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025 具足戒を受け「官僧」空海へ

 東大寺で空海が「具足戒」を受けた時期に諸説ある。
 近年における東大寺きっての学僧であり別当をつとめられた平岡定海先生は、『金剛寺文書』や『日本高僧伝要文抄』や『弘法大師伝』の検討の結果、延暦23年(804)4月7日説を採らず、空海が『聾瞽指帰』(『三教指帰』)を著す前々年の延暦14年(795)4月9日を選んでおられる(「弘法大師と東大寺」高野山開創千百五十年記念密教学密教史論文集)。
 ただ、先生は「(延暦23年説は)入唐当日に東大寺に行くことはあまりに事が急すぎる」との理由を注記されているが、出航当日すなわち難波ノ津を第十六次遣唐使船が出るのは同年5月12日であり、先生のご判断の根拠に疑問が残る。

 また司馬遼太郎によれば、『梅園奇賞』という本に空海が得度をした際の太政官符が次のように載っているという。

□僧空海
俗名 讃岐国多度郡方田郷 戸主正六位上佐伯直道長 戸口同姓真魚
右 去延暦廿二年四月七日出家□□□□□□承和□□度之到奉行

 これによると、渡唐(延暦23年)の前年に空海は「具足戒」を受けていたことになる。ただし、この『梅園奇賞』が歴史資料としてどこまで信頼できるかよくわからない。

 後の聖宝(理源大師)は、延暦23年(804)4月9日に授戒し6月に出航したという。

 そこで、本稿は平岡先生の延暦14年説にうなずきながらも、延暦23年4月7日の受戒から同年5月12日の遣唐使船乗船まで約1ヵ月というあわただしさこそが空海の入唐風景にふさわしいという理由で、一般に多い延暦23年4月7日説を採ることとした。

 得度授戒の師は元興寺の唐僧泰信律師、(教授・唄師・承仕役などで)立ち会ったのは東大寺の安禎・真良・安曁・薬上の諸律師だったという。おそらく勤操が上座で陪席し、親族席には阿刀大足が上席に坐ったであろう。
 「度牒願」はその日のうちに僧綱所に出され、その日のうちに受理され、日を待つことなく官僧の「空海」が誕生したにちがいない。いや、あるいは度牒と同時に第十六次遣唐使船乗船と在唐20年の留学生の許可も正式に出たかもしれない。空海の場合、「具足戒」の受戒は入唐留学手続きの最終的な形式であって、実質上はすでに勤操や阿刀大足らの身元保証で朝廷に根回しを行い内定をとっていたと思われる。
 僧綱所には件の護命が元興寺から出仕していたはずで、授戒の師の泰信律師とともに空海が官僧になることについて積極的にこれを歓迎をしたことは想像に難くない。

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 「空海」という僧名は、「空」は中観の「空」(「十住心」第七)、「海」が華厳の「海印三昧」(「十住心」第九)の「海」だという先学の説がある。この時期、空海の華厳理解が相当に進んでいたともいえる解釈であろう。私はこの説に納得している。

 当時仏教僧の入門として、20才以前の場合は「沙弥戒」(在家信者が守るべき五戒に修行者として守るべき五戒を加えた十戒、「十善戒」とは異なる)を授けて沙弥と認定し、20才以後の成人の場合は「具足戒」を授けて僧(比丘)と認めた。
 「具足戒」とは、わが国でさかんに依用された「四分律」でいう「比丘の二百五十戒」のほか、「五分律」「十誦律」「摩訶僧祇律」「根本説一切有部律」でもそれに近い戒数が定められている20才以上の男子出家僧(比丘)の守るべき戒律である。
 それを開けば、出家僧が最も犯してはならない極重罪(波羅夷法、四ヶ条)、波羅夷法に次ぐ僧の重大な罪(僧残法、十三ヶ条)、上の二つの罪が疑われても仕方がない罪(不定法、二ヶ条)、僧の所有物あるいは物の所有法に関する罪(尼薩耆波逸提法、三十ヶ条)、僧にふさわしくない行為の罪(波逸提法、九十ヶ条)、食事の布施を受けている際に犯してはならない罪(波羅提提舎尼法、四ヶ条)、僧の生活全般、着衣や食作法、法儀の約束ごと、説法の仕方などに関する罪(衆学法、百ヶ条)、教団内の争論・対立を収拾する規定や僧の違背行為を裁く際の裁判運営法(滅諍法、七ヶ条)である。

 この官僧認定につながる「具足戒」は、国家仏教の中心である東大寺と、東国の下野薬師寺、西国の太宰府観世音寺でしか授戒できなかった。

 余談ながら、桓武天皇の庇護のもとで国家仏教の中心になろうとした最澄の最も希っていたことは、比叡山に大乗「菩薩戒」を授ける戒壇院設置の認可を受け、東大寺の「具足戒」を頂点とする南都仏教の絶大な権限に対抗することではなかったか。「具足戒」そのものは仏教僧の修行生活を厳格に保持する倫理規定ではあるが、その「具足戒」を前提とする官僧の国家認定の側面には国家仏教の権力機構としての政の部分がうごめいていた。官僧の世界には天皇や朝廷貴族でも手に負えない政治権力があった。

 31才の空海は、それもこれも承知の上で官僧の世界に入った。後の空海の南都仏教への対応(例えば、東大寺別当になったり、藤原北家藤原内麻呂の依頼で興福寺南円堂の設計監督に当ったり、興福寺きっての学僧徳一に慇懃に接したり、「十住心」で華厳(「極無自性心」)を高い段階に置いたり、ひいては南都仏教勢力にとっては好ましからざる最澄には距離を置くなど)が非常に好意的であったところを見ても、前から南都の官界には知遇をえていて官僧の世界の表も裏も熟知していたのであろう。
 そういう現実を踏まえた上で、空海は在唐20年の義務がある留学生になることを決めたのである。もちろん勤操ほか大安寺の僧たちや東大寺や朝廷貴族のサポートもあったであろう。出直しの第十六次遣唐使船の乗員に欠員があったか、彼らの政治力で空海の増員を朝廷に認めさせたか、いずれにしても私費ながら留学生の許可が出たのである。
 研究者に、空海渡唐の許可は、当時人法ともに低落傾向にあった三論宗補強索の一枠だった可能性を言う説があるが、入唐留学前後や長安での空海の動向からして符合するものがない。

 今、東大寺大仏殿の西方にひっそりたたずむ戒壇院の前に立ち、ここで空海がどんなことを胸に秘めて受戒の場にのぞんだのか、一度大学寮を出奔して捨てた「官」の立場を敢えてまたえようとする胸中を聞いてみたくなる。
 かつて和辻哲郎が『古寺巡礼』に書き、土門拳がカメラにおさめた四天王が、戒壇の四方を守護して今も立っている。東南西北を順に持(国天)・増(長天)・広(目天)・多(聞天)、「じ・ぞう・こう・た」とおぼえる。

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