空海がはじめて高野山に上った弘仁9年(818)のおそらく雨季の7月ごろ、空海の故郷讃岐平野の「真野」(まんの)では潅漑用水の満濃池が何度目かの決壊をした。
百姓、恋慕スルコト父母ノ如シ。若シ師ノ来ルヲ聞カバ、必ズ履ヲ倒シ相迎セン。
伏シテ請フ、別当ニ宛テ、ソノ事ヲ済シムベシ。(『日本紀略』)
この時期空海には、高野山造営の辛苦の上に、仮寺である高雄山寺の運営、別当を辞した後の東大寺の密教化事業、宮中での祈祷や中務省での役務、さらに自らの密教や詩文論の著述、そして梵語・漢語の字典の編纂など多忙をきわめていた。
それでも朝廷の命に従い、ほどなく讃岐に赴いたものと思われる。沙弥一人と童子(仏道の見習い)4人を連れていった。母や一族の人たちも待っていた。さっそく工事現場の状況確認がはじまり、修復工事の検討が行われたであろう。梅雨や集中豪雨や台風の時の増水や洪水の状況把握も行われたと思われる。
空海は、土地の有力者に説いてかぎりなく多くの人夫を集めさせた。工事開始に当っては、池に突き出た大きな岩盤の上を四方結界し、そこにおそらく土壇を設け工事の無魔成就と池水の平穏を祈った。この時、よく護摩を焚いたといわれているが(護摩壇岩)、密教の祈祷修法は護摩ばかりではない。時と場所と目的によって多様である。空海は不動明王や八大龍王や水天を招いたにちがいない。あるいはまた、土地の神々や水と豊穣の神「玉依(姫)」を勧請し、風雨順時・五穀豊穣を祈ったかもしれない。
|
|
弘仁9年(818)にも増水で決壊し、朝廷の築池使である路真人浜継が派遣されたのだが技術の未熟か人夫不足か修築工事は困難をきわめ、3年を経過しても埒があかなかった。 それを空海はアーチ式ダムの築堤工法により7月末までに2ヶ月程度で完成させたという。
この2ヶ月という工期の短さは、ひとえに空海の土木技術の博識や霊的異能を物語るものであるが、今のダム工事の専門家によれば、堤の高さ22m、周囲2里25町(約8.25㎞)、面積81町歩(約81㏊)、 貯水量500万㎥の、湖ともいうべき巨大な溜池工事を2ヶ月で行うのはおよそ不可能だという。
とすれば、実際は築池使路真人浜継が3年にわたってやってきた修築工事がおそまきながらほぼ終りに近づき、あとは増水時に最も重要な排水口やその周囲の堰堤をどうするかの段階で工事が難航したため、空海の博識と霊的異能にたのみ、指導監督を仰いでアーチ型の堰堤工法により2ヶ月で完工となったという想像も可能である。
このとき空海が行った工法について、大林組のプロジェクトチームが近年想定復元を図った。信頼に足る貴重な資料なので、ここにその一部分をweb「季刊大林」(40号「満濃池」)から転載させていただくことにする(許可済)。(一部数字等の表記を替えてある)
それから1200年近い歳月をへた現在でも、満濃池は空海伝説とともにある。堤防の上に立つと、空海が真言密教の修法をもって工事の達成を祈願した護摩壇岩(ごまだんいわ)が、目の前の水面に小島となって浮かぶ。堤防の西側には、現在は水(埋)没しているが、空海の創案とされる台目(うてめ)(余水吐き=あふれた水を流す水路)が、お手斧岩(ちょうないわ)と呼ばれる史跡となっている。さらに満濃池築造のおり、空海が留まった地元の矢原家の家記には、興味深い伝承がある。それは満濃池の構造に関するもので空海の創意とされる次の3点である。
○洪水への対応策として、岩盤を開削して台目を設置した(余水吐きの創始)。これがお手斧岩と呼ばれる史跡で、大工道具の手斧のような工具を利用したという伝承がある。
○余水吐きは、洪水時にあふれた水を流し、堤防の決壊を防ぐ重要な設備である。池堤の護岸設備として水際に水たたき(しがらみ)を設け、土砂の崩壊を防止した。
空海の満濃池の概要
◎空海の満濃池の堤体の高さ
当時の余水吐きをお手斧岩とすると、堤体の高さはそれよりも数m高くなる。お手斧岩(標高136.5m)と、堤体位置の基礎地盤(標高117.0m)との関係から、堤体天端をお手斧岩より2.5m高い標高139.0mと設定した。
これにより堤体自体の高さは22mとなる。『満濃池後碑文』にみられる8丈(約24m)の高さには及ばないが、それに近い高さであったということになる。
◎堤体の幅
堤体の幅については、直接的な検討材料がないため、堤体高さがほぼ同じである西嶋八兵衛の築堤規模に合わせ、天端幅10.9m、堤底(敷)幅118.2mとした。
なお、復元した空海の満濃池の貯水量を概算すると、500万t以上となる。現在の3分の1程度だが、当時としてはやはり巨大な溜池であったといえる。
◎樋管
樋管(底樋と竪樋)は、すでに述べたように溜池の水を流し落とすための取水設備である。西嶋八兵衛の記録では、松の厚板を函型に組み立てた樋管が使われている。木製の樋管は腐朽するため、堤防決壊の原因ともなりうる。江戸期の記録では、しばしば樋管の取り替え作業(ゆる替え)が行われている。底樋の取り替えは、堤体を中央から割り裂くように掘り下げるもので、堤体そのものの大改修工事でもある。近隣の農民にとっては大きな負担となったことが伝えられている。
ところで今回の復元作業で、空海の時代の樋管がどのようなものであったかが、一つの疑問となった。そこで古代の溜池の事例を調査すると、奈良県の益田池の廃池遺跡からは檜の巨木をくりぬき底樋に使用したと思われる遺物が発掘されている。また大阪府の狭山池でも、年代測定で六一六年のものとされる巨木をくりぬいた底樋が発掘された。これらのことから、空海の満濃池でも同様の仕様であったと判断し、底樋・竪樋とも巨木をくりぬいた樋管を使用していたものと想定した。
大和益田池の樋管(橿原考古学博物館)
空海伝説の工学的検証
プロジェクトチームは、空海の創意といわれるいくつかの伝承についても、現代工学の視点から検証を行った。
空海の築造した満濃池の堤体は、谷のもっとも迫った部分を避けて少し上流側に立地し、現代のアーチダムとは構造的に異なるものの、アーチ型をしていたとされる。
堤体を造る場合の効率的な位置は、両側の地山がもっとも狭くなった場所に、直線的に配置すればよい。しかし、土などを主体とした自然材料によるアースダムでは構造上、堤体の前後に緩い傾斜をもつ盛土斜面が必要となる。かりに現地で谷の最狭部に直線的に堤体を造るとすると、現状よりも下流側の河川が広く盛土斜面によって覆われる形となる。
ここで問題となるのは、空海の創意とされる余水吐きの位置である。余水吐きは、洪水時に大量の水を流す必要から、その流水圧に耐えるだけの構造を必要とする。現在であれば、強固な岩盤上にコンクリートで造るのが一般的である(現状の満濃池の余水吐きは、堤体の東側にコンクリートで築かれている)。
しかし空海の時代では、強固な岩盤そのものを砕いて水路を造る以外に方法はなかったであろう。余水吐きの位置は、堤体より低く周辺の地盤のもっとも低い場所で、溜池からあふれた水を安全に流すことができ、しかも地質の強固な地盤でなければならない。これらの条件を満たす場所として、堤体西側のお手斧岩が選ばれたものと考えられる。
今回の復元では、史跡に残るお手斧岩の場所、西嶋八兵衛による寛永の復興に先立って描かれた絵図にみられる水路、昭和のボーリング調査などを参考に、空海の余水吐きの位置を想定した。その結果、もし堤体を谷の最狭部に直線的に築造すると、下流部に広がる堤体の斜面が余水吐きからの水の排水路をふさぐ形となってしまうことが分かった。洪水時には余水吐きから流れ出る水によって堤体盛土が浸食され、決壊を引き起こすことになる。これを避け余水吐きの流路を妨げないようにするには、堤体を少し上流部に立地する必要がある。その上で地形を考慮して堤体形状を計画すると、結果的にアーチ型の平面形状とならざるをえない。つまり谷の最狭部を避けたアーチ型の堤体形状は、ダムとしての機能と現地の地形とを総合的に判断した、合理的なものといえるのである。そこで今回の復元においても、堤体の平面形状にはアーチ型を採用した。
ただしアーチ型形状が、堤体の強化にどれほど寄与したかは不明である。『満濃池後碑文』の記述によれば、空海の築造した堤体は長くとも30年ほどで決壊したことになる。当時、日本各地に洪水をもたらす大雨が続いたとする記録もみられ、あるいはそれが原因かも知れない。空海の満濃池の決壊原因は、史実にも伝承にも残されておらず、その検討は行わなかった。
次に、空海が満濃池の護岸のため、しがらみを設けたとする伝承を検討した。しがらみは、現在でいう「しがら工」と同義と思われる。これは元来、河川における護岸工法の一つで、水際に木杭を打ち並べ、粗朶(そだ)・鉄線・鉄鋼・竹・杉皮・板などをくくりつけることにより、水流の勢いを弱め洗掘を防ぐものである。
満濃池の場合、河川のような水勢はないが、貯水池面積が大きいため強風時にはかなりの波浪が発生することもあり得る。空海は、しがら工を堤体の池側斜面の水際に施し、波浪による浸食や水面の変動による表面土砂の流出を防いだものと考えられる。
しがらみに似た構造は、古墳時代の遺跡(愛媛の古照(こでら)遺跡、大阪の利倉(とくら)遺跡など)の河川でいくつか発見されている(森浩一編『日本古代文化の探究・池』)。築堤技術としては、そうとう早くからあったものであろう。また『日本書紀』には、景行天皇の時代に大和国坂手池が築造され、その堤防を堅牢にするため竹の植栽が行われた記述がみられる。木材などを利用した法面保護工法は、ある程度一般化していたものと思われる。空海の施したしがらみの内容は不明だが、それら先行する時代の技術をふまえ、満濃池に応用したともいえる。
以上のことから、満濃池の工事概要を推定すると、堤体の総土量は94000㎥、工期が約9ヵ月、延労働人員数は383000人となった。
空海が満濃池の築池使別当に任命されたのは、弘仁12年(821)5月27日であり、工事に着手したのち、7月末には竣工している。空海の徳望を慕って近在から多くの労働力が集まったとしても、築造工事全体の工事期間をわずか2ヵ月余とする伝承には無理がある。先行していた路真人浜継による工事は未完に終わったもののかなり進行しており、それを前提として空海の最終工事が行われたと考えるべきである。
工程のなかで注目されるのは、仮排水路をふさぎ底樋に水を通し、越流を防ぎつつ中央部の盛立を行う最後の工事で、2ヵ月余で完了する。この一連の工事は、技術的にも労働集約の面からも、古代における溜池築造のハイライトとも考えられるだけに、あるいは空海伝承にみられる短期間の工事はこの部分を指したものであろうか。現代の暦に直して考えると、梅雨明けを期して一気に水路を締め切り、台風前に提体の盛立を終えて竣工したものと思われる。また固い岩盤を開削して余水吐きを建設したことなどを考慮すると、空海は文献にみられる着工以前に現地を視察し、工事計画を立て、指導した可能性も考えるべきであろう。
それにしても推定人口20万人程度といわれる古代の讃岐において、延人数38万人を要する満濃池の築造がいかに巨大なプロジェクトであったかは想像に余りある。明治期の修築工事では、本来なら満濃池の恩恵とは無縁のはずの瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島からも労働力が提供されていたことが、『満濃池関係資料集』(建設省四国地方建設局発行)に報告されている。塩飽諸島には、満濃池の普請に参加しないと島の井戸が涸れる、という伝説があったからだという。
直接的な受益者である地元の豪族や農民だけでなく、宗教的あるいは政治的理由などから改修工事に参画する者は、いつの時代にも数多くあったはずである。空海の設けたとされるお手斧岩が、四国遍路における信仰の対象であったことからも、満濃池の幅広い存在意義をうかがい知ることができる。
まして空海の時代、水田開発は当時の日本の将来をになう未来事業でもあった。日本人と米との深い関わりを考えるとき、満濃池の築造が稲作の歴史に果たした象徴的役割は、池の貯水量と同様壮大なものだったのである。
琴平方面から距離にして約5㎞、途中吉野・真野地内ののどかな田園地帯を走って15分、地名は神野の地に満濃池がある。「野」のつく地名がつづき吉野・熊野・高野・天野を連想する。見上げるほどに高い堰堤や緑地公園風に整備された金倉川の水路と樋門のある石垣にすぐ気づく。車道はその上の池の堰堤道につづき、配水塔を右に見て左方向に行くと広い駐車場になる。池水がそこから広がっている。
近くに満濃池の守護神天穂日命や水波能売命など四柱を祀る神野神社があり、配水塔の向うには四国別格霊場第17番の神野寺が見える。神野寺の奥には香川県満濃池森林公園があり、池の東周辺には広大な「国営讃岐まんのう公園」が広がり、香川県民の健康・ふれあい・文化・スポーツ・リクレーションの拠点になっている。