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大安寺の起源は古く飛鳥の時代にさかのぼる。そして、聖徳太子が創建した「熊凝精舎」の時代から、舒明天皇時代の「百済大寺」の時代、天武天皇時代の「高市大寺」の時代へ。その後、平城遷都にともない平城京左京6条4坊と7条4坊の地に再建され、六条大路をはさんで東西3丁南北5丁の広大な敷地を有し、東西2塔をはじめ金堂を中心とした諸堂伽藍を擁する壮大な大安寺となった。その壮麗な伽藍は、後に奇しくも空海が唐の都長安で留学生活を送ることになる西明寺の伽藍を模したもので、西明寺はインドの祇園精舎を模したものといわれている。
飛鳥、大官大寺時代の遺跡 -大安寺HPより- |
平城京、大安寺伽藍復元 -大安寺HPより- |
奈良時代、南都の官大寺は聖朝安穏・天下泰平を祈る国家仏教の道場であったが、そのほか大乗仏教の中心思想である法相(唯識)や三論(中観)などを講じる学問所でもあった。この大安寺はそのなかでも特異な寺院で、中国大陸や朝鮮半島やインドなどから来た仏教僧が多く出入りするいわば国際仏教交流センターであった。
この大安寺は古くから長安への留学僧を輩出していた。
道慈は、大宝2年(702)、はじめて「南海路」をとった第八次遣唐使船で入唐し、長安の西明寺で16年の留学生活を送り大安寺に帰っている。三論の教学に通じ、「工巧明」にもすぐれ、養老2年(718)に帰朝し『金光明最勝王経』や虚空蔵求聞持法をもたらした。
普照は、聖武天皇の命により鑑真和上を日本に招聘するために唐に渡り、在唐20年にして目的を果たす。栄叡は、普照とともに同じく鑑真和上の日本招聘のために辛苦を重ねたが、不幸にして在唐17年でかの地に没した。
戒明も入唐留学の経験者で、宝亀10年(779)に帰朝したが、持ち帰った『釈摩訶衍論』を元興寺法相の学僧賢憬(璟)に偽書と疑われて不信を買い、大安寺を離れて太宰府に留まった。賢憬は、鑑真和上を難波ノ津に迎え和上を支えた一人で、桓武天皇の信頼が厚く僧綱にもその名を連ね、山背(山城)の地に遷都(平安京)が行われる際には現地に派遣されている。
渡来僧には、東大寺大仏開眼の導師をつとめたインド僧の菩提僊那、同じく咒願師をつとめた唐僧の道璿、おなじく大仏開眼でベトナムの伎楽の奉納をしたベトナム僧の仏哲、華厳経を東大寺にもたらした新羅の審祥らの名が残っている。
真魚は隣の佐伯院に寄宿し大学寮に通うかたわら、この国際仏教交流センターにもしばしば出入りし、生まれてはじめて仏教というインド的思考世界を知った。さらにやがて自分の将来を決定づける虚空蔵求聞持法に出合う。
この大安寺で真魚の異才をいち早く認め仏教入門への道をひらいたのはおそらく勤操大徳であったろう。勤操は若くして三論の学匠となり、後には嵯峨天皇に認められて東寺造営の別当や、西寺造営の別当に任じられている。淳和天皇の時には貧民救済の文殊会を行い、後に国家事業になった。
勤操は、隣の佐伯院からしばしば来ては仏教や渡来人や異国の言語に異常なほどに関心を示し、その吸収に天賦の才を発揮する大学生の真魚を好ましく思い、おそらく佐伯今毛人の仲介もあったであろう、真魚を厚遇したと思われる。虚空蔵求聞持法を実際に伝授したかどうかは別として、大学寮での漢籍の学習と経学の内容に飽き足らなさを感じていた真魚を仏教に覚めさせたのは事実であろう。おそらく、勤操は阿刀大足や佐伯今毛人から真魚の漢籍暗記の才について聞いていた。だからいきなり『倶舎論』や『成唯識論』や『中論』を与えて諳んじさせ、それを講じたかもしれない。
やがて真魚の暗記力の並はずれた異能を身近に感じ、勤操は迷うことなく虚空蔵求聞持法に彼を導いたに相違ない。実際修法を伝授したのは戒明だったかもしれない。あるいは、真魚に求聞持法を教えたのは「一沙門」ということになっているから、大安寺と関係の深い吉野比蘇(曽)寺の「自然智」宗に属する無名の行者であったろうか。空海と密接な関係があった元興寺の護命も「自然智」宗の人で、それに関与していたかもしれない。
大学寮での漢籍の世界に物足りなさを感じていた真魚は、この大安寺で知り合った異国の言葉や文化とくに仏教のインド的思考や行法に総毛立つ思いをした。
青年期に向かう早熟な真魚のなかで、漢籍の世界はすでに満足できないものになっていた。ことに大学寮で学ぶ経学は畢竟、朝廷高官のエリートコースをものにするための処世学であり、真魚が感じはじめている例えば絶対者や自己や生命や認識や言霊といった哲学的宗教的な問いに何も答えてくれないものであった。
ほどなく真魚の心中に大きな価値転換が起きる。忽然として大学寮から姿をくらまし山林での修行生活に入ってしまうのである。真魚は約束されたエリートの人生をさっさと捨て在家のまま五戒または八戒を保つ乞食同様の修行者(優婆塞)となったのである。