◆認知心理学から見た空海像
真言宗信徒にとって弘法大師空海は神仏である。密教学者にとっては、現代科学にも通じる古代の大学者である。思想家や歴史家にとってもその評価は実にさまざまである。明治以降、西洋科学を信奉するインテリの間でしばらく空海俗物説が横行したことがあった。空海は貴族趣味で天皇におもねる俗物であり、マキャベリスト(権謀術数主義者)であり、権威主義者であり、加持祈祷を行う怪僧であると。現代も空海は神秘主義者であり、合理主義者であり、理論家であり、実際人であり、万能の天才にして偉大なる呪術家であり、利にさとい経営者とみる者もいる。梅原猛のように空海のパーソナリティーを「矛盾の人」とみた学者もいる。また司馬遼太郎のように「日本史上類のない大山師」とみた作家もいた。一方「天空海闊の人」といい当てる人もいる。空海は山岳修験者であり、鉱山開発者でもあり、教育者でもあり、書道家であり、言語学者でもあり、文学者であり、詩人でもあり、総合芸術家であり、日本仏教の編集プランナーであり、国家建設プロジェクターでもあり、律令的であり、反律令的でもあり、都会人であり田舎者であり、インターナショナリストであり、ナショナリストであり、江戸時代までは日本で最もポピュラーな聖人であり、庶民にとっては一大人気の庶民派お大師さんであり、異能の天才児でありスーパースターでもあり・・・。これらはすべて空海に冠された人物像である。どの側面に注目するかによって、これほど多様な評価をされる歴史上の人物が他にいるだろうか。
心理学の一分野で、生体の認知行動を情報処理の観点から研究する学問に「認知心理学(cognitive psychology)」がある。その中で知覚の領域でもっとも華々しい成果を収めてきた「ゲシュタルト心理学」がある。ゲシュタルトとは「まとまりのある構造」、「全体」、「統合」などを示すドイツ語で「全体とは部分の単純な総和(合計)以上のものである」という考え方がある。
左記はゲシュタルト療法を開発したパールズ(精神科医)の「ルビンの盃」と呼ばれる有名な図表であるある。ゲシュタルト療法の基本的な考え方のひとつに、「図と地の反転」がある。人がひとつの部分(図)に注目するとき、他の部分は背景(地)となって見えなくなってしまう。左の図を白い盃と見る人は黒い部分を無意識に背景(地)としている。逆に黒い部分を向かい合った人物の横顔と見ると白い部分が背景(地)となる。このように我々の知覚においては、どこに注意を向けるかによって「図と地の反転」が生じる。
健康なパーソナリティーはひとつの「図」に執われず、「図」と「地」が自由に展開できる。不健全なパーソナリティーでは「図」と「地」の関係が硬直化してしまうことがある。病理においては「図」そのものが形成できなくなる「ゲシュタルト崩壊」が起きる。
自己の見ている世界(思想)を絶対化することによって、思考や認識の柔軟性を欠いた知識人も、厳密にいえば「図」と「地」の関係が硬直化した人間といえる。仏教的にいえば「とらわれた心」である。仏教では意識が一方に極端に偏ると物事が正しく見えなくなるとする。とすれば「かたより、とらわれ、こだわり」の多くが認知の問題と関係してくる。「一水四見」「一境四心」とはこのような喩えであろう。
そこでまず認知の「統合」というテーマから空海像を考えてみたい。冒頭空海の多様な評価を挙げたのは、空海のパーソナリティーを心理学的側面から考えるためである。ゲシュタルト療法では「図」と「地」の関係が硬直化した不健全な心理問題の克服において、そのパーソナリティーについて「統合された人格」への変容を志向する。すなわち内的な諸要素が統合されていく過程へのアプローチである。
◆統合された人格
統合された人格とはどういうものか。仏教では煩悩をとらわれの心と考えてきた。「統合された境地」は一切の混濁がない精神の統一性のことでもあろう。
心療内科は日常生活に支障がない人に通院の必要を認めない。うつ病や統合失調症などは心の病気とされるが、だからといって健常者が本当に病んでいないかというと、仏教的には別問題である。統合失調症やアルコール依存症など重い精神疾患は「病識」(病気の自覚)がないといわれるが、われわれ凡夫もまた病識のない患者ではないのか。
仏教的にいえばとりあえず日常生活には支障のない程度の病人である。そのビョーキとは個我に執着する意識よって自己中心的に世界を見ざるを得ないことである。釈尊はそれらの病状を総じて「苦」といい、その病巣を無明に探り当てた。唯識は阿頼耶識に溜まる悪しきカルマの種子に探り当てた。仏陀から見れば、現代人は患者も治療者もともに解脱からは程遠い病者ということになる。
私は一般の識者が空海像を語るとき、しばしば「ルビンの盃」を思い出す。それは識者といわれる健常な人が空海像において多くの偏りを表す時だ。空海のどの部分「図」に意識がとらわれるかによって、空海は万華鏡のように変貌する。実に多面的でバラエティーに富んだ相貌を表す。
このような空海を私もあえて一言で形容するなら、私は自由の人といいたい。外の何かに引っ張られたり偏ったりしない自由である。そのパーソナリティーは統合された人格である。
伝統唯識では、この世界はすべて心が作り出したものということになっているが、これは釈尊のいう存在論(縁起論)を指すのではなく認識論のことである。心理学用語でいえば認知論に近い。唯識ではものごとの見え方は三つ(三性)あると考える。その第一段階を遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)と呼ぶ。われわれ凡夫が現実世界を思い計らいによって分別してしまう意識、すなわちモノやコトが個別ばらばらな実在として感じるとことを「遍計所執性」(遍く計り執着する所=性質)という。つまり実体的・固定的な自己があると思い込み、自己に執着したまま個々の思い込みで世界を見れば、世界も空海像も実に万華鏡のように様々な見え方になってくる。
禅の大家鈴木大拙が空海に無関心で、西田幾多郎や田辺元ら京都学派が密教を黙殺し、浄土真宗(親鸞)に異常な関心を示したのは、空海に対する認識の偏りであった。<詳しくは当サイト・長澤弘隆のページ『空海の見えなかった西田幾多郎・鈴木大拙』>
しかし京都学派の周辺にいて、西田哲学を超えようとした梅原猛は密教を高く評価した哲学者である。梅原は戦後空海を冷静に評価した優れたな空海研究者でもある。やや持ち上げすぎかもしれないが、唯識の「四智説」の言葉を借用すれば、梅原の空海研究は「成所作智(じょうしょさち)」を思わせる。「成所作智」とは、自己中心的なものの見方、そのように働く五感を正しく働かせて、世界のありのままの姿をみて、なされるべきところを成し遂げる智慧のことである。梅原の空海論はできるかぎりありのままの空海を見て、なされるべきところをなした空海論だと思う。
梅原猛は私に人間空海を紹介してくれた最初の人である。空海との出会いが五十歳にもなって出遅れた私が、最初に彼の空海論に出会ったことは幸運であった。梅原は日本を代表する哲学者であるが本来歴史家ではない。彼の描く空海論は考古学・歴史学的な空海論ではない。空海の思想である密教の本質を論じつつ、空海の内面に迫るというものである。
余談だが歴史の認識について、作家の塩野七生が示唆的なことをいっている。彼女は歴史の通史は歴史学者よりも文学者が書いた方がいいという。勝負は、少ない資料をどれだけ読み込む能力があるかにかかっているという。そのよりどころは人間を見る力に尽きるという。だから、文学者が書いた方がいいというのだ。歴史学者には史実かどうか判断する能力はあるかもしれないが、人間を見る目は作家が絶対上だからだという。(週刊文春13,12,5号)
梅原猛はかつて代表作である『隠された十字架・法隆寺論』で世を驚かせた。その大胆な仮説によって世にセンセーショナルを巻き起こしたことがあった。この新説・法隆寺論が生まれた直接のきっかけは、私は法隆寺の『資材帳』を梅原独自の眼で読み込んだところにあると思っている。梅原は同じように膨大な資料を詳細に読みこなしている。歴史的・考古学的な論証をもとにした上での独自の考察によるその説得力は多くの専門家を驚嘆させた。またサスペンスのようなドラマティックな構成に当時は「猛然文学」とも呼ばれた。
しかしその梅原をしてさえも、空海を矛盾の人と見たことがあった。理性的存在者として自立的に行為する主体を人格と呼ぶなら、私は空海の人格に矛盾を感じない。それをいうなら統合された人といいたい。ここでは私が尊敬する大哲学者に、あえて「空海の人格に矛盾はなかった」とする私の見解を述べようと思う。
◆梅原猛の見た空海のパーソナリティー
梅原猛は密教の宇宙的生命哲学はヨーロッパ的生命論を克服するものだという哲学思想から密教を高く評価してきた。密教に関する一連の著述のうち、空海の人と思想そのものに本格的に取り組んだ最初の論文に『死の哲学から生の哲学へ-生命の哲学としての密教』という作品がある。
その第一章「偉大なる矛盾」で梅原は次のように述べている。
「私は空海を偉大なる矛盾の人と見る。偉大なる矛盾の人とは何か。それは相反する二つの性格をもち、その二つの性格の矛盾とその総合の上に大きな活動力を発揮する人である。空海の中には、二つの人間があるように見える。一つは世間的な才能、現実的な才能の持ち主としての空海である。もう一つは、世間をのがれて、ひたすら山の孤独に帰ろうとする空海である。この二つの人格が、一人の空海の中に同居していた。現実的な人間、社会的な人間、都会的な人間としての空海のほかに、瞑想的な人間、孤独な人間、田舎の人間としての空海が、一人の人間の中に共存していたのである。(中略)この二面はもともと、人間の二面であり、偉大な人間は、多くこの二面を強く持ち、その二面に悩みつつ、この矛盾する二面を見事に総合する人であるように思われる。空海はまさしく、矛盾する二面を持った人である。そして、この二面の総合の中に、彼の偉大なる人生があった。」
私はこれを読んだとき、なるほど、西洋哲から仏教に移った学者はこのような見方をするものかと思った。まるでヘーゲルの弁証法的な空海分析を感じたからである。
「社会的な自我と孤独な自我、社会への意志と自然への意志、二つの自我、あるいは二つの意志が、彼の中には共存していた。そしてあるときに前者が、あるときには後者が、彼の人生において支配的になった。この矛盾の総合の中に、彼の大いなる人生があった。」とも分析している。(『仏教の思想Ⅰ』梅原猛著作集5)
精神病理学者が文字どおりに読めば、空海はもしかすると解離性同一性障害であったと思うかもしれない。一人の中に二つ以上の人格状態が入れ替わる障害(交代人格)に悩みつつ、空海はそれを克服して、見事に自我の同一性を確立した「偉大なる矛盾の人」となる。また新たな空海像が追加される?
冗談はさておき、私は当初から空海を偉大なる統合の人と感じていた。空海に惹かれた理由がまさにそれだからである。空海は自己矛盾を止揚したのではなく、もともと統合の人というべき人であった。空海の生涯をたどれば、少なくともそのようなパーソナリティーを濃厚にもっていた人ように思われるのである。
空海とて生身の人間だ。状況によってはジレンマに陥ったり、心が揺れ動くこともあったろう。そのあたりは一族の期待と仏道への思いの板挟みで苦悩する『三教指帰』の告白でも十分わかる。
私がいいたいのはそのような局面的な心情論ではない。個人の思想と行動を特徴づける一貫した傾向をパーソナリティーというが、空海の生涯は一貫しており、私には人格的矛盾を感じられないといいたいのである。万華鏡のように、枝葉の姿形や方向はバラバラで矛盾しているように見えていても、それは時々の、空海にとっての必要上の方便であり、すべては一本の幹に収斂され、その幹はしっかりとパーソナリティーたる大地の根に支えられている。空海の全体像を見れば、まっすぐに太陽に向かって伸びる大樹のような姿が浮かんでくる。
高野山の空海は、都で華やかに活動した一人の空海が、山林独坐するもう一人の空海に変わったのではなく、仏の本源に還っただけである。梅原は都会的な社会的自我をもつ空海を、フロイト的にエロス(生の意志)とみて、山岳(高野山)における孤独な空海をタナトス(死の意志)になぞらえるが、それは逆であろう。空海は山林においてこそ生き生きする人である。梅原は「エロスとタナトスとの二つの意志が、交互に彼の人生を支配しているのである。」ともいうが、空海は煩わしい貴族社会の中こそむしろ孤独を感じる人ではなかったか。空海の心は大自然の中こそ自由で華やかであった。その喜びと充実感は空海の詩にあふれている。だからこそ空海は密教なのである。空海は『三帰指帰』を書いたときから、たとえ意識をしていなくても、全宇宙的な命の充実を一筋に求めていたと思う。
◆空海の一貫性
若き空海には、当初から本源に還る方向性は見えていたが、そこに至る「一筋の道」がつかめなかった。山岳修行の七年間は、まさに荒野を切り開くような格闘の日々ではなかったか。「弟子空海、性薫我を勧めて還源(げんげんを)思(おもい)と為す。径路未だ知らず、岐(ちまた)に臨んで幾たびか泣く」という嘆きは、自己矛盾の苦悩ではない。仏の本源に還る思いに揺るぎはないが、同じ仏教でもさまざまな道があって、一体どの道を進めばよいかわからないという現実的な悲しみである。(還源とは本覚=覚りを得ること)
この一文のあと「精誠感有って、此の秘門を得たり」とある。真心が諸仏に感応して密教という「一筋の道」を得たとある(久米寺の東塔下における大日経など秘密経典の発見)。さらに続く「文に臨んで心昏(くら)し」という嘆きもまた具体的である。空海は表意文字の漢字によるサンスクリット語の音写では、経典の意味がわからないというのだ。それなら現地へ渡って密教を学ぼう。続けて「赤縣(中国)を尋ねんことを願う」とある。空海は入唐を決意した。それが入唐後の猛烈な梵字学習につながる。空海は、このような私の願いを天(大日如来)が聞きとどけて下さり、私は長安を訪ねることができたという。「人の願いに天順いたもうて大唐に入ることを得たり」(以上『性霊集』)
空海の生き方の一端を見ても、行動を起こす空海に人格的な矛盾はなく、極めて合理的で、ひたすら一直線である。空海は人格的、個人的な苦悩(例えば親鸞の愛欲の煩悩など)の解決など志向してはいなかった。梅原のいうような二面性は確かにみえるが、その両方の才能を活かしつつ、大きな目的に向けて収斂していくダイナミズムがある。空海のパーソナリティーとはそのような統合力にこそ見るべきだと私は思う。いうまでもなく、その統合性を著作において発揮した集大成が『十住心論』)(全十巻)という金字塔である。そしてその思想を空間に形成した集大成が高野山創建であったと思う。
◆梅原猛との違い
梅原はいう。空海には都での活動によって世俗の泥にけがれた自己嫌悪や世俗への絶望感があったため、かつて山林でひとり静かに道を求めたもう一人の自分が「浮雲の人」に帰ろうとした。それが高野建立の第一の理由だという。都から遠く離れた高野山に仏道修行の根拠地を求めたのは政治からの独立でもあったが、本当にしたかったことは自然に帰り自然と一体になり、密行をすることである。空海の心は「自然の中に、孤独の中にあった。」梅原猛は以上のように空海を理解した(『仏教の思想Ⅰ』梅原猛著作集5)。だが、ここには空海に投影した梅原自身の言葉があるように思う。
梅原は藤原氏以外、出世に限界がある当時の風潮と、大学の学問に絶望した空海に「この世から退いて僧になる」と厭世的な気分を読み取る。だから梅原は高野山創建にも「死に場所」という一言を入れて空海の気持ちを忖度したのだろう。
大学の学問に絶望したのは空海本人がいうのだから間違いないが、私は出世の絡んだ門閥問題ごときに空海が絶望したとはとても思えない。もし空海の動機に幾ばくかなりとも名利心があったのなら、官僧となって世に出ればいいはずだ。当時官僧は国家や朝廷のために尽く国家公務員上級職のようなものであった。空海ほどの家柄と学識があれば、たちまち中央において一角の高僧になれたであろう。権力も名声も手に入れることはできたであろう。確かに一族が願う収入という面では反対されるだろうが、浮世を厭って仏道を求めるなら、身分の保証された官僧になって仏道を極める道もあったはずだ。しかし空海は私度僧になった。十八歳、将来のある若者が家も地位も名誉もすべて捨てて一介の乞食僧になったのである。一歩間違えれば一生プー太郎かホームレスである。厭世観による出家ではとても説明がつかぬ。
これを梅原は「希望に燃えた秀才青年が、突然世をはかなむ人間となる」と見たが、空海は厭世的な気分で出家したのではなく、むしろそこには空海の悶々とした情熱があったように思う。出家した空海は、もっと積極的に、もっと真剣にこの世の真理を模索する、もがくような求道の精神が強かったように思う。
大学を出奔してから、三十一歳で入唐するまでの約十年間、空海の消息は杳として不明である。ただ彼の『三教指帰』によって、乞食僧として山岳修行に打ち込んでいたことをうかがい知ることが出来る。それを読めば、十八歳から二十四歳までの間に、空海はぼぼ仏教の全貌をつかんでいたと思われる。
この頃の空海には、厭世観どころか、私はもっと絶望的なニヒリズムを感じる。若干二十四歳にして、彼は釈尊の説いた諸法の実相(諸行無常)を骨の髄で感じていた。あの見事な儒・道・仏(三教)の比較思想論がそれである。儒教の亀毛先生、道教の虚亡隠士、二人の大家を失神、悶絶させた仮名乞児(空海のモデル)の説く無明の地獄相を読むがいい(『三教指帰巻下・仮名乞児論』)。また「無常の賦」「生死海の賦(上)」を読むがいい。この絶望的な眼差しがあったればこそ、彼は仏道を模索し続けていたように思う。
また「生死海の賦(下)」を読むがいい。「十韻の詩」を読むがいい。仏教におけるこの希望があればこそ彼は仏道に身を投じた。その絶対的な確信は空海の筆致からあふれ出ている。彼は儒教・道教を前にして堂々と仏教の優越性を論じる。錫杖を鳴らしつつ、脚踏み鳴らしつつ、まるで自分に言い聞かせるように、凛々と仏の真実を語る仮名乞児の姿は、力強くもあり、また痛ましくもある。一族の期待を振り切り、悲しみをこらえて仏道を求める若き空海の心に、私はいつも涙を誘われる思いがする。
儒教も、道教も、失神、悶絶させるほど自信のあるわが仏教ではあるが、登山道はあまりにも多くあり、自分はまだ山頂に辿り着ける真の道を見つけていない。仮名乞児なる空海は、虚亡隠士(道教)が空海の出生地を問う場面で、空海はそのことを吐露している。「未だ思うところに就かずして、忽(たちま)ちに三八(二十四歳)の春秋を経たり」というのだ。儒・道を論破する場面で、聞かれてもいないのに、あえて自分は道半ばであることを正直に告白している。空海が司馬遼太郎のいうような日本史上類のない大山師(『空海の風景』)であれば、仏教の優位性を論じる本書の主旨からして、論争相手に心の迷いなどの弱みを見せることは絶対にしないだろう。ここにも空海の正直な人柄と生々しい苦悩を感しる。「径路未だ知らず、岐(ちまた)に臨んで幾たびか泣く」というのは空海の肉声である。
仏道に身を投じた空海にとって、あとは頂上に到達する「一筋の道」を見つけるだけであった。そしてついに見つけた「一筋の道」が密教という生命賛歌の教えであった。したがって「虚しく往きて実ちて帰った」入唐後の空海には、迷いや煩悩はほとんど感じられない。梅原は、高野山を後年の空海の「死に場所」という。終活(死の準備)としてはそういう気持ちもあったかもしれぬが、私には、空海はもっと前向きに、むしろ生き生きと燃え立って高野山を拓いたとしか思えない。
梅原はいう。「彼は高野山とならんで、東寺を根拠地としたのは、やはりこのような二面の心を物語るものである。都に近いところに一つの根拠地を、それは彼の二面性の一面である。そして遠い山の中に、それは彼の孤独性の一面である。このような二面が彼にある。」と語り「高野山と東寺、二つの寺は彼の心の反映でもあるのである。」と、やはり空海の二面性の反映と見る。無論、空海の本当の心は、「自然の中に、孤独の中にあった」とし、「彼はやはり高野山を本拠地とした」ともいうが、空海の人格性においても、思想的においても、微妙に、だが本質的に私の理解とは異なる。
東寺と金剛峰寺。空海の矛盾する二面のように見えるが、それは空海の戦略上の姿に過ぎないと思う。空海が東寺を都の根拠地としたのは、華やかな社会性を好む心の反映ではなく、仏法が王法を導く理想国家を実現するための方便であった。密教は死後の世界を説くものではない。空海はあくまで現世の理想郷を目指した人である。東寺を「教王護国」と改名したこともそうである。「教王が国を護る寺」とは、密教の主尊である大日如来の慈悲と智慧と方便(加護)の国である。それは天皇も庶民も平等に悟り目覚める仏国土建設に着手した空海の、統合された生き方であると私は考える。詳しくは当サイト<高橋憲吾のページ『空海の鎮護国家』>。
◆空海と高野山
そういう空海の心に近づくなら、空海にとっての高野山は、自身がそう呼ぶようにまさに「法身の里」であった。若き空海の還源の思いとは、自己と神仏との誓約でもあった。その約束を果たすために、神仏と出会う場所を「少年の日」から周到に捜し求めていた。そこに「修禅の一院」を建立しなければならない。まさにその場所が高野山であった。
空海が嵯峨天皇より高野山を下賜されたとき、すでに自由に使える「修禅の一院」に相当する山岳寺院(高雄山寺)を得ていた。しかるに何故今さら禅院の建立が必要なのか。空海はその理由に、日本には釈尊が説法したインドの霊鷲山、観音菩薩の現れた補堕落山、あるいは中国の五台山や天台山に相当する修禅の道場はないと指摘する。
それらの山が密行の道場にふさわしい理由として、空海は自然現象の比喩をもちいて説き起こしているように、元来神仙的なヤマに憧れていた。空海が高野山を最もよしとした理由は、その姿のうつくしさや地政学的な理由だけではない。何よりも神霊を感得したからである。ヤマの霊気が充満していると感じたからではないか。『性霊集』の冒頭にある『遊山慕仙詩』には、青年空海の山嶽渇望の心情が吐露されている。遊山し慕仙する神霊のヤマはどこかにあるはずだ。空海の生涯は脇見もせず(高野山)を目指していたのだ。
空海の意志を引き継いだ高野山の伽藍配置は、真言密教の根本経典である『大日経』『金剛頂経』の世界を象徴する二基の塔、すなわち大塔(胎蔵界)・西塔(金剛界)を相対させている。空海独自の密教理論にもとづく伽藍形式である。空海は目に見える形で大自然の中に密教空間を創ることによって、高野山を日本の霊鷲山にしようと考えていた。
しかしなぜ改めて日本の霊鷲山が必要だと考えたのか。思うに、奈良仏教は。あまりにも権力に近づきすぎた。あまりにも学問の府になりすぎた。東大寺をはじめ主要な寺院はすべて王城にある。仏法は王法を導くものであっても、王法に従うものではない。空海のこの揺るがぬ確信が、王城から離れた高野山が、日本の霊鷲山たるヤマとして必要としたのだと思う。空海は何よりも釈尊の教えを守ろうとした。
聡明な空海は、一介の僧が仏法によって王を導くことの現実的な難しさを知悉していたはずである。話は一気に武家社会に飛ぶが、越前にいた道元も、時の執権北条時頼に招かれて下向し権力の中枢に入る。だが時の権力者に王法を説き得たであろうか。一族の血生臭い権力闘争と戦乱を勝ち抜く武家政権(王法)を激しく批判しつつも、権力を捨てきれない北条時頼の煩悩(野心)を救えたのだろうか。否であろう。道元は挫折したと思う。というのも、権力の中枢を去ったこれ以降の道元は、在家伝道の意欲を急速に失い、再び出家主義へ、草深い深山へ、永平寺へ戻って行ったからである。
空海はそれほどに救いがたい人間の業の深さを夙に知っていた。時は律令時代だが、空海には、朝廷も野心渦巻く権力闘争の場に見えていたはずである。そういう世界で仏法を説くことは並大抵のことではない。戦略と方便が必要である。まず東寺を王城の「教王護国寺」とした。だが仏国土建設にはそれだけでは不十分である。かくなる上はどうするか。それには神仏の加護が必要である。人知を超えた宇宙法身たる如来の不可思議なエネルギーしかない。そのためには仏法のセンターたる日本の霊鷲山(高野山)が必要だ。空海はそう確信して、穢れない高野に祈りの聖地を拓いたはずである。
東寺(都)と高野山(田舎)は二つで一つのものではないだろうか。ときに「ルビンの盃」の「白い盃」として、ときに「向き合った二人の人物」として自由に往来するまさに統合されたものであった。この話をさる密教寺院の真言僧(高野山大学密教学修士)にした時、龍樹の二諦説から理解を示された。師は龍樹の二諦に沿って、東寺を世俗諦、高野山を勝義諦と位置付けている。世俗と勝義は表裏一体の関係になっているという自身の理解から空海の統合性の意味を理解された。
山霊みなぎる高野の空間に身を沈めて、空海は何を聴き、何と向き合っていたのか。それは大自然の「つぶやき」であろう。その「つぶやき」の一滴々々が集まって地上の生命の海となる。山霊は自然生命の息吹きである。空海は高野山を法身の「つぶやき」の聴ける「里」だと考えた。大宇宙との合一、大日如来と一体になり、宇宙的いのちの源に還る世界こそが、空海の求めていたものだった。空海はそこで懸命に祈ったのであろう。奇しくも空海の活躍した平安時代初期から二百六十年の間は、わが国において死刑が一度も執行されなかった平和な、世界史的にも稀有な時代であったそうである。
◆人間味あふれる空海
しかしながら、そのような空海が分かりにくいという知識人は少なからずいるようだ。梅原もそのような印象を抱いた。
「空海その人には、何かわかりにくいところがあるのである。それは、どういったらよいか、この空海とは、長いつきあいのはずなのに、どうも彼の喜びと悲しみが、よくわからないのである。親鸞や日蓮は、彼らの喜び、悲しみを容易に漏らす。そして彼らがわれわれと同じ人間であることを、われわれの心の奥深く感じさす。しかし、空海の喜び悲しみは容易にわからない。もとより、彼はすばらしい詩人で、その詩は、情感豊かである。それなのにわれわれは、彼の詩から、あまり人間空海を感じ入ることが出来ない。それはどういうわけであろう。それは、彼があまりにも完璧なレトリーカーであるゆえではないか。全く完璧なレトリーカー。自分のすべての感性を、みごとな詩文で修飾する、そういう見事なレトリーカーとしての側面が、われわれをして、容易に彼の人格の核に近づかせないのではないか。」
梅原の感想はわからなくもない。空海の詩や散文はすべて漢語の名文で完結されている。親鸞のような、かな文字混じりの和賛もない。しかし私は逆で、そこに空海にあふれるような人間味を感じるのである。その人間味とは、名文の内に織り込まれた底知れぬ虚無への眼差しであり、嘆きであり、怒りであり、真心であり、誠意であり、真剣さであり、満月のような明るさであり、かつユーモア精神である。空海が大真面目でさりげなくちりばめるユーモアは抱腹絶倒ものである。そして何よりも、そのような人間味が醸し出す生き方の文脈がわかりやすいのである。
空海が滞留期間二十年という留学僧に定められた法を破ってまで帰国したのは、一日も早く密教を本国に持ち帰りたかったからである。密教を会得したからには、二十年も外国に滞在する意味はない。自国において仏国土の建設にたずさわらなければならない。このことは空海にとって神仏との約束でもあり、師恵果阿闍梨の教えでもあった。律令を守って唐で学び続けるか、たとえ法を犯しても帰朝して祖国に新しい教えを広めるか、このような場合、空海は王法(権力秩序)よりも仏法に従おうとする。仏法に身を投じた身ならば当然のことである。この筋の通った生き方も、私には人間として理解しやすいのである。
◆謎めく親鸞
むしろ中世の親鸞の方が私にはわかりにくく納得しがたい部分がある。史実上謎の部分が多いこともその一因である。古代の人とはいえ、空海の内面を知るには『三教指帰』や『性霊集』などの自己表白がある。空海の風景を知りたければ『御遺告』もある。思想を知りたければ、空海自身の膨大な論書が残されている。帰朝後の行動、生き方を知りたければ、足跡・事跡も年代に沿って明らかにされている。
かたや時代的にはずっと新しい中世とはいえ、親鸞の人間性を知るにはあまりにも手がかりが少ない。親鸞聖人といえば『歎異抄』、『歎異抄』といえば親鸞聖人で、親鸞聖人の思想の格好の入門書とされてきた。しかし『歎異抄』は親鸞本人が書いたものではない。親鸞の死後、弟子の唯円による如是我聞である。「嘆き」は唯円の嘆きであって親鸞のものではない。そこに著者唯円の主観が混ざるのはいたしかたのないことで、例えば唯円は親鸞聖人が「宿業」といわれた云々と記載しているが、親鸞本人が書いたものに「宿業」という語句は一度も出てこない。親鸞が使うのは「業」という言葉であり、『歎異抄』における「宿業」は唯円の造語である。一方、真宗学研究者の間では、『歎異抄』の著者は唯円ではなく、本願寺二代目の如信であるという説や、三代目の覚如であるという説もある。現在本願寺教団の有力な布教の書とされている『歎異抄』ですら、浄土真宗内部でさえ異説があるくらいで、『歎異抄』一つとっても親鸞には謎の部分が多い。
したがって宗教家はともかく、歴史の研究者はストレートに親鸞について書くことをできるだけ避けようとする傾向があるようだ。親鸞についてのまとまった資料が限定されていて、資料の広がりが少ないからである。資料の少なさが親鸞を多角的に探ることを不可能とし、宗教家の独占的な研究対象になってしまった。親鸞の伝記には、『親鸞伝絵』があが、これは本願寺三世の覚如上人こと宗昭(親鸞の孫)が永仁三年(1295)に浄賀に命じて描かせたものである。ただ親鸞の死後三十年のもので、この伝記も親鸞を崇める宗門の立場から描かれたものであることからすれば、史実と相違することも多かろう。例えば歴史家の五味文彦はそのようにみる。(『親鸞とその時代』)
では親鸞の主著『教行信証』はどうか。これは親鸞の思想の中核を語るもので、浄土真宗がまったく正しい仏の教えであることを証明する文章を集めたものである。ほとんどが経典の引用ばかりで親鸞独自の文章は極めて少ない。無論それを通して親鸞の思想を読み取ることは不可能ではないが、『教行信証』という難解極まる思想書の文脈を根気よくつぶさにたどって、ようやく彼の内面の格闘が浮かび上がるという性質のものである。それも真宗学者でもなければ理解不能な難物である。したがって一般的に親鸞の評価は、どこまでも親鸞聖人という限定的なイメージを出ることは困難である。一方、空海には人々に好き勝手に評価させるような人物イメージがある。梅原猛に「偉大なる矛盾の人」と呼ばせたり、司馬遼太郎に「大山師」と呼ばせたりするような、どこからでも入っていけるようなおおらかさを、私は親鸞に感じることはない。
◆表情から見た空海
ゲシュタルト療法を開発したパールズの人間観は、人間を統合された存在としてホリスティックに理解する。カウンセリングにおいては人間を理解するとき「心と身体は一体」であるという観点から、クライエントの語る言葉ばかりではなく、声の調子、しぐさ、表情、姿勢など、ノンバーバル(非言語)な表現も重視して深く全体的に理解しようとする。
そのなかで、今に伝わる空海の表情から感想を述べてみよう。
大師坐像の塑像や肖像画は、いずれも金剛杵を握った右手を内側にひねるようにして胸に当て、念珠を握った左手をゆったりと膝にのせた姿で現在に伝わっている。肩の力は抜かれているようで、目は静かに開かれ、その表情は穏やかである。私は空海のこの姿と表情が好きである。空海に惚れた者の「あばたもえくぼ」だというかもしれないが、所詮人間は意識の反映が世界の見え方である(唯識)。それを認めたうえで、できるだけ平等性智(唯識)の心構えで他の高僧と比較しても、やはり人間的な暖かさと崇高なものを感じるのだ。
私が空海の表情から強く受ける印象は、何か「吹っ切れた」人間の、明るく清々しい人間性である。そこから空海の静寂でさわやかな境地までもが伝わってくる。仏教が悟りを得ることから出発したことを思えば、空海はまさに悟りの境地を得た人のようである。それはあくまでも、生身の人間がそのような境地にまで至った表情として伝わってくる。私の個人的な印象にすぎないのかもしれないが、このような肖像画を残した当時の人々には、空海に対して共通の印象があったはずである。それは確固たる信念と理想を貫いた一人の修行僧が、ついに個我を乗り越えて宇宙のおおらかな命と一体となった弘法大師の姿である。そのような印象が今日までこのような姿として伝えられでいるのだと思う。
同時代に生きた伝教大師最澄の彫刻や肖像画の表情からは、空海ほどの人間性を感じることはない。最澄はまるで菩薩像のようである。おそらく止観行中の姿であろうと思われる。目は菩薩の半眼状態で、空海のように開かれていない。禅定中の表情を表したものだと思われるが、空海のように生き生きとした感じはしない。もっとも自我が消えた状態に入ればこのようになるという止観の理想的な姿なのかもしれない。無論、今日残る肖像画にどれほどの写実性を求められるかという問題はあるが、少なくとも肖像画の作者や周辺の人たちは、本人から受けた印象をこめて表現したであろう。
中世は「似せ絵」が流行した。鎌倉時代の写実主義の影響か、親鸞上人像はリアルである。髭の一本一本まで描かれている。跳ね上がる眉毛は濃く、眼光鋭く、その表情は強い反骨精神意を感じさせる。また厳しい自己凝視のストイックさと人間的な苦悩も感じさせる。親鸞は僧侶の肉食妻帯を肯定した。しただけでなく自ら実践した。釈迦以来の仏教の伝統を公然と破った強烈な個性が、逆にある種近づきがたい威圧感のようなものを感じさせる。空海に感じるような、庶民がのほほんと接近したくなるようなお坊さんというより、畏怖平伏して、ひたすら親鸞上人として仰ぎ見なければならないような印象を受ける。
肖像画ひとつを見ても、私にはやはり空海の方か近づきやすく親しみやすいのだ。
右上の肖像画は奈良国立博物館所蔵の「熊皮御影」と称される重文である。畳の上に坐した上人の全身像なのだが、なぜ「熊皮御影」なのか、それはいかつい顔をした親鸞が熊皮の敷物の上にすわっているからである。人間の殺した熊の毛皮の上に身を置くなど、普通の僧にはなかなかできないと梅原はいう。私にいわせれば、不殺生を第一に説く仏教を、あえてこういう形で尻の下に敷いてみせたのであろう。仏道の否定である。自ら僧侶でありながら、釈尊以来の伝統仏教に反逆するこの度胸は相当なものである。
◆梅原の思い入れ
また梅原は空海が分かりにくいとして次のような感想ももつ。
「空海はいつも一人の個別者であるよりは、一般者として行動していたように思われる。大日如来は宇宙の中央にある仏である。この大日如来と一体となることを最終目的とした空海は、また、世俗世界においても、一般者であることを目標としたのではないか」という感想をもつからである。
確かに一般論やタテマエでのみ言動するのは公人に多く、ホンネが見えないので人間そのものはわかりにくい。梅原は、喜び、悲しみを容易に漏らす親鸞は自分たちと同じ人間であることを感じさせるという。彼は空海も自分たちと同じ人間であってほしいという思いがあったのかもしれないが、その思いが強すぎると返って空海から遠ざかるように思う。例えばそれは空海の内面を忖度した次の記述でもわかる。
「この真の仏教を求める彼の心の中に、どのような悩みがあったのか。伝説はしばしば彼が自殺を試みたと語る。自殺の試みの話は、別に不思議ではない。自殺を試みるほど、彼は真剣に道を求めたといってよい。」
空海は自殺するような人ではない。煩悩を克服できない自分を責めるタイプでもない。悩める空海はしばしば自殺を試みたというが、そのような話は私の知る限り聞いたことがない。伝説というのなら、おそらく四国八十八か所七十三番「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」の奥の院「捨身ヶ嶽」の真魚(まお・空海の幼名)の投身伝説を指しているのだろう。しかしこの話は、空海七歳の時、わが師釈迦如来に逢わんがために身を投げたという伝説である。例え伝説でも、これを七歳の子どもの苦悩の末の自殺とみるには無理がある。真魚は一族から「貴物(とふともの)」と呼ばれ、大切にされていた子どもである。
真魚は幼少のころから神仏への敬慕が強かった。幼いころからお釈迦様の夢をよく見たとか、泥仏を祭って遊んだなどという『空海僧都伝』の記述などは、真魚が釈迦如来の影現(ようげん)を信じて投身したという伝説とも矛盾がなく、むしろ仏道一直線の空海のパーソナリティーを裏づけるものである。
「しばしば自殺を試みた」というが、「しばしば」とは、一度や二度ではないということである。もし考えられるとしたら、梅原は「捨身行」を自殺と解釈したのかもしれない。「捨身行」は山岳宗教では滅罪行であって、罪穢に満ちたこの肉体を捨てて、成仏した精神が永遠に生きて無限の衆生済度をするための実践である。古代は実際に多くの修験者が投身したという記録はあるが、「覗きの行」を「捨身行」ともいったとするのは五来重博士である(『遊行と巡礼』)。「覗きの行」とは行者が絶壁から吊るされて断崖の底を覗くという修行である。生きた心地はしないから滅罪による再生と考えられていた。空海は山岳修行時代に修験者仲間としばしばやったかもしれないが、これも悩みの末の自殺行為とはいえない。
ちなみに「太龍寺(四国八十八か所二十一番霊場)」の奥の院である「捨心ヶ嶽」も、もとは「捨身ヶ嶽」といった。『三教指帰』の冒頭に、空海自身が修行したと語る「阿國大瀧の嶽」とはここのことである。「捨身ヶ嶽」は四国の山岳にはあちこちにある。
私が空海の心情を身近に感じるのは、著書だけではなく、フィールドワークの影響があるのかもしれない。阿波の「捨心ヶ嶽」も、讃岐の「捨身ヶ嶽」も実際に行ってみた。空海が「或ときは石峯に跨って、もって糧を絶って轗軻(かんか)たり」(『三教指帰』)と記した西日本の最高峰石槌山にも登って、実際に石峯にも跨ってみた。空海の修行した場所を訪れ、空海の見た同じ風景を眺め、空海と同じ空間に身をおいてみると、文献には書かれていない空海の心情がなんとなく理解できてくることがある。
◆空海と親鸞の悩み-その違いと意味
では親鸞は悩み、空海に悩みはなかったのだろうか。私は大いにあったと思う。それは十年近くも流浪の旅を続けていたと思われる空白期間が物語っている。ではなぜ空海の悩みはわかりにくいのか。それは悩みの次元が親鸞とは異なるからである。空海の求めていたものは、いわば人類すべてが救済される究極の真理である。空海は仏教哲学にその糸口を確信し、猛烈に勉強した形跡がある。悩みの内実は、喩えでいえばプラトンの哲学思考やアインシュタインなどの科学者が探究するような真理にも近いものである。いやそれ以上であろう。アインシュタインは「科学は事実の説明はできるが理由の説明はできない」といっているが、空海は事実の理由まで説明する。相法実相は如来の意志である。空海は常に宇宙における如来の意志と人間存在の意味を問い続けていた。もともと悩みのレベルと質が違うのである。
それに対して親鸞の苦悩は個人的な内面の煩悩から生じている。だからわかりやすいのだと思う。親鸞にとってその端的なもののひとつが性欲であった。空海も若き修行僧のころ、女性のふくらはぎを見てフラッときたことは書いているが、そんなことはさしたる問題としてはいない。性の克服が仏教の核心的問題とは考えていない。性の問題克服が大学を中退した時の空海の大問題であったと奇論を主張した国民的作家がいたが、どこかで親鸞と重ねたのではないか。このような、奇論、珍論も空海の無理解でからである。(詳しくは当サイト宮坂宥洪のページ<司馬遼太郎の『空海の風景』に異議あり>)
親鸞の師法然が開いた専修念仏とは、専ら「南無阿弥陀仏」と称えることを「行」とするものである。法然の前の源信の浄土教は、身・口・意、一体となって、仏の心と自分の心が一体になるまで阿弥陀を求める定禅(精神統一)が必要であった。それを法然はたった十回の口称念仏でみな極楽に往生するという主張した。源信は往生には機根の差があるとしたが、法然は万人が等しく往生できるとしたのである。だから散善(親孝行とか、君主に忠を尽くすとか、寺院に喜捨など)の必要もないのである。したがって法然のこのような易行の教えは、暇も金も学も智慧もない下層民にまで極楽往生の道を開いた。来世への希望を与えたのである。源信、法然、親鸞とつながる日本浄土教はこのようにして庶民に浸透していった。これが民衆に救いの手を差し伸べたとされる鎌倉浄土新仏教の一般的な評価である。
弟子の親鸞は、法然の教えをさらに徹底した念仏他力を推し進め、ついに一切の戒律や道徳を離れた教えが浄土宗の中の真の浄土宗であるとして、浄土真宗を開いた。師匠の法然は一生不犯の戒律堅固な清僧であったが、親鸞は違っていた。戒律を守ろうとすること自体が自力である。自力による他力本願は、結局、阿弥陀本願を疑っているとして、戒律を否定し僧侶の肉食妻帯を肯定した。しただけでなく自ら公然と実践した。
ここで素朴な疑問がわく。仏道修行をする者が必ず修めるべき基本的な修行項目を三学(戒学・定学・慧学)という。三学は三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)にも相当しており、「戒」と「律」を否定すれば二学であり二蔵である。これを果たして仏道と呼べるのかという疑問である。
釈迦以来の仏教においては、欲望を抑え、戒律を守ることが僧の努めとされてきた。わけても人間の心を狂わせる最も大きな欲望を愛欲とした。僧侶たる身でありながら不邪淫を侵すことは破戒僧である。親鸞はまさにその戒律を破った。しかも釈迦と阿弥陀仏の名においてである。仏教史上、それはまさに革命的ともいえる所業であった。
しかし鎌倉仏教が革新的であるのは肉食妻帯にあるのではないというのは梅原猛である。梅原は鎌倉仏教の革新性は私にとって仏教とは何か、こういう自覚的な問いが産まれたことであるという。つまり仏教はいろいろあっても、自分にとっての仏教とは何かという問いかけである。梅原はそれを「ある種の人間的な目覚め」とか「実存的契機」という。
こういう問いかけをしたのは法然の専修念仏がはじめてだった。私は親鸞もまたこの問いかけに悩んだのだと思う。愛欲を抑えきれない自分にとって仏教とは何か。戒律とは何か。悩みに悩んだ末、肉食妻帯に踏み切ったのだ。法然の新しい問いかけを、そういうやり方で先鋭化したのが親鸞である。
空海はそもそも問いの立て方が法然や親鸞とは違っていた。空海はいわば人類とって仏教は何かという問いかけをしたのである。こんな破天荒な問題を抱えて悩まぬ人間はいない。空海の悩みとは実はここにある。私が悩みの次元もスケールも違うというのはこの意味からである。鎌倉仏教は、末法という脅迫的な時代思想(法滅尽)の中から生まれたが、空海は時代背景には関係なく、おそらく常に根源的に、普遍的に人間実存の意味を求めたろうと思う。宇宙の中の人類と仏教の意味である。
司馬遼太郎も空海の悩みを親鸞のレベルでみようとしたが、戦後の知識人にとって親鸞は実にわかりやすいようである。一般的に四畳半小説や私小説を好む日本の文学者は、空海のような宇宙を題材にした人の物語はそのスケールにおいて苦手なのであろう。最澄や空海について日本の文学者はほとんど関心を示さない。だが倉田百三の『出家とその弟子』、吉川英治の『親鸞』、丹羽文雄の『親鸞』など、親鸞をモデルとした小説や随筆などはあとをたたない。吉本隆明も親鸞オンリーである。流行作家の五木寛之に至っては、親鸞の小説や他力をベースにした人生論やエッセイなどを何冊も出しているし、最近は政治・社会学者の姜尚中まで親鸞を持ち上げる。作家ばかりではない。思想家もまた親鸞に異常な関心を示す。梅原によると、晩年の西田幾多郎は禅よりも親鸞に多くの興味を示したし、その弟子の田辺元も自己の哲学と親鸞を対決させたという。
歴史家にとって実像がよく解明されていない人物に、学識者や文化人がここまで関心を示す理由は一体何か、考えてみれば不思議である。小説家にとってはおそらく自己愛(煩悩)を直視した親鸞の真摯さであろう。偽善を憎むその純粋性であろう。純文学の格好のテーマになるからだ。戦後の反体制派にとってはおそらくその反権力性と革新性であろう。天皇に流罪にされた悲劇性と、伝統仏教に反旗を翻して、仏教を庶民のものにしたというその物語性が好ましいのだろう。
戦後一世を風靡したマルクス主義者や左派文化人の多くが親鸞を好んだ。だがそれは親鸞の信仰の内実ではなく、要するに親鸞を素材にして、自己のイデオロギーを宣布しているように思える。もしそうなら、それは宗教というものの歪曲である。親鸞の否定である。何よりも無神論者の彼らが極楽浄土の実在を信じているとは思われない。親鸞は信じていた。これをはずせば親鸞ではなくなるのだ。浄土真宗も成り立たないのである。
親鸞ファンの文化人に聞きたいが、彼らは本当に親鸞を愛しているのだろうか。親鸞に共感的理解を示すということは、親鸞の思想、真宗の教義を受け入れるということである。つまり極楽浄土の存在である。日本人が一般的に感じる漠然たるあの世のことではない。親鸞の極楽浄土は格段に論理的であり現実的である。彼は死後極楽浄土で第二の人生を生き、再びこの世に舞い戻るというが、それを肯定した上で彼を受け入れているのか。親鸞は極楽往生とはいかなる人間に可能であるかという問題で一生を費やした人である。彼の命がけの問題を素通りして、『歎異抄』あたりを持ち出して情緒的に納得してはいないか。
◆欺瞞を憎む親鸞
親鸞ファンは『歎異抄』の言葉が親鸞その人だと思っているようだし、近代真宗学でも悪人正機説を中心に語られているが、親鸞の思想の核心は『教行信証』であると私は思う。『教行信証』が浄土真宗の信仰の核心である。ここに親鸞の真骨頂たる阿弥陀絶対他力と往相の回向と還相の回向とが述べられているからだ。これが親鸞の目指した利他の心である。さらに正確に言えば、彼が血涙を流して書いた苦悩と信仰の書なのである。
『教行信証』は全六巻からなるが、思想の核心部分(五巻・六巻)を概説すると、極楽浄土には真仏土報身浄土と化真土辺地浄土の二種類あるというのが親鸞の主張である。前者真仏土が正真正銘の極楽であり、後者化真土は念仏他力行者になりきっていない者の往生する極楽で仮の極楽である。他力本願は阿弥陀の本願であるゆえ、つまり阿弥陀から頂いた他力ゆえに、自分交じりの他力では往けるところではない。極楽往生を願って、廻向したり、祖先の供養をしたり、善行を積んだりして努力する念仏他力者は、自力の混じった他力であるから真の極楽(真仏土)ではなく、仮の極楽(化真土)で往生するという。
では、仮の極楽(化真土)で往生をした者はどうなるのか、それは五百年間そこで修行しなければならないという。いわば牢獄のような極楽で、あの世で再び修行の人生を送るのだ。天台宗や真言宗など自力の宗門(法然のいう聖道門)は、これでは偽の極楽(化真土)にすら往生することができないことになる。往生の埒外である。彼らが死後どこに往くのか親鸞は明確には語っていない。まあ地獄に行くのかもしれない。要するに百パーセント自力を放棄して、阿弥陀仏にすがる者だけが本物の極楽に出発できる。これを往相回向という。
では、念願かなってめでたく真仏土に往生できた者はどうなるのか、極楽で暮らすうちに退屈するのかも知れないが、せっかく脱出したはずの末法穢土の現世に再び舞い戻るのである。何のためかといえば、仏に生まれ変わって衆生を教化救済するためである。これが親鸞のいう還相回向である。
つまりは浄土教の信者には臨終を迎えるとき、極楽往生行きの列車には、往きのキップだけでなく、還りのキップも渡されるという話である。『教行信証』には、このような往生論が説かれている。実際法然聖人は、還りのキップを使って舞い戻った勢至菩薩の生まれ変わりである。法然は極楽還りであると親鸞は心から信じていた。
近代科学を信じる現代人の理性ではにわかに信じられない話であろう。だが、この教義を受容しなければ、親鸞のいう利他行の奥義にはたどりつけない。親鸞ファンの現代人が、この話を少しでも荒唐無稽だと感じるなら、即座に親鸞ファンをやめるべきである。五木寛之は本当に信用しているのか。政治学という現実問題を研究する東大の学者姜尚中が、偽物の極楽や、本物の極楽や、あの世から舞い戻る話を本当に信じているのか。親鸞の信仰の核心部分を語らないで、好きな部分だけをつまんで親鸞を賛美するとしたら親鸞に対して不誠実である。是にしろ、非にしろ、真心をもって親鸞にぶつかっていったのか。戦後は親鸞といえば何かと売れ筋である。その風潮にのって親鸞を賛美する己の売名心はないのか。親鸞なら必ずそのように突きつけてくるだろう。彼は最も偽善を憎んだ人である。
◆大いなる矛盾の人―親鸞
断っておくがこの小論は梅原猛批判の為の論考でも、親鸞批判の為でもない。論考の主題は、空海は「矛盾の人」ではなく、「統合の人」であるという私の主張にある。また梅原ほどの大哲学者に食い下がることは、私自身の勉強にもなるからである。梅原猛は今でも私に空海研究を促すありがたい存在である。
ここでは梅原とは異なる見解を持つ私の、親鸞のわかりにくさと、空海のわかりやすさを述べたい。空海を親鸞と相対化することによって、本稿のタイトルである空海の統合性をより鮮明にするための試論である。結論めいたことをいえば、親鸞には言動の一貫性に問題を感じるが、空海に矛盾はないということである。空海を「大いなる矛盾の人」というなら、親鸞こそ「大いなる矛盾の人」という方がふさわしい。この意味を明らかにするために、ざっと親鸞の生涯を追跡しなければならない。
親鸞は承安三年(1173)、京都に生まれ、九十歳で京都に死んでいる。中流貴族の子として生まれたが、彼の父が以仁王の反乱に連座した罪で廃されたといわれている。おそらくそれが原因で出家させられたのであろう。親鸞九歳のときである。親鸞の戒師は四度も天台座主を務めた慈円であった(『愚管抄』の著者)。慈円は摂関家の藤原道忠の子である。そのため、この天台座主を師匠に持ち、同じように貴族の出身である親鸞は、叡山での出世の可能性は十分にあったはずである。この頃の比叡山の僧侶には貴族出身が多く、延暦寺は朝廷との関係の深い学問寺院で政治的な影響力も強かった。
だが親鸞は二十九歳の時に叡山を去る。一般的には法然と同じく叡山の腐敗堕落に絶望したからだと伝えられている。確かに山内の世俗化は著しく、修学を忘れ武芸をこととする僧兵が跋扈し、悪僧の横行には目に余るものがあった。だが延暦寺にも真摯な学問と修行に専念する多数の学僧がいたことも事実である。親鸞もその一人であった。ただ彼には頽廃と堕落への絶望の他に、自己に対する絶望もあった。どうしても断ち切れない愛欲の煩悩である。
『恵信尼文書』(親鸞の妻)によると、山をおりた親鸞は、百日間六角堂に参籠して、後世のことを祈ったが、九十五日目に聖徳太子の示現があったので、法然のもとを訪れたという。
この六角堂は京都にあるが、聖徳太子ゆかりの法隆寺夢殿の八角堂を模したものであろう、本尊は如意輪観音。どちらも観音菩薩である。夢殿の方には太子生き写しの救世観音が安置され、手に持っているのは宝珠ではなく、太子の舎利瓶を持った立像である。救世観音は太子の化身であり、この観音が親鸞に法然のところに行けと命じた。つまり太子は親鸞に専修念仏の浄土宗に入信しろと命じたのである。法然が叡山を下りて浄土教を開いたのは親鸞三歳の時である。親鸞が叡山を下りた時はちょうど法然の専修念仏の全盛時代であった。そして親鸞は京都で爆発的な支持を得ていた法然の門下に身を投じた。法然六十五歳、親鸞二十九歳の時である。
親鸞の生涯のターニングポイントには必ず太子が現れている。親鸞はいったん法然の弟子になったものの、自らの愛欲の煩悩が抑えがたく、心を念仏に集中することができなかった。そのような悩みを抱いて再び六角堂に籠った親鸞に、ある日、救世観音が夢に現れて次のように言ったという。
「親鸞よ、もしおまえが前世からの報いにより、どうしても女なしではいられないならば、私が玉のような美しい女になって、おまえに犯されてやろう。そして一生の間、おまえの人生を荘厳し、死ぬときにはおまえを極楽に導いてやろう」
「行者宿法報説女犯。我成玉女身被犯。一生之間能荘厳。臨終引導生極楽。」(『親鸞伝絵』)
つまり聖徳太子が救世観音となって親鸞に肉食妻帯を許したのである。太子も大胆なことを言ったものである。さらに太子は「これは我が誓願なり、善信(親鸞の別名)の誓願の趣旨を宣説して一生群生に聞かしむべし」と言ったという。堂々たる肉食妻帯の肯定である。
ここに親鸞の思想の誕生があり、これが法然の教えを過激に先鋭化していくスプリングボードとなった。僧侶による公然たる破戒の宣言と実践である。これによって、二千年の仏教の道徳と伝統が真正面から破られることになるのである。結果的に親鸞は恩師が座主をつとめる叡山の伝統仏教に弓を引いたことになる。
太子の命は必ずしも法然の教えではない。法然は持戒堅固の清僧で有名であった。のちに専修念仏の非難が起きたとき『七箇条起請文』をつくり弟子どもに署名させた。親鸞も署名している。『起請文』第四条では婬、酒、肉食を戒めている。聖徳太子は親鸞をして法然に弟子入りさせた。そればかりか、肉食妻帯の宣言と実践を命じた。にもかかわらず署名する親鸞は矛盾の人とはいえないか。
親鸞には少なくとも二人の妻がいたといわれていが、いろいろな説がありこの点も詳細は不明。妻二人はまだ慎ましい方かもしれない。なにしろ我が崇拝する聖徳太子には四の妻がいた。しかし、私は思うのだが、聖徳太子は偉大な仏教者ではあるが、出家者ではなく在家の仏教徒である。僧侶ではなく推古天皇の摂政である。政治家であり行政官である。つまりは世俗の人である。肉食妻帯をするにしても問題はない。だが親鸞は出家者である。王の定めた秩序(王法)と、出家者が守るべき法(仏法)とは違う。ならば出家法(仏法)を破れという太子の示現に、親鸞は疑問や躊躇を感じなかったのだろうか。
聖徳太子は我が国に仏教をもたらした日本仏教最大の偉人である。親鸞は、その釈迦を崇拝した聖徳太子の名において、すなわち釈迦の名において、太子の化身である救世観音の名において僧の肉食妻帯を実行したのである。親鸞の考えをたどれば、釈迦は親鸞に肉食妻帯を認めたことになる。しかし釈迦の弟子に対する教え(仏法)は自力を旨とする戒律の教えである。であれば、龍樹を第一租とする浄土宗のもとで肉食妻帯を肯定するには余程の思想的根拠がなければならない。しかし、この時点で親鸞にまだそのような確固たる立脚地はない。彼は太子の夢告に従っただけである。親鸞自身が肉食妻帯を思想家化するのはもっと後年のことである。
梅原はいう。「精神分析学者は、おらく観音様のおっしゃたことは親鸞自身の欲望の反映だというにちがいない。観音様が実際に仰せられたかどうかは、たいへん疑問である。しかし親鸞はたしかにそこで、まさしく救世観音がそのような言葉によって、彼に妻帯を命じられたのを聞いたのである。彼は固くそれを信じた。それを信じなかったなら、彼は僧でありながら、あえて公然たる妻帯に踏み切るという従来のモラルではとうてい許されない瀆心(とくしん)の行動にたえられなかったにちがいない」と。
フロイトによると、人は欲求不満や葛藤による破局を予感すると不安になり、そのような状況を前もって避け、自己を防衛しようとする無意識的な反応を表すという。このような心理を「防衛機制」(ディフェンス・メカニズム)といい、「逃避」や「昇華」など十一の規制を挙げている。親鸞の場合はそのなかの「合理化」に相当するだろう。合理化とは、何かもっともらしい理屈をつけて、自己を正当化しようとする防衛機制で、「酸っぱいブドウ」と「甘いレモン」がこの例である。
「酸っぱいブドウ」とは、努力しても入手できない目標の価値を低めることによって緊張の解消をはかる自己弁護である。親鸞の場合の「酸っぱいブドウ」は、自分が守れない戒律仏教を自力仏教(法然のいう聖道門)として下に見たことである。
「甘いレモン」は、自分が所持しているものの価値を最大評価する「防衛機制」である。親鸞の場合の「甘いレモン」は、自分が救われた浄土教こそが仏の真の教え(法然のいう浄土門)であり他の宗派より勝るとしたことである。親鸞が、いわれるように自己凝視の人ならば、自己の信仰動機が煩悩から発した自己正当化ではないかと気づかないはずはないと思うのだが、この辺も私にとって親鸞が今一つわかりにくいところである。
親鸞のパーソナリティーには、現実の直接体験にとらわれやすいところがあるようだ。空海の場合は目下直接体験をしている自分を一段高いところから眺めるもう一人の自分(体験の間接性)をもつ人である。このような人は一方にのめり込むことがない。精神的なバランスが狂いにくいし、マインド・コントロールもされにくい。空海は三密行の三昧以外は常に覚めた人であったように思われる。
ところで、自力では往生できないとなれば、自力の釈尊は極楽往生していないことになる。自力を交える者は決して真仏土(本物の極楽)に往生することはできず、辺地である方便化土(化身土)に往生するというのだが、この考えは『大無量寿経』に依拠しており、これを親鸞は「双樹林下の往生」という教学用語で説明する。
双樹林下というのは、釈尊が沙羅双樹の林で往生したという伝説に基づくもので、釈迦のような往生を双樹林下往生という。つまり聖徳太子を通して親鸞に阿弥陀他力を教えたお釈迦様は、自分は自力ゆえにせいぜい方便化土にしか往生できないことを認めているという話になる。親鸞は化身土(方便化土)では仏成できないと明確にいっている。私は釈尊を仏(ブッダ)だと思っていたが、釈尊は実はブッダではないことになる。仏教徒からするとなんとも面妖なストーリーである。
もっとも実際の釈尊にとってはどうでもいいことであろう。釈尊は死後の世界を積極的に語ってはいない。死後の生存の有無のような形而上学的な質問には「無記」の態度をとっている。釈尊はあくまでもこの世の理法を説いた人である。第一仏教は無我である。個我のない者が、死後もあの世で生きるなどという発想自体が個我への執着ではないか。浄土思想は大乗仏教から生まれた思想とはいえ、釈迦と極楽浄土、さらに肉食妻帯を結びつけることに、親鸞は矛盾を感じなかったのかという疑問が生じる。
さて、親鸞は比叡山を捨てて法然の門下に入り、熱烈な法然の信奉者になった。彼はその気持ちをこのようにいっている。
「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」(『歎異抄』)
「たとえ法然聖人の仰ったことがでたらめであり、私は法然聖人にだまされて念仏をしたために地獄に落ちてもちっとも後悔はしません」と盲信的とも受け取れることをいっている。ともに地獄の果てまでついて行くということは、要するに全面的に法然聖人の教え受け入れ、信じ込んでいるということである。
であれば法然が定めた「浄土三部経」をそのまま受持するのかと思えば、そうでもない。師の法然は『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を浄土教の根本経典と定めだ。だが親鸞は『観無量寿経』『阿弥陀経』を一段低く見て、真の教えは『大無量寿経』であるという。親鸞は『観無量寿経』を他力の中の自力の経典と解釈している。すなわち本当の他力は『大無量寿経』(以下『大経』)一典のみであるという。『教行信証』「教の巻」の冒頭「それ眞實の教をあらはさば、すなわち大無量壽經これなり」という宣言がそれである。結果的に師たる法然の浄土教をそのまま受け入れてはいないことにならないか。かくして浄土真宗は根本経典を『大経』この一典に絞ってきた。もちろん師の発想を批判発展させることは現代の学界でもよくある。だが地獄の底までついて行くと決意した割には、『七箇条起請文』の背信ともあわせて、どこかすっきりしないものを感じる。
偽善を憎む親鸞の気持ちが分からなくもない。戒律の比叡山においても、当時妻をもつ者や女犯をする学僧は珍しくなかった。また寺院の領地を守らんとする僧兵集団が朝廷に強訴するなど、およそ仏道を逸脱し、戒律はタテマエと化してしまった山法師の偽善を、純粋な親鸞は心の底から憎んだのだろう。堕落した僧侶たち!破戒僧たち!と。現代の文化人は、権力や上辺の道徳に反逆するこのような親鸞をとりわけ好むようである。
だが、やはり私は思うのだ。人はきっと笑うだろうが、表向きは戒律を説きながら女犯する彼らにも、もしかすると別の場所で別の菩薩が女犯の夢告を与えたのかもしれない。救世観音でなくとも美女の吉祥天かも弁財天かもしれない。千手観音かもしれない。何しろ観音菩薩は三十三の姿に変身して衆生の苦悩を救ってくださる。美人に変身することなどわけはないのだ。俺は○○観音の夢告を得た。俺は○○菩薩のお墨付きを得た。もし彼らがそのように強弁したら、肉食妻帯の親鸞はどうして彼らの堕落を責めることができるだろうかと。
笑いごとではない。堕落した彼らも同じ人間である。もしかすると内心は良心に責められつつやっているのかもしれない。どうして自分だけに女犯の許可が与えられたと思えるのか。自分は選ばれたる僧で、彼らは選別にもれた僧だというしかない。どうしてそのような結論になるのかと、ついアホなことまで考え込むのである。
法然の専修念仏とは、一心に南無阿弥陀仏という念仏を唱えれば何人も必ず極楽浄土に往生ができるという全く新しい教えである。末法脅迫の時代、法然の浄土教は民衆だけでなく、武士や貴族など多くの人々の間に浸透していた。なにしろ、叡山の大秀才であり、勢至菩薩の生まれ変わりと噂される法然聖人の教えである。しかも僧にとっては念仏以外従来のような修行もいらない。戒律を守り(戒)、瞑想をし(定)、知恵を磨く(慧)という僧侶の基本修行は不要である。庶民にとっては学問も知識も不要なだけでなく、寺院への布施も不要となれば、こんなにありがたい教えはない。
当然、旧仏教側が面白いはずはない。これでは日本仏教の伝統が崩壊し、自分たちのレーゾンデートル(存在理由)も危うくなる。何とかして法然の新興宗教を止めさせようと政府に働きかけるが、朝廷は仏教界のトラブルに巻き込まれたくないのか、なかなか腰を上げようとはしない。むしろ朝廷は法然を保護する立場にいた。当時浄土思想は仏教界の主流にあったので、朝廷にも信者は多くいた。実は摂政・九条兼実も法然の信者だったのである。既成宗教は法然に対して轟々たる非難の声を上げるが、兼実のようなシンパが朝廷にいては、いかんともしがたい。
ところがここに一つの事件が起きた。法然の弟子に、住蓮、安楽という僧がいた。二人は稀代の美僧であり、「六時礼賛」を歌って浄土教を広めていた。美男のうえに美声であった彼らは多くの女性ファンを得ていた。もちろん宮廷の女官の中にもファンはいた。後鳥上皇が熊野に参詣していた留守中、上皇が寵愛していた二人の女官が、住蓮、安楽と密通したうえ、二人のもとに身を寄せてしまった。このことが後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、とうとう専修念仏の停止(ちょうじ)ということになったのである。
その結果、住蓮、安楽は死罪、法然は四国の土佐に流罪となった。その他、多くの高弟達もそれぞれ流罪の裁きを受け、親鸞も越後へ流罪と決まった。何百人もいる法然の弟子たちの中で、まだ無名の親鸞にそれほどの責任があったとは思えない。おそらく朝廷は肉食妻帯を公言していた親鸞も、破壊の僧としては住蓮、安楽と同罪と見たのであろう。親鸞の流罪は法然に次ぐ重い刑罰である。この裁きが世にいう「承元の法難」である。
実は親鸞は、住蓮、安楽たちと共に一旦は死罪と定まっていたが、なぜか彼だけは免ぜられている。叡山の師匠である慈円の嘆願によって、罪一等を減ぜられ流罪に落ち着いたという説があるが、私は親鸞が血筋のいい貴族の出身(源頼朝の血を引く日野家の長男)であったことも考慮されたのではないかと推測する。
『歎異抄』には唯円に渡した親鸞の文書がある。それを読むと朝廷に抗議する親鸞の気持ちが伝わってくる。私たちは無罪で罰せられたという気持ちである。要約すれば、
「後鳥羽院の世に、法然聖人が他力本願の念仏宗を興した。そのとき興福寺の僧侶がこれを敵に回して朝廷に奏上した。朝廷は法然聖人の弟子の中に狼藉があるということで、『夭実(むじつ)風聞によりて罪科に処せらるる人数の事』」とある。
続けて刑に服した人数及び一連の名簿を連ねるのであるが、真っ先に、法然聖人が土佐に流罪、罪名、藤井元彦(もとひこ)生年七十六歳とある。つまり、もはや僧ではないというわけである。次に親鸞は越後の国に流罪で、罪名を藤井善信(よしざね)生年三十五歳とある。末弟子であった親鸞は、自ら法然聖人の次に書き載せている。また還俗姓も法然と同じ藤井である。梅原は親鸞が師法然と同列に見られたことに、親鸞の誇らしげな気分を読み取っている。師と並べて自分の流罪を載せる、先輩たちよりも先に名簿に載せる書き方に、確かにそのような気分を感じる。
実をいうと、法然は土佐に流されず伊予に止められ、ついで備前に移された。しかしそういうことを親鸞は書かずに、土佐への流罪という罪名を書く。法然の流罪はいちばん重く、次に親鸞だというわけである。問題は最後の一文。
「流罪以後、愚禿親鸞令書給也(るざいいご、ぐとくしんらんとかかしめたまふなり)」である。禿とは俗でも僧でもない、いわば化外の民、治外の民である。愚かなナラズモノという意味に近いだろう。親鸞は朝廷につけられた藤井という姓の代わりに、愚禿という奇妙な姓をつけ、あくまで僧名親鸞を名乗る。朝廷は何故かこれを咎めなかったそうであるが、梅原は親鸞のこの僧名に、彼の自嘲の響きと、それ以上に朝廷に対する抗議の意志が隠されているようだという。私も親鸞の朝廷に対するただならぬ底意を感じる。
改めてこの一文を含む全文を読んでみよう。
「親鸞、僧儀を改めて俗名を賜ふ、仍(よっ)て僧に非ず俗に非ず、然る間、禿(とく)の字を以て姓(しやう)と為して奏聞を経られ了(をはんぬ)。彼の御申状、今に外記庁に納まると云々」とある。
愚禿とは、作家が考えるようなペンネームのようなものではなく戸籍上の姓としてお上に登録させたものだ。ここに親鸞の凄まじい憎悪を感じる。俗名を賜ったことは親鸞にとって恥辱であったにちがいない。彼は自ら俗人であることも拒否した。僧でもなく俗人でもない、俺は罪人である。かくなる上は罪人名を本名としてくれと申し出ているのだ。
政府は親鸞の腹の底を見抜けなかったのか、どうでもよかったのかもしれないが、これを受諾している。梅原は、この文章は親鸞が自己の思想の原点を確かめるために唯円に与えたものであろうという。唯円はこれをしっかり『歎異抄』の附録につけでいる。
梅原の見解に私も同感である。関東の弟子に伝えられる『親鸞聖人血脈文集』にも同文は付されているし、親鸞自身、晩年になっても、『教行信証』のあとがきまだ書いている。「主上臣下、法に背き義に違(ゐ)し、忿(いかり)をなし怨(うらみ)を結ぶ」とあるから凄まじき執念である。
法然は、流罪にした当時の政治権力を責めようとはしなかった。しかし親鸞はその逆である。自分を流罪にした旧仏教とともに、時の政治権力を激しく告発することによって、この流罪の事件をむしろ信仰の原点としている。浄土真宗が天皇家を快く思わないとすれば、それはこのような屈折した祖師の原点にあるのかもしれない。
おそらく浅はかな現代人の理屈であろうが、私は親鸞が還俗させられたとき、何故そのまま俗人で生きなかったのか疑問に思うことがある。還俗の機会は六角堂に籠る前にもあった。官僧(出家者)をやめて還俗すれば肉食妻帯に問題はないはずである。だがあくまでも還俗名を返上して僧名を名乗る。このこだわりについては後で考えるとして、愚禿親鸞、「僧ニアラズ人ニアラズ」というこの言葉の響きには何かどす黒い特殊なものを感じる。
作家の五木寛之は<仏の教えは誰のためにあるのか>という文章で「仏は朝廷や、国家や、貴族や、豪族たちのためではなく、河原の石、つぶてのごとき民草のものである」と熱く語っている(『人生の目的』)。五木が本当にそう思っているのなら、これは仏教を知らない人のいうことである。仏(釈尊)の教えは、民草だけではなく、万人普遍の教えであることはだれにでもわかることだ。
また歴史的にも正確ではない。五木がここで除外した朝廷も、貴族も、豪族たちも、その多くが当時は法然の浄土宗を信奉していた。河原の石のごとき民草に限られたものではない。五木が「河原の石、つぶてのごとき民草」のものに限定したのは、肉食妻帯に踏み切った愚禿親鸞の気持ちの受け売りにすぎない。五木は「仏の教えは誰のためにあるのか」ではなく、<浄土真宗は誰のためにあるのか>といいなおすべきである。彼の言い分は一宗派教団の代弁に過ぎない。
宗教の倫理は世俗の倫理や道徳を超えたところにある。これが信仰というものの強さであり、危険性でもあるが、親鸞の阿弥陀仏信仰は、先に彼の深い信仰体験があり、結果的に倫理や道徳を超越するものである。これを抜きには語れないものである。親鸞の「悪人正機説」は、道徳的な善人が救われるなら、どうして倫理的、道徳的、戒律的に非力な悪人が救われないことがあるものかと、逆説的にいっているのである。
これは聖書の中の「心の貧き人は幸いなれ、天国は彼らのものである」という意味に近い。現代の浄土真宗が『歎異抄』を信仰の前面に押し出すのは、弱者に対する「悪人正機説」のこうしたわかりやすさによるからだと思われる。
親鸞は叡山時代『世尊布施論』も読んでいた形跡がある。ここに登場する世尊とはブッダではなく、イエス・キリストのことである。『世尊布施論』は景教(ネストリウス派キリスト教)の聖典であり、「山上の垂訓」などが書かれている。この経典は鎌倉時代までには日本に伝わっていた。比叡山は最澄が異常な情熱で日本中の経典を収集したように、鎌倉時代の延暦寺はさらに膨大な典籍と、仏教以外にも医学や天文暦学・農業・土木など世俗的な知識・技術が蓄積されていた。宗教的施設というより、一種の総合大学のような存在であった。であれば『世尊布施論』が多数の学僧の眼に触れていたとしてもなんら不思議はない。
もしかすると道元も日蓮も目にしたかもしれない。私は急速に一神教化する鎌倉仏教の特徴の背景にそのようなものを感じることがある。他宗を極端に排撃しておのが教団を絶対化する原理主義は本来釈迦仏教にはなかったはずだ。いずれにせよ親鸞は真剣に読んだようだ。現在の浄土真宗は『世尊布施論』をあまり表沙汰にはしないが、西本願寺では宝物として大切に保管されている。
ともかく親鸞は越後という辺境の地に流罪となった。ところが越後時代の親鸞を語る資料はない。ただ、このとき恵信尼と結ばれたことは確からしい。では京都時代の妻はだれか。これも定説はない(最近梅原は九条兼実の娘日玉だという新説を出しているが)。恵信尼は越後の受領クラスの家柄の娘であり、血筋も明らかであり、かなり高い知性と教養をもっていた。親鸞は越後の貧農の娘を妻にしたわけではない。この越後時代からの妻恵信尼は、親鸞を深く愛し理解していたことは彼女の手紙を通して感じられる。
五木のような文化人がそうであるように、現代人は、親鸞は貧しい底辺の民草とともに生きた人のような印象をもつ。であれば、越後という貧しい辺境の地において、私度僧として人々のために何か利他行(菩薩行)をしたのだろうか。そういう記録や資料は一切ない。ただ妻の恵信尼は地主の娘であったため、一切の生活手段を失った親鸞にとって、結婚は有利にはたらいていたという歴史家は多い。
ちなみに旧仏教の行基が庶民のためにどれだけ働いたか、浄瑠璃寺住職佐伯快勝師によると、公式の記録として認められているものは、溜池の造築だけでも十五あり、用水路が七つ、それから架橋が六つ、水門を造ったのが三つ、堀川を掘ったのが四つ、船泊まり、港を造ったのが二つ。それから、苦しんでいる人たちを、誰でもそこへ招いて、介護しながら食べ物を食べさす「布施屋(ふせや)」が実に九カ所作られたという。私度僧行基は、親鸞が極楽から往還してから行うという菩薩行は生前に済ませている。だから行基菩薩と称されて庶民に慕われたのである。
越後時代の親鸞を知る資料はないが、親鸞の布教活動が東国から始まったことは明らかにされている。親鸞が、なぜ常陸の国稲田に移って伝道活動を開始したのか、この理由も不明である。そこに恵信尼の父の所領があったとか、稲田に『大蔵経』があり、『教行信証』を書くために多くの経典を見る必要があったとか、いろいろな説はあるがどれも確証はない。ともかく親鸞はここではじめて宗教的伝道者となるのである。
親鸞が布教を始めるようになった切っ掛けは、彼の中に、信仰におけるある確信が生まれたからではないかと思われる。常陸国での伝道の前に、親鸞が述べた不思議な体験談が『恵信尼文書』にみられる。寛喜三年(1231)親鸞は風邪を引いて数日ひどい高熱に苦しんだ。朦朧とした意識状態の中、これまで幾度も読んだ『浄土三部経』の文字が次々に浮かんでくる。そこで彼はこれまで『浄土三部経』を衆生利益のために読んでいたことに気がつくのである。
これは何事だ?自分はまだ学問知識に頼っている。経の言葉に、「自信教人信、難中転更難」(自らを信じて人を信ぜしめるのは、難しいことのなかでとりわけ難しいことだ)という言葉がある。名号(南無阿弥陀仏)以外に、何の不足があって経を読もうとするのかと思い返して、以後、経を読むことを止めたと妻に語った。そして、常陸へ行ったと『恵信尼文書』は伝えている。
私はこの体験は、親鸞がまだ自らの内にも残っていた他力の中の自力に気がついた瞬間だと思う。念仏生活を営む者にとっては、われら凡夫に名号となってはたらきかけるのは阿弥陀仏の力によるものであって、凡夫の力によるものではない、という阿弥陀他力のありがたさと救いを感得した。親鸞が実質的に絶対他力の信仰者になった瞬間だと思う。
布教者は学者であってはいけないのである。布教ということは、学問とは根本的に違う。伝道において、最終的に頼るべきものは「善知識」ではない。「信仰」である。純潔無比なひとすじの信仰である。親鸞はそう確信した。
ここで親鸞は二度目の変身をしたのである。一度目は肉食妻帯の破戒僧として、二度目は信仰の本質を悟ることによって。であれば、親鸞の苦悩はこの時点で一応救われていたと思う。親鸞は自らの気づきによって、阿弥陀一筋による信仰心の発見によってついに自らを救ったのだ。素晴らしいではないか。自己の信仰を築き自己を救うなら、これも一つの「自灯明」である。それでいいではなか。
だが、親鸞が「自灯明」の真の意味に近づくのは、実はこの時ではなかった。それは妻子や弟子たちとも離れた晩年になってのことである・・・というのは私の見解であるが、この論証を含めて、もう少し親鸞を追跡していこう。(続く)
<引用及び参考文献>
『仏教の思想Ⅰ』梅原猛著作集51982
『仏教の思想Ⅱ』梅原猛著作集61982
『親鸞の告白』梅原猛2006
『誤解された歎異抄』梅原猛1990
『歎異抄をひらく』高森顕徹2008
『私訳歎異抄』五木寛之2007
『人生の目的』五木寛之2000
『親鸞・いまを生きる』姜尚中・田口ランディ・本多弘之2011
『親鸞とその妻の手紙』石田瑞磨1975
『教行信証』親鸞著 金子大栄 校訂1991
『教行信証を読むー親鸞の世界へ』山折哲雄2010
『鎌倉仏教』佐藤弘夫2014
★空海関係は省略