エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海の生涯

トップページ > 空海の生涯 > 空海誕生 > 012 命がけの雑密修験

012 命がけの雑密修験

 虚空蔵求聞持法大安寺道慈律師など長安に留学した僧によって7世紀の中頃に伝えられ、奈良時代に盛んになった古代からの山岳修行にとり入れられていた。

 仏堂で行じる場合は、虚空蔵菩薩の絵図(掛軸等)を正面に掛け、その前に修法壇をしつらえて香華灯燭を供え、行者は斎戒沐浴し、威儀を正し、結跏趺坐し、行法に入る。行法のなかで虚空蔵菩薩のご真言「ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン マリ キャマリ ボリ ソワカ」(根本明=基本の真言、namo ākāśagarbhāya oṃ māli kamali mauli svāhā「虚空蔵に敬礼します。オーン。華曼よ、蓮華よ、宝冠よ、成就あれ」)を百万遍づつ唱えるのである。空海の当時は、これを好んで宇宙(虚空蔵菩薩)との交信にふさわしい野外の霊域で行った。優婆塞となった真魚は、深山幽谷や海浜岸壁の洞窟を行場にえらんだであろう。

 この虚空蔵求聞持法が山岳修行の場にもたらされる以前、日本各地の霊山で行われていたのが役行者を始祖とする修験道であった。修験者が通る行者道は山から山へ、時には里を通っても人目につかない間道で、しばしば敗軍の将とその近従がひそかに敵陣を脱出したり落ちのびたりする隠れ道にもなった。

 後醍醐天皇が隠岐島を脱出して吉野山に入る際、楠木正成が千早城から脱出する際、源義経が奥州平泉に落ちる際、「本能寺の変」の折堺にいた徳川家康明智光秀の軍に見つからないように三河に逃げた時等々、行者道や修験者のサポートに助けられた例は数え切れない。

 修験は、日本古来の山岳信仰に神道や仏教(雑密)や道教陰陽道等が習合した日本独特の山岳修行である。修験者にとって山は、神威や祖霊や仏の宿る聖なる場で、決められた時期に入り、俗世間で汚れた身心を清め、命がけの荒行を行い、山の霊力に触れて生きる力を授かり、生きかえって里の暮らしに戻る、よみがえりや再生の行場である。
 その山に住む聖なる神や仏たちも、時代が下ると仏教の仏を本地とし神道の神を垂迹とする本地垂迹(神仏習合)が行われるようになる。熊野三山の神々はその代表的な例である。
 こうして永い間日本の基層の宗教だった修験道も、明治5年に廃仏毀釈のあおりで廃止令が出され、修験の多くは仏教色を消すために神道の姿をとった。そのため、仏教と神道の両方を残し今に伝えられたのは大峯修験出羽修験だけとなってしまった。

 さて、修験の始祖役行者のことである。役行者がいつどこで生まれたのかはっきりしない。史書にはいくつかの記述があるが、舒明天皇の6年(634)1月1日、大和国茅原村、現在の御所あるいは大和郡山のあたり、というのが有力といわれている。
life_012_img-01.jpg
 17才の時、飛鳥の法興寺で渡来したばかりの仏教(小乗)を学び、後に大乗に転じたという。しかし、役行者は正式な得度をせず優婆塞(在家の修行者)であったため、僧侶の規制が厳しくなるにつれて寺にいられなくなり、慣れ親しんだ大和葛城山に入って修行を重ねたといわれる。
 19才の冬、大和葛城山を出て熊野から大峯に入りあらゆる苦行を行った。その結果たぐいまれな神通力をえ、その後箕面山の滝で修行中に龍樹(=龍猛、真言付法の第三祖)の浄土にあっという間に上昇し、密法を受法して80数日後地上に戻ったという。
 この箕面山での密法受法(死と再生の神秘体験)と、山上ヶ岳(大峯山)での蔵王権現感得(末世にふさわしい降魔を祈って金剛蔵王権現を出現させた)が彼の二大霊験として語り継がれている。また神通力によって鬼神をもよく使役したともいわれ、前鬼・後鬼の2鬼を従えていたとされる。彼は金剛・葛城山系や大峯山系にとどまらず、日本全国に霊山を拓き大宝元年(701)に世を去った。

 大峯山系に入った真魚の修行もほぼこの修験道と同様のものであっただろう。吉野ではまだおぼつかなかった虚空蔵求聞持法も身につき練磨の段階に入っていたと思われる。峰中の深山幽谷は虚空蔵(宇宙空間)と自分とが一体になる体験をするにはもってこいの行場であったが、金剛・葛城や吉野のそれ以上に苛烈で、常に命がけの危険をはらんでいた。

 今の大峰奥駆修行は、熊野本宮大社から「山上ヶ岳」の大峯山寺を経て吉野川六田の「柳の渡し」までの行程を「順峰」といい三井寺青岸渡寺(天台宗系)がこれを行い、他のほとんどは吉野から入る「逆峰」(修験宗系)である。いずれも断崖絶壁の岩場や千仞の谷の覗きなど、命がけの危険な行場や山道を踏み越える約一週間の厳しい山岳修行である。また密教的な観点から、全行程のまん中あたりに位置する「釈迦ヶ岳」手前の「両部分け」から吉野よりの北側を金剛界に、熊野よりの南を胎蔵界とみなすことになっている。

life_012_img-02.jpg
熊野本宮大社
life_012_img-03.jpg
大峯山寺
life_012_img-04.jpg
吉野、柳の渡し

 行程を略記すれば、
「柳の渡し」で吉野川に入り水垢離をとり―「銅の鳥居」(発心門)で秘歌唱和―「蔵王堂」を出発―「水分神社」「金峯神社」で新客(初参加者)のために新客修行を行い―女人結界の石標から青根ヶ峰への道に入り―「愛染宿」―「二蔵宿」―(大天井岳)―「五番関」―「洞辻茶屋」―「鍋冠行者堂」―「表の行場」(「油こぼし」「鐘掛」「お亀石」「西の覗き」)―「大峯山護持院参籠所」 ―「裏の行場」(「蟻の戸渡り」「胎内くぐり」「平等岩巡り」)―「大峯山寺」―「小篠宿」―「阿弥陀ヶ森」―「脇の宿」―「普賢岳」―(「経筥石」「笙の崫」)―「薩摩ころがし」―「稚児泊」―「七曜岳」―「行者還岳」―「講婆世宿(「聖宝宿」)―「聖宝八丁」―「弥山」―(大山レンゲ)―「八経ヶ岳」―「明星ヶ岳」―(七面山遥拝)―「楊子宿」―「仏生ヶ岳」―「孔雀ヶ岳」―(両部分け)―(椽の鼻)―「空鉢ヶ岳」―(杖捨て)―(馬の背)―(念仏橋)―「釈迦ヶ岳」―「深仙宿」―「大日岳」―「太古辻」―「前鬼山」へ直行―「裏行場」(「三重滝」「天の二十八宿」)―(小仲坊)―「前鬼口」(バスで上北山村浦向へ。民宿等で半日、休みをとる。最近の大峯奥駆修行は前鬼山からバスなどで熊野本宮・速玉大社・那智大社にお参りすることが多い)―(林道を通って行仙岳の取り口から山中に入り「太古の辻」からくる奥駆道に戻る)―「笠捨山」―「鎗ヶ岳」―「地蔵岳」―「四阿宿」―「菊ケ池」―「香精山」―(一旦里へ下山)―「上葛川」(民宿泊)―(「蜘の口」から奥駆道に戻る)―「稚児ノ森」―「花折塚」―「玉置辻」―「宝冠ノ森」―「玉置辻」―「玉置山頂」―「玉置神社」―「大森山」―「五大尊岳」―「大黒岳」―「吹越山」―「七越峯」―「備崎」(熊野川を渡る)―「大斎原」―「熊野本宮大社」に至る七日間の行程である。

life_012_img-05.jpg
西の覗き
life_012_img-06.jpg
山上の宿坊
life_012_img-07.jpg
両部分け

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.