奈良から西南約30㎞圏内に、役行者(役小角)が拓き古くから霊威の宿る山とされてきた修験の山々、大和の金剛・葛城山系がある。大学寮から姿をくらましてすぐ、修行者(優婆塞)になりたての真魚がはじめて伏したのはこの山地ではなかったか。
この山は役行者のホームグラウンドで、真魚の時代にはもう日本の山岳修行のメッカになっていたはずである。鎌倉時代前後には組織化された修験(顕)が盛んになり、大峯修験(密)とともに最盛期を迎えた。今の和歌山市加太沖の紀淡海峡友ヶ島(4島)を起点に和泉山脈から金剛山地に入り、金剛山・葛城山・二上山・逢坂を経て明神山北麓の亀の瀬まで、神霊が宿る28ヶ所に『法華経』の二十八品を1巻ずつ納める経塚が祀られた。
大和葛城山 |
金剛山 |
この峰中、大和葛城山は修験道の始祖役行者が生まれそして行場を拓いた霊山で、役行者の誕生の地には7世紀前半に舒明天皇によって建立されたという吉祥草寺が現在もあり、真魚はしばしばここで衣食の世話になっていたのではないだろうか。
さらに隣の金剛山はここも役行者のホームグラウンドだった山で、655年に役行者が創建したという転法輪寺(現在、真言宗醍醐派大本山)があり、今でも醍醐寺系の修験がさかんに行われている。往時、真魚もここに止宿させてもらったかもしれない。金剛山の頂からは、吉野から紀伊半島を南北に貫き熊野大社へと連なる大峯山系の山々が見える。
吉祥草寺 |
転法輪寺 |
空海少年ノ日、好ンデ山水ヲ渉覧セシニ、吉野ヨリ南ニ行クコト一日ニシテ、
更ニ西ニ向テ去ルコト両日程、平原ノ幽地有リ。名ヅケテ高野ト曰フ。
計ルニ紀伊國、伊都郡ノ南ニ当ル。(『性霊集』)
吉野、比曽寺跡、今の世尊寺 |
吉野には昔、吉野修験の進発地「柳の渡し」から吉野山とは対岸の側に比蘇(曽)寺という寺があった。今世尊寺となっている。そこが昔の吉野の入口である。この比蘇寺に8世紀前後の頃元興寺で義淵(玄昉・行基や道慈・道鏡らの師)から法相を学び三論・華厳も修めた神叡という唐僧がいて、20年間虚空蔵求聞持法を修してはよく成就したという。その神叡こそが真魚に求聞持法を教えた人だという話があるが、神叡は天平9年(737)に入滅していて、空海の若き日と時代が合わない。
ところで、大安寺と比蘇寺とは実は密接な関係にあった。当時、例えば法隆寺と福貴山寺、興福寺と室生寺のように、平地の寺院と求聞持法などの山林修行を行う山岳寺院とがセットの関係にある結びつきがあったのである。最澄の剃髪の師といわれる大安寺の行表はこの比蘇寺で晩年を送り大安寺に帰って亡くなっている。山林修行に強い関心をもちはじめた当時の真魚が大安寺で比蘇寺の神叡のことを聞き、葛城山から近いこの吉野に足を運び神叡の消息をたずねても不思議ではない。
「自然智」宗とは、この比蘇寺を舞台に神叡らが拓いた山林修行のグループである。大自然のなかに身を置いて真言・陀羅尼を唱えつづけ、清浄な大自然と一体になった時自らの心のなかに顕われる「一切の事物の源底をあるがままに知る」(後の『大日経』の「如実知自心」に相似)直観智をみがく雑密の一種で、元興寺や興福寺の法相僧も加わっていた。護命がこの「自然智」宗のグループのなかにいたであろうことは、『性霊集』にも見えている(巻十)。
空海の回想では「ここに、一沙門あり」、その「一沙門」に虚空蔵菩薩求聞持法を教えられたという。「一沙門」は、大安寺の勤操だと一般にいわれている。しかし別な説では、同じ大安寺の戒明だともいう。しかし私は、この「自然智」宗の護命か護命から紹介された無名の行者ではなかったかと思う。
さて吉野修験は大峯奥駆修行で、現在は金峯山修験本宗総本山金峯山寺が中心となって行う。もとは修験行者のみの女人禁制の厳格な修行であったが、今は一般の人(男性)の参加を許可し一部のコースでは女性も許している。
金峯山寺では、5月から10月まで、毎月1回、一般向けの大峯修行体験を行っている。吉野山の東南院に前日の夕方6時までに集合し、翌朝5時にワゴン車で出発。天川村洞川から入って「五番関トンネル」のところで下車。そこから入峰して「五番関」で朝食をとり、「鍋冠行者」を経て「洞辻茶屋」から「表行場」へ上る。そこで「鐘掛岩」と「西の覗き」を修行し、山上の東南院から今度は「裏行場」を修行し、大峯山寺で勤行のあと、山上の東南院で昼食。その後一路山を下り、「五番関トンネル」のところでまたワゴン車に乗り、吉野の蔵王堂に戻るというもの。これは男性に限られている。
一方女性も参加できるコースも用意されていて、同じ「五番関トンネル」のところから入峰し、女人禁制の「山上ヶ岳」の大峯山寺には入らず、「大天井岳」に登り、帰りは「大天井茶屋」跡から「百丁茶屋」跡を経て「九十丁」のところから車で蔵王堂まで帰るものである。
天川村洞川の発心門 |
吉野、蔵王堂 |
吉野は下千本・中千本・上千本・奥千本の山桜のほか、見るべき史蹟が多い。
屋島・壇ノ浦で平家一門を滅亡させ源氏勢の軍功第一であったにもかかわらず、鎌倉の頼朝の疑心と怒りに触れ、この吉野「吉水院」に逃れたものの僧たちの味方を得られず、女人禁制の山でやむなく静御前と別れ、わずかな手勢で奥州へと落ちてのびてゆく、『義経記』 『吾妻鏡』「義経千本桜」 「勧進帳」で知られる源義経主従の悲話の跡。
鎌倉幕府の滅亡を聞いて配流先の隠岐島から脱出し、京に入り白河上皇以来247年も続いた院政を廃したほか、旧弊を一掃して天皇親政の「建武の親政」を布いたにもかかわらず、武運つたなく京からこの吉野の「吉水院」に逃げて「南朝」を宣言したのだったが、京の朝廷(「北朝」)への復帰の執念も実らず、52才で病死した後醍醐天皇悲劇の旧跡。
この山を愛した西行法師は『新古今和歌集』や歌集『山家集』に約60首も吉野の歌を詠んでいる。西行は俗名を佐藤義清といい鳥羽院に仕えた下北面の武士だったが、23才の時に突然妻子を捨てて出家し、比叡山に篭り、高野山に庵を結び、吉野・大峯・熊野を渉猟し、苦行にも挑んだ。奥千本には人目をしのぶように西行庵が残っている。また、金剛山系の大阪府河南町の弘川寺にある西行の墓所にもおとずれる人が多く香華が絶えない。
花を見し 昔の心 あらためて 吉野の里に 住まんとぞ思ふ
蔵王堂、3体の蔵王権現 |
吉水神社(南朝跡) |
玉依姫を祀る吉野水分神社 |
奥千本、西行堂 |