延暦3年(784)11月、桓武天皇は突如平城京を廃し都を長岡京に遷した。それに伴い、阿刀大足も朝廷高官として、また桓武の(第三)皇子伊予親王の侍講として、長岡京に移っていた。真魚も大足に従い、ほどなく平城京から長岡京に移った。
長岡京俯瞰図 |
大極殿復元図 |
真魚は新都長岡京の大足の居宅に落ちつき場所をえたであろう。ここで3年間大学寮に入るための受験勉強をするのである。時々、後に自らが修復復興に当ることになる乙訓寺にも足を運んだであろう。大足はこのたぐいまれな才気をもつ甥をことのほか愛し高度な漢籍の学識をもって教導に励んだはずである。真魚も後に「伏膺鑚仰ス」と言うように、あたたかく訓育してくれる叔父に素直に従った。
後に、24才にして処女作『三教指帰』を著すほど知的に早熟な真魚にとり、15才から18才に至るこの3年間の漢籍の学修は単なる受験勉強を超えて後の遣唐使船での渡唐に道を拓き、長安での奇跡的な事蹟の数々に大きな影響を与えることになる。
すでに讃岐の佐伯家の館で「四書五経」など漢学の基礎となる典籍の素読と内容理解は充分に積んでいた。
ここでは、大学寮で学ぶはずの『周易』(鄭玄・王弼の『注』)、『尚書』 『孝経』 (孔安国・鄭玄の『注』)、『周礼』 『儀礼』 『礼記』 『毛詩』 (鄭玄の『注』)、『春秋左氏伝』 (服虔・杜預の『注』)、『論語』 (鄭玄と何晏の『注』)の素読・暗記また内容理解に集中したであろう。そのほかに、『老子』 『荘子』 『韓非子』や『孫子』も、あるいは『抱朴子』 『神仙伝』など道教典籍も読んでいたかもしれない。
生活感の漂う住宅に囲まれひっそりとたたずむ緑地に今はただ石碑と簡単な案内板が建っているだけで、うっかりすればここがかつては長岡京の中心地だったとは想像もつかず通り過ぎてしまう。
故中山修一氏や山中章氏などの永年の努力により長岡京址の発掘調査が進められて貴重な埋蔵文化財が発見され、今は往時の遺構を参考に大極殿や内裏や朝堂院などの模型の復元や出土品の展示(向日市文化資料館)や旧跡の公園化も行われている。
大極殿復元模型 |
朝堂院復元模型 |
大極殿跡公園 |
深い哀悼の思いをこめて、私は二〇〇〇年という二十世紀最後の年に別れを告げた。その年の初め、長岡京で発掘された大規模遺跡、東院が、保存の要望も空しく私企業の建築するビルの地下に葬られてしまったからだ。
長岡京がたった十年しか続かなかったことから、その意義を無視するのは正しい歴史理解とはいえないし、今回発見された東院を、離宮の一つとして内裏ほど重要視しないというのも全くの誤解であろう。
その新都建設への意欲の象徴が、今度発掘された東院ではなかったか。太い柱穴から想像される高楼は、唐の大明宮をイメージしたものではないか、と学者は言う。
唐の高宗はここを定住の宮としていたというから、桓武もそれに倣ったものか。平城宮にないこの殿舎は、単なる離宮ではなく、中国の天子に近い存在であろうとした桓武帝の理想の表現と考えるべきではないだろうか。
が、壮大な新構想はやがて失敗する。蝦夷たちの抵抗はしたたかで、派遣軍は敗績を重ねる。新都建設も出費のみ多く意の如くには進まない。(従来、洪水で長岡京が崩壊したといわれてきたが、発掘では水害の痕跡は認められないそうである。これも歴史に訂正を迫る大発見であろう)。
王者は懊悩し、ふいに恐怖に襲われる。
「これは祟りだ。殺されたものの怨霊のしわざだ。この地は祟られている。」加えて、皇太子とした愛息安殿(あて、後の平城天応)とのすさまじい葛藤によって、革新の王者は心身のバランスを失っていく。王者にはそれが怨霊の復讐に見えた。良心の呵責が、みずからの中に悪霊幻想を育んだのだ。
苦悩の末、桓武帝は長岡京の放棄、平安京への遷都を決意する。が、そこで魂の平和は得られたか。答えはノウだ。悪霊鎮めも行われたがその甲斐もなかった。
遺跡に佇って、私はしきりに一人の方のことを考えていた。千回以上もこの地の発掘を手がけられた故中山修一先生。一九五四年から粘り強く調査を進められ、そのお力で長岡京の遺跡保存が行われた。御存命だったら東院の発見を一番喜ばれたのは先生だろうし、保存成らずと聞かれたら、どんなに悲しまれたことか。度々教えを受けている私にはおわびの言葉もない。
ちなみに、桓武天皇はその死に臨んで、平安宮造営と蝦夷出兵の中止を遺言した。自らの一生を賭けた二大政策に、その手で終止符を打ったのだ。
(「長岡京に佇つ」作家・永井路子、『日本の歴史』5巻、月報)