第六回 存在と縁起
◆見えない世界の存在-内臓秩序(暗在系)-
例えば神や霊魂のような不可視の存在を信じる人を現代人は非科学的だという。しかし人々は空気を見なくても万人が空気の存在を認めている。ところが神仏の存在だけは議論がわかれる。この違いは理論と実験によって証明されるか否かの相違であろうが、証明されなければその存在性を否定するというのは科学の傲慢である。また神仏を信じるが故に科学を下に見るのは宗教の傲慢である。
アインシュタインは「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」といった。 宗教者は「宗教のない科学は不完全である」という言葉を喜ぶまえに「科学のない宗教は盲目である」という言葉に謙虚に耳を傾けたいと思う。
さて、ボームは見えない世界を「内臓秩序」(implicate order=暗在系)と呼んでその実在を認め、見える世界を「顕前秩序」(explicate order=明在系)と呼んだ。彼の次の言葉がわかりやすい。
近代の科学と技術はすべてのものの分離を強調するデカルト的考えに強く影響されている。われわれはそれに対して思考や五感を超えた運動の全体性である『暗在系』の理論を提唱する。人々が見聞している世界(明在系)の背後に分断も境界もない流動する関係性の全体(暗在系)があり、意識も物質もそこから展開してくる。これはインドや中国の宗教思想に似た、東と西に橋をかける考えだと思う(1)。
ボームのニューサイエンスとは、要するに素粒子論のパラダイムチェインジでのことある。この考えをごく簡単にいえば、物質の究極の実体を素粒子と見る従来の理論物理学に対して、「究極の粒子は存在しない」というものである。「一つの素粒子には他の全ての粒子の営みが投影され、同時にその粒子の在り方は他の全ての粒子に浸透している」と考えるものである。
ボームのこの発見は、フィルムの一部分だけから全体が再現できるホログラフィー(完全写象法)のモデルと結びついて「部分が全体であり、全体が部分である」暗在系のパラダイムに結実した(2)。
それは通常四次元時空では直接観測できない「内蔵された秩序」が実在することを象徴的に暗示しているとボームはいう。これまでの物理学では観測機にかからないものは実在と認めないが、ボームは「暗在系」をより本質的な系として提唱している。ホログラムに光を当てることによって、暗在系としての「内臓秩序」は、瞬時に通常の時空世界で観測できる像として現出する。
これがボームの「明在系」に相当する。量子力学と一般相対理論を組み合わせた考え方では、物質を構成する基本粒子は、空間の特殊な不連続点とみなされる。すなわち、粒子はあたかも空間から<わき出したような>存在であるといわれる。つまりボームのいう量子的な現象は最初から互いに結びついていて、個々のものが結びついて全体をつくるというよりは、結びついた全体の中から、個々のものが披(ひら)き出されてくる(unfold)というものである。ボームはこれを観測できないけれども実在のエネルギーとみなす。これが「暗在系」のエネルギーである。しかも「暗在系」のエネルギーは、われわれが知っている時空の概念は成立しないという。私のいう「密号の空」というのはこの「暗在系」のエネルギーに近い概念である。
◆「内臓秩序」から見た「空」と「縁起」
ボームは、ホログラムのモデルが静的な「暗在系」を表現するのに対して、実際の「暗在系」のエネルギーは振動や波長と密接に結びついてもっと動的な内容を持っているという。つまり虚空はこのようなエネルギーで満たされた大海(空)であり、そのダイナミックな躍動の中から生み出されるというのが、ホログラフィー・パラダイムである。
私はこれに似た概念を「密号の空」としていくつかの経典で引証したが、私が「暗在系」を「空」と対照させるもっとも大きな理由は、「暗在系」の中の膨大なエネルギーが物質だけではなく「精神」をも生み出しているという彼の説にある。この「精神」を「識」におきかえれば、顕教の五大説に対する空海の六大説(識大が加わる)が思い出されよう。
近代科学は「観測できる実在」だけを、すなわち言語化できる「明在系」の内側だけで世界観を作り上げてきた。今日の科学は二千年以上も前にデモクリストスが提唱した原子論的思考以来、その伝統的思考を脱しているとはいえない。つまり宇宙万物は本質的に虚空の中を運動する原子によって構成されているという考え方である。言い換えれば、宇宙全体を微細に分割すると、最終的に断片化された原子という構成要素に還元されるとする西洋特有の思想である。
確かに原子の発見は近代物理学を飛躍的に発展させたが、それは断片化され、観測のできる実在に限られ、ある条件下おける限定的な宇宙論である。いうまでもないが、釈尊はすでにこの実在を因縁によるひとつの流動過程(諸行無常)にすぎず、実在なるものの正体を「空相」と見抜いていた。
現在原子は粒子のようにも波動のようにも振舞うことがわかっている。ボームはこれを、恐らく原子は明確に境界づけられぬ雲のようなものであり、そのときの形は観測装置も含めた状況全体によって決まると考えるのが適切だといっている。それ故もはや観測者と観測対照の分割は不可能だという。観測者と観測対照はともに分割も分析も不可能な一つの全体的実在の相互浸透し合う二つの側面にすぎないという。仏教でいう諸法実相とはこの概念に近い。
近代科学が見捨ててきたこのような「観測できない実在」に対するボームの接近はわけても密教の非言語的世界に近いところがある。「暗在系エネルギーの世界」はまるで無数の諸仏を流出させる「大悲胎蔵生曼荼羅」(俗にいう胎蔵界マンダラ)を連想させる。
大悲胎蔵生とは、大悲を行う諸尊をマンダラ中央の毘盧遮那(大日)如来の胎蔵(子宮)から生み出すという意味である。主尊大日如来を取り囲む八尊(宝幢・開敷華王・阿弥陀・天鼓雷音の各如来)は大日如来より流出したものである。その各如来はさらにそれぞれの菩薩を流出する。たとえば普賢菩薩は宝幢如来から生み出された代表尊である。文殊は開敷華王から、観自在(観音)は阿弥陀から、弥勒は天鼓雷音から生み出された菩薩である。無論歴史上の釈尊も釈迦牟尼として釈迦院(釈迦牟尼の部屋)に出現している。釈迦牟尼を主尊とするその部屋には、迦葉派や舎利弗や阿難たち多くの釈尊の弟子たちも登場している。みな大日如来につながる命なのである。このようにまるで上から見たホロンのように、如来や菩薩や明王や天などさまざまな役目を負う神仏が次々と無数に湧出してマンダラが構成される。
しかも胎蔵界マンダラの一番外側(外部金剛院)には人間もいれば修羅もいる。死体もあれば死体を食らう餓鬼もいる。実に六道輪廻を思わせる生々しい現実世界さえも仏の世界につながっていることを象徴しているのである。
マンダラの思想を科学的にみれば、個が集まって全体(大日)を構成するのではなく、全体(大日)が個を構成しているとみるべきであろう。だから炎を背にして憤怒の表情をもつ不動明王は、実は大日如来の化身であるように、マンダラの個々の尊格は大日如来の全体性の側面にすぎない。一即多、多即一(部分は全体であり、全体は部分である)という東洋思想は、個の集合が全体を構成するという西洋的世界観とは実は正反対なのである。
私はマンダラを密教の芸術的創造物と見るよりも、仏教のみならず、世界の宗教が本質的に共有すべき「聖画」であり、同時に科学的直感を促す優れた図象学だと見ている。
ボームの量子的説明でいえば、最周辺の「外部金剛院」が「明在系」、その内側の諸尊のひしめく世界が「暗在系」に類似しているように思える。 しかしボームの「暗在系」や胎蔵界マンダラにおいてもっとも本質的なことは、そこに「意識」も生み出されるということであろう。それをボームの言葉でいえば「精神」、密教でいえば「識」にあたる。
だが両者は同じではない。密教ではそれを如来の「大悲」、すなわち「智慧」と明確に位置づけていることが決定的な特色である(3)。
マンダラは人間の意識(精神)が、本来は如来の智慧につながっていることを表しているのである。であればこそ、如来の大悲によってすべての人間には如来の智慧(自性清浄心)が与えられる。そこに身・口・意が共鳴したとき、人間は自力で自らを覚りに導くことができると空海は教える。これは宇宙の「根源知」すなわち「命の説法」を聴くことだといいかえてもいいだろう。
さてボームのいうように、われわれが日常的に経験する「顕前秩序(明在系)」の世界のすべては「内臓秩序(暗在系)」より流出するものであれば、「因」も「縁」もそこから流出することになる。つまり「因」も「縁」も、そして「意識」も、もともとは「内臓秩序」において本来<引き込まれて>おり、分割できないままの全体性として一体のものであるということである。そうであれば、それらが何らかのはずみで「明在系の世界」に出現し、そして明在系に顕前した「因」と「縁」の複雑な組み合わせが因縁生起という顕前秩序(縁起の世界)を形成するのではないか、というのが私の仮説である。この仮説の前提は、出現した顕前秩序は内臓秩序と繋がった一つの全体性であるというボームの説を認めなければならない。
私は第三回で「密号としての空」を「仏の世界」に繋がる異次元の「場」(空の世界)として考えた。森羅万象を生じる「色の世界」は常に「空の世界」から流出したものであると理解したからである。
暗在系と明在系も、もともと一つにつながった世界であるというボームの理論を「空」と「色」におきかえれば、「空の世界」が「色の世界」とつながっているという私の考えに近づいてくる。もしこの理解を首肯するならば、好むと好まざるとに関わらず縁起の支配下にある(仏教ではこれを苦という)われわれ人間は、逆に「色の世界」(縁起の世界)をとおして「空の世界に」働きかけることができるのではないか、というのが本論考の主題である。
◆「縁起」と「意識」
そもそも存在(物質・現象)とは何か。この洞察形式を、流動する分割不可能な全体性と呼んでみよう。唯識では、存在とは連続する刹那生滅であり、しかも「識」のみが存在性を主張すると考える。ボームもこの「流れ」において精神と物質は「互いに分断できぬ一つの全体」をなす運動の異なる二側面ととらえている。空海の言葉でいえば「物心一如」である。この主張は意識と物質一般は基本的に同一の秩序、すなわち全体としての一つの秩序に含まれていることを論証しようとするものである。
「意識」について考えてみよう。「十二因縁(4)」は、明在系の世界(仏教では有為の世界)の中で「苦」を生じる人間の「意識のみちすじ」を説いたものである。人はこの世に生を受けるや否や、「自己内部」で次々に発生する意識の「因縁」が連鎖発展し、そして最後は「老死」という「苦」に至る。このような「苦」に囚われた人間の根源的原因が、釈尊は他でもない本人の「無明」にあることを説いた。つまり釈尊は人間の「識」の内部を観察したのである。
「有為の世界」における流動する存在様態(諸行無常)を、唯識学では諸相(外的存在)は心(識=対象を識別するはたらきをするもの)が作り出した虚像であるとする(虚亡分別)。そして人間という生命体は無明の「識」であるゆえに、次の生命体も無明の「識」を引き継いで輪廻し、虚妄の世界で「苦」の縁起を繰り返すという見方をする。これが人間の「識」の内部でおきる縁起論である。
しかしながら「苦」の縁起は自己の外にも存在する。例えば外出中にたまたま事故に遭遇するような場合である。その事故もそうなるべき因と縁によってその場に発生し、たまたま事故に巻き込まれた人も、そうなるべく因縁のプロセスをたどって遭遇したものである。つまり外的条件によっても「因縁和合」のあり方は大きく異なる。まことに「苦」とは「思いのままにはならぬ」ものである。
因縁生起をごく簡単な例で喩えてみよう。あるときある場所で二つの柿の種が落ちたとする。その後一方は地面から芽を出し成長し、柿の木となって実を結び今も存在しているが、一方の柿の種は成長しなかった。種が落ちるという「因」は同じでも異なった「果」を生じるのは、物事の因果が「自己内部」(この場合は柿の種)だけでは完結しないということを示している。
「因」が外在するということは古代ギリシャでも考えられていた。アリストテレスはそれを四つの「因」に分けて説明しているとボームはいう。資料因・作用因・形相因・目的因の四つである。
柿の種で喩えると、「資料因」とは土・雨・日光・空気などの外的要因(外的諸条件)のことである。「作用因」とは外的な作用、すなわち因果の全過程を始動させる作用のことである。柿の種が落ちる、あるいは柿の種を誰かが落とすという作用のことである。これも次の外的諸縁につながる「因」でもあり「縁」でもある。
「形相因」とは柿の種が栗の木ではなく柿の木として成長するために欠くことのできない本質的な内的要素のことである。柿の種の遺伝子などである。「目的因」とは自らを何かに形成していこうとする意図・計画(業の形成)でもある。その意味で「形成因」は「目的因」を必ずその内に含んでいる。
さて、これらのうち、「苦」のプロセスを説く十二支縁起はこの「目的因」に当たると考えられる。人間には意識的、無意識的な意図によって次の「因」を生む。柿の種よりもはるかに複雑で多くの因縁和合を展開するのは、人間には意識と行為という主体的な運動が加わるからである。それが最終的に人間を「苦」の鎖につなぐ理由は、人間のもつ我執、我欲、渇愛などの旺盛なはたらきであり、結局それが「無明」から発動されるということは既述した。
植物が自己の生存において「苦」を認識しているかどうかわからぬが、少なくとも人間の「我欲」ほど凄まじいものではあるまい。逆にいえば、「苦」の縁起の相当部分が自己内部にあるならば、外的条件たる縁起も、それが「苦」であるか否かの客観的基準は厳密にはないということである。
繰り返しになるが、樹木に成長した柿の種は四つの「因」がともに機能し、相互に「因」となり「縁」となりあって目的因の「果」を結んだものである。成長しなかった方はそのプロセスにおいてどこかに瑕疵があった。仏教では、諸法はこのように全ては因縁生起するものと考える。故に存在は全て縁起として現象するものにすぎず、固定的なものではなく、その真実を覚らぬかぎり、人間は縁起の支配から離脱することはできないと教える。ただし縁起の理法は存在の真実を説いたものであり、価値判断の外にある。よって「苦」の客観的基準も本来は存在せず、本人の認識次第によるものである。
ところが人間だけは主体・客体という分別思考(言語思考)に執着するために、無意識のうちに自己を世界から分断し、自己中心に世界を眺めてしまう。故に我執が生じ、それが因となり、また縁となって新たな「苦」を生じる。縁起に束縛された「苦」の無限連鎖である。仏教ではこの「苦」を「生老病死」に象徴的に見て輪廻転生を援用したものと考えられる。
聖徳太子が世間虚仮・唯仏是真というのも、人間が執着してやまない有為の世界はあくまで仮の姿であることを指している。ボームもまた物理学の法則は本来まず内臓秩序について定式化されるべきであり、顕前秩序は二次的な意義をもつべきだと主張している。
輪廻転生という業報思想が当たり前であった古代インドにおいて、釈尊の弟子たちは、師(釈尊)の教えやその姿から、釈尊はこの苦の連環の外に抜け出た人(解脱→涅槃→仏陀)であると見た。そして自らも覚りを得ようと出家して修行をした(小乗仏教)。解脱とは、ことばを換えれば業報輪廻からの離脱→永遠の自由の獲得である。このように考えれば、仏教の「覚り(覚醒)」とは、本来「縁起を超える」ことを目的としているといえよう。
「目的因」というものが、人間にとって「苦」を開始させる「因」であるとみなすなら、釈尊はその「目的因」の根源因である「無明」を「明」に転換することによって、人はだれでも縁起の超克(苦の超克=自由の獲得)が可能であると説いたといえる。
このことはつまり「意識」だけは本来「縁起の束縛をうけない」ということを象徴しているのではないだろうか。大乗仏教ではその可能性を万人が有する如来蔵(仏性)にあると説いた。私はここに仏教のもつ希望(衆生救済)の根本原理を見るのである。
しかし「識の縁起」とは別に、外的因縁が「苦」をもたらす理由は、それらが当事者の意図とは関係なく襲い掛かるからである。さて、こういう場合の(悪縁)は単なる偶然の産物なのだろうか。
仏教では外的な因果も自らが招くという考えがある。「善因楽果」「悪因苦果」(一般的にいう善因善果、悪因悪果)を説くのはそのためである。しばしば仏教の世俗的な人生訓(自業自得)のように思われるが、私はこの教えはある意味の真実を含んでいると考える。これは唯識の説く胎生学的な解釈(アラヤ識が過去の種子を蓄えて、つまり前世の業を背負って新しい生命体に入っていく=遺伝子)をいうのではない。以下「縁起の改善」はその理由を述べるものである。
◆縁起の改善
先に私は、「縁起の世界」に支配されているわれわれは、逆に「空の世界」に働きかけることができるのではないかといったが、それが可能であれば、意識は外的縁起にも影響を及ぼすことが考えられる。つまり因縁は意識のはたらきによって本人にとって最善の方向に改善される可能性があると考えられる。世親(5)も『唯識三十頌』の主張命題として「縁起とは識の転換である」と考えたように、本来、縁起と意識は連動していると考えられる。つまり意識の改善によって、因と縁もともに改善されて「空の世界」から<引き出されてくる>ということだ。おそらくこれが釈尊や空海が体感したに違いない神秘のはたらきであろう。
真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す。
『般若心経秘鍵』
いうまでもなく、私がいおうとしていることは、主体的な意志力と行為によって、自己の現実存在を変革するという意味ではない(サルトルはこれを実存は本質に先立つと言った)。実存主義はあくまで「顕前秩序」(縁起の世界)での運動である。実存哲学者のいう「自己投企」とは、ことによっては次なる苦の「因」にも、また苦の「縁」にもなりうる場合があるからだ。その理由は、自己投企の意志において根源的な「無明」を解決していないからである。これはキルケゴール以来の西洋実存哲学(人間中心思想)に決定的に欠如しているものである。
しかし近代的自我の目覚め(近代的理性=価値の相対化)以来、現代は基本的に自己定立を最大の価値とした人間中心主義である。これはボームが徹底して批判する全体性からの自己分割のことで、西洋哲学史からみれば神(全体性)からの逃走でもあった。というよりも、西洋文化はそもそも神と人間の絶対的断絶から始まったようにもともと分割の文化であったといえる。つまり近代的自我の目覚めとは、神話の神(旧約聖書)を捨て、理性(科学)を新たな神として、相変わらず全体性からの分離(自己決定)をおしすすめているにすぎない。これは同じように神話の神(バラモン教)から自灯明を拠り所にした釈尊とその弟子たちが、逆に全体性との融合を目指した経緯と著しく異なる。
さて縁起の改善に話しを戻す。ボームの提唱する「内臓秩序」は、縁起と意識の関連を量子力学的に示唆するところである。意識と物質は基本的に同一の「内臓秩序」に含まれているとすれば、意識が「顕前秩序」に<引き出された>たとき、同じように<引き出される>外的因縁は、すでに意識と何らかの連動性を帯びて<引き出される>のではないか。これが量子論からみた縁起の改善の可能性である。
生命科学の思考では、固体創出をDNAの主体性(遺伝子)に求め、そこから個体的秩序が形成され、環境秩序との相互関係によってさらなる主体存在としての秩序を創出すると考えられている。成長発展をひとつの秩序形成と見れば、個人の人生も民族の文化も歴史もすべて秩序形成と考えられる。そこでは常に「顕前秩序」の世界における縁起の支配を受けざるを得ないことは、世界文化の推移や歴史の栄枯盛衰を見れば明らかである。
だが、もし意識と因縁が「内臓秩序」(私はこれを「空の世界」と仮定している)に包み込まれているのであれば、「顕前(顕現)秩序」の意識を変革することによって「内蔵秩序」から顕在化してくる「縁起」も連動して変革、改善されるのではないか、という推論も否定できないのではないか。
このような秩序の逆アプローチの仕方こそは、実は密教が得意としてきたものである。村上保壽氏(高野山大学大学院教授)も、密教の「心」と生命科学の「心」との機能性の相違について次のように述べている。
密教の主体性とは、すなわち、生命科学の言うカオス的無限定性から秩序へ向かうはたらきではなく、むしろ秩序(日常性)からカオス(存在の実相)へと向かう『はたらき』と言うべきである。いわば、方向性がまったく反対であると言える(6)。
ここで私が述べようとしているのは、「縁起」も同じ逆の方向性を辿ることができるのではないかということである。この試論については次回詳述する。
<注>
(1)信濃毎日1984/11/1「東と西が出会う時」掲載
(2)ホログラフィーは、光の干渉性を利用した一種の写真技術である。通常の方法による写真のフィルムからはスライドや映画のように、二次元の像しか再生できないが、ホログラフィーによって得られたフィルムからは三次元の空間に再現できる。この技術を使ってフィルムに物体の情報を記録したものをホログラム(完全写像記録)と呼ぶ。この名はギリシャ語で「全体」を表すholoと「書く」を表すgramとからつけられたものである。(『ニュ-サイエンスの世界観』)
(3)例えば大日如来を囲む四如来の智慧(五智)
宝幢如来―大円鏡智(悟りを得た者に完全無欠の鏡のような汚れのない心が生じ、その心の鏡に全てのものを写し取る智慧)
開敷華王如来―平等性智(その心に映し出された全てのものが、自他共に平等であることを知る智慧)
阿弥陀如来―妙観察智(清らかな鏡のような心眼で衆生の願いを聞き届けようと衆生界を余さず観察する智慧)
天鼓雷音如来―成所作智(衆生の願いに応じてどのような願いも叶える智慧)
この四仏、四智を生み出す根本となる智慧が、マンダラ中央の毘盧遮那如来の徳を表す法界体性智(毘盧遮那如来=大日如来の清らかな心が法界を照らし出す智慧)である。この法界体性智は同じくマンダラ諸尊の全ての心に備わっているとする。
(越智淳仁『図説・マンダラの基礎知識―密教宇宙の構造と儀礼』)
(4)十二因縁。十二(支)縁起ともいう。
無明にはじまって老死に到る十二項による縁起説。無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死の十二支。
簡単にいうと、人間は「無明」(根源的な無知)故に「行」(諸行・業の形成)をなし、「行」が因となって「識」(識別作用)が生まれ、それが次の因となって「名色」(名称と形態)を生じさせて有為の世界(現象世界)を分別し、「六処」(眼・耳・鼻・舌・身・ 意の6器官)のはたらきで認識し、「触」(接触)によってさらにその実在性を確認し、本来「空なるもの」をますます固定化してそれを「受」(感受作用)けとめることによって「愛」(飢愛・妄執)が生まれ、それが「執」(執着)を生んで「有」(生存)という「生」につながり、「生」によって「老死」(老い死にゆくこと)という「苦」をもたらす。つまり縁起上の現象界における人間の意識の流れ、因果の道理を明らかにしたもの(順観)。
十二因縁の覚りとは、「無明」を滅することによって「行」はなく、「行」なければ「識」もなく・・・というように、覚りの実現へと観じることによって最終的には「老死」という「苦」は消滅する理屈であるが(逆観)、しかしそれは思考では得られず、直接無為の世界(本質の世界=仏の世界)に飛び込む体験にしかないのかもしれない。
(5)世親(原名ヴァスバンドゥ)古代インドの仏教僧。4~5世紀の中期仏教の大学者で、初め部派仏教の説一切有部を学び、のちに大乗仏教を学び瑜伽行唯識学派に入ったといわれる。唯識思想の体系化に努め唯識派の祖師といわれている。著作『唯識三十頌』『阿毘達磨倶舎論』など多数。
(6)村上保壽『密教思想と現代-弘法大師の思想を中心に-』高野山大学pp.129-131