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058 丹生一族の神と高野山入山の神託

 弘仁6年(814)、空海はついに独自の密教(空海密教)を創案し、『弁顕密二教論』を著す。翌弘仁7年(816)、最澄と決別する。

 同年の6月、京の高雄山寺にいる空海は、嵯峨天皇に高野山下賜を奏上する。それに対して嵯峨は、翌7月には異例の早さで紀伊国司への太政官符をもって裁可し、空海の高野山造営の願いをかなえる。この頃の両者の関係がいかに深かったかこの一事をもってもうかがえる。

 国家権力のトップにある天皇をこのように動かせる破格の能力は空海の何に起因するのか、単に唐の詩文や書の才だけではなかったろう。空海の文章や言葉には、どこか相手を金縛りにするような霊異があったのではないか。
 大安寺勤操は少年真魚に早くもそれを見ていたであろう。唐福州節度使は空海の上奏文を読んで圧倒された。最澄は空海に対して終始慇懃だった。徳一も空海とはぶつからなかった。卓越した記憶術からくる博識と言葉の説得力が空海の場合図抜けていたであろう。
 真言をあやつる空海に霊威を感じる人もいれば、空海がくり出すコトバに言霊を感じる人もいたであろう。空海の言葉自体が「声字実相」だったのである。嵯峨は詩文や書をよくするだけに、文芸の域を超えた空海の言語力の異能に気づいていて、空海から届いた高野山下賜の上表文を読んですぐに空海の霊威を感じ取ったにちがいない。

 高野山山麓の天野の里に空海が以前からそこで山の民と交わり時々滞留していた丹生都比売神社があった。この社に、この土地の人々が篤く信仰する丹生明神狩場明神が祀られていた。

彼ノ山ノ裏ノ路辺ニ女神アリ。名ヅケテ丹生津姫命ト曰フ。
其ノ社ノ廻リニ十町許リノ沢アリ。人到リ着ケバ即時ニ傷害セラル。
方ニ吾ガ上登ノ日巫税(祝)ニ託シテ曰ク。妾、神道ニ在テ威福ヲ望ムコト久シ。
方ニ今菩薩此ノ山ニ到ル。妾ガ幸ナリ。(『御遺告』)

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丹生都比売命(丹生明神)
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狩場明神

 この『御遺告』の記述によると、「(ある日、空海が高野山に登った時にある犬飼に出会ったのだが、彼は名前や素性を明かさなかった。そこで空海は山のまわりを調べてみると)高野山の奥に丹生津姫命(丹生都比売大神)という女神が祀られていることがわかった。その周囲には10町の沢が流れていて、そこに人が近づくと身体に傷をつけることになる。
 私が高野山に登った日、(丹生津姫命が)巫税(祝)に託して言った。<私は神道にある身ですが威福(仏法、密法)を永く待ち望んでいました。今まさに菩薩(空海)がこの山に来てくれました。(それが何より)私の幸せです>」というのである。

 巫税(祝)とは、巫女のような神の言葉を人間に媒介する者のことであろう。この場合男で、例の犬飼のことのように思える。空海はこの巫税(祝)を代理人として高野山の取得と造営を丹生津姫命から許されたということになる。
 これを案ずるに、高野山は天野に祀られている丹生津姫命(丹生都比売大神)の神域にあって丹生の一族がこれを領していたが、この神の山に密教僧である空海が入ることを神自身が許しこれを歓迎したということであろう。
 神が菩薩を容認した。そればかりか、近づくと人体を傷つけるほど毒性の強い水銀の採掘や利用までを許可したとの意味でもあろう。すでに神仏習合が行われていた。空海の高野山造営はこの丹生都比売大神と土地の神々に深く帰依していた天野の里の人々との親交なくしてはありえなかったということである。

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 空海は、山岳修行の熟達者であった。「ヤマ」に入るしきたりや礼儀作法に通じ、「ヤマ」で鍛えた霊的なパワーにも事欠かなかった。その上、「ヤマ」の民が見たこともない不思議な密教儀礼や聞いたこともない不思議な真言をあやつった。水銀の精製や利用方法やその背後のある道教にも通じていた。山の民が引きつけられるカリスマ性に満ちていた。天野の丹生の一族は、氏神である丹生都比売大神もろともに空海を歓迎し帰依したのである。
 空海は高野山の造営にあたって、先ずこの「丹生明神」と「狩場明神」とを山上に勧請した。今、壇上伽藍の西側に鎮座している。

 南海電鉄「橋本」駅前からタクシーを走らせること約30分、紀ノ川を渡り九度山の慈尊院の近くを通り、梅や柿の木が斜面いっぱいに枝を広げる山里の道をたどるとやがて道が下りになり、やや行くと急に人里がひらけてくる。丹生都比売神社はその人里(上天野)にある。
 朱塗りの鳥居をくぐる。目の前にあざやかな朱塗りの太鼓橋、その奥に大楼門が見え隠れしている。朱に塗られた橋を渡って神域に入る。まさに丹生の世界である。

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 昔は、太鼓橋がかかる池の西側に「大庵室(おおあぜち、祭祀の際、学侶方の僧侶の宿所)」と「長床(祭祀の際、行人方の僧侶の宿所)」が、池の中島には「一切経蔵(仁和寺から贈られた一切経を安置)」と「宝蔵(行人方の僧侶が祭祀の時に使う祭具を保管)」があり、東側には「不動堂」「山王堂」「多宝塔」「御影堂」などの寺院様式の建物が並び、祭祀の際には高野山の真言僧も出向列座して神祇の法を修したことが偲ばれる。

 神域に入ると空にその軒先をいっぱいに広げて重文の大楼門が建っている。朱塗りのみごとな門である。その楼門のところから祭神を拝むのである。
 祭神は四明神で、向って右から、第1殿の「丹生明神(丹生都比売(にぶつひめ)大神)」、第2殿の「狩場明神(高野御子(たかのみこ)大神)」、第3殿の「気比明神(大食都比売(おおげつひめ)大神)」、第4殿の「厳島明神(市杵嶋比売(いちきしまひめ)大神)」である。

 「丹生明神」は、今から1700年前の神功皇后の頃に、この山里に祀られたと伝えられる(『日本書紀』)水銀の神で、鉱山に関与して地下資源を司るのである。
 「狩場明神」は、鉱脈を求めて山中を渉猟する神でヤマの案内や導きの神であり高野山一帯の地主神でもある。空海が高野山に入る際空海に奉仕した「狩場明神」を祖先ともどもここに祀ったという。
 「気比明神」と「厳島明神」は、北条政子が今から約800年前に寄進した。「気比明神」は、「元寇の役」にかかわる軍神。「厳島明神」は、音楽芸能・航海安全の神で、この二神に平和安穏・鎮護国家を祈るのである。

 空海は高野山造営の以前からこの丹生都比売神社にかかわりをもち、滞留の際は住坊「曼荼羅院(庵)」に止宿したといわれている。「曼荼羅院(庵)」は、現在駐車場になっている広場のあたり、つまり「大庵室」のあったところの近くにあったらしい。この「曼荼羅院(庵)」が、高野山の造営の際山上に移され「山王院」といわれ、後に「金剛峯寺」となって現在に至っている。

 丹生都比売神社の東側にはかつての「多宝塔」跡があり、今は草むらになっているがそこに大峯修験の形跡をとどめる石碑が建っている。
 空海が入定して100年も経たないうちに、高野山は争いごとで荒廃し、住むに住房もなく食もなく、高野山の僧侶は全員この丹生都比売神社に避難し養ってもらったという。

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曼荼羅院(庵)跡と推定される現在の駐車場
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多宝塔跡といわれる草むら

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