昨年の『週刊新潮』(2014.11.13)に、仏教に「葬式」も「墓」もない!終活なんてしなくていい!というセンセーショナルな見出しの<特別読物>が掲載されていた。執筆者はひろさちや氏である。
記事のキャプションにはこうある。
「巷では『終活セミナー』が大盛況、テレビや雑誌も『エンディングノート』に『霊園ツアー』とやたら喧しい。だが、仏教の見地からすると、これらは無用の長物なのである。600冊を超える宗教関連著作があるひろさちや氏が昨今の"終活ブーム"を喝破する。」
「終活」進行中に、「終活なんておやめなさい」といわれていきなり水を掛けられたような気分になった。しかし記事を読んでみると、この著名な評論仏教作家の主題は「終活」ではなく「葬式仏教」の批判であることがわかった。
まず今流行の「終活」で世間の注目を集め、その実テーマとは異なる方向に誘導する。しかし読者はキャプションが そうであるように、ひろさちや氏が昨今の"終活ブーム"を喝破すると、内容が「終活」だと思うだろう。
そうではない。氏の真の狙いは葬式仏教の喝破なのである。否、日本仏教の告発である。まずは"終活ブーム"のタイトルで世間の耳目を集め、ひとヒネリして「葬式仏教」を指弾する。「終活」の名を利用したその手口に何とも不快なものを感じた。
◆葬式仏教はいらない?
週刊誌のこの<特別読物>は、氏の著書『終活なんておやめなさい』(青春新書2014・6・1)の要旨である。なぜ「おやめなさい」なのか、本書を読んでみた。まず章立てを紹介する。
1章 遺言は無用
2章 葬式は思案無用
3章 墓、墓参りはお悩み無用
4章 戒名こそ無用
5章 釈迦が教える供養とは
6章 真の終活とは何か
7章 最期を明らめてこそ生が輝く
1章から5章までは「終活」をひたすら死後の準備と見て、死後に関する遺言・葬式・墓・戒名・供養のようなものは一切無用だというものだが、章立てを見ただけでも「終活」自体を論じていないことが知れるだろう。せめて6章の「真の終活とは何か」を期待して読んだがタイトルだけで中身はほとんどない。
ことさらかようにこの本の狙いは「終活」ではなく、「葬式仏教」を告発指弾することであって、内容はまさに檀家寺が廃業せざるを得ないような内容である。かつてもベストセラー『葬式は、要らない』で社会に話題をまき散らし、あげくオウム真理教に騙されたノータリンの宗教学者がいたが、ひろさちや氏も同様に、葬式も、墓も、戒名も、位牌も、年忌法要もすべていらないという。それらは仏教とは関係なく、坊さんが懐を潤すために庶民に押しつけてきた風習に過ぎないというのである。
「終活」を死後の準備としか考えない氏は、死後のことは仏が一切面倒をみてくださるから、何も心配することはない。死んだあとのことを考えず、今の楽しい人生を生きることが本当の「終活」だという。(「はじめに」p.5)。
今の楽しい人生を生きることが「終活」だというのはその通りである。だが、いずれやってくる老後の「今」を楽しく生きるにはどのような備えをしておくか、これを考えることこそが「終活」なのである。何もしなくてもハッピーな老後が約束されているのなら、人生これほどラクなことはない。
「善因善果」の本来の意味は「善因楽果」であるように、「楽しい果(今)」は因縁生起するものである。だが、「因」と「縁」を素っ飛ばして「果」を説くような気楽な「終活論」に、読者は老後の準備から一瞬解放されたような気分になるだろう。しかし人生はいつも棚ぼたではないのだ。にもかかわらず、氏が実際の「終活」を止めさせようとするのは別の意図があり、それは「葬式仏教」の排斥なのである。
だから2章 葬式は思案無用の第一項「オレの葬式はオレが決める」の大間違い(p.36)では次のように述べる。
終活の大きなテーマになるのが「葬式」でしょう。終活は自分の死を想定して行うものですから、死後のもっとも大きなイベントである葬式については、ひとこともふたことも言い残しておかなければいけないと、考えるわけです。
と始まり、自分の葬式は自分ではできないから
終活に躍起になって、こまかな葬式の段取りを言い残しておいても、その通りにおこなわれるかどうかたしかめるすべはありません。(略)さあ、「オレの葬式」という発想をすっぱり捨て、葬式のことなど打っちゃっておいて、気楽に死んでいきましょうよ。(p.39)
と落とす。そして「葬式は、したくなきゃしなくていい」の項では「お釈迦様は弟子たちに対して、葬式などにかかわるな、とおっしゃった」とか、「望まなければやらなくてもいいという原則は、お釈迦様のお墨付きなのです」だとかいう。また「香典は大正期からの間違った習わし」の項では、現在の香典の習慣も歴史的正統性に欠けるものであるから不合理である。よって、
葬式を止めてしまったら、香典の問題も一挙に解決がつく、思い切って、「わが葬式すべからず」と言い残すのもいい、それも立派な終活といえますね。(p.45-47)
というように、「終活」の意味をあくまで死後準備に絞り込む。彼の主張の結論は、「終活」(葬儀)などとじたばた騒がなくても、死ねばみんな「お浄土」に往くのだから、このことを信じて今を楽しく生きましょうというもので、それが釈迦の教えだと説く。つまり「お浄土」を信じることが釈迦仏教であるというのだ。
これは嘘である。葬式仏教を否定する論拠に、氏が釈迦と浄土論を引用しているのであえて反論する。釈尊は「信」、「不信」にかかわらず、厳然と存在するこの世の理法、つまり普遍的真実を説かれたのである。
「信」を釈迦の教えだと理解したのは、鎌倉新仏教の浄土真宗(親鸞)である。これは信仰という「主観的真実」のことである。そこで説かれる「お浄土」とは共同幻想の世界に過ぎない。つまり認識論である。釈尊が説かれたのは存在論である。これが「縁起の理法」といわれる普遍的真実であり仏教の原理である。
縁起の理法を一言でいえば、「すべての存在は関係で成り立っている」ということだ。縁起は、「関係が存在を生み出す」という真理であり「存在が関係を生み出す」という西洋的な見方とは逆である。釈尊は「存在があって関係が生まれる」という一神教世界の前提をひっくり返した。釈尊の悟りの正しさは、後に、現代の数学や物理学が証明するところとなった。数学でいうと不完全性定理が成功した後、また物理学でいうと量子力学が成功した後の、現代の数学や物理学、哲学においては、「存在の確定性はない」ということが証明されているからだ。釈尊は真理を説かれた。これが釈迦の教えである。
一方、ひろさちや氏は浄土論から「終活」を無意味だと論じているのだ。この本の最終章で「お浄土」を信じることですべてが解決するとあるというように、要するに自分の信仰にすぎず、イワシの頭も信心からなのである。一神教の絶対的信仰にも似て、「南無阿弥陀仏」の念仏他力でアタマを他者(阿弥陀仏)に白紙委任するのであれば一種の思考停止である。
7章 最期を明らめてこそ生が輝くの一項「自分のなかにお浄土を」p.174)でもそのように主張している。氏は、私は浄土宗の人間だから阿弥陀仏のお浄土を信じている(p.130)、と自己開示しているから、きっと法然や親鸞の信奉者なのであろう。であればこの著書の主張の根幹は、浄土宗や浄土真宗という一部の宗派思想ということになる。氏は別なところでは自分を「仏教原理主義者」だといっているので、仏教学者としての学術的な立場なのか、単なる浄土教信者の信念なのか、執筆スタンスが曖昧である。(実はうまく使い分けている)
とはいえ、葬式否定論者の宗教学者島田裕巳氏も、ひろさちや氏も、東京大学大学院出身のアカデミックな人である。わけてもひろさちや氏は東大の印度哲学科から博士課程まで修了した仏教専門の学識者である。おそらく読者の多くは、著者の経歴からエライ仏教学者の先生が断言することだからすべて真っ当な意見だと思うだろう。
氏の豊富な知識の裏づけと、簡明で論理的(のように見える)で平易な語り口におそらく目からウロコであろう。特に仏教を知らない若い人はイチコロである。「葬式仏教」と揶揄される檀家寺のなまなかな反論は一見みごとに封じられているからだ。特にこれから僧職に就こうとしている若い僧侶は、自己の職業的アイデンティティーが迷走しそうな内容である。
ところでなぜ葬式や墓は無用だというのか。この根拠を、氏は葬式にかかる高額な料金と、仏教原理に反するという二点におく。前者は単に「経済的問題」であり、後者は「葬式仏教」の「歴史的な問題」である。ここから要するに、葬式は仏教とは無縁であり、寺の経済的事情から生まれた商業活動にすぎないと論証するのである。
それであるときお坊さんに「葬式なんかやめなさい」と進言したそうである。するとお坊さんは「先生、葬式をやめたら、食っていけなくなります」といったそうだ。これが実情だ、食うために葬式をやっているのだと寺の本音?を暴露する。(p.42)
氏は本来人間の生き方を教えてくれるはずの仏教が、「生き方」はそっちのけにして、死者の面倒ばかり見る葬式稼業になってしまったと憤慨する。そうなった歴史的経緯を、儒教の思想やカミとホトケの日本固有の思想などを織り交ぜて、豊富な知識(というよりも雑学)を披瀝しながら説く。特に「葬式仏教」となった歴史的理由を、江戸幕府の「寺請け制度」から力説している。葬式は真の仏教とは無縁であることを証明するためである。
「寺請け制度」とはキリシタン禁教政策として江戸幕府が設けた制度である。庶民は自分がキリシタンではない証拠に「寺請証文」を寺院から受け、寺院に身許を証明してもらう。このとき江戸幕府が「葬儀は寺が行うべし」という通達を出したために、必然的に庶民は寺請けをしてもらう寺院の檀家となった。それで「檀家制度」といわれることもある。
氏はこれによって寺は自ら信者を獲得するための布教活動をすることもなく、檀家に対して絶大な権力を持ち、檀家は寺のいいなりになるしかなかったという。
かくして寺はこれまで出家者に限られていた葬儀の様式を庶民にまで広げ、同じように戒名や位牌や年忌法要などという大ペテンを「お仕着せた」という。そして新たな収入源を確保したのだと解説している。(「お盆はホトケを迎える神道行事」・「檀家は江戸幕府の苦肉の策」・「戒名という大ペテン」・「位牌は儒教の産物」p.100-112)
つまり寺は本来の任務(人の生き方を教えることだといいたいのだろうが)を忘れ、江戸幕府とともに庶民に葬式を押しつけて、葬式業者になったということである。
普通の人が読めば、これまで当たり前だと思ってきた法事は、ただ寺の「金づる」であったのか、何とバカバカしいことだと思うだろう。今後、わが国は仏式の葬儀離れをおこし、寺の仕事はますます廃れていくしかない内容である。何しろ
ご先祖様の年忌法要を真面目にやっている人たちは、江戸時代以降の歴史のなかで語られてきた、お坊さんたちの三百代言の口車に乗ってしまっている、といってもいい。もし、終活をするなら『頼むから、年忌法要はしないでくれ』と言い残してください。それこそ、まっとうな世の中にするための価値ある『遺言』というものでしょう。」(p.89強調文字ママ)
というのだ。年忌法要は「まっとうな世の中」のためにならないのである。世のお坊さんたちはこの言葉をしっかりと胸に刻んで、今後は年忌法要なんか止めて真っ当な世直しに励め・・・?ということか。
では、法要を止めて真っ当な世の為にはどうするのか。氏は煩悩の火を消すことだという。それ自体に異論はない。では煩悩を消すにはどうすべきか、それは執着心から離れることだという。これも異論はない。何か議論が飛躍していると思うかもしれないが、これは氏が葬式を煩悩のなせる業だと主張するからこうなるのである。
だが、葬式や法要を死後に対する執着=煩悩だと決めつける考え方には反論がある。死後のことは仏が一切面倒をみてくださると思うことで死後に安心を求めるなら、これは信仰という一つの方便である。ならば葬式や法要も、死にゆく者や遺族の安心のためのコンテンツであろう。葬式をやることが煩悩や執着だというのなら、死後は阿弥陀様が一切面倒見てくれると信じて安堵することも死後世界への執着=煩悩ということにならないか。
しかしこの辺の問題は飛ばして、例えば「火土葬」についての薀蓄の披露に話題を変える。氏は現在日本で行われている「火土葬」は仏教の理にかなうものではなく、単なる習慣に過ぎないということを埋葬の本来の意味から説き明かす。つまり自分の提示した執着という問題を掘り下げないで、雑学的な知識で問題を拡散しながら主張に付会するような説き方をする。
墓の第一義的な役割は死体を処理する場所というところにあった。だから死体を埋めた盛り土の上に重い石を置いて、化けて出てこられないように封じ込めた。そこには死者に対する恐怖があり、恐怖の源が墓の起源であるという。しかし火葬するようになって、イメージは一変し「マイリ墓」となる墓の歴史的な変遷などを織り込んで説く。(「墓・墓参りの起源 」p.60-63)
つまり、日本でおこなわれているのは「火土葬」と呼ぶべき奇妙な葬り方、死体処理法なのです。(p.81)
というように、埋葬を死者儀礼という文化からではなく、死体処理という即物的観点から説く。だからそんな死体処理(葬式)を立派なものにするとか、年忌法要などする必要はない。従って「頼むから、年忌法要はしないでくれ」と言い残すことが、「まっとうな世」にするための価値ある「遺言」であると説得するのである。
では「まっとうな世」の死体処理とは一体どのようなものか。氏は安上りの「直葬」や「散骨」を薦める。葬儀にかかる費用は全国平均で199万9000円、東京都、神奈川県、埼玉県の関東では平均222万円となっているそうである。「直送」であれば、17万~35万円くらいで済み、「終活」で葬儀費用の捻出に頭を悩ますこともないと、葬儀を今度は消費者の損得感覚から説く。「斎場を借り、飲食を供し、お坊さんにお布施をすることに多額の金を使うなど、愚の骨頂というしかありません」という。それはただ世間の風潮にながされている見栄だというのだ。(p.44)
見栄だろうがなんだろうが、やりたい人がやっていることだから余計な口出しこそ不要ではないか。金がなければ質素にするだけのことだ。それとも多額の葬儀費用の借金苦のために夜逃げでもした遺族がいるとでもいうのか?もしあとで葬儀社から予想以上の請求書がくるといいたいのなら、予め予算を提示して、予算内でやってくれといえばいいだけのことである。信用できないのなら二社以上から見積もりを出させて比較するなど、具体的なアドバイスでもすればいいものを、そういう話は一切ない。
博学な氏からすれば、庶民の葬式が仏教の理に合わない間抜けな行為に思えるのだろうが、だから葬儀に金を使うことは愚の骨頂だの、世間の風潮に流されている見栄だのといって無知な世間を啓発しているつもりかもしれぬ。
最近は「家族葬」が多くなっているそうだ。その背景には、無宗教・低価格・家族以外を呼ばないことなど、葬儀を式典や礼節をもって考えるというよりも、消費行動としてとらえている感がある。そして最も「安上り」にしたのが「直送」である。
そんな世の中の風潮に迎合するかのように、氏もまた「直送」を勧める。さらに火葬場のカマ(火葬炉)の温度をもっと上げて死体が跡形もなく燃え尽きるような方法までを提案している。そうすれば骨を拾うこともない。骨が残らなければ、墓も必要なくなる。その方が火葬場も手がかからないという(p.81)。現代人の求める利便性と損得勘定をくすぐる手早い死体処理への誘導である。
売れっ子作家というものは機を見るに敏である。戦後親鸞の人気が高まれば親鸞を書くし、「終活」が話題になれば「終活」をテーマにするのである。世の中が葬儀の簡便化に傾けば葬儀の無意味性を説いて俗情に寄り添う。
以前、外資の葬儀社が誕生して「黒船到来」といわれたことがあった。完全欧米型の葬儀の魅力は「安さ」で、その葬儀の形は火葬だけのお別れスタイルだ。日本人が大切にしてきたものをすべて削ぎ取ってしまったようなもので、結局根づかなかったそうだが、「安さ」を強調する氏も、私には「ミニ黒船」に見えてくる。
はて、これが本当に仏教者の考えることなのだろうか。檀家寺の反論は氏にとって家業防衛の弁解にしか聞こえないだろう。しかし私のような葬式事業と無縁の一社会人としても、氏の主張には大いに疑義がある。疑義を一言で言うと、「まっとうな?仏教」を啓発しようとする氏の仏教思想こそが、まさに「まっとうではない」ということである。
釈迦の原始仏教と日本の葬式が関係ないことは、今日仏教に少し詳しい者ならだれでも知っている。いろいろな文化や習慣の混交であることも先刻承知である。だからといって、葬式や法要を唯物的観点(死体処理)や「歴史的観点」から異を唱えて弾劾するようなことはしない。
氏は「年忌法要自体の『出自』が、仏教や儒教、神道などをごちゃまぜにした正統性を欠いたものだ」(p.89)というが、ではいったい正統性とは何か?氏の論法では日本人は葬式も法要も一切取りやめることが正統性(仏教原理)にかなうことになる。現にそういっている。(「墓は仏陀だけがつくればいい」p.75)。
庶民が葬式を出して墓を供養するのは、日本社会では祖先供養の習俗として根づいており、これまで庶民が受け入れてきた日本独特の仏教文化の一つになっているのだ。氏は隠れキリシタンを炙り出すために、江戸幕府が村人を監視する警察官の役目を全国の檀家寺に担わせたというが、特に私がいいたいのは、氏が仏教史を功罪偏りなく論じてはいないことである。仏教学者であれば特定の歴史的事象だけでなく、仏教がわが国に果たしてきた総合的な視点から説いたらどうか。
◆檀家寺のもう一つの役割
寺が庶民の監視機関だとしても、寺はそれだけでなかった。檀家寺の住職は檀家に「仏法」を説いていた。いわゆる「法話」である。そもそも江戸時代まで「仏教」などという言葉はない。それは明治時代にヨーロッパから入ってきたブッディズムの翻訳語である。それまで日本人は釈尊の教えを「仏法」または「仏道」といっていた。庶民は檀家制度のお蔭で「仏の道」を聴くことができたのだ。それは仏の倫理観を基盤にした「人の道」でもあった。
江戸時代は人口36人に一寺という割合で全国各地に寺が存在したそうだ。ために、寺やお坊さんは村人にとって身近なものであった。寺は村に融け込み、村の役場であり集会所であり信仰の拠点でもあった。今流にいえばコミュニティーの中心であった。
当時、僧侶は村一番の学識者であり、教育者でもあった。庶民は敬意と信頼と親近感を持って村の「和尚さん」に接していたのだ。特定の教団宗教とは異なり、全国的に仏教と庶民を取り結んだのは檀家制度であったといえる。
情報や交通が現代ほど発達していない時代、檀家を持たず、葬式もしない高野山が全国的な信仰の寺となったのは、直接的には末寺の檀家寺に負うところが多かったはずである。葬式を檀家寺が行うことで庶民はその宗派の本山詣でにも目覚めたはずだ。
信濃の善光寺も檀家をもたない信仰寺である。南都六宗の寺(薬師寺・興福寺・東大寺など)や京都の清水寺など、この系統の信仰寺院が現代なお全国に存在してきた背景には、庶民の信仰心の支えなしにはありえまい。
氏は逆に、南都六宗寺ではいっさい葬式は執り行っていないと実例を示して、葬式は本来仏教者のやるべきことではないという(p.42)。だが、庶民から遠いそのような学問寺や修行寺も、檀家寺との接触よって身近くなったはずである。善光寺参り、お伊勢参り、金毘羅参り、熊野詣、というように、全国的に日本人が神仏を尊ぶ心を育んだのは、直接的には地元の檀家寺や近隣の寺社参りからであろう。
だから近世は西国や坂東を代表する各地の「観音霊場巡り」や「四国八十八か所霊場巡り」などにも盛んに庶民が参加した。神仏への尊崇の心を育てたのは、全国津々浦々にあった檀家寺の役割を無視できないだろうと私はいいたいのだ。これらは別に幕府が命令したわけではない。
日ごろ神社やお寺の境内で遊ぶ子どもたちには、幼いころからお地蔵様や観音様などに慣れ親しむ心が素朴に育っていた。神仏を拝む心が自然にはぐくまれていたと思う。どこかの教団に入信して改めて宗旨教学を学んだわけではない。ただ家の法事に親たちと共に参加をし、お寺の和尚さんの法話を聴くために親について行っていただけである。神仏を尊ぶ心は、日本人が自然を敬うのと同様におのずとゆるやかに育っていたのだ。つまり檀家寺は歴史的に見ても、仏教の本来の任務(人の生き方)を放棄してきたわけではない。
しかも日本の檀家寺は決して中国や旧ソ連にあるような、庶民弾圧の警察的監視機関であったわけでもない。庶民はもっとのびのびと暮らしていた。そういう日本の仏教文化があったことを無視してはいけない。
このような文化風土の中で、幕末日本を訪れた欧米人が驚嘆したように、正直で協調性があって優しく道徳性の高い日本人が育っていたのである。私はその背景には武家社会の儒教的モラルと、全国くまなく張り巡らされた人間教育機関(檀家制度)があったと思っている
戦後の進歩的知識人は、江戸時代は封建制度と士農工商という厳しい身分制度があり、庶民は幕府の監視と租税に苦しんでいたかのような偏った歴史を語ろうとする。しかし、庶民は自由も人権もない惨めな生活にあえいでいたわけではない。江戸時代の二百数十年は、世界的にも稀有な平和な時代で、庶民の識字率は世界一高く、物流、経済など、庶民社会が高度に成熟した時代であったことを忘れてはならない。
◆仏教国日本と日本人の実態
幕末から明治にかけてこの島国に多くの欧米人が来た。彼らはアジア各地に寄港しながら長い航海の後日本にまでやってきて、日本人は何故こうも他のアジアの人と違うのかと、その精神文化の高さに驚いている。そして新鮮な目で日本を見つめた多くの書物を残している。
渡辺京二氏の労作『逝きし世の面影』から藤原正彦氏も『日本人の誇り』でいくつか引用している。例えば、日米修好通商条約の締結のために訪日した外交官のタウンゼント・ハリスは、欧米の文化が日本の文化を破壊するだろうという危惧を抱いてこう日記に記している。
「この国の人々の質素な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国の豊さを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」。
また同時期来日したエルギン卿の秘書オリファントは「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」と記した。自由なくして幸福なし、という西洋の絶対基準が染み込んでいるオリファントは、身分制度による自由の制限された日本人が、かくも幸福そうであるという事実が信じられなかったのだ。カルチャー・ショックを受けたのであろう。
欧米では一般に幸福とは富裕であることを意味し、貧しいことは不幸なことであると考える。しかし訪日した欧米人の見た日本人は、ほぼ共通して「人々は貧しい、しかし幸福そうだ」ということである。だから明治十年に東大のお雇い教授となり大森貝塚を発見したアメリカ人のモースも「貧乏人は存在するが、貧困は存在しない」といったのだ。
翻って、戦後欧米文化を取り入れてきた今日、人権の名の下に、働かなくても生活保護を受けられるようになった。現代は江戸時代のような貧乏人は存在しない。しかし物質文明と経済生活に追い立てられるストレス社会では、年間3万人前後が自殺する。つまり「貧乏人は存在しないが、貧困が存在する」のである。
本当の貧困とは何か?本当の幸福とは何か?仏教を忘れた現代人は江戸時代の人に尋ねるがいい。江戸時代も日本人はこれほど自殺が多かったかと。
明治6年に来日した屈指の日本研究者イギリス人のバジル・チェンバレンは、38年間を日本で暮らしてこのようにいっている。「この国のあらゆる社会階級は社会的に比較的平等である。金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。・・・ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透しているのである」
このように、彼ら欧米の刻んできた身分制度と格差社会が、日本のそれと質的に全く異なっていることを述べている。
明治20年に来日したイギリス人の詩人エドウィン・アーノルドは「日本には礼節によって生活を楽しいものにするという、普遍的な社会契約が存在する」と語った。これは暗黙の社会契約のことである。言い換えれば人間同士が基本的に信じあえるということだ。長屋の障子戸が開けっ放しになっていても、引き出しが開けっ放しになっていても平気な庶民社会に目を剥いた外国人もいたそうだ。
もちろん褒め言葉だけではない、ペリー艦隊のある通訳は、銭湯での混浴や町で普通に売られている春画を見て、この国は淫らで暗愚で頽廃している、神の真理の恵みの光りを・・・と日記に書いた。初代駐日領事のハリスも、初めはそのような不快を感じたようだが、後にある温泉を訪れた彼は、風呂の中で白く美しい肌をした女性から何の戸惑いもない明るい声で「オハヨー」といわれて考えを改めたそうである。
いずれにしろ本国へのこのような報告は無数にある。基本的に他人を信用しない欧米人のまさに逆の社会が、日本という極東の島国に現存したのである。これは社会の構成員がよほど道徳的に成熟していなければ成り立たないものである。
そのような国民性を育てたのは仏教である。基本的に悪人はいない、人はみな「仏性」を蔵しているという「如来蔵」の思想(性善説)が庶民にまで浸潤していたからだと考えられる。私はかつて二度ほど貴重品の入ったセカンドバッグをデパートのトイレの棚に置き忘れて青くなったことがあった。しかし二度とも誰かがインフォメーションセンターに届けていてくれた。子どもでも財布を拾えば交番に届けるように、日本人は本質的に正直なのである。財布を拾えば神に感謝するような国ではまず考えられないことである。
インドのデカン大学の学長をした、前述の57歳の詩人は、さらにこうまでいった。「地上で天国、極楽にもっとも近づいている国だ・・・その風景は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼節正しさは、謙遜ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」。
ここまでいわれるといささか褒めすぎの気もするが、幕末から明治にかけて来日した実に多くの人々が、程度の差こそあれ類似の観察をしているのである。そして多くの見聞録にはおびただしい日本賛辞が残されていると藤原正彦氏は語る。
世界の封建制度とは、おしなべて専制君主や領主、貴族などが人民を制圧下におき農民を農奴のごとくこき使い、搾り取れるだけ搾り取るというものだった。国民のほとんどを占める農民は字もロクに読めず、いかなる希望も持てず、どん底を這いずりまわっていた。彼らの封建制度と日本の封建制度は似ても似つかぬものであった。
このような日本人の高度な治世と気高い国民精神を、特にアメリカは先の大戦を通して骨の髄まで知ったのである。自分たちにはありえない国民性を恐れたアメリカが、戦後日本人の精神を完膚なきまでに破壊してきた。日本人を劣化させ、米国の正義と価値観に従わせるための自虐史観と贖罪意識を刷り込んだのである(ウォーギルト・インフォメーション・プロブラム)。その結果、胸を張って祖国を誇れる日本人は少なくなり、戦後は卑屈な小市民の群れ集う自虐国家となった。
自国に誇りをもてない国民が自己を肯定できるわけがない。諸外国と比較しても日本の自己肯定感の低さは目立っている。2014年版「子ども・若者白書」に、世界七カ国の若者を対象に自己認識について尋ねた調査結果がある。「自分自身に満足している」と回答した若者の割合は、米国が一番髙く86%、6位の韓国でも76%だったのに対し、日本は46%と極端に低かった。
それでも今日、ときどき世界が驚嘆する日本精神が顔をのぞかせる。大災害のときなど、整然と協力し合う日本人の姿に世界は瞠目する。他国のように民衆の暴動や奪略が起きないからだ。
3・11の大震災で東京の交通機関がマヒしたとき、ある在日のドイツ人が「日本人はまるで軍隊の様だ」といった。国民が一斉にやるべきことをやるからだ。やるべきこととは「助け合う」ことである。遠距離を徒歩で帰宅する通勤者に沿道の民家がトイレを提供したり、パン屋はパンを焼いで無料で配り、ある家は飲み物を配ったり、喫茶店は無料休憩所となる。誰に強制されたわけでもない。暴動ひとつ発生しないで大都会が一つの目的に沿って整然と行動する。この日本人の洗練された資質は一朝一夕で育つものではない。
このDNAはどのようにして引き継がれたのか。私は日本仏教の影響を無視してはならないと思う。日本人は困ったときはお互い様の精神があるが、それもこの世の存在や現象は一つにつながっているという関係性の真理(仏法)を学んだからだ。だから他人の苦労は「明日は我が身」と感じるのである。6世紀に仏教を国教としたことにより、庶民までもが衆生救済の大乗精神を無意識に育てていたのである。ドイツ人に軍隊のように見えたのは、現代人にかすかに残る民族的DNAの発露を見たのである。
歴史的にこのような道徳性の高い優しい国柄にしたのは、仏法を説いてきた日本の僧侶たちの功績があるはずだが、ひろさちや氏はその僧侶をして、庶民を監視する「道徳取締官」だの、「三百代言」としかいわないのだから、あまりにも偏った見方ではないだろうか。
◆仏教を真面目に学んだ日本人
日本の支配者は、仏教を国教としたときから釈尊の精神を真面目に受け継いできた。それは聖徳太子の学んだ大乗仏教の精神に現れている。一般に仏教の慈悲を「抜苦与楽」の心の問題だと思いがちだがそれだけではない。実は社会福祉が同時に始まっていたのである。
日本における最初の公的な医療機関を、江戸時代の「小石川療養所」と答える人が多いが、そうではない。日本における公立病院はなんと飛鳥時代に始まっている。
聖徳太子は日本に仏教を広めようと自ら深く仏に帰依し、まず今の大阪市の天王寺区に四天王寺を建立された。四天王寺には「四箇院」を設置した。「四箇院」とは、「敬田院」、「施薬院」、「療病院」、「悲田院」の四つである。いずれも医療や老人や弱者の介護を中心とした庶民救済施設で、今日でいう医療福祉施設である。これが記録に残る公立病院の第一号である。
四天王寺は『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたというから、国営の病院施設もすでに着工されていたことになる。仏教伝来が538年(『日本書紀』では552年)だから、仏教思想とともに日本の医療福祉の思想は始まったといえる。仏教の慈悲に基づいて、日本で最初の国営病院が1400年以上も前に設立されていたという事実は実に驚くべきことである。
それは太子が釈尊の教えを真面目に学んで実行したからである。釈尊は「修行者よ、我に仕えようと思うものは、病者を看護せよ」(『阿含経』)といわれた。釈尊の教えにもともと医療福祉の思想があったから、太子もその教えを忠実に守ったのだ。
釈尊がもっとも多く説法された場所が祇園精舎である。釈尊はその一角に「無常院」「仏示病院」「聖人病院」という医療施設を建てられた。そこに看病比丘、看病比丘尼という男女の僧侶をおかれて、病人の看護に当たらせた。もともと釈尊は釈迦国の王子だったから、幼いころから帝王学として「医方明」というインドの伝統的な医学を学んでいた。だから別名「医王」ともいわれる。
だから、「無常院」などでは身体的な治療(フィジカル・ケア)をした。同時に心の治療(メンタル・ケア)もした。現代の医療現場では欧米の心理学にもとづくメンタル・ケアが施されるが、すでにそういうこともやっていた。僧院は心身の安らぎの場でもあったのだ。そして「重病閣」「涅槃堂」などは最期のターミナル・ケアの場所であった。これらは仏教を基盤とした終末期医療とその施設であり、原始釈迦仏教のいわゆる「ビハーラ」の精神を聖徳太子も受け継いだのである。
奈良時代には興福寺に「施薬院」「悲田院」がおかれ、法隆寺には「療病院」「敬田院」などが建てられてそこで病人が手厚く看護されたと伝えられている。聖武天皇と共に仏教に深く帰依した光明皇后は、民衆を救うために「悲田院」や「施薬院」などを設けて医療事業を行った。また皇后みずからも看護を行い、らい病患者のために膿を口で吸って治療したという伝説さえ残っている。
仏教を取り入れた朝廷に対して、戦後の識者は「国家仏教」だの「貴族仏教」だのといって、民衆を無視した一部権力者のための宗教だと思っている。戦後の歴史教育は日本のよいことは何ひとつ教えてこなかった。そもそも日本の天皇は、民衆を支配弾圧する中国の帝政支配や、ヨーロッパの絶対王政のよう支配者ではない。
平安時代も洛中に「施薬慈院」、「延命院」、「崇親院」「曲殿」など次々に医療施設が出現した。左京九条三坊十町は「施薬院御倉」が置かれていた。「施薬院」は国の予算で設けられた貧しい人や病人のための医療・保護施設で、薬園も併設されていた。
飛鳥、奈良、平安時代といえば、天皇一族と貴族と寺院だけが栄華を極めた時代であり、寺院は権力と結びついて、庶民は租税徴収の圧政に苦しめられた時代だと戦後教えてきた。だが寺院は庶民の福祉活動もやっていたのである。
人買いの山椒太夫から逃げ出した厨子王が助けを求めて寺院に駆け込んできたとき、丹後の国分寺は追ってきた一党から厨子王丸を保護したという物語(『さんせう太夫』)が中世に成立したのも、平安時代に寺院の福祉的背景があったからであろう。
戦乱の鎌倉時代でさえ「施薬院」「療病院」「悲田院」は寺内に存在していたし、建仁寺、相国寺などでも「延寿堂」や「涅槃堂」という療養施設が登場する。それらは全て仏教を背景にしたものである。釈迦の「我に仕えようと思うものは病者を看護せよ」という言葉を真面目に実践しようとしてきた健気な日本人僧侶の姿が伺えるではないか。
明治以降、西洋医学が中心になってから、これらの日本の医療の歴史が忘れられてきた。明治政府が廃仏毀釈の蛮行を断行して、仏教文化を継承しようとしなかったからである。
そこから檀家寺は経済的基盤を失い、加えて戦後GHQの占領政策による農地改革によって寺院の食料自給さえ奪われた。また、「信教の自由」によって檀信徒の寺に対する帰属意識や信仰心までが奪われた。かくして寺院の維持管理費の収入源も絶たれ、そしてわずかに残った檀家の法要や葬儀事業までが、氏のような学者に「葬式仏教」の「金づる」だと揶揄されるハメになったのである。
明治は宗教を失った、戦後は道徳を失ったといわれる。現近代史を俯瞰すれば、これも極東の平和な島国がアングロサクソンに無理やり開国させられ、欲望資本主義に追い詰められた結果だといってもいい。軍事力を背景にした資本経済という覇権主義との戦いとその結果であった。
まさにその資本経済の合理性にもとづいて、自虐的に仏教を語っているのが『終活などおやめなさい』である。檀家寺の苦難の歴史など一切語られていないし、仏教が日本に果たした功績を見ようともしない。ただただ「葬式仏教」を非難するだけである。戦後は道徳を失ったと言われるが、東大出の仏教学者までが自虐史観に加担するかのようである。
◆「余計なお世話」の嘘
さて、ダシにしている「終活」であるが、氏によれば、巷の「終活セミナー」の内容は大きく分けて三段階あるという。「生前準備」「臨終・葬儀」「相続」というものだ。このうち氏は「臨終・葬儀」「相続」の二つだけを取り出して、「終活なんておやめなさい」の理由に利用し、そこから「葬式仏教はいらない」という本音につないでいくのである。
このように飛躍した文脈で、「相続」の中からまず真っ先に遺言を槍玉に挙げる。氏は単に身内の個人的な経験から、遺言はもめごとの種にしかならないと、一般論にこじつけるのである。「遺言書なんていらない」と始まって、遺言など子どもたちにとってみれば余計なお世話です。いっさい残さないほうがいい、と私は考えています。という。続けて「エゴの固まりをなぜ遺すのか」だの「親の遺言書があっても無視、無視」と畳み掛けてくる。(1章 遺言は無用p.16-21強調文字ママ)
もめごとの種になることもあるだろうが、逆にトラブル防止の遺言もあるのだ。またこのような遺言もある。29歳で癌で亡くなった母親が、死ぬ前に生まれたばかりのわが子に遺言を残した話は知っている人もいるだろう。彼女は一人息子がもの心ついた頃、母親の記憶もなくなることを案じて「ビデオレター」という遺言を残した。そこには切々とわが子に語る母の姿と、その膝元で戯れる二歳の息子の姿が写っている。学童期になった彼は、大量に残してくれたビデオレターのお蔭で母の存在と愛を身近に感じて、今、学校教師の父親と二人で幸せに暮らしている。これも遺言である。遺言は子どもにとって余計なお世話か?
私の家内が入院していた時、同室に末期癌の43歳の奥さんがいた。御主人は建築家で奥さんが営業と経理を担当し二人三脚でやってきた。奥さんは亡くなる前に残されたご主人や子どもが困らないように必要なことを書き残した。御主人には取引先や支払日や預金通帳の場所や銀行印、暗証番号といった実務的なことから、子どもには、かれこれについては○○の叔父さんに、何々は誰それのおばさんに相談しなさいなど、細かにメモを残して亡くなった。これも立派な遺言である。親の遺言書があっても無視、無視か?
遺言は遺族に対する配慮でもある。遺言は人それぞれの事情があるが、ひろさちや氏にとって、遺言は欲の絡む遺産相続しか頭に浮かばないようである。誠に視野が狭く想像力が貧困である。
ことほど左様に、「終活」の中の「生前準備」についてはカットされているのだ。意図的かどうかは知らぬが、「臨終・葬儀・相続」などと、「終活」を単に死後の問題とするこのミスリードの理由は、彼の主訴が「葬式仏教」の批判であるために、おとりの「終活」の内容をろくすっぽ考えないで書くからであろう。
これでは「終活」の前提から間違っている。氏が死後の問題に絞り、「生前準備」という最も大切な領域を隠ぺいしているとすれば、「終活」を迎える人たちに間違ったメッセージを発信していることになる。
死んだときには本人はこの世にいない。だから死後を前提とした「終活なんておやめなさい」と、一見理にかなっているようだが、俗耳に入りやすいこのような目くらまし論述は、かえって老境に向かう人たちの人生設計を狂わせてしまう。
しかしエライ先生のいうことだから、「終活」の意味をそこに読み取ろうとする人々もいるだろう。そして氏の落とし穴に落ちるのだ。落とし穴とは「終活やめた」、「葬式やめた」という帰結である。氏にとってはこれこそが真の狙いであるから、「終活」の意味などどうでもいいのである。これこそ「余計なお世話」である。
◆改めて「終活」とは?
「終活」は「死後の問題」ではなくむしろ「生前の問題」である。「生前準備」こそが「終活」の中心テーマなのである。「人生の終わりに向けての事前準備をしつつ、残りの人生を自分らしく生き、自分らしくエンディングを迎えるための活動」のことである。
定年退職後の男性は肩書がなくなると急に落ち込む場合が多く、退職後のうつ病が増えている。60歳で定年になると残りの人生が20~30年ある。その間に何をし、どのようにセカンドライフを送って最期を迎えるか、そこまで視野に入れた生活設計を行うことが「終活」の意味である。
例えば、とりあえず生活のダウンサイジングは定年になったら必須条件である。生活の縮小化・断捨離の開始などである。足腰が立たなくなる前の身辺整理といった方がわかりやすい。一人暮らしでも夫婦でも、暮らす年数が長ければ長いほど自宅の物は増えていく。最後は在宅介護のヘルパーが移動に苦労するほどのゴミ屋敷になるのが普通である。だから節目、節目で整理するなど、老後の生活計画を立てる必要がある。現代において「終活」は高齢者にとっての必用事項なのである。
だが、ひろさちや氏はこのようにいう。
「身辺の整理はする必要はない。われわれはいつ死ぬか分からぬのだから、すべてを未整理のまま死んでいけばよい。整理の雑務も遺族の仕事である。『あとは頼むよ』と思って死ぬ。わたしはそれでいいと思っている。(『週刊新潮』2014.11.13)
「われわれはいつ死ぬか分からない」からこそ早めの「終活」は必要なのである。「あとは頼むよ」で死ねば、本人はそれでいいかもしれぬが、残された家族は大変である。膨大な遺品の山の整理に携わった家族が口をそろえていうことは、「もう二度とやりたくない」というひと言。遺品整理というものはそれほど骨の折れるものだ(老前整理セミナー主催者が聞く遺族の声)。「すべてを未整理のまま死んでいけばよい」とは残された者への実に思いやりのない言葉である。
超高齢化社会の進行に伴い老夫婦だけの世帯や一人暮らしの年寄は急増している。まして遺族のいない場合はどうするのだ。今日、社会問題化しつつある孤独死は、実質上親族や遺族のいない独居老人で起こっている。なるほど未整理なゴミの山を放置したまま「あとは頼むよ」で逝くと誰が後始末するのだ?いずれ行政が委託した業者だろう。これでまた福祉予算が余計なところで膨らむ。
実に不真面目な世迷言である。また「終活」による生活の縮小化は、家計的な見直しでもある。60歳男性の平均余命が22年といわれる老後の生活資金計画もある。現代の労働環境では子どもが親の面倒を看る余裕はない。いずれやってくる老夫婦の介護問題、老老介護・認認介護(軽度認知症のどちらかが重度認知症の伴侶の介護をする)の修羅場を避けようと思えば、終の棲家をどこにするかという問題もある。
究極のソフト事業ともいえる介護施設の選定、ホームの入居時期、ホームのタイプの選定、夫婦のどちらか一人残れば各種保証人・身元引受人などの確保、認知症を患う前の対策、成年後見人の準備、公正証書の作成などもある。
近い将来全国の認知症の高齢者は予備軍を入れると862万人に達し、65歳以上の4人に1人が認知症患者とその予備軍だと推計されている。(H・27・1・7厚労省発表)認知症の人たちを病院に隔離し、抗精神病薬に頼る事例もある現状では、認知症の自分が施設内でどんな扱いを受けてもわからないのである。自分の為にも、家族の為にも、日頃から認知症の予防対策は大切でありこれも「終活」である。
入院、介護、医療の問題、延命治療や尊厳死、臓器提供の有無、検体、看取り人の問題、遺体引き取り人、財産や遺品の処理等々すべてが生前の意思決定の問題である。少し思い浮かべてもこれくらいある。
さらに、特別養護老人ホームや介護士の不足など、高齢者福祉の先行きの問題を入れると行政レベルの問題でもある。現在東京23区で特別養護老人ホームの待機高齢者は4万3千人もいる。昨年の孤独死は4515人(東京都監察医務院)で、10年前の2倍である。これら高齢者を対象とする行政的課題は、高齢者たちの政治意識(投票)によっても大きく左右されるので、当事者中心の問題である。
「終活」にはさらに精神の問題もある。死を迎える心構え(さとり)やターミナル・ケアの自己選択など、終末期に向けての準備は物心ともに実に多いのである。これら全ては個人主義社会、長寿社会、無縁社会といわれるきわめて現代的な問題なのである。だから本人が心身ともにまだ健在なうちから、自力でできることは早めに始めるにこしたことはないのである。
ひろさちや氏のいう「終活」とは、以上のような現実の終活問題をまったく語っていない。単に死を迎える心構えだけを説いているのである。それもお浄土論だけである。実際、不自由な寝たきりになっても、成り行き任せでホームレスになっても、病院にも行けずに腹を空かせて公園の隅で凍えていても、「お浄土」だけを信じて安楽に死ねる人が一体どれほどいるというのか。
故に「終活なんておやめなさい」というのは愚論中の愚論である。この本は、真面目に高齢者の福祉事業に取り組もうとしない政治屋や助成金に群がる福祉屋が喜ぶだけである。氏の論述は老後の生活は他人任せにしておいて、動けなくなったら「姥捨て山に行って死ね」というに等しく、命をつなぐ高齢者の基本的人権を無視した「天下の暴論」である。
◆釈尊と「終活」
氏も仏教学者なら、仏教学者らしく少しは考えて「終活」を説いたらどうか。釈尊のいう生・老・病・死とは人生の真実だが、その真実を知るということは、人生のリスク・マネジメントのことでもある。
人は生まれたときから親によって「育活」(育児活動)をしてもらい、学童期になれば「教活」(教育活動)をしてもらい、10代では本人が「学活」(学習活動)をし、成人になれば「就活」(就職活動)をし、やがて「婚活」(結婚活動)を営み、そして親と同じように「育活」と「労活」(労働活動)をしつつ、最後に「終活」を迎えるのである。
このようにスタートしたときから終末に向かう一連の「活動」が人生というものだ。だから人の生きる活動を「生活」というのである。高齢者はまだ生活している。どうして「終活」だけを「やめなさい」といえるのか。
人生は登山のようなものである。登りっぱなしの登山など存在せず、登山は無事に下山をしてこそ完了する。しかも下山の時は登りよりも注意を要することは登山者の常識である。パイロットが着陸時に一番神経を使うのも同様である。人生でいえば水平飛行が下降に転じた「老・病・死」は、実は最も思考力を要する仕上げの時期である。人生はソフト・ランディングしてこそ無事に完結したといえるのではないか。「終活」をやめよというのは、最期は墜落せよという「非情の論理」である。
釈尊は上昇から水平飛行までを「生」の一言で表したのだと思う。その中でも難しいのが下降(下山)に転じた時だと明らかにされた。だから「四苦」のうち老・病・死の三苦を強調されたのだと思う。私はそのように考えることが「仏教の現在化」であると思う。
しかも「苦」という言葉で表されたように、この人生行路はそれでも「苦=ままならない」ものだと警告されている。どんなに準備しても、ロードマップがあっても、人生の安全運転に必要なものは運転技術の他にもう一つある。それが生きる「知恵」である。しかも「知恵」の根源は仏の「智慧」でなければならない。それが揃ってこそ人は幸福に生きることができると、釈尊は懇切丁寧に教えられている。仏教は実にわかりやすい現実的な「終活」の教えでもある。
◆何でも我欲と見る仏教原理主義者
仏教では「欲望」を修行の妨げと見るが、氏は自らを仏教原理主義者だというだけに、何でもかんでも「我欲」とみるようだ。エンディングノートの作成は、遺族が故人の葬儀をスムーズに行えるようにする思いやりでもある。遺言にも様々あり、子どもに対する「親心」でもあるのだが、氏は「終活」にとりくむ人の根っこにあるのはひたすら「我欲」だと断じてこのようにいう。
自分の死後、遺族に『ああ、何もかも片づけていって、立派な父親だったなあ』と思われたいのです。要するに自分をよく見せたい、善人と思われたいわけですから、これは我欲以外の何ものでもない。」(p.27)
例えそうであっても、何か問題があるのか?この程度の「我欲」まで否定するのは余程いびつな精神の持ち主である。ではオリンピック選手が金メダルを目指すのも「我欲」であろう。優勝を目指して頑張る甲子園の球児や監督の気持ちも「我欲」であろう。応援団の愛校心も、地元の声援も「我欲」だ。これでは働く人のキャリア形成も、企業努力も、科学者や研究者の努力も、若者の就職活動も、自分探しも、人間社会の活動はほとんどは「我欲」として否定されなければならぬ。私は善人と思われたいために「終活」に取り組む人の方がよほど珍しいと思うのだが。
終活というのは「俺はここまで家族のことを考えていたのだ」ということを訴えたいがためのアリバイ工作にすぎないのです。(「迷惑をかけたくないの嘘」p.30)
私も「終活」に入っているが善人と思われたいためではない。第一遺族の評価を期待しようにも、遺族と呼べるほどのものすらいない。子どもに恵まれなかったからだ。いったい誰に向かってアリバイを作る必要があろうか。
「終活」は私たち夫婦の自己完結のためである。「死」をきちんと受け止めて無事に人生を卒業するための仕上げに過ぎない。おそらく「終活」を始めるのは、同様に人生をソフト・ランディングさせたいという思いの人が多いだろう。遺言はその一部にすぎないのだ。
だが氏は「終活」を「まだいい思いをしたいのか」と喝破するのだ。
歳をとってからもいい思いをするにはどんな備えをしておかなければならないか、病気になったときいい治療を受けるにはいくら必要か、といったことも終活のテーマになるわけでしょう。そう考えたら、生活にしがみついてあがいている姿そのものだ、ということになりませんか。(「まだいい思いをしたいのか」p.164強調文字ママ)
そこから昨今の「終活」ブームに向けての無用論が飛び出す。遺言書も、葬式の思案も、戒名も、位牌も、墓の建て方も、法事もすべては現世に対する「我欲」や「執着」と見て、まだいい思いをしたいのかとなるのである。「終活」をダシにした葬式仏教批判であって、檀家寺にとっては八つ当たりも甚だしい。
◆ひろさちや氏のオポチュニストぶり
『終活なんておやめなさい』は、昨年の6月出版して、同年11月までに7刷まで増版したそうだ。ベストセラーだ。この人はこの実績をして、世の中には自分と同様に「終活」に胡散臭さを感じている人が多いと分析する(『週刊新潮』2014.11.13)。一種の自画自賛である。そうではあるまい。本が売れるのは高齢化社会を背景に、それほど「終活」への関心が高まっているからだ。手術を余儀なくされた癌患者は、有名な癌の専門医が『癌の手術なんておやめなさい』という本を出せば一応は読むだろう。タイムリーなだけのことだ。
かような氏のオポチュニスト(ご都合主義者)ぶりは、親鸞の理解にも現れている。氏は死後の善人という言葉を出したあと、いきなり親鸞の「悪人正機説」に言及する。かつて浄土真宗の寺で講演をした際の、質疑応答を思い出して語り始める。質問者が「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人においてをや」(悪人正機説)についてこのように問うたそうだ。
「・・・しかし、お経の四十八願のなかには、『ただし五逆の罪と謗法の罪を除く』と あります。父親を殺したりした悪人はお浄土にはいけないというのですが、これは矛盾しているのではありませんか?」少々ややこしい「善人論/悪人論」をふっかけられたわけです。(P.28)
と始まって、質問者への回答を披露するのだが、「悪人正機説」を問うのだから質問者はおしらく浄土真宗の信者であろう。しかも真宗の根本経典である『大無量寿経』の中の第十八願・五逆と誹謗正法について質問するのだから、信者としてかなり詳しく真摯な人にちがいない
五逆とは、母殺し、父殺し、聖者{阿羅漢}殺し、仏の身体を損傷する、教団を破壊する、の五つの罪悪をいう。もう一つの誹謗正法とは、正法(仏法)を誹謗する罪である。『大無量寿経』の中心テーマは法蔵菩薩(のちの阿弥陀如来)の本願である。阿弥陀仏の本願(四十八願)は万人救済の本願である。しかしその第十八願には、五逆と誹謗正法は救済から除外せねばならないという悪人除外規定があるのだ。
実は親鸞もこの悪人救済の除外規定に生涯悩むのである。肉食妻帯という自らの所業が、教団(伝統仏教)の誹謗正法にあたるのではないかと密かに考えていたふしがあるからだ。これでは天下の悪人、愚禿親鸞は救われない。この矛盾を突破するために、親鸞は生涯をかけてあの大作『教行信証』を著わしたのである。(愚禿親鸞=ぐとくしんらんとは、ナラズモノ親鸞というような意味で親鸞自らがそう名乗った)
さて、ひろさちや氏はどのように答えたか。
この世の中に善人などいないのです。誰もがいいことも悪いこともしている。しかし誰もがお浄土にいけるのです。ただし、仏教では「悪いことをしなさい」と唆(そそのか)すことはできませんから、「悪いことはするな」と言っているだけのことです。四十八願の文言もその程度に解釈しておけばいいのです。私がそうした話をしたら、質問者も納得してくれたようでした。(p.29-30)
私は納得したとは思わない。そもそも質問者は四十八願の文言全般ではなく、そのなかの第十八願について質問しているのである。親鸞上人がもっとも悩んだ核心を突いたのである。質問者にとっても信仰を支える核心部分であったからだと思う。浄土真宗の寺で講演をしている同じ宗派の仏教学者がそのくらい即座に理解できないわけはない。氏が質問者に誠実に向き合っていないことがわかる。回答を避け、質問をすりかえているのである。
のみならず「悪いことはするな」といっているだけのこと、その程度に解釈しておけばいいとは親鸞上人をも馬鹿にしている。そのくらいの道徳律なら親鸞があれほど自分を責めて悩むことはない。「親鸞さん、あなたは第十八願をこの程度に解釈すればよかったのですよ」と教祖様にもそう言うか?「何ら悩む必要はないのに『教行信証』まで書き残して、まったく徒労の晩年でしたね」と。
こうしてみると、彼は親鸞の思想とも誠実に向き合っていないことが知れる。人を大切にする第一は、まず相手と真摯に向き合うことではないか。親鸞の苦悩をいいかげんにして「お浄土」を説くとはどういうことか。不誠実な自己を見つめることもなく、自分勝手に浄土思想に救われたと思うのは、親鸞の言葉から「いいとこ取り」をしているからであろう。これは戦後の親鸞ファンの知識人がよく使う手だ。
彼の「いいとこ取り」とは、「死者は死んだ瞬間にお浄土にいっている」(p.56)という言葉でもわかる。これは浄土門の「即得往生」という教えであるが、これをそのままノーテンキに引用しているのだ。死んだ瞬間、霊魂はあの世に行っているのだから霊魂の処理についてあれこれ考える必要はないというのである。
だから「お浄土」で幸せに暮らしているそんな死者に対して、葬式や、七日毎の法要や、年忌法要や、お盆や、戒名、位牌、墓、仏壇、法要、命日や供物もすべて不要だという。「死者が酒を飲みたいとか、大好物を食べたいなどと思うわけがない」という。大衆受けをするわかり易い言い方で、実は霊魂の処理無用論を説くのだ。供養などというものは檀家寺が金儲け目的で押しつけた習慣だと国民は看破して、オールナッシングでいきましょうというのである。
この自信はどこからくるのかわからないが、もしかすると親鸞に影響されているのかもしれぬ。『歎異抄』(五条)に親鸞が祖先供養を否定する言葉がある。「親鸞は父母の孝養のためとて、念仏一返とても申し立てることいままだ候わず」と述べたとある。また覚如上人(親鸞の末娘である覚信尼の子覚恵の長男、親鸞の曾孫にあたる)は「某(それがし)閉眼せば賀茂川にいれて魚に与えるべし」という親鸞の遺言を『改邪鈔』に載せ、葬式、供養などはもっとも停止(ちょうじ)すべしと書いているからだ。だとしても、何でも浄土思想の先輩に従わないで、学者なら少しは自身で思考したらどうか。「自分の頭で考えよ」、これが本当の仏教原理(自灯明)ではないのか。
◆死者を忘れる本当の供養
ところでなぜこうまで供養は必要ないというのか?氏曰く、供養などという行為は死者への「執着」を残すことになり、遺族は一日も早く死者を忘れてあげるこが大切であるという。いつまでも悲しんでいては、死者は成仏できないことをヤマとヤミーの話(『リグ・ヴェーダ』)や空也上人の『地蔵和讃』などを引き合いに出して説く。
だから氏は親族を失って悲しんでいる遺族に対しては、坊さんは真の仏教の教えを説くべきで、その真の教えとは「忘れることが大事なんだよ」(p.57)と説くことだという。
「墓をつくるということは、死者への執着を残すことです。心がいつまでも死者に縛られ、かえって整理ができなくなるといってもいい。お浄土に赴かれたことをひたすら信じて、死者への余計な思いは残さない、そうしてこそ、遺族の心はスッキリと整理されるのです。戒名も、位牌も、墓も・・・いらない。」(p.58強調文字ママ)
と迫ってくる。俗耳に入りやすい言葉に、現代人は思わずそうかと膝を打つだろう。だが少し注意して読めば、彼の解説が仏教知識と個人的信仰卯と雑学を都合よく組み合わせていることに気がつくはずだ。またきわめて独善的かつ楽天的であることがわかるだろう。「忘れるという供養」でも再度強調する。
「私たちが死者に対してすべきもっとも大事なことは、『わすれてあげる』ことです。(略)もう一度いいましょう。死者に対してはわすれてあげることが、いちばんの「供養」になるのです。そう、心に言い聞かせてください。」(p.131-132強調文字ママ)
これが本当の供養だと念を押すのである。
なら、広島や長崎の原爆記念日に出向いて被爆者や遺族の前でそういいなさい。追悼式典に参列してくれた世界各国の人々の前で「日本人は犠牲者のことはみんなきれいに忘れました」といいなさい。「これが真の供養であり真の仏教です。今後ご参列いただくにはおよびません」といったらどうだ?
8月15日の全国戦没者追悼式に、国民を代表して哀悼の意をささげる天皇皇后両陛下に、「いつまでも死者に執着することはありません」とお手紙でも差し上げたらどうだ。
今年1月17日は阪神・淡路大震災の発生から20年目である。東日本大震災の被災者も多く参加してしめやかに追悼の行事が行われた。氏のお嫌いな葬式仏教の僧侶も呼ばれていたので、「忘れることが本当の供養だ」と教えてあげなさい。被災地神戸の人々に「死者に余計な思いを残すことは執着です。執着は我欲です。みなさん亡くなった人のことは忘れましょうよ」と説いてまわりなさい。
そうやって亡くなった父母のことも、父母を育てた祖父や祖母のことも、曾爺さんの話も、東京大空襲で焼き殺された10万人の都民も、特攻隊で散った若者たちや、ひめゆり部隊で最後まで戦った少女たちのことも、犠牲になった沖縄県民のことも、南方の空や海で散華した将兵たちや、シベリヤ抑留の強制労働で殺された5万人以上の同胞の御霊も、死んだ人なんか、ことごとく忘れてやろうじゃないか。そうやって、我々の祖先の思いの歴史もみんな忘れようというのか・・・・馬鹿か?
歴史は事件と年代の羅列ではない。ある時代確かに生きた人々の「思いの累積」である。膨大な命の連鎖(因と縁)によって、自分が今ここに存在していることの不思議さと、命をつないでくれた祖先への感謝に気づかせるのが仏の教えであり仏教の歴史観である。
ある意味人間は二度死ぬ。一度目は肉体の死、二度目は人々の記憶から完全に消え去った時だ。歴史を忘れた民族は滅ぶというが、私は氏の歴史観を民族忘却史観と呼ばせていただく。氏は日本民族を滅ぼそうというのだろうか。
さらに氏の理解する仏の慈悲も怪しい。仏の慈悲とは、喪失した者の悲嘆に寄り添い、共に悲しみ共に苦しむ「同悲同苦」である。衆生と仏が一体、同体として全く分別しない自他一如、生仏一如である。だから「衆生病むが故に我も病む」という「維摩」の思想も生まれる。第一『維摩経』は浄土真宗が日頃法話で説く経典ではないか。
遺族が悲しんでいるときは共に悲しむのが仏である。「忘れること」が先に出る人は、遺族の悲しみを本当に理解しているとはいえない。仏教家ならば、まずは悲しみに寄り添おうとするのが普通ではないか。
確かに世の中には氏がいうような、食うために葬式業を営む坊主さんもいるだろう。氏がここまで葬式仏教を批判するのはそれなりの理由があることは私も知っている。
文化人類学者の上田紀行氏の菩提寺は浄土真宗だそうだが、若い住職は法事に来てもほとんどしゃべらないという。到着して「こんにちは」。着替えて仏壇の前に座って「みなさん、こちらに」。その後、浄土真宗の教えをまとめた『正信偈』のリーフレットを配って一緒に唱和するが、その後は説法も一切しないで、「それでは、これで」。お布施をもらって「どうも」。そして再度着替えて「さようなら」。家に入ってから出るまで五回しかしゃべらない。お経以外で口を開くのは正味4~5秒だそうである。そして決定的なことは、上田氏が彼を見ていても彼が仏教を信仰しているとは全く思えないし、宗教者としてのオーラが全くないということだ。今の若い世代が喪主になるころにはもうこんな葬式ならいらないと思い始めているという。(『がんばれ仏教!』)
これではひろさちや氏に、坊主は商売のために法事をやっていると批判されても仕方がない。今のままの葬式を続けていたら、彼らの心に氏の葬式不要論はすっぽりと腑に落ちるであろう。上田紀行氏も、宗教的でもないし遺族の気持ちをケアするわけでもない。もうそんな意味のないものならやめてしまおう。誰も坊主に葬式を頼まなくなったら全てが崩壊するだろうと危機感を募らせる。
だが、真剣に檀信徒に接しているお坊さんも沢山いる。むしろ大多数がそうである。東日本大震災のとき、崩壊した自分の寺のことを後回しにして、肉親を失った被災地の人たちの物心両面のケアに奔走した住職は各地にいた。石巻の「洞源院」は被災当時、命からがら寺に逃げ込んだ四百人近くの地元住民を受け入れ、住職と奥さんが一生懸命に避難民のお世話をされた。寝食を忘れて被災民につき添った彼ら僧侶は、肉親を失った遺族に向かって「忘れることが大事だ」などと口が裂けてもいわないはずだ。ボランティア活動に集まってくれた若者たちでもそのくらいわかっている。
◆人は死者と共に生きている
最近、自殺の遺児の支援など、グリーフケア活動をされている一般社団法人・メリヴィオン代表理事・尾角光美氏の講演を聞いた。演題は「心の癒える時」(悲しみから希望を)というものである。彼女は「亡き母の思いを集めて手紙にするプロジェクト」を立ち上げて、母親を喪失した全国の子どもや若者の手紙を集めてその思いをまとめた。(『母の日なんて大嫌い』)
講演でその手紙の一通を紹介された。37歳の母親を癌で亡くした16歳の少女の手紙である。講演後のテープ起こしなので原文のままではないが紹介させて頂く。
ディア、ママ。こんにちは、またはこんばんは。私ついに高2の春を迎えました。青春真っ盛り?このあいだおばあちゃん、ママのお母さんの所へ行きました。いろんな人からお母さんによ~似てっていわれ、なんだか嬉しかったです。
やっぱりママの子どもなんだあ、ってしみじみ思うのです。そして私は今、ママが十六歳のとき感じていたものを感じられているんかなって、考えてしまいます。朝,髪がハネて困ってしまうこと、学校で友達と騒ぎ合える空気、好きな人と話せたときのドキドキ、一人で見上げる空の広さ、誰か大切な人を思う時間、私を包んでいる世界のどこかに、いつかママを包んでいた世界があればいいなあと思います。
私、急に自分は世界で一人ぼっちじゃないかと思うことがあるんです。そういう時は空を見上げることにしています。 私は天国も神様も信じていないけれど、空を見上げるとママが心に寄り添ってくれる気がするから・・・。
友達がお母さんの話を始めると、苦しくなって、悲しくなって、トイレに逃げてしまうこともあるけれど、心の中にママがいてくれていると信じています。だから大丈夫!
いつか素敵な人と出会って、子どもができて、そして自分が死んでしまったとしたら、私も子どもの中にいたいと思います。ママが私の心の中にいてくれるように。
ねえママ、私は今を精一杯生きていきます。そしてママと一緒に、思い切り一緒に青春します。これからもよろしくお願いします。 FROM みずほ
彼女は亡き母親を忘れるどころか、死者と共に生きていることがわかる。
生まれたばかりの赤ん坊を病気で亡くした母親に、釈尊がその悲嘆に寄り添う話がある。「芥子の実とキサゴータミー」という有名な仏伝なのでご存知の人も多いと思う。
主題はわが子の死を受け入れられないキサゴータミーという若い母親に、釈尊が生老病死は避けられない人間の真実であることを教える話である。この子を生き返らせてくださったら、欲しい物は何でも差し上げますという町一番の長者の嫁に、お釈迦様は、欲しい物はないが、ただ民家から芥子の実を集めてきて欲しい、ただし死者を一人も出していない家から貰ってきなさいという話である。
嘆く母親に身をもって悟らせたこの方便は、「人は死者を忘れられるか」というテーマまで含んでいるので、少し長くなるが再現する。
お釈迦様の仰ることだから、芥子粒でわが子が生き返るのだと思い、キサゴータミーは喜び勇んで芥子の実を求めて飛び出していく。一軒一軒街中を探し回るのだが、どこの家も誰かは亡くなっている。九百九十九軒の民家を訪ねても、死人を出していない家はどこにもなかった。
落胆して釈尊のもとに帰った彼女に、お釈迦様は「お前は九百九十九軒訪ねたというが、まだ町はずれの一軒が残っている」という。キサゴータミーはきっとその家こそ死人を出したことのない家に違いないと、再び喜んで町外れのその家を訪ねた。
その家は農家で裏には牛小屋も見える。その家のお百姓夫婦が実に楽しそうに近くの道端の花を摘んでいる。おかみさんは笑い転げている。その様子を見たキサゴータミーは、この家こそ誰も亡くなった人はいないに違いないと思って話しかける。
「とても楽しそうですね。ところで子どもさんの姿が見えませんが、どこかに出かけているのですか」
「子どもですか?3人いますよ。3人とも今は山の向こうの墓で眠っています。」
キサゴータミーはびっくりするやら落胆するやらで、倒れそうになった。期待した最後のこの家も死人が出ていたのだ。
「それなのにどうしてそんなに楽しそうにお花を摘みながら笑っているのですか」
「ええ、今は子どもたちに会いたいと思う時、こうしてお花を摘んでもっていくのです。」
お百姓さんは静かに話し出した。
「それは3年前、豪雨のある日のことでした。10日も続いた大雨がやっと止んだある日。久しぶりの晴れ間なので牛に水浴びをさせてやろうと、3人の子どもたちが川原に行ったのです。大雨で増水した川の恐ろしさを、まだ子どもたちは知らなかったので、いつものように牛を川に入れた途端、激しい流れに足をとられてあっという間に流されてしまいました。近所の村の人たちが総出で探してくれましたが、翌日ずっと川下で牛と3人の子どもの死体が見つかりました。
私たちの大事な3人の子どもが、ほんの少し目を離したすきに、3人とも死んでしまったのです。私たちは悲しみのあまり数日間放心状態でした。本当に悲しいときには涙も出ません。8日目の朝、もう生きている意味がないので、2人で死のう、死んで子どもたちのところに行こうと相談しました。
どうやって死のうか、そうだ裏の牛小屋の大きな梁に縄を吊るして首をくくって死のう。私たちは牛小屋に行きました。と、何か動くものがあります。よく見ると生まれたばかりの子牛でした。母牛が3人の子どもたちと一緒に川で死んでしまったので、お乳も飲めず弱っている様子です。これはいけない、神様のお使いの牛を死なせては大変だ。私たちは大急ぎで水を飲ませ、おかゆを食べさせました。子牛はすぐに元気になって立ち上がりました。
さあ今度は私たちの番です。太い梁に縄をかけて2人で首を括り、下の踏み台を力いっぱい蹴飛ばしました。さあ、首が締まるぞ、すぐに死ねるぞ、もうすぐあの子たちに会える・・・ところが一向に苦しくなりません、おや、おかしいぞ。足元をよく見ると、子牛がいつの間にか立って私たちを支えてくれていたのです。そして私たちを悲しそうに見上げていました。悪かった、悪かった、お前の目の前でこんなことをしてはいけなかったのだ。
牛小屋で死ぬのは諦めて、それでは山の畑の大きな木の枝に縄をかけてそこで死のう。丈夫そうな枝のある木を選ぶために畑の中をあちこち歩いていると、小さな声で「水が飲みたいな、水が飲みたいな」という声が聞こえてきます。でも、周りには誰もいません。よくよく見ると、水もやらずに放り出してあった木の苗たちがすっかり萎れて、この果樹園の中を風が吹くたびに、枯れそうな葉っぱがこすれて「水が飲みたいな」という声に聞こえたのです。
これはいけない、可愛想にこれではみんな枯れてしまう。大急ぎで川から水をくみ上げてきて畑に水をかけました。萎れていた苗たちは水を吸い上げてシャンと真っ直ぐに伸びました。
先ほどの子牛といい、この植えたばかりの苗といい、まだ小さいから自分の力だけでは生きていけない。世話をするものがいなくては、すぐに死んだり枯れたりてしまいます。この牛や苗たちが育つまでは私たちが世話をしよう。それから死んだらいい。
そう思って山から帰ってきました。牛はどんどん大きくなり、苗たちも立派に育って沢山の実を実らせました。そして私たちが夢中になって牛や苗たちを育てているうちに、いつの間にか3年も経っていました。
初めは泣いてばかりいた妻もだんだん諦めがついたのか、この頃は涙を流さなくなり、子どもたちが元気で腕白だったころを思い出しては、ほら、こんなに笑うようになったのです。そして今日も子どもたちに会いにいこうと、花を摘んでいるのですよ」。
お百姓さんの長い話が終わった。
「そうだったのですか、それでお2人はあんなに楽しそうに笑っていたのですね。でも、そんなに悲しくて苦しい目に遭ってもよく我慢されましたね」
キサゴータミーはフーッと溜息をついた。何だか体の力がスーッと抜けていくような、それでいて何か別の力が湧いてくるような不思議な気持ちになっていた。そして自分の赤ん坊を生き返らせようと必死で町中を走り回っていたことが、もうずっと昔の事のように思われてきた。
キサゴータミーは釈尊の所へ行った。「お釈迦様、芥子の実はとうとう集められませんでした。でも、子どもを亡くして悲しんでいるのは私だけではないということがよくわかりました。すぐにこの亡骸を埋葬してやります」
「そうか、そうしてやりなさい。ところで、サキゴータミーよ、お前は赤ん坊を生き返らせるために歩き回ったのだが、お前の赤ん坊が残していった大きな仕事に気がついたかね」とお釈迦様がおっしゃった。
「仕事ですって。お釈迦様、何をおっしゃるのですか、私の子どもはまだほんの赤ん坊でしたよ。あんな小さな赤ん坊が仕事などするものですか」
キサゴータミーは呆れてこういった。
「そうか、お前はそう思っているのか。でもお百姓さんにもう一度生きる力を与えたのは、生まれたばかりの子牛や苗たちではないか。お前を私の所へ寄越したのは、抱いているその亡骸ではないのか」
キサゴータミーは脳天をガーンと叩かれたような気がした。そうだったのか、お釈迦様に会えるようにしてくれたのはこの亡骸だったのか。抱いている小さな亡骸が、一瞬、金色に輝く小さな仏様のように見えた。
キサゴータミーは、その後自分が生まれ変わったような気持ちで、釈尊の弟子となり、一生修行するようになった・・・。こういう話である。
釈尊は生の非永遠性と死の現実を彼女に悟らせると同時に、死を経験した多くの人たちに接触させることで、彼女をコミュニティーによるグリーフケアにつなげたのであろう。(グリーフケアとは近親者の死別による深い悲嘆からの立ち直り支援)
さて、この仏伝の後半は二つのことを教えられる。一つは農家の夫婦が亡き子どもを「忘れていない」ということである。否、墓参りをすることが生きる力にさえなっているということである。つまり死者(子どもたち)の命と共に生きているのだ。震災後ガレキの中から懸命に亡くなった家族の写真を探す人々がいたが、それは失った肉親の面影を忘れたくないからだ。
もう一つは、死のうと思っていた2人を思いとどまらせたのは、子牛や苗木の世話という「やるべきこと」があったということである。そしてその間の時の流れが悲しみを癒したということだ。時は癒しの薬でもある。
この仏伝からいうならば、葬式仏教が、通夜、葬儀、初七日、・・・四十九日、百ケ日法要、一周忌法要など「やるべきこと」を遺族にすすめることは、後追い自殺を先延ばしさせることにもなる。せめて、四十九日の法要が終わるまで、せめて一周忌まで、三回忌まで・・・そうやっているうちに、人は悲しみから立ち直って日常生活に戻っていく。同じような区切りは、神道でも十日祭、五十日祭、一年祭に見られる。こうしてみると、年忌法要は危機管理の最終的な安全装置とは考えられないだろうか。
だが、氏はこれらの背景を仏教ではなく、儒教の「三年喪に服する」考えに倣ったものだと薀蓄を垂れる。さらにお盆はホトケを迎える神道行事(p.100-101)であったものを仏教が巧みに取り入れたのは、坊さんたちの「財政基盤」の確立が目的だという。年忌法要を一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌・・・と繰り返し法要を執り行えば、懐がたっぷり潤う。つまり法要を彼らの大きな財源にし、それを仏教の教えであるかのように喧伝しているのだという。(「年忌法要は日本だけ」p.86-88)
では肉親が亡くなっても、一切の法要を無用として、さっさと火葬場に直送して跡形もなく処理するなら、愛する人を亡くして悲嘆のどん底に落ち込んでいる人にはどうやって立ち直れというのか。「忘れてあげましょう」「はい、そうしましょう」といえる氏のような人が実際にどれほどいるだろうか。
カウンセリング理論からいうと、「落ちこみ期」や「回復期」よりも、「リハビリ期」の方が要注意である。完全とはいえない状態がかなり長く続く。しかも周囲の人には回復しているように見えるだけに、本人にとっては最も苦しい時期なのである。直後の怒りや不安の感情は比較的早く終了するが、悲しみの感情は持続するからである。最低でも一年間はこの影響が続くので何かのはずみで自殺に至ることもある。
この時期は、気力が湧かない、疲労しやすい、興味が湧かない、楽しくないなどの症状が残る。これが「リハビリ期」の特徴であるが、その中で自信や生き甲斐を見出せるのは考えることではない。「行動して見出すもの」である。正に農家の夫婦は牛や苗の世話という行動の中から回復した。この仏伝はひろさちや氏の説く「真の仏教=忘れること」がいかに眉唾ものであることを物語っている。
◆後は野となれ山となれ
氏はこうもいっている。
さて、終活の話に戻しますが、死後、自分をよく見せたいという欲は捨てませんか。遺言など残して、いかにも死後の遺族のことを考え抜いた、と見せようたって遺族は誤魔化されませんよ。日本のビジネスパーソンは、リタイヤするまで、仕事にかまけて家庭を顧みない生活を続けてきたというのが一般的でしょう。(略)そんな「過去」がありながら、死んだらよく思われたいというのは、あまり都合がよすぎるというものです。はっきりいえば、終活というのは「俺はここまで家族のことを考えているのだ」ということを訴えたいがためのアリバイ工作にすぎないのです。もちろん、そんなアリバイは家族の間では通用しません。「さんざん家族を蔑ろにしてきて最後だけ恰好をつけようたってそうはいかない」それが家族の本音です。本音がそこにあるのですから、終活はかえって逆効果にしかならない。そのことに気づきましょうよ。「まあ、どう贔屓目に見ても家族にとって善人だったとはいえない俺だ。死んだあと何をいわれたってかまやしない。所詮人生なんてそんなものだ」そう高をくくっていればいいのです。安心してください。どんな罵詈雑言もお浄土にいったら、聞こえてくることはありません。(p.30-31強調文字原文のママ)
死ねば後のことは知らない。このような根性を、日本人は「後は野となれ山となれ」といい、責任放棄の態度として軽蔑した。だから武士は名誉を重んじた.「人は死んでも名を残す」である。また日本人には「立つ鳥跡を汚さず」という美徳もある。転じて引き際はきれいであるべきという意味もある。
暑い日も寒い日も毎日外に出て坐っているかなりのお歳の高齢者を知っている。なんで家の中にいないのかと尋ねたら、独り身なので、もし家の中で孤独死でもしたら、発見が遅れて近所に異臭を放つと迷惑だからだと答えた。また、独居老人が生きていることを知らせるために、毎日外に旗を出している高齢者団地のニュースを見たこともある。これだって広い意味での「終活」であり、死後自分をよく見せたいわけではない。
もし孤独死をしたらどうするか。この問題について氏は次のようにいう。
この死体処理に関して問題が起きるのは、それを担うべき遺族がいない場合でしょう。いまは孤独のうちに死んでいく人も少なくありません。そこで、「誰にも知られず、腐乱死体になるなんてみっともない。せめて、そのためのお金ぐらいは残しておかなければ・・・」と考えたりする。これも終活のひとつといっていいでしょう。しかし、遺族がいなければ、死体の処理は行政にまかせておけばいいのです。そのために私たちは税金を払っているのです。各自治体が責任をもって処理する。それが当然のことです。(略)「オレが死んだら、死体の処理くらいは行政がちゃんとやれよ」と思っていればいいのです。最近では「直送」といって、死体をすぐに火葬場に運んで焼いてもらうということも増えているようです。通夜も告別式もやらないからお坊さんの出番もなく、料金も安いため、6%くらいが直送をしているとも聞きます。(火葬炉の前でお経を読んでもらうことがあるようです)。死体の処理ということを考えたら、直送にこそその本質があるのです。さっさと火葬すれば、それで死体の処理という仕事は完了するわけですから・・・。(pp.54-55強調文字原文ママ)
いつだったか、サッカーのアウェイでの試合後、日本人のサポーターたちが観客席を掃除する様子に、海外のメディアが感心し称賛して伝えたことがあった。サポーターたちは、せめて自分たちの回りぐらいはきれいにしようと思ったのであろう。
ひろさちや氏は日本のサポーターたちに教えてやりなさい。スタジアムは専属の清掃業者を雇っていると。「オレたちが帰ったら、散らかした後の掃除ぐらい責任をもってちゃんとやれよ。そのためにスタジアムは金を支払っているのだ。君たちそう思っていればいいのです」と。
金(税金)さえ払えば権利を主張する。最近は大した怪我でもないのに救急車をタクシー代わりに呼んで通院する市民が増えてきた。権利ばかり教えて責任を教えない大人たちに腹が立つ。
そしてこの権利意識が一番強いのが団塊世代である。学生運動でさんざん暴れた世代だ。2025年は、この団塊の世代が75歳以上の後期高齢者になる年だ。それ以降は4人に1人が75歳以上という超高齢者社会が到来する。一方、これまで国を支えていた団塊の世代が医療、介護、福祉サービスの受給者に回り、社会保障財政のバランスが崩れると指摘されている。
しかし権利意識の強い個人主義の団塊老人が国家財政を慮ることはないだろう。金(税金)さえ払えば権利を主張するような、そんな老人が溢れる超高齢社会は一体どうなるのだろう。病院などではすでに難癖をつける「暴走老人」が増えつつある。
そして少子化社会は間もなく3人で1人の老人を支えなければならない時代となる。財政不足、人手不足は火を見るよりも明らかだ。すでに民生委員も介護士も決定的に不足している中、死体の処理を行政任せにしようにも人手が間に合うまい。処理業者に委託しても金がかかる。この金は私たちの子ども世代の負担になる。申し訳ないとは思わないのか。そのうち町のいたるところが異臭だらけになるかもしれない。納税者の権利意識だけで、「死体の処理は行政にまかせておけばいいのです」で通用するのか?少し考えて発言したほうがいい。
また、「お浄土」に往ってしまえばおしまいとだとは、実は法然も親鸞もいっていない。親鸞は極楽浄土で悟りを開いたら、またこの世に生まれ変わって衆生を救わなければならないといっている。これが親鸞の往還二種廻向の思想である。『教行信証』はそれを教義化しようとしたものである。
またお師匠の法然は、自分は極楽浄土帰りだといったことを親鸞はハッキリ聞いている。法然はあの世とこの世の往復もすっかり慣れたとまで語っている。氏も知っているだろうに、こういう時だけは「お浄土に往けばおしまい!」。これでは「いいとこ取り」、いや、都合のいい解釈による歪曲、時代におもねる曲学阿世だと言わざるを得まい。
◆仏教学者は要らない
そもそも不合理なものを排除するという思想は仏教にはない。原理主義や合理主義に傾きすぎると仏教徒ではなくなる。『終活なんておやめなさい』を読んで、私が一番感じたのは、ひろさちや氏の根底に息づく「唯物的合理主義精神」である。であればこそ、「不要なものはいらない」という論理に帰着するのである。
宗教をアヘンと見るマルクス主義者なら、まず宗教はいらないというだろう。人間は食うことが最重要であり、そのための農業や工業は必要であるが、芸術・文化などなくても死ぬことはない。まして宗教や宗教学者など腹の足しにはならない。
「〇〇いらない」論理でいうのなら、たかが茶を飲むのに辛気臭い茶道の手順や作法も止めるべきだ。茶はさっさと飲んだ方が合理的だ。これは「茶喰らい」といい、わび茶の最低の飲み方だ。剣道の試合前の礼なども必要ない。所詮格闘技なら、先制攻撃によって相手を倒す方が効果的であり目的にかなっている。鎌倉の武士が名乗りをあげている間に、蒙古軍は小回りの利く半弓に毒まで塗って殺害した。合理的な殺戮戦法ではないか。だから支配者にとってその目的に合わない価値など破棄してもよいのである。
文革の当時、中国が仏教遺産をことごとく破壊したのは革命思想の理に合わないからだ。それで中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び、後漢時代から残る貴重な文物の数々はことごとく破壊された。山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったが破壊された。中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。
チベットを侵略すれば、6000あったチベット仏教寺院をことごとく破壊した。文化大革命が終わったときにはわずか8ケ所しか残っていなかった。こうして仏教を尊重していた頃の中国民族や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産はことごとく破壊してしまった。
文物ばかりでなく、毛沢東は良識ある知識人をも片っ端から抹殺した。宗教は「心の問題」であるから、わが国の形式的な葬式仏教など要らないというのなら、氏もまずは「宗教学者はいらない」と自ら宣言すべきであろう。とりあえず坊さんは葬式に必要だが、腹の足しにならぬ仏教学者など何の価値もあるまい。
宗教や芸術や文化は合理の世界だけで成り立つものではない。日本仏教を唯物的合理主義で論述しようとする宗教学者が、わが国の仏教文化を破壊するのである。
◆オール・オア・ナッシングの危険思想
何を大袈裟な!と思うかもしれぬ。私は氏の精神構造が究極的には一党独裁政治と同じようなものだといっているのである。氏の思想がいかに自己中心的であるか、以下実例を挙げながら述べる。
氏は半分冗談にしろ、子どもたちにこう言い聞かせているそうだ。
私が死んだら、京都にある墓に埋めたければ埋めてもいい。面倒だったら、埋めなくても一向に構わない。電車の網棚に忘れてくるなんていうのもいいな。だだし、そのときは埋葬許可書だけは抜いておけよ。埋葬許可証から身元がわれて、返されたら困るからな(p.76)
氏がかほどに遺骨をゴミ同様に扱うのは、一つにはこのような思いがあるからである。
先の大戦での戦死者の数は戦病死者も含めて二百数十万人といわれています。そのうち、100万を超える遺骨が未収集のまま、アジアの各地、南方の諸地域に置き去りにされているのです。私の父の遺骨もたったひとかけらすら遺族の手元には返ってきていません。国は申し訳程度に遺骨収集なんてことをしていますが、そんなものはアリバイづくりでしかありません。たとえば、硫黄島の滑走路の下には夥しい数の日本兵の遺骨が埋まっているといわれている。滑走路を引っぺがせば、すぐにも収集できるのに、それをしようともしないわけでしょう。そんな国家がどの口で『遺骨は大切に・・・』というのでしょうか。その国のお坊さんがいくら、『遺骨は大事にしましょう』と叫んだって、どだい説得力などあるわけもないのです。」(p.72-73)
無茶苦茶をいう人だ。硫黄島に滑走路があるのは必要だからである。私は沖縄在住だが、沖縄は現在でも建設工事の際に遺骨が出てくることがある。沖縄戦で日本側死亡者数数は兵士や戦闘協力者や軍属など含めて18万8000人、そのうち県外日本兵は6万5000人いる。このなかには沖縄の民間人犠牲者{非戦闘員}も九万人いる。おそらく、那覇市内のビル群の下には見つからない遺骨はまだあるだろう。だが遺骨を完全に回収するためにいまさら那覇市内を引っぺがせなどと誰もいわぬ。先祖崇拝の強い沖縄は遺骨をことのほか大切にする。その沖縄人ですら氏のような無茶はいわぬ。
現在も続けられている遺骨収集をアリバイづくりだというが、二百数十万人の半以上も回収したのだから、考えようによってはすごい数である。問題は、自分の「父親の遺骨がまだ遺族の手元に返ってきていない」という言い草である。
ちょっと待て!あなたにとって遺骨は電車の網棚に忘れてきてもいい無価値なモノではなかったか。身元がわれて、「返されたら困る」邪魔なモノではないのか?ならば、親父さんの遺骨など返ってこない方が、手間が省けていいのではないか?
いや、網棚の話は自分の遺骨のことで、ここで国や坊主に文句いっているのは父親の遺骨のことだというのか?それなら親族の遺骨を大事にする遺族の思いとどこが違うのか説明すべきである。父親の遺骨は大事だが、自分の遺骨は大事でないという屁理屈にしかなるまい。
宗教は心の問題だから、やっぱり遺骨にこだわる必要はないというのなら、それは自分個人の遺骨に限定して、俺だけはそのように扱ってくれと言い直しなさい。自分個人の価値観を、遺骨にこだわる多くの日本人の思いにまで広げて、仏教原理に合わないから間違っていると説教する必要があるのか。一つの価値観を普遍化するような、オール・オア・ナッシングのものの言い方は、一党独裁国家の思想と似ているではないか。
私は氏の言葉をたどりながら、遺族や日本人や歴史に対する愛情のようなものが感じられないのだ。死者を大切にできない者は、おそらく生者も大切にできまい。死者を丁重に扱う法事は、裏返せば、生者を大切にする所作を身に着けるために継承されてきた仏教文化だとも考えられるのだ。
自分の父親の遺骨が戻らないから遺骨収集はくだらない、ひいては遺骨を大切に思う葬式仏教すべて不要である。あまりにも身勝手ではないか。
阪神淡路大震災の時、これに似た話がある。都市伝説かもしれないが、行政が避難所におにぎりを届けようとしたところ、何人分か不足したことがあった。それで、もらえない人のクレームを恐れた行政が、用意したおにぎりを全て破棄したという。この話がさもありなんと思えるのは、世の中には実際に氏のようなクレーマーがいるからだ。
学校ではこのようなクレーマーをモンスター・ペアレントという。ある学校で給食のとき、「いただきます」といわせたら、保護者の一人が「給食代は払っている。誰かからいただくわけじゃないから、そんなこと言わせるな」と文句をつけたという。
世の中にはこのような「金さえ払えば」という権利意識を剥きだしにする人がいる。実際は避難所のほとんどの人たちは、譲り合ってでも、分け合ってでも食べただろう。もらえなかった人がいても、子どもや女性や年寄を優先するぐらいの思いやりは日本人にはある。だれかの空腹が満たされれば、それはそれで喜ぶぐらいの度量はある。
戦死者の全ての遺骨が戻らないからといって、返ってきてほっとしている遺族を、ひろさちやという人は喜べないようである。氏は要するに「避難所のおにぎり」と同様に、オール・オア・ナッシングで遺骨収集を断罪しているのである。
そもそも氏が金のかかりすぎる葬式を糾弾したいなら、矛先は葬式を金儲けの手段にする一部のぼったくり業者(実際いるとして)ではないのか。ならば、その問題に限って論じればいい。葬儀をネタに詐欺でも横行しているのなら、葬式詐欺の防止策について大いに学識を活用すればいいことだ。ところが、坊主憎けりゃ袈裟までとばかりに、遺骨と同じく今度は葬式仏教すべてを否定するのだ。極端すぎはしないか。
リンゴ箱の中に一つだけ腐ったリンゴがあったとしても、腐っていない残りのリンゴをみんな破棄することはあるまい。傷物のリンゴでも、その部分だけとって食べるのが本来の日本人である。日本には世界的に有名になった「もったいない」精神があるからだ。それさえも「命をいただく」という食の文化(仏教の教え)が根底にあるからであろう。
◆異文化と比較する愚
第3章の1項である「散骨、おおいに結構」では、自分の思想を正当化するために他国の文化を引き合いに出してくる。氏は真面目に「散骨推進運動」を考えて厚生労働省に問い合わせたというのだから、単に思いつきで言っているのではない。本気である。
お墓無用、散骨推進の根拠の第一例が、まずインドである。インドでは火葬して頭蓋骨を砕いた後、焼かれた遺骨はすべてガンジス川に流す。墓を作って遺骨を納める習慣はなく、その理由を輪廻思想から説明する。
死後四十九日が経てば、輪廻するわけですから、墓などつくっても意味ないということになりませんか。墓参りなどというのは「主」のいない空っぽの場所に手を合わせているのですから、滑稽な図としかいいようがありません。(p.75)
要するに、日本人の墓参りを滑稽な図だとあざ笑っているのである。
次は中国での個人的な体験例である。氏が行った1970年代の中国では、仏教が弾圧されていて、寺などは「悪しき場所」以外の何ものでもないと受け止められていたという。そこで父親を送ったというガイドにどんな葬儀をしたのか聞いてみると、このよう語ったそうだ。
葬式のやり方ですか?そんなもの、父親が死んだ、ただそれだけのことです。(略)墓なんてものは、面積をとるばかりで、無用の長物です。父親の骨はどこかその辺においてあるんじゃないですか。それとも捨てたかな。だって、あんなものはゴミみたいなものでしょう(p.77-78)
このようなエピソードを紹介した後で、中国人は日本人ほど遺骨にこだわりがないことは確かという。その締めくくりは「日本のみなさん、そんなに遺骨にこだわるのは、もう、やめましょうよ。声を大にしてそういいたい気持ちです。」(p.77-78)とある。
氏は故人の「骨」を少しずつポケットやバッグに忍ばせて、思い思いの場所で捨てる「納骨」方式が定着したらけっこうおもしろいという(p.72)。この人はお釈迦様ファンかと思っていたら、もしかするとサスペンスドラマのファンかもしれない。空き地や登山道の林などに人骨が転がっていたら即座に警察が出動することになるだろう。すわ殺人か?サスペンスドラマの始まりだ。そして「事件か納骨」かと、いちいち捜査や鑑定をしなければならぬ。これでまた税金を使うことになる。今は世をあげて子や孫に借金を負わせないように腐心しているのに、税金を使うことばかり言い出す傍迷惑なジイサンである。
世の中には色々な人がいる。愛児を亡くした母親が、子どもが好きだった児童公園に骨をバラ撒くかもしれぬ。亡き愛妻の骨を初デートの思い出の場所にバラ蒔く「納骨」方式でも定着したらけっこう面白いのだろう。公園に来た子どもは泣き出し、若者のデートエリアは「白骨の丘」?サスペンスを超えてホラーだ。氏は愉快犯か?
遺骨をゴミだというのは、宗教文化を破壊した中国人民の言葉だろう。氏もそう思っているのなら、震災の後で、懸命に遺体収集に努める自衛隊員や遺族にも、声を大にしていってやりなさい。「遺骨にこだわってそんなゴミみたいな遺体探しをするのはもうやめましょうよ」と。日本中の非難を浴びること間違いない。
チベットまで例に出している。チベットでは死体を川に流す水葬が行われているため、川魚は死者の生まれ変わりと信じられ、人は川の魚を食べないそうだ。つまりお墓無用をいいたいために熱心に他国の例を引くのだ。だから、「キリスト教の墓の役割」(p.64)を説くかと思えば、このアンポンタンはついにイスラム教まで引き合いに出す(p.70)。
墓という実体がなければご先祖様を感じられないのは、日本人の想像力の欠如だといい、モスクのようにアラーの像など一切がないイスラム教を持ち上げるのだ。だがこれは偶像崇拝を禁じているモスリムの信仰上の問題であり、日本人の先祖供養とは関係ない。
墓のことで他国の例を引くのなら、イスラム教も墓に焦点を合わせて論じるべきであろう。モスリムにとって墓は死者の眠るところではなく、蘇りを待つ間遺体を休めるところである。イスラム教徒の墓は甦りの信仰から火葬にせずに土葬である。よって彼らは墓参りという供養はしない。まして氏の薦める高温度火葬や散骨などもってのほかだ。
実に支離滅裂、自己矛盾にすら気がついていない。そもそも墓の概念が違う他国の宗教思想をもって日本の墓=実体(先祖供養)を裁断するのは筋違いも甚だしい。
氏は「イスラム教徒の実体にこだわらない信仰姿勢は、見習うべきものがある」(p.70)という。インシャ・アッラーがお好きなのか?この言葉からすると、どうやら氏は日本人の仏像(実体)の崇拝を偶像崇拝と考えているようだ。このように墓の話(先祖供養)を信仰姿勢にこじつけるのであれば、浄土真宗のご本尊たる阿弥仏信仰は偶像崇拝(実体=仏像)であろう。この問題はどうなるのだ?お浄土論を説く学者が、墓についてだけは他国の例を引いて否定する。一体どうなっているのだ。
文化というものは地域によってみな異なる。第一インド仏教は中国に渡った段階で中国思想(道教・儒教)と混交しているのだ。さらに日本仏教は神仏習合となってさらに混交している。このように仏教は原理主義を押しつけないでその土地と融合する。これが仏教の素晴らしいところである。特に日本の大乗仏教はそうである。
キリスト教やイスラム教のような一神教原理主義は異質なものに不寛容である。土俗の宗教を認めず、融合するどころか滅ぼしてきた。だからアメリカンインデアンも、南米のインディオも虐殺された。仏教は異宗教に寛容であるからその土地の文化と融合できたのである。
文化とは新しいものを取り入れたらその地域の住民自らが育むものであろう。それが民族自決というものだ。その国の土俗宗教や習慣や文化だけでなく、気候や自然風土などにも合うように、その土地に住む人々が育ててきたものである。だから原理や筋論からいえば矛盾だらけである。
沖縄は葬儀から始まって、周忌、年忌まで含めた仏事全般の正式な供物料理には、何と、「揚げ魚」や「茹でた豚肉ブロック」などを入れて仏壇に供えるのである。これで不殺生の仏式で先祖供養をするのである。仏教思想も筋も原理もあったものではない。だが私は氏のように彼らの誤りを正そうとは思わぬ。供養のやり方は沖縄の住民自身が決めてきたことだからだ。
葬式一つとっても、本土は棺に遺体を安置して葬式を行うが、沖縄は遺体の腐敗が早いので火葬後のお骨を祭壇に祭って行う。本土のように、会葬者は火葬場に向かう霊柩車を見送るのではなく、出迎えてから葬式を始めるのである。国内でもこれほどの違いがある。要するに文化や習慣はその国や地域が生み出してきたものだ。不都合なら彼らが改善していく。日本には日本人が育てた仏教文化があるのだ。これが問題か?
「終活なんておやめなさい」の愚(2)に続く