去弘仁十三年仲冬ノ月、前ノ和州ノ監察藤納言紀太守末等亢陽ノ支フ可キヲ慮リ、
膏膄ノ未ダ開ケザルヲ歎キ斯ノ勝処ヲ占シテ之ヲ奏請ス。
綸詔即応ズ。爰ニ即チ藤紀二公及ビ円律師等ヲシテ功ヲ剏メシム。
未ダ幾ナラズ皇帝汾襄ニ遊駕ス。
藤公之ニ従ヒテ職ヲ辞シ紀守モ亦越前ニ遷ル。今上尭ノ揖譲ニ膺リ舜ノ宝図ヲ馭ス。
玉燭ヲ儀ニ照ラシ赤子ヲ八島ニ撫ズ。伴平章事国道ヲ簡ビテ代リテ国事ヲ撿セシメ、
并ビニ藤広ヲ抜キンデテ刺史ニ任ズ。両公池ノ事ヲ撿挍ス。
焉ニ於テ青鳧塊ヲ引キ、数千ノ馬日々ニ聚マリ、赤馬人ヲ駆り、百計ノ夫夜々ニ集マル。
既ニシテ車馬轟々トシテ電ノゴトクニ往キ、男女磤々トシテ靁ノゴトクニ帰ス。
土ハ雰々トシテ雪ノゴトクニ積ミ、堤ハ倏忽トシテ雲ノゴトクニ騰ル。
宛モ霊神ノ埏埴スルガ如ク還洪鑪ノ化産スルカト疑フ。
成ルコト日アラズ畢フルコト年アラズ。
之ヲ造ルハ人也、之ヲ弁ズルハ天也。
爾シテ乃チ池ノ状為ルヤ、龍寺ヲ左ニシ鳥陵ヲ右ニス。
大墓南ニ聳ヘ畝傍北ニ峙ツ。米眼ノ精舎其ノ艮ヲ鎮メ武遮ノ荒壟其ノ坤ヲ押フ。
(『性霊集』)
碑文によると、弘仁13年(822)仲冬(旧暦11月)、前の和州(大和)監察の藤納言(藤原緒嗣)と紀太守末(紀末成)らが肥沃の土地が開墾されていないのを嘆き、日照り干ばつの時のことを考えこの恵まれた土地の開拓を奏上したところ、すぐにその許可が出たという。
人夫・車・馬・船を一気にたくさん集め、急ピッチで工事が進められた様子が碑文に見える。また、近年の遺構調査によって太い木の真ん中をくり貫いた樋管や樋門(取水・排水口)が見つかった。空海が讃岐の満濃池で採ったやり方とそっくりである。おそらく満濃池の難工事で経験した方法を空海が指導して用いたことが推定できる。
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益田池は、畝傍山の南方の貝吹山から北西につづく尾根と久米台地の西南部にかけ、高取川をせき止めて堰堤を築く方法で造られた。いまの近鉄「岡寺」駅の北西、橿原神宮や久米寺の南西、貝吹山の北東、白橿町・鳥屋町の一帯であったろう。推定40㏊の広さは満濃池の半分の規模とはいえ当時としては巨大な溜池だったにちがいない。「田を益する」ので「益田池」と名づけたという。大規模な農業用水池である。碑文にもその様が詳しく書かれている。
今その堰堤の遺構が史跡公園となっていて往時を偲ぶよすがとなっている。堰堤の遺構は、長さが約55m、幅約30m、高さ約8mである。遺構の断面の図からは、下層部分が自然堆積、上層部分には土器が混じっているという。
昭和36年に高取川の河川改修を行った際、川底から古い樋管(木製の取水・排水管)が堰堤の外側で2例発見され、今「橿原考古学研究所附属博物館」に展示されている。この樋管は桧の巨木をくりぬいて造られたものと思われる。空海が修築した時の満濃池にも同じものが使われ、もっと古い和泉(現在、大阪狭山市)の狭山池(飛鳥時代)にも使われている。
また昭和43年には、堰堤の内側で樋門と推定される遺構が見つかり、前の樋管とつなげて考えると約90mからなる用水路が推定されるという。
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空海はこの池の完成を記念してか巨大な石碑に碑文「益田池碑銘」を書いた。その石碑は池口の上に建てられたと碑文の末尾にある。
その石碑の礎石といわれる趺石がいま石船山(130m)の頂上付近にあり、「益田岩船」と通称されて史跡スポットになっている。
近鉄吉野線の「岡寺」駅から西に向かうと公団橿原団地がある。その団地内の「南妙法寺町」バス停のすぐ南に「益田岩船」への標識があって、そこから少し急な斜面を登ると頂上付近に巨大な花崗岩の巨塊がある。東西にして約11m、南北にして約8m、北面の高さが約5m、上部と中央と東西に幅が約1.6mの溝が切ってあり、そのなかには四辺が約1.6m、深さが約1.3mの正方形の穴が二つ掘られている。
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空海が書いた碑文が後世書家の間で注目されるようになったのは、雑体とも破体ともいわれる字体・書法である。かすれ書きでしかもグラフィカルに書く飛白体をふくめ、雑体・破体の書法は空海がはじめて日本にもたらしたものだが、「益田池碑銘」は現存する空海真蹟の雑体・破体の書としてとくに書家の間では珍重されている。この碑文には「鵠頭」「転星宿篆」「偃波」「芝英」「垂露」「伝信鳥」と思われる雑体のほか、篆・隷・楷・行・草の「五体」も混じっている。
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鵠頭 |
転星宿篆 |
偃波 |
鵠頭 |
転星宿篆 |
偃波 |
芝英 |
垂露 |
伝信鳥 |
篆隷万象名義 |
破体心経 |
真言七祖像賛 |
嵯峨天皇は唐の文化の薫り高い空海の書に旺盛な関心を寄せたが、この一見奇妙にデザイン化された書体や、わざとかすれ書きにし、意にまかせて筆を震わせる書法を当時の書人たちはさぞいぶかったことであろう。空海のあとの小野道風などはなお王羲之にこだわり、空海の書を評価しなかった。
近年、飯島太千雄氏や綾部光洲氏らの書道家や松岡正剛氏によって雑体・破体の書法の正当な評価が行われ、そこに空海の梵字・悉曇や密教思想がかかわっているという見解も明らかにされるようになった。空海の書法の背景にある独自の密教世界について、日本の永い文化史上誰も考えが及ばなかったのである。
空海は、人間の言語である声も字も、すべからく無碍なる「五大」(地・水・火・風・空)からなり、それらが相互にかかわりあい響きあって成り立っている。しかも、声の響きや文字の色・かたちは法身(大日如来)の説法にほかならず、宇宙の真理そのものであると考えた。
空海が筆をとって文字を書くことは即、法身如来の説法が空海を通じて文字として顕現することなのである。したがって、空海が書く「鳥」は鳥らしく、「星」は星らしく、文字の背景にある自然や宇宙そのものを書いているのであり、その鳥や星の「らしさ」(「法爾自然」)こそが宇宙大の法身(大日如来)なのである。空海にとって書とは「声字実相」「果分可説」であり、空海密教そのものなのである。
空海は、唐で習得した破体・雑体の書法を日本で披露すれば、少なからず波紋が起きることくらいわかっていた。しかしそれはむしろ空海の楽しみだったのではないか。恵果から受法した密教を独自に再編体系化し日本の仏教界に新しい息吹を吹き込もうとしたのと同じく、書もまた奈良朝からの王羲之の書風を替える気概にかられたとしても不思議ではない。ともかく、卒意・応変・自在に遊ぶ空海の書法は周囲をおどろかせた。