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空海とホワイトヘッドの思想-七つの接点-

  「九世を刹那に摂し、一念を多劫に舒(の)ぶ。一多相入し、理事相(あい)通ず」(過去・現在・未来を貫くあらゆる時間が一瞬間におさまっているから、一瞬間に感じたことはすでに、多くの無限に等しい時間に展開していることになる。そのように一と多とが互いに融け入り、一である「理」と、多である「事」とが互いに通じ合うという意味)
 
 空海(774-835)の主著『十住心論』全十巻の内の巻第九の大意の一節である。「一がそのまま多、多がそのまま一である」という華厳思想の絶対真理の教えを説くものであるが、イギリスの自然哲学者、ホワイトヘッド(1861-1947)がその主著『過程と実在』の中で「究極的なもののカテゴリー」として説く、「多は一となり、一つだけ増し加える」という創造性の理念と似ている。

Ⅰ空海のモダニズム性
 さて、空海はその主著で、人間の思想を十段階に分類し、第一段目において、人間が思想をもつのは人間が意識をもっているからだとし、その意識は地球上に生命が誕生し、その生命が意識をもつものとして存在しているからだとする。
 そのことを第一住心となる『十住心論』巻第一の「自然世界」の章に次のように記す。
 「生物の住みかとなる自然世界の全体詩」
  自然(地球)はどのようにして誕生したのだろうか
  気体(ガス)が初めに空間に充満し
  水と金属が次々と出て
  (水蒸気は大気に満ち、重い鉄は中心部に集まり)
  地表は金属を溶かした火のスープにおおわれた
  (やがて、地球全体が冷め始めると、水蒸気は雨となって地表に降りそそぎ)
  深く広大な海となり
  (冷めて固形化した巨大な岩石プレートはぶつかりあい)
  大地は持ち上がり、天空に聳え立った
  (そうして、出来上がった)
  (空と海と)四つの大陸と多くの島に
  あらゆる生物が棲息するようになった

 -そうして、次の詩につづく
 「自然を構成する五大圏の詩」
  宇宙は果てしなく<虚空圏>
  (その中に)大気に包まれたところ(地球)がある<気圏>
  大雲が雨をそそぐ(地球の)大地と海は層が厚く<水圏>
  金属(と岩石)が地球のすべてを作り上げている<地圏>
  火の元素はどこにあるのだろうか<エネルギー圏>
  それらが自然の周辺に満ちている
  (ところで)自然の五大圏は何によって出現したのか
  それはあらゆる生物の生存環境となるためである
  (その生物が意識をもつ)

 -また、前述の詩につづく「生物の世界」の章において、五大圏によって構成される自然
には多様な生物が生存しており、それらは
  ・胎生(ほ乳類)
  ・卵生(鳥類/爬虫類)
  ・湿生(水棲類)
  ・化生(昆虫/両生類)
 に分類できるとし、それらの生物のもっている習性と共に、人間も生きていると説く。

 このように、空海がまとめた思想体系には、自然・生物としての人間観が背景にあり、近代科学的な自然観がすでに先取りされている。

Ⅱ空海の『十住心論』
 前記のような先見的なモダニズムのもとに、空海は人間の思想を次のような十段階に分類した。
(1)第一住心:生きとし生けるものに共通する生存欲求(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動)が起こす、快・不快の意識。
(2)第二住心:快・不快の経験が惹き起こす、善行と悪行への欲望。
(3)第三住心:欲望がもたらす迷いを克服するために、生き方の真理を自在の人格をもった神の加護か、あるいは、整合性をもつ論理(哲学)に託そうとする思想。
(4)第四住心:自己に生じる認識は、対象(色)を知覚によって感受(受)し、その感受によって脳裡にイメージ(想)が結ばれ、そのイメージが経験(行)となって記憶(識)されるからであり、対象がなければ認識は生じない。だから、自我にもともとの実体はないとする思想。
(5)第五住心:対象を観察すると、対象となるモノ・コトには必ず原因と結果があり、その結果がまた原因となって際限なく進行するから、個々のモノ・コトには自存する実体はないとする思想。
(6)第六住心:人間の意識そのものの段階を分析した思想。
  ・生存欲求を司る意識<第八識>
  ・言語や分別が惹き起こす執着を司る意識<第七識>
  ・知覚によってとらえた対象を、思考・判断・記憶する意識<第六識>
  ・対象を知覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)によってとらえる意識<前五識>
    この段階のそれぞれに表象作用が生じるから、それらの段階によって、行動規範を策定した思想。
(7)第七住心:作用主体と作用(客体)という相対性の論理によっても、モノ・コトの個々の存在は証明できない。そこにあるのは、対象を認識する主体と、その主体によってとらえられた対象(客体)の一瞬の仮のすがたのみであるという思想。
(8)第八住心:精神(主体)が対象(客体)を感受することによって、客体の存在が認められ、主体の精神も認められるのだから、客体そのものが主体であるとし、精神と対象の両者は存在しているものでも認識されているものでもなく、主体と客体はたった一つであるとする思想。
(9)第九住心:生きとし生けるもののいのちの極微から極大までが、互いに内となり外となって共生し、融通無碍の世界が広がっているが、それらと精神は一体であるとする思想。だから、精神は自由に移り変わり、それ自体に実体はない。そこでは、物質と生命と意識とが織りなす世界がそのままわが身であり、それらと等量のありのままのすがたが、わが精神であるとする。この精神の住まいにおいては、過去・未来・現在を貫くあらゆる時間を一瞬間おさめるから、多くの無限に等しい時間に、一瞬間の心が展開することになる。そうして、一と多とがたがいに融け入っているから、絶対平等の本体である一つの「理」と、相対的・差別的な現象である多くの「事」とが互いに通じあう。ここにおいてすでに、因と果とは別のものではなく、実在と現象とは違ったものではなくなるという思想。
(10)第十住心:いのちの無垢なる知の永遠の存在に目覚めることによって、相対性を超える包括的な世界が実在すると知る。そのありのままの世界が、イメージ・シンボル・単位(文字/数量)・作用によって図示される。すなわち、マンダラによって世界の本質を明かされる。そこが、心の真実の住みかであり、その中心にいのちの無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来が位置し、世界(客体)と個体(主体)は同じものとなる。

 以上、第一から第三住心までが人類が共通してもつ思想段階であり、第四住心の認識論から、因果論、唯識論へと展開し、第七住心で相対矛盾を超える立場を説き、第八住心で主体と客体の同一性、第九住心で一即多・多即一を説く(本論考、冒頭の一節はこのことを喩える)。
 その全体は哲学的であり、特に第三住心に記されたインド哲学は多種で学術的である。精神と物質による二元論<サーンキヤ学派>、「結果は原因によって生じ、原因の中に結果のすべての条件がある」と説く因果論<ヴァールシャ説>、すべての存在は六種のカテゴリー(実体性・属性・運動性・普遍性・特殊性・内属性)によって説明できるとするカテゴリー論<ヴァイシェーシカ学派>、禁欲論<ニガンタ派>、唯物論<ローカーヤタ派>、宿命論<アージーヴィカ派>、不可知論<サンジャヤ派>などを空海は紹介している。
 これらの思想を踏まえたうえで、空海は仏教哲学全般の理解へと向かう。
 
 このように、空海の考察は多角的であり、第一住心の「自然世界」や「生物の世界」の章では、時代を越えたモダニズムの視点をもち、第十住心ではポスト・モダニズム的視野に到達する。つまり、近代科学的な自然観をもととした思想体系は、客観的な世界観から一旦、主観の有無の考察(小乗仏教思想)へと進み、抽象概念を具体とおき違える方向(大乗仏教思想)へと飛翔し、空海によって実在する絶対世界の大地<マンダラ>へと着地させられる。
 この思想段階がホワイトヘッドの思考プロセスに似ているのだ。
 ではどこがどう似ているのか、以下は、そのホワイトヘッドの主著となる『過程と実在』に記す「有機体の哲学」を読み解きながら、前述の空海の説く思想と比較してみたい。

Ⅲホワイトヘッドの『過程と実在』
 アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947)は、イギリスの数学者、哲学者である。1861年2月15日、イギリスのケント地方ラムズゲイトで生まれた。
 パブリックスクール卒業後、ケンブリッジ大学のトリニティ校に進学し、卒業後、同校の教官となり、数学を教えた。
 1910年から1913年にかけて、弟子のバートランド・ラッセル(1872-1970)と古典的な論理学の世界をまとめた「数学原論」を協同執筆する。
 1924年にアメリカのハーバード大学に招かれ、哲学教授になる。
 その哲学おいて、17世紀から現代へと引き継いだ機械論的自然観(つまり、近代科学)を、それらが「具体的な事態をしばしば誤った方向へ抽象化する」間違いを犯していると指摘した。そうして、機械論によっては自然をとらえることはできない、自然は有機体としてとらえなければならないとし、その有機体としての自然と人との間には、人間を超越する普遍的存在が深く関わっているとした。
 また、世界はモノではなく、一連の出来事として実在しているとした。

 それらの哲学をまとめたのが『過程と実在』である。
 その著作の中でホワイトヘッドは、世界で起きている諸事態を具体的にとらえるために、世界を構成するもっとも基本的な概念(例えば、実体、因果関係、量、質という類)を設定している。
 この設定をカテゴリー(範疇)というが、古今東西の哲学者たちの得意とするところであり、ギリシャ哲学のアリストテレスやインド哲学のヴァイシェーシカ学派はカテゴリーを存在の基本的なあり方と考え、カントは悟性の先天的概念と見た。また、科学の分野では論理的基礎となる観念(数学における数の観念、自然諸科学における因果律などの類)ともなる。
 では、ホワイトヘッドはどのようなカテゴリーの設定をしたのか、その中心を成す概念が「現実的実質」である。
 モノ・コトの実体とは固定的なものであるという観念を越えて、実体そのものを過程的に、あるいは出来事としてとらえることを現実的実質とホワイトヘッドは呼ぶ。そうして、そのような視点でとらえた世界は次のようなものであると定義付けた。
(1)実在する世界にあって、そこに存在するものすべては、その環境によって限定され、自らも限定する過程として現象しているものである。そうして、その過程として現象する一瞬の存在が過去となり、客体化することによって、それらが新しい与件となっていく。したがって、「過程」が客体化して「実在」となり、その「実在」が与件となって新しい「過程」を生む。
(2)過程と実在のすべては、アリストテレス哲学の「生成の分析」のように、「消滅の分析」として説くことができる。つまり、消滅して過去となった現象は、そのことによって客体化された実在として認知される。
(3)世界は、因と果を繰り返しながら生々流転している「現実的諸実質」(万象)を媒介にして、たえず自らを形成している有機体的全体である。
(4)上記のような世界においては、世界のうちのどれ一つをとっても、それだけで自存しているものはない。どれもみな、他のすべてのものとの関係なしには自存できない。
(5)物理的エネルギーの流れに、連続によってとらえる波動性と、非連続の粒子性があるように、過去・現在・未来へと連続する現象にも、それぞれに主体を成す非連続の個体が存在する。
(6)現実的実質は、どれもみな、物質面と精神面の両面性を具えていて、物質面は過去的なものによって因果的に限定され、精神面は未来的なものによって目的論的に限定される。このように現実的諸実質は、それぞれ自身の現実世界において、その世界に限定されながら、自らを限定するという仕方で、"多即一、一即多"的に自己形成作用に関わる。
(7)有機体としての自然と人の間に介在するものとして、人間を超越する普遍的存在「神*」を設定するならば、その普遍的存在は他の有限な現実的実質と異なって、決して消滅せず、そのつど生成しつつある現実的実質そのものに内在する永遠的存在者としての立場にある。つまり、永遠の主体であり、尚かつ客体でもある。
*ホワイトヘッドは神の概念として三つあげている。一、神は法であり、世界は法に適合する。二、神は特定の人格をもった個体的実在である。三、神はあらゆるものの中にあり、あらゆるものは神である。というようなことであるから、ここでの神は、キリスト教だけを指しているわけではない。

 以上のように、「現実的実質」の概念によってとらえられた世界は、「過程」から「実在」へ、「実在」からまた「過程」へとたえず移行しており、その移行している瞬間が「現実的実質」ということになる。
 この現実的実質として存在するモノ・コト<客体>の一瞬「過程」を、意識ある個体<主体>が物理的・精神的に感受する。その感受されたそれぞれの内容が、個体の中でイメージとして結合し、それが一つの経験となって記憶される。その経験が「実在」であり、「実在」は次なる現実的実質の与件となり、新たな「過程」となる。
 これらの現実的実質(色)と、それを個体が感受(受)することと、感受することによって個体に発生するイメージ(想)と、そのイメージによって記憶される経験(行)と、経験によって生じる知識(識)と、その知識という客体によってもたらされる、普遍的で永遠なる存在を象徴する「神」の概念、それらが、ホワイトヘッドの説く「存在のカテゴリー」の骨子である。

Ⅳ二人の思想の七つの接点
その1 自然と人の間の「神の存在」
 さて、前述したホワイトヘッドの哲学のうち、現実的実質の概念は、仏教の説く「因縁」によってとらえられるモノ・コトに似ており、空海の『十住心論』第五住心に記すところであり、また、物質面(客体/多)と精神面(主体/一)の両面性によって、その一と多がたがいに融け入って、自己形成作用に関わるといった論理は、空海の説く第九住心の「華厳経」の次元と同じである。
 この次元において、ホワイトヘッドは神の存在を認めるのであるが、その神とは、有機体としての自然と人の間に介在する普遍的存在を象徴するものであり、華厳経に説く、ビルシャナ仏と同じ類である。
 そうして、空海はその上の第十住心の中心に、いのちの無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来を置く。
 ホワイトヘッドの神は、前出の「存在のカテゴリー」概念の主体的形式(経験)の上の永遠的客体(普遍の知識、つまり真理)として設定されるものであり、有機体としての自然と人の間に介在する普遍的存在を指し示すものだから、神の概念をもって象徴する外はないとホワイトヘッドはいう。空海はそれを如来と呼ぶ。
 しかし、その神もまた一つの現実的実質であり、自らが与件となって、他の現実的実質の過程即実在として、世界の発展的な具体化に寄与する概念であるとホワイトヘッドはいう。
 その神と世界との関係を、ホワイトヘッドは以下のように定式化している。(『過程と実在』第5編第二章「神と世界」より)
(1)神が永続的で世界が流動的であるというのは、世界が永続的で神が流動的であるというのと同じであり、真実である。
(2)神が一で世界が多であるというのは、世界が一で神が多であるというのと同じであり、真実である。
(3)世界と比較して神が大いに現実的であるというのは、神と比較して世界が大いに現実的であるのと同じであり、真実である。
(4)世界が神に内在しているというのは、神が世界に内在しているというのと同じであり、真実である。
(5)神が世界を超越するというのは、世界が神を超越するということと同じであり、真実である。
(6)神が世界を創造するというのは、世界が神を創造するということと同じであり、真実である。
-であるけれども、神と世界とは単なる互換概念ではなく、世界がまず多であり、そうして一とみなされて行くのとは逆に、神ははじめから一であり、そうして多とみなされうるという規定された過程をもつと。

 因みに、以上の神の部分を大日如来と置き換えると、そのまま空海の説く、大日如来の理念となる。いのちの無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来は、はじめから一であり、そうして多である。

 このように神に言及したホワイトヘッドの哲学は、なるべくして、宗教をテーマとしていることになる。しかし、この神の概念は思弁の永遠的対象としてのプラトンのイデア*近いものであり、その存在は絶対神ではなく、現実的実質と呼ばれるものの自己創造と、その感受に、与件を提供するものとしての存在に過ぎないものであるとホワイトヘッドはいう。ではあるけれども、この神の概念なくして、有機体としての自然と人を結ぶ領域に、人間の思念を辿り着かせることができない代物なのだ。その永遠的対象となるために、神は必然的に存在させられることになった。
 そのような神として具現化されたものの一つが、大日如来である。
 いのちの無垢なる知の永遠の存在、大日如来によって、有機体としての自然のありのままのすがたが宇宙に現出することができる。そのありのままのすがたをもつ一員として、人間も存在していると空海は説く。
 *イデア:基(もと)となるすがた・かたち・現象などの意。プラトン哲学の中心概念で、感覚によってとらえられる世界の個々の背景にある、永遠不変に実在する原理・原型を指す。

その2 「素材」と「かたち」との関係
 ホワイトヘッドが敬愛し、その著作『過程と実在』の中で「西洋のすべての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」とまで言い切らせた、古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師)の自然哲学『ティマイオス』によれば、
(1)世界は質料(素材)と形相(かたち)、イデアと現象とに分けられる。
(2)世界のすがたは、デミウルゴス(創造者)が善の似すがたとして作った包括的なものであり、唯一のものである。
(3)世界の形状は球であり、球体こそが完全なかたちであり、世界は円運動によってうごいている。
(4)世界の構成する質料は、火・空気・水・土の四種類であり、それらは数に還元できる。
(5)デミウルゴスは、昼と夜の区別ができるように太陽を作った。その太陽の運行が人間に数や時間の知識を与えた。だから、時間の概念は、太陽の運行と深く結びついている。
(6)デミウルゴスは、世界に四種類の生きものを作った。神々(神と神に似せた人間)・空を飛ぶ鳥類・水中を泳ぐ魚類・陸上に生きるものたちである。
 と自然が定義付けされる。
 これらによって、世界は秩序と調和と美に満ちた有機体として存在しているのだという。

 この自然哲学、空海がその著『十住心論』巻第一の「自然世界」(前述済み)や巻第九の「華厳宗の至要」で説くところと同じである。ホワイトヘッドが論拠とするところの世界観も空海の世界観も、基本的には東西の人々が、古(いにしえ)から共通して認識している自然哲学から出発し、真理へと向かっているのだ。
 例えば、プラトンの自然哲学にも掲げられる物質の「素材」と「かたち」の関係について、空海は『十住心論』の第九住心の「華厳宗の至要」の「金(素材)獅子(かたち)章」の説において、次のように記している。
(一)素材とかたちが同一時にそなわり、一致している状態。
(二)素材とかたちが別々にあって、それぞれが独立して分離されている状態。
(三)かたちだけを見れば素材は隠れ、素材だけを見ればかたちは隠れる。もし双方を二つながらに見れば、かたちと素材は共に、顕われたり隠れたりする。このように一と多が、つまり、一つの素材と、どのようにでもなる多くのかたちが、条件によって顕われたり隠れたりしている状態。
(四)かたちが、部分と全体によって成立していて、それらが重なり合って、尽きることなく関係し、限りなく映じ合っているという状態。
(五)部分となる一つのかたちに全体の多くのかたちをおさめてしまえば、すべては部分だけになってしまうが、もしも、もろもろの部分と全体の多くのかたちが同時におさめあって、ことごとくをそなえるならば、一と多は互いに融け入っているという状態。
(六)全体のかたちの中の部分のかたちのそれぞれに、全体のかたちをおさめてしまえば、部分のかたちは、全体の部分のどれにでもなれる。これが一すなわち多、多すなわち一であるとする状態。
(七)以上のようにすべてのかたちが、あるいは隠れ、あるいは顕われ、または一、または多、純または雑、力の有る無し、これとそれ、主と従の輝き、原理と現象としてそれぞれが等しく現れ、みなことごとくが互いを容れあい、独立し、互いをさまたげない状態を、一すなわち多、多すなわち一、一または多が同時にある状態という。
(八)かたちは作られたものであって、一瞬ごとに生滅し、一瞬も中断することがない。これを分けて三つの時間とする。過去・現在・未来である。これらの三つの時間にもそれぞれに過去・現在・未来があるから、時(とき)には九つの位相があり、これをまとめて一単位の位相とする。それらの融合した一単位の位相や、隔離された位相の違いがあるにしても、かたちが成立し、融けあってさまたげなく、かたちが同じに見えても、時間的には一瞬である状態。
(九)素材とかたちとは、一方が隠れ、一方が顕われ、一であったり、多であったり、それ自体に実体はなく、(観察者によって)原理となったり、現象となってとらえられる。だからすべては、意識の対象としてしか存在していない状態。
(十)以上をもってしても、尚、かたちに実体はなく、素材は具体的に実体をあらわすということにこだわるのであれば、生存するための根幹をなす欲求、呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動を司る第八識に照らして、かたちと素材を相対的にとらえることに、もともとなんの必然性もないということをさとらなければならない。

 これは一例に過ぎないが、その分析は緻密であり、このような論理的思索を重ねた後に、空海の思想は、第十住心のいのちの無垢なる知によって直観的にしかとらえることができない、実在する自然の有機的で包括的な世界観(マンダラ)へと向かう。その世界の把握の仕方が、ホワイトヘッドの「抱握論*」と空海を結びつけるのだ。
*抱握論の抱握は、ホワイトヘッドによる造語。英語のapprehensionの「把握する」という意味から、接頭辞のapを取り去り、術語としてのprehensionを作りだした。認識を超越した包括的把握を示す。
 
 論理によっては、世界の本質に近づけない。それが空海とホワイトヘッドの共通した認識であった。そこで両者の考えたことの一つに「神」とか「如来」という媒体を創造し、それを人と自然・宇宙の間に介在させることであった。そのことはすでに説明した。
 その次に両者が考えたこと、それがホワイトヘッドの抱握論の「直観的判断」と空海の「四種マンダラ」なのである。

その3 「直観」理論と「マンダラ」
 抱握論の「直観的判断」とは何か、前出の「現実的実質」とそのカテゴリーについては説明済みだが、ホワイトヘッドの抱握論は次のように展開している。
 まず、人間が主観と客観という関係にもとづいて、意識に直接与えられた感覚諸与件を、知覚作用を通して関係づけることによって、モノ・コトを主観的にとらえることが「意識的知覚」であるとし、このことを「まず、一つの基底的な感受があり、そこから、主体に一連の感受の総体が生起する。次に、その生起した物理的感受から、知覚的と呼ばれる種類の命題的感受が生じる。意識的知覚とは、この知覚的感受と原生的な物理的感受とのコントラストによって生じる肯定と否定の感じである」とホワイトヘッドは述べている。
 なかなか難解な表現であるが、つまり、見る側が主観(主体)であり、見られる対象が客観(客体)である。その関係において、主体があらかじめ経験と知識によって得ている(客体としての)赤と青とか、音色とか、草花の香りとか、たべものの味、固い軟らかいを知覚を通して感じ取ると、そこに正と否、快と不快、好きと嫌いの意識が生じる。そのようなことを「意識的知覚」という。
 だが、この認識は表面的であり、知性をもつ人間の認識はもっと複雑であるとホワイトヘッドは論じる。では、もっと高度な認識方法とはどのようなものなのかを論じたのが以下の「直観的判断についての要約的分析」である。
(1)モノ・コトの物理的想起(過去の経験による想起ではなく、即物的な想起を指す)と、そのモノ・コトが象徴(シンボル)する表示(サイン)の感受。
(2)物理的想起の言語化による文脈的感受。
(3)言語化による文脈的感受とシンボルサイン的感受の統合により導きだされた想像(イマジネーション)的感受。
(4)イマジネーション的感受とシンボルサイン的感受との統合により導きだされた直観的判断作用。
 というものである。
この分析が、空海の説く「四種マンダラ」図の表現手法と見事に一致しているのだ。
(1)物理的想起のシンボルサイン的表現:「サンマヤマンダラ」
(2)上記の言語文脈的表現:「法マンダラ」
(3)言語文脈×シンボルサインによるイマジネーション的表現:「大マンダラ」
(4)イマジネーション×シンボルサインによる直観的判断作用:「カツママンダラ」
となる。
 <補注>
 ・「サンマヤ」とは、サンスクリット語のサマヤの音写語。個別的な現象の様相を示すシンボルを指す。
 ・「法」とは、宇宙存在の差別相は言語によって伝えられるから、広義の言語と解する。言語は単語と数量の概念を基本とするから、それらが意味の単位となり、その組み合わせによる文脈よって世界が表現される。
 ・「大」とは、六大(地・水・火・風・空・識)よりなる宇宙現象のことであり、その全体像は言語文脈とシンボルサインによってイマジネーションされる。
 ・「カルマ」とは、カルマンの音写語で、広義のはたらき、運動、作用を意味する。宇宙存在は止まることなく活動しているから、その様相はイマジネーションとシンボルサインによって直観的に判断されることを示す。

 ホワイトヘッドにとって、抱握論の「直観的判断」の手法は、あくまでも認識の哲学であったが、空海は、同じ手法で世界の本質を具体的に図示することになった。それが「マンダラ」なのだ。
 また、ホワイトヘッドの到達した認識の究極が「直観」というところがユニークであり、それによってしか、有機体としての自然や宇宙、それに神を認識できないという。
 それに対し、空海の到達した仏教的認識の究極も、実は「さとり」にあり、そのさとりによってしか、マンダラの示す世界の本質にアクセスできないというのも、ホワイトヘッドの説くところと同じということになる。

 さて、ホワイトヘッドの生きた19世紀の後半と20世紀の前半において、世界は近代ヨーロッパに生まれた機械論的自然観を脱皮し、有機体論的自然観をもととした科学へと向かい始めていた。その背景のもとに、彼のものの考え方も成立しており、対象とする事態を一連の出来事としてとらえ、その過程を実体として把握することを「現実的実質」と呼んだ。前にも述べたように、そのモノ・コトのとらえ方は仏教の説く「因縁論」に近く、また、「存在のカテゴリー」で分析された存在の認識要素は、仏教の「五蘊(ごうん)」に説く「色受想行識」に類似しており、哲学全体の主旨や論旨は「華厳宗」の心境の高みに立つものであった。そこからもう一段上がったところに空海の「密教」があるが、神的なものの存在肯定や、四種マンダラの表現手法が、ホワイトヘッドの説くところと同じであった。

 その両者による洞察の一致は、次に、人間の存在行為、自己の超越、創造性、生命の自由へと及ぶ。

その4 存在行為の根幹
 「手を挙げ、足をうごかすのは皆、秘密の印契(身体)、口を開き声を発するのはことごとくこれは真言(言語)、心を起こし念を動ずる(意味)のはことごとく妙なる観想である」と空海は説く。
 この「身体的行為」と「言語的行為(文脈・伝達)」と「意味的行為」の三つに、人間の存在行為の根幹(自己創造活動)があるというのが密教の教えの基本であり、ホワイトヘッドも人間の存在行為は三つの相から構成されると説く。
 一つ目が「原初相」である。身体的行為によってとらえられる反応であり、物理的であるから認識の対象は限定的であり、尚かつ、その対象は過去的なものによって因果的に限定されている。
 二つ目が「補完相」である。身体的行為によってとらえた体験を広義に意味での知性が補完する。つまり、因果的に限定された物理的体験を文脈や想像によって補い、自己創造活動を行なう。この活動によって、ある目的観念を未来に向かって実現するという仕方で、そこに物質と精神、両面の新しさが産みだされる。この活動を人間はその知性を司る言語によって行なう。
 三つ目が「満足相」である。過去的なものによって因果的に限定されながらも、未来的なものによって目的論的に限定されるという仕方で、人間は物質と精神、両面の自己実現を図るから、常に自己を超越したところで創造活動をしていることになる。だから、その自己超越されたところに達成感があり、満足がある。それが生きる意味であると。

その5 自己超越体としての自己
 ホワイトヘッド的にいえば、前述の三つの相によって構成された現実的実質は、その自己創造過程において、多を一へと統合していきながら、その実体を成し、自己を実現する。実現し終えると主体としての役わりは消滅し、後につづく現実的実質に与件として客体化されることになる。
 このことが、主体は常に自己を超越したものとしてとらえられるというホワイトヘッドの主張の論拠となる。
 "主体はそのままにして自己超越体である"この考え方は、空海の説く法身(ほっしん)と同じである。法身とは、いのちの無垢なる知によって形成される、自然界のありのままのすがたかたちを意味するが、今日の科学によれば、生命の存在そのものと、多様な種と、遺伝と、個体の四つのすがたでもある。
 それらの四つの法身によって主体(多即一)があるから、主体は生まれながらにすでに、自己を超越した存在(一即多)なのだというのが、空海の見解である。

その6 多と一と創造性
 そのように、空海のいう「法身」や、ホワイドヘッドのいう「自己超越体」としての主体が、互いに響きあって、自然の脈絡が構成されている。
 その自然の脈絡の中で成立した関係のネットワークは、特別の関係として個別化される一方、その個別は自然の脈絡という全体の中でのポジションを担ったものなのだ。
 その関係性によってとらえられものが「有機体としての自然」であるとホワイトヘッドは論じる。
 そこにあるのは環境という単一性と、その環境を構成している自然の多様性なのだ。
 この世界観とマンダラの構造とがそっくりなのである。
 そこにあるのは全体(大日如来)と、全体から生じる個々(菩薩・明王・天)であり、その個々のそれぞれに全体(大日如来)が宿り、全体を宿した個々がまた、全体を構成している。
 こうして、両者は「多即一、一即多」という創造性に着目する。
 ホワイトヘッドは創造性と多と一とを「究極的なもののカテゴリー」と呼び、この創造性こそがすべてを貫く純粋の活動であり、「すべての形相の背後にある究極的なもの」であると論じる。
 「形相に実体はない」という理論を紹介した空海も、その形相の背後にある創造性をしっかりととらえ、そこに実体があると唱える。そう、マンダラ図という形相の背後にあるのは、いのちの無垢なる知の永遠の存在を象徴する大日如来の「一がそのまま多、多がそのまま一である」というはたらきによる普遍の創造性なのである。

その7 生命の自由
 「生命は自由に向かっての努力である」とホワイトヘッドは記している。こうした努力は、人間の場合はその経験によって、過去の繰り返しを否定し、それを越えでて、未来に向かって自由に新しさを創造する意識によってもたらされるのだと。
 また、その意識は動物においても、その本能を越えでて認められるものであり、人間もその"因果的効果の様態(進化論×生存本能)における知覚"を、他のすべてのものと共有していると説く。
 まさしく、空海の説く"いのちの無垢なる知"
(一)生命そのものの存在を司る生命知<法界体性智(ほっかいたいしょうち)>
とその生命知を構成している知
(二)生きる根幹を為す呼吸・睡眠を司る生活知<大円鏡智(だいえんきょうち)>
(三)衣食住の生産とそれらの相互扶助を司る創造知<平等性智(びょうどうしょうち)>
(四)万象の観察・記憶・編集を司る学習知<妙観察智(みょうかんざっち)>
(五)運動・作業・所作・遊びを司る身体知<成所作智(じょうそさち)>
とを、人間は他のすべての生きとし生けるものと共有しているのだ。

 それらの事事無碍(じじむげ:原理を取っ払って「事」だけを見ても、さまたげ合うことなく溶け合っている状態。華厳思想では、現実世界をモノ・コトの「事」としてとらえ、その「事」の裏側ではたらいている原理を「理」という。この「事」と「理」が渾然一体となって、さまたげ合うことなく溶け合っている状態は理事無碍である)の法界(ほっかい:真理の現れとしての世界)にあって、"間違いのない秩序をもって、生命は自由へと向かう努力である"と、空海もホワイトヘッドもさとった。
 ここに、両者の思想の確かな接点がある。
 一方は東洋において華厳や密教思想と呼ばれ、もう一方は有機体の哲学と呼ばれる西洋のポスト・モダニズム思想が、同じところに辿り着いていたのだ。
 この合流点から、生命は新たな自由へと向かうー

Ⅴ二人の時代背景
 因みに、ホワイトヘッドの生きた近現代と、空海の生きた奈良末期から平安の初頭とでは、一千年の間がある。
 空海の時代とは、新興国としての日本が大陸からの文化を積極的に取り入れていたときであり、空海も唐に留学し、インドを源流とする最先端の文明を長安に見聞し、その多くの思想と技術を学んでいる。その状況はさながら、近代のモダニズムのごとき様相を呈していたように思う。
 その咲き開いていた思想は、彼の主著『十住心論』に説かれる通りである。
 それに対し、近代西洋文明の熟成期から転換期を生き、ポスト・モダニズムの思想を唱えたのがホワイトヘッドである。
 ホワイトヘッドの思想の普遍的な手引書となったプラトンの自然哲学『ティマイオス』は本文でも紹介したところだが、その次に、数学者でもあった彼が高く評価していたのが、ニュートン(1642-1727)の力学体系『自然哲学の数学的諸原理』(通称、プリンキピア。ガリレオやケプラーなどの先人により、すでに定量的に発見・研究されていた「物体の運動と力の関係」を数学的記述を用いて体系的にまとめた書)である。
 この二者の書物を、ホワイトヘッドは西洋的自然理解のための重要な文献とした。
 プラトンによれば、世界は創造者によって「統一」と「形相」と「秩序」を維持し、あらゆるものの美的、幾何学的概念を表わしていることになるが、そのことをニュートンの力学によって証明できるからである。
 また、ホワイトヘッドの時代は、ダーウィン(1809-1882)が唱えた「進化論」によって、それまでの宗教的世界像に劇的な衝撃が与えられた。
 すべての生物のかたちは、神が作ったのではなく、共通の祖先から、長い時間をかけて、自然選択というプロセスを通して、進化してきたというのである。それは、近代文明の発展によって、各地の大陸や島への探検が可能になり、地理別に異なる生物の種が発見された結果である。
 その極めて現実的で実質的なモノ・コトの時系列の克明な観察によって、真理を追究しようとする姿勢は、ホワイトヘッドの哲学にも見られ、そこに近代が現代へと移行する時代の息吹を感じ取ることができる。
 それと、ホワイトヘッドがほぼ同時代的に体験することになったのが、アインシュタイン(1879-1955)の「相対性理論」である。「光」や「重力」という作用主体が、「時間」と「空間」と「質量」に作用を及ぼしているという理論であり、すべての存在は、作用主体と作用との相対性によるから、絶対の場は宇宙には存在しないということになる。そう、すべての存在は「関係」と「プロセス」と「出来事」でしかないのである。
 そのような時代にあって、ホワイトヘッドはその哲学的思索を重ねていたのだ。
 そうして、その思索が辿り着いたところに空海がすでにいた。

まとめ
 前文において、「ホワイトヘッドの思想の辿り着いたところに空海がすでにいた」としたが、では、その合流したところで、二人の思想はどのような接点をもっていたのか、もう一度、確認すると、
1、世界には、自然と人の間に介在する永遠的なるものがある。(それをプラトンは「イデア」といい、ホワイトヘッドは「神」といい、空海は「如来」とした)
2、「素材」と「かたち」は、存在の関係を考察するうえでの不変のテーマとなる。
3、「直観」の中にこそ真理があり、その直観を構成しているのは「シンボル・イメージ・単位(言語と数量)・作用」の四つである。
4、存在行為の根幹とは、「身体的行為」と「言語的行為(文脈・伝達)」と「意味的行為」の三つである。
5、自己は自己を超越した存在である。
6、環境という単一性と、その環境を構成している自然の多様性に見られるように、「多即一、一即多」の関係性の中に、すべての創造性がある。
7、生命の自由とは、自然の秩序に守られたありのままの法則にしたがう自由である。
ということになる。

 空海とホワイトヘッドは、それらの思想的接点を基点として、有機体的自然の前に立っていたのだ。
 そこは、エコロジカルな世界を目指す、わたくしたちの文明の起点でもある。

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