大学寮は、正式には「平城京式部省大学寮」という。旧平城京の左京3条1坊の9、10、15、16坪、長屋王の屋敷の東一坊大路を隔てた西隣にあったといわれている。大学寮には明経科・文章科・明法科・書科・算科があり、文章科は中国の詩文や歴史を学び、明法科は律令国家のしくみや法令を学び、書科は書法等を学び、算科は天文暦数を学ぶ。
真魚は明経科を選んだ。明経科はいわば行政科といったもので、朝廷をはじめ国のレベルの高等官を養成するところ。募集定員は他の学科が20人や若干名の程度であったのに対し300人を超え、いわば基幹学科であった。阿刀大足の指南はもとより、父母や一族の期待もそこにあっただろう。朝廷の高官として名をなした佐伯今毛人のような栄達を、神童真魚に託したとしても不思議ではない。
明経科では中国の経書を学ぶことになっている。『周易』を鄭玄・王弼の『注』(注釈書)で、『尚書』 『孝経』は孔安国・鄭玄の『注』で、『周礼』『儀礼』『礼記』『毛詩』は鄭玄の『注』で、『春秋左氏伝』は服虔・杜預の『注』で、『論語』は鄭玄と何晏の『注』で読む。漢籍の思想の内容を研究するのではなく暗記し大意をつかむのである。『注』の一字一句をまちがうことなく暗誦できた者だけが高等官試験に合格をする。その暗記は漢文を書き下し文にして棒読みする素読を何度もくり返えすことで確かなものになる。
空海は、すでに相当に漢籍を素読暗誦し暗記術や記憶術に長けていた。阿刀大足のもとでの3年間の受験勉強は濃密にそのことに集中していた。漢籍の内容理解も怠らなかった。だから教授陣が教える漢籍はほとんど学習済のものが多かったにちがいなく、自ら進んで初見の典籍にも挑戦をし、自力で読み下し、暗記し、内容を『注』を使って理解したであろう。その『注』の多くを占める後漢の鄭玄の訓詁学(解釈学)も同時に飲み込んだ。
さらに、退屈からか余裕からかおそらく他の学科にも手を伸ばし、『文選』などの詩文を片っぱしから身につけたであろう。また唐語をおそらくは浄村浄豊(阿刀大足とともに伊予親王の侍講)に手ほどきを受けみるみる会話をものにしていったと思われる。この時に習った唐語はおそらく長安のある陝西で多くの漢人が話す「西北官話」(中国七大方言で代表的な北方方言(官話方言)の一つ)であったと思われる。
書にも非凡な才を発揮し、王羲之や欧陽詢や顔真卿をよく臨書したであろう。真魚にとって、受験期とこの大学寮における漢籍の暗誦体験や詩文・唐語・書の習学が後に入唐の際や長安での修学中に大きくものをいう。また、それらは空海密教の言語宗教性や総合性やさらに空海の芸術的志向にもリンクしていく。
JR「奈良」駅からも近鉄「奈良」駅からもほぼ同じ距離、大宮通りを西大寺の方面に車を走らせること約2キロ、奈良市役所の先を右に曲がるとほどなく小川べりに「シルクロード博記念館」の建物があり、その左奥に復元がすすむ平城宮址の朱雀門が見えてくる。
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まぢかに仰ぎ見れば、奈良の都の青丹よしの風景が彷彿としいにしえの王朝の時代にタイムスリップする。朱雀門から南方にまっすぐ朱雀大路がのび、反対の北側には近鉄奈良線の線路の向うに往時の大極殿や朝堂院跡を中心とする平城宮址がひろがる。復元がすすむ平城宮址をそぞろ歩いていると、漢籍数冊を小脇にかかえ朱雀大路を早足に歩く真魚と出会うような想いすらしてくる。