空海は東寺の東側の隣地に、中納言藤原三守(藤原南家、朝廷高官)から2町余りの土地を譲り受け、そこに日本初の庶民の子弟のための私立学校「綜藝種智院」を開設した。天長5年(828)前後であっただろう。東寺に入ってからわずか5年の早さである。
辞納言藤大卿、左九条ノ宅有リ。地ハ弐町ニ余リ、屋ハ則チ五間ナリ。
東ハ施薬慈院ニ隣リ、西ハ真言ノ仁祠ニ近シ。
生休帰真ノ原南ニ迫リ、衣食出内ノ坊北ニ居ス。
貧道物ヲ済フニ意有テ、竊ニ三教ノ院ヲ置カンコトヲ庶幾フ。
名ヲ樹テテ綜芸種智院ト曰フ。
若ミレバ夫レ、九流六芸ハ代ヲ済フノ舟梁、十蔵五明ハ人ヲ利スルノ惟レ宝ナリ。
故ニ能ク三世ノ如来、兼学シテ大覚ヲ成ジ、十方ノ賢聖、綜通シテ遍知ヲ証ス。
是ヲ以テ前来ノ聖帝賢臣、寺ヲ建テ院ヲ置キ、之ヲ仰イデ道ヲ弘ム。
然リト雖モ毘訶ノ方袍ハ偏ニ仏経ヲ翫ビ、槐序ノ茂廉ハ空シク外書ニ耽ル。
三教ノ策、五明ノ簡ノ若キニ至テハ、壅ガリ泥ンデ通ゼズ。
肆ニ綜芸種智院ヲ建テテ、普ク三教ヲ蔵メテ諸ノ能者ヲ招ク。
冀フトコロハ三曜炳著ニシテ昏夜ヲ迷衢ニ照ラシ、五乗鑣ヲ竝ベテ群鹿ヲ覚苑ニ駆ラン。
或イハ人有リテ難ジテ曰ク、国家広ク庠序ヲ開イテ諸芸ヲ勧メ励マス。
霹靂ノ下ニハ蚊響何ノ益カアラント。
答フ、大唐ノ城ニハ、坊々ニ閭塾ヲ置イテ普ク童稚ヲ教ヘ、
県々ニ郷学ヲ開イテ広ク青衿ヲ導ク。
是ノ故ニ才子城ニ満チ、芸士国ニ盈テリ。
今是ノ華城ニハ但一ツノ大学ノミ有テ閭塾有ルコト無シ。
是ノ故ニ貧賎ノ子弟、津ヲ問フニトコロ無ク、遠方ノ好事、往還スルニ疲多シ。
今此ノ一院ヲ建テテ普ク瞳矇ヲ済ハン。亦善カラザラン哉ト。
師ヲ招ク章
語ニ曰ク、里ハ仁ヲ美ト為ス。択ンデ仁二処ラズンバ焉ンゾ智ヲ得ン。
又曰ク、六芸ニ遊ブト。
経ニ云ク、初ノ阿闍梨ハ衆芸ヲ兼ネ綜ブト。
論ニ曰ク、菩薩ハ菩提ヲ成ゼンガ為ニ、先ヅ五明ノ処ニ於イテ法ヲ求ムト。
故ニ先ヅ師ヲ請ズ。師ニ二種有リ。
一ニハ道、二ニハ俗。
道ハ仏経ヲ伝フル所以、俗ハ外書ヲ弘ムル所以ナリ。
真俗離レズトイフハ我ガ師ノ雅言ナリ。
一 道人伝受ノ事
右、顕密二教ハ僧ノ意楽ナリ。兼テ外書二通ゼントナラバ住俗ノ士ニ任スベシ。
意ニ内ノ経論ヲ学バント楽フ者有ラバ、法師、心四量四摂ニ住シテ、老倦ヲ辞セザレ。
貴賎ヲ看ルコト莫シテ、宜シキニ随テ指授セヨ。
一 俗ノ博士教受ノ事
右、九経九流、三玄三史、七略七代、若シハ文、若シハ筆等ノ書ノ中ニ、若シハ音、
若シハ訓、或イハ句読、或イハ通義、一部一帙、瞳矇ヲ発クニ堪ヘタラン者ハ住スベシ。若シ道人、意ニ外典ヲ楽ハン者ハ、茂士孝廉、宜シキニ随テ伝授セヨ。
若シ青衿黄口ノ文書ヲ志シ学ブ有ラバ、絳帳先生、心慈悲ニ住シ、思忠孝ヲ存シテ、
貴賎ヲ論セズ貧富ヲ看ズ、宜シキニ随テ提撕シ、人ヲ誨ヘテ倦マザレ。
三界ハ吾ガ子ナリトイフハ大覚ノ師吼、四海ハ兄弟ナリトイフハ将聖ノ美談ナリ。
仰ガズンバアル可カラズ。
一 師資糧食ノ事
夫レ人ハ懸瓠ニ非ズトイフハ孔丘ノ格言ナリ。皆食ニ依テ住ストイフハ釈尊ノ所談ナリ。然レバ則チ其ノ道ヲ弘メント欲ハバ必ズ須ク其ノ人ニ飯スベシ。
若シハ道、若シハ俗、或イハ師、或イハ資、
学道ニ心有ラン者ニハ、竝ビニ皆須ク給スベシ。
然リト雖モ道人素ヨリ清貧ヲ事トシテ、未ダ資費ヲ弁ゼズ。且ク若干ノ物ヲ入ル。
若シ国ヲ益シ人ヲ利スルニ意有リ、迷ヲ出テ覚ヲ証スルコトヲ志求セン者ハ、
同ジク涓塵ヲ捨テテ此ノ願ヲ相済ヘ。
生々世々ニ同ジク仏乗ニ駕シテ共ニ群生ヲ利セン。
天長五年十二月十五日 大僧都空海記ス。
(「綜藝種智院式并序」抜粋、『性霊集』)
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この時期の空海の思いのなかには、高野山の造営にあたって信助寄進(「貧者の一灯」の喩え)を惜しまない山麓の丹生の一族や氏族・土豪たち庶民への並々ならぬ感謝の念があったに相違ない。そしてそうした人々の子弟のなかにこそわが密教の次代を託すべき有為の人材が潜んでいるとみた。自分自身の来し方を省み、密教修学の実際を思い浮かべると、朝廷や地方役所の官僚をめざす貴族の子弟には期待がもてなかったからである。大学寮を飛び出した時の思いからしてそれは確信に近かったであろう。
この時代、私学校(「大学別曹」)として淳和院・弘文院(和気氏)・勧学院(藤原氏)・学館院(橘氏)・文章院(大江氏・菅原氏)・奨学院(在原氏)などがあったが、これは貴族一門の子弟のためのものであり、そこから有為の僧侶が育つことなどありえないことを空海は知っていた。私寺の高雄山寺や高野山で自前の弟子を育てながら、東大寺や乙訓寺や東寺といった官寺でさまざまな僧たちと交りながら、自分の密教の次代を担うべき青年僧侶は庶民の子弟であり、彼らを「綜藝種智院」において自分の手で薫育すべきだと確信したのであろう。
空海は、この学校に学ぶ庶民の子弟を奈良の大学寮に学んだ若き日の自分(真魚)と大学寮を出奔して山林に伏し仏道を選んだ自分(仮名乞児)に重ねていたに相違ない。これからの密教を担う若い僧のモデルを若き日の自分にたどったとしても不思議ではない。大学寮での諸学芸の勉学に秀で、その上で仏道を選択した若き日の空海こそまさに「綜藝種智」なのである。
空海が「綜藝種智院」でやろうとしたことは、諸学芸と仏教の兼学であった。
その理を「立身出世の要諦も治世の道も、生死のこの世の苦を断ち涅槃のあの世に行くのも、この諸学芸兼学の道を捨てて誰も不可能である」とし、そしてその背景を「ところが僧院の僧侶は仏教経典だけしか勉強をせず、大学の秀才は仏典以外の書を読みふけってばかりいて、儒・仏・道三教の道理や「五明」の学識など閉ざされたまま沈澱していて通じ合わない。だから綜芸種智院を建てて広く三教をふくめた多様な碩学を招聘するのである」と言っている。
この諸学芸と仏教の兼学こそ空海の教育原理であり密教体系であった。空海の密教を受法しその法灯を将来守っていく者は、諸学芸に明るく仏教の学識にもすぐれていなければならない。仏教しか知らず、それで当然とするような坊主馬鹿であってはならないというのである。そのために、空海は仏道以外の世間の学術を教える教師と仏教の経論を教える教師を用意した。
空海はまた私学校の所以について、「京の都には大学が一つだけで勉学の塾がないため、貧しい庶民の子弟は勉強をしたくても場所がなく、(都より)遠方の勉強好きの子弟は通うのにも疲れてしまう。今こそこの一院を建てて学童を啓蒙したいのである」と、庶民の子弟ためであることを強調している。
これを教育の機会均等とか民主教育の嚆矢とか戦後民主教育の思いつきで見るのは見当ちがいである。そんな安っぽい人間中心主義は空海の心底になく、あるのは独自の密教思想だったからである。
例えば「綜芸種智院」という校名であるが、これは『大日経』「具縁品」にある「妙慧慈悲兼綜衆芸」からとっている。総合的に諸学芸を学ぶことが、人間に本来(種として)具っている仏智を引き出すのである。空海自身(の詩文・書法・語学・土木・薬品化学などの素養)がそうであったように、諸学芸は単に世間の学術教養にとどまらず密教の修学に通ずる仏性の発露であり、仏性の萌芽を促す豊かな土壌だと空海は言いたかったのである。
最後に空海は、僧俗・師資を問わず学道を志す者には飲食物を(学校が無償で)支給すべきことを明らかにし、自分はもとより清貧に甘んじているから充分な用意はないのだがとりあえず当面の工面はしたと言っている。このことから、空海は、この私学校も私寺の高雄山寺や高野山と同様、外部の支援者の協力でまかなおうとしていたことがわかる。
今、東寺の東側慶賀門を出て大宮通を渡り、東寺通をまっすぐ東に進み、近鉄奈良線の高架橋の直前を左折してほどなくのところに、「綜芸藝種智院跡」の石碑と西福寺(浄土宗)がある。しかし実際は、近鉄線の高架橋をなお東に行き、油小路通との広い交差点を右折してしばらくの左側にある九条弘道小学校が往時の敷地であったらしい。
綜芸種智院跡に建つ西福寺 |
九条弘道小学校 |
現在の種智院大学 |
承和2年(835)に空海が入定し、右大臣になった藤原三守も亡くなると、先生や学生たちの食事を無料の給食制とまでした日本初の私立学校は、一説によれば維持費の不足、一説によれば後継者不在のため、設立後20年で廃止されることになった。空海から東寺を託された高弟の実慧でさえも荷が重かったのだろうか。
東寺別当となった実慧は「綜芸種智院」を売却し、その代金で丹波大山荘44町140歩を当時の大納言藤原良房(藤原北家、冬嗣の子、後の太政大臣)から買い求め、東寺の伝法料(潅頂など密法を伝える法会等の実施に必要な資糧をまかなう墾田、のちの寺領荘園か)とした。
しかし時代が下って、明治14年、この校名とその精神にもとづき釈雲照により「総黌」が東寺の境内に設立され、真言僧を育成する教育機関として「綜芸種智院」が再興された。
今は京都郊外の伏見区に移転したが、学校法人真言宗京都学園が統括経営する私学として、東寺の境内にある洛南中学・洛南高校を擁し、京都府内いや関西きっての私学の名門になっている。