空海は、同時代の先輩で日光を開山した勝道上人のために、弘仁5年(814)、「沙門勝道、山水ヲ歴テ玄珠ヲ瑩クノ碑并ビニ序」を書いて賞賛し、日光山が観音の浄土(補陀洛山)であると記し、すでにその時代に東国のはてで補陀洛信仰の行われていたことを明らかにしている。
「日光(にっこう)」は後世の当て字で、もともとは「二荒(にこう、ふたら)」で「補陀洛」(ふだらく、ポータラカ(観音の聖山))。紀伊山地の参詣道に先んじて世界遺産に登録された日光だが、今も二荒山神社と立木観音が奥日光の中禅寺湖畔に併存し、二荒山神社と東照宮と輪王寺の二社一寺が市内に共存している。この補陀洛浄土に東照大権現となって徳川家康が眠っている。
熊野の「クマ」は「隈」で、山々が幾重にも重なる奥まった地形の意味で、『日本書紀』にも伊弉冉尊(イザナミノミコト)の葬送地の伝説があり、古来、「黄泉の国」や「根の国」つまり死者の霊がおもむく「他界」だとみなされた。
空海の頃には仏教の影響を受けて「常世」「黄泉の国」「他界」に仏の「浄土」という観念が重なり熊野は観音の補陀洛浄土であると信じられるようになった。最終章「普門品」第二十五で観音信仰の利益を説く『法華経』の持経行者や、補陀洛信仰の海辺の行者たちも熊野に入るようになり、神奈備の山や里や海辺が仏教を受容して次第に神仏の習合するところとなった。
空海の後、仏教が阿弥陀信仰の浄土思想に傾くと、本宮の祭神・家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)を阿弥陀如来とみなすなど、神仏を融合し異なる二つの聖なるものを一体化して両立する日本人独特の知恵としての本地垂迹が、熊野三山の信仰を支えるようになった。
「常世」といい「黄泉の国」といい「他界」といい「浄土」といい、熊野は死者を浄化する聖地だった。その熊野に深い山中での「擬死再生」(山中で一度死に蘇って帰る)の体験を積む熊野修験が盛んになり、法皇や上皇や皇族が「蟻の熊野詣」を行う際にも道中修験者の作法に従い、祓いや(水)垢離で身心を清め、王子社に御幣を納め経供養を行うようになる。
熊野というバーチャルな「黄泉の国」に詣で、そこで一度死んだこととし(擬死)、またよみがえってもとに帰る(再生)、という生命の再生装置が熊野をして熊野たらしめる根本原理であった。やがてこの擬死再生体験のシステムは時代を越えて四国(死国)に伝わることになる。
世界遺産となった熊野古道はそのすべてが本宮をめざしている。京や難波から紀伊半島西部の海べりを南下する「紀伊路」、「紀伊路」から紀伊田辺で分かれ山路を越える「中辺路」、紀伊田辺で分かれずにそのまま海べりをたどり東部の那智勝浦から入る「大辺路」、高野山から下り山道を本宮へほぼ直行する「小辺路」、伊勢から紀伊半島の東部を南下し新宮から入る「伊勢路」、そして吉野からの「大峯奥駆道」である。
この霊地熊野への往還の道を辺路(へち、へぢ)といった。その辺路(へち、へぢ)を歩いて行場に往き、そこで修行をする行者を辺路(へんろ)といった。辺路(へんろ)は後に遍路となり四国霊場を順拝する人のことを指すようになるが、熊野信仰や熊野修験や熊野詣や辺路の観念が四国遍路の底流となっていることは疑いない。然るに、熊野辺路が往還なのに対して四国遍路は循環であることが世界の聖地巡礼の例としても珍しく、また新しい。
熊野は霊地であり聖域である。そうした霊域には古来女人禁制の規制が厳しく布かれたものだが、熊野は老若男女や身分階級や出家在家などの区別なく詣でる人を拒まなかった。とくに近代になって、長い時期一般社会から隔離され非人間的扱いを受けてきたハンセン病患者の人たちを受け入れていたことは特筆に価する。
本宮の主神は家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ、家都御子大神ともいう)で、本地仏は阿弥陀如来。新宮の主神は熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)で、本地仏は薬師如来。那智の主神は熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ、熊野結大神ともいう)で、本地仏は千手観音である。
熊野三山はもともと別々の信仰だったものが、本地垂迹という信仰形態によって本宮の極楽浄土が来世の救済を、新宮の瑠璃光浄土が過去世の罪悪の除去を、那智の補陀洛浄土が現世の利益を受持つという三位一体の信仰システムに再編されたのである。
本宮はもと、熊野川・音無川・岩田川の合流地点の中洲、現在地から500m下流の「大斎原」にあったが、明治22年の大洪水で大きな被害を受け現在は近くの高台に移築された。この「大斎原」には12の社殿や神楽殿や能舞台などがあり、今の本宮大社の8倍の規模を誇っていたという。本宮は熊野三山と熊野信仰の中心であり、日本全国に3000以上ある熊野神社の総本宮である。
大鳥居をくぐって参道を進み158段の石段を登る。その両脇には熊野大権現と書かれた奉納幟がたくさん立ち並んでいる。石段を登りきると正面に神門、向かって左手には礼殿が見える。神門をくぐると広大な神域に4棟の社殿が静かに重々しく並んでいる。中央が第三殿の本社である。証誠殿といわれ、主神の家都美御子大神(または家都御子大神)が祀られている。
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新宮(熊野速玉大社)はもとは新宮の市街地から約1~2㎞ほど南に位置する神倉山の巨岩「ゴトビキ岩」をご神体としたという説があり、古くから熊野川の河口付近に鎮座している。
JR紀勢本線「新宮」駅から徒歩で15分、車で5~6分のところに速玉大社があり、すぐ朱塗りの鳥居が目に飛び込んでくる。鳥居をくぐって参道を進み摂末社を右手に見ながら行くと、右に神宝館が、その左には樹齢千年といわれる堂々たる梛(なぎ)の木が立っている。昔、熊野三山の造営奉行だった平重盛が植えたと伝えられ、今は国の天然記念物に指定されている。梛(なぎ)は熊野三山の御神木で、その葉を笠の代りにかざすと魔除けになり、熊野詣の道中災いから身を守ってくれるという。またその種を使ったナギ人形は縁結びや夫婦円満のご利益があるといわれている。
さらに参道を進むと神門に出る。神門をくぐると昭和期に再建された真新しい朱塗りの社殿が五棟並んでいる。左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿、第四殿、神倉宮の三社相殿、第五殿から第十二殿までの八社相殿である。
向って左手の方に礼殿があり、その前に第一本社と第二本社が並んで建っている。第一本社は、結宮(ムスビノミヤ)といい、熊野結大神(クマノムスビノオオカミ、那智大社の主神)を祀り、第二本社は、速玉宮(ハヤタマグウ)といい、熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)を祀っている。この二神が速玉大社の主神である。「速玉」が男神、「結」が女神の夫婦神で、もともとは一社殿に祀られていたそうである。
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那智大社は今は那智山中腹の高台にあるが、もともとは「那智の滝」の滝壷の付近にあったといわれている。社殿は、南向きの礼殿のうしろ正面に朱塗りの社殿が五棟、その左側に八神を合祀する八社殿と、合わせて13(熊野十三所権現)の社殿がカギの手に立ち並んでいる。
主神は正面向かって左から2番目の第四殿に祀られている。結宮(ムスビノミヤ)とも呼ばれ、伊弉冉尊(イザナミノミコト)と同体とされている。
那智といえば落差133mの日本一の直瀑「那智の滝」の名で知られているが、ここにはこの大滝を「一の滝」として48の行場になっている滝があり、滝をご神体と仰ぎ水垢離をはじめとして大峯奥駆行など厳しい修行を行う修験道が青岸渡寺(天台宗系)の指導で現在も実践されている。
大滝には現在熊野那智大社別宮飛瀧神社があり、大己貴命(オオナムジノミコト)が祀られているが、社とはいっても本殿も拝殿もなく滝を直接拝むのである。この祭神の本地仏は千手観音とされ、飛瀧権現(ひろうごんげん)と呼ばれている。大滝の岩壁には千手観音の磨崖仏が彫られ、大滝の近くには千手堂が建っていたようであるが大地震の際に岸壁が崩落してしまったそうである。千手堂も今はない。しかしこの千手堂に代るかのように、飛瀧権現本地千手観世音菩薩を本尊とする朱塗りの三重塔が昭和47年に再建され、那智の新たな象徴になっている。
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青岸渡寺は日本を代表する補陀洛浄土の霊域にふさわしく、西国三十三ヶ所観音霊場第一番の札所となっている。
寺伝によると、仁徳天皇の頃、インドから熊野に流れついた裸行上人が「那智の滝」の滝壷から見つけた観音像を安置して草堂をむすんだのがはじまりといわれており、その後推古天皇の時代に諸堂宇が建立され、大和の生仏上人が如意輪観音を安置しこの観音像を胎内に納めたという。この如意輪観音を本尊としたことから一般にこのお寺を如意輪堂といった。
平安時代以降は修験道場として熊野修験の一大本拠地となり、最盛期には7ヵ寺36坊を有していたが、明治期の廃仏毀釈で今は本堂を残すだけとなった。明治7年(1874)以後、正式に青岸渡寺と名づけられ天台宗の寺として再興された。今の本堂は天正15年(1587)に豊臣秀吉が弟の秀長に命じて再建したもので、室町末期の建築様式を残し重要文化財に指定されている。
中世には日本最大の霊場として栄えた熊野であったが、江戸期には紀州藩の宗教政策で神道化され、それまで熊野信仰の普及に多大な貢献を果たしてきた熊野修験者や念仏聖・熊野比丘尼らの修行や布教活動が抑圧された。その結果、熊野信仰は次第に衰微していく。
明治時代には神仏分離令により決定的なまでに衰微した。神仏習合により神と仏が渾然一体となって融和していた熊野信仰にとって、国家による神道国教化は大きなダメージとなった。これにより熊野に詣でる人は激減した。
この熊野で、真魚は海べりの行者である辺路(へんろ)と交わり、辺路が通る行者道の辺路(へち、へぢ)をつぶさに歩いた。海浜の洞窟に、波洗う岩場に、そそり立つ断崖に、そして滝壷の近くに、行場が設けられていた。
この温暖な海浜の行場で真魚は温暖な四国が育んだ自らのネイティブスピリチュアリティーを呼び覚ましていた。大自然との強い一体感を引っさげて故郷の四国に渡る決意をかためたのである。