延暦5年(786)、13才になった真魚は、この地の郡司の子弟として当然のように、讃岐の国学に進んだ。
かつての讃岐の国府は8丁四方の広さだったという。まわりに城壁のように土塁をめぐらし、南面に正門があり、そこを入口に南北に抜ける通路があり、その奥に「国庁」があった。その敷地は2丁四方、そのなかに大張所・朝集所・政所・税所などの主要な役所が立ち並んでいた。
その国府の敷地の一角に、「聖堂」とよばれる「国学」があった。「国庁」の任務にあたる下役人の養成所である。「聖堂」とは中国で聖人と称される儒家(君子や人倫の道を説く)の祖孔子や孟子を祀る廟のことで、その廟に連なって『論語』 『孟子』といった儒家の思想や律令の法制などを講じる教室や学生が寝泊りする寮などもあったにちがいない。学生を国学生(こくがくしょう)といい、先生を国博士(くにはかせ)と呼んだ。讃岐の場合、国学生の定員はわずか30人、国博士の身分は官吏としては「国庁」で一番下級の役人と同じだった。
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湯島聖堂の内部 |
「貴物」真魚は江戸時代武士の子弟が幼少から漢籍の素読をしつけられたのと同様、おそらく母方の阿刀家の人の指南により幼い時から日常的に漢籍に親しんでいたに相違ない。つまり、13才になる頃までに漢籍の主要な典籍をひと通りは諳んじていたと思われる。真魚の場合、言葉の発達がすこぶる早かったというのは単に読み・書き・話す能力の開顕が早かったというにとどまらず、一度聞いたことは忘れず時を措いても聞いたことを復唱できるといった記憶力にも特長があったのではなかろうか。その天賦の才に加え、漢籍の素読という一種の記憶術を阿刀家の指導で幼少期から受けることができた家庭環境は、真魚の言葉の異能をいやが上にもスキルアップさせたことであろう。
入学して2年、真魚の異能は言葉に限らずすべての学業にわたりもはや地方の国学ではもてあますようになっていた。やがて15才になった真魚の身に大きな転機がきた。おそらく大足の薦めや両親の期待もあったであろう、奈良の都に上り大学寮に進んで将来は朝廷高官の道に入る準備にかかるというのである。
善通寺から車を走らせること30分、途中空海が幼き日に毎日見たであろう讃岐富士の麓を通りぬけ、JR予讃線「府中」駅の手前の「香川県埋蔵文化センター」の小さな標識のところで左折すると狭い道がすぐ府中湖から流れる川の橋を渡る。渡ってまもなく右手の田園の向うに讃岐国府跡が見える。
そこに立ってみると、空海の頃と変らない讃岐平野の小高い丘陵がまわりに見え一瞬にして古代へタイムスリップする。しかし目を転ずれば目の前に住宅が建ち並び日常の風景がそこにある。あたりは史跡めぐり2時間のコースになっているらしく、歩く人も多いという。現在、開法寺跡など往時を偲ぶ発掘調査が行われている。ここには太宰府に落ち行く前の菅原道真や崇徳上皇の悲話も残っている。
県道にもどってまもなく、県道「丸亀高松線」に合流する手前、右手の線路近くに府中山内瓦窯跡が民家の庭先にある。焼かれた瓦は近くの「国庁」や国分寺の屋根に使われたのであろう。
ほどなく国道11号を渡ると四国霊場第80番札所国分寺である。この東側に讃岐の国分寺跡がある。そこから車で10分、国分尼寺もそこにある。
香川県埋蔵文化財センター |
開法寺塔跡 |
讃岐国分寺(四国霊場80番) |