そして翌年の弘仁9年(818)11月、勅許後はじめて自らも高野山に登った。おそらく實慧・泰範たちは先に山上に上り空海の一行を迎えたであろう。この時には丹生の一族や土地の有力氏族あるいは治山治水に明るい山の民や資材運搬・建築土木に堪能な人夫たちも集まっていたと思われる。寝食等の準備も調っていたであろう。
空海少年ノ日、好ンデ山水ヲ渉覧シテ、吉野ヨリ南二行クコト一日、
更ニ西ニ向テ去ルコト両日程ニシテ、平原ノ幽地アリ。名ヅケテ高野ト曰フ。
計ル二紀伊国伊都郡ノ南ニ当ル。四面高嶺ニシテ、人蹤蹊絶エタリ。
今思ワク、上ハ国家ノ為ニ、下ハ諸ノ修行者ノ為ニ、
荒薮ヲ芟ク夷ゲ、聊カ修禅ノ一院ヲ建立セン。(『性霊集』)
高野山は、吉野・熊野・高野の三つの「野」に象徴される日本随一の古代宗教霊地の一角にある。「野」とは「野辺」に通じ、「ヤマ」と「サト」の中間にあって、死者を葬りその霊が仮泊するにふさわしい地形やサトとの距離を保ったところである。京の「化野」や「紫野」もその例で、丹生都比売神社のある天野もふくめ、空海の高野山造営にはこの「野」に潜む古代のミステリー観念も作用していたと思われる。
敬テ十方ノ諸仏両部大曼荼羅海会ノ衆五類ノ諸天及ビ国中ノ天神地祇、
並ビニ此ノ山中ノ地水火風空ノ諸鬼等ニ白サク。
今上ハ諸仏ノ恩ヲ報ジテ密教ヲ弘揚シ、下ハ五類ノ天威ヲ増シテ群生ヲ抜済センガ為ニ、
一ラ金剛乗秘密教ニ依リテ両部大曼荼羅ヲ建立セント欲フ。
所有ル東西南北四維上下七里ノ中ノ一切ノ悪鬼神等ハ皆我ガ結界ヲ出テ去レ。
所有ル一切ノ善神鬼等ノ利益アラン者ハ意ニ随テ住セヨ。(『性霊集』)
空海は先ず、山上を七里結界して諸魔を排除しそこに丹生・狩場の二明神を勧請した。清められた「野(ノ)」にサトの神を祀り、そこを現(うつ)の仏国土(ヤマ・山上他界)とみなすことで、サトの丹生一族や土地の氏族たちに新しい神仏習合のグランドデザインを示して見せたのである。
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高野山の造営は当然ながら長くかかった。空海は造営に着手してから20年後の承和2年(835)に入定する。存命中に完成を見たのは空海の構想の半ばではなかったか。
この間空海は超多忙な時間を割いて山をたびたび下り、讃岐の満濃池の修築にあたったり、(大和)益田池の修築にかかわったり、「大輪田泊」の造船瀬所別当として港湾の修築にあたったり、東大寺には真言院に国家の潅頂道場を築き、京では嵯峨に託された東寺を国家鎮護の密教寺院にしたり、日本初の庶民の子弟のための私立学校「綜芸種智院」を創設したり、宮中においては聖朝安穏・天下泰平や天皇の病気平癒の祈願修法をしたり、神泉苑で雨乞いの祈祷を行ったり、傍ら宮中などで『仁王経』 『法華経』を講じたり、金胎両部の大曼荼羅の転写本や、長安から請来した真言五祖の御影に龍猛・龍智を加えた「七祖像」(東寺蔵、国宝)の御影を制作したり、元遣唐大使藤原葛野麻呂の追善法要に際しその遺品である紫綾の地に金糸銀糸で刺繍した「理趣会十七尊曼荼羅」を作ったり、各種の仏画を制作・修復したり、揮毫したり、『即身成仏義』 『声字実相義』 『吽字義』 『秘密曼荼羅十住心論』 『秘蔵宝鑰』 『般若心経秘鍵』や、詩歌文章について論じた『文鏡秘府論』や、日本最古の漢語辞典の『篆隷万象名義』や、わが国最初のサンスクリット字典である『梵字悉曇字母并釈義』を著したり、加えて密法の弟子を養成したり、時には土地や有縁の人たちに寄進を募るなど、自ら創始した空海密教の弘法に東奔西走し、高野山の造営に腐心する日々がつづいた。
高野山の出入口にあたる西端の「大門」は、7本の参道のほとんどがここをめざしただけに法城の城門というにふさわしい。空海は多忙な日々にもここに立ち、二層の「大門」を構想しながら長安城の城門をだぶらせ、師恵果の遺誡の「東国にこの法を弘めよ」を思い起こしたであろう。「大門」から壇上伽藍へひとすじの道が通じている。この景色も長安の広い街路にみたてたかもしれない。
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「壇上伽藍」の中央には「三鈷の松」があり、長安から「虚しく往ひて実ちて帰る」留学生空海が明州の浜で投げた三鈷杵の逸話を思い起こす。「帰心矢の如し」であった空海の心を表すかのように、空海の投げた三鈷は高野山に落下したのである。長安からの帰途空海の脳裏にはすでに「わが密教の根本道場は高野山に」との決意があったのだと思う。
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