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空海の鎮護国家

 真言密教では、密法相承の系譜として「付法の八祖」と「伝持の八祖」という二つの流れを考える。「付法の八祖」とは、大日如来→金剛薩埵→龍猛→龍智→金剛智→不空→恵果→空海で『金剛頂経』系の流れをくむ。「伝持の八祖」とは、龍猛→龍智→金剛智→不空→善無畏→一行→恵果→空海で『大日経』系の流れを明らかにする。 私が少々ここに論じようとしている不空三蔵(705~774)は、「付法の八祖」では第六祖、「伝持の八祖」では第四祖に当る、中国・唐代に顕著な活躍をした密教僧である。
 不空をとり上げるには理由がある。それは長い間空海にまつわってきたある種の偏見的イメージを、不空を通して解体し、同時に不空の密教が中国で果たしてきた歴史的な価値体系を概観するなかで、仏教(仏法)と国家権力(王法)の視点から空海の「護国思想」について考えてみたいからである。

 さて、明治以後のインテリの間に横行した空海嫌いの風潮、いわゆる「空海俗物説」は、戦後も長く知識人全般の空海に対する認識を損ねてきた。すなわち「権力に近づいた僧侶」「加持祈祷する怪しげな僧」「平安仏教は貴族仏教」などなどである。
 例えば、梅原猛氏が、禅研究の世界的権威である鈴木大拙を「空海の伝記も思想もろくすっぽ知らずに言うとすれば、それは先賢に対する冒涜である」と酷評をしているように(『仏教の思想Ⅰ』梅原猛著作全集3)、あるいは西田幾多郎ら京都学派が仏教哲学を語るとき、華厳までいきながら、日本における華厳学の第一人者である空海を無視した経緯など、日本のアカデミズムが空海を黙殺した事例は多い。
 京都学派については、長澤弘隆師の「空海が見えなかった西田幾多郎・鈴木大拙」(『空海ノート』終章)に、教理的立場からの圧巻の批判がなされているので、ここでは在家の視点からアプローチしたいと思う。

 上記のような空海密教に対する偏見には、多分に仏教に対する先入観があるように思う。つまり、仏教は貴族や国家などの俗権(国家権力)から離れて清廉で潔白なものでなければならず、ひたすら民草の救済に手を差し伸べるものでなければならないというパターン化した固定観念である。
 そういう固定観念からすれば、「空海俗物説」はまったく理由のないことではない。不空の時代に頂点を極めた中国密教は確かに国家仏教であり、国家権力との結びつきにおいて発展した。空海はそうした歴史的背景を持つ中国密教をつぶさに相承し、それをまた不空と同様に日本の朝廷との関わりの中で新護国パラダイムとして展開したからである。
 ただ、空海嫌いを有り体にいえば、空海に対する偏見は、戦後のインテリたちの反権力思想によって増幅され、密教学を論じる以前に、天皇に近づいたという一点で空海密教を俗物視したというのが正直なところではないかと思われる。

 だが、はたして空海は彼らが考えるような国家主義的仏教を日本に移入したのか。この疑問に迫るために、まずは不空の中国密教史上における業績と位置付けを概観する。

 不空は玄宗・粛宗・代宗に仕え中国三代の皇帝に灌頂を授けたことから、三朝の潅頂の国師といわれている。不空の密教が名実ともに評価される契機になったのは、天宝14年(755)に勃発した「安史の乱」(安禄山・史思明)である。
 安禄山率いる怒涛の反乱軍は国家鎮護の修法を行っていた不空のいる長安を占拠するが、不空はなお長安城内に踏みとどまり、命がけで国家鎮護の修法を続けた。間もなく賊軍は鎮圧され、これにより不空は中国における密教の地盤を確固たるものにした。これは不空密教の有する、いわゆる護国密教の典型的な例である。
 このように、唐代後半期における密教の広範な流布を、国家鎮護の教義を強調することで王朝権力と密接に結合していったという側面を評価すれば、中国密教はまさに国家権力を擁護する体制側の宗教ということになる。

 しかしインド仏教とは異なり、中国仏教の最大の特徴は、宗団をはじめ寺院も僧侶も、国家という機構制度の中に完全に組み込まれていたことである。宗教上位のインドでは、僧侶は戒律に従うのみであったが、国家上位の中国では仏教は国家権力の管理下にあった。この傾向は、密教がもっとも注目を集めた唐代において顕著であった。新来の密教が中国に根を下ろすには、国家の枠外での活動は実質的に不可能であった。
 また王室や貴族社会には、従来の道士やシャーマンなどの呪術者や宦官など、現世利益に応えるファンダメンタルも根強く残っていたため、現世利益を無視した仏教が受け入れられる余地もなかったといえる。そのような中、不空は1000人以上の僧俗に潅頂を授けるなど、中期インド密教を中国の朝野に定着させることに生涯を捧げたのである。
 このような不空の護国密教は、空海の護国思想と必ず二重写しされる。例えば頼富本宏氏は、「日本においても、空海が嵯峨天皇の信任を最終的に得たのは、平城上皇の復位をはかった、いわゆる薬子の乱が鎮圧され、空海が高雄山寺で国家の平穏を祈って護国の祈祷を行って以後ということも忘れてはならない」と言う(『中国密教・シリーズ密教3』第六章)。
 確かにこれは歴史的事実であり、空海の生涯における重要な事蹟ではあるが、問題は、この一件がどのような文脈をたどって知識人の空海像に浸透してきたかということである。
 例えば国民的な人気作家であった司馬遼太郎は、安禄山の乱と薬子の乱、不空と自分を重ねる空海の心象を描いている。司馬小説の中では不空も空海も、国内の乱を奇貨として権力に恩を売り込み、権力内に食い込むといった構図になっている(『空海の風景』)。司馬の『空海の風景』を梅原猛氏は酷評した。以来、二人は絶縁の仲となったという。

 著名な小説家にも瀰漫しているこのような空海像は、おそらく一般的な知識層の共有するところでもあり、京都学派のような日本を代表する知性の府にも漂っていたのではないか。蒙を啓く近代精神の中枢がそうであれば、空海はすでに知識人のあいだでバイアスをかけられていたことになる。
 はたしてこれが空海の実像であろうか。空海は本当に中国密教を権力擁護の仏教として請来したのだろうか。このような疑問を発すること自体今さらの感はあるが、空海の国家観については、例えば松長有慶師の『密教の歴史』(サーラ叢書19)に精しく解説されており、専門家のあいだでは解決済みである。

 私はそれをより分かりやすくするために、在家の目線から、中国の密教僧たちの活動の拠点と空海のそれとを比較して考察してみた。結論から言えば、注目すべきは、中国密教は王室の膝元である大都市で活動したが、空海は都を遠く離れた高野山に活動拠点を構えたという最大の相違点がある。(中国における密教僧の活動拠点は巻末参照)
 もしも貴族仏教としての権勢を奮うのが空海の目的ならば、活動場所は朝廷の膝元(平安京内)か、少なくとも中央に近い地域に求めたであろう。長安城内の東端に立地する青龍寺の寺名が、都の東方を守護する四神中の青龍を想定したといわれるように、空海も平安京の東のはずれに「日本の青龍寺」の建立を朝廷に願い出てもおかしくはない。(事実比叡山は北の鬼門護る皇城鎮護寺となった)なのに、空海はなぜ都を避け、人跡未踏の高野山にこだわったのか。

 もう一点、空海は50歳のときに嵯峨天皇より「東寺」を賜り「教王護国寺」と改名している。この寺号から伺われる護国思想もまた、戦後の進歩的知識人が空海を受け容れ難い理由であったようである。護国思想といえば皇国史観でも連想するのだろうか。
 司馬遼太郎はどうか。「空海は本来原始仏教が積極的に触れることをしなかった<国家>というものを、教説の面でも前面に出し、むしろ高唱した。かれのいうところの正密は、宇宙の理をあらわし人間を即身成仏せしめるだけでなく、ひどく次元のちがう主題だが、鎮護国家をも目的としている。(略)王ヲ教ヘ国ヲ護ル、などといういかがわしさは釈迦がきけばどう思うであろう」と描いた(『空海の風景』)。
 司馬が言う「いかがわしさ」とは、司馬の仏教観がそのように言わしめるのか、それとも読者一般の空海に抱く印象を忖度したものかはわからないが、政治や国家と距離をおく釈迦仏教と比べて、小説家の目にも空海は世俗的な臭いが漂う存在に映っていたのかもしれない。

 しかし、釈迦仏教が積極的に国家に触れなかったのは、「仏法」は「王法」の上にあることを自明としていたからである。あえて国家を説く必要がなかったのである。この二つの「法」は、司馬のいう次元の異なる話ではなく、ひと続きの話である。そもそも仏教とは、王族出身の釈迦が「王位」を棄てて「仏位」を求めて出家したことを基点とする。その時点で「仏法」が「王法」の上であることは、インド人でなくてもわかることである。そうであれば、「王ヲ教ヘ国ヲ護ル」というのは、仏教として「いかがわしい」どころか、むしろ「正法治国」たる仏国土建設につながる当然の理なのである。
 この問題はしかし、仏教発祥の地インドと、中国や日本のように国家が仏教を導入した地域とでは事情が異なる。中国は絶対者皇帝の支配する国、日本は天皇中心の律令国家である。「王権」と「仏教」の二つは、護国思想の運用・展開にしてもインド仏教にはみられない葛藤が生じるものと考えられる。

 ちなみに護国思想の構造や変遷は次のようであるといわれている。
 ①王者を王難として否定的に扱う。
 ②仏教指導型の「正法治国」を説く。
 ③王者の優越権を積極的に主張し、その庇護による仏法弘布を願う。
  (『中国密教・シリーズ密教3』)

 こうしてみれば、中国仏教は第三の構造であり、不空たち中国の密教僧が経なければならなかった布教過渡期における護国思想の形態ではなかったと考えられる。空海はおそらく不空の国王観の影響を受けつつも、同時に師の恵果も果たせなかった仏教の最大の壁である世俗権力の超克を、すなわち②の「正法治国」をわが国で顕現しようとしたのではないかと考えられる。それは、空海が、中国仏教ではなく仏教(思想)史の本流を目指したことでもあった。
 中国や日本ではあからさまに「王法」の上に「仏法」ありとは言えない。そこで空海は戦略を立てた。空海の遠大なる戦略は「活動の場所」と「東寺の改名」に籠められたのである。人間が何かに命を賭けるとき、彼が依って立つ「場所」は命そのものである。「場所」とはそれほどの意味をもつものではないだろうか。これが、空海が朝廷の支配を遠く離れた高野の奥深くに本拠地を置いた理由の一つである。

 一方、都においては平安京最大の官寺の改名である。東寺は、平安京の左京を護る王城鎮護の官寺であったが、何と空海は国家鎮護の象徴寺を「教王が国を護る寺」(「教王護国寺」)と名づけた。「教王」とはとりもなおさず大日如来のことであり、奈良東大寺の盧舎那仏に代り平安京にあってこの都城と国家を護る主尊である。この命名に「仏法」上位の原点に帰りながら新しい国家デザインを明示しようとした空海の心意気が籠められており、空海研究者はむしろ積極的に評価すべきものである。
 放っておけば地上の権力は何をしでかすかわからない。「教王護国」とは、密教の仏大日如来の慈悲と智慧と方便(加護)の国、すなわち天皇も庶民も平等に成仏できる仏国土の建設へ向けた空海の誓願、その高らかな宣言だったのである。

 松岡正剛氏は中国における「王法」と「仏法」について、より簡潔に述べている。中国における不空の活躍を「密教ナショナリズム」すなわち王法の密教(一国密教主義)であったとされ、またそれを受け継いだ恵果和尚のそれを「密教インターナショナリズム」と呼んでいる。ナショナル=足元と、世界へ開くインターナショナルを組み合わせたものを空海が相承したとの解説(「Canalizer空海」―2「入唐空海」)は極めて意味深いものがある。
 周知のように、恵果の最大の特徴は『金剛頂経』と『大日経』を両部とし、両部不二の新しい密教体系に止揚したことであった。空海がその恵果から両部密教を相承したということは、ついでにナショナル(足元)にしっかりと根ざしながら、インターナショナルという超国家思想(それこそが密教の世界観である)をも日本に持ち帰ったということである。つまり空海密教とは、単に密教史だけではなく、世界の長い宗教史のなかでも、最も完成度の高い、そして現代の国際社会にも通用する宗教思想であると言えるのである。

 私はときどき、もしかすると恵果は、国家上位の中国では密厳仏国土の建設に限界を感じて、その思いを東海の果てから来た天才児(空海)に託したのではないかと考えることがある。もしそうであるなら、恵果の思いは空海がしたたかに受けとめていたといえる。
 恵果の予測通り、中国密教は恵果亡きあと歴史上衰退していったが、しかし密教の祖師たちが苦難の中で相承したであろう「思い」は、アンカーの空海が見事に受け継いでいた。そして、日本におけるその戦略的第一歩の象徴が「場所」(高野山)であり、「言葉」(教王護国)であった。かくして平安王朝に華開いた日本密教はわが国の大乗仏教の土台となり、弘法大師は庶民の心の中に生き、また神仏習合の中心思想になるなど、最も融和的で包括的な日本文化として根を下ろしたのである。


★中国密教の祖師たちの活動拠点は時系列で次のとおりである。
 善無畏=興福寺の南院→西明寺(長安城内)→福先寺(洛陽)
 金剛智=慈恩寺→薦福寺→資聖寺(長安城内)→広福寺(洛陽)
 不空=広福寺(洛陽)→鴻臚寺→浄影寺→保寿寺→大興善寺(長安城内)
 恵果=青龍寺(長安城内)
 いずれも大都市内の寺院。空海はあえて日本古代宗教のメッカの一角に拠点を置いた。

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