人たちはこの島を、アイヌモシリ(人間の静かな大地)と呼んでいました。
15世紀に入ると、昆布やサケ、ニシンなどの交易を目的にアイヌモシリの南部に日本人が住むようになり、アイヌ民族を支配するようになりました。この支配に対し、アイヌ民族は1456年"コシャマインの戦い"、1669年"シャクシャインの戦い"、1789年"クナシリ・メナシの戦い"と三度にわたって戦いを挑みましたが、(話し合いによる和睦の信義は必ず守り通すアイヌに対し、そのような純化された心をもつことのない和人のだましによって)結局は敗れ、日本人の強権的な支配の下で暮らさざるを得なくなりました。
1869年、明治政府はアイヌモシリを北海道と改名し、一方的に日本の一部に組み込みました。そしてアイヌ民族の言語や生活文化を禁じ、同化政策を推し進めていきました。その結果、困窮に陥ったアイヌ民族を保護するために"北海道旧土人保護法"を制定しましたが、この法律は、アイヌに定着農耕を強制し、日本語による教育などを通じて日本人化を進めるものでした。この法律は、アイヌ民族からの撤廃の声があがっていたにもかかわらず、1997年に"アイヌ文化振興法"が成立するまで残っていました。
アイヌ民族は、アイヌが日本の先住民族であることを日本政府に対して求めてきました。しかし、日本政府はこれまでそれを否定してきました。
2007年9月、『先住民族の権利に関する国連宣言』が採択されるに至って、日本社会の中でもアイヌ民族の先住権を認めようという動きが強くなり、2008年6月、国会で"アイヌ民族は日本の先住民族である"ことが満場一致で決議されました。
この決議を受けて、北海道、アイヌモシリがどう変わっていくのか、世界の人たちが注目しています。
このアイヌの人たちが、日本の北の大地で独自の言語をもち、日本人(和人)とは別の生活文化圏を築いていたことは、今日では誰もが知っていることである。
その文化は文字をもたなかったアイヌにとっては、アイヌ語の口承と伝統儀式によって世代から世代へと受け継がれてきたものであり、そこに無垢なる知のちからの伝承を見る。なぜなら、文字になった物事は、その文脈といった論理性によって理解されることになり、文字の伝える概念の限界とともに論理の整合性に合わないものは記述されずに前もって切り捨てられているし、おまけに、その時の権力者の勝手な価値観にもとづく世界が入り込んでいる。そのような歴史資料とされるものよりも、余計なものをもたない文化の方が、より自然や物事の本質がイメージとして伝えられていると思えるからだ。
その知は自然の神々の寓話やアイヌの英雄の物語、それにくらしの知恵と祭りとなって、幾世代にわたりアイヌ語によって伝えられてきたものだが、近代になって、辺境に住む人びとの文化を調査する民俗学が興り、その学者のはたらきかけもあり、アイヌ自らの手で口承されてきたその文化をローマ字表記によって記述し、それらの翻訳が為されることになった。
その翻訳によって、アイヌ民族固有の幾世代にわたる文化をわたくしたちは知ることになるが、その文化によって、知性と呼ばれるもののその根底にある無垢なる知のちからの存在に人びとが気づいたなら、それは大正デモクラシーによる民俗学の功績である。
以上のことを背景として、以下の章では、
アイヌに生まれ、アイヌ語の中で育ったわたしは、雨の宵、雪の夜、暇あるごとにみなが集い、わたしたちの祖先が語り興じた、いろいろな物語の中から、ごく小さな話(短編)のものを拙い文ですが執筆してみました。
という、知里幸恵さん著訳による『アイヌ神謡集』や『ウウエペケレ』(昔話)と、アイヌ民族の末裔、萱野茂さんの綴った"二風谷の暮らしと心"、それに世界の先住民族の知恵の言葉にも触れながら、空海の説く無垢なる知のちからとアイヌ民族が伝承している心、それに生態学がとらえる人間の知を比較し、その共通点を探ってみたい。
≪知のちからの原型≫
まず、空海の説く知のちからと、アイヌの知を比較するまえに、人は大地とともに生きることによって、先史以来、暮らしを築いてきた訳だから、その生活の原風景に立ち戻ってみれば、そこに知のちからの原型があるのではないかと思う。
そこで、生態学的にみた人の知のちからをまずまとめておこう。
地形・土壌・水質・気候・大気などを環境として多種多様な生物がそこに住み、無機的自然と生物(動物・植物・微生物など)の織りなす自然を築いている。それを生態系という。その中に、人も住む、住まわしてもらう。
その生態系の成す景観への順応が第一の知のちからである。
景観の中で人は生活する。生活するということは、まず、あらゆる生物が自然の中にあって、生の根幹エネルギーとなる大気の成分(酸素と二酸化炭素)を植物と動物とがその呼吸によって相互に産出し、そのバランスが取れているということであり、地球の自転にともなう昼夜の二十四時間リズムに合わせて、活動と休息を繰り返し生きているということである。そこでは、太陽の温もりと月星の輝きによる美しい景色が展開し、その躍動と静寂が生きとし生けるすべてのものの活動の起点となる。
そうして、きれいな水と食物を摂取し、体力維持と活動のエネルギーを得、作業をし、愛し合い、子孫を育てる。
また、暑さ寒さから体温を守ることを基本としながら、身を飾るためにも衣服を着る。また、くらしの便利さを得るため人は道具を作り、その道具によって獲物を捕らえ料理をし、家や衣服や装身具を作り、それに田畑や道、舟や乗り物などを作る。
それらのモノ作りによって、人は快適さを得ることになるが、しかし、その材料を調達するために自然が破壊されることになる。
この人の為せる業と自然との折り合いが第二の知のちからとなる。
人は世界を感知・識別し、それを言葉にできる知能をもつ。言葉によってコミュニケーションを取り合う。世界を構成しているあらゆるものの名称と意思疎通、物語と論理、それに倫理まで、人は言葉によってそれらを他人に伝え、共有し、共感を得ようとする。そのために人には観察力と洞察力、それに学習力と記憶力が必要だ。そこから世界の真実が紡ぎだされ、物事の本質にせまることができる。
その物事の本質をよく観察することが第三の知のちからである。
上記の物事の本質を直接的に相手に伝えるには、話し手のからだの身ぶり手ぶり、言葉のひびきと表情、それに何よりも人格が必要だ。そのように人は自分のからだと個性、知覚と運動能力によって行動する。そうして、あらゆる他と接触する。
その行動力が第四の知のちからである。
以上、四つの知のちからを原型として、人は生きてきた。この四つの知のちからの発揮されているところに文化が生まれる。
文化は文化が生まれるまでの一定の歴史的時間があって、その地の風土と伝統によって培われる。そのために、その地の自然環境の保全がどうしても不可欠だ。自然環境が破壊されると風土も消え、風土がなければ文化は育たない。なぜなら、そこには人に無垢なる知のちからを与えてきた、大地とともに生きているあらゆる生物固有の知のちからが存在しないから、それらとの連鎖によって成り立っている人の無垢なる知のちからは土壌を失ってしまう。土壌のないところには文化の根は張れない。
根のない文化は時代の風にすぐに流されてしまう。しっかりと根の張れる土壌があって、その地に暮らす人びとの伝統精神とともに地域固有の文化は醸成するのだ。
≪無垢なる知の比較≫
空海は密教の教えである"五智"を説く。平らかなる大地とともにあるいのちのもつ五つの無垢なる知のちからである。その内、法界体性智(ほっかいたいしょうち:いのちの存在という真理の輝きそのものを示す知のちから)はすべての知を包括するものとしてここでははずし、そのいのちの存在を支えている四つの根本の智の教えと、アイヌの人びとが守りつづけている心とを次に比較して見よう。
清らかなる環境
大円鏡智(だいえんきょうち):清らかな鏡に万象が映じるように、すべてをありのままに認識し、清浄に生きることのできる知のちから。
アイヌ:自然を映しだすあらゆる生物の心によって世界は生まれた。豊かな心は豊かな自然によって生み出され、また、その心が美しい自然を作っている。そう、人も含めてあらゆる生物は自然を映す鏡なのだ。そうして、大地は静かである。
衣食住の平等性
平等性智(びょうどうしょうち):すべてのいのちあるものが相互扶助によって生かされているという、その平等性を認識する知のちから。
アイヌ:人の衣食住は自然からの借りものである。大切に扱い、そうして、御用が済めば大地にお返しするものである。また、自然からの借りものであるので他の動物の分を奪ってはならない。そうして、すべてが平等に生きる。
物事の本質
妙観察智(みょうかんざっち):物事のちがいを観察し、その本質を認識することのできる知のちから。
アイヌ:万物のすがたにちがいはあるが、よく観察するとそれらはいのちがいろんな生物のかたちや自然のかたちを借りて生きているのだと分かる。だから万物どうしはいのちの仲間なのだ。そこから、互いに慈しみあう心も生まれる。その心を学び語り継ぎ、共有しなければならない。
身体の振る舞い
成所作智(じょうそさち):生きとし生けるものに敬意をもってはたきかけ、救済・教化の活動を行なう知のちから。
アイヌ:生きとし生けるものと自然のすべてにはカムイ(神)が宿る。豊かな自然の中にいるとそれが分かる。それを感じることのできるアイヌ(人間)が、カムイに対して敬意を払わないといったことがあるだろうか。だから、その気持ちが自ずと日常の祈りの言葉と振る舞いになり、火と水と樹木の神に託す儀式となって表われるのだ。
以上のように、密教によって空海の説くところもアイヌの人びとの心も、その根底の精神は同じなのである。生きることにおいて、そんなに難しい生き方があるわけがない。人は大地とともにあるがままに生きてきた。そう考えると、結局は同じ知のちからが元になっているのだと思う。密教の教えの根幹もそこにある。
≪アイヌモシリ≫
1923年に発行された、アイヌの知里幸恵さん(※)の著訳による『アイヌ神謡集』の序文に次のような美しい大地の記述がある。
その昔、この広い北海道は
わたしたちの先祖の自由の天地でありました
天真らんまんな稚児(子ども)のように
美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは
真に自然の寵児(可愛がられる特別な子)
何という幸福な人たちであったでしょう
冬の陸(大地)には林野をおおう深雪を蹴って
天地を凍らす寒気をものともせず
山また山をふみ越えて熊を狩り
夏の海には涼風泳ぐみどりの波
白いかもめの歌を友に木の葉のような小舟を浮かべて
ひねもす魚を漁り
花咲く春はやわらかな陽の光を浴びて
永久にさえずる小鳥とともに歌い暮らして
フキ採りヨモギ摘み
紅葉の秋は野分に穂そろうススキをわけて
宵までサケ獲るかがり火も消え
谷間に友呼ぶ、鹿の音(鳴き声)を外に
円かな月に夢をむすぶ
ああ何という楽しい生活でしょう
これが、アイヌの住む大地であった。幸恵さんが記したアイヌモシリの世界、空海が『大日経』から引用した"いのちと大地が調和しているあるがままの世界"そのものである。
これこそがいのちのもつ無垢なる知のちからが為す世界の真のすがたなのだ。密教の説く大地の教えもそこにある。
その教えによって空海は大地とともにあるすべてのいのちの平穏を祈った。そうして、人間のために民衆の和と国土の安泰を祈った。
アイヌ民族として1903年に生まれる。北海道内の尋常小学校を卒業後、旭川区立職業学校に入学。1920年に職業学校を卒業後、アイヌの村を歴訪中の金田一京助の勧めもあり、独学でアイヌ語表記のためのローマ字をマスターし、口承によって記憶していたアイヌ神謡や昔話を記述した。1922年初秋、志なかばに、若くして死去。弟は言語学者、知里真志保。