エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海の生涯

トップページ > 空海の生涯 > 空海誕生 > 018「沙弥」教海の仏教教理への昂ぶり

018「沙弥」教海の仏教教理への昂ぶり

 四国の行場から久しぶりに奈良に帰った真魚には、深山幽谷や海浜洞窟での修行や虚空蔵求聞持法の修法中に浮んでくる妄想や雑念や言葉などの深層意識をどう制御したらいいのか、仏教の瞑想法や教理を本格的に学びたいというモチベーションが高まっていた。

 ある日大安寺勤操を訪ねそのことを明かしたかと思われる。勤操は真魚の並外れた知力・体力・精神力の高さに改めて驚きながら、それを解決する手立てとして官大寺の三論法相華厳の講筵に列するためにも、出家をして正式な仏教僧になることを勧めたであろう。勤操は、真魚の機根や才気からして国家にとって有為の大器になるであろう大いなる可能性を見出していたから、当面は沙弥となって仏教の修学や修行に専念しその先に機会をえて東大寺で「具足戒」を受け官僧になることを勧めたにちがいない。

 延暦12年(793)、おそらく春から夏にかけての頃、真魚は和泉槇尾山寺において勤操に従って剃髪受戒し、大安寺所属の沙弥「教海」となった。それ以後教海は私度僧であるものの、大安寺の見習い僧として南都の官大寺の各種講筵に出入りできるある種公的な身分となった。

life_018_img-01.jpg
life_018_img-02.jpg

 南都では、倶舎宗『阿毘達磨倶舎論』)・成実宗『成実論』)・法相宗『成唯識論』)・三論宗『中論』 『百論』 『十二門論』)・華厳宗華厳経)・律宗『四分律』)のいわゆる南都六宗が、小乗から大乗に至る主要な仏教教理の学解や戒律の実践を官大寺において行っていた。

 教海の止宿先である佐伯院の北方に官大寺のなかで最も古い元興寺があった。教海は勤操や大安寺で知遇をえている内外の僧たちの紹介で、以前からこの寺に自由に出入りすることができたと思われる。この元興寺で教海は飛鳥以来この寺が伝統としている法相・三論を学び、その僧たちとも多く交わったに相違ない。
 その交わりのなかに、護命という神叡の法流に連なる年長の官僧がいた。若い頃から勝虞(しょうぐ)らとともに元興寺の教学を担い、とくに法相・倶舎に通じ『大乗法相研神章』などを残す一方、吉野比蘇(曽)寺「自然智」宗に属し、月の上半は山林で虚空蔵求聞持法を修練し月の下半は元興寺で法相・倶舎の学解につとめた。
教海はこの時期この護命の行学の方法に範をとっていたのではないか。おそらく求聞持法と法相の実際的な最初の指南役はこの護命ではなかっただろうか。『性霊集』(巻十)に84才まで生きた護命の長寿を寿ぐ二編の詩が収められている。

 護命はまた、永く広く南都の仏教界にかかわり、僧綱所の中心にあって国家仏教の護持興隆に意を用いた。とくに、最澄の大乗戒壇に一貫して反対したことはつとに有名である。蛇足ながら、護命の出自である秦氏は、後に伏見稲荷東寺また稲荷祭御霊会などを通じて空海と深い関係をもつことになる。それもこの護命の縁であったであろうか。

 後に教海が入唐直前に東大寺で「具足戒」を受け(空海と名の)ることになる泰信律師(唐僧)もこの寺にいた。
 また、後に最澄の使いとして空海との間を往復する泰範も、この元興寺で法相・三論の学を修めた僧である。当時大安寺に出入りしていた最澄が泰範と出会ったのもこの元興寺ではなかったか。泰範は学識・志操ともに勝れ、若くはあったがすでに官僧になっていた。教海は多分泰範とここで交わっていたかと思われる。まだ一介の沙弥になったばかりの教海にとり仏教の学識や志操に富む若き官僧泰範がまぶしく見えたにちがいない。その交わりもあって、最澄は空海との連絡役を泰範にさせたのではないか。

 元興寺はもと、飛鳥の地に蘇我馬子によって建立されたわが国最古の寺「法興寺(飛鳥寺)」を平城京に移したもので、真魚が講筵に参じた頃の伽藍は現在復興中の薬師寺と同様、広大な寺域に金堂・講堂・五重塔・僧坊・南大門・中門・回廊そして小塔院・観音堂等を擁する天平様式の大伽藍で、東大寺に次ぐ大規模のものであったという。今の奈良町一帯は、この寺域のなかであった。

life_018_img-03.jpg
法興寺(飛鳥寺)伽藍推定図
life_018_img-04.jpg
現在の飛鳥寺本尊、釈迦如来
life_018_img-05.jpg
元興寺伽藍古図

 その元興寺が今ほどに荒廃した背景や理由にはよほどの苦難があったと想像されるが、教海が上京した頃から長岡への遷都にともなって貴族や僧が奈良にいなくなり、寺領・荘園からの収入も減り寺勢が衰えたことがそのはじまりであったといわれている。
 鎌倉時代には浄土信仰の発祥の地として復興のきざしも見えたが、室町時代に一揆に見舞われたりして再び衰退した。さらに日本の寺院のほとんどが被害をこうむった明治の廃仏毀釈が相当なダメージを与えたであろうことは想像に難くない。
明治・大正・昭和と無住時代が続き、そして太平洋戦争。戦後の復興にも取り残されたらしい形跡が伽藍のあちこちにうかがえる。

 今の伽藍は奈良の街にひっそりと壊れそうにたたずんでいる。東の門をくぐると正面に極楽坊本堂(極楽堂、曼荼羅堂)が目に入る。このお堂は元興寺東室南階大坊(住坊)の一部で、内陣には奈良時代の僧坊の身舎部を残し、西面の屋根には飛鳥から移築された際に運ばれた行基葺古瓦が見える。

life_018_img-06.jpg
life_018_img-07.jpg
life_018_img-08.jpg

 またこの極楽堂は、わが国浄土宗6祖中の第1祖智光法師が感得した浄土曼荼羅を本尊とし、鎌倉時代に寄棟造りに大改築された浄土発祥の聖堂といわれている。極楽堂の前を左手に行くと正面に講堂の礎石が並んでいる。平成10年に境内西側から発掘された。僧坊(禅堂)以外はすべて伽藍が失われた元興寺の創建当時を偲ぶことができる貴重な資料である。
 極楽堂の左手奥に進むと、南庭があり桔梗の花のなかに無数の墓石が建ち並んでいる。毎年、8月の23日と24日には恒例の地蔵盆が行われ無縁仏のお墓にお灯明が供えられる。
 この南庭に平行し極楽堂に接して僧坊が建っている。明治時代には僧坊は学校の教室として使われていた。この建物は、飛鳥時代の屋根瓦、天平時代の建築資材、そして鎌倉時代の建築様式で建てられたという。小塔院跡には護命のお墓がひっそりと建っている。

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.